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Foreign Affairs

  • CFR: フォーリンアフェアーズ英語版

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2019年12月20日 (金)

イデオロギーの時代へ。

芸術は芸術、セックスはキスと表現するのが芸術だ。
しかし、女たちに話して回って分かった「方法論上の絶対」は「方法論上の真理」へと向かった。
開かれた絶対主義は、真理へと向かったのだ。
つまり、「芸術からイデオロギーへ」と到達した。
セックスの作法は人それぞれであり、各人の「イデオロギー」があるだろう。
しかし、イデオロギー(セックスの作法)に真理が見つかったのならば、我々は「イデオロギーの時代へ」と到達することになる。
女に電話して、「セックスはムードですもの」
「クリトリスから先がいいわ?」
「濡れてきたね。スムーズだよ。リラックスして」
「呼吸を乱してもいいんだよ」
「大丈夫。痛くない」
「若い女性ホルモンを感じて?」
「エンジンが効いてる」
「あなたの子供が生みたい」
「ああ貴族!ああ官僚!」
「大きい」
「体中の血液をチンポに集めて?」
「オナニーさせて」
「私の柔らかい体を見て」
「いい匂いがする」
「からだが締まってくる」
「秘密は守ってね」と言わせてみよう。
千年の媚薬 CoCo

マルクス主義は、このイデオロギーを「支配と従属」に見出したが、1960年代に大ブレイクした後、1970年代に低調に向かった。
「女たちが本当に従属するのがセックスなのだ」
「私は男を愛せません」
男を愛せない女が私に相談してきたこともある。
胸とは「私とは何か?」という問題であった。
その「胸」がまるで「男みたい」な貧乳であったのならば、男を愛せないのも無理はない。
「貧乳の女」が、1970年代に、男女の「支配と従属こそが気持ちいい」(イデオロギー・マルクス主義)を低調に向かわせた。
私は、マルクス主義が20年かかって経験したことを、二週間で経験できた。
「男を愛せない女」が、声をかけられるのを待っていたからだ。
「男を愛せない女」が、貧乳のコンプレックスを解消し、「処女性こそが大事なんだ」ということを分かってくれる男性に出会うことを「カトリック」と呼ぶ。
「貧乳コンプレックス」の解消がカトリックにはあったし、カトリックがマルクス主義を打ち破ったのだ。
CoCo その胸の扉

本稿においては、すでに「過去のもの」と歴史上評価されている「イデオロギー」というものをもう一度考え直してみたい。
アルチュセールは、マルクス主義(科学的社会主義)の「男女の支配と従属の関係」という性欲の起源に対して挑戦してきた「カトリックの処女性」に対して、「ふざけるな!男女の関係は支配と従属だ!」と戦いを挑んだ。
スターリニズムはすでに「処女とジャニーズ」を、セールスにかけていたが、二十歳を過ぎても処女だというのならば、それはカトリックであった。
カトリックに立脚する女たちがあえて「貧ぬう」などという題材でコミケで本を売っていた。
「貧乳を愛して?処女を愛して?」
それならばスターリニズムとは話が異なる。
スターリニズムは「うら若き生娘」を問題にしていたのであり、「男を愛せない女」を相手にしていたのではなかったからだ。
「千年の媚薬でも落ちない女がいるのか?」
これがイデオロギーの時代へと向かおうとしている国の問題意識であった。
マルクス主義はカトリックに勝てるのか?
イデオロギー(男女の性の作法)さえ磨けば、「男に興味のない処女」はいなくなるのだろうか?

「貧乳カトリック女」をどのように感じさせるかがアルチュセールのライフワークとなった。
戦争で「猫の手も借りたい」という時に、アルチュセールは20代であったがこの問題と向き合っていた。
「男に興味のない猫」を感じさせる方法を考えていくうちに、彼は「共産党幹部」としてデビューしている。
彼自身が、共産党ヒエラルキーの「支配と従属」を嫌ったというのも興味深い。
「猫の手も借りたい」「男に興味のない女がいる」
それならば、どの女でも感じる「イデオロギー」を考えてやろう。
それがつまり「イデオロギーの時代へ」という意味であり、カトリックと大喧嘩をやらかした。
マルクス主義を「イデオロギーの話」と位置付けたのはアルチュセールだった。
フランス共産党は「二十歳過ぎても処女の女がいてもいいんじゃない?」というカトリックに1970年代に敗北した。
しかし、その「試み」「イデオロギー」「セックスの作法」だけは、永遠に語り継がれる宿命にあった。
アルチュセールは、人生のどん底で「じっと病人を見つめた」ヨブ記のヨブにたとえられている。
ルイマル 鬼火

マルクスの「資本論」に興奮しなかった女はいないはずだ、とアルチュセールは考えていた。

彼は、カトリックの「高貴な思想」と、女の子の「男に興味がない」という貧乳の問題は「区別がつかない」と考えていた。
また、ショタコンのように「イケメンにならばイデオロギーを語ってもらったらうれしい」という貧乳女もいた。
しかし、イケメンにはイデオロギーは理解できないだろうという境地に達してもいた。
労働や部活、さらには株式投資などを経験しないと、なかなか「支配と従属」(イデオロギー)は、理解できず、さらに「男が語るだけで女が元気になってしまう」という現象も理解できない。
私はいろんな「男に興味のない女」たちと話してきたが、話すだけでクリニックから姿を消してしまう女性が多かった。
「イケメンは若すぎて駄目だわ」
女たちはそう語り合った。
処女の「高貴さ」を標榜するキリスト教と、マルクス主義は結局、妥協することはなかった。
「イデオロギーなんだよ」
そう主張するか、処女の高貴さに人生をゆだねるかのどちらかにしか男には選択肢はなかった。
「恋愛禁止のガールズユニット」と聞けば、そもそも「男に興味のない女」が寄ってくるのは必然であった。
恋するフォーチュンクッキー

いずれにせよ、資本主義の矛盾(男社会から生まれた若き日の恋)は、マルクスが描いていたが、それを「性の作法」(イデオロギー)にまで引き上げたのがアルチュセールだった。
アルチュセールは気が付いた。
「イデオロギーならばどの女も拒絶しないではないか?」
このことから、キリスト教社会の高貴さと「冷戦状態」になってしまったのだ。
マルクスの解釈論は数多くあったが、それを「セックスの作法」(イデオロギー)としたのはアルチュセールだけだった。
マルクスは「労働の過酷さ」を描いて「何故か」人気を博したが、レーニンは「プロポーズを頂点とした全体主義」を描いた。
スターリンは「処女とジャニーズ」を語った。
しかし、アルチュセールの異才は哲学史に燦然と輝いている。
彼がいなければ、マルクスも歴史の藻屑になっていただろう。
「マルクス主義は医学の世界で生き続けた」のである。
マルクスは、大英博物館にこもって、「労働者の現状」を描いたが、そこに「セックスの作法」(イデオロギー)を見出したのだ。
なぜ、マルクスは「革命騒動」を引き起こしたのかな?
それを鮮やかに描き出した。
弁証論的唯物論とは、イデオロギーを女たちに話すことをいう。
当然、どの強者も「女を口説く方法」は自分なりに持っているだろうが、そこに「真理」を見出すことを指導者の条件とした。
「支配する側」「裁く側」としてのブルジョアは憎かった。
15~16世紀からその感情は根強かった。
「資本主義から社会主義へ」「キリスト教からマルクス主義へ」
そう端的に表現することができるほど、キリスト教社会には「高貴の証」が蔓延していた。
1960年代から1970年代にかけて、世界が「高貴(キリスト教)」か「イデオロギー」かの体制選択を迫られた。
しかし、アメリカ合衆国は、「プロスポーツがある」としてこの議論をもみ消してしまった。
中華人民共和国は「人口が多い方が勝つんだろう」と見ていた。
日本国は「双方のいいところ」を取り込む作戦に出た。
アメリカ合衆国は、共産党を禁止している。
つまり、トランプ大統領が「イデオロギー」(セックスの作法)をセールスにかけたら議会で弾劾されかねない。
それでも、「なんでもありの王位継承に革命はつきものだろ」という割り切りが哲学の世界には存在するのだ。

イデオロギーが確立するということは、「女と簡単にセックスできる」という意味であり、それならば、女の側としては「おカネ」を要求せざるを得ない。
このことから、企業の業績や冬のボーナスなどが女たちの重大関心事になった。
日経平均株価は「女の値段」でありながらも、企業の業績と連動することとなったのだ。
それでも「イデオロギー」は必要なのか?
男がギンギンに勃つようなセックスは国にとっても社会にとっても必要なのだ。
「猫の手も借りたい」という国家の側のニーズと、「俺も働こうかな」という男の考え方に影響を与える。
妻やパートナーであればTOPIX(1700円程度)を支払えば犯罪性はないが、職場の同僚の女ならばジャスダック(3700円程度)を支払う必要がある。
世間話として「イデオロギー」を女に話すことは困難に近い。
女という「性」をここまでシンプルに支配と従属の関係に置いたのならば「おカネ」を払う必要がある。
イデオロギーの確立を見た19世紀以前は、セックスの時に女が男を侮辱して勃たなくさせる行為などが存在し、「支配と従属」「イデオロギー」「セックスの作法」にしたがわないと「気持ちよくない」という現実があった。
イデオロギーの浸透を見なければ、なかなか「経済指標」も明確にはならない。
男を「己の値段以上の高値で」労働市場に売り込むためにも、女の床上手(イデオロギー)は必要なものだった。
「勃てば男は仕事ができるのよ?」
Wink 愛が止まらない

より高品質な商品をお客様に提供するためにはおカネを取らなければならない。
「仕事ができる」ことと「勃つ」ことの連動を何らかのかたちで行わなければならないのだ。
男らしさを語り合う論壇(宗教)と、女心を定義する世界(政治)は、政教分離が一体となって「産業」をかたちづくった。
産業革命が起きてから、「イデオロギーの確立」を見るまで時間はかからなかった。
イデオロギーは、「支配と従属」を性欲の起源とみなしていたため、労働という精神史的文脈は「賃金」を必要とした。
恋バナを語る「司法」と、おカネをばらまく「立法」と、芸能界という「行政」の三権からなる政府が、いかに「恋バナ」「おカネ」「エンターテイメント」を国民に提供するかが問われた。
ローマ帝国の時代は「パンとサーカス」と呼ばれていたが、産業革命およびイデオロギーの確立以降は「恋バナ」という要素が強烈に強まった。
労働にせよセックスにせよ「支配と従属」にはおカネの裏付けを与えようという考え方がなされた。
マルクスは、搾取というものを「どこか間違っているよね?」といろんな新聞記事を集めて記しただけであったが、それでも、女性たちは熱狂的支持を与えた。
リカードの「人口が二倍になれば成長は三倍になる」などの理論は中国も採用しているが、果たしてマルクスが、自分の描いた「支配と従属」の階級社会を「男女の性欲の本質」(イデオロギー)とみなしていたかは明らかではない。
しかし、「労働が男女の間にエネルギーを生み出す」ことを悟り、1848年に「共産党宣言」を出している。
「女はエネルギーの源である」しかし、「女にとってはエネルギーは子宮から湧き出してくるものである」
これをいかに、経済発展につなげるかが重要であった。
うれしい! たのしい! 大好き!

「プロポーズという名の全体主義」に立脚するレーニンや、「処女とジャニーズ」に立脚するスターリンとは異なり、トロツキーはナチズムに造詣が深く、より「性欲のことをマルクスは記している」ことを理解し、クリスマスというものを作っている。
「従属したら快楽を味わえるしおカネがもらえる」
このことを「プロレタリア独裁」に委ねるか、「ああ官僚!的支配」に委ねるかは議論の余地がある。
イデオロギーには、女たちが敏感であり(唯物論)、その快楽を味わわされた男たち(資本論)の熱狂的支持を集めた。
こわいのは「企業の不祥事」などの事件を引き起こして世論から糾弾されることだった。
世界を敵に回すと男は勃たなくなるからである。
ガッツ石松は、減量しているときに「バケツ一杯の水に100万円払いたかった」と語っているが、必要な人がその商品に高い値段をつける。
「どこか間違っているよね?」という権力を糾弾し、世界を敵に回させれば、「イデオロギーに国家予算すら出すんじゃねえか?」と語られた。
これが革命という意味である。
糾弾されるということは必ず「被害者」「被災者」がいるということである。
このことから、イデオロギーを掌握しきれなかった権力者は「慰問」に大忙しとなっていた。
しかし、阪神淡路大震災の時の村山政権も、東日本大震災の時の菅政権も、「イデオロギー」に全く自信はなかった。
それでも、日本共産党は「全く動く気配がなかった」のである。
本当の意味で、私が上述した「イデオロギー」(セックスの作法)を日本共産党は理解していなかった。
「革命のチャンスは二度あった」
しかし、令和の時代には「イデオロギーとは君主が考えたもの」となっており、日本共産党の「夢」は完全につぶされたのだ。
反則を使ったやつは糾弾する、値しない奴は糾弾する、これは野党の考えでもあり、メディアの考えでもあった。
なぜなら、そういうやつが国家予算を「勃つこととの対価」にプロレタリアートに与えかねなかったからだ。
「糾弾」する理由は、説明義務違反・適合義務違反(あなただけが知っているんでしょう?という問題)から始まり、公正・平等であること、パートナーを裏切ったこと、投票プロセス・税収プロセスを懐に入れたことなど数多くある。
マンガ「カメレオン」で、松岡は矢沢に300万円を「お詫びに」支払い、矢沢が受け取ると「食った!」と笑った。
なぜか?
「世界を敵に回して帰ってくるから」である。
しかし、松岡に「イデオロギー」があったのだろうか?
ただ取りされるというのがその時代の背景にはあった。
世界を敵に回したら、「追加融資」を求めてきて土下座するだろうと松岡は考えたようだが、それでは革命にはつながらない。
私の考えた「イデオロギー」(セックスの作法・性欲の起源)はおそらく真理であろうが、それが風化した時にはインフレになるであろうし、「新しいイデオロギー」を考え直さなければならない。
肉体派労働者に中学高校時代に守ってもらうために、虚弱な男はカマを掘られていた。
「大人になっても図式は同じ」であるのならばそれは「ベーシックインカム」つまり「背広組と制服組の賃金調整」を認めることになる。
ベーシックインカムの議論とは「肉体派の男に虚弱な男が守ってもらう」という議論である。
未熟練工の世界でベーシックインカムが問題になるのであり、「頭脳がすべて」という連中はベーシックインカムは問題にはしていない。
頭脳がすべてという職場を「スイートショップ」とも言う。
また、営利目的の「代理母」などは、「両親がどのようにロマンティックラブに支えられ、どのように子供を授かったかの物語がない」という指摘も可能であろう。
イデオロギーというものは「子供を授かる」ことそのものにロマンティックさをもたらすのだ。
松田聖子 抱いて

自己疎外とは、自分と世の中が遠くかけ離れることをいう。
東大に合格した私も、フィギュアスケートでオリンピックで二度金メダルを取った羽生結弦も「自己疎外」は経験している。
羽生は、トロントの家で、日本語のテレビ番組を見るのを趣味とし、近くのナイアガラの滝にも行ったことはない。
世界各地を旅しながら応援するファンがいて、イベントで二万のスマートフォンに狙われたこともある。
周囲が「女を遠ざけてやろう」と考えることが自己疎外の原因であり、私も「女は幻」と考えるようになり、アイドルを創造した。
「聖母マリアを信じるか?」
それは「お前はスターか?」といわれているのと同じ意味なのだ。
なぜ、マルクス主義は、この「自己疎外」に注目したのだろうか?
革命が起きる可能性があるからだ。
特高警察赤狩りは、そのような男に女をあてがう仕事を行っていた。
阿修羅少女

ひきこもって聖母マリア崇拝している男に、周囲は案外好意的だった。
近所のおじさんやおばさんがクリエイトしている作品であったり、私の場合は父方母方の祖母がクリエイトした作品を見ていたからだ。
マルクスは、フォイエルバッハに「好きなものを見なさい」と言われ、エンゲルスの送金だけを頼りに、生涯質素に過ごしたが、彼のフェティシズムは「労働の支配と従属」にあった。
男のフェティシズムを質素な生活の中で「支配と従属にある」とさせたのはマルクスであったし、それを明らかにした周囲はほとんどネジがぶっ飛んだ連中だとしか言いようがなかった。
からだを売らずに労働や勉強などを男ができるのだろうか?とも言われ、いずれにせよ、ひきこもって「聖母マリア崇拝だけしていいよ」と言われるのはスターの特権であったし、そもそも「季節だけ変わる」という経験もスターにしかできないものであった。
Melody 季節だけ変わる

「神を信じたい」
その気持ちが、男女をひきこもりにさせていた。
女は「レイプや女嫌い」だけが神に失望する理由であったが、男はもっとタフだったものの、それに類似した理由からひきこもりになっていた。
マルクスは、自らの「資本論」が男女たちの熱狂的支持を集めたのを見て、「俺のフェティシズムは正しかった」と喜んだし、それを「真理ではないか?」と考えた。
そこで「イケメンにこのセリフを言わせてみよう」と考えて選ばれたのがヘーゲルだった。
ヘーゲルにはマルクスのような人生の苦みなどなかったし、ヘーゲルが言った方がいいのかマルクスが言った方がいいのかは対立があった。
愛の倫理社会 おニャン子クラブ

レズビアンのカテリナとローラは「従属ってのは違うと思うんだ」と語った。
しかし、かなりレズビアン特有の「攻撃性」をもってマルクスを「獲りに」来た。
マルクス主義の起源が「自己疎外」つまり「自分と世界が遠くかけ離れる」状態にあったのは事実であったし、ひきこもりにならなければ男女のフェティシズムは明らかにはならなかった。
さて、マルクスのフェティシズムは「支配と従属」であったが、それはあくまでも「ノンケのもの」とし、「俺もいろんなものを国に売りつけたい」として「物象化論」というフェティシズムの議論が発展した。
しかし、物象化論を「国民が」拒絶してしまったのだ。
「ヘンタイは国民のわずか8%」という現実を痛感したのが現状だった。
「支配と従属」というノンケだけの世界ではないという論陣は根強く残ったが、マルクスの「イデオロギー」ほど高く国に売れたものはなかった。
皆さんも「フェティシズムの向こう側」に関する議論は「日経平均株価を暴落させるだけ」ということはよく理解しながら財務省や日銀に売りつけた方がいい。

プロレタリア革命について 小野光太郎講義

ブルーノ・バウアーは、思春期の頃に、合不合判定テストを上智大学で受けるなどして、東京の「層の厚さ」を感じなければ、性的に不感症になると考えた。
東京という大都会は、進出がきわめて困難であるからこそ、横浜などに「性欲」をもたらしていたのだ。
東京・名古屋・大阪・福岡の「四大ドーム公演」は性欲の象徴であり、実際にそれを行うと、周辺地域に性欲がもたらされた。
これが「マルクス主義の温床」となった。
最初から「東京出身」などという人は、そもそも「感じない」「野心がない」可能性があったのだ。
大都会の壁を思春期に感じるというのはそれほどのちの人生に必要なことだった。
東京進出が困難だと考えても、東京に住むよりはまだ可能性があるのだ。
東京パフォーマンスドール ダイヤモンドは傷つかない

マタイもマルコもルカも「地方出身者の性欲」について語っている。
パワフルなエネルギーは横浜市港南区にしかないのではないかと思うぐらい、私の出身地は芸能人や有名人に満ち溢れていた。
マタイもマルコもルカも、聖書には珍しく「聖母マリア」という女性アイドルについて語っている。
バウアーは「ヨハネのゴスペル」なども研究した。
田舎者ヨハネこそがメシアなのではないかと考えたからだ。
赤いスイートピー 松田聖子

東京に「下宿」し、各自が故郷があるという図式以外にサクセスストーリーは見いだせない。
「上京した時に何もかもが新鮮」でなければ性欲は生まれないのだ。
オーディションをやっても「君、俺と相性がいいね」というぐらい感度がいいのは田舎の女だった。
ドイツで、バウアーは「ダウンタウン」というものを作った。
ウォルマートは「地域の人材発掘」と称し、各地方にコンビニを作った。
コンビニエンスストアチェーンと結びつかない小選挙区制は想定できない。
マルクスの「共産党宣言」は、ベルリンで「お笑い」にはなったが、「田舎者って面白いね」というリアクションにとどまっている。
「地政学で勝者は決まっている」とも言われている。
国会議事堂や東京タワーが近くにある「下宿」と、そのような風景が全く想像できない「故郷」にこそ強烈な性欲と野心が集まった。
中学受験の時に弱くても、大学受験にめっぽう強い、あるいは、社会人としてのポテンシャルも高い「ヨハネ」はこのようにして生まれた。

ニューヨークブルックリンのマービン・ハグラー、ニューヨークキャッツキルのマイク・タイソンなどは、「両腕を動かすことが性欲につながる」ことを証明している。
つまり、アルツハイマー病も、パーキンソン病も「左腕・右腕の問題」ということを医者は冷静に見ていた。
皇居ランナーなど、両腕を動かすことの快感に取りつかれる東京人は多い。
マルキュースも「体育館」から都会人としてのキャリアを始めている。
体育館がなければ性欲がわかないのが都会人だったからだ。
マルクスの「イデオロギー」はなぜ、共産党宣言で敗北したのだろうか?
これが、大都会という問題であった。
やがて、その発想は所得再分配と大都会のあり方にもかかわる問題へと発展している。
異常性欲を疑うのならば、思春期の「大都会の壁」と、その後の大都会進出を研究しなければならない。
Maji で Koi する5秒前

マルクスの共産党宣言はなぜ大都会で敗北したのか?
アメリカ中西部の女たちはいまだに不思議がっている。
私も東京大学ボクシング部で「レフトフッカー」として、左フックの魔力に取りつかれている。
都会の人間の性欲とは左右の腕にその起源が求められる。
大都会では両腕を動かさなければ、目が死んだ魚のようになるだけだ。
東京の人間はとにかくセカセカしていなければ性欲が萎えるのだ。 「空いている電車で立っている方が落ち着く」 私の顔 タンポポ
マルクスの「イデオロギー」は、田舎では「信者」が多くいたが、都会では「お笑い」に過ぎなかった。
このことから、マルキュースは、大都会と帝国主義の研究を深めることになったのだ。
マルクスの共産党宣言が第一インターナショナルであるならば、第二インターナショナルは「地方と都会の問題」に気が付いた存在だった。
東京において、共産党は第二インターナショナル以降、「大都会の問題」が得意になっていったのだ。
大都会と「性欲」の関係を理解しているフランクフルト学派はとにかく恐れられた。
エリート主義と「標準語」まで作り上げた。
また、大都会では、性欲を掻き立てるために、女性たちはファッションや美の探求にこだわった。
女に買い与えるものは洋服でも食べ物でも「商品」と呼ばれた。
売買するものすべてが「商品」であり、盆栽でも花屋に並ぶサイズのものは「商品」と呼ばれている。
そもそも、女のからだが「商品」だった。
ケインズは「おカネとは金額が数えられ、女が買え、どの女にも通用するもの」としている。
「いつも同じ服を着ているから」入店拒否にする心ない個人事業主もいたのだ。
女一人口説けない男とみなされたのだろう。
Complex Rambling man

第二インターナショナル(コミンテルン)は、「イデオロギー」のセールスを見るだけではなく、都会における「商品」の流通に、革命や帝国主義の可能性を見出していた。
アダムスミスは「いい大学に入って、いい会社に就職して」という方向性を正解としていた(究極)。
マルクスのイデオロギーも、フロイトの「女心」も、真理ではあっても東京進出は困難であるとコミンテルンは考えていたようだ。
東京で「お茶の間」の人気を博す程度に終わるのが「真理」であった。
東京の人間はとにかく「一次元男」と呼ばれるほど「動かなかった」のだ。
基本的に、エロ・グロ・ナンセンスしか売れなかったが、マルクスやフロイトも当然セールスを伸ばした。
女流作家の版権がテクノロジーを進化させた。
外国人のロッドの物語が女流文学だったのだ。
大都会の「一次元男」を動かさなければ権力が動かなかった。
そこで、マルクスのイデオロギーや、フロイトの「女心」をフルに活用することになったのだ。
都市化の進んだ日本国では「ジェンダー差別」が先進国最下位であるが、それも「日本帝国主義」ならではであろう。
真夏のフェミニスト ribbon

イデオロギーというものは「時の権力者」が裁断的に決めるものである。
あるいは、うまくイデオロギーを決めたものが権力者になると言ってもいい。
イデオロギーは財務省や日銀に伝わり、立法がばら撒くカネにつながる。
つまり、口説き文句(法律)が生まれるのだ。
男は話を聞くことを覚え、女は優しくなることを覚える(恋愛)。
しかし、男は話を聞きながら、うまく女を口説かなければならない(法律)。
イデオロギーとは「法律の向こう側にある」「本番」のことであるが、それでも男たちは女を口説く方法(法律)を知りたがるだろう。
いきなりイデオロギーを語られたのでは、女も「男の値踏み」ができずに、その気になれないものだ。
そのために、法律の力量を聞いてからイデオロギーの話を聞きたがるのが女だ。
イデオロギーというものは、とにかく笑いを取って「証明」するものである。
資本主義の矛盾とは、法律を勉強するか中学高校で恋をするかの選択を迫られることをいう。
中学生の時にセックスしたら、内申書に響く(麹町中学内申書事件)。
女を口説く方法(法律)を学ぶ機会を没収されてしまうのだ。
これがマルクス主義に対する日本政府の扱いであった。
イデオロギーは時の権力者の権力の源泉であった。
しかし、法律(女の口説き方)を研究しているうちに気が付いたものにすぎず、より社交的に、担保(女友達)を増やしていくためにはイデオロギーだけではなく法律を知る必要がある。
「小野さん、みんなあなたのこと頭おかしいってさ。法律に関して聞かせてください」
私はこのような感想を女性からいただいている。
権力を得るために必要だから明らかにするイデオロギーも、女の口説き方(法律)の知識がなければ意味がない。
本番で何をするのかを理解してから女を口説くのが普通だろう(法律の源泉としてのイデオロギー)。
四月は風の旅人 松田聖子

「賄賂と認定するためには対価性が必要」「あくまでも経営判断によるもの」など、弁護士は独自の「日本法」を東京大学で学ぶ。
しかし、それでは芸能界にナメられたままであろう。
すくなくとも、イデオロギーと法律は「日本法」に合わせて学ぶものではない。
あるいは、処女とその高貴さを体制選択において行った日本法が独自の発展を遂げたのかもしれないが、世界レベルで通用するものではない。
少なくとも、日本の芸能界は「法律=女の口説き方」という発想をすでに受容している(民法典論争の敗北)。
「私と話をしていてゲームやマンガの話ばかり?」「もっとロマンティックな」
法律(女の口説き方)とはそれほど女たちに人気のあるものだったのだ。
「テレビで言っていること」を真似すれば、司法試験にも国家一種試験にも受かるというのであればそれは所得倍増計画であるが、私の「横浜ボーイスタイル」をテレビが採用することはない。
行政事件訴訟法(芸能界の架空の話)がテレビに蔓延しているうちは、所得倍増計画は打てないのだ。
「結婚も嘘」「子育ても嘘」そんな現状を苦々しく私は見ていた。
「リーガルマインド」
これを「モテる男」は持っていたし、みんなが真似をした。
しかし、「今までの国家試験」がある限り、所得倍増計画を打つのは難しい。
ドラマを録画してセリフを暗記するのが国家試験対策であるというのが理想であるが、それも「今までの国家試験」がある限りどこかで調整が必要だ。
プロフェッショナルの大衆化というのは多くの利権に阻まれる。
来年の大河ドラマの明智光秀すら、私は「所得倍増計画につながらないではないか?」と考えている。
もっとも、私のブログの読者にはすでに「所得倍増計画」は伝わっていると思う。
なぜ、所得倍増計画は受け入れられないのだろうか?みんな「アウシュビッツ」が怖いからなのだ。
アウシュビッツのトラウマが生々しかった時代にしか所得倍増計画は打てない。

社会主義とは、「女がからだを売った」ら、日経平均株価以上の富が国家にもたらされるとし、芸能界などの「負の側面」におカネを流そうというラポールの思想をいう。
「からだを売る」「からだを張る」ことほど国家に富をもたらすものはなく、からだを売った女だけにとどまらず、からだを張った男も社会主義の恩恵を受けることができた。
「小野君、朝から晩まで勉強して」
そんな私も気が付いたらラポールという体育館で運動をしていた。
愛される女はセックスしていたし、愛される男はからだを張っていたのだ。
「愛」が社会主義の根底には存在し、基本的には「労働」の世界のことを意味した。
国策としては「お年寄りやお体の不自由な方」を丁重に扱うことを社会主義と呼んだし、その方が国が豊かになった。
人生にはいろんな出来事があるが、からだがガタついた人間ほど国に貢献した存在はない。
大雑把に言うと「愛」なんだよね。
愛の対象になり、異性を慰めてきた人生が今の姿となっているのだ。
最後に、共産主義イデオロギーへと発展するかは明らかではないが、とにかく「からだを売った女」「からだを張った男」特に「芸能人」を手厚く扱おうという思想であると言っていい。
女が「男の序列」を決めているのだとすると、からだにガタが来た男は、序列が高いのが通常である。
「才能/必要」原則とも呼ばれ、これが障害者自立支援の思想になっていることは明らかである。
しかし、老齢年金や後期高齢者医療は手厚いものがあるが、資本主義社会は必ずしも「芸能人」には寛大ではない。
芸能人であるのならば、自力で「富」を集める才能が見込まれているからだ。
私は、からだを張った人に富をおすそ分けすることはできる。
それは「社会主義思想」である。
日本国は、社会主義思想を表立っては採用していないが、財務省や日銀は「可能性」としてそれを組み込んでいる。
あるいは、私は立憲民主党や国民民主党・社民党の政治家が本来果たすべき役割を演じているのかもしれない。
社会主義思想は「意味のない苦労はさせない」という意味でもあり、ブッダへの忠誠心を求める仏教の世界は、なかなか社会主義思想とは結び付かない。
むしろ「マルクス主義」と仏教は近いと言っていいい。
「意味のない苦労をさせる」
それは、豊かさが約束された人々が行うものだ。
2~3時間、法事で正座したら御馳走が食べられる。正月に義実家に帰省したら御馳走が食べられる。
すべて、「当たり前ではない」ことなのだ。
からだを張った人間に豊かさを約束するのが社会主義思想であるが、それが実現するのならば共産主義体制への移行がなされたことを意味する。
すべて、指導者の力量次第である。
義実家で正座させられた奥さんがいるのならば「何を食べさせてもらったか?」を思い出さなければならない。
社会主義細胞は常に資本主義国家で地下活動を行っている。
いろんな人にいろんなものを与えているのだ。
自分の選挙区においては政治家だけは社会主義体制を敷いているはずだ。
私は本ブログを「からだを張って」書くことで、「知的社会主義」を実現している。
資本主義体制の中から、いろんな「贈り物」をする人が社会主義体制を作り、最後に「イデオロギーのもとにある」共産主義体制へと移行する、これがプロレタリア革命である。
「人にものをあげているうちに分かってくる」
そのような境地に達するのだ。
仏教界の中枢は「涅槃」(苦のない世界)とは何か?という問題に沈黙した。
社会主義体制を経験して気が付かなかったか?というのが答えだった。
社会主義体制は「権力の集中」を引き起こすために敷くものだ。
そのため、各政治家は自分の選挙区を社会主義体制にしている。
これを「国家レベル」で行ったのがソビエト連邦だった。
「意味のない苦労などない」
これが福祉の奥義であるが、福祉の現場では、個人的な「恋」という感情に頼っている側面も指摘できる。
「恋」とは「仲間が多い、何かやってくれそう」という男に抱く感情であるが、それはそれで芸能界では成り立っている。
Melody 運命’95

自らがからだを張って苦労し、のちの世代に苦労を残さなかった「小野社会主義」に財務省や日銀は染まっている。
「これが政治なのだ」
自らが知的な困難に立ち向かい、のちの世代に楽をもたらす。
「これが政治家なのだ」
毛沢東やレーニン、スターリンなどはそうだっただろう。
天皇制は君主制である。
しかし、マルクス主義とどのように異なるかの答えはいまだ見いだせない。

また、従来の「軍事オプション」による占領ではなく、「宗教スポーツ」と「アイドル」「芸人」が結びつくことから、日本に住んでいる朝鮮人・中国人・ロシア人を、女の子ならば「神道系音楽」を歌わせることにより、あるいは男の子ならば「お笑い芸人」にさせることで、本国の男の子たち、女の子たちが「結婚したい」と考えるという手法で、植民地化を進めてきたのがプロテスタントによる政策であった。
日本国の「神道」は現在、「世界で最も洗練された」レベルにあり、朝鮮・中国・ロシアのアイドルを生み出すのはたやすい。
あとは、子供たちの語学力次第である。

 

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