リース。
昭和天皇は、アメリカ合衆国に「沖縄」を明け渡した。
「信託でもリースでもいい」(天皇メッセージ)
さて、信託とは「人の流れを生み出す学問」であり、たとえば、台風が来た時に男たちを神社に集めて台風を撃退するなどは信託である。
では、「リース」とは何だろうか?
世の中には保守とリベラルがいて、右翼と左翼がいる。
左翼が「芸術」を生み出し、その奔放さからセールスを伸ばす。
右翼が左翼の「論理」を理解することができるまでの「時間」を利用するのが「リース」である。
たとえば、鈴木亜美が私に惚れていて、たまたまタクシーを一緒に乗ったのだが、私には「妻と子供たち」がいたため、正直タクシーに乗っている間「青ざめて」いた。
家庭を壊されたのではたまらない。
駅でタクシーの運転手に「この女性をここで降ろしてください」と言って降ろした。
歌では「彼女」と歌われているが、男性崇拝を歌うのが音楽作品だとすると、この曲の「リースの期間」は極めて長い。
右翼が左翼の論理を理解する時間が長いのだ。
秋色協奏曲
リースに関しては今後研究を深めていきたいが、昔、ribbonの佐藤愛子に結婚を迫られ、断ったら思い切り蹴飛ばされた。
男が女にビンタされて殴り返さない時とはどのような時か?
これも案外「リースの期間」は長いと思う。
この映像では「本当に思い切り殴れ」と言って撮影したそうだ。
大人って大変だな。
サイレントサマー
リースに関しては、権力を持っている側である右翼が、政治活動を続けていくうちに「左翼的経験をせざるを得ない」という「近似」の原理が利用されている。
左翼は通常、自己疎外(自分と社会が遠くかけ離れている)を経験しており、それを、リースによって解消しようというものである。
女と寝て「また権力から遠ざかった」と感じる男のポエムが、右翼にも共有されることから、きわめて好ましい仕組みであった。
「友達と恋人の境界線はセックスしたかどうか」
この曲も案外「リースの期間」は長いんじゃないかな。
グッバイフレンズ
ブルジョワ(大卒)・プチブル(高卒)・プロレタリアート(中卒)という構図のもとで、ブルジョワとプチブルとプロレタリアートの「和解」の試みがリースでもあり、若い連中の対立を解消する必要があった。
チープヒッピー
エンゲルスは「家族の起源」「セックスと国家」においてこのような「若者の対立」と「リースの原理」を明らかにしている。
女一人に男二人(実質経済・モード)において、階級闘争は抜き差しならぬものがあったが、リースが存在するからこそ、実質経済における「男二人のおカネの競争」が和解の兆しを見せ始めた。
それは、そのまま、ブルーカラーとホワイトカラーの賃金の調整であるベーシックインカムへとつながる議論となっている。
ふたつにひとつ
ブルジョワもプチブルもプロレタリアートも「デキる」ことを競い合っていた。
桑田佳祐は「無理だ」という爆風スランプの曲の「リースの長さ」に着眼し、ラジオ番組で「この詩、難しいんだよな」と発言している。
無理だ
エデンの園には、果実のなる木(男が労働を行い果実を輸出するもの)と果実のならない木(ちんちん)があった。
エヴァは、果実のならない木に触れたら死ぬと聞いていたが、アダムが、労働を行い、果実のならない木に触れるように口説いたのだ。
エヴァは「高校時代のセックス」を行い、リベラルの立場に立った(楽園の追放)。
しかし、これは左翼の立場に立つことを意味し、右翼による「歩み寄り」(リース)を待つことを意味した。
松田聖子は右翼の立場から、アダムとエヴァの楽園の追放に加担している。
制服
マルクス主義は、ブルジョワと結婚したいという右翼に対して、プロレタリア独裁を主張し、高校時代の恋愛を推進した。
それは男女の「性欲」(セクシャルドライブ)の観点からも支持が集まりやすく、それでも、東京大学は夢のまた夢となることも分かっていた。
リースは「東大生もいつか分かってくれると思う」という観点から作られた制度である。
昔は、ブルジョワの家庭には「お手伝いさん」(女中)がいて、上流階級とは何か?を提示していたが、リースのおかげでそのようなものはなくなっている。
やがて、「女だって働きたい」(エデンの園の果実のなる木を作りたい)という運動が起きるようになった。
富岡製糸場の頃は「生き血をすすられる」と言われていたものが、1960年代には国を挙げたムーブメントとなっていた。
女は「遊びと仕事の区別がつかない方がいい」とも言われ、背景には「KCIA」「KGB」などの「スパイ行為」が女の仕事として成り立ったなどがあったものと思われる。中国共産党の生い立ちにおいて「長征」というものが知られているが、農村地帯に、女ネットワークを作る旅であった。
書物では「仲間同士手と手を取り合い沼地で眠った」「終わった後に屈強な男たちが出来上がっていた」などと、長征を美化するような記述があるが、ようするに、スターリンの「ダッカ」「チェカ」を広める旅であった。
若い男女の恋愛に対して寛大であり、しかも、職業保障もある。
仕事は遊びとほとんど区別がつかない、あたりが中国共産党が支持を集めた理由だろう。
明るい放課後の過ごし方
しかし、1992年の鄧小平の南巡講話ののち、都市部から「リースの波」が押し寄せてきて、中国経済は発展した。
都市部と農村部の命の値段は「20対1」という判例が中国でも知られている。
パリサイ派(ノンケの男)とサドカイ派(オカマ)の対立は、ヒトラーとスターリンの戦いであり、「どちらが資本主義(資金力)を味方につけるか?」という争いであったのに対し、保守とリベラル、右翼と左翼という構図は「リース」という「資本主義の原理そのもの」を生み出した。
宇宙のエネルギーを集める「0」(善)と、疲れている人間であることを意味する「1」(悪)さらには、保守とリベラル、右翼と左翼という二元論が資本主義の富を生み出していた。
二元論がどのように近似していくのか?これを理解する必要がある。
マルクスは、いじめのない楽園を目指したが、従姉妹との結婚は「心ない叔父」をなくすためであり、自由恋愛は若い層の支持を得るためであり、女性たちには「遊びと変わらない」仕事を与えた。
それでも、「二元論の近似」が生み出す富には敗北した。
二元論が富を生み出すのが明らかになったため、個と公などの試みもなされた。
しかし、個と公を厳密に区別すると「女とは何か?」を見失うとされ、この試みはのちに宗教界に荒らされることになった。
「女の子もセックスをしたい、しかし、女の子が嫌がると思い込む男の子がいて悩む」(恋の悩み)。
メロディー
さて、リースに関しては「右翼が左翼に近似していく過程」「保守がリベラルを理解できるようになる過程」を利用して、資本主義の富を生み出すものであるとしたが、基本的に「子育て」という「子供のセックスを扱う仕事」は女性のものとなった。
このことは、家庭に入る女性の方が働く女性よりも野心がある、とされるようになり、脱構築つまり、「外国にまで主婦層が、私たちの息子」というものを持つようになった。
たとえば、1993年に体操の世界に「トカチェフ」という技が生まれたが、「脱構築の申し子」としていまだ用いられている。
トカチェフ
女たちの仕事としては「処女快楽」を男に与え、「戦術快楽」を覚えることにあった。
国家の軍隊や自衛隊も「処女快楽」「戦術快楽」には逆らわずに、普通に「KGB」「KCIA」を主婦層の組織として追認した。
女ネットワークのみならず、「リベラル」「左翼」というものを文化として提示し、「保守」「右翼」という富裕層が自分たちに歩み寄ってくるのを待った。
ガチガチの右翼のアイドル好きは、「哲学的に倒錯している」「仏陀」とも呼ばれた。
黒人、ヒスパニック、アメリカ原住民、東南アジアなどに公然と「子供へのネグレクト」が浸透し、子供のセックスと向き合うのが親の仕事という観点が忘れ去られ、「外国に息子を持つ主婦層」という脱構築は先進国の特権となった。
日本人に「ヨン様」が流行したのをメディアは誇りに思っていた。
「こども庁」としては、外国に純潔「ヨン様」を作るのと、子供のセックスと向き合う主婦層を作り出すのが仕事となった。
冬のソナタ
そもそも、リースの議論は「対等な男にしか体を触らせない女」つまり、対等であるからこそ「誰の子を産むかを選べる」という「堕胎の容認」からその歴史は始まっている。
YADA
堕胎禁止国であるスペインに船から堕胎薬を投げ込んだ活動家もいた。
「黒人女は触られて当然なのだろうか?」
これが「リース」の議論つまり「リベラル」と「保守」の「貧しい側」に黒人を追い込んでいたのだ。
堕胎罪というのが刑法にあるが、妊娠22週目までは認められていることが知られている(胎児概念)。
しかし、運用としては「わりと胎児が大きくなっても」堕胎を認めている日本国の現状がある。
対等な男でなければ「女の体を触れない」「誰の子を産むかは女が決める」(堕胎の容認)というのはロー対ウェイドで明確になり「ギャルソンアメリカ」と呼ばれた。
恋のチャプターAtoZ
ユダヤ金融資本のもとにあるマドンナは「ギャルソンアメリカ」を 「降ろしたいんですけど」どころか「産みたいの」と言って煽った。
パパドントプリーチ
フレデリック・ダグラスは「女の体と堕胎および奴隷制」に関する一連の考えを「ヴァージニア州からの手紙」においてまとめた。
「神の意志」とキリスト教のありかたを模索していたのだ。
抱いて
「できちゃった」と言われて脂汗を流す男が日本にもいるが、日本国が「罪から自由である」ということを端的に表現している。
黒人という名の野獣を「対等な市民へ」さらには、「全米の富」につなげるためには、ロー対ウェイドというものは、アメリカが「西へ」と進んだのと同じようなマニフェストデスティニーであった。
ソビエト連邦のフルシチョフが「到底太刀打ちできない」国家であるアメリカ合衆国内部においてはこのような議論がなされていた。
ロー対ウェイド以降、「ちびくろサンボ」「ハックルベリーの冒険」などの作品が消えていった。
実際には、「ロー」と呼ばれる黒人の少女は、堕胎はしておらず、子供を出産し里子に出しているが、文字も読めなかった女の子がテキサスでみんなの前で演説するようにまでなっていた。
「教会の帝国」が出来上がるのが分かったし、中国がこの問題で躓くのが見えた。
自由州と奴隷州の対立は南北戦争に発展したが、最終的には、国全体が豊かになったし、奴隷州のリー将軍はいまだに銅像が建てられている。
「堕胎」の意味が分かるまで時間がかかるという意味においては「生命の誕生」を歌った曲も「リースの期間は長い」と考えた方がいい。
アメリカ個人主義と「友達」というものはすべて「対等な男しか体に触れない」「堕胎の容認」というロー対ウェイドから始まっている。
これはアメリカキリスト教であり、「リース」というものは、人生を知り尽くした大人が子供たちに「贈り物」をするために用いられた。
理解するために十年以上かかる音楽作品を利用したのだ。
結局、リースのおかげで「大人たちに仲間ができる」ため、私が提示した音楽作品に限らず、「大人にしか分からないリースの期間の長い曲」を、どんどん明らかにする必要がある。
白人と黒人の対立は、アメリカ資本主義において独自の発展を遂げ、それはスターリンやフルシチョフには到底太刀打ちのできないものであった。
日本国もアメリカに倣い「ばいばいどくおぶざべい」などと歌われた。
ばいばいどくおぶざべい
移民の問題は「女性」「堕胎」の問題と常にかかわっていた。
イギリスがEUを離脱すると言ったのも移民の問題が原因であった。
日本国においても「フィリピン人女」なんてのは「自由に触れる女」としか見られていない。
しかし、それは少なくとも「キリスト教」ではなかったし、フィリピンにはカトリックが根付いている。
アメリカ資本主義は、黒人の存在によって成立した。
それでも、貧困黒人層への警察の差別は根強く、国全体を見通したホワイトハウスは、時に、地方警察による黒人差別や殺害に「嘆きのメッセージ」を送り続けている。
さて、夫婦の「すれ違い」などがよく聞く話となっているが、基本的に、男が「仲間の話」をしなくなった時、あるいは女が「女ネットワーク」の話をしなくなった時にすれ違いは生じる。
カップルの人気とも言われ、浮気をしてはダメであるし、かといって二人の殻に閉じこもっていてもよくない。
男には男友達を、女には女友達が必要とされている。
これも「リース」の研究の一環である。
通学列車
「努力、未来、ビューティフルスター」
これらは、男は男友達を、女は女友達を持つことを意味し、セックスをいかに気持ち良くするかをメタエシックスと呼ぶ。
琴さんが教育制度への疑念を提示されていましたが、私は「子供の世界も序列があっていい」(カースト)と考えています。
それは、「子供たちの性欲」を作る営みであるからです。
男女に性欲を、さらに「仲間を」これが日本国の国力ではないでしょうか?
そうだ We're Alive
ソクラテスが「少年に胸をつけ」アリストテレスが「女に出産の役割を与えた」というギリシャ神話から、我々は、「性欲」を学校教育で身に着け、社会に出てからは仲間を作り、そして、一組のカップルとしてそれを昇華するという仕組みが出来上がった。
春ミルキーウェイ
「神の意志」「全能の神」とは、このような「男女が愛し合い」「愛が永続し」「仲間が増え」そして、子供たちに伝わっていくというようなものであった。
さて、リースに関しては、日本国も「在日特権」という形でおこなっている。
朝鮮人は、日露戦争で日本国が勝利したことから日本国に渡ってくるようになったが、関東大震災で「漢方薬」を井戸に投入しているのが目撃され、日本軍に虐殺されている。
あるいは、終戦後、日本国を励ますために民族学校設立運動を起こしたが、在日は「国籍一斉剥奪」という扱いを受けている。
これらの100万人の在日朝鮮人に「恩恵を与え、歴史を整理し、日本人と在日朝鮮人の近似を図る」こともリースとなっている。
「二元論」となると目を輝かすのがリースの世界である。
日本国は、人種差別撤廃条約締結においても、「文明批評を封じてはならない」と留保をつけている。
これもつまりは、在日朝鮮人からリースによる「富」を生み出してやろうという趣旨から成り立っている。
ブラジル系移民は「特殊な政治的背景を持った」特別永住者ではないが、それでも、日本人と外国人という「二元論」を見たらお金の匂いに目を輝かす人はいるわけであり、まあ、ポルトガル語ができる人などあまりいないであろうが、色んな意味で「移民」というものは「リース」つまり二元論の近似から富を生み出すという発想から向き合わなければならない問題だ。
金融ビッグバンというものが「フェア・フリー・グローバル」というものから成り立っており、常に「リース」というものを日本国の金融は意識してきた。
Valenti
アブラハム・リンカーンは、4億ドルを黒人に支払ったが、それでも「アメリカは豊かになった」のである。
このあたりはリンカーンをスーパースターとする以外にない才能であろう。
スーパースター
日本国は、在日朝鮮人に対して、少なくとも「二度」間違いを犯した。
関東大震災の時、そして、サンフランシスコ平和条約における国籍一斉はく奪の時である。
私も、「人々から誤解を受けながら」生きてきたし、先生であるアリストテレスはその富があったから「21世紀が見れた」とされている。
在日ブラジル人に対しては、大きな「間違い」はさほど犯していない。
多文化共生などを模索している段階である。
間違いを犯した時には、少なくとも、「処女」を与えるわけにはいかないため、おカネを渡すしかない。
アメリカのキリスト教・ユダヤ教の白人に対して、1969年には「5億ドル」の要求を黒人層は行っている(キング牧師・マルコムXなど)。
私が、力を蓄えていた段階の頃は、電話口で平気で弟や叔父が怒鳴ってきた。
これが「富につながる」のである。
誤解されてきた者たちが強いのだ。
「秋篠宮が天皇になる」「私の息子が天皇になる」
すべての「誤解」が私に有利に働いた。
誤解がなければ「済みませんでした」という富は手に入らない。
単なるエリートには私ほどの集金力はない。
人生のすべてを出し切る(効率性)人に対して、怠け者はなす術はないものだ。
あさやけリバーサイド
誤解されてきても「集中」しなければ、誤解した側は「アファーマティブアクション」は取れない。
黒人は素晴らしい集中力を見せたし、在日朝鮮人もよくやったと思う。
部屋の電気を真っ暗にし、兄弟身を寄せ合って「差別」と戦っている朝鮮人を私は子供の頃見たことがある。
私は、人生で「二度」限界説を打ち破っている。
50歳になるが、「人間ってのは案外怠け者だな」という感想しかない。
黒人は、「第二次世界大戦における日本人差別」にすべてを学んだとされている。
ゾロアスター教の二元論も「ペルシャ人差別」がなければ成り立たなかっただろうし、日本人は「ゾロアスター教に近い」という説もあながちデタラメではない。
第二次世界大戦中における「日本人差別」に関する展覧会を日系上院議員が「必ずしも過去のものになっていない」として行ったことがある。
リースはすべて日本国が発祥であるという意思表示であったであろうし、政治家は「政治家の卵」として優遇されて生きるのではなく「誤解されて生きた」方がキャリアが成熟しやすいということを示している。
政治献金とは「処女」を贈る行為である。
「申し訳なかった」という人々の気持ちがなければ集まらない。
なぜ日系アメリカ人は「アメリカに対して番狂わせを」起こせたのか。
それは「本国の異常な強さ」に負うところが大きい。
これが、黒人層の「番狂わせ」にまで波及している。
黒人層は、アルジェリアが新聞紙で「アメリカの黒人の活躍ぶり」を書き立てたため、フランスのドゴールが悲鳴を上げている。
令和天皇の即位の礼を、国民は「一生に一度のこと」として祝ってくれた。
私への誤解は「二度とない」という意味でもあった。
アファーマティブアクションは、「リースの原理」でもあり、オイラーの法則とも言われる。
誤解されてきた真面目な努力家は「もはや秋篠宮や浩宮ではない」ことを意味した。
このような「オイラーの法則」がそのまま、民族の歴史となり、家の歴史となるという覚悟が必要である。
子々孫々まで伝わる伝説であるからである。
女の子たちの間では「お父さん元気?」という形で案外、伝説というものは伝わっていくものだ。
私も、琴さんの文章に対し「本能にはついていけない」と発言させていただいたが、これは必ずしも女性を従属的に描いたセクシストとは見做されていない。
本当に女性を従属的に描くポルノグラフィーは、確実に株価を下げる効果がある。
プレイボーイ、ハスラー、ディープスロートなどの雑誌は、女たちに「早く嫁に行け」と急かしていたし、「早く結婚しないのか?」と発言した都議会議員は、これらの雑誌に毒されたものと見做された。
塩村あやか
ポルノを市況に貼り付けたら本当に株価が下がりますので、これを明らかにしたのが「フェミニズム第三の波」である。
第一の波は「ブルジョワと結婚したい」というものであり、第二の波は「私たちも働きたい」というものであったが、第三の波はかなり攻撃的に出てきた。
ポルノは、女を「人間以下」に描いていた。
「早く結婚しないのか?」と言った、都議会議員は「口説き文句ひとつ知らない男」であろうと外国メディアが話題にした。
「それならばどうやって政治資金を得ているの?」
ばっちりキスしましょ
まあ、しかしポルノというものが全米三大テレビ局の三倍の富を得ているのは事実であり、たとえば、セレブを「人間以下に扱いたい」などの欲求は誰しもが持っている。
口説き文句を考えてセールスにかけると、オリンピックにも勝てる力を持っている女性を、
「最終的には人間以下に扱う」
ここに、女性たちの力と限界があり、男性の「射精の仕組み」の難しさがあった。
「ゲームならルール決めましょう」
松田聖子はそのようにしてバブルを支えている。
ピンクのモーツァルト
男たちの「ファンタジー」は女たちも共有していたが、社会ではそれでいながら、どの女も「処女」のようであった。
テッド・バンディは、ポルノのペーパーバックをポケットに入れて女たちを犯しまくった。
しかし、「ポルノとレイプの関係は政治家が大げさに語っているだけ」と全米は考えている。
「口説かないと世界が狭くなる」「貧しくなる」と男たちは考えていたのだ。
ポルノの視聴者が「真似」する分には女たちには機外は加えられないだろう、という、女たちの予測可能性もある程度立った。
「どの男もポルノの真似をするだろう」と考えられたのだ。
レイプを行った男はみんな「ポルノのせい」と語ったが、アメリカ高等教育は「口説き方」を教えていた。
リースの原理はこの「男女の二元論」を究極のものとして扱っていた。
女が「嫌い」と言ったら「話を聞かせて?」という意味であり、「沈黙」は、すでに「ポルノのことで頭がいっぱい」「セックスOK」ということを意味した。
哀しい方の嘘
まあ、このようなことを女性たちに語っても「イエスキリスト」を崇拝できる女性たちは素晴らしい。
男女の二元論を理解しない政治家は、決してパワフルではないし、権威もなかった。
なかには「口説き文句の達人」を「裸にしてやるわ」という強い女もいた。
酒井法子作詞。
サイレンスフォーラブ
レイプは「女を口説くこと」「女心の定義」(政治)の終わりを意味していたため、まあ、政治の終わりぐらい見ておいた方がいいとも言われ、政治の終わりが分かれば、むしろ政治に興味を持てるとされている。
女は「眠っているときの夢」では何者にもなれる。
「男になって自分を犯す夢を見る」とも言われる。
このことを「主人・奴隷論争」という。
ヘーゲルが始めた議論である。
恥ずかしい夢
メタ君の言った通り、「男にとって女ってなんだ?女にとって男ってなんだ?」という問題は、リースの原理であり、二元論でありながら、主人・奴隷論争を経て「弁証論」と呼ばれるようになった。
ヘーゲルってあのヘーゲルですよ。
カントは「女を口説くこと」「結婚すること」と単純に考えていたし、マルクスは「結婚とは搾取である」としていた。
しかし、この二人の間には「ヘーゲルがいた」のである。
主人・奴隷論争がなければマルクスには本来「出番はなかった」のである。
共産党は少なくとも「セックスの快楽の側面(消費)」に税金をかけろと言っている。
しかし、セックスに税金を課すのならばデカルトがすでに行っていたことである。
我々が愛し合う限り、GDPがマイナス成長でも、税収は上がる。
消費税とは「国家の支出に、都市の拡大に用いられる支出が占める割合」のことを意味しており、そこでようやく「快楽という側面」に税金は課けられるわけだ。
つまり、日本国の消費税は現在、「とっくに20%を超えていて」店で取られるおカネは、全部、店員のお小遣いということになる。
まあ、アルバイト代まで客が払っているのだから共産党が廃止というのも無理はない。
フェミニズム第三の波は、「女たちが株価を上げる」ことを志向したため、「夢だけ見てていいのだろうか?」と何とも手厳しい評価をマルクス主義は受けている。
だいたい、ナシュバーンの問題提起があった1960年代に、日本国は「アメリカにつく」という姿勢を明らかにした。
しかし、ベトナム反戦運動は容赦なく襲い掛かった。
「我が国は中国に天気を握られています」
アメリカにとって日米同盟というものの難しさを感じさせた。
夢だけ見てる
ヘーゲルの「弁証論」「男女論」「主人・奴隷論争」つまり、女は眠っている間に自分を犯す夢を見るという論争は、我々は眠っているだけではいけないという議論に発展した。
渚の眠り姫
そこで、我々はようやく「快楽よりも仲間が多い方がいい」(道徳哲学)ということに気がついたのだ。
アメリカ合衆国憲法修正第一条には「ヘイトスピーチをやめろ」とかいてある。
これは「オイラーの法則」つまり、二元論に立脚することから富を生み出すことを意味した。
今でも、トウモロコシ市場(シカゴコーン)の取引をするのであれば、日本国のソフトコアを「どんなに男が偉くても、女の乳房にゃかなわない」と記して売りつけるのが基本である。
真っ赤な嘘
さて、ポルノと言っても「カメラは女しか追っていない」のである。
男たちにエネルギーを奪われ、神聖さを奪われたのは、自分たちが神聖だからである。
女たちが宗教(男性崇拝)と向き合う上でこのことは理解しておかなければならない。
どの男も「好きなAV女優」を持っていた。
それは決して恋愛関係でも友情でもなく、「今カノとのセックスの参考にさせてもらった」ことが背景にある。
オヤジにカマを掘られてケツが痛い、マザーファックして精子が出ない少年が非行に走る原因はいろいろある。
学校の保健室としてはこれらには当然、対応できなければならない。
ケツが痛ければ痔の研究をする保健師がいてもいいし、ちんちんを太陽にあてれば精子が出るようになることも理解する必要がある。
非行に走る少年は最終的にはフェラチオとパイズリしかやらなくなる。
父親に犯された娘も、処女非処女論争から疎外されて非行に走る。
高橋愛を追うカメラ
自分が「上達」しないことへのストレスの捌け口として男はセックスをする。
負け犬に「ナイスバディ!」と言われても女は「フン」と言うだけだ。
ポルノというのは負け犬のためにある。
「女を口説くこと」(政治)の上達(政治力)があればポルノは見ないだろう。
私が若い頃は、「上達」(信仰心)を信じられなくなったスポットに「立ちんぼ」がいた。
新大久保とか新橋であろうか?
今でも東京に立ちんぼがいるならば、信仰心を失ったスポットだと考えていい。
信仰心を失った男女は「同じ目」をしていた。
バッドガール
オラ、もうどうなってもいいんだ。
そんな男が、女の芸術の才能にお金を払った。
私も、心を病んだ時に、そのような心境でコンサートホールを回っていた。
少年マガジンや、少年ジャンプなどの「強いマンガ」に支えられた男は女のマッサージやダンスには金は払わないだろう。
私は、これらのマンガを読みながらCoCoのコンサートを見に行った。
夏空のドリーマー
信仰心を失った疲れ果てた男の周りには処女は決して寄り付かなかった。
「結婚などやめてしまえ」というマルクス主義の足音が聞こえてきた。
胡散臭い「先生」を一通り見た後に、「東大」の再評価を行い、法律雑誌を読み耽った。
このことが、現在の「スタンフォード大学」への理解力につながっている。
売春防止法というものがあるが、女の「エスコートタイム」つまり仕事をしている女に「いくらですか?」ということを禁止している。
信仰心を失って「同じ目」をしている男女がカネのやり取りをする分には問題はない。
さて、どうやったら株価(女の値段)は上がるのだろうか?
信仰心が高まると男は女を買わなくなる。
女たちは「買い叩き」せざるを得ないのか?それとも「希少資源」として高く売れるのか?
平成には「信仰心を失い」日経平均株価は7000円台だった。
信仰心の高い現在は28000円台である。
このあたりは、「人々の心は計算通りには動かない」(量子論)として今後の課題になるのだろう。
ひとりぼっち
石原伸晃に1票を。
自民党に寄付をお願いいたします。
« 皇国日枝について。 | トップページ | イメージ。 »
この記事へのコメントは終了しました。
コメント