大喜利。
「大喜利のコツ」
すべてのちんちんのタフネスを利用し、二つのポイント(ブラフマンとアートマン)をひとつに絞っていく作業である。
男たちのちんちんがひとつに絞られれば、「女たちが笑い」つられて「男たちが笑う」というのが大喜利だ。
「女を分けてくれそうな男」になるというブラフマンという日常と、お題が出たら「すぐにアートマンを絞りきる」という作業を行う。
ブラフマン(モテる日常)に自信があれば、アートマンで「大暴投」はしなくなる。
「スターは何を言ってもウケちゃうんだよな、もう」というのが大喜利だ。
モテる人を崇拝するというのをブラフマン宗教と呼ぶ。
一度、アートマンをお題で絞ったら、それ以上の突っ込みは許されない。
ブラフマンが、多くの男たちのちんちんをアートマンに絞って、女たちを笑わせ、男たちをも笑わせる。
宇宙・火・水・空気・地球の五人のいい男が揃えばオンエアもできる。
ブラフマンは、恋愛マーケットで「命を懸けた有名人」でなければならない。
別の女の前で青ざめるようなモテ方をする。
秋色協奏曲
女たちにモテる男(ブラフマン)が、男たちのちんちんを集め、お題でアートマンに絞り、リリースし、女たちを笑わせ、男たちも笑う、これが大喜利であり、
「男と女の二元論」(天地創造)つまり「神」を信じていない失意の中で大喜利を見ても面白くはないだろう。
また、国を一人で背負っているような男(ブラフマン)が、お題によって、アートマンを女たちに提示するものであるため、場内や視聴者は、「国と関わる異様な熱気」に包まれる。
モテる男(ブラフマン)が提示するアートマン(答え)は、ブラフマンのはらわたのようなものであることから女たちが笑う。
アートマンの絞り方がズレていたら「女たちの幸せ」を「座布団をやる」ことでフォローする。
フェアウェイに乗せやがったら差布団を持ってく。
大喜利が常にやらなければならないのが、「若い女性ファンの獲得」である。
そうでなければ、男性ファンも増えない。
ブラフマンとアートマンという以上、教えとしては「仏教」であり、「私、私のものという発想をなくす」というものだ。
若い女性が笑うと、男たちも興奮するものだ。
「ノーアウト一塁二塁で二番バッターがすべき最低限の仕事は?」
「ケツを振ること」
このあたりにブラフマンにとってのアートマンは存在する。
大喜利のメンバーとしては常に「俺たちは雄牛だぞ?」ということをアピールしなければならない。
四人の人がいるからいじめがないのか?
大喜利のメンバーが仲間にいるからいじめがないのか?
というような「仏心」が存在する。
大喜利のメンバーの「雄牛」は、いるだけで「いじめがなくなる」ため、多くの芸人が大喜利にチャレンジしている。
その富は案外バカにならず、女たちが「青い空・涼しい空気・広い家」を持ち、家庭に縛られないようにするために、男たちは「大喜利の作法」を知りたがった。
ブラフマン(モテる男)が、アートマンについて語ると言うのがその秘訣であることはすでに述べた。
トウモロコシと風と空
大喜利のいいところは「女子高生でもファンとしてすんなり入ってこれる」ところにある。
つまりは「縁起のいいお笑い」という側面があるのだ。
大喜利は、極めようとすればオカマの舎弟もできるし、仏心も身に付く。
そもそもがモテる(ブラフマン)男であるため、視聴者として笑点を見ても、自分で実践してもいいものだ。
そもそも「ツボ」という用語が仏教用語であるため、「笑いのツボ」を押さえることは健康につながる。
「雄牛」というのは「雄牛一門」を意味し、「女子高生たちの支持によって関係を取り持っている」存在である。
女子高生たちは「期待感」に集まってくるものである。
大喜利も、昔から「面白そうでつまらない林家こん平」と言われたように、「期待感」だけはいまだ健在である。
まあ、大喜利になぜ「女子高生が入ってきやすい」かというと、「狙いが暴力や極端を狙わずに」「書いた人がどれだけモテる人かを想像させる」あたりにあるからである。
「神・男の完全性を語り合うと爽快感がある」
というのと似ている。
神・男の完全性を「男が表現する」ことはヴェーダと呼ばれ、女が「それでも聞きたい言葉がある」と「神・男の完全性」を表現することをヴェダンタと呼ぶ。
男と女がヴェーダとヴェダンタで勝負することは「フェアではない」とされている。
しかし、ヴェダンタは、「自分を抱いている男が何を考えているか?」に興味がなければ生まれないものであり、「誰の子を宿したか?が女の序列」ということも含めて、女社会に確実に「仏教」というものは浸透していった。
「恋愛禁止アイドルはつまらないのか?」
それは、女性の社会進出とも関わる問題であったが、社会は「あまい拒絶」と「カンペ・マネージャー」というものを用意していた。
「期待されていないことが、できないのが女らしい」「期待していることはやって?」
それならば、ヴェーダとヴェダンタは、前者が「聖典」と呼ばれるように「国民のツボ」を押す力を持つことになり、後者は「できない、可愛らしい、期待されていることだけやろう」という展開を見せた。
西洋では女性たちには「聖書・聖句」が与えられ、「神・男の完全性を表現するのは男」ということになる。
女性の社会進出は「女は男の序列を決める」(CP条項)というものが支え、女たちの笑い声がなければ世界が滅ぶこともわかっていた。
また、そもそもお金というものが「金額が数えられ、女が買え、すべての女に通用する」ものであることから、「笑いをいくらで換金するのか?」も「CP条項」に頼るかたちとなった。
ましてや「笑い」を、プライスレスにするのは「女子高生ファンの存在」がなければ成り立たなかった。
ヴェーダとヴェダンタは、「神・男の完全性」を男と女のどちらが表現するものか?を論じたが、その「換金性」は、ニャーヤ・ヴァイセシカがこのように明らかにし、女性の「重要な役割」を明らかにした。
ヴェダンタが「女の役割」を明らかにし、ニャーヤ・ヴァイセシカが、「男の換金性」を明らかにしたことから、むしろ、「女の子たちの胸が大きくなった」とされている。
「できない女の巨乳」も知られるようになった。
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