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Foreign Affairs

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2020年4月12日 (日)

キリスト教総論。

今までの医学においては、採血をして、生化学検査表を受け取って、専門医が治験をもとに大量生産されている「薬」を投与することで「気分が良くなる」というものであった。
しかし、最新の「バイオメディシン」(生物医学)は、そのようには考えていない。
第二次世界大戦では「モルヒネ」が生物医学から生まれている。
現在のバイオメディシンが見ているのは、「恋愛論に詳しく、彼女がいる俺」という図式にいかに意味を与えるかである。
モーニング娘。セクシーボーイ

ラカトス・リサーチプログラムにおいてこの研究が深まった。
病気の原因は「強烈な敵がいて、それでも生きていかなければならない」というところにあるが、パラダイム(恋愛論)に詳しく彼女もいるのならば、ましてや子供がいるのであれば、その存在価値を高めればいいだけであり、これが「病気を治す」と考えられた。
モーニング娘。ペッパー警部

このことから「哲学を学ぶのは健康になるため」という側面があることが明らかになった。
イエスキリストを信じれば「おカネ持ちになり健康になる」という側面が指摘されたのだ。
ギリシャ哲学の歴史の中に、なぜか「医学の父・ヒポクラテス」がいるが、同じことを語っているだけだ。
モーニング娘。リゾナントブルー

この「バイオメディシン」(生物医学)は、哲人政治(女心を語る世界)と、宗教(=医学・健康の源)を一気に接近させることとなった。
「モテる俺」ならば健康なのか?それならばそのことをプラトンに詩にしてもらおう、これをヒポクラテスが考えたのだ。
二人の女の奪い合いになった経験のある男は多い。
三浦理恵子 Jokeにもならない恋

多くの女たちと交友関係を持ち、「抗生物質とはビタミン剤のことだろ」と豪語する男もいる。
アビガンが必要なのは童貞坊やかい?
女の多様性を知り、アレルギーをなくす、あるいは「貧乏くさくて食えない食事をなくす」ことが健康の秘訣であり、ようするに「女の口説き文句」を売り、豊かになり、しかもいろんな女を知ることが「健康の秘訣」とし、自分のことを歌った音楽作品を聴くだけなのだ。
ヒポクラテスは少なくとも、それを明らかにしたことから「医学の父」と呼ばれている。
モーニング娘。独占欲

なぜ、このような「音楽を聴いただけで健康になる」とヒポクラテスが説明したのかは、のちに「肉体は有機化学の知識からできている」という研究がなされている。
「病は気から」というのでは失言にあたることがあるが、「やる気を出せば元気になる」という説明は可能だ。
そのためには、「周囲に多くの芸能人の知人がいる」というのは非常に意味のあるものだ。
体内の「糖分」がうまく作用して健康に導いているとも言われている。
イエスキリストというスーパースターが病気を癒すのだろうか?
タイプ2型の糖尿病はそれで治るとも言われる。
「天皇」と呼ばれるおっさんの話はそれで人気があるのかもしれない。
思考形態が「いつもの法則」を思い出すから痛みがなくなるという説明もなされている。
瀬能あづさ 永遠に友達

音楽を聴きながら飲むジュースはうまいという説明もある。
とにかく、「こういう女は苦手」「こういう男は苦手」という免疫の問題から「血清」「抗生物質」というものは考えられたが、「そんなものはビタミン剤で事足りる」と豪語し、かつての「光治療」に回帰していく方向を生物医学は見始めた。
ひとえに、「哲学の発展」が背景にあった。
ある程度の人生経験がなければ「光治療」は効かないし、どのみち若い連中には健康の悩みなどないだろう。
また、「女の芸能人の歌しか効かない」とされる。
女性芸能人は、哲学者の語る「女心」に体が軽くなる気がして寄ってくるが、男の場合も都合よく「女性芸能人」を活用しなければならない。
イルミナティは、いつ「光治療」「生物医学」をリリースすべきかのタイミングを見ていたようだ。
有効性は明らかだったからだ。
いずれにせよ、この生物医学は「ジェントルメディシン」(より優しい医学)とも言われ、国の哲学の在り方を踏まえてヒポクラテスが考えたものだ。
高橋由美子 天使か悪魔

基本的に、特定のアーティストのファンになるためには「公」(パブリック)で「頭の痛くなる曲」を聴かされて、「個」(プライベート)に刺激を持ち帰り、さらにはライブやコンサートに行きたくなるものであるが、「光治療」「生物医学」では「レコーディングされた作品」が好ましい。
しかも、「女性ボーカル」がいいのだ。

カップルには「二人の敵の女」がいる。
「浮気をした」と騒ぐ女と、「カップルを守るかどうか?を判断する女」だ。
浮気をしたのが本当かどうかは、簡単に見破れるとされ、「二人を守るのをやめた」と判断した女は、時には「私が浮気相手」とすら言って、二人を破局させようとする。
女には「女友達」が必要であり、孤立した女は「いくらでもやらせてくれる」「都合のいい女」となるしかない。
「女友達」に見捨てられたカップルは、男の方から「愛してた」と切り出す羽目になる。
瞳はダイアモンド 松田聖子

お見合い結婚は、いちばん「周囲に与える葛藤」が少ない。
女のバックにどんな「おっかない男たち」がいるかは明らかではなく、街で気軽にナンパすることができない現状がある。
従姉妹がいちばん簡単に落ちるが(具体)、クラスメートという抽象という可能性はある。
仕事をともにした関係ならば、「アナボリック」「カタボリック」という快楽物質がながれる。
それでも、従姉妹かお見合い結婚以外には、多くの葛藤があるのだ。
松田聖子 キモノビート

これは、私の定番であるが、「神・男の完全性を議論すると爽快感がある」とされ、しかし、彼女がいても、男は時にはマスターベーションしなければ、なかなか「性」というものは合わないものだ。
もしも強引に手を引いてくれたのなら・・・。
続・赤いスートピー 松田聖子

女の子は思春期に「おちんちんがない」ことからみじめな気持ちになったり、鬱になる。
体の健康に目覚めて部活に入ったり、母の実践として料理を覚えたり、美の探究をする。
芸能人になりたいなどの「ナルシシズム」を求めて周囲と喧嘩したり(うまく飛べない)、男の子に助けを求めてお母さんに怒られたりする。
この時に「言葉の感覚も鈍っている」とされている。
この曲は「ポエティックレボリューション」と呼ばれている。
時間の国のアリス 松田聖子

女は「抱いて?」ということそのものが「犠牲」であり、世界の母・恋人・友人となる条件である。
また、子を宿した時に、今まで従属していた男に対して、主導権が得られるとされる。
松田聖子 抱いて

なお、ネット礼拝についてだが、ライブパフォーマンスの映像では、なかなか「痛み止め」にはならないだろう。
各自、自分で「CD音源」を持っているであろうことは当然の前提としていただきたい。

鬼滅の刃(少年ジャンプ)において、炭次郎は、「優等生でシャイ」な男として描かれ、18巻は4000万部のセールスを誇った。
炭次郎は、スラムダンクの桜木花道や、ワンピースのルフィとは全く異なるキャラクターとして成功したのだ。
時代の「メシア」は、現在、「優等生でシャイ」な方向性がセールスを伸ばしている。
松田聖子 ロックンルージュ

母親は「娘に嫌われたくない」と思っている。
しかし、お母さんが嫌いにならなければ、思春期の娘は「痩せない」のだ。
このことは「約束」と呼ばれ、思春期に痩せることから、女の子は性感帯がクリトリスから膣に移る。
お母さん大好きで、太ったままの女の子は「シスコン」になる。
松田聖子 天使のウィンク

髪の短い女の子は、幼少期にお父さんに「いたずら」されている。
自分が男の子とどう違うのかがわからず、特に「男子のうなじの毛」を見ることがトラウマになり、ショートヘアになっている。
16歳で生理が止まり、セックスする時に極端に痛がる。
医学的にはそのように説明できるが、分かってしまえば「狙って」髪を切る女もいるだろう。
ショートヘアの女には気をつけた方がいい。
「お前とセックスすると痛いんだよ!」と言ってムチを持ち出す「女王様」もいるからね。
松田聖子 夏の扉

アタナシウス派(正統)は、「女は皆同じ」という立場だが、これは女の「失恋ソング」に大きく影響を与えた。
女が彼氏にフラれた時に、「自分の何がいけなかったのか?」を自分なりに説明しなければならないからだ。
女の「失恋ソング」が売れ続ける限り、企業のボッタクリは治らない。
失恋ソングで得たカネで、ボッタクリにあった費用をまかなってもらいたいからだ。
しかし、女の失恋ソングが売れなくなったら、企業に「女たちとともに泣くつもりはない」と電話して、企業の社会的責任(CSR)を議論しなければならない。
自分は他の女とどう違うのか?
その版権は、企業のあり方とも深く関わるのだ。
松田聖子 ハートのイアリング

聖子ちゃんから、やや脱線するが、「女の失恋」による版権はまだ今後の可能性がある。
いわば「女は皆同じ」(アタナシウス派)という立場は富と関わるものだ。

「少年のように素直ではなかったから」
穴井夕子 フェアリーデイズ

「大人になりたかっただけ」「私が強がったから」
CoCo 優しさに帰れない

など、ようするに「支配と従属の関係をうまく作れなかった」ことを「言葉で表現」しなければならない。
しかし、日本の音楽シーンはまだまだ発展の可能性がありそうだし、携帯電話のボッタクリは治らないだろう。
支配と従属というと女の側に「屈辱感」があるため「少年」「大人になりたかっただけ」などと表現されている。
女友達が「見る目のない男」と言ってくれることもある。
しかし、すべて「版権」の問題なのだ。
アタナシウス派(女は皆同じという立場)の真の意図はこのあたりにある。
酒井法子 オールライト

これはどうしょうもないレベルだ。
「悲しみなんて自分一人で癒すものさ」
「求めていたいマイレボリューション」
表現力の違いは素晴らしい。
渡辺美里 マイレボリューション

まあ、「女の失恋」への救済というものは「右翼的発言」と直結しやすいのは事実だ。
「日本人の真価を今すぐ発揮せよ」
「圧迫と偏狭を地上から永遠に除去」
しかし、「他国と対等関係に立とう」などあたりから「女心」というものは立場が分かれるのかも知れない。
(日本国憲法前文)
国家基本問題研究所

国家基本問題研究所は、中学の英語の教科書における「南京大虐殺」の記述を、「マイフェアレディ」に差し替えさせたことがある。
(亀井静香によるもの)
教科書検定の代表的な事例だとされている。
しかし、今から思うと「何が違うのかな?」という思いもある。
エンゲルスは、わずかな送金をドイツからイギリスのカール・マルクスに対して行なった。
マルクスは「生涯にわたって」貧しかったとされる。
「何を書くかな?」と思って、大英博物館にこもったマルクスを注目していたが、新聞の切り抜きから「支配と従属」「労働」などを書き始めたのだ。
これが「資本論第1巻」である。
マルクスは「支配と従属」こそが性欲の起源であるとし、また、「学歴のない子供たちを集めてトランペットなどを鳴らすギャングキャンプ」に、女の失恋への救済ソングを歌わせた(右翼の起源)。
また、英国王室に逆らうものを「バガボンド」と呼び、胸に「V」という刺青を入れて差別している。
これは、だいたいマルクスが考えた「英国王室」のあり方であった。
女の失恋ソングが売れた時期は、エリザベス女王にも「僕」と呼ばれるギャングキャンプのメンバーがいて、セックスピストルズのボーカルをボコボコにしたりした。
セックスピストルズ ゴッド・セーブ・ザ・クイーン

2 Pac は、「俺たちの人気の秘密を語ろう」「男はビッチを抱くべきだ、女王陛下など知るか」
と語り、自分たちのコンセプトを明らかにしている。
マルクス、それは英国王室を形成した男であり、いまだにイギリス芸能界に根の深い影響力を持っている。
2Pac アマルシャクール

資本論を読んでみても、共産主義(コミュニズム)という用語が見当たらないのが奇妙に思われる。
しかし、よく読んでみると「ドナウ川周辺に貴族の経営する農場がある(コミューン)」と書かれているのだ。
これ以外に「コミュニズム」の用語の起源は見当たらない。
結局、「性欲の起源」を、支配者層を「糾弾」し、世界を敵にまわさせ、「勃たなくなるさせる」ことで「国家予算と交換する」ことを「革命」と呼んでいたようだ。
第一インターナショナルは、しかし、「笑いのうず」は起きたものの、ベルリンでは通用しなかった。
「田舎者が都会を目指すことも重要な性欲の起源」であったことを第二インターナショナル(コミンテルン)は悟った。
田舎者を都会に潜伏させる作戦が、日本共産党内部においても進行した。
モーニング娘。ふるさと

そこで、芸能界は「1オクターブ高い」(12フレット)女の声をサウンドとして利用することにした。
「男の心に響く声」をスピード・オブ・サウンドと呼んだ。
パフューム スピード・オブ・サウンド

しかし、「必要な声」は、音波がなくても「聞こえる」とされ、極めて女性的な経験として知られている。
男は「幻聴」と言われても「美しさ・臭い」などの女性的なものしか聞こえないが、女は「好きになった彼氏の声が聞こえる」と言っていた。
女は「100万曲知っている、常に歌っている」とされ、彼氏が歌手だったのだろう。
河合その子 緑の少女

遠くでバイクの轟音が聞こえ、やがてそれが近づいてきて、暴走族が現れる、これが通常の「耳と目」の反応だ。
タイトルで「小麦色のマーメイド」と表示され、美しい女性が、映像とともに「その意味」を明らかにする、これも通常の「目と耳」の関係である。
この作用が、視聴者にとって「エネルギー」にならなければならず、また、ピッチが高ければ、高い波、低ければ低い波が起き、ボリュームが大きければ同様に高い波、小さければ低い波が起きる。
2万ヘルツから20ヘルツまでをこれらがコントロールしており、ヨハネの部屋にもマリアの部屋にも同じ映像が流される。
ヨハネもマリアも「観ていた」ということが大事であり、二人の間に「深い仲になる期待可能性」をもたらさなければならない。
「自信に満ちたサウンド」が必要であり、ヨハネにもマリアにも自信をもたらす。
松田聖子の作品の中に、私が今まで述べたような「メッセージ性」の全くないものが存在する。
しかし、「視聴者のエネルギーになり、自信がつき、世界が広がるのならばいい」という割り切りがある。
松田聖子 小麦色のマーメイド

ここで、私が「松田聖子」を語る上で「ドップラー効果」を用いていることを知ってもらいたい。
「今後リリースされる曲・最近の曲」は、圧縮されており、「過去の曲」は、膨張を続けている。
「レトロって感じで、令和?」
それはつまり「膨張を続けている過去の曲」に脚光を浴びせているから語られているものであり、圧縮されている「最近の曲」は用いていない。
おカネにするためには「圧縮」が必要である。
ヨハネとマリアに「エネルギー、自信、世界が広がる」という効果をもたらすためには、常に「新曲」をリリースする必要がある。
しかし、すでにドップラー効果により「膨張」した曲をあえて「圧縮」してみたい。
松田聖子 秘密の花園

マリアには「自信」を与え、ヨハネの股間を刺激する、松田聖子の「メッセージ性のない曲」はそのあたりに存在意義がある。
アタナシウス派は、「女は皆同じ」と考えていたため、女に必要なのは「自信」であったし、「どんな女友達を持っているか?」までもが女にとって自分の魅力になったため、クラスの話題に「聖子ちゃん」「明菜ちゃん」を持ち出した。
中森明菜については、私も色々と語らせてもらったが、「聖子ちゃんよりも難しい」のが現状だ。
「神・男の完全性を語り合う」
そのようにコンセプトを絞ったら、明菜陣営は頭を抱え込んでしまった。
松田聖子 天国のキッス

女は「肉の塊」から出発して、「文化」によって、からだと心を作っていくのだ。
お母さんが嫌いになる=痩せる=約束など、聖子ちゃんのおかげで彼氏ができたという人も中にはいるため、あんがい「聖子ちゃん派」「明菜ちゃん派」の対立は根の深い問題だった。
音楽には「4クォーター3ビート」のようなパルスがあり、踊れるようにできていた。
4クォーターで3回ジャンプできる曲でなければ踊れないのだ。
踊りに、「メッセージ性」「自信」を混ぜ込んだのだから、それはヒトラーにせよ、私の祖母の遊佐道子にせよ、「松田聖子」をプロデュースしたのはまさに国策であり、だいたい聖子ちゃん派25%、明菜ちゃん派16%とすると、「無関心」な女の子はわずか9%だった。
無関心ということは「女は皆同じ」という立場に立つのならば「男に興味がない」ということであった。
松田聖子 ガラスの林檎

プロテスタントによる宗教改革は、「女には自信を与え」「男は勃つようになり」最終的には「カタルシスにより病気が治る」ということから、「おのずとイエスキリストとは何者か?」が明らかになるであろうという発想であった。
しかも、なによりも「映像」「サウンド」を味方につけたのが大きかった。
新約聖書に「永遠」という文言を入れ、女性芸能人を信者にしていった。
それでも紅組よりも白組の方が強い。
それは「イエスキリストの人気」という他はない。
イエスキリストの「歌」の方が人気があるのならば、健康な人が多いのだろう。
女性ボーカルによって癒され、イエスキリストの歌を聴く、なんとも贅沢な話である。
松田聖子 渚のバルコニー

灘や開成などの男子校や、野球チームなどの「男社会」は、「レイズム」と呼ばれ、男だけの集団ならば「嫉妬」のようなもの以外になんら「法則」のようなものは見当たらないとされた。
(ヒュームの原則)
このような「男だけの集団」に対しては「食事はどこから来るの?」と言って「女の存在」を明確にしなければならない。
「食べられるもの」は、「COOH」という化学式が共通して見られ、それを明らかにするのは常に「女」だったからだ。
「C」は女であるが、「O」は金持ち男であり「H」は貧乏男であった。
食わず嫌い王決定戦においては「貧乏臭くて食えない」というところあたりに「食えない」理由がありそうだ。
私は、東大文一に入ったら「クラスには女子が二人」であり、ボクシング部には女子マネージャーすらいなかった。
そのような集団で「誰が一番賢いのか?」を争うのだ。
その世界においては「食事は母親か妻が作るもの」であろうし、そうでありながら、ストイックに「女性アイドル」に関心を向けることになる。
男性社会であるからこそ、「女性アイドル」は癒しになり、時には「利益」(ずりネタ)になったし、財産(セックス産業)になった。
碧いうさぎ 酒井法子

バートランド・ラッセルは、ケンブリッジ大学のトリニティカレッジで学んだ。
トリニティというのは「三位一体」を示すが、「神・男の完全性を語ると爽快感がある」ということを深めたのだ。
松田聖子の「Sweet memories」は、別れた男の完全性まで歌ったため、「自分の体も特別」というアリウス派の立場に立っている。
松田聖子 Sweet memories

アリウス派は、女の多様性を認めることを意味し、現実社会では真理であっても、「版権の資金力」の前に「異端」とされたのだ。
アタナシウス派とアリウス派の戦いは「資金力の戦い」であった。
「どの女も皆同じ」というのならば、別れたら、女は「理由」を考えなければならない。
また、別れた男は「友達より遠い人」になるはずだった。
三浦理恵子 友達より遠い人

ラッセルは「特別な男って何だろう?」とトリニティカレッジで研究した。
それは、大工(技術に満ちた男)のように「仕事」で表現するしかないね。
「口説き文句を売っているんだって?」
哲学者は、あんがい尊敬された。
「あなたは女性として最高の存在」
このセリフを言ってくれた、「普段着のことを褒めてくれた」それが最高の口説き文句であるが、あとは「仕事」をするしかない。
芸名とは「女のため」にあったし、男に対しては「気持ちいいのはあなたでしょう?」と言いたかった。
「女として最高の存在」ということが知りたかったのであり、男が「女の子供の気持ちを味わって、思い切り感じる」ことから自分に酔っていたのだ。
男としては「女をいかせよう」などと考えてはならなかった。
「君の子供の気持ちは最高に気持ちいい」
女にそのように囁かなければならない。
松田聖子 瑠璃色の地球

ラッセルは「忘れられない男」「一神教」を作るためにトリニティカレッジにいたし、男は「仕事」をしなければ、TOPIXすら払えなくなる。
王の娘(ルクレティウス)は最高に気持ちが良かったし、「彼には強さが約束されている、彼を恐れる者に祝福を」と男は絶叫した。
松田聖子 林檎酒の日々

もし、男が「ジーザス」といえば、女は「イエスっ誰?」と言って聖書を読み始めるだろう。
神道の側からは「オー、令和」と言ってもらいたいけどね。
ジーザス青田

ラッセルは1970年に死んでいる。
アタナシウス派(女は皆同じ)と、アリウス派(特別な男がいる)の対立は、ラッセルがマクマスター大学というものを作って、アリウス派の存続を願ったが、長い目で見れば「アタナシウス派が勝ったのかな?」と言われている。
「一神教」「アリウス派」「特別な男がいる」という立場に松田聖子は明確に立脚している。
しかし、マクマスター大学が盛り上がらなかったため、斜陽を迎えているのだ。
「特別な男ってどんな人?」
それが詰めきれなかった。
松田聖子 時間旅行

さて、女は皆同じ(アタナシウス派)という立場から生まれる「版権」の巨大さは理解してもらえたと思う。
また、特別な男がいる、特別なセックスがあるというアリウス派の志も理解してもらえたと思う。
ここで、アタナシウス派の論客は「カント」であり、アリウス派の論客は「ラッセル」であることを明らかにしたい。
カントは、1781年に純粋理性批判によって「現代社会」というものをもたらしたが、「女が失恋した理由」というビッグマネーによってそれは実現した。
アタナシウス派が先行する形で、気持ちいいセックスを探求してやろうというアリウス派が挑戦した形となっていた。
歴史的に見れば、「松田聖子の方が新しい」と言ってもいい。
アタナシウス派とアリウス派の対立は壮大なスケールを持っていた。
「この論争以降、どのような研究をしたらいいのでしょうか?」という人もいた。
「カント」「ラッセル」の存在は真理であるとしても、それを踏まえて、エッチな話を「創作し」「人に話す」以外に「出世の方法」はないんじゃないの?と言われている。
どのみち、「セックスしている時はどの女も本気」である、とされている。
愛してジャスティス ribbon

しかし、ときには「知恵と力を生み出すために、他の男の声を聞いて見たいわ?」と女は考えている。
真夏のフェミニスト ribbon

まあ、「学問の方向性」さえ理解していれば、警察だって一目置く男にはなれるだろ。
「知るってどういうことですか?」
カントとラッセル以降は、かなり創作に頼ったものになっている。
カントがナポレオンならば、ラッセルはヒトラーだ。
あとは自分たちで生きていくしかない。
「考え方」が分かったら旅行するのもいいんじゃないか?
また、我々の祖先が「どんな議論を戦わせたのか?」が理解できれば、日常を省みるのもいいことかもしれない。
「恋人たちの秘密」って何ですか?
rebecca when a woman loves a man

少なくとも、アメリカイルミナティは、「今後とも我々は発信をし続けるだろう」としている。
日本国はまぎれもない先進国だったのだ。

さて、カントとラッセルがこのような議論を提示してから、オーストリア・ハプスブルク家のカルナップが、「恋をやりなおそう」と言って、既婚者の理論(パラダイム)ではなく、独身男女の理論(デシプリン)を主張した。
斜陽を迎えたハプスブルク家の「娘たちのセールス」が問題となったのだ。
ハプスブルク家こそが「中森明菜の誕生」をもたらしていたのであり、「松田聖子の向こうを張った」だけのパワーブローカーが存在したのだ。
「女の子は男の子と同じ時期にマスターベーションを覚えているって知ってる?」
その登場は衝撃的だった。
少女A 中森明菜

エッチなビデオを見て「女が嫌がっている」と考えているのかしら?
それは「女心」を知らないわね。
それが私の「恋の悩み」になってしまうわ?
十戒1984 中森明菜

ここで、「松田聖子」はパラダイムを語り、「中森明菜」はデシプリンを語ったのではないか?
という「新思考」が構築された。
カルナップは、「自らの地位を守るために娘を利用し始めた」「リア王よりマシなレベル」と酷評された。
しかし、「お父さん以外の男性に初めて裸を見せる」ことをセカンドラブと呼んでからは、安定的な人気を誇った。
中森明菜 セカンドラブ

とにかく、カントとラッセルの「アタナシウス派とアリウス派の対立」「巨万の富」をどうにかしようと思ったのだろう。
中森明菜は、明らかに独身男女について歌っていたし、松田聖子よりもはるかに「難しい」作り方をしていた。
それでいながら、明菜と聖子は、左右対称とまで言われたのだ。
聖子ちゃん派は、むしろ「結婚する気がない」とまで言われた。
自分を積極的に「売り」に出してきたのは明菜ちゃん派だったからだ。
デシプリンの結論は、「彼氏が子供に興味を持ってくれるのかな?家庭に縛られるのではないかな?この二つだけで朝まで眠れない」というクライマックスを迎えた。
中森明菜 禁区

さらに、中森明菜は、「どんな経験豊富な女でも、教授の前ではウブな側面を見せる」と言って、「学者の家系」に結婚相手を探したりもした。
快楽主義的に生きても「失うものはあまりない」としたのだ。
このへんは、アタナシウス派・アリウス派の「結婚談義」とは距離を置いていたが、なにしろ「聖子ちゃん派」には「結婚するつもりのない男女」が多く、むしろ分析哲学の観点から「女の嘘」を見破らなければならない。
中森明菜 二分の一の神話

とにかく、ハプスブルク家・中森明菜は、「若さ」を売りに出してきたのは事実だ。
しかし、なにしろ「娘たちをセールスにかける」というのは攻撃的すぎた。
開票速報が出た。
松田聖子50%
中森明菜32%
松田聖子当確。
カルナップの完全敗北だった。

東京砂漠というところは「フェアなゲーム」が行なわれるところだ。
ハプスブルク家・カルナップ・中森明菜のキャリアはまだまだこんなものではなかったことは周知だろうが、結論から言うと「敗北」であった。
中森明菜 サンドベージュ

しかし、キリスト教史に名を刻むとは素晴らしいではないか?
アタナシウス派とアリウス派の抗争を知っているものたちは、明菜の善戦に称賛の声を惜しまなかった。
「敵が多かった」と回想する女もいた。
リベンジポルノが出てきて真っ逆さまに落ちるとか、とにかく「攻撃的すぎた」という敗戦の弁が出たが、カルナップが暗殺されなければ、ナチスドイツはオーストリアを占領することはなかった。
ヒトラー・アリウス派との「直接対決」には数字が出たが、「領土問題」にするにはカルナップは危険すぎた。
中森明菜 デザイアー

キリスト教の文脈ではないのに、突如として現れた「スター」に対して、「カルナップって誰?」という噂が飛び交った。
「第一次世界大戦で心に傷を負った人」という正体まで明らかになった。
オーストリア・ハンガリー帝国の滅亡を「ユースムーブメント」で目撃していたのだ。
カルナップは、ジャーナリズム班にいた。
ユースムーブメントではカマも掘られたらしい。
「知性の前でしか泣けない」
そのように語ったが、知性の前ですら泣けなかった。
飾りじゃないのよ涙は 中森明菜

カルナップは、のちにヴィトゲンシュタインの写真集に「女装して」登場し、日本には「ハプスブルク家には男として生きることが宿命づけられた女がいるらしい」と伝わった。
ベルサイユの薔薇

 
ベルサイユの薔薇、それは中森明菜の物語でもあった。
ギリシャ人はエチオピアを旅すると恋に落ちるという伝説を知っていた。
しかし、「体が貧弱な」男はカマを掘られた。
女の子になりたければ、旅行費用を稼ぎたければ旅に出てみるといい。
中森明菜 北ウィング

カルナップは、俺が女だったら歯の数が少ないはずだ。
言葉も不自由だし、出会った人に言葉が追いつかなければスローモーションになる。
見たもの全部が「運命」なのが女だ。
と説明し、自らは男であることを明らかにしている。
中森明菜 スローモーション

ヒトラーは「レーム粛清」で知られているように、極端に「男色」を嫌った。
少年が「カマを掘られるのではないか?」と恐れてリストカットしてしまうことを熟知していたのだ。
ヒトラーよりも「イカれていた」のがカルナップであり、松田聖子よりもイカれていたのが中森明菜だった。
「少年愛」を歌ったこともある。
中森明菜 サザンウィンド 

キリスト教は、「あくまでも宗教である」とし、「男らしさを語り合う論壇である」と説明し、クインなどは、カルナップから目を背け「クジュー?クジュー?」とかなり差別的な表現(Lと呼ばれる)を行っている。
キリスト教社会の「鬼っ子」でありながら、それでも人々はカルナップを忘れることはなかった。

ジェンドラーは、「眠れる森の美女」を考えたが、ケンドール・ウォルトンは「フィクションでしか成り立たないのではないか?」としていた。
布団をともにする感覚は味わえても、それすら「フィクションに過ぎない」とされたのだ。
「眠れる森の美女」を取り巻く「周囲の男たちの暴力」はこの程度では済まなかった。
高速道路で、接触事故が起き、男二人が大喧嘩を始めただけで「事故による渋滞」が起きる。
松田聖子のキャリアはもはや「渋滞を起こしてはならないもの」となり、「寝起きドッキリ」すら「フィクション」であるという権力を身につけていた。
中森明菜には「寝起きドッキリ」すらないほど鬱がひどかったのだろう。
みんなが「女性アイドル」に恋をしていたため、「誰が一番優しく接するか?」を競い合った。
「ハイウェイアクシデントすら起こしてはならない」
それが、メディアの寵児たる女たちであり、
「オフィシャル以外では肉声は聞けないもの」と扱われた。
「渋滞すら起こしてはならない立場」「もはや国策」となっていたため、松田聖子は「ぶりっ子」と陰口を叩かれた。
寝起きドッキリ 松田聖子

 
実際に、岡田有希子の場合は、「男二人が大喧嘩になって、岡田有希子本人が木刀で撲殺される」という末路をたどっている。
このようなことは二度と起こしてはならない。
このことから、女性芸能人の「結婚相手のミスマッチ」が起きたのだ。
松田聖子にとっては郷ひろみや神田正輝ですら「ミスマッチ」だった。
中森明菜は、リストカットを繰り返した。
中森明菜にとって近藤真彦すら「ミスマッチ」だった。
女が失恋した「言い訳」を富に変えようとしたアタナシウス派のカントは「愛し合いたければ自由で対等と書いておけよ!」と吐き捨てた。
このカントの捨て台詞は今では日本国憲法に「両性の合意のもと」と記されている。
日本国憲法も「アタナシウス派」に立脚していることは理解しなければならない。
しかし、「信教の自由」において「女は神の子」とされ、勃つ男を奪い合う自由が認められている。
信教の自由はジョン・ロックが考えたものであり、アリウス派に立脚している。
日本国憲法の沿革は、カントとロックの大喧嘩であり、メディアの寵児である女たちのキャリアに「大渋滞」を起こしかねなかった。
吉田茂は「アメリカに押し付けられた」と言って巧妙にアタナシウス派とアリウス派の双方の富を憲法に書き込んでしまった。
愛が止まらない Wink

結婚(カント)と恋愛(ロック)は違うスポーツ。
それを吉田茂は認めていたのだ。
カントの言うことは「パラダイム」と呼ばれ、ロックの言うことはデシプリンと呼ばれた。
女たちは、結婚をすることによって「先生」をロックからカントに変えなければならなかった(パラダイムシフト)。
そこで、「幸せだけど迷いがある」という表現がなされた。
松田聖子 チェルシーホテルのコーヒーハウス

もっとも、カルナップは、日本国憲法第一章に「天皇」として記され、中森明菜をなんと日本国憲法のトップに持ってきている。
「娘をセールスにかける君主」
「攻撃的な女たち」
「おカマ」
「青銅の蛇」
日本国憲法における「天皇制」は、スタートから「敵が多い」ものとなっている。
しかし、神道形式の「お祭り」は、地域の人脈を固めるために用いられ、根強い支持もあった。
中森明菜 ミアモーレ

さて、日本国憲法第一章に「カルナップ」が採用されたと言ったが、当然、時代は「昭和天皇」の時代であった。
松田聖子も私も「昭和天皇の孫」という関係にある。
しかし、松田聖子は、アリウス派としてキリスト教異端論争の渦中にあったし、天皇制を支えたのは中森明菜であった。
そこで、昭和天皇の晩年にハレー彗星がやってきて「バブルと戦争」の不安を人々に与えたことを指摘しなければならない。
「原罪(女の胸や尻)と女はマンガ」ということをフルに活用した「おニャン子クラブ」の誕生である。
おニャン子クラブのメンバーは「中森明菜さんの楽屋に挨拶に行ったらカーテンを思い切り閉められた」と語っている。
「天皇制を支えているのは私」という思いと、それがハレー彗星によって「おニャン子クラブ」に取って代わられたと言う意味合いを持つ。
おニャン子クラブは、ファーストアルバム「キックオフ」でいきなりホワイトヘッドという哲学者を歌い始めた。
「小学生の女の子は、男の子の数で数字を覚える」と言うことを歌ったのだ。
いじわるねダーリン おニャン子クラブ

昭和天皇の「愛」が中森明菜からおニャン子クラブへと移っていくのがわかった。
マンスフィールド駐日大使は、このような「日本のあまりにもオープンな芸能界」の危険性を感じ、1990年代に「アイドル撲滅」という活動を日本で行い、1996年には「アイドルを潰し切った」と言われた。
安室奈美恵などは「マンスフィールド好み」のコンテンツであり、アメリカイルミナティの管理下のもとで活動を許されていたに過ぎない。
さらに、昭和天皇は「制服とは世代間セックスの禁止のためにある」とし、株価を釣り上げるために、女子高生の恋愛マーケット参入を抑え込んで「女の供給」を止めたが、なにしろ相撲が好きだったものだから、「お相撲さんが肉体をぶつけ合うのを見た後は別」とし、女子高生を相撲観戦に連れきた「おじさん」にだけは世代間セックスを許した。
このことが、「大相撲」のセールスを伸ばした。
おニャン子クラブ 愛の倫理社会

私は、1987年にアメリカに留学しているが、メンバーの中には華族子弟や、おニャン子クラブのメンバーがいた。
立見里香や、富川春美などがいた。
みんな、まだ16~7歳の頃で、子供だった。
富川春美などは、恋愛お見舞い申し上げますという曲を「自分の教科書」だと思い込んでいて、私に気があったらしい。
恋愛お見舞い申し上げます おニャン子クラブ

日独伊三国同盟の解消と、「日本とアメリカ合衆国は同盟関係にある」という認識は、昭和天皇が「おニャン子クラブのメンバーをアメリカに売った」ことから広まった。
それまでは「日米友好」と発言しても、大して「理解力不足」は指摘されなかった。
早すぎる世代 おニャン子クラブ

 
おニャン子クラブを昭和天皇が「アメリカに売った」ことから、他の女たちも続々とそれに続き、「妻にするなら日本人女」という発想にしたがい「円高」が止まらなくなった。
私も「円高にするのならばAKBグループ、坂道シリーズをアメリカに売ればいい」ことは理解している。
円高・株高・土地高の「トリプル高」のキーワードは「制服」「おニャン子クラブ」にあった。
しかし、私は、アメリカで、一見豪胆な女に見える立見里香が泣いているのも目撃している。
バブル経済の負の側面だった。
セーラー服を脱がさないで おニャン子クラブ

アタナシウス派とアリウス派の論争も、まだまだ可能性が残されているし、「天皇制」にも可能性は残されている。
しかし、いかなる政府の仕組みも永続的なものではない。
この「バブル経済の引き起こし方」には「負の側面」もあるし、子どもの人身売買のようなものをともなうものであり、
それを「AKBグループや坂道シリーズに?」というと日本の男子が黙ってはいないだろう。
しかし、オーストリアのカルヴァン派アイドルは「ベルリンに売られた」し、昭和天皇は「大島駐独大使が靖国神社に祀られたのは容認できない」と言った理由をよく理解しなければならない。
大島浩こそが、バブル経済の引き起こし方を昭和天皇に教えたのであり、晩年の老醜は、大島に教わった通りの行動をとっているではないか?
FENを聴かせて おニャン子クラブ

カルヴァン派は、ジュネーブかオランダが拠点だ。
大島浩駐独大使が目撃したのが「チューリップバブル」であり、女を「花」に例えるのは当然とも思われる。
平成生まれの「5割は生涯独身」「7割は孫なし」と言われる。
おニャン子クラブの音楽作品の共通項は「独身女の歌」(デシプリン)であり、ようするに「既婚男女の恋愛論」(パラダイム)の基本である「なんか食うか?」が言えないのである。
シーッ愛はお静かに おニャン子クラブ

「平成の時代に、口説き文句を売って生計を立てていた作家はいなかった」
町田康だの山田詠美だのが幅をきかせて、ようするに「つまらなかった」のだ。
全米作家協会に比べて、日本語は文字の正確性を失っていた。
ようするに「アメリカの堅い書物(石)をパンに変える」能力だけが必要だったのだ。
マルクスは「食い物に困ったら工場の前をたむろしろ」と語っている。
つまり、企業に「口説き文句」を売りつける能力が「石」からもたらされる。
「なんか食うか?」
それだけを女は欲していた。
おニャン子クラブは、デシプリン(独身男女)の歌は歌ったが、結局、平成の「失われた20年」は、マンスフィールドなどによる「アメリカの経済制裁」のもとにあった。
情報源さえ閉じれば、日本は壊滅する。
日本の「博士論文」を読んで愕然とすることもある。
真っ赤な自転車 おニャン子クラブ

おニャン子クラブという存在に、昭和天皇が愛情を持つようになった理由は、
「若い連中がみんな聴いていた」
というところにあり、それは秋元康氏の才能というしかない。
中森明菜よりも「天皇制にとって必要」とされた理由は、「解釈論が抜きん出ていれば周囲の見る目が変わる」ということであり、「松田聖子」がその代表例ではあるが、
「男の序列は女が決める」
ということのポテンシャルは「実はおニャン子クラブの方が上」と昭和天皇は考えていた。
なにしろ、今まで「誰も解釈論をやったことがない」のだから、私もそれを試みてみたい。
独身男女の特権は「恋」ができることにある。
恋とは「仲間が多い、何かやってくれそう」な男に女がするものだ。
思春期の男の子は「女ならば誰でもいい」という側面がある。
その人の持ち合わせているものに感性が弱いから恋をするとも言われるが、
勉強が好きな男の子は成績優秀な女の子に、スポーツが得意な男の子は、「美人な女の子に」という具合に、「自分が溶け込みたい世界」に異性が自然に導いてくれる。
それは、「感性」という他はない。
「恋はマメにして」
伸び盛りの男の子に、女の子はそのように語った。
おニャン子クラブ ポップコーン畑でつかまえて

より制御され、出世する男ほどセックスの時に暴力をふるう。
暴力をふるわれた女の子は、「神・占い」を語るようになる。
彼氏は成績がいいか、スポーツができるかのどちらかだったが、女として従属するかわりに「神さま・占い」を支配して男の子をコントロールしようとした。
彼氏に将来があることは知っていたけど、それが男女の「カタチ」なのだろう。
星座占いで瞳を閉じて おニャン子クラブ

昭和天皇は、丸山真男というペンネームを持っていた。
ポツダム宣言というのは「8月革命なんだよ」と丸山はのちに語っている。
1945年の「夏休み」に日本国民全員が「夏休み」と社会契約を結んだ。
あれほど泣きながら受諾したのに、まるで宮迫だ。
夏休みという「社会契約」を「8月革命」と呼ぶのならば、これを制するものは「9月の総裁選」を制する。
「8月革命説」を知らない自民党代議士は存在しない。
芸能界にビッグマネーが流れれば、「手を上げる」ことになる。
夏休みは終わらない おニャン子クラブ

予算編成は、「高等師範学校」の4月入学、に合わせる形で国会で審議される。
「政府が与党と相談するのは当然のことである」(中曽根康弘首相答弁)。
3月にも「社会契約が終わる」ことから永田町や週刊誌で「4月危機」が煽られた。
卒業ソングを仕掛けてやろうという土井たか子社会党書記長は毎年のように「解散は4月に」と発言していた。
「芸能界のヒットソングを仕掛けてやれ」という意味である。
「4月危機」を恐れない内閣総理大臣はいないし、「与党と相談」する理由もここにある。
春一番が吹くころに おニャン子クラブ 注)この年の9月に「中曽根裁定」によって竹下内閣が樹立している。
昔の「デカイ政治」も今は「週刊誌の期待感」だけで終わっている。

キャンパスに入ったら「もう大人」である。
セックスも解禁だ。
子供の「性」の問題は、孫ができるまで「両親を混乱させる」ものであるが、どの専門分野でも「女心」を知らないと研究資金を引っ張ってこれない。
研究資金を引っ張ってくるのが上手い人を、「歴史」に残していた。
研究資金を引っ張ってこれない人は「なんでかな?」と思ったが、ようするに「恋愛論」に詳しかったり、「女の口説き方」を売るのがうまいのだ。
女の口説き方は知っているけど、キャンパス以下の子供には興味ないよ。
アンブレラエンジェル おニャン子クラブ

日本国の「学校知」の出口は大学受験だ。
しかし、女の子には特に「数学」が分からない。
男の子にはそうではなくても、女の子には「時間切れ」ってあるのよ?
No more 恋愛ごっこ おニャン子クラブ

卒業した後は「ダンテの神曲」の世界。
都会に出るあなたを見送って、それでも私は元のままでいられるかしら?
大学であなたは「女心」を知り、私は「男」を知る。
男を知った私ですら受け入れてくれるのならば、あなたは故郷で有名な政治家になるのでしょう。
これがダンテの神曲。
河合その子 青いスタスィオン  

さて、詩の世界では「古典の詩は美しかった」「現代の詩は面白かった」と言われているが、実は「おニャン子クラブ」は「古典の詩」を歌っているのだ。
古代ローマ帝国の王室はどの家庭でも「滅びていく宿命にあった」とされる。
休みの日にはデパートの最上階のレストランで食事をし、二階建て住宅に住む、そんな「王室」が日本人の多数派だった。
ベビーブーマーは「古典の詩」を柱におニャン子台風を経験したのだ。
お先に失礼 おニャン子クラブ

「荒れる学校」なんてものは1970年代には鎮静化していた。
1980年代には「成熟経済」「金持ち喧嘩せず」が存在した。
1989年に、東大入試文系で「源氏物語」の「竹河」が出題されている。
7割の受験生が0点だった。
私もその中の一人だ。
紫の上の老後を描いたものと記憶しているが、「おニャン子クラブが分かるのならば解けるのにな?」という失望感を昭和天皇が抱いたであろうことは想像に難くない。
まあ、カネの心配をしないのならば、「大人の言うこと」は理解できないし、「女心を売っているんだぞ?」という「大人の事情」も真面目な受験生には理解できなかった。
「ベビーブームの時に日本国は古典を柱に乗り切った」と表現することは可能だろう。
つまり、おニャン子クラブは、「原始キリスト教」という側面があり、「誰にもその実態が分からない」ものなのだ。
ベビーブーマーは、ルソーの「社会契約論」にしたがって育てられたのではないか?
という指摘は可能であるが、それでも
「昔々、我々の祖先は社会契約を結び・・」
という説明は可能であるし、私は、おニャン子クラブ=原始キリスト教という立場をとりたい。
なにしろ、ルソーは「カント以降」「アタナシウス派以降」の人物だからである。
じゃあね おニャン子クラブ

ルソーは、「君主への弁明(感謝)」と「人と人はお互いに依存し合いながら生きている」(人)ということを柱に、どのように「本格派」の人物像を作り上げるかを探求した。
自由で対等な「市民」として、かなり「破壊的に」目的を達成させるという発想も持っていた。
自分と世界はあまりにもかけ離れているのが子供である。
ジュネーブのカルヴァン派の街に生まれ、基本的にはフランスで「カトリックの牧師」になるための教育を受けた。
楽器に造詣が深かったことが、のちに「おニャン子クラブ」を生み出す理由となっている。
ジュネーブでは、カルヴァン派がストイシズムの観点から彼の「社会契約論」を憎んだとされる。
適当に勉強して、適当に「卒業式」で晴れ着を着る連中が許せなかったのだろう。
しかし、ルソーは「人間同士がお互いに制約し合いながら、最後に自由になる」という社会契約論を「これが教育である」としている。
「社会人」とはそのように生まれるものだ。
私は、司法試験を受けていた頃、元クラスメートに「俺は社会人だから」とよく自慢されたが、「社会人」とは、「教育を受けた」「社会契約論を知っている」存在であるということは明確にしておきたい。
つまり、「このまま時が止まってしまえばいいのに」というような青春時代を「終えた」という意味である。
ルソーは「女心」をアリウス派やアタナシウス派ほど深くは掘り下げていない。
どの男の子もが知っている「一般意志」の構築を行ったのであり、そもそもアタナシウス派のように「女の子が失恋した理由」による版権や、
アリウス派のように「特別な男である」ことをセックスに求めることもなかった。
なにしろ、中学生・高校生相手の仕事だ。
「一般意志」の構築だけで十分だった。
昭和天皇が、中森明菜よりもおニャン子クラブのほうに軸足を移したのも、「そういう時代だった」というしかない。
横浜駅には「チェッカーズ」の真似をした服装をした男たちが大勢おり、かなり集団的に動いていた。
子供が多すぎる、異様な世相、誰が、私の東大合格を信じたであろうか?
瞳の扉 おニャン子クラブ

基本的に、ルソーは「天皇だろうが首相だろうが、国民の心の風景を作り出す存在は誰だっていい」と考えていた。
いわば純粋代表制である。
社会契約論はもはや国民の心に根付いていた。
社会契約論を歌って、天皇とも社会契約を結ぶ、それは「誰がやってもいい」ものだった。
どのみち「8月革命説」「4月危機」を理解しなければ、政治家としては大成しないのだ。
平成天皇は「忘れてはならない日」を四つ挙げているが、私は「4月」「8月」の二つのマネーを見ている。
福山雅治 桜坂

 
「4月」「8月」を制したものが通常国会・臨時国会で金にものを言わせ法律を作る。
新聞の社会面を見て「俺のルール」を国民に押し付け、支持基盤を盤石にするのだ。
松田聖子 制服

「このまま時が止まればいいのに」という子供の心理を持ち続け、社会契約論と決別できない男を「モラトリアム人間」と呼び、プロデューサーなどの才能があるとされた。
率直にいうと、「教育の目的は文字が読めるようになること」に尽きる。
さらに「外国語ができるようになればなおさらいい」と考えられた。
「子供に翻弄される教育」が一番好ましくない。
「俺が食えと言ったら食え、俺がクソをしろと言ったらクソしろ」というのが一番前向きだ。
教育とは「人を変えようとる営み」である。
私は、アメリカでよく新聞を読んだ。
レーガンはそのことを高く評価し、新聞の一部に必ず「レーガンレガシー」(レーガンを継承するもの)という小さな文字を入れていた。
クリスマスの時に、ロサンゼルスの教会のミサに参加したが、「レーガン大統領も来ている」と噂になったものの、なにしろ会場がデカすぎた。
メリークリスマス・フォー・ユー おニャン子クラブ

さて、「おニャン子クラブはルソーが作った」というだけでは説明しきれないものがあることが、明らかになった。
やはり、おニャン子クラブは「原始キリスト教」であり、「イエスの肉声に最も近いもの」であり、それでいながら「アタナシウス派」「アリウス派」ほど練られていないものと解するのが正解のように思われる。
これを「バカバカしい」と思うのが通常の人間のリアクションであり、しかし、「子供たち」を愛することができる能力には恵まれるだろう。
アインシュタインは、子供のいない人を「一般」と呼び、子供のいる人を「特殊」と呼んでいる。
「特殊な人しか理解できない」とはこのことだ。
恋はくえすちょん おニャン子クラブ

さて、話は平成に入る。
平成になると「目的を持つのはいいことだ」「人間らしい」と平成天皇が考えていた。
「目的を持つのはいいことだ」
その発言に「マルクス主義」「カトリック」の双方から「天皇制批判」がなされた。
マルクス主義に立脚するのが「ribbon」であり、カトリックに立脚するのが「CoCo」である。
マルクス主義は、「目的なんてクソくらえ」と思っていたし、カトリックは、「目的を持った男を病気にしてやろう、人生を邪魔してやろう」と考えていた。
ribbon 3つの願い

 
目的を持つのは人間らしい(ヒューマニズム)と言っても、そのことに批判的なマルクス主義者はいたし、純潔女(カトリック)の側も、それなりの思惑があって動いていた。
「夢だけ見てる」と歌って「エネルギーを与えたい」のか「男を病気にしたい」のかは明らかではない。
CoCo 夢だけ見てる

彼は「私という女」そして「絶対」、私は好きに生きるわ?
女はそのように考えて「ひとり上手」をやっている。
ribbonは、マルクス主義の立場から「ひとり上手」とまでアイドルらしからぬ歌を歌った。
ribbon さよなら

CoCoは、カトリックの立場から、「目的を持った男」を歌っている。
普通なら「女は皆同じ」というアタナシウス派の立場から「なぜ私ではいけなかったのだろう」と表現したり、アリウス派の立場から「彼氏がどれほど特別な男だったか?」を歌いたいところであるが、なにしろ「カトリック」なのだ。
「幼い恋」とでも言ったらいいのだろうか?
CoCo さよなら 

さて、アタナシウス派の女性アーティストは、私は個人的には存じ上げないのだが、アリウス派は松田聖子、ハプスブルク家は中森明菜、原始キリスト教はおニャン子クラブ、マルクス主義はribbon、カトリックはCoCoと言わせてもらった。
私は個人的には「CoCo」のコンサートにはよく行ったが、「女はほとんどいない」のが会場の実態であった。
「カトリックは男だけの社会」となっていたのであろうか?
「目的を持った男を歌った」カトリック(会場の映像あり)。
CoCo 夏空のドリーマー

カトリックの奥義(おんなじ輪の中をくぐりましょう)。
CoCo サーカスゲーム

さて、「セックスに税金を課して、財務省が税収を得て、各省庁が所得再分配をする」というデカルト主義や、女の失恋の「言い訳」という巨大な版権を基盤とする新カント派、つまり「デカルトによる中世の終わりと近代の始まり」「カントによる近代の終わりと現代の始まり」を踏まえて、「人間というものはどうしてもひとつにならないものだ」というベルグソン主義にしたがうのならば、人間は「努力しなければならない」「目的を持たなければならない」こと分かる。
若さを無駄にする時期に、「大人とはこのようなことを考えているものだ」ということが示され、「大学の4年間では無理じゃないか?」と語られた。
カトリックの側は「頑張って?」と言った。
CoCo LiveVersion

 
CoCoは、カトリックの側から、これらの学問体系を学ぶことを応援できたが、マルクス主義の立場からは、「性欲の起源を政府首脳に売りつけて、国家予算をもらってしまえばいい」ということから、ribbonは、もっと大学生活は遊ぶものだ、と主張された。
革命というものは、カトリックが構築した政府の仕組みを「全部乗っ取ってしまえ」というあんがい安直なものだった。
しかし、マルクス主義にも、豊かな文化が育まれていった。
「千手観音から始まる曲」
ribbon サイレントサマー

西側(処女・高貴さ)と、東側(共産主義)の対立が、CoCoとribbonの間でエンターテイメントとして行われた。
両陣営とも「楽しくなければならない」という意味では同じであったが、CoCoは木綿のパンツ、ribbonはシルクのパンツなどと表現するものもいた。
また、カトリックは、国家統治の全体像を理解しなければならず、マルクス主義は、「女」というものを熟知していなければならなかった(唯物論)。
ribbon 哀しい方の嘘

1991年にソ連が崩壊した。
革命のやり方は分かっても、どのように国家を運営するか?という意味ではどちらの側もたいして違いはなかった。
「いじめのない社会」を目指したりもしたが、それは「カネ、競争」をなくすしかなかった。
「目的を持っている男をどう思うか?」
それは「いじめの温床に過ぎない」とした。
左翼というのは「革命以降」を見るのならば「カネ、競争」のない世界を志向したのであり、また、「処女・高貴さ」も歓迎されなかった。
CoCo Newsな未来 

また、「カネ、競争」の背景には「人ごみ」があるとキルケゴールは考えていたことから、人ごみを排除することもマルクス主義は考えた。

「カネ、競争、人ごみ」こそが「繁栄である」とするのならば「いじめの容認」をすることになる。
「繁栄と豊かさ」
我々はあまりにも人間的過ぎた。
ミスターチルドレン トゥモロー・ネバー・ノウズ 

「カネ、競争、人ごみ」は、繁栄の象徴であるが、しかし、「いじめの温床」でもあった。
ポストモダニズムは、繁栄と「いじめの撲滅」の二つを求めていかなければならない。
これを、CoCoとribbonから天皇制は学習し、コロナウィルス騒動の「三密」などは「豊かさの象徴」でしかないと考えられている。
ポストモダニズムの時代は繁栄と「いじめの撲滅」がテーマとなるだろう。
ここで、ribbonの歌う「男」があまりにも軽薄であり、CoCoが歌う「男」があまりにも真摯なものであることを感じなければならない。
「処女・高貴さ・繁栄・人ごみ」+「いじめ」の世界には「神」が存在するのだ。
「いじめのない世界、カネ、競争のない世界」では「男」が表情を変えることはなく、「神」つまり「太陽の10倍輝いた、面白い星」は、マルクス主義の世界にはないことを悟るのだ。
女の子が、「神」を信じるかどうかは滑りやすい坂道であり、「レイプ」と「女嫌い」に直面するだけで、転んでしまう。
CoCo 冬の微粒子

そもそも「夢」を持つことってなんで必要なのだろうか?
「男の子が男になり、女の子が女になる」ために必要なのだ。
健常者であるためには「目的を持たないことが必要である」とされている。
しかし、「繁栄と豊かさ」には、「病気」がともなうようになった。
「栄華に奢るものよ、薬を飲め」
そこで「神」を信じるものたちは、給料の12%を社会保険料として差し引かれている。
アメリカでは教会に「給料の10分の1」を献金している。
「神・男の完全性を議論すると爽快感がある」
その背景に「夢を持つこと」があり、繁栄と豊かさがあり、病気がある。
CoCo ちいさな一歩で

ソシュールは「神」がいなければ「言語」が発展しない、とした。
「悔い改めよ」とは「失恋した」という意味であり、女たちは失恋することによって「言語」を生み出してきた。
アタナシウス派のいう「版権」とどのように違うのかは明らかではないが、「女たちの夢と夢がぶつかり合った隙間」を利用しているとされている。
英語は「言語の戦い」で勝利を収めた。
私も参考文献はすべて英語であり、日本語媒体はほとんど信用していない。
CoCo 何かが道をやってくる

さて、CoCoとribbonに関しては、1994年にribbonが活動を停止し、CoCoは、「ファイナルコンサートツアー」を成功させ、解散した。
解散というものは「批判に耐えきれずに行う」ものであるという意味においては内閣総理大臣による衆議院解散と何ら変わるところはない。
1995年に、平成天皇はこのことから求心力を失い、阪神淡路大震災を引き起こしている。
さて、この後、実は日本国で「魔女狩り」が横行したのだ。
CoCoの三浦理恵子と羽田恵里香が本当に、彼女たちのキャリアに渡って処女だったことが知られている。
そこで、登場したのが「ルター派」であるSPEEDであった。
SPEEDは、「神を信じろ」「両親を敬え」「隣人の妻を犯すな」という三つをキャッチフレーズにしていた。
アタナシウス派とアリウス派の抗争に関与した松田聖子や、ハプスブルク家をバックにした中森明菜、原始キリスト教を基盤にしたおニャン子クラブ、カトリックを基盤にしたCoCo、マルクス主義を基盤にしたribbonとは、まったく「発想」を変え、魔女裁判以降の、「ルター派」に立脚したのだ。
ルター派は、「有名になると(善)なぜいじめられるのか(悪)」という問題意識を持っていた。
神にしたがって「エネルギーを高める」しかなかった。
コンサートの収益などほとんどなかった。
ただ、CDのセールスの富からいじめられるのを防ぐためにコンサートをやった。
有名になるといじめられる、それを打倒するために声を張り上げるというギリギリの線を芸能人は辿っていることが明らかになった。
SPEED Body & Soul

「神を信じろ」「両親を敬え」「隣人の妻を犯すな」の三つを柱に、1995年から2000年までの間をSPEEDは君臨した。
人々はここで「王朝のような生活」を楽しんだのだ。
「ラブレボリューション」というのは「結婚に愛がともなうようになった」「結婚するためにはお金が必要」ということを意味する。
魔女狩りの後に「どう見ても処女」と思われる女の子たちが歌を歌うのは必然であった。
マタイ3:2 女たちよ、失恋せよ。王朝の前で富を謳歌せよ。
ヨハネ5:7 私は病んでいます。お金が欲しいのですが、富の前には、私はさらに病の中を突き進まなければなりません。
時代は、ノスタラダムスの予言のように、貧しくなっていくのが分かったし、就職氷河期もあり、「ルター派であるSPEEDが歌わなければ国にお金が循環しない」と言われた。
とにかく、カラオケで歌うのも難しいことを私も体感した。
SPEED Steady

人々は「世紀末」という「存在しない暗闇」に怯えていた。
「20世紀」という巨大な「社会契約」から自由になろうとしていたのだ。
実際は大した「仕事」はしていなくても、SPEEDが歌うだけで、国からお金が流れてきた。
私も、有斐閣の「法学教室」という本を読み始め、「本当の学問ってなんだろう?」と研究を始めた。
1999年にマジソンスクエアガーデンでホリフィールド対レノックス・ルイス戦が行われ、私は「インターネット」というものを世界に知らしめた。
「存在しない暗闇」に光が見えた。
私は「カリスマ」と呼ばれ、モーニング娘。(ツヴィングリ派)がブレイクした。
世紀末とは「20世紀」との社会契約があまりにも偉大だったため、危険な綱渡りだった。
政府内部でも私および「インターネット」の存在に楽観論が見え始めた。
モーニング娘。ラブマシーン

一方で、アメリカイルミナティの申し子である安室奈美恵は、「最下層の婢女でも夢が見れる」ことを明らかにしていた。
安室奈美恵もルター派に位置付けることは可能であるが、「存在しない暗闇」に向かってSPEEDとともに突き進んだのだ。
マンスフィールドが「日本国アイドルを潰し切った」のは1996年のことであるが、かなり「世紀末」に悲壮感が漂ったことは「平成の記憶」として覚えておきたい。
モーニング娘。21世紀

日本国は、21世紀を迎え、戦後最長の好景気を経験した(いざなぎ越え)。
背景には常に「モーニング娘。」(ツヴィングリ派)がいたし、その資金の動きは「中国からお金を大量に流し込む」という仕組みであった。
このことを「スポイリング・エジプト」と呼び、私も一定程度のお金を背景に、哲学の研究に打ち込む余裕ができた。
モーニング娘。がいなければ、私もこのような悠長な研究はしていなかったわけである。
田中れいな 愛の炎

さて、平成天皇はなぜ、円滑に即位できたのか?
それは「主権」と関わる問題であり、背後には私の祖母・遊佐道子(香淳皇后)がいる。
つまりは「酒井法子のプロデューサー」である。
私の父は、遊佐道子の「秘密のノート」を所持しているのを私は見たことがある。
父は「持っていくなよ?」と言っていたので、その意味は理解していたのだろう。
ノートにはイラストがあり、「美少女」が描かれていた。
電影少女とまで呼ばれた酒井法子だった。
日本人女はみんなこんな感じ。
それを中国に売り込んだ。
酒井法子 夢冒険

 
「日本人女はみんなこんな感じ」
これを「主権」と呼ぶ。
遊佐道子は、酒井法子に中国首脳までもが会いたがるのを見て、楽観的に
「光太郎にはもうちょっと勉強してもらおう」と考えていたようだ。
「日本人女はみんなこんな感じ」
それは、平成の時代にはいつしか「高橋愛」に移っていったが、誰が、デジタルイメージを描いたかは明らかではない。
芸能界で「例の顔」と呼ばれているものへの周辺国の人気を「主権」と呼ぶ。
高橋愛

主権というのは常に「神と処女」から構成されるものであることを神聖ローマ帝国は知っていた。
熱愛報道・結婚報道が流されるたびに、「例の顔」はどんどん変わっていった。
「日本人女はみんなこんな感じ」
それを、外国に売り込めば円高になるし、どの女も「神」の隣で「処女」を演じたがった。
命短し恋せよ乙女。
聖母マリアという概念を研究したイノセント10世は、「各国の聖母マリアたちの喧嘩になるだけだ」とし、ウェストファリア体制の危うさを指摘した。
言葉をバラバラにしよう。
そこには「夢・目的を持った男」だけではなく、カトリックは、「アイドルの存在は認めるが、実物の方が大事」として「主権」論争で
「例の顔」こそが国の強度であることを認めてしまった。
CoCoと酒井法子は、雑誌Bomb!の巻頭を7回飾り、これはカトリックと主権が双璧を成したことを意味する。
国を分けるのならば、芸能界というものは生まれざるを得ない。
酒井法子 ダイヤモンドブルー

「目的を持った男」「神」と「処女」は常に「主権」を持っており、天皇のような中年以降の人間にそれが務まるかは極めて困難な問題だ(天皇機関説排撃事件)。
「王子こそが主権者ではないか?」
そのように語られた。
王子様と雪の夜 タンポポ

処女と結婚するに至った王子(のちの天皇)は常に「歴史家」だった。
司馬遷のような「法家」は中国ではすでに常識として知られているが、「君主」=歴史家という発想は、アメリカ合衆国は21世紀になってから、その有効性を「発見」している。
実際に、私が大河ドラマ「麒麟がくる」に関する歴史観を語ってから「何か」が変わった。
コロナウィルス騒動の「真の意図」は今後、明らかになっていくであろうが、芸能界に頼り切った日本国の「超大型連休」なのではないだろうか?
松浦亜弥 ナビが壊れた王子様

さて、平成が21世紀を見た。
世紀末という「存在しない暗闇」を乗り越えて、いよいよ「ワールドカップ日韓共催」(サッカー)などのことを人々は考え始めた。
2000年にSPEEDは解散した。
その2000年にデビューしたのがPerfumeである。
コンセプトは、「インターネット上での女漁り」であった。
インターネットで発言している女たちはみんな「かしゆか、あ~ちゃん、のっち」の誰かに「似ている」はずだった。
ここで、主権、つまり「日本人女はみんなこんな感じ」というものはデジタル化とともにPerfumeに移った。
ネット上では「文字媒体」だけであったため「精子を生む人か、卵子を生む人か?」しかみんな興味がなかった。
そこで、男たちは「女に関する情報を集めた」のだ。
「育ちや、ヒステリーを起こすセリフ(地雷)、経歴、他の人たちの証言」などから人物像を特定していった。
その結果「かしゆか、あ~ちゃん、のっち」のどれかだろうとみんなが考え始めた。
「オフパコって楽しいぜ!」
一気にインターネット時代は花開いた。
Perfumeも、その趣旨をよく理解し「キミ、ボク」などという歌詞を多用した。
Perfume Game

インターネット上での女漁り、はいわば「キリスト教誕生前のユダヤ教時代」であり、教典は「ニコマコス倫理学」(ギリシャ哲学)であった。
男たちは、自分の所属する宗派を隠し、「女に関する情報」を集めた。
秋元康氏は「戦後の焼け野原」と語っていたが、つまりは「これからメシアが誕生しようとしている」というユダヤ教の時代だった。
男たちは、ひたすら「女漁り」をやった。
ユダヤ教の世界から「スポンサーと評論家」を頼りに多くのアーティストが出たが、それはニューヨークのデリカテセンのお金を背景に、ダンスをやってデリカテセンの利益を何倍にもして「ゴールドマンサックス」という銀行まで作ってしまった
ユダヤ人と何ら変わりはない。
ゴールドマンサックスは、アメリカ国防総省と結びついたが、Perfumeなどは「自衛隊」と結びついた。
「スポンサーと評論家が必要」であるという意味では日本のバブル期のゴッホと何ら仕組みは変わらない。
それぞれの男が「街にでないで」自分の部屋でワンルームディスコを楽しんだ。
Perfume ワンルームディスコ

1991年にイギリスで「女性を社会から守る会議」が行われたが、これがPerfumeの煽り行為で
見直されたのが2006年と2014年である。
「ネットの向こうにはいつも私たちがいるよ?」
Perfumeは、これを背景にセールスを伸ばし、世の中の男女を問わず、ネットに病みつきになった。
1999年に地上波のテレビ局が「インターネット」を公認した。
2001年に、「出会いの場が増える」ということを日本人が学習した。
2005年に総務省に「司令塔」が作られた。
「かしゆか、あ~ちゃん、のっち」を探していた男女の中で、特に女は「IPアドレス」を秘密にしたがった。
Perfume セラミックガール

 
このようは世界で「インターネットで人材募集」などが試みられたが、「かしゆか、あ~ちゃん、のっち」目当ての男ならば、「不採用」にする理由もなく、効率は良かった。
「自分に関する簡単な物語」が知られている人は、そもそも「ヘッドハンティング」されることがあった。
Perfumeを聴きながら、インターネットをやることそのものが「仕事」につながった。
インターネット時代とPerfumeは、ユダヤ教(すべての宗教の起源)であり、各セクトがしのぎを削った。
「かしゆか、あ~ちゃん、のっち」みたいな女がいるということからこのことは始まったのだ。
Perfume シークレットシークレット

小泉今日子というのは「真っ赤な女の子」「渚のハイカラ人魚」だけに絞ると「新カント派」の、メルブルク学派に属する。
つまり、「ミニにタコができる」「パンチラが好き」というものを海で学習した人もいるし、
真っ赤な女の子 小泉今日子

「隠れて着替える」ということを海で学習した人もいる。
渚のハイカラ人魚 小泉今日子 

すべては「グレースケリー」から始まっており、失恋したら「言い訳も考えずに海に行こう」というメルブルク学派と、「言い訳を考えよう」とした南西学派の違いが新カント派には存在する。
コートダジュールで逢いましょう 高橋由美子

 
グレースケリーは、私の「三浦海岸」のように「海」をセールスにかけた。
いじめられる「痛み」を中学の頃に知っていた私は「隠れて着替える」という「渚のハイカラ人魚」の影響を強く受けた。
いじめられる「痛み」と、女が失恋する「痛み」は同じであり、「言葉が豊かになる」とされている。
海岸線というものは、日本中、どこの海岸線も「人工的に」作られている。
めんどくさい「言い訳」など考えずに「海に行こう」と言ったのがメルブルク学派であり、そこにいる「女たち」に、子供たちは「性概念」を教わった。
海に住んでいると、「バクテリア」に腰をやられるため、ずっと住むのならば「酒」は必需品だ。
ヒトラーは、メルブルク学派からそのことを学び、マンハッタン造成を行っている。
(上海倶楽部)
上海倶楽部 松田聖子

陸でトラブルを起こした芸能人はみんな「海」に住んでいる。
そこで、「海」をセールスにかけないとグレース・ケリーにはならないのだ。
地元の人脈が変わってくる。

海では、このような「大人の女の事情」があり、男女の距離は極めて近かった。
また、三浦海岸は、フィヨルドともリアス式海岸とも違う、長い曲線ができている。
新カント派のメルブルク学派を理解したい人は、夏には三浦海岸にお越しください。
「現代社会」
それだけが海にはあるのだ。
体が鍛えられている「男」ならば「いじめ」を経験しているはずだ。
「女の失恋」の痛みも理解してくれる。
渚のピテカントロプス 酒井法子

また、どんな強者でも「男二人に女二人」でなければ「割り切れない」ことを知るだろう。
これは「基本法」と呼ばれている。
友達を誘って海に行くのはいいが、「一人で行こう」などと無謀なことを考えると、一日中、孤立を経験する。
避暑地の森の天使たち おニャン子クラブ

海の家の陰では「海岸デビュー」しきれない女の子たちがスマートフォンを見ているが、彼女たちも「一人で」海に来てしまったのだ。
一人で海に来てしまった強者は、海の家の陰の女の子を誘ってみよう。
あんがい、海の家の陰でスマートフォンをいじっている女の子たちは処女であり、どのみち、海というのは自分の「性概念」「政治的立場」を決めてしまう。
寡黙に筋力トレーニングに励んだらフィジカルアトラクションは身につくだろうが、友達がいなければケミカルリアクションは起きない。
新カント派は、女性アイドルたちの「神」であった。
「田舎に私にふさわしい療養所があるの」と言って置き手紙をして去っていった女たちに一目置かれるためにも、「海」を文学にしなければならなかった。
「学校では教えてくれない、いろんなこと」が分かるよ。
猫舌心も恋のうち おニャン子クラブ 

新カント派の、南西学派というのはキリスト教アタナシウス派のことなのだが、「陸」の政治であり、いわゆる「情念系」かも知れないが、私は詳しくはない。

海の家の陰で、水着にもならずスマートフォンをいじっている女の子たちは、「知的な空気」を感じたいだけなのか、
それとも「勇気が出ない」「他の女の子と体を比べられるのがいや」なのかは分からないが、彼女たちなりに好きでやっているようだ。
ゲーム理論・敵の出かた論というものもある。
大黒摩季 熱くなれ

アタナシウス派(新カント派)に立脚する小泉今日子であるが、失恋の理由を「少年のようにもっと素直なら」でも「大人になりたかっただけ」でもなく、「少女時代のピリオド」と言っている。
これは、南西学派の新カント派である。
小泉今日子 スターダストメモリー

また、失恋した理由を杏里の「オリビアを聴きながら」では「幻を愛した」と言っているが、小泉今日子は、同じ文脈で「七変化」と呼んでいる。
これも南西学派の新カント派である。
ヤマトナデシコ七変化 小泉今日子

また、「宇宙へ連れてって」「テレパシー感じる」などという個性的な表現もある。 
迷宮のアンドローラ 小泉今日子

ここで、アリウス派(特別なセックスがある・私は特別な女・特別な男が存在する)という松田聖子の立場に対して「アタナシウス派の立場」(女は皆同じ・失恋した理由を説明しなければならない)に立脚していたのは小泉今日子であったことが明らかになった。
しかし、なにしろ「表現の可能性は無尽蔵」だったのだ。
原始キリスト教の立場に立つ秋元康氏に「なんてったってアイドル」という曲を作らせたらファンが離れていった。
「なぜなの涙が止まらない」「色っぽい」など本来の小泉今日子は、アタナシウス派だったのだ。
艶姿ナミダ娘 小泉今日子

「現代社会」を日本にもたらしたのは「小泉今日子」だった。
これが1980年代の成熟経済であり、「日本の銀行の信用力を疑うものは誰もいなかった」とされながらBIS規制の導入などが進んだ。

キリスト教アタナシウス派は小泉今日子だ。
「女は皆同じ」という立場から「なぜ自分がフラれたのか」を延々と説明している。
これも版権なのだ。
あなたに会えてよかった 小泉今日子

小泉今日子も、新カント派(アタナシウス派)に立脚する「真っ赤な女の子」をリリースする前は、「あなたは特別な男の子」などとアリウス派に立脚する曲を出していた。
立場に「ブレ」をなくすまでは、なかなか国民的アイドルにはなれない。
素敵なラブリーボーイ 小泉今日子 多くのアイドルたちが「歴史の藻屑」となってきたことは認めざるを得ない。
1980年代の日本国の「成熟経済」を支えたもう一つの側面はrebeccaのリベラリズムにある。
憲法改正は「自由民主党結党以来の党是」とされているが、
「多くの男たちを支持基盤に含めていく」という発想がリベラリズムにはあった。
1991年にrebeccaは解散し、平成の「湾岸戦争」の時に日本国は「国連平和維持軍」を作れなかった。
「俺には有事がある」と言った小沢一郎と、rebeccaの関係は明らかではないが、発想としては「多くの男たちのインクルージョン」こそがリベラリズムであり、平成天皇にはこのような才能がなかった。
昭和にあって平成になかったもの、と表現することも可能だ。
rebecca moon

リベラリズムとは決して「フリーセックス」という意味ではない。
男たちのぶつかり合った夢の世界で「男に本来あるべきはずの立証責任がない」というものである。
「東大に入る必要がない」「教授になる必要がない」「社長になる必要がない」
このような発想は「男が目的を持つのはいいことだ」とした「有神論」とは異なり、しかし、主権を国民に与えることを意味した。
主権と言っても「日本人女はみんなこんな感じ」という意味であることから、「どの女もアッシー、メッシー、ゲッシーと言っている」という意味である。
1215年のマグナカルタは、「王は男らしくなければならない」とし、国民に「恋愛裁判」「フェアプレー」そして「武器対等」を認めた。
このことは、「リバイアサンという怪物を支持基盤に王子が国王に襲いかかる」というキリスト教信仰となった。
イエスキリストと王室の王子を結びつけたという意味においては「英国国教会」であったと言える。
rebecca may be tomorrow

「友達と恋人の境界線はセックスしたかどうかにある」とされる。
「東大生」「教授」「社長」でもない、何の立証責任も負わない男は、「別れたら友達よりも遠い人」となるという意味においては、アタナシウス派と何ら変わりはないが、
それよりも重要だったのは、「男たちを統括する王子がいる」というキリスト教信仰であった。
リベラリズムは、「オックスフォードの宿題」と呼ばれ、どの王子も学ばなければならないものだった。
昭和の終わりに、日本の大人たちは「平成の次」を見始めていた。
rebecca フレンズ

リベラリズムのネガティヴな側面は「東大に入らなくてもいい」「教授にならなくてもいい」「社長にならなくてもいい」ということから、国王の前で、「まるでみんな兵隊のようだった」というところにある。
しかし、ポジティブな側面としては「なんだかんだ言ってみんなイケメンであり、女の子たちにモテた」ということが指摘できる。
「王子の何が特別なのか?」は周囲に感じてもらえればいい、とされる。
ホッブスだのロックだのロールズなどは「国王になりたければ読めばいい」とされ、議会や官僚はそのようなものを学習していた。
ホッブス、ロック、ロールズのおかげでエリザベス女王が豊かになっていくのがわかった。
「東大生」「教授」「社長」がみんなエリザベス女王の著者を読んでいたからだ。
「偉いとはどういうことか?」は明確に本になっていたし、普通の男はイケメンだった。
知識の裏付けのある身分制社会がイギリスで実現した。
このようにrebeccaへの理解力は、普通の男・イケメンに「立証責任を負わなくていいよ?」というところにあると端的に示すところにある。
rebecca ロンドンボーイ

民主主義というものは「国民が最悪なエリートを選挙によって排除する」ものであるのに対し、リベラリズムというのは「東大に入る必要はない」「教授になる必要はない」「社長になる必要はない」というものである。
リベラリズム(自由主義)と、民主主義は、車の両輪として大衆政党である自由民主党を支えた。
社会主義というものは「エッチな話の拡散」を標榜し、社民党は、リベラリズムという看板を外し、「東大」「弁護士」などが「最悪なエリートではないことを証明」するものである。
「自由」「民主」「社会」という三つの用語の意味さえ覚えておけば、だいたい政党の意味は理解できる。
一方で、アメリカにおいては共和党というものが「王政」を標榜し、まあ、民主党であっても「保守・中道・リベラル」というものは存在できるようになっている。
リベラリズムというのは「オックスフォードの宿題」と呼ばれ、世界のリベラリズムは、イギリス王室のもとにあった。
マドンナは、ユダヤ系金融資本の下(日本でいうPerfume)にありながら、英国国教会(リベラリズム)を歌い、そのリベラリズムから「ヒスパニックへの愛」へと繋がっている。
マドンナ スパニッシュアイ

南米においては、カトリックの「処女・高貴さ・繁栄・人ごみ」+「いじめ」の世界には「神」が存在する世界と、リベラリズムつまり「国王」「大統領」がいる「エリートでなくてもいい」という世界が対立し、「共和国」と名乗る王政を敷く国が多いが、カトリックとリベラリズムが共存した。
いわば「実力主義の神」(カトリック)と、世襲制の王子(英国国教会)が対立したのだ。
現在の日本国においても、私(カトリック)という実力主義の神と、世襲制の王子(リベラリズム)は対立している。
madonna Like a virgin

私のようなカトリックの立場、つまり、「処女・高貴さ・繁栄・人ごみ」+「いじめ」という立場からは、いかなる時代のいかなる経済も分析できるが、リベラリズム(英国王室・英国国教会)の立場からは「エリートではない者」たちが楽しめるものとなっていた。
日本国という国の歴史を私は語らせてもらったが、カトリックにはそのようなメリットはあっても、マドンナのようなスーパースターを相手にするのは難しい。
それが、「南米」の難しさでもある。
マドンナ ライク・ア・プレイヤー

なにしろ、カトリックの指導者が国を豊かにすればするほど、世襲制の王子を盾に「エリートではない連中」が「豊かさ」にフリーライドしようとするため、カトリックとリベラルの対立は根の深い問題となっていた。
実力主義のカトリック大統領・ペロンは、カトリック教会との関係を壊し、世襲制を志向し始めた。
バカ一代が世襲制を求め始めると、いつもカトリック教会と決別し、英国国教会(英国王室)に接近した(リベラル)。
群衆は「カネ目当て」でもあり「遊び」目当てでもあった。
マドンナ エビータ

マドンナ。ロンドン公演(20分程度の動画です)。

ロンドンは「世界一の都市」である。
しかし、イギリスの経済力はGDPで言うのならば「世界5位」であり、日本の方が上だ。
カトリック国のフランスが世界8位である。
日本国が、かつては世界2位の経済大国であり、今は3位であることも、いろんな意味で1980年代の文化の恩恵を受け、ありとあらゆる宗教が共生しているからであると言える。
このような「いかなる時代のいかなる経済でも分析できる」力量を持っているのは世界でも「日本とアメリカ合衆国だけ」と言われている。
私も、昭和から平成・令和にかけての経済(女たちがどのように男に愛されてきたか)を語らせてもらった。
令和天皇は「モンテスキュー以来の逸材」と呼ばれた。
「あなたは小さなモンテスキュー」
椎名林檎 あおぞら

そこで、南米にカトリック国が増え、「指導者を尊敬しようよ」という「進歩主義」(天皇制支持)が登場したのだ。
「英国王室?日本の天皇家の方が上だろ?」
日本国はいまだに世界経済を支える力を持っていた。
現在、英国王室(英国国教会)は、斜陽になっている。
すべては日本の「金融」(J-POP)、「高い技術力」「政治の安定性」のなせる技だった。
 

そこで、アメリカ合衆国は、英国王室に代わる「アメリカイルミナティ」を構築し、日本国の天皇制と結びついたのだ。
アメリカイルミナティは、「アメリカ王室」とも表現できるものであり、ロールズ、ドゥオーキン、ラズなどが残したものだ。
現在は、スタンフォード大学が拠点である。
ツヴィングリ派(モーニング娘。)は、永遠の退屈の中から生まれた。
世紀末の「存在しない暗闇」を乗り越えたら、男たちを待っていたのは「永遠の退屈」であった。
まるで創世記を読まされるがごとく、退屈であった。
「21世紀を使い切るのに6000年かかる」そのように人々は思った。
男はアダムであり、エヴァが来るのを待っていた。
「災害」のニュースを見ては、「またノアの箱舟に置いてきぼりにされた」と人々は考えた。
つんくの誕生だった。
女たちが作る「バベルの塔」は天まで届くのだろうか?
ツヴィングリ派にはカトリック女とプロテスタント女が共存していた。
後藤真希のようなカトリック女は「センター」としてもてはやされた。
ルター派は、SPEEDだったが、カルヴァン派はのちに「AKBグループ、坂道シリーズ」が登場した。
ツヴィングリ派には明確なパワーブローカーは存在しなかった。
「女神をクリエイトする」という意味では「神道」「アマテラス」であり、日本国の「性概念」により忠実な女の子たちばかりが集まった。
ルター派の今井絵理子は、ツヴィングリ派を「実力より人気?」と発言している。
ツヴィングリ派こそが神道の巫女さんであり、モーニング娘。であった。
モーニング娘。I'm lucky girl

ツヴィングリ派は、のちの令和天皇とともに歩んだ。
当時は「王子」だった。
王子がのちに「巨大宗教」を作るようになるのがわかったため、「巫女さん」(ツヴィングリ派)の方が、令和天皇の息子の「花嫁選び」をするためのカルヴァン派よりも早く登場した。
松浦亜弥 ナビが壊れた王子様

しかし、つんくの「感性」が鈍り、ツヴィングリ派の人気が凋落すると、令和天皇の息子の誕生すら、国民は祝福しなかった。
「親王様ご誕生」というセブンイレブンの張り紙すら破られていた。
モーニング娘。つまり「巫女さん」のセールスもつんくに頼り切っていた。
2011年に東日本大震災が平成天皇によって引き起こされた。
もう「巫女さん」などどこにもいなかった。
後藤真希 デート注意報

小野?何やってんだ!
周囲がそのように考えた限界点だった。
しかし、この頃から、平成天皇は、「小野」のために生前退位を考え始めた。
「小野」がノーベル賞を取り始めた。
「息子さんのお相手にいかが?」
カルヴァン派(AKBグループ・坂道シリーズ)がセールスを伸ばし始めた。
恋するフォーチュンクッキー AKB48

しかし、「全部露出説」という民法の立場から、「息子はこの程度」と言うのが明らかになると、少なくともAKBグループは斜陽に向かった。
世襲の難しさと、英国国教会、ハプスブルク家、その他もろもろ「なんでもできる」と言うのが今の日本国の現状なのだ。
令和も2年生になったが、日本国民には「コロナウィルス騒動」という名の「超大型連休」が与えられた。
洋服と下着の話は、「思想と良心」の関係に似ている。
良心とは「思想が内面化したもの」であるとされ、たとえば、パートナーに裏切られたことのある人は「何度も人を裏切る」などのことを「思想が内面化された良心」と言う。
思想というものは、いわば「金儲け」のために考えるものだが、人を裏切りやすい性格・性質は「良心」=下着と言わざるを得ない。
また「ニコライ派」と言うものが、「女はパートナーがいても、知恵と力を生み出すために異なる男の声を聞きたがっている」と言っていることを知るのだ。
たとえば、男は「女の子供の気持ちを味わいたいからセックスする」とされているが、男次第で「子供の気持ち」が変わってくる。
「今日、人類が木星についた!」という子供の気持ちもあれば、
「教授になった」という子供の気持ちもある。
ニコライ派というものも興味深い。
SPEED Deep blue & truth

ここで、私はSPEED=ルター派であり、ribbon=マルクス主義という説明をさせていただいたが、ニコライ派というものが、「今彼」にとって最も憎むべき存在であることがわかる。
ribbon 真夏のフェミニスト
私の述べる「キリスト教史」は簡単ではあるが、以上である。

 

【完】

 

 

 

なお、私は本日をもって「立憲民主党のオーナー」になることになりました。
寄付をよろしくお願いいたします。
立憲民主党寄付

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