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Foreign Affairs

  • CFR: フォーリンアフェアーズ英語版

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2020年1月

2020年1月16日 (木)

新カント派が街にやってきた。

カントの「エロビデオの作り方」は、「女の胸」「大きすぎるおちんちん」「破滅」の三要素つまり、「自我」「超越論的」「悟り」の三つから作られることになったが、19世紀に入って、マルクスの革命騒動や、ニーチェの「ロマンティックな音楽作品作り」の前にいったん忘れ去られた。
しかし、19世紀中頃以降、ナトロップのメルブルク、リッカートの南西学派という、いわば「海」と「陸」の双方から、研究がすすめられた。
日本国の官僚にも「海の男」「陸の男」などが存在し、カントを熟知したエッチな人がいた。
第一次世界大戦まで、新カント派は、様々な研究を行い、エロビデオを作ったが、それ以降は、「旧体制」(各国王室・皇室)と結びついた。
新カント派による独裁はアドルフ・ヒトラーによって展開された。
本稿においては、新カント派の共通項を述べたうえで、メルブルク学派と南西学派の特徴を述べることにしたい。
帰ってきたヒトラー

メルブルク学派は「海が男女の性概念を決める」という強みを持っていたし、私も「渚のハイカラ人魚」を好んだため、人前で服を脱ぐ習慣はほとんどなかった。
小泉今日子 渚のハイカラ人魚

また、「不思議バカンス」を5千回以上聞いたため、女の子と気軽にキスをする習慣もなかった。
河合その子 不思議バカンス

イケメンヘーゲルが死んだときに、哲学の世界は「イケメンが学ぶ学問だろう」という発想を見失い、アイデンティティクライシスに陥った。
「誰にいじめられたのか?」「どこに溶け込みたいのか?」「美しいのか?」
この観点を見出すのに時間がかかった。
なにしろ「若くて生きのいいの」こそが「勃った」からである。
プロデューサーが「お前はヘーゲルほど頭がよくない。俺が実演してやる」という問題になっている。
「若者ほどリスクを好む」ことから、このアイデンティティクライシスは、エロビデオをつまらないものにしたという側面は指摘していい。
メルブルク学派は、1871年にヘルマン・コーヘンが「ひと夏の経験の神さま」という論文を書いたことから始まっている。
一方、南西学派が「陸には雪がある」ということに注目するなど、「アドレスを聞かない関係」こそが「妥当性」と呼ばれ、エロビデオを作るのにふさわしいことに気が付いていた。
ゲレンデが溶けるほど恋したい

メルブルク学派は、19世紀後半に、「カントのエロビデオ制作にどれほど詳しいか?」で、教授の椅子が代々変わってきたが、日本国においては、若者にプロデューサーがおカネとハンディカムを渡すようなものであり、プロデューサーが果たして「東大文学部教授」あるいは「政府の役人」であるかは明らかではない。
しかし、女の子たちは「カントの動画」に出演することで、セックスが好きになり、セックスを「美しいもの」と考えるようになっていた。
この時に見えたのが「プラトンの音楽作品」の復権である。
海には「陸で問題を起こした人間」が追いやられるようにして住んでおり、有名人が多い。
私も恥ずかしながら「海岸」に住んでいる。
「こぼれる秘密の数」がなければ、女は「セールスにかけられるだけのいい女」になれなかった。
真夏のフェミニスト ribbon

 

「妥当性」というのは、「住所を知らない関係」を言うが、住所を知らないと「訴状」の送達ができない。
つまり、「訴えることができない」のである。
女は「失恋に関しては案外ダーティーだ」とも言われ、女が男に住所を知られることよりも、男が女に住所を知られることの方が問題が多い。
「すべて無くす、そんな胸の距離なら」
つまり、男が「妥当性」を失うと、すべてを無くすことがある。
女の方が男よりも「問題の少ない愛」を知っているのは事実なのだ。
男女がお互いに住所を知ることを「確実性」と呼び、「妥当性」とは対極の関係に置かれた。
これは「和姦」(仮言命令)を行う関係か、「レイプ」(定言命令)を行う関係なのかの重要な区別をするうえで理解しておかなければならない。
周囲にいる「服を着ている女たち」は「mv」である。
しかし、カントのエロビデオに出ている女たちは「mv^2」である。
ニュートンは常に「スピード」(速度・v)をあげることを哲学であると位置づけていた。
新カント派は常にニュートン物理学の優等生だったのだ。
「和姦」(仮言命令)の動画が面白いのか、それとも「レイプ」(定言命令)の動画が面白いのかは人それぞれであろうが、和姦の場合は「相手が何を想像して喘いでいるのか?」という要素を考慮しなければならず(愛)、周囲は動画の当事者の「愛」になど興味はない。
ラカンは、「女の子はお父さんが隠し持っているエロビデオを見て、セックスするときに喘ぐことを知る」としていたが、愛を知るようになると、少女漫画をコマ送りにしていたり、
彼氏の男友達のことを想像したり、場合によっては「テレビに出ている彼氏の姿」を想像したりしている。
これがすなわち「愛」であり、確実性(住所を知っている関係)があり、仮言命令(和姦)であり、それでありながら「速度」をあげていく動画を作るのは「困難なのではないか?」とされている。
軽い気持ちのジュリア 酒井法子

「速度を高めろ」と先生には言われるが、「どのように?」という問題は案外難しい。
公約数的見解は「超越論的」(ちんちんがデカい)という男が、女をより魅力的にすることが分かってきた。
東大法学部は、とにかく「鬱」になるような「男社会の学問体系」を構築し、男社会のルールを決め、「東大の論理」を各企業に押し付けたが、すべて「男のちんちんをデカくするため」であり、男社会のルールだけで「弁護士」として健康的に生きていけるとは思わない方がいい。

カントは本当に「エロ動画」「レイプ動画」の作り方を語った人なのだろうか?
「女心」を純粋理性批判で語ったのではないか?
そのような疑問は、学習過程においては確かにある。
しかし、マルクスだって資本論において「支配と従属」について語っただろう。
マルクスの「支配と従属」がなぜ「革命」につながるのかを私は明らかにした。
そこで、カントの「女心」も、「エロ動画」「レイプ動画」という形で収斂していったのだ。
政府の役人や東大文学部教授は、研究費用を背景に、自分の学習過程を若者に教え、実践させればいい。
そうだ、女は「セックスするときはいつも本気」であり、セックスした相手は「神さま」なのだ。
酒井法子 涙がとまらない

南西学派の、ロッツエは、「陸」の立場から、陸には仕事があるんだとし、無職のニートって何をやっているんだと語った。
「妥当性」(住所を知らない男女)ならば、いくらでも「仕事」はあるだろうと考えたのだ。
早稲田大学に7年も8年もいた「スーパーフリー」のような者もいたが、彼らの「仕事」への社会の評価は必ずしもいいものではない。
懲役14年を主犯格の男に与えて終わっている。
しかし、「大人たち」が果たして、新カント派というものを理解していたのであろうか?
「仕事なんだよ」
南西学派は、「都の西北」において日本国においては現実化したが、年配者の怒りや憎しみはとどまることはなかった。
逮捕して「新カント派とは何か?」を聞き出そうとしたが、平成の「無職のニート」の居場所や退路を大人たちが絶ってしまったのだ。
このあたりは、雇用対策を得意とする民主党政権下であれば別の展開もあっただろう。
音楽作品は平成の時代には非常に充実していた。
ザイン(勃起していないおちんちん)が、ゾレン(勃起したおちんちん)になるための、音楽作品に満ちていたのだ。
みんな「ゾレン」に興味を持っていた。
黒人の「ザイン」に興味のある男女は当然いるだろう。
陸の南西学派(都の西北)は、勃つか勃たないかしか議論していない。
コンビニエンスストアではアイドルの音楽作品を流し、「これが繁栄だ」と誇らしげだった。
昔は、青年実業家や起業家は、「ポルノ動画」を作って、それを架空の契約書を作り、企業の利益に流し込むのは常識だった(マネーロンダリング)。
孫正義も、そのようにして起業したはずだ。
「カントも一歩間違えば犯罪」
このギリギリを生き残ってきた知識人でなければ起業家にはなれないのだ。
「國學院大學出身?お疲れさま」と言って、この「起業の秘訣」を教えなければならない。
おカネさえ循環していれば、そのうち「チャンス」も来るだろう。

新カント派が、「女がセックスを嫌がっているように見える」ことから、女たちがセックスでおカネを取るようになるというような方向に導いた。
これは、マルクス主義との足並みをそろえたが、のちに「カントの西側」「マルクスの東側」という具合に冷戦の基盤となっている。
女がセックスでおカネを取るようになったことから、女たちが「理想の男」を語る基礎が出来上がり、それはメシア信仰とも重なった。
西側と東側は、ともに「セックスで女がおカネを取る」ということを背景にすべての仕組みを構築したが、西側キリスト教国家は「イエスキリストを処刑から救いたい」ということをアイデンティティとしていた。
また、「イエスキリストにふさわしいパートナーを」「聖母マリアに紹介できるような女性を」という「女のアイデンティティ」も西側特有のものとなっていた。
松田聖子 赤いスイートピー

イエスキリストを処刑から救うという意味では、佐藤派→田中派→竹下派という具合に「木曜クラブに禅譲はない」というものはキリスト教そのものを意味した。
それ以外の、マルクス主義的世襲を行っている派閥は、世襲を行うたびに弱体化していくのが分かった。
指導者が変わるたびに国が弱くなる、これがマルクス主義の弱点であることが明らかになっている。
なにしろ、スターリンよりも恐れられたトロツキーを殺してしまったのは事実であるからだ。
世襲を行ったら「新しい風」が吹いたというのがキリスト教国家の特徴であり、令和の日本国も、神道はアブラハム宗教となっている。
ランゲは、シュトラウスの「イエスの生涯」を読んで、「禅譲のない王室」を作ろうと決めていたし、私も平成天皇にあったら挨拶はするが、向こうは返事すらよこさない。
これが「キリスト教」なのだ。
ランゲは、王室でこのような「禅譲」を経験する前に、キャリアを労働組合から始めている。
若手のホープは組合の幹部を務めるというのは今の日本国も同様だろう。「禅譲のない世界」を知ってもらいたいからである。
ランゲは、フェルディナンド・ラサールから組合のリーダーの地位を奪い取ったのも、「カントの資金集め」を背景にしていた。
ポルノの評論家であろうと、ポルノのプロデューサーであろうとどちらでも構わないが、「ほかの男たちの支持」を集めるうえで、王室とカントが結びついたのが新カント派なのだ。
ランゲは、国王になる前の、労働組合活動の時に最も精力的に論文を書いている。
ランゲは、体育館やグラウンドが自分を育てたと信じていたし、都会においてはコミンテルンがのちに体育館やグラウンドが人間の性欲と関わることを悟ることになるが、新カント派のランゲはいち早くその効果に気が付いていた。
ラグビーのトーマス・アーノルドとも親しく、英国王室の子供たちがラグビーをやるのはもはや「常識」となっているのは周知だろう。
ヘンリー王子はともかく、ウィリアム王子はラグビーをやっている。
ソーシャルダーウィニズムと呼ばれ、他の子供たちと真剣に戦わないと、自分が何者かが分からないし、そもそも国家レベルでの「禅譲のない王室・皇室」は実現しないのだ。
キリスト教のためにラグビーは存在した。
好きになってもくれない

私はボクシングをやっていたが、ランゲはラグビーをやっていた。
アスリートでなければ「カントのエロ動画」への感受性が育たないと考えたのだ。
「ほかの男と同じように感じる」
これが、才能であり、「禅譲のない王室・皇室」を実現するものと考えられた。
国の発展は、人口が多くなると多くの「悪意」によって鈍るとマルサスは語ったが、人口が右肩上がりに増えていくことは、「人々の悪意」をどのように誘導するかにかかっていたし、子供たちにまでインターネットが普及した現代においては「少子化」というものは当然であると考えられている。
「テレビに出ている人はみな善人」
という認識が壊れた時に、少子化の予測は立っている。
統計的なアプローチではなく、文化的アプローチから少子化というものは予測されたのだ。
あるいは、「相対主義」の流行からも少子化は予測できた。
街を歩いている女の子が日経平均株価(2万4千円)であるのならば、彼女や妻はTOPIX(1700円)である。
カントは常に「2万4千円」の世界を問題にしていたのであり、「1700円」の世界は仮言命令(和姦)と呼ばれ、確実性(男女ともに住所を知っている関係)から生まれるものだ。
いちばん危険なのは「母親」(マザーズ)が「900円以下」というところにあり、マザコンは精子が出ない。
子供ができるのであればそもそもマザコンではないし、マザーファッカーの両刀遣いという男が実在することも知らなければならない。
マザーファッカーは、のちの人生で「子供ができない」という問題に直面するのだ。
弁証論と言っても「男女をぶつけてみる」という意味であるのならば、街を歩いている女の子や彼女や妻、さらには「母親」までが存在するため、本来、ヘーゲルが想定していた弁証論はなんだか子供じみていた。
しかし、すべての「男女の関係」が金額で出せるようになっているのだ。
「禅譲」が存在するマルクス主義は、とにかく「いじめ」の存在を否定するために躍起になったのだ。
いじめは子供たちの間でも「真理ではあっても憎むべきもの」とされていたし、その「いじめ」の存在を否定したいがために作られた「楽園」であった。
そもそも、「三人の人間が集まればいじめが生じる」(三位一体)がキリスト教社会においては真理である以上、「いじめの否定」という魅力的アイデアには、「禅譲」がともない、「国づくりにおいては失敗」であると歴史が証明した。
校長先生がいじめを否定していないと言って怒りを感じる子供がいるのだとすると、それは「マルクス主義の失敗」を理解していないし、「キリスト教社会の真理」をも知らないとしか言いようがない。

産業革命以降、「労働」というものが整備されてきたが、1割がライン工(講座派)であり、9割が労農派(農業従事者)であった。
工場と農業では労働に関する文化が異なり、それでいて、「女にはセックスしたらおカネを払うものだ」というムーブメントが定着した。
イケメンは、このような「労働社会」において破産した。
ハンサムなだけでは女は買えなかったからだろう。
メルブルク学派は「カントに戻れ」と言って、夏の海での動画撮影を若者に教えた。
私も海岸に住んでいるが、海岸で「カメラを回す」のはほとんど反則である。
このあたりのルールはヴィトゲンシュタインによって定められている。
「人々が噂しないこと」
という一文がルールに含まれていることから、背景の人物の顔にモザイクをかけたりするのが面倒ではあるが、それでも、「イケメンの破産」への救済として位置づけられている。
女が「最高の満足」を得ないのならば、ただちにおカネを払った方がいい。
「喜びに満ちた世界」「音楽作品に満ちた世界」は資金力によって構築されている。
インターネットで「素人」のジャンルから外れて「レイプ・痴漢」のジャンルに入り、「アイツも腕をあげたな」と言われるようになるためにはとにかくおカネがかかる。
しかし、なんのために「両親」がいるのだろうか?
また、なんのためにセンター試験を受けたのだろうか?
とにかく、「セックスするときには女にカネを払え」(唯物論)という理論から、労働というものは再編されていったのだ。
レインボーピンク

海では、脳が「気持ちいい」かどうかしか判断していない。
そのため、私も海岸で執筆活動ができるわけである。
しかし、「女の恨みは恐ろしい」と言われるように、男同士の「いじめ」は確実に「女の問題」から生まれている。
「セックスするときには女にカネを払え」(唯物論)という立場からも、「所得の格差」がもしあるのであれば、「恨み」は恐ろしいものになる。
そのために、所得再分配というものはどこの国にも存在するし、マルクス主義国家においてはこれはかなり大胆な形で行われた。
SPEED Deep Blue & Truth

「最高に気持ち良ければそもそも悲鳴など上げない」というのは「セックスするときには女にカネを払え」(唯物論)と同じ意味であった。
「感度のいい女は、みんなエッチな経験をしている」
それでもなお「失うものは半分である」という神話が存在する。
快楽をもたらしてくれそうな男の前では、どのような経験豊富な女でも「ウブ」な側面を見せる。
中森明菜 二分の一の神話

エルンスト・カシーラーは、20世紀の人物であるが、女の子の恋愛論をデシプリンと呼び、「女」全員に言える恋愛論をパラダイムと呼んだ。
女の子と「女」はこのことから区別され、デシプリンには「女の子のことをよく知らない男の子」「恋に臆病な女の子」などが登場する。
デシプリンとパラダイムのどちらが難しいのかは一概には言えない。
「難しい年頃」を相手にしなければならないのはデシプリンであるし、大人の恋を相手にする「大きな政治」がパラダイムだからである。
渡辺満里奈 エバーグリーン

カシーラーは、1933年にヒトラーが政権を取ってからアメリカに亡命している。
それは彼がユダヤ人であったからだ。
戦後、イェール大学やコロンビア大学において教鞭をとり、「男はデシプリンおよびパラダイムとどのように向き合うべきか?」を研究した。
産婦人科医が、風俗嬢を犯すのは「パラダイム」を教えるためであったし、家庭教師が女の子を犯すのは「デシプリン」を教えるためであった。
「デシプリンの世界には手が出せない」という男は確実にいた。
そのへんは家庭教師の「プロの腕」というものであろう。
男女が共存している世の中で、しかも、男女がほぼ同数存在するメソジストの世界において女の子や女に「男」を教える専門家は確実にいるのだ。
それはつまり「男の方が女よりも上」ということを指導することでもある。
松田聖子 妖しいニュアンス

カシーラーは「男の方が女よりも上」というところにポルノの根拠を見出している。
女は「エッチ」であれば、勉強などしなくても、働かなくても生きていけるということを示していた。
それよりも「恋愛論」(デシプリン・パラダイム)の学習をした方がいいと考えたのだ。
酒井法子 天使の館

「処女」だの「女帝」だの言っていると貧しくなるということも一つの要因となっている。
自分を「女帝」と考える女は周囲になけなしのカネを払って一文無しになる。
高円宮妃なんて特にそうだ。
どうせ女は、デシプリンをマスターしてパラダイムを覚えるようになると、セックス一回で2万3千円以上もらえるようになる。
職場の同僚の男性ならば日経ジャスダックの3千9百円、パートナーとであればTOPIXの1700円がもらえる。
この「唯物論」の存在を忘れたら、女の子が社会に溶け込むのは極めて困難になる。
猫舌ごころも恋のうち

このような、「女の子にはデシプリンを」「女にはパラダイムを」という学問体系はあるが、それでもなお、処女というものは高貴なものであるという確信がカントにはあった。
貧しさだけがもたらされる「処女」であるが、今時めずらしい「処女」こそが「あげまん」と呼ばれた。

ハインリッヒ・エッカルトも新カント派であったが、何しろ有名な弟子が多かった。
ハイデガー、ラスク、ベンジャミン、ジンメル、フッサール、マックス・ウェーバーなどが弟子として名前を挙げることができる。
エッカルトの特徴は「ロゴス」(イエスキリスト)にとことんこだわったところにある。
「男は何を知ることができるのか?」という本は、初版は90ページであったが、第六版は460ページにもなっていた。
エッカルトが、南西学派、つまり「陸」の人間として、トラブルの少ない人生を送ったあたりは「陸の佐藤」(佐藤栄作)と類似している。
南西学派とメルブルク学派の違いは「妥当性」(お互いに住所を知らない男女の関係)から生じている。
唯物論(セックスするときには女にカネを払え)という立場からも、妥当性を考慮すると、まったく住所を知らない男女の間では日経平均株価(2万3千円以上)で女が買われ、職場の同僚の男女の間では日経ジャスダック(3千9百円)で女が買われ、同居しているパートナーの間ではTOPIX(1700円)で女が買われることが明らかになる。
高い金を払うほど「感じる」のは事実なのだ。
この「指標の出し方」を明らかにしたことからエッカルトには弟子が多かったものと考えられている。
rebecca Trouble of love

服を着ている女が「mv」(力)だとすると、エロ動画の女は「mv~2」(エネルギー)である。
「速度を高めろ」
これがカント以降、フリードマンに至るまでの「指標」のコントロールの方法であった。
フリードマンは今からわずか20年前にこのような議論を行っている。
果たして、クリントン政権の規制緩和の成功事例をプリンストン大学の研究員として
目の当たりにした竹中平蔵が「指標のコントロール」をする腕前を持っているかは明らかではない。
しかし、小泉政権以降、現在の安倍政権に至っても常に「スピード感」は話題にされている。
メジャースポーツなどの「真剣勝負」と、これらの「指標」を同列に扱ったのもエッカルトだった。
昼間に、株式市場をにらみながら発言し、夜にスポーツを楽しむ、これが「経済学者の日常」となっていたのだ。
ところで「男は何を知ることができるのか?」つまり「ロゴス」(イエスキリスト)の問題に関しては「国を豊かにする方法」と答えるしかない。
新自由主義においては「政治家に任せても官僚に任せても駄目になるのならば、庶民に任せて駄目になろう」という発想が横行した(安念潤二教授が印象深い)。
まるで、新自由主義はイエスキリストなど信じてはいないようだ。
「知る」と言ってもいろんな「知る」があるであろうが、カントの言う最高善、ヘーゲルの言う絶対精神などのように、男たちのフェティシズムの「公約数的見解」を知る必要がある。
私が「ヘンタイである」という噂が出るだけで株価が大暴落するからだ。
徳仁親王は「いちごパンツ」フェチを明らかにしているし、私は好きなエロ動画を明らかにしている。
しかし、秋篠宮は「何も」語っていない。
つまり、人格的統治者(統治体)としては極めて疑わしい存在であると言わざるを得ない。
この辺りは西原博史教授の論が鋭い
自分のフェティシズムが「最高善」「絶対精神」でなければ、株価はあっという間に7千円になりかねないからだ。
平成天皇の「3回まわってワンと言え」などは「天皇失格」と言われたのと同義である。
しかし、株価が振るわなければ「いつでも天皇をクビにすればいい」ということをフリードマンが明らかにしたからには、「天皇の定年制」などと言うあまっちょろい議論とも決別できる。
女心を私は垂加神道において明らかにさせていただいたが、そもそも、「女心のすべて」が音楽作品で出尽くしたのが1999年だとされている。
つまり、今は現在進行形の形で「天皇制」というものが揺れ動いていることをも意味する。
もっとも、「女性の胸」「大きすぎるおちんちん」「破滅」の三要素を大きく逸脱した人格的統治者(統治体)が存在するかは私にもわからない。
しかし、「男」であること、そして、予算法律説のもとで「予算を公布できる」人物であることなどが「天皇の条件」となりそうだ。
あとは、フェティシズムにとらわれずに、いろんな意味で「そもそも影響力のある人物」であればいいだろう。
ナポレオン以前は、「ホモセクシュアル」というものも「上流階級の噂話」にすぎなかった。
日本国でも「新宿二丁目」の存在が初めてテレビでオンエアされたのは1995年のことだ。
「平成の時代に国が崩壊に向かって走り出していた」という指摘はもちろん可能である。
しかし、野茂英雄がメジャーに挑戦するなどの「いい知らせ」もあった。
釘を刺しながらいい知らせも流したのだ。
「女心は空のように広い」
という大雑把な発想から、だんだん、音楽作品で絞っていくしかないだろう。
松田聖子 抱いて

カント以降、フリードマンの時代に「指標のコントロール」の方法は確立したのだとすると、明治維新以降の天皇は常に「指標」と向き合っていたことを意味するし、ロンドンのシティでは1688年の名誉革命以降、その伝統は確立していた。
影響力のある人物はおのずと頭角を現してくるし、その「感性」が支持されているのだから、悪い方向には向かわないだろう。
ローマ法王が「神はゲイを憎んでいる」と発言するだけでフラストレーションを感じる連中は確実にいる。
そのあたりも、株価を千円程度なら暴落覚悟で研究してみるのもいいだろう。
それが「できない」のが、日経平均株価7千円の時代なのだ。
主権論争も「主権がどこにあるのかわからない。多元的に存在するものである」(奥平康弘教授)という具合に、体制がかなり無責任になっていたのだ。
世界では「殺す」ことすら「仕事」として成立する。
「弱腰外交」「土下座外交」をする国だけではないのだ。
世界には、民族レベルでの「大失恋」が存在する。
B'z Alone

イランや、米中貿易摩擦に「指標のハンドル」を委ね続けていいのだろうか?
それも「国家レベルでの大失恋」を外国国家に与えないためだろう。
しかし、「指標」はあくまでも、日本国民が「愛し合った結果」生まれるものである。
それでも、イランや米中貿易摩擦のせいだろうか?
政府やメディアは日本人の安全しか頭にない。
それも踏まえて「指標」にまつわる報道を見ていくしかないだろう。
小泉とブッシュの国際約束は内需拡大だった。
「外国に指標のハンドルを預けすぎないように」
そのような意味ともとれる。
イランやアメリカ・中国よりも「一本のエロ動画」の方が影響力があるという現状を知る必要がある。
「女」
それはそのような意味を持つものだ。
「指標」の動向を外国国家の「業績」として与え、日本人は愛し合う。
「被害者に日本人はいませんでした」
メディアは大勝利を高らかに謳った。
イエローモンキー JAM

「若くてバカだった俺」をパスタを食べるたびに思い出す。
女の場合は「恋の主導権を得ていた私」を「パスタのおいしいお店」で思い出す。
「仲間が多い、何かやってくれそう」
そんな理由から女の子は男の子に「恋」をしていたが、男の子は「親のおカネ」に導かれて生きているだけだ。
「親のおカネ」は簡単にTOPIX(1700円)に化ける。
それでも、からだを「許す」のは女の子の側の考え次第だった。
女社会にも「女同士の夢がぶつかり合っていて」自由はなかった。
「仲間が多い」男の子はアイスクリームで仲間を買っているのだろう。
それならば「なにかやってくれそう」であれば、「恋」に落ちたし、世界中の男から愛されようなどとは考えていなかった。
Melody 運命95

世界中の男から愛されたい、世界中の女から愛されたい?
それならば、どこかに性的コンプレックスを抱えているのではないか。
本当に「人格的統治者」(統治体)とは疑わしいものであるという理由はここにも見出せる。
Melody 世界中の微笑みを集めてもかなわない

ユダヤ教というものは「メシアを信じない」ものである。
つまり、「国王や天皇の座をめぐる争いのない社会」をユダヤ教コミュニティーと呼ぶ。
そのような意味では、ヒトラーが、「いじめのない社会」を標榜したマルクス主義や、ユダヤ人を差別したのは、みずらから「いじめ」を経験した独裁者であることに由来する。
ヒトラーは他にも「心の弱い女性」「大酒飲みのジプシー」などを差別している。
ヒトラーは野にあった時代に「自分を愛してくれる人を探して犬のように歩いていた」と人々は証言している。
ドイツ観念論哲学は「反カトリック」にそのアイデンティティがあったし、ヘルマン・コーヘンは、「エロ動画」を「既婚者までが好むことができる」ものに作り上げようとした。
コーヘンは、自らの哲学の研究の足跡を「いじめられてちんちんがデカくなった時期」「女心をカントから読み解き、女たちに話して回った時期」そして「エロ動画を作るようになった時期」の三段階に分けている。
私も皇位継承を経験し、「いじめ」「女心を語る」「エロ動画評論」と段階を踏むことには何ら異論はない。
服を着ている女たちは「mv」だったし、エロ動画の女たちは「mv^2」だった。
政府の仕事の「速度・スピード感」を高めてくれるのはカントしかいなかった。
上海倶楽部 松田聖子

 

マルクスも案外無責任に「支配と従属」について資本論で語ったが、
カントも「女心・女の口説き方」を純粋理性批判において語っている。
マルクスが「支配と従属こそが性欲の起源」と位置付けられ、「勃たなくなった支配階級にイデオロギーを売りつけ、国家予算を譲り受けよう」(革命)という理論であることを明らかにしたのはアルチュセールなどの後世のマルクス主義者であったし、
カントの「女の口説き方」からエロビデオの作り方を知ったのは新カント派だった。
「実践」を「処女」とし、「純粋」を「経験豊富な女」とし、定言命令を「レイプ」とし、仮言命令を「和姦」とし、「妥当性」を「住所を知らない男女の関係」とし、確実性を「お互いに住所を知っている関係」としたことなどは、のちに「エロ動画の作り方」の参考になっている。
また、「自我」「超越論的」「悟り」の三要素を「女の胸」「大きすぎるおちんちん」「破滅」の三つへと明確に意味を明らかにしたのも新カント派だった。
私が、エロ動画をこのあたりに収斂させていったことは、日経平均株価においては「指導者になりたい男たち」に萎縮的効果(反射効)をもたらした。
それはつまり、私の文章に「既判力」が認められたからであり、先週末の株価の下落は私もそのように受け止めている。
反射効をまき散らすと、いずれ既判力が弱まる。
「もっと自由にエッチさせてくれよ」という連中を包摂していかないと、少なくとも平成の時代には国連平和維持軍は作れなかった。
ドイツ人のちんちんはデカくて包茎だ。
ユダヤ人のように「メシアの存在を認めない」という発想を排除したのがドイツであった。
「プロポーズを頂点とした全体主義」はのちにレーニンによって体系化されたが、新カント派も、同様の音楽作品を聴いて「ちんちん」を磨いた。
ribbon Virgin Snow

プラトンの音楽作品を聴かなければ男はそもそも勃たないわけだろう。
アリストテレスのように「男女が同じ数だけ共存する社会」を作らなければ国が機能不全になるわけだろう。
トマス・アクィナスのように「いじめられ」そして「いじめた者たちを記録に残さなければ」君主にはなれないわけだろう。
そして、カントのように「政府のスピード感を高める」方法を明確に理解しなければ、国家統治はできないわけだろう。
ここに、「世界史ビッグフォー」が出揃ったことになる。
女の、「勃起したおちんちん」へのリアクションは常に純粋なものだった。
セックスするときは女はいつも本気、というところからこのことは明らかになっている。
ribbon 愛してジャスティス

マルクスのイデオロギーのような「セリフ」を女に言ってもらいたいのか?
それとも、エロビデオを見ればそもそも「勃起」するのかは体制に由来する問題である。
労働者階級が革命を起こすことは常に可能である。
しかし、政府が「スピード感」を持つことも可能なのであろう。
「分析哲学」というものは常に「女の嘘」と向き合うものであり、
「批判哲学」というものは「独身男女」と向き合うものである。
ともに、既婚者の性欲を高めるために用いることが可能なのだ。
ribbon 哀しい方の嘘

新カント派は、一部の「キーパーソン」に富を集めることにより「名望家」による政治を実現させた。
社会民主主義である。
日本国も明治憲法のもとで一時期名望家政治が行われたが、男女普通選挙制が実施され、この実態は変わったのかは見極めが必要である。
国会答弁の物まねばかりしていてはいつまでたっても政治家にはなれないということを理解する必要がある。
ここで行政法の基本に戻りたい。
法規裁量(羈束裁量)とは「行政が決める」つまり「芸能界が決める」という意味であり、いわば「クラスメート的」(抽象的)な関係を意味し、ドイツ寄りの考え方である。
カントおよび、新カント派は常に「芸能界」を意識しており、法規裁量によってその善し悪しが判断されるものだ。
風俗営業のようなビジネスを念頭に置いたものでもある。
一方、便宜裁量(自由裁量)は、「司法が決める」つまり「国民が決める」という意味であり、いわば「従姉妹的」(具体的)な関係を意味し、フランス寄りの考え方である。
ルイ16世は、喫茶店などの「飲食店ビジネス」をこの背景に念頭に置いており、飲食店ビジネスを国民に開放した。
司法とは「恋愛論」を語るフォーラムという意味でもあり、それを飲食店ビジネスの基盤としたのだ。
ルイ16世にとって「想定外」だったのは常にカントであり、風俗営業・芸能界であった。
ロックミーアマデウス

一方、羈束行為というものがあるが、これは「国会が決める」ものであり、つまりは「おカネで解決する」というものだ。
憲法というものがカント(法規裁量)からくるものであり、憲法が生み出すおカネで法律というものは作られている。
しかし、便宜裁量(ルイ16世)の飲食店のような外食産業もおカネにはなる。
外食産業のセールスは法律を作るうえでの強烈なバックボーンになり、法規裁量と便宜裁量は一体となって羈束行為を支える。
生活保護の支給金額なども羈束行為であるとされているが、風俗や芸能界の動向、そして外食産業の双方の影響を受けざるを得ない。
「恋バナなどのコンテンツ」の充実度が外食産業を支えている以上、ルイ16世は便宜裁量をコントロールできただろう。
家族と言えばおカネを払い、水と言えばおカネを払うのが人間だ。
そのため、哲学は「子育て論」まで立ち入って議論している。
また、株価には悪影響を与えるが、医学談義・外交談義も外食産業を支えるだろう。
株価はあくまでも「恋愛論」によって上下しているのであり、法規裁量の影響を受ける。
しかし、株価とは異なる要素として便宜裁量は広く「国民が決める」ものとして存在している。
ルイ16世の方が、カントほど株価にはこだわらなかったが、言論の自由の色彩が強い。
フランスの「コンセイユデタ」(行政裁判所)は、いわば「飲食店における話題」すべてを網羅するものであると考えられ、恋愛論(司法)にのみとらわれず、医学談義・外交談義・政治談議のすべてを裁く権能を有するものと考えられる。
そこで、「民法や刑法もおカネで作られたのだろうか?」という問題が生じる。
民法は「男女の出会いとそのおカネの裏付け」を与えるものであり、刑法は「実践理性の定言命令」つまり「処女レイプ」を「値段が付かないもの」として罰するものである。
民法総則と刑法総論はすでに「小野臨調」で出させてもらったが、それ以降は、いずれ詰めていきたい。

具体的(従姉妹的)なかたちではなく、もっと抽象的(クラスメート的)な気持ち、という歌詞が入った名曲です。
渡辺満里奈 裸のクレヨン

他にもいろいろ名曲を漁ったのですが、ポーランドに「ワルシャワスクール」というのがあり、いろんなワイドショーネタの「角度」を同一線上に乗せていき、国際試合や戦争などの「オペレーション」として一つの線が一つの方向に向かうという発想を明らかにした哲学集団を歌った曲もあります。
「ポーランドシネマのヒロイン」「初めての角度で」などの歌詞が出てきます。
カメオのコンパクト 渡辺美奈代

この曲は「戦争の終わらせ方」を明らかにしています。
「お前が死ぬか俺が死ぬかのどちらかだ」となると、「思い出話をして、領土の適切な交換」をおカネによって行わなければなりません。
恋愛においては、「高度な違法性」がなければおカネの問題にはなりませんが、原理は同じです。
「サヨナラ近い恋人たちは思い出話ばかりしている」
渡辺満里奈 秋服のボートに乗れば

さて、日経平均株価が下落し、上海総合も大幅に値を下げた。
これは果たして本当に「コロナウィルス」の仕業なのだろうか?
日本国が、服を着ている女は「mv」であり、エロ動画の女は「mv^2」であるとし、「速度を上げろ」と私が発言したことが大きく影響を与えている。
女の「速度」が速まるということは女の「エロさ」が増すことを意味する。
そこで、エッカルトの弟子の「MAX」ウェーバーは、「男らしさ神学」と「プロテスタントのアイドルいじめ」の二つを柱に、当時の速度の「MAX」を記録している。
「男らしい男」(イケメンピエロ)と、「女らしいアイドル」がいれば速度が上がると考えたのだ。
女らしいアイドルと言っても、その「女らしさ」は、イケメンピエロがいなければ成り立たない。
東京大学法学部なり医学部なりに入って「男らしさ」を追求したのならば、おのずと「気が付いたら周りにアイドルがいる」という現象を社会学的に分析した。
東大で「エロエロトーク」「恋愛論」をマスターした後は「周囲に語るだけ」で「トランプ大統領」並みの影響力が持てることを知ったのだ。
「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」とは、「女のアイドルはいじめられて心を病んでいる」という側面(倫理)と、「男らしさを追求した男も心を病んでいる」という、「芸能界と東京大学の合流」という現象から、女の速度を「MAX」にすることを模索したのだ。
当時は私も喧嘩が無茶苦茶強かったため「守ってもらいたかった」のだろう。
タンポポ 王子様と雪の夜

ベルリンのハイデルベルク大学に入ったマックス・ウェーバーは、心を病んでプロイセンで療養していたが、ドイツのアイドルが続々とプロイセンに療養しに来ていたのだ。
日本で言うと「赤坂の秘密結社」としか庶民は思わなかっただろうが、ウェーバーの「東エルビアからの報告書」は、ドイツのスーパーアイドル達との交友関係を赤裸々に語っていたし、「出会いの場はどこにあるの?」と聞かれると「バー」と答えるしかない。
ウェーバーは56歳で亡くなっているが、ドイツでは「崩御」と表現されている。
美濃の斎藤道三を攻めた織田信秀が「おカネをもらって兵を引いた」と考えるのが当然であるとするのならば、ウェーバーは、第一次世界大戦ののち、ベルサイユ体制において「多額のおカネを払って世界を買う」というドイツの発想をもたらしていた。
ウェーバー自身は、マリアンヌという純潔女に恵まれたが、他の「女性アイドル」たちは公然と体を売っていたのだ。
「女性アイドルたちは男というものを熟知していた」
このことから、たとえベルリンのハイデルベルク大学だろうが東京大学だろうが、「女心」を熟知していなければ、男の序列は低いままだった。
クリエイター、キュレーター(評論家)、芸能事情通などの男たちと、女性アイドルたちの交友関係はここから始まった。
「男の人気、イケメンピエロの人気が高まれば、周囲の女性芸能人たちもいっそう映える」体を売って有名になった女たちは「自分の局部の値段」を青天井にしてやれと考えていたのだ。
タンポポ 乙女パスタに感動

ウェーバーは、「父親が生きていたこと」というニーチェ的側面と、「男性アイドルもいたこと」というカント的側面の双方からいじめられて育った。
男性アイドルも「恋愛論」「ドラマ」などで腕を磨いていたため、たとえ東京大学と言えども通用しがたいものがあった。
「影響力のある話を影響力のある女に話す」
これが、マックス・ウェーバーの考えであり、オンエアで何を言われようが、この手法は確立したし、そうでなければ、死んだときに「崩御」という表現はなされなかった。
「社会学」とは「社会における知の伝達メカニズム」の研究であるが、ウェーバーは「影響力のある話を影響力のある女に話す」というところに一つの答えを見出したのだ。
女たちはかなり「話を歪曲して」人々に伝えるため、とにかく「東エルビアからの報告書」のように「論文や本を書く」ということは重要であった。
しかし、影響力のある女が「頷く」ことは確認しなければ論文は書けない。
「カリスマ的支配」の秘密はここにあった。
周囲の女たちが一目置いている、そして、「肉声を論文として記す」ということが大事だった。
「合法的支配」とは、「作品」に大人たちのエネルギーが集中されており、クリエイター、キュレーター、芸能事情通たちと、女性アイドルとの交友関係が確立していることをいう。

女は、彼氏との愛が深まっていくにつれ、自分が「できない」ことから「彼氏が子供に興味を持ってくれるのかな?」「家庭に縛られるのかな?」と態度決定を迫られ追い詰められていく。
BoA Is This Love?

あとは、マックス・ウェーバーは、体調が悪かったこともあり、「それはすべて情報不足からくる」とし、医学の世界にその解決法を委ねてしまった。
クリエイター、キュレーターなどをやっていると、案外、「英語の医学書」と接する機会もある。
薬は「薬事法の裏付けのある臨床医療」の現場にいる医者でなければ処方できないが、医学の知識がなければ、マックス・ウェーバーのように「56歳で崩御」ということになりかねない。
「自分で治す」という発想がなければ、天皇だろうと皇帝だろうと、命を落とすのは早いし、医者や看護師に従属して泣かされるのが落ちなのだ。

 

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