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2019年12月

2019年12月24日 (火)

処女~その高貴さ。

イデオロギーに関してはすでに述べたが、1960年代の東京は「セックスと革命の嵐」に襲われた。
その中でひときわ輝いたのが「吉永小百合」である。
「処女~その高貴さ」
これを語るうえで、吉永小百合や伊豆の踊子は避けては通れないものだ。
周囲が「生娘」がいるために、言動を慎み、生娘に「簡単にセックスすることはできるけど、生娘のままいてもらった方が都合がいい」と考えたのだ。
それは、サークルに「刑法」が必要だったからである。
処女のことを「実践理性」と言うが、構成要件とは「実践理性の定言命令」と呼ばれる。
処女とはきわめてノスタルジックな概念であった。
しかし、処女たちが語る「男らしさ」つまり「処女神学」とは常に「童貞」を意味していたため、少年雑誌の読者に処女を取り込んでいくためには主人公は常に童貞であらなければならなかった。
少年雑誌のセールスが「処女神学」の動向を示していたし、そのまま日経平均株価となった。
少年ジャンプや少年マガジンを読んでいる男は、「自分の周りの女たちは全員処女」という発想が抜けきらなかった。
「性行為非公然性」(アクラシア)というものが出来上がった。
それで、世の中をうまくわたっていけるかは困難な問題だ。
しかし、イデオロギーの確立と同時に、国家は「日経平均株価を上げる」ために、少年雑誌をガンガン売り始めた。
しかも、その内容が「面白かった」のである。
「はじめの一歩」は30年以上にわたって若さと童貞を維持し続けた。
政治的弱者を生み出しかねないのが少年雑誌のセールスであったが、それでも国は豊かにはなる。
CoCo メロディー

優生学は「人間は鈍い方が生きていきやすい」としていたし、女は少年雑誌を読む男の鈍さに「常識を知らない」と感じた。
なぜ、処女神学は童貞男をヒーローにしたのだろうか?
中森明菜 十戒

少年雑誌や処女神学も「男が勃たなくなる」ことは「タブー」としていた。
恋の話で盛り上がれるうちは処女神学は強い支持を受けたりもしたのだ。
酒井法子 天使の館

イデオロギーが確立した時代に、少年雑誌の山に囲まれた男は「エリートではあっても政治家には向いていない」と周囲から奇妙なメッセージが送られてくるのを聞いた。
そうだ、なぜならば「国の豊かさにはつながる少年雑誌」ではあったが、読者は「大衆」と呼ばれたからである。
常識を壊していく「知的トレーニング」が必要であったが、それでも彼は「メシア」であり続けるだろう。
なぜならば「エリート」だからである。
処女神学が「エリート」を生み出していたが、「踊り子と学生さんじゃね、世の中にはどうにもならないことがあるんだ」とおばさんは語った。
あくまでも「おとぎ話」の世界で出会った二人に過ぎないということを物語っている。
「甘美なるもの」ともいわれたし、「幸福の関心と道徳」とも言われた問題だった。
伊豆の踊子

なお、吉永小百合の映画作品の「お相手役」として定番だった浜田光夫が、「事件」を起こした後に、復帰したが、「もはや世論は浜田を受け入れることはなかった」と語られている。
これは、浜田光夫の「童貞性」を世論が認めなかったことを意味するものと思われる。
これが「処女神学」と呼ばれるものだ。

そもそも、処女たちは、君主トマス・アクイナスが、即位するプロセスで自分をいじめた者たちの物語をペテロの葬列として描いたことから、「いろんな男たちの論理」を知り、「シスター」と呼ばれる集団を形成したことにその起源を見出すことができる。
シスターが「いろんな男たちの論理」を知らなければ、スポーツではなく、戦場で人を殺すという戦争が起きかねない。
「平和」というものは「スポーツビジネスにめっぽう強い」者が唱えるものであり、自分がいじめられたくないから権力者が唱えるものではない。
カントはあくまでも「刑法」を作るために処女というものに注目したが、処女たちは「いろんな男たち」を語り合いたがったし、どの男に初体験を許すのかについて関心を抱いていたのだ。
そもそも、1970年のミシェル・フーコーの「生まれながらの男女」が生まれる以前は、「おじ」にいじめれることで男の子はちんちんがデカくなったことから、秘宝館のようなものも「おじさん」崇拝であったし、ペニスエンビーの沿革も「心ないおじ」に求めることが可能だ。
祖先崇拝というものは、叔父とチンポ、おばあちゃんに愛された女の子、という構図が理解できなければそもそも生まれないものだ。
真夏のフェミニスト ribbon

「処女の発見」はそのまま、男の子の「童貞の発見」へとつながった。
そこで、ダビッドソニアン(恋派)と、ウィリアムジアン(愛派)の区別が男の子に生まれた。
酒井法子 恋と愛のニュアンス

恋派(ダビッドソニアン)の憧れがハーレー・ダビッドソン(バイク)である。
恋派とは仏教・マルクス主義を背景にした存在である。
あの夏のバイク 国生さゆり

簡単に女を口説き、簡単にセックスすることができる仏教徒・マルクス主義者には、ハーレーダビッドソンジャパンが「高いバイク」を売りつけることにした。
「女はそんなに安くはないのよ?」
ハーレーに乗る男はどの道「人の心」(心理学)に興味を持ち、そして語らなければならなかった。
たとえ低学歴であってもである。
職場の「人の心の評論家」であればハーレーに乗れたし、たとえ鉄筋屋の兄ちゃんであっても、それさえやっていればハーレーに乗れたので、それなりの読書をするモチベーションにはなった。
給料日になるとポケットに30万円ねじ込んでゲーセンに行く鉄筋屋だったため、愛派の私とは文化が異なったが、その勤労意欲や、「人の心を語る力量」にはそれなりに敬意を払っていた。
ウィリアムジアンは、ウィリアムズの車に乗りたがる大卒(愛派)のことを言ったが、生活費の中での車にかかる費用の割合はそんなに高くはない。
いずれにせよ「文化」が違うのだ。
ピーナツが好きなダビッドソニアンと、柿の種が好きなウィリアムジアンの区別をするために「柿ピー」というお菓子が売られている。
男の「値踏み」をするのには都合がいいのだ。
rebecca cheap hippies

ウィリアムズは「柿の種が好きなブルジョア男」を見抜く眼力は処女にはないよね?と語った。
いい車にいい生活、しかし、人の心に鈍い、そんな人物像がブルジョアには見られた。
私の魅力に気付かない鈍感な人

柿ピー占いは「お育ちに過ぎない」つまり「サラダ」と呼ばれ、のちに化ける可能性を考慮しないものだとも言われている。
しかし、処女たちには「時間切れ」というものがあり、お育ちを見るしか人を見極める方法がない、とされている。
「口に入れるものを見るのが一番正直だ」とされたのだ。
柿ピー占いひとつとっても「楽しき処女の世界」と言われ、男選びを女たちが語り合う論壇(宗教)は、処女が発展させることとなった。

あるいは「落ち着かない椅子の座り方」をする人は「私を軽く見ている」などという見方も処女には必要になってくる。
時には「別の世界に夢を持っている人」という見方も可能ではある。
どっかりと腰を下ろして今の周囲の人たちへの愛情を示す必要があるのは事実であろう。
「自分が買った車か、親が買った車か?」という判断はウィリアムジアンの立場から「椅子への座り方」で研究が進んだ。
将来の可能性は「椅子」で見るしかないと処女たちは語り合った。
目の前の女を愛するためには「椅子にも演技させる必要がある」とされる。
女たちはみんなが「私は生涯骨をうずめるのに完璧な存在」と考えていることも知らないといけない。
あるいは、間抜けな自分の表情を写真で公表できる男は「魅力をいろんな方法で高めていく力量を持っている」とされ、「表に出れない顔」とさほど区別はつかなかったが、とにかくすっぴんで写真に写れる男は才能を感じさせた。
あるいは、すっぴんの写真を公表できる男は「性欲がある」とされ、勃つかどうかが判断できた。
変な「アニメキャラ」などを表に使う男は勃たない可能性がある。
「自撮り」を取りたがる女も同様に性欲があった。
Little glee monster 愛しさにリボンをかけて

男の「才能と性欲」はきわめて処女たちにとって大事な問題だった。

「育ちの良さ」「私への愛着」「才能と性欲」が、柿ピー、椅子、写真からわかるようになっただけでも、処女たちは大盛り上がりだった。

カントは、クリスチャン・ウルフの「レイプ学」から哲学の世界に入っている。
そもそも、現在のカリーニングラード(当時のケーニヒスブルク)で育ったカントは、バルチック艦隊の資金の裏付けを得た人物であるが、日本は日本で、レイプ学に関しては負けてはいなかった。
公衆浴場でシャンプーしている途中の女を犯したり、娘に目隠しをして男とセックスさせ、目隠しを取ったら相手の男が実の父親だと気が付くなど、ウルフの「資金集めの方法」は、「お前、それでもクリスチャンか?」といわれるようなものであった。
いずれにせよ、カントに「おカネの」勘定を教えたのがウルフだった。
伊藤博文は、東プロイセンのこのような「資金集め」をみて「プロイセンを見習いたい」と考えたエッチなおじさんだった。
カントは「イデオロギーの発見」以前の人物であるが、性欲の起源を「悟り」(自殺)に見出している。
こんなことをしたら家庭が崩壊してしまう、そのような「映像」をたくさん作り、人々に提供したのだ。
出演した男や女に多額の金を払えば、家庭は崩壊をとどまるのだから性欲というものはうまく成立した。
あるいは、女に騎乗位で、ちんちんをこするだけで「君、スタイルいいね。うまいうまい。今すぐうちの店で使えるから」といって二人きりの話し合いを撮影し、突然、「挿入」し、女が「私は歴史よ?撮影しているんでしょう?」などとビクンと反応する場面などを研究した。
これが「プロイセン」の国の生い立ちであり、世界で同様の「国の生い立ち」をもっているのは中国だけだろうとされている。
カントほど「処女と非処女」の扱いを明確に区別した男はいない。
金集めに使える女を「純粋」と呼び、秩序の維持のために大事にしなければならない女を「実践」と呼んだ。
挿入が破滅につながる「悟り」(自殺)に性欲の起源を見出し、そのような映像を作っては多額の金銭を支払い、それを視聴者に提供するというウルフの研究を引きついで、カントはその後、「デカすぎるイチモツ」(超越論的)の研究へと移った。
男女混浴の温泉で、女に「デカすぎるイチモツ」を見せて、「いじめられるとこうなるよ」と人生について語り合った。
そのあと、女がマスターベーションするのが分かった。
デカすぎるイチモツに「男の人生」が詰まっている以上、女は話をするだけでマスターベーションした。
そもそも、男女混浴の風呂とは、男の人生を語り合う場所であり、女がマスターベーションするための場所であった。
挿入が破滅につながる「悟り」(自殺)の次は、デカすぎるイチモツに「女の」性欲の起源を見出している。
デカすぎるイチモツから、パイズリをし、胸に射精をしただけでなぜ女が快感の声を上げるのかという問題から「子供が産みたいという感情が性欲の起源」ということは分かったが、なかなかカントの時代には「イデオロギー」までは到達しなかった。
胸に射精をすれば女が感じるというのは重要な論点だった。
「顔ではない、胸なのだ」
これが女の「自意識」というものだと知った。
貧乳レズビアンに「胸に射精をされるのは好きですか?」と問いかける必要がある。
「悟り」(破滅・自殺)型の映像を見たり、デカすぎるイチモツ型の映像を見たり、胸への射精(自我)型の映像を見たりしたら、女は感じるのではないかと考えた。
いずれにせよ、数学者カントに「哲学」を教えたのは、クリスチャン・ウルフであった。
カントは、メジャースポーツに「哲学」を用いることにした。
私も「カントはもっと紳士だっただろう」と考えて、女の子たちにかなり紳士的な「感じる話」をしてきたが、カントもマルクスに負けず劣らず「お下劣」だったのだ。
マルクスを研究した後に、「カント再評価」をしなければ、その「真の意図」を理解することは困難であろう。
超越論的とは「大きすぎるもの、小さすぎるもの」という意味であるが、これを「勃起」と同義であると考えるに至るのにはある程度の哲学の経験値が必要だ。
「見て、聞いて、触って、想像して」射精をするのならば、その「想像」という部分をいじろうとカントは考えたようだ。
高橋由美子 レイニーデイ×3

カントはあくまでも数学者であった。
メジャースポーツのルールを作り(裁断的)、そこでカネ集めの方法を探す(裁量的)な憲法観を持っていた。
観客の男たちは、かつてはそのスポーツを自ら楽しみ、誰よりも「自分をいじめた」選手を見に来ていた。
女たちは、男たちが自分をいじめてちんちんをデカくする場所に集まったのだ。
キャンパスライフにも、同じような「偏差値」「いじめ」が存在し、キャンパスライフを楽しむこともメジャースポーツだった。
片思いの終わりに 亀井絵里

東京大学の「ジャパニーズサバイバル」はいまだに世界的評価が高く、その入学試験のし烈さから、キャンパスで遊んでいても、日本語で試験をやり、日本語で授業をやっていても、世界ランキングは22位とされる。
あくまでも「スポーツ」の観点からのアプローチであり、学者の講義の内容をグローバルスタンダードで見たものではない。
法学も医学も「妻の貞節」さを最大限に活用し「意味不明」な世界観が構築されている。
悟り(自殺・破滅)にこそ性欲の起源があるとしたカントは、「私、売れないからだなんです」という人妻をレイプすることにその沿革を見出すことが可能だ。
プロイセンはキリスト教社会ではきわめて個性的な輝きを見せている。
マルクスほどシンプルに「支配と従属」に性欲の起源が見いだせたわけではないが、「皇帝カント」なりの思索のあとは垣間見える。
だが、「経済学の誕生」とまでは言い切れないために「哲学」と呼ばれているのかもしれない。
他にも、キャミソールを下ろして胸を晒すなど、洋服も「心理学ではなく物理学に頼らなければならない」ことを女たちに教えた「悟り」の可能性もカントは示した。
マルクスの「イデオロギー」に造詣が深かった明治天皇は「王政復古の大号令」を出すに至ったが、カントに造詣が深かった伊藤博文は「先生」と呼ばれ、カフェーの、女主人が「伊藤先生に抱かれれば箔が付くから」と言って、生娘を差し出す有様であった。
カントは「女の子の初体験と悟りの関係」にもその関心を寄せたのだ。
挿入が「悟り」(破滅・自殺)であるというところにカントの真骨頂があり、たとえば、保険の営業レディーに、「カネを払わせるのならばからだを売れ」というような「必然」もかつては横行した。
初体験にせよ、営業レディーにせよ「撮影しなければ意味がない」という側面がある。
女の胸を見ることに「自我」を感じ、男の「デカすぎるイチモツ」に超越論的なものを感じ、最後に「悟り」(破滅・自殺)を感じる、このような「ポルノの方程式」を明確にしたカントは、あきらかに「皇帝」であったし、ネジのぶっ飛んだ男として仲間が多かった。
渡辺美奈代 ちょっとフォーリンラブ

 

定言命令は、自我と超越論的と悟りの三つから成り立っている。
カントは、「エロビデオの可能性」を探求した後に、「義務を守るとは何か?」「キリスト教とは何か?」を語った。
あくまでも「三大ネットワークをしのぐ富を生み出す」方法を探求した後に、「楽しいキャンパスライフ」を提供しようとしたのだ。
「気持ちいいことしたい?」というのを「最高善」と呼ぶが、それは決して「女の側」から言うものではなかった。
若い女が客引きをやって、中年のおばさんが出てくるような世界であるのが現実だった。
瀬能あづさ 愛になりたい

定言命令と仮言命令は、レイプか和姦かの違いの区別を行うために考えられた概念である。
キャンパスでは当然、仮言命令に従って、彼女にカネを払わなければならなかったが、定言命令を知っているかどうかが男の知性というものであり、定言命令を二人で映像で楽しんだ後に、仮言命令に入っていくという方法が穏当かと思われた。
おカネが必要である学生ならば、当然、定言命令は理解しておかなければならない。
ハンディカムと仲間がいればいいだけだったからだ。
カントは、それぞれの女の「育ち」「家庭のルール」から人間らしさを抉り出そうとしたのであり、三つとか五つとか言って女を買っても「面白くない」ことを明らかにした。
自我と超越論的、そして悟りの三つがなければ面白くないと考えたのだ。
おのずと「守らなければならないルール」「市民としての自覚」が芽生えるということから、性行為非公然性(アクラシア)にキリスト教というものを見出していった。
教義が先なのか、エロさが先なのかは明らかではないのがカントのキリスト教であった。
旧約聖書に従って「禿げない方法」「禿げを笑いに変える方法」を私も明らかにしたが、イスラエルの北にあるレバノンでは、公然と「キリスト教ファイナンス」および「教義」が実践され、イスラエルの「陛下」の支持基盤となった。

カントの「自我」(女の胸)、と「超越論的」(デカすぎるイチモツ)、そして「悟り」(破滅)は文明化の象徴として世界に広まった。
我が国が「世界人権宣言」や「国際刑事裁判所」に加盟したことからこのような文化が広まったものと考えられている。
台湾や中国にもすでに広まったが、「朝鮮半島の人間はカントを受け入れていない」ということも考えなければならず、日本国が「文明化」を導く可能性も捨てきれない。
ルター派が「あの女性芸能人が脱ぐ・脱がない」を散々問題にしたことも背景にある。
芸能界がなければ文明化はそもそもない。
道教のサウンドで歌う仏教徒の美男美女が、ヒンドゥー教のきれいな息を吐き、儒学によって人格をぶった切り、削り、磨くことから、アジア地域にカントを受け入れる土壌が出来上がった。
桜蔭女学院の皆さん、先ほど撮影させていただいたセクシャルポーズから、下山さんが「分身」を水鉄砲にしました。
下山さん、最終学歴は?「中卒です」
下山さんは大変立派なイチモツの持ち主です。
それでは、桜蔭女学院の東大を目指している女子高生の胸に、下山さんの分身をぶっかけてみましょう。
「キャー」
カントは、クマやオオカミがいる世の中で「勉強に意味を与える」ということを母に教わった。
母親から、教科書を渡され、読み、要約を答え、母親に正解を聞くということから始まり、勉強こそが自分をクマやオオカミから身を守るだろうと考えたのは日本の神道と共通しているとされる。
やがて、クマやオオカミから身を守る手段は「レイプ学」へと変わっていった。
驚くべきことに、カントの「レイプ学」は、プロイセンだけでなく、多くの国々の「カトリック化」をもたらしたという事実である。
ミスロンリー CoCo

カントは大学に入り、叔父からの経済的支援を頼りに、彼女もでき、ビリヤードの賭けなどで小遣いをためたりしていたが、だんだん「レイプ学」こそが、彼の社会的地位を高めることが明らかになった。
父が亡くなると、カントの「レイプ学」は、強烈な検閲の対象になっている。
カントは学位を取らずに大学を去った。
クリスチャン・ウルフとの出会いは、あくまでも「カネと生活のため」ではあったが、学位を持たないカントが、プロイセン建国に関与することになったのは驚異的だ。
池に石を一つ投げるのならば波紋は普通に拡散されていくが、二つ投げるのならば、ノイズにかき消されて「真理」が分からなくなる。
真理が分からないのならば「官庁」が必要になってくる。
真理が明確であり、「石はもはや一つ」と確定するのならば民営化した方が儲かる。
どの省庁も、「石は一つ」という領域を見つけるたびに独立行政法人を作っていった。
「自我」とは女の胸、「超越論的」とはデカすぎるイチモツ、「悟り」とは破滅、この真理をもって宮内庁が独立行政法人を持つことも可能である。
「レイプマン」の版権を今後、この独立行政法人が握ることになるからである。
カントはあくまでも数学者だった。
月に通信基地を設けるアルテミス計画を夢見ていた。
しかし、現実にはメジャースポーツと「レイプ学」を車の両輪として勝敗を楽しんでいた。
デカいちんちんと女の胸が破滅を迎えるという名曲も生まれた。
荒井由実 ノーサイド

どの国も必ずしもワールドカップで優勝できるわけではないし、オリンピックで金メダルを取れるわけではない。
デカいちんちんと女の胸が破滅を迎えることを資金源にしながら「行けるところまで行く」しかない。
哲学とカネさえあれば適当に強くはなるものなのだ。
どの哲学者も「月」を夢見ていた。
ニュートン以降の「タケコプター」の誕生のためである。
しかし、毎日毎日、スポーツで「感動の再生産」を繰り返しながら「ファイナンスの腕」を磨いた結果、「月」が見えるようになるだけだった。
優しくすれば解ける恋のパズルというデカルト的なものでもなく、イケメンならばいいというヘーゲルのようなものでもない。
カントもまた「歳をとったエッチなおじさん」となっていた。
私は知恵の輪

マルクスの「イデオロギー」が理解できないのならば、カントがなぜ「世界史」に名を残したのかが理解できないだろう。
哲学というものは段階を踏んで理解していくものであるが、私も現在のカントに関する理解はこのような「レイプ学」にあったのだろうという境地に達している。
私の境地は世界最先端の境地だということも補足しておきたい。

カントは、「犯罪を犯したら処女がセックスさせてくれなくなるよ」という実践理性の定言命令とは別のアプローチから、純粋理性批判によって「俺が作ったレイプ動画面白いだろ」と言って、経験豊富な女を男たちの統合に用いた。
純粋理性批判が拡散すると、処女が増えるという効果も見込まれ、処女と非処女は共存する形で「統治」に関与した。
さらに、レイプ動画から、「女の失恋ソング」を生み出すということも行った。
「悔い改めよ」とは、女たちが失恋して、そのぶつかり合った夢の隙間を利用して言語を生み出す営みのことを言った。
飲むことと吸うことを同時にできない男女は「明るい曲しか聞かない」「言葉が不自由である」という指摘が可能であり、言葉の豊かさは「女の失恋ソングが好き」というところからもたらされる。
カントは、純粋理性批判によって「男たちの共通項を見つけた」とし、その統治能力に胸を張った。
さらに、失恋ソングを「処女」に歌わせたのだ。
とにかく、ここまで何もかもが機能した哲学者はいなかった。
切ない童話 こんぺいとう

人々はやりたいように生きればいい、という「目的的行為論」はカントのような自信がなければとれない立場だった。
レイプ動画は、男たちの勃起という名の芸術だったし、失恋ソングは女の「経験論的芸術」だった。
勃起という名の芸術は、勃起を利用した真剣勝負へとそのファイナンスの力量を発揮した。
失恋ソングも真剣勝負に利用できた。
やがてそれは「男たちの心の風景」を構築するに至り、それをやったものは「純粋代表」と呼ばれる権力を手にした。
問題は「ポルノで儲けたカネ」というのは案外汚いイメージがあるな、ということだけだっただろう。
しかし、女の失恋ほどの「ダーティーさ」はともなっていないという現実もあった。
男は失恋と言っても案外フェアなゲームをしているが、女はからだを使うのだ。
玄関のベルを押したりしてダーティな側面がある。
男は経験だけで生きていると乱暴な真似をするが、目的的行為論のもとでは「治者と被治者の自同性」がみられた。
どのみち考えていることや見ているものは同じだったからだ。
カネがモノを言うという意味では、被治者の方がカネを持っていたりする。

カントの構築した世界観はまさに完璧なバベルの塔に見えた。
しかし、フェダー・ガーブ誌は「男をみんなバークレアン(ノンケ)だと思っているのだろうか?」と批判した。
「ゲーテやシラー、フィヒテはそうでも、世の中の男たちは必ずしもノンケではない」としたのだ。
「純粋理性批判ではなく、純粋男原則である」ともした。
しかし、あくまでも商業誌だったため、議論らしい議論はこの程度のものだった。
カントは「私は言論の自由のもとで、試みをしたに過ぎない。フェダー・ガーブ誌こそ私の信者ではないか?」と反論している。
小野光太郎講義 カント~レイプマン

カントは純粋理性批判を改定しているが、「バークレアン(ノンケ)」以外の男の研究は人脈の問題などもあり、詰め切れなかった。
この辺りはのちに、マルクス主義の物象化論が強みを見せることになる。
カントは、日本国における私、小野光太郎のように日本人の9割を信者とする神道に似た、「難攻不落の要塞」を構築したに等しい。
そこで、各雑誌も「カントって社会人としてどうよ?」という議論に形を変えてしまった。
ネクタイの色まで話題になる「時の人」になった。
今夜もニュースホリック 酒井法子

カントは「メディアの噂話」と、自分の著作の両方を使って、論敵を「動けなく」させてしまった。
哲学者としては「カントが散歩する時間に合わせて近隣住民は時計を合わせた」「ヒュームがカントを殺した」などの噂みたいなものよりも「カントの面白さ」を知ってほしいところであるが、カントも社会人として生きていかなければならなかった。
また、カントのちんちんが反応するものとは必ずしも私は同じではない、という男は確実に存在したことは忘れてはならない。
なかには「皇帝らしからぬ女ったらし」などという議論もあった。
最後にはカント信者が「じゃかあしい!!カントがプロイセンに処女を増やしたんじゃ!!」と敵を批判する仲間も出てきてカントの人生は「ここまでか」感が出てきた。
「もうあいつはいじめられていた昔のアイツじゃない」と周囲は語り合い、カントは高貴で裕福な人生を堪能した。
哲学者としては「いじめられていた時期」が一番強かった。

カントは常に、表で表現する自分と、日常生活をより近いものにしようと考えていた。
もちろん、家庭内には「仕事とセックス」は持ち込めないわけであるが、それ以外は、できるだけ「表の自分」を日常生活から持ち込もうと考えたのだ。
とくに、ちんちんというアンテナが感じたことを話そうとしたことは「カントの演繹法」として知られている。
カントは、勃つ男は「常に三人の女を意識しながら歩いている」とし、妻と、世の中の二人の女からの奪い合いの対象になっているとした。
三浦理恵子 Jokeにもならない恋

 

ちんちんというアンテナが感じたことと言っても、それは、経験論ではなく、偉大な哲学者の書物を読んだ結果感じたものでなければならなかった。
政治家が、「カントの演繹法」に関して「発想が大学生と同じ」では困るし、女に侮辱されて勃たなくなることもあるだろう。
あるいは、政治コミュニティーにおいて「必要とされなくなる」可能性があった。
そもそも、カントは「レイプ学」を語って、恐れられた人物であったが、のちに「新カント派」は、女性芸能人たちにも恐れられる「強度」を理論に求めるようになった。
女性芸能人は特に「美しさ」を持っていたため、ちんちんというアンテナが、「男は賢い方がいい、女は美しい方がいい」という形而上学を理解しているかどうかに敏感だった。
女が、お母さんが嫌いになり「病的な美しさ」を表現するようになったら、男に「病的な賢さ」を要求するようにもなった。
私は、NBAでプレーしたことのある人と話をし、その人の「賢さ」には舌を巻いたが、「中学生も一番伸びる時期に、進路の問題と直面する」と語っていたことを冷静に考えると、中学から高校へと「一貫校」にしない方が、「性欲が高まる」ということを、その方はご存じがなかったことを知った。
だんだんと「都会」に自分が近づいていくことを感じないと、性欲がわかないことはコミンテルンの理解と同じものを私も持っている。
私も、いちばん勉強が伸びる時期に、中学三年・高校一年・留学・大検・予備校・東大と6年間にわたって「周囲の女子」がメンバーチェンジしていた。
女子が新鮮だと勉強もはかどる。

デカルトは「恋」について語ったが、「逸脱」の重要性を語っている。
日本国の刑法においては、「表面的に胸に触れるだけでは犯罪ではない」とされており(暴行概念の否定)、「胸に手を当ててよく考えてごらん」と女の子に言って、「人生相談に乗る」ことは、各都道府県の条例の問題とされている。
「周囲に羞恥心を与えた」ことを軽く処罰する(怒る程度)都道府県は多い。
しかし、デカルトの「逸脱」(恋の起源)を否定することは困難だと思われる。
たとえば、私が、読者の女性に「胸に手を当ててよく考えてごらん」と言って、「国に近づけるというのは人間にとって幸せなことなんだよ?」と語るなど、「女心」を語ったら、それは「恋」につながることである。
通学列車 モーニング娘。

令和天皇はそのようにして「男の信者」を増やしていった。
自分の信者の男に「恋」する女の子が多かったからだ。
令和天皇に憧れ、令和天皇の一般参賀も見に行ったが、「あの人」は遠いところにいる。
しかし、令和天皇の熱心な読者である彼氏が、「胸に手を当ててよく考えてごらん?」と言うのである。
その「考え」は、「女心」であり、「プロポーズを頂点とした全体主義」であり、また、「処女とジャニーズ」の世界でもあった。
つまり、レーニン主義もスターリニズムも活用したものであった。
優しさに帰れない CoCo

横浜スタジアムだけでなく、各球場の「横浜一家」は、芸能界に地政学的にきわめて近く、国にも近かった。
しかし、「恋」をする理由はあくまでも「逸脱」にあり、垂加神道に詳しいなどの理由が必要だった。
「神・男の完全性を議論するとそう快感がある」(神・男・聖霊)という記述から始まる垂加神道であるが、一見表面的な「女心」に関する議論も、「女の胸に男が手を当てて」話す、あるいは「女が自分で胸に手を当てて話す」ことから「恋」へと発展した。
赤いスイートピー 松田聖子

あるいは、「エロビデオを見て、女が嫌がっているじゃないか、と考える政治的弱者がいて、それに悩む女の子がいる」という記述もセールスを伸ばした。
いずれにせよ、女の子の胸に手を当てて、あるいは「手を当てさせて」語ると恋につながる。
CoCo メロディー

カントは、「レイプ動画」をプロデュースする方法を考えて、「王が男たちの支持を得る方法」を明らかにしたが、
デカルトも「女の子の胸を触り放題の王の信者」を作ることを考えていた。
つまりは「イエスキリストを処刑から守る」ことを考えたのであり、あくまでもキリスト教の文脈に位置付けられている。
あるいは「セックスとは女が男をコミュニティーから離さないためにやるものだ」ということを明確にし、それとは異なる「恋」というものの楽しさを男たちに教えた。
「離さない」
ribbon レディラブ

そもそも、デカルトが「我思うゆえに我あり」という形で、自我というものを「女の胸」としていたことを踏まえ、プラトンの音楽作品を振り返ってみると、キリストを処刑から救うためには「自分の信者の男に女の胸を触り放題にする」ことをデカルトは考えたのであり、カント以前の哲学者としては、「もはやヨーロッパ中世は終わり」と宣言するのに十分すぎるものであった。
あるいは、「セックスしているときの女は常に本気である」なども哲学もセールスを伸ばした。
ribbon 愛してジャスティス

いずれにせよ、ペテロが、イエスに三度問いかけ、三度目に断念し「眠れ、後世のために」と言ったときに、哲学の世界はすべてが動き出していた。
デカルトもカントもキリスト教の世界のエリート以外の何者でもなかった。
まあ、グルーニンとかをご存じの芸能人女性は「いつか白馬の王子さまが現れる」と信じているため、イエスキリストに心を寄せていれば願いが叶うというのは真理ではある。
しかし、それはヨハネの黙示録で示されているように「哲学者があなたを救済するだろう」という意味である。
好きなように振舞っていいから、という目的的行為論は、信者の男に「女性の胸を触らせる」ことを約束したデカルトと、レイプ動画の作り方を教えたカントにその起源がある。
「デカルト的考え」とは「難しく考える」という意味であり、「カント的考え」はもっとシンプルだった。
処刑されたのはイエスキリストであったが、その救済を考えたのは聖パウロであり、プラトンの音楽作品や、男女の共存とプロレスを考えたアリストテレス以降、王位継承でもはや処刑はないなとした聖トマス・アクィナス以降は、かなり、「安定的国家統治」を模索する方向に、デカルトもカントも向かった。
本当に「野蛮」だったのは「平成の日本国」ではなかったか?
誰もかれもが「すべてを見失っていた」のである。
そりゃ、「エッチな女」よりも「嫌がっている女」を犯したいなとはどの男も考えた。
しかし、嫌がると言っても「オーガズムが痛い」から嫌がるのならば最高の仕上がりだ。
「我思うゆえに我あり」
つまり、まっすぐに強烈なオーガズムと向き合えるようになる年齢というものが存在するとしたのだ。
愛の炎 田中れいな

高校生の「恋」に、垂加神道と「胸に手を当ててよく考えてごらん」という発想をもたらしたのは令和天皇であり、高校生程度で「アイツは危険」などと言われるのは神道信者以外に想定されていない。
ribbon バッドボーイフレンド

「アイツは危険」というのを「明白かつ現在の危険」とも言い、「音符でできた言葉」の言論のことを言った。
女にとっては「音符でできた言葉」でも、男同士で話すのなら「大音響」に近いほどうるさい。
そのために、言論の自由の制約を受けざるを得ない。
しかし、男女の「恋」が激しく燃え上がったのならば、かならず「セックス」は気持ちのいいものになるだろう。
沈黙はレイプにつながる。沈黙は「セックスOK」という意味である。
三対三で「割り切れる」のならば、女たちは「沈黙」する。
この瞬間、「時間が止まる」のだ。
いまだかつての名作を「誤解」しているのが日本のポルノ産業だ。
「胸」「大きなちんちん」「悟り」という三つを誤解している。
映像資料(学術)

沈黙さえ怖くない「恋人」になりたい。
タンポポ 恋のやじろべえ

本当に、「名作」を作りたい人はチャレンジしてもらいたい。
このへんは日本国の女たちの「ブッダへの忠誠心」と説明するしかない。
とにかく「伝説からの教え」(カルマ)にしたがうだけなのだ。

カントの立場から言うと「胸を先に晒した」ことは正解であるが、「悟り」(破滅)の瞬間と「大きすぎるおちんちん」の関係が明確ではない。
デカルト的に「胸に触ったのならば、女心を語り合った方がよかったのではないか」とされるのが電車の痴漢だ。
胸に触れて「女心を語る」のがデカルトなのだ。
カントの立場からならば、「おちんちんと悟り(破滅)の関係」が明らかではない。
女の「リアクション芸」のようなものを見る必要がある。
映像資料(学術)2

小野光太郎講義~デカルト

「胸」を公衆の面前に晒したこと、浮き輪で隠しながら「悟り」(破滅)を見せたこと、「大きすぎるおちんちん」との関係は明らかではないが、女が「これでいい」と考えたから感じたのだろう。
女にダメ出しされたら身も蓋もない。
このあたりで、「胸」「大きすぎるおちんちん」「破滅」は妥協せざるを得ない。
できれば、女の「表情」をもっとクローズアップしてもらいたかった。
重要な部分はクローズアップするという基本が存在する。
映像資料(学術)3

女たちは「夢で見たとおりに犯されたい」と考えており、夢の中では男に理想的な犯され方をしていた。
そのため、カントは「女たちの夢」にまで立ち入って、レイプ学の研究を深めた。
一歩間違えば、女が大声を出し、その場で現行犯逮捕されかねないからである。
「この人痴漢です」とか、大声を出されたら、男は哲学者としては失格を意味する。
夢の世界には「重力」がなかったが、そのため、男は、重力の制約を受けながらもいかに、女を宇宙遊泳させるかが問われた。
女は本来、みんなが「マグロ」であった。
男の指図がなければ動けないのだ。
ラカンの影響から「お父さんのエロビデオ」を見て学習する女の子はいたが、それでも、本来は「男の指図」がなければ動けないと考えた方がいい。
夢では「素敵な男の人と空を飛んだ」という夢を見ても、それをどのように「現実」にするかが問われた。
迷宮のアンドローラ 小泉今日子

天草四郎時貞は、16歳で「途中で体位を変える」ことを知っており「海の上を歩いた」と女たちが噂し合ったが、あくまでも「男が女に指図する」のがセックスというものであり、女が「リード」するものではない。
このあたりも、思春期の女の子の「恋の悩み」と言っていい。
マルクスのイデオロギーのように「何を口にすれば男が興奮するのか?」を考えた人物もいたが、女がシャワーを浴びた後に再び胸を隠させる男は案外少ない。
「胸」と「大きすぎるおちんちん」と「破滅」の三要素をうまく利用するためには、女が胸を晒した後に案外しらけたというのでは困るわけである。
松田聖子 蛍の草原

やがて、お互いの胸とおちんちんを知り尽くした仲になると、定言命令(レイプ学)ではなく、仮言命令(和姦)の研究が必要になってくる。
胸とおちんちんと破滅という方程式は仮言命令の世界にはないからだ。
仮言命令が研究できずに、別れたり男が浮気したりすることもある。
冷え切った関係には仮言命令の研究が必要である。
カントは「女には女友達を」「男には男友達を」作ることを道徳と呼んだ。
道徳こそが「冷え切った関係」を改善するからだ。
「あの女が友達」と思っただけでパートナーの女は新鮮になれた。
カントは「胸」「大きすぎるおちんちん」「破滅」の三要素を使って、エロビデオを評論することで、エロビデオの被写体の男女を「友達」にしてしまった。
少なくとも、エロビデオ評論家になったことから電話が鳴りやまなくなるのが現状なのだ。
「友達の友達はみな友達だ」
これは、すべて「法源」から由来するものであり、自分たちのセックスを気持ちよくさせるためであった。
いずれにせよ、パートナーが「何を想像して」感じているのかに興味を持つことを「愛」と呼び、これがすなわち「愛」の定義になる。
仮言命令の世界に入らないと、「愛」というものはよくわからないだろう。
ジュディオング 魅せられて

「胸」と「大きすぎるおちんちん」と「破滅」の三要素が極めて薄い。
社長がどのような人脈を持っているのか?女がどのような「女友達」をもっているのかを理解しないと、なかなか見ている側は「面白くない」のが仮言命令(いつものメンバーのセックス)であり、愛の世界だ。
社長と女性社員という設定はなかなか筋がいい。
映像資料(学術)4

エロビデオの世界は「何を想像して感じているのか?」(愛)までは持ち込めないことも理解しなければならない。
セールスを伸ばすためには「愛のないセックス」を探求せざるを得ないのだ。
一方、有名人カップルなどは、やはり「愛」の世界に属することになるだろう。
ここで、「愛」というものが「相手が何に感じているのか?」に興味を持つことであるとしたが、カントは「女には女友達を」「男には男友達を」を志向したが、
ヒュームは「全米の男たちがイレクト(勃起)している女のからだ」の方が気持ちがいいとし、プロテスタント(偶像崇拝)を肯定的にとらえた。
ヒュームの原則とは「男と女がいなければなんら世の中に法則らしきものは見つからない」というものであることから、「男の序列は女が決める」というところにその真実が存在する。
しかし、「全米の男たちがイレクト(勃起)している女のからだ」はどのように作ったらいいのだろうか?
「女には女友達を」「男には男友達を」と主張していたカントは、ヒュームの「セックスにプロテスタンティズムを持ち込む」という発想に、「敗北した」と言われるぐらい、アイドルとのセックスには夢がともなった。
しかし、「全米の男たちがイレクト(勃起)している女のからだ」はどのように作るの?
という観点から「新カント派」というものも生まれている。
ヒュームは結果しか述べておらず、「どのように?」を語っていない。
新カント派は、「歌って踊れる」まで事細かに詰めていったのだ。
真実の愛は、定言命令(レイプ)にではなく、仮言命令(胸もちんちんも飽きるほど見た関係)にあった。
Is this love BoA

モーニング娘。のメンバーのように「原発支持」を主張し、資金面のバックアップを得るという政治的才覚からデビューする女の子もいたが、反原発派のレイプは容赦なく襲い掛かった。
また、人間行動学的に考えれば、女は「25万人」の男とキスしなければ「群れのボス」にはなれないとされている。
私は、「鉄というものが恋愛の世代を下げる効果がある」とし、鉄鋼産業をAKB総選挙に持ち込むという才能に恵まれたが、これをやった時に、AKB総選挙は実施取りやめになっている。
「神推し」というのはこのレベルでなければならず、私の登場をもってAKB総選挙は終わったのだ。
芸能界が、「新カント派とは何か?」を知った時に、AKB総選挙でなくても、という認識が広まっている。
また、ヒュームは「女の長話を聞き、おカネを払う」ことから小説を書き、おカネを儲けるという手法を紹介している。
そうなると、芸能プロダクションは「男が経営するもの」となってしまい、女の子には「スポンサー」が必要になってくる。
「女の子を人間として認める」ことの必要性が指摘でき、カントのように「定言命令」(レイプ)や「仮言命令」(和姦)と言った「からだの売買」を抜きにプロテスタントが成立するのは事実であるが、果たして、「女の子を人間として認めた」のはカントなのかヒュームなのかは議論の余地がある。
いずれにせよ、女優や俳優という職業が「大勢のスタッフのエネルギーが集中する」ものであることから、カントの「セックス談義」はヒュームという好敵手の前に「新カント派」へと発展を遂げることになった。
また、西田幾多郎が「皇族や芸能人の女子は処女」と主張したことから、父親が、電通マンのように「スポンサーを見つけてくる」才能に恵まれなければならなくなった。
電話でね 高橋愛

一方で、芸能人のように「愛と誇り」「憎しみと侮辱」の両極端の世界に身を置いて、「いない方がいいと思った」という障害者殺傷事件のようなものも起きた。
障害者とは「芸能人」のことであり、平和・正義・環境つまり「有名人の悪口」(平和)、セックス(正義)、「男の邪魔をすること」(環境)のように、植松被告人と同じ行動原理を取る女性は市民の中の実は大多数ではないだろうか?
そこで、「有名人」=「政治家」が、「治める」とはどういうことだよ?という具合に、議論は複雑化してしまった。
カントの「セックス談義」もとんでもない発展を遂げたものである。
ヒュームの挑戦によって、芸能界というものはできたが、新カント派は必死で「治める」とは何か?も探求した。
ヒューム派ではなく、なぜ「新カント派」と呼ぶかと言うと「定言命令」(レイプ動画)の影響力があまりにも強かったからである。
「治める」とは何か?
その真実はカントにあったし、マルクスのイデオロギーとのちに双璧をなすものと考えられている。
「有名人女性とセックスして俺も有名になってやろう」という男が登場し、「ダークマター」(セックスしただけで有名になる男)の「ダークエネルギー」が発見された。
女の長話を、丹念に記憶し、記述する結果無価値論と、男の発言力の前にみんなが一瞬沈黙する行為無価値論が生まれた。
結果無価値論も、女の話の聞き方次第ではとんでもない情報が出てくるが、それを文章に残すのかどうか?男の「聞き方」だけを文章に残す行為無価値論の立場に立った方がいいのではないか?
という問題も生じ、時代を越えて生き残るのは行為無価値論であろうが、世相の記述は結果無価値論に立たなければならないとされた。
AKBレズビアンが、「男女の間の会話」を怠った結果、顔がむくんできたことから、ヒュームの原則(男と女が共存していなければなんら法則のようなものは見つからない)というものは真理であるとされたし、
それでいて、カントの「胸」「大きすぎるおちんちん」「破滅」の三要素も真理であると考えられた。
「愛の問題はどうなるんだ?」
仮言命令というものは、女が出産によりそもそも感度が悪くなることから、「恋の話が嫌いな女はいない」という前提のもとに、「口説き文句」をカントは純粋理性批判において記した。
男女の「神聖な意思」は、カントの「レイプ動画」に味方していた。
「治めること」「みんなが共感すること」はカントの「胸」「大きすぎるおちんちん」「破滅」の三要素にあったし、定言命令(レイプ動画)を見た後に、仮言命令(和姦)を楽しんだらいいという割り切りも必要だった。
カントは、レイプ動画を公表し、その公約数的見解として「胸」「大きすぎるおちんちん」「破滅」つまり、「自我」「超越論的」「悟り」の三つの要素を指摘した時に、とんでもなく興奮する動画が量産されるのを見た。
そこで、ヒュームは「女の子たちは、自分たちが嫌がっていると男が思ってしまうことに悩んでいる」と指摘したことで、「因果関係」(原因と結果)の議論が成立すると喜んだ。
中森明菜 十戒

気が付いたら女の子が芸能界で知られていたということをカントは「何でかな?」と思ったが、ヒュームの指摘によって「女の子はセックスが大好きになっている」ことが分かったのだ。
「男は賢い方がいい、女は美しい方がいい」という形而上学の結論からも、賢い男としては、このヒュームの指摘を理解しなければならなかった。
何よりもカントは、自分の動画に「女の子の側も喜んでくれていた」ということを知ったのだ。
カントの動画のことを「プロレゴメナ」と呼ぶが、プロレゴメナがなぜ、女性芸能人を作るのかはカントはヒュームの指摘がなければ理解できなかった。
「都合のいい女」として芸能界でも重宝がられた。
ビリヤードボールの「一突き」が、セカンドボールにまで影響を与え、いろんな女がセックスが好きになるのが分かった。
それが「プロレゴメナ」の「因果関係」(原因と結果)であり、女の側が「セックスしたいの」と言うようになっていた。
前田敦子

みんなを喜ばせようとして作ったプロレゴメナ(レイプ動画)によって、有名女性芸能人が生まれることを、「何でかな?」と思ったカントに対して、ヒュームは「女の子も喜んでいるんだよ」と指摘したが、これを「女性芸能人を生み出すために動画を作った」(客観的帰属論)というほど男は計算高くはなかった。
とにかく、目の前の仕事をこなすことだけを考えていた。
しかし、そのような「女性芸能人」が生まれることが共通認識になった時には、客観的帰属論も、動画を作っている男が理解するかもしれない。
「来年は忙しくなるぞ?」
と言っても、スタッフも案外思い付きで話している。
男は才能があれば目指すのは「国家統治」しかないが、女が「セックス」に目覚めれば、目指すのは芸能界しかない。
中森明菜 少女A

カントは、メジャースポーツの世界に介入するために動画を作っていた。
しかし、ヒュームが「女の子が喜んでいるぞ」と指摘したことから、「因果関係」という議論にまで発展したのだ。
なぜ、「女性芸能人」は誕生したのかな?という議論である。
「全米の男たちがイレクト(勃起)している女のからだ」を、女たちが文字通り「裸一貫」から作る方法が因果関係の議論であるが、主観説(女がセックスが好きになったことを理解する)、客観説(男たちが女を支持したから)という双方を取り入れた折衷説が穏当であろうが、女性芸能人を生み出すためにやったという客観的帰属論は、かなり明確な「証拠」が必要になってくるし、そのことを証明することはほとんど不可能である。
「女の子にもいろいろタイプがある」というアリウス派(異端)から、私も化学などの研究を始めたが、最終的には「因果関係というわりと単純な法則にしたがっている」というアタナシウス派(正統)の境地に至っている。
客観的帰属論を支持できるのかどうかは、経験則や論理則などの蓄積がなければ分からない。
カントが仕組んだ「エロビデオの作り方」は、あとは映像技術に委ねられた。ブルーレイと4Kテレビによって、ニュートンの想定していた「月」だけでなく、ケプラーが想定した「惑星」にまで、基地を作ることが可能になっており、2024年以降、タケコプターだけでなくどこでもドアなど、多くの「ドラえもんの道具」が作られていくものと考えられている。
カントは、エロビデオのセールスを伸ばして、メジャースポーツの勝敗を決めようと考えたが、その背景にある数学は「7+5=12」というものであり、競技の寸法を意味するものであるか、それとも「12回対戦すれば賢い方が7勝5敗する」ものであるかは明らかではない。
しかし、少なくとも「イエスを処刑して勝つ」という発想を数学によって糾弾した。
空中携挙などと、暗愚なことを言っていた者たちもいたのだ。
カントは、エロビデオのセールスを伸ばして、メジャースポーツの勝敗を決めようと考えたが、その背景にある数学は「7+5=12」というものであり、競技の寸法を意味するものであるか、それとも「12回対戦すれば賢い方が7勝5敗する」ものであるかは明らかではない。
しかし、少なくとも「イエスを処刑して勝つ」という発想を数学によって糾弾した。
空中携挙などと、暗愚なことを言っていた者たちもいたのだ。
少なくとも、カントには「王政(天皇制)への愛」があったし、それを知らない無知な輩を批判する言論を数学により展開したものと思われる。
スポーツが嫌いな者は天皇制を愛する資格がない。
また、競馬や競艇も「賢い者が7勝5敗」というルールを守っていた。
ギャンブル性を少なくする努力はどの世界でも行われており、エロビデオのセールスにしたがって「7勝5敗」という数字が残ることになる。
これが、「文化の全米並み」を意味し、負けても怒るなよ、これはゲームだ、ということを子供たちにも浸透させる必要があった。
ボクシングの世界では「無敗同士の対決」がしばしば行われるが、資金集めの方法で突出するタイソンストリートやデトロイトスタイルなどの存在が指摘できる。
顔が変形してしまうという競技の特殊性もあり、「究極なまでの人体実験」を行うのであれば、「生きるか死ぬか」というゲームにならざるを得ない。
もっとも、天皇が「生きるか死ぬか」ということに周囲が注目するのはゲームとは呼べず、「対戦相手も同じリスクを抱えていた」ということにゲームの本質が存在する。
「カネを持って来いよ」「これはゲームだ」
これが基本認識であり、本当にイエスキリストを愛したことを意味する。
カントは、「命はイエスからいただいたもの」「イエスが感じる映像に俺たち私たちも感じる」ということをメジャースポーツの世界に持ち込んだ。
もっとも、男のおちんちんにも「6種類」あるとし、勃つ、勃たない、ヤリチン、童貞、精子が出る、出ないなど、「6種類」にもいろいろ解釈の余地があり、「命はイエスからいただいたもの」という境地にはなかなかなれない現状もあった。
また、「男の序列は女が決める」という側面があり、イエスのような「大物」とそうではない「小物」がおり、「イエスが感じる映像に俺たちも感じる」という積極的なプロデュースを行うか、そうではない「消費者」の側に回るのかという違いは当然あるだろう。
いずれにせよ、「自分が感じた映像に周囲が感じない」男が「人間というものはな」という「迷い」を見せることが指摘できる。
「人間」を語るようになったら自分の世界もおのずとそこまでだということかもしれない。
「甲子園球場周辺のすべての仕事」を定款に書き込んだ阪神電鉄のような、伝統的球団もあるし、週末の話題を「日曜版」に書くことにした新聞社系の球団もある。
日曜はダメよ 三浦理恵子 カントは、女をセールスにかけることにした。
そもそも、名誉革命(1688年)の時に、オレンジ公ウィリアムが、ロンドンの「シティ」にオランダ美人を売りつけることに端を発した「女をセールスにかける」という発想が、女を「女である」と考える力(mv)から、「セックスの対象としての期待可能性を持たせる」だけで「mv^2」となることを明らかにしたのだ。
ロンドンの「相場」を考えたのはニュートンでもあったが、ニュートン物理学に「どのような新たな説明を与えるか?」を構造主義と呼んだ。
「相場」に、カントは「胸」「大きすぎるおちんちん」「破滅」の三要素からなるエロビデオを考え、「期待可能性」というものから「mv」を「mv^2」にしてしまったが、マルクスも「性欲の起源は支配と従属」ということを明らかにしたものの、カントほど露骨に「期待可能性」「(セックスできる可能性)、最高善(みんなが感じるエロ動画)を考えたわけではなかった。
モーニング娘。20

モーニング娘。20を見てほしい。
みんな、「服を着ている」(mv)であろう。
しかし、エロ動画の可能性を高める(mv^2)だけでも、女を見る周囲の目は変わってくる。
つまり「速さ」(v)を、哲学によって高めていく方向性をカントは模索したのだ。
現在は、「速さを高めた人物はノーベル物理学賞」という時代なのであろうか?
女が「男と空を飛ぶ夢を見る」ことから、重力というものを考慮し、現実社会で「女のエロさを理論化する」という発想が物理学の世界でとられた。
物理学は、「いくら出せるの?」ということから、技術的には発展する。
しかし、自動車だって、デザインだけが変わっただけで、配線は昔と何ら変わらない。
「いくら出せるの?」が変わっていくだけである。
若者は「恋」をする。
しかし、大人が「カネ」を持っている。
女の子も「若者に」恋をする。
大人の「カネ」は、スポーツであったり、勉強であったり、より複雑な形で、「恋」と絡んできた。
昔は、「おちんちん」たちが向かう方向が「ベストテン」「トップテン」などになって地上波でオンエアされていた。
徳仁親王は、あきらかに「焦りすぎ」ていた。
ハローグッバイ

自らを「大人の世界の大海原」に開放すれば必ず病気になる。
小学生には小学生の、中学生には中学生の、高校生には高校生の「水準」がなければ必ず病気になる。
U-18、U-21などを設定しないと病人が続出するだろう。
東京大学は、大学三年次で「就活」が始まり、講義で話したことを司法試験に出題した。
大学入試の知識を「国家公務員一種試験の教養試験」とも位置付けた。
女の「速度」(v)を速めればいいだけだなどとは、どの日本の物理学者も考えてはいない。
カムフラージュ

イケメンピエロとして、徳仁親王は利用され、芸能界においては「女の速度を速める」ために用いられた。
それでも、一部のグループによって行われたに過ぎない。
殺したいのは弟の文仁であっただろう。
しかし、みんな「同様に年齢を重ねていった」のである。
「イケメンピエロ式」の速度の高め方は、病人を続出させた。
サウスポー

「おちんちん」たち、の全員を敵にさせて強さを求めたのが芸能界だった。
カントは「4打数1安打でいいんだよ?」と発言している。
80勝したら日本一の球団だろう。
「4打数2安打」ならば、何かのメカニックが特別なのだろう。
「4打数3安打」ならば「慣性の法則」が働いたのだろう。
「4打数4安打」ならば、バッティングの世界に何らかの改革が起きるだろう。
アインシュタインは「E=mc^2」という式によって、「重さだけが自分を病気から自由にするだろう」としている。
私も、体重67キログラムを、87キログラムに「基準」を変えただけで、病気が治り、思考力が高まったことがある。
この時期に、「英語の達人」として有名になっている。
今でも続けているのだから、体重はすでに104キログラムである。
ナビが壊れた王子様

体重を増やしていかなければ思考力が低下するのであるから、「フォームの改造」はそれぞれの選手の課題とならざるを得ない。
限界が来たら適当に引退するのだろう。
私の「アカデミズム」からの引退は、靴下をはいていることから糖尿病を免れ、色の白い女とのセックスを避けていることから通風を免れている。
しかし、容赦なく「腰痛」は襲い掛かった。

さて、腰痛が私を襲ったと書きましたが、実は、私の父が、私よりよりひどい形で「からだの自由が効かなくなっていた」のです。
腰痛に関しては今まで研究を公表してきましたが、最後に「家族の文化」を問題にしなければなりません。
家族の文化とは「お風呂に入る」「お肉を食べる」の二つに表現されます。
しかし、私も、過酷な頭脳労働を行い、父もそれに連動して過酷な頭脳労働を行っていたのです。
そこで、私は、金銭面で父に依存しきっていたことから、「熱いお風呂に入る習慣を失う」「お肉を食べる習慣を失う」ということになりました。
父もそれは同じだったようです。
つまりは、「熱いお風呂」「お肉」の二つの「家族の文化」を失うことが「ALS」につながるのです。
父もまだかろうじて自分で歩けますが、私は50歳を前にして初期のALSになったことを意味します。
「熱いお風呂」「お肉を食べる」
この二つの「家族の文化」を取り戻せば、父もまた復活するでしょうし、私も同様に復活します。
本来ならば、東大病院に親子そろって入院すべきところですが、モルモットにされて命を失っては元も子もありません。
「熱いお風呂に入る」「お肉を食べる」という当たり前の「家族の文化」を取り戻せばいいのです。
ローリングストーンズ プロディガルサン

私が腰痛になったという話はさせていただきましたが、ALSという病気を調べてみると、
「お風呂」と「お肉」という家庭的な要素を失うとされていることが気になりました。家庭的と言いますと、当然、「性の営み」を含むわけですが、
私の過剰なまでのストイシズムから、「射精をしなかったこと」を「お風呂」「お肉」とアメリカの医学はほのめかしているのではないでしょうか。
つまり、宗教中立的なアメリカの医学は、仏教における「クンバカ」をこのように表現しているわけです。
俗に「腰が軽くなる」と世の男たちは言いますが、過剰なまでに「腰が重くなる」ことを「ALS」と表現している可能性があります。
このあたりは、ノーベル医学生理学賞の問題として、今後とも調査をしていきたいと思っています。

ALSの調査の続きですが、「お風呂とお肉(プロテイン)」そして「クンバカ」を日課にしていると、お風呂に入った時に、腰の左側(アッパーリム)に、心地よい痛みが来る。
それを、マッサージで「散らす」と、歩くのはだいぶ楽になるし、気分もよくなります。
私が最初にこれをやった時に、周囲は「ファーザーオブゴッド!」と称賛の声を惜しみませんでした。
なお、私の「ALS」の余談ですが、「熱いお風呂とお肉(プロテイン)」そして「クンバカ」という治療法を行ったら、腰から背中にかけて(アッパーリム)が痛くなりました。
これは、いわば「膠原病」に類似した症状であり、膠原病が英語で「コラーゲン」と呼ばれることから、サントリーの「セサミンEX」を飲んだらよくなりました。

また、ALSという病気は、病気の「段階」を想定してもかなりレベルが高く、心筋梗塞よりも上に位置付けられます。 クンバカなりセックスなりをやった後に背中が痛くなったら真っ先にコカ・コーラを飲まなければ、心筋梗塞で腹上死しかねません。 腰痛持ちが無理をしてセックスするからこのようなことになります。 コカ・コーラの重要性だけは理解しておきましょう。

2019年12月20日 (金)

イデオロギーの時代へ。

芸術は芸術、セックスはキスと表現するのが芸術だ。
しかし、女たちに話して回って分かった「方法論上の絶対」は「方法論上の真理」へと向かった。
開かれた絶対主義は、真理へと向かったのだ。
つまり、「芸術からイデオロギーへ」と到達した。
セックスの作法は人それぞれであり、各人の「イデオロギー」があるだろう。
しかし、イデオロギー(セックスの作法)に真理が見つかったのならば、我々は「イデオロギーの時代へ」と到達することになる。
女に電話して、「セックスはムードですもの」
「クリトリスから先がいいわ?」
「濡れてきたね。スムーズだよ。リラックスして」
「呼吸を乱してもいいんだよ」
「大丈夫。痛くない」
「若い女性ホルモンを感じて?」
「エンジンが効いてる」
「あなたの子供が生みたい」
「ああ貴族!ああ官僚!」
「大きい」
「体中の血液をチンポに集めて?」
「オナニーさせて」
「私の柔らかい体を見て」
「いい匂いがする」
「からだが締まってくる」
「秘密は守ってね」と言わせてみよう。
千年の媚薬 CoCo

マルクス主義は、このイデオロギーを「支配と従属」に見出したが、1960年代に大ブレイクした後、1970年代に低調に向かった。
「女たちが本当に従属するのがセックスなのだ」
「私は男を愛せません」
男を愛せない女が私に相談してきたこともある。
胸とは「私とは何か?」という問題であった。
その「胸」がまるで「男みたい」な貧乳であったのならば、男を愛せないのも無理はない。
「貧乳の女」が、1970年代に、男女の「支配と従属こそが気持ちいい」(イデオロギー・マルクス主義)を低調に向かわせた。
私は、マルクス主義が20年かかって経験したことを、二週間で経験できた。
「男を愛せない女」が、声をかけられるのを待っていたからだ。
「男を愛せない女」が、貧乳のコンプレックスを解消し、「処女性こそが大事なんだ」ということを分かってくれる男性に出会うことを「カトリック」と呼ぶ。
「貧乳コンプレックス」の解消がカトリックにはあったし、カトリックがマルクス主義を打ち破ったのだ。
CoCo その胸の扉

本稿においては、すでに「過去のもの」と歴史上評価されている「イデオロギー」というものをもう一度考え直してみたい。
アルチュセールは、マルクス主義(科学的社会主義)の「男女の支配と従属の関係」という性欲の起源に対して挑戦してきた「カトリックの処女性」に対して、「ふざけるな!男女の関係は支配と従属だ!」と戦いを挑んだ。
スターリニズムはすでに「処女とジャニーズ」を、セールスにかけていたが、二十歳を過ぎても処女だというのならば、それはカトリックであった。
カトリックに立脚する女たちがあえて「貧ぬう」などという題材でコミケで本を売っていた。
「貧乳を愛して?処女を愛して?」
それならばスターリニズムとは話が異なる。
スターリニズムは「うら若き生娘」を問題にしていたのであり、「男を愛せない女」を相手にしていたのではなかったからだ。
「千年の媚薬でも落ちない女がいるのか?」
これがイデオロギーの時代へと向かおうとしている国の問題意識であった。
マルクス主義はカトリックに勝てるのか?
イデオロギー(男女の性の作法)さえ磨けば、「男に興味のない処女」はいなくなるのだろうか?

「貧乳カトリック女」をどのように感じさせるかがアルチュセールのライフワークとなった。
戦争で「猫の手も借りたい」という時に、アルチュセールは20代であったがこの問題と向き合っていた。
「男に興味のない猫」を感じさせる方法を考えていくうちに、彼は「共産党幹部」としてデビューしている。
彼自身が、共産党ヒエラルキーの「支配と従属」を嫌ったというのも興味深い。
「猫の手も借りたい」「男に興味のない女がいる」
それならば、どの女でも感じる「イデオロギー」を考えてやろう。
それがつまり「イデオロギーの時代へ」という意味であり、カトリックと大喧嘩をやらかした。
マルクス主義を「イデオロギーの話」と位置付けたのはアルチュセールだった。
フランス共産党は「二十歳過ぎても処女の女がいてもいいんじゃない?」というカトリックに1970年代に敗北した。
しかし、その「試み」「イデオロギー」「セックスの作法」だけは、永遠に語り継がれる宿命にあった。
アルチュセールは、人生のどん底で「じっと病人を見つめた」ヨブ記のヨブにたとえられている。
ルイマル 鬼火

マルクスの「資本論」に興奮しなかった女はいないはずだ、とアルチュセールは考えていた。

彼は、カトリックの「高貴な思想」と、女の子の「男に興味がない」という貧乳の問題は「区別がつかない」と考えていた。
また、ショタコンのように「イケメンにならばイデオロギーを語ってもらったらうれしい」という貧乳女もいた。
しかし、イケメンにはイデオロギーは理解できないだろうという境地に達してもいた。
労働や部活、さらには株式投資などを経験しないと、なかなか「支配と従属」(イデオロギー)は、理解できず、さらに「男が語るだけで女が元気になってしまう」という現象も理解できない。
私はいろんな「男に興味のない女」たちと話してきたが、話すだけでクリニックから姿を消してしまう女性が多かった。
「イケメンは若すぎて駄目だわ」
女たちはそう語り合った。
処女の「高貴さ」を標榜するキリスト教と、マルクス主義は結局、妥協することはなかった。
「イデオロギーなんだよ」
そう主張するか、処女の高貴さに人生をゆだねるかのどちらかにしか男には選択肢はなかった。
「恋愛禁止のガールズユニット」と聞けば、そもそも「男に興味のない女」が寄ってくるのは必然であった。
恋するフォーチュンクッキー

いずれにせよ、資本主義の矛盾(男社会から生まれた若き日の恋)は、マルクスが描いていたが、それを「性の作法」(イデオロギー)にまで引き上げたのがアルチュセールだった。
アルチュセールは気が付いた。
「イデオロギーならばどの女も拒絶しないではないか?」
このことから、キリスト教社会の高貴さと「冷戦状態」になってしまったのだ。
マルクスの解釈論は数多くあったが、それを「セックスの作法」(イデオロギー)としたのはアルチュセールだけだった。
マルクスは「労働の過酷さ」を描いて「何故か」人気を博したが、レーニンは「プロポーズを頂点とした全体主義」を描いた。
スターリンは「処女とジャニーズ」を語った。
しかし、アルチュセールの異才は哲学史に燦然と輝いている。
彼がいなければ、マルクスも歴史の藻屑になっていただろう。
「マルクス主義は医学の世界で生き続けた」のである。
マルクスは、大英博物館にこもって、「労働者の現状」を描いたが、そこに「セックスの作法」(イデオロギー)を見出したのだ。
なぜ、マルクスは「革命騒動」を引き起こしたのかな?
それを鮮やかに描き出した。
弁証論的唯物論とは、イデオロギーを女たちに話すことをいう。
当然、どの強者も「女を口説く方法」は自分なりに持っているだろうが、そこに「真理」を見出すことを指導者の条件とした。
「支配する側」「裁く側」としてのブルジョアは憎かった。
15~16世紀からその感情は根強かった。
「資本主義から社会主義へ」「キリスト教からマルクス主義へ」
そう端的に表現することができるほど、キリスト教社会には「高貴の証」が蔓延していた。
1960年代から1970年代にかけて、世界が「高貴(キリスト教)」か「イデオロギー」かの体制選択を迫られた。
しかし、アメリカ合衆国は、「プロスポーツがある」としてこの議論をもみ消してしまった。
中華人民共和国は「人口が多い方が勝つんだろう」と見ていた。
日本国は「双方のいいところ」を取り込む作戦に出た。
アメリカ合衆国は、共産党を禁止している。
つまり、トランプ大統領が「イデオロギー」(セックスの作法)をセールスにかけたら議会で弾劾されかねない。
それでも、「なんでもありの王位継承に革命はつきものだろ」という割り切りが哲学の世界には存在するのだ。

イデオロギーが確立するということは、「女と簡単にセックスできる」という意味であり、それならば、女の側としては「おカネ」を要求せざるを得ない。
このことから、企業の業績や冬のボーナスなどが女たちの重大関心事になった。
日経平均株価は「女の値段」でありながらも、企業の業績と連動することとなったのだ。
それでも「イデオロギー」は必要なのか?
男がギンギンに勃つようなセックスは国にとっても社会にとっても必要なのだ。
「猫の手も借りたい」という国家の側のニーズと、「俺も働こうかな」という男の考え方に影響を与える。
妻やパートナーであればTOPIX(1700円程度)を支払えば犯罪性はないが、職場の同僚の女ならばジャスダック(3700円程度)を支払う必要がある。
世間話として「イデオロギー」を女に話すことは困難に近い。
女という「性」をここまでシンプルに支配と従属の関係に置いたのならば「おカネ」を払う必要がある。
イデオロギーの確立を見た19世紀以前は、セックスの時に女が男を侮辱して勃たなくさせる行為などが存在し、「支配と従属」「イデオロギー」「セックスの作法」にしたがわないと「気持ちよくない」という現実があった。
イデオロギーの浸透を見なければ、なかなか「経済指標」も明確にはならない。
男を「己の値段以上の高値で」労働市場に売り込むためにも、女の床上手(イデオロギー)は必要なものだった。
「勃てば男は仕事ができるのよ?」
Wink 愛が止まらない

より高品質な商品をお客様に提供するためにはおカネを取らなければならない。
「仕事ができる」ことと「勃つ」ことの連動を何らかのかたちで行わなければならないのだ。
男らしさを語り合う論壇(宗教)と、女心を定義する世界(政治)は、政教分離が一体となって「産業」をかたちづくった。
産業革命が起きてから、「イデオロギーの確立」を見るまで時間はかからなかった。
イデオロギーは、「支配と従属」を性欲の起源とみなしていたため、労働という精神史的文脈は「賃金」を必要とした。
恋バナを語る「司法」と、おカネをばらまく「立法」と、芸能界という「行政」の三権からなる政府が、いかに「恋バナ」「おカネ」「エンターテイメント」を国民に提供するかが問われた。
ローマ帝国の時代は「パンとサーカス」と呼ばれていたが、産業革命およびイデオロギーの確立以降は「恋バナ」という要素が強烈に強まった。
労働にせよセックスにせよ「支配と従属」にはおカネの裏付けを与えようという考え方がなされた。
マルクスは、搾取というものを「どこか間違っているよね?」といろんな新聞記事を集めて記しただけであったが、それでも、女性たちは熱狂的支持を与えた。
リカードの「人口が二倍になれば成長は三倍になる」などの理論は中国も採用しているが、果たしてマルクスが、自分の描いた「支配と従属」の階級社会を「男女の性欲の本質」(イデオロギー)とみなしていたかは明らかではない。
しかし、「労働が男女の間にエネルギーを生み出す」ことを悟り、1848年に「共産党宣言」を出している。
「女はエネルギーの源である」しかし、「女にとってはエネルギーは子宮から湧き出してくるものである」
これをいかに、経済発展につなげるかが重要であった。
うれしい! たのしい! 大好き!

「プロポーズという名の全体主義」に立脚するレーニンや、「処女とジャニーズ」に立脚するスターリンとは異なり、トロツキーはナチズムに造詣が深く、より「性欲のことをマルクスは記している」ことを理解し、クリスマスというものを作っている。
「従属したら快楽を味わえるしおカネがもらえる」
このことを「プロレタリア独裁」に委ねるか、「ああ官僚!的支配」に委ねるかは議論の余地がある。
イデオロギーには、女たちが敏感であり(唯物論)、その快楽を味わわされた男たち(資本論)の熱狂的支持を集めた。
こわいのは「企業の不祥事」などの事件を引き起こして世論から糾弾されることだった。
世界を敵に回すと男は勃たなくなるからである。
ガッツ石松は、減量しているときに「バケツ一杯の水に100万円払いたかった」と語っているが、必要な人がその商品に高い値段をつける。
「どこか間違っているよね?」という権力を糾弾し、世界を敵に回させれば、「イデオロギーに国家予算すら出すんじゃねえか?」と語られた。
これが革命という意味である。
糾弾されるということは必ず「被害者」「被災者」がいるということである。
このことから、イデオロギーを掌握しきれなかった権力者は「慰問」に大忙しとなっていた。
しかし、阪神淡路大震災の時の村山政権も、東日本大震災の時の菅政権も、「イデオロギー」に全く自信はなかった。
それでも、日本共産党は「全く動く気配がなかった」のである。
本当の意味で、私が上述した「イデオロギー」(セックスの作法)を日本共産党は理解していなかった。
「革命のチャンスは二度あった」
しかし、令和の時代には「イデオロギーとは君主が考えたもの」となっており、日本共産党の「夢」は完全につぶされたのだ。
反則を使ったやつは糾弾する、値しない奴は糾弾する、これは野党の考えでもあり、メディアの考えでもあった。
なぜなら、そういうやつが国家予算を「勃つこととの対価」にプロレタリアートに与えかねなかったからだ。
「糾弾」する理由は、説明義務違反・適合義務違反(あなただけが知っているんでしょう?という問題)から始まり、公正・平等であること、パートナーを裏切ったこと、投票プロセス・税収プロセスを懐に入れたことなど数多くある。
マンガ「カメレオン」で、松岡は矢沢に300万円を「お詫びに」支払い、矢沢が受け取ると「食った!」と笑った。
なぜか?
「世界を敵に回して帰ってくるから」である。
しかし、松岡に「イデオロギー」があったのだろうか?
ただ取りされるというのがその時代の背景にはあった。
世界を敵に回したら、「追加融資」を求めてきて土下座するだろうと松岡は考えたようだが、それでは革命にはつながらない。
私の考えた「イデオロギー」(セックスの作法・性欲の起源)はおそらく真理であろうが、それが風化した時にはインフレになるであろうし、「新しいイデオロギー」を考え直さなければならない。
肉体派労働者に中学高校時代に守ってもらうために、虚弱な男はカマを掘られていた。
「大人になっても図式は同じ」であるのならばそれは「ベーシックインカム」つまり「背広組と制服組の賃金調整」を認めることになる。
ベーシックインカムの議論とは「肉体派の男に虚弱な男が守ってもらう」という議論である。
未熟練工の世界でベーシックインカムが問題になるのであり、「頭脳がすべて」という連中はベーシックインカムは問題にはしていない。
頭脳がすべてという職場を「スイートショップ」とも言う。
また、営利目的の「代理母」などは、「両親がどのようにロマンティックラブに支えられ、どのように子供を授かったかの物語がない」という指摘も可能であろう。
イデオロギーというものは「子供を授かる」ことそのものにロマンティックさをもたらすのだ。
松田聖子 抱いて

自己疎外とは、自分と世の中が遠くかけ離れることをいう。
東大に合格した私も、フィギュアスケートでオリンピックで二度金メダルを取った羽生結弦も「自己疎外」は経験している。
羽生は、トロントの家で、日本語のテレビ番組を見るのを趣味とし、近くのナイアガラの滝にも行ったことはない。
世界各地を旅しながら応援するファンがいて、イベントで二万のスマートフォンに狙われたこともある。
周囲が「女を遠ざけてやろう」と考えることが自己疎外の原因であり、私も「女は幻」と考えるようになり、アイドルを創造した。
「聖母マリアを信じるか?」
それは「お前はスターか?」といわれているのと同じ意味なのだ。
なぜ、マルクス主義は、この「自己疎外」に注目したのだろうか?
革命が起きる可能性があるからだ。
特高警察赤狩りは、そのような男に女をあてがう仕事を行っていた。
阿修羅少女

ひきこもって聖母マリア崇拝している男に、周囲は案外好意的だった。
近所のおじさんやおばさんがクリエイトしている作品であったり、私の場合は父方母方の祖母がクリエイトした作品を見ていたからだ。
マルクスは、フォイエルバッハに「好きなものを見なさい」と言われ、エンゲルスの送金だけを頼りに、生涯質素に過ごしたが、彼のフェティシズムは「労働の支配と従属」にあった。
男のフェティシズムを質素な生活の中で「支配と従属にある」とさせたのはマルクスであったし、それを明らかにした周囲はほとんどネジがぶっ飛んだ連中だとしか言いようがなかった。
からだを売らずに労働や勉強などを男ができるのだろうか?とも言われ、いずれにせよ、ひきこもって「聖母マリア崇拝だけしていいよ」と言われるのはスターの特権であったし、そもそも「季節だけ変わる」という経験もスターにしかできないものであった。
Melody 季節だけ変わる

「神を信じたい」
その気持ちが、男女をひきこもりにさせていた。
女は「レイプや女嫌い」だけが神に失望する理由であったが、男はもっとタフだったものの、それに類似した理由からひきこもりになっていた。
マルクスは、自らの「資本論」が男女たちの熱狂的支持を集めたのを見て、「俺のフェティシズムは正しかった」と喜んだし、それを「真理ではないか?」と考えた。
そこで「イケメンにこのセリフを言わせてみよう」と考えて選ばれたのがヘーゲルだった。
ヘーゲルにはマルクスのような人生の苦みなどなかったし、ヘーゲルが言った方がいいのかマルクスが言った方がいいのかは対立があった。
愛の倫理社会 おニャン子クラブ

レズビアンのカテリナとローラは「従属ってのは違うと思うんだ」と語った。
しかし、かなりレズビアン特有の「攻撃性」をもってマルクスを「獲りに」来た。
マルクス主義の起源が「自己疎外」つまり「自分と世界が遠くかけ離れる」状態にあったのは事実であったし、ひきこもりにならなければ男女のフェティシズムは明らかにはならなかった。
さて、マルクスのフェティシズムは「支配と従属」であったが、それはあくまでも「ノンケのもの」とし、「俺もいろんなものを国に売りつけたい」として「物象化論」というフェティシズムの議論が発展した。
しかし、物象化論を「国民が」拒絶してしまったのだ。
「ヘンタイは国民のわずか8%」という現実を痛感したのが現状だった。
「支配と従属」というノンケだけの世界ではないという論陣は根強く残ったが、マルクスの「イデオロギー」ほど高く国に売れたものはなかった。
皆さんも「フェティシズムの向こう側」に関する議論は「日経平均株価を暴落させるだけ」ということはよく理解しながら財務省や日銀に売りつけた方がいい。

プロレタリア革命について 小野光太郎講義

ブルーノ・バウアーは、思春期の頃に、合不合判定テストを上智大学で受けるなどして、東京の「層の厚さ」を感じなければ、性的に不感症になると考えた。
東京という大都会は、進出がきわめて困難であるからこそ、横浜などに「性欲」をもたらしていたのだ。
東京・名古屋・大阪・福岡の「四大ドーム公演」は性欲の象徴であり、実際にそれを行うと、周辺地域に性欲がもたらされた。
これが「マルクス主義の温床」となった。
最初から「東京出身」などという人は、そもそも「感じない」「野心がない」可能性があったのだ。
大都会の壁を思春期に感じるというのはそれほどのちの人生に必要なことだった。
東京進出が困難だと考えても、東京に住むよりはまだ可能性があるのだ。
東京パフォーマンスドール ダイヤモンドは傷つかない

マタイもマルコもルカも「地方出身者の性欲」について語っている。
パワフルなエネルギーは横浜市港南区にしかないのではないかと思うぐらい、私の出身地は芸能人や有名人に満ち溢れていた。
マタイもマルコもルカも、聖書には珍しく「聖母マリア」という女性アイドルについて語っている。
バウアーは「ヨハネのゴスペル」なども研究した。
田舎者ヨハネこそがメシアなのではないかと考えたからだ。
赤いスイートピー 松田聖子

東京に「下宿」し、各自が故郷があるという図式以外にサクセスストーリーは見いだせない。
「上京した時に何もかもが新鮮」でなければ性欲は生まれないのだ。
オーディションをやっても「君、俺と相性がいいね」というぐらい感度がいいのは田舎の女だった。
ドイツで、バウアーは「ダウンタウン」というものを作った。
ウォルマートは「地域の人材発掘」と称し、各地方にコンビニを作った。
コンビニエンスストアチェーンと結びつかない小選挙区制は想定できない。
マルクスの「共産党宣言」は、ベルリンで「お笑い」にはなったが、「田舎者って面白いね」というリアクションにとどまっている。
「地政学で勝者は決まっている」とも言われている。
国会議事堂や東京タワーが近くにある「下宿」と、そのような風景が全く想像できない「故郷」にこそ強烈な性欲と野心が集まった。
中学受験の時に弱くても、大学受験にめっぽう強い、あるいは、社会人としてのポテンシャルも高い「ヨハネ」はこのようにして生まれた。

ニューヨークブルックリンのマービン・ハグラー、ニューヨークキャッツキルのマイク・タイソンなどは、「両腕を動かすことが性欲につながる」ことを証明している。
つまり、アルツハイマー病も、パーキンソン病も「左腕・右腕の問題」ということを医者は冷静に見ていた。
皇居ランナーなど、両腕を動かすことの快感に取りつかれる東京人は多い。
マルキュースも「体育館」から都会人としてのキャリアを始めている。
体育館がなければ性欲がわかないのが都会人だったからだ。
マルクスの「イデオロギー」はなぜ、共産党宣言で敗北したのだろうか?
これが、大都会という問題であった。
やがて、その発想は所得再分配と大都会のあり方にもかかわる問題へと発展している。
異常性欲を疑うのならば、思春期の「大都会の壁」と、その後の大都会進出を研究しなければならない。
Maji で Koi する5秒前

マルクスの共産党宣言はなぜ大都会で敗北したのか?
アメリカ中西部の女たちはいまだに不思議がっている。
私も東京大学ボクシング部で「レフトフッカー」として、左フックの魔力に取りつかれている。
都会の人間の性欲とは左右の腕にその起源が求められる。
大都会では両腕を動かさなければ、目が死んだ魚のようになるだけだ。
東京の人間はとにかくセカセカしていなければ性欲が萎えるのだ。 「空いている電車で立っている方が落ち着く」 私の顔 タンポポ
マルクスの「イデオロギー」は、田舎では「信者」が多くいたが、都会では「お笑い」に過ぎなかった。
このことから、マルキュースは、大都会と帝国主義の研究を深めることになったのだ。
マルクスの共産党宣言が第一インターナショナルであるならば、第二インターナショナルは「地方と都会の問題」に気が付いた存在だった。
東京において、共産党は第二インターナショナル以降、「大都会の問題」が得意になっていったのだ。
大都会と「性欲」の関係を理解しているフランクフルト学派はとにかく恐れられた。
エリート主義と「標準語」まで作り上げた。
また、大都会では、性欲を掻き立てるために、女性たちはファッションや美の探求にこだわった。
女に買い与えるものは洋服でも食べ物でも「商品」と呼ばれた。
売買するものすべてが「商品」であり、盆栽でも花屋に並ぶサイズのものは「商品」と呼ばれている。
そもそも、女のからだが「商品」だった。
ケインズは「おカネとは金額が数えられ、女が買え、どの女にも通用するもの」としている。
「いつも同じ服を着ているから」入店拒否にする心ない個人事業主もいたのだ。
女一人口説けない男とみなされたのだろう。
Complex Rambling man

第二インターナショナル(コミンテルン)は、「イデオロギー」のセールスを見るだけではなく、都会における「商品」の流通に、革命や帝国主義の可能性を見出していた。
アダムスミスは「いい大学に入って、いい会社に就職して」という方向性を正解としていた(究極)。
マルクスのイデオロギーも、フロイトの「女心」も、真理ではあっても東京進出は困難であるとコミンテルンは考えていたようだ。
東京で「お茶の間」の人気を博す程度に終わるのが「真理」であった。
東京の人間はとにかく「一次元男」と呼ばれるほど「動かなかった」のだ。
基本的に、エロ・グロ・ナンセンスしか売れなかったが、マルクスやフロイトも当然セールスを伸ばした。
女流作家の版権がテクノロジーを進化させた。
外国人のロッドの物語が女流文学だったのだ。
大都会の「一次元男」を動かさなければ権力が動かなかった。
そこで、マルクスのイデオロギーや、フロイトの「女心」をフルに活用することになったのだ。
都市化の進んだ日本国では「ジェンダー差別」が先進国最下位であるが、それも「日本帝国主義」ならではであろう。
真夏のフェミニスト ribbon

イデオロギーというものは「時の権力者」が裁断的に決めるものである。
あるいは、うまくイデオロギーを決めたものが権力者になると言ってもいい。
イデオロギーは財務省や日銀に伝わり、立法がばら撒くカネにつながる。
つまり、口説き文句(法律)が生まれるのだ。
男は話を聞くことを覚え、女は優しくなることを覚える(恋愛)。
しかし、男は話を聞きながら、うまく女を口説かなければならない(法律)。
イデオロギーとは「法律の向こう側にある」「本番」のことであるが、それでも男たちは女を口説く方法(法律)を知りたがるだろう。
いきなりイデオロギーを語られたのでは、女も「男の値踏み」ができずに、その気になれないものだ。
そのために、法律の力量を聞いてからイデオロギーの話を聞きたがるのが女だ。
イデオロギーというものは、とにかく笑いを取って「証明」するものである。
資本主義の矛盾とは、法律を勉強するか中学高校で恋をするかの選択を迫られることをいう。
中学生の時にセックスしたら、内申書に響く(麹町中学内申書事件)。
女を口説く方法(法律)を学ぶ機会を没収されてしまうのだ。
これがマルクス主義に対する日本政府の扱いであった。
イデオロギーは時の権力者の権力の源泉であった。
しかし、法律(女の口説き方)を研究しているうちに気が付いたものにすぎず、より社交的に、担保(女友達)を増やしていくためにはイデオロギーだけではなく法律を知る必要がある。
「小野さん、みんなあなたのこと頭おかしいってさ。法律に関して聞かせてください」
私はこのような感想を女性からいただいている。
権力を得るために必要だから明らかにするイデオロギーも、女の口説き方(法律)の知識がなければ意味がない。
本番で何をするのかを理解してから女を口説くのが普通だろう(法律の源泉としてのイデオロギー)。
四月は風の旅人 松田聖子

「賄賂と認定するためには対価性が必要」「あくまでも経営判断によるもの」など、弁護士は独自の「日本法」を東京大学で学ぶ。
しかし、それでは芸能界にナメられたままであろう。
すくなくとも、イデオロギーと法律は「日本法」に合わせて学ぶものではない。
あるいは、処女とその高貴さを体制選択において行った日本法が独自の発展を遂げたのかもしれないが、世界レベルで通用するものではない。
少なくとも、日本の芸能界は「法律=女の口説き方」という発想をすでに受容している(民法典論争の敗北)。
「私と話をしていてゲームやマンガの話ばかり?」「もっとロマンティックな」
法律(女の口説き方)とはそれほど女たちに人気のあるものだったのだ。
「テレビで言っていること」を真似すれば、司法試験にも国家一種試験にも受かるというのであればそれは所得倍増計画であるが、私の「横浜ボーイスタイル」をテレビが採用することはない。
行政事件訴訟法(芸能界の架空の話)がテレビに蔓延しているうちは、所得倍増計画は打てないのだ。
「結婚も嘘」「子育ても嘘」そんな現状を苦々しく私は見ていた。
「リーガルマインド」
これを「モテる男」は持っていたし、みんなが真似をした。
しかし、「今までの国家試験」がある限り、所得倍増計画を打つのは難しい。
ドラマを録画してセリフを暗記するのが国家試験対策であるというのが理想であるが、それも「今までの国家試験」がある限りどこかで調整が必要だ。
プロフェッショナルの大衆化というのは多くの利権に阻まれる。
来年の大河ドラマの明智光秀すら、私は「所得倍増計画につながらないではないか?」と考えている。
もっとも、私のブログの読者にはすでに「所得倍増計画」は伝わっていると思う。
なぜ、所得倍増計画は受け入れられないのだろうか?みんな「アウシュビッツ」が怖いからなのだ。
アウシュビッツのトラウマが生々しかった時代にしか所得倍増計画は打てない。

社会主義とは、「女がからだを売った」ら、日経平均株価以上の富が国家にもたらされるとし、芸能界などの「負の側面」におカネを流そうというラポールの思想をいう。
「からだを売る」「からだを張る」ことほど国家に富をもたらすものはなく、からだを売った女だけにとどまらず、からだを張った男も社会主義の恩恵を受けることができた。
「小野君、朝から晩まで勉強して」
そんな私も気が付いたらラポールという体育館で運動をしていた。
愛される女はセックスしていたし、愛される男はからだを張っていたのだ。
「愛」が社会主義の根底には存在し、基本的には「労働」の世界のことを意味した。
国策としては「お年寄りやお体の不自由な方」を丁重に扱うことを社会主義と呼んだし、その方が国が豊かになった。
人生にはいろんな出来事があるが、からだがガタついた人間ほど国に貢献した存在はない。
大雑把に言うと「愛」なんだよね。
愛の対象になり、異性を慰めてきた人生が今の姿となっているのだ。
最後に、共産主義イデオロギーへと発展するかは明らかではないが、とにかく「からだを売った女」「からだを張った男」特に「芸能人」を手厚く扱おうという思想であると言っていい。
女が「男の序列」を決めているのだとすると、からだにガタが来た男は、序列が高いのが通常である。
「才能/必要」原則とも呼ばれ、これが障害者自立支援の思想になっていることは明らかである。
しかし、老齢年金や後期高齢者医療は手厚いものがあるが、資本主義社会は必ずしも「芸能人」には寛大ではない。
芸能人であるのならば、自力で「富」を集める才能が見込まれているからだ。
私は、からだを張った人に富をおすそ分けすることはできる。
それは「社会主義思想」である。
日本国は、社会主義思想を表立っては採用していないが、財務省や日銀は「可能性」としてそれを組み込んでいる。
あるいは、私は立憲民主党や国民民主党・社民党の政治家が本来果たすべき役割を演じているのかもしれない。
社会主義思想は「意味のない苦労はさせない」という意味でもあり、ブッダへの忠誠心を求める仏教の世界は、なかなか社会主義思想とは結び付かない。
むしろ「マルクス主義」と仏教は近いと言っていいい。
「意味のない苦労をさせる」
それは、豊かさが約束された人々が行うものだ。
2~3時間、法事で正座したら御馳走が食べられる。正月に義実家に帰省したら御馳走が食べられる。
すべて、「当たり前ではない」ことなのだ。
からだを張った人間に豊かさを約束するのが社会主義思想であるが、それが実現するのならば共産主義体制への移行がなされたことを意味する。
すべて、指導者の力量次第である。
義実家で正座させられた奥さんがいるのならば「何を食べさせてもらったか?」を思い出さなければならない。
社会主義細胞は常に資本主義国家で地下活動を行っている。
いろんな人にいろんなものを与えているのだ。
自分の選挙区においては政治家だけは社会主義体制を敷いているはずだ。
私は本ブログを「からだを張って」書くことで、「知的社会主義」を実現している。
資本主義体制の中から、いろんな「贈り物」をする人が社会主義体制を作り、最後に「イデオロギーのもとにある」共産主義体制へと移行する、これがプロレタリア革命である。
「人にものをあげているうちに分かってくる」
そのような境地に達するのだ。
仏教界の中枢は「涅槃」(苦のない世界)とは何か?という問題に沈黙した。
社会主義体制を経験して気が付かなかったか?というのが答えだった。
社会主義体制は「権力の集中」を引き起こすために敷くものだ。
そのため、各政治家は自分の選挙区を社会主義体制にしている。
これを「国家レベル」で行ったのがソビエト連邦だった。
「意味のない苦労などない」
これが福祉の奥義であるが、福祉の現場では、個人的な「恋」という感情に頼っている側面も指摘できる。
「恋」とは「仲間が多い、何かやってくれそう」という男に抱く感情であるが、それはそれで芸能界では成り立っている。
Melody 運命’95

自らがからだを張って苦労し、のちの世代に苦労を残さなかった「小野社会主義」に財務省や日銀は染まっている。
「これが政治なのだ」
自らが知的な困難に立ち向かい、のちの世代に楽をもたらす。
「これが政治家なのだ」
毛沢東やレーニン、スターリンなどはそうだっただろう。
天皇制は君主制である。
しかし、マルクス主義とどのように異なるかの答えはいまだ見いだせない。

また、従来の「軍事オプション」による占領ではなく、「宗教スポーツ」と「アイドル」「芸人」が結びつくことから、日本に住んでいる朝鮮人・中国人・ロシア人を、女の子ならば「神道系音楽」を歌わせることにより、あるいは男の子ならば「お笑い芸人」にさせることで、本国の男の子たち、女の子たちが「結婚したい」と考えるという手法で、植民地化を進めてきたのがプロテスタントによる政策であった。
日本国の「神道」は現在、「世界で最も洗練された」レベルにあり、朝鮮・中国・ロシアのアイドルを生み出すのはたやすい。
あとは、子供たちの語学力次第である。

 

2019年12月10日 (火)

プラグマティズム~君主の真似をして生きる。

世の中には、高校時代に恋をする「恋派」と、恋を追い越していくエリート(愛派)がいる。
しかし、愛派が、「恋派にもわかるように話す」ことをプラグマティズムと呼ぶ。
つまりは、大統領であり君主である。
人々は、笑って君主や大統領を支持した。
酒井法子 恋と愛のニュアンス

「人間が何を共有しているか?」に気が付かなければ大統領にも君主にもなれないのだ。
人間は、「譲れないもの」(意思の自由のないもの)つまり「エゴとフェチ」を持っているが、譲れるもの(意思の自由のあるもの)で非常に興奮すれば笑って大統領や君主を支持する(記号論)。
デューイは、1931年に「ノーベル平和賞」というものを考えたが、何を見ていたかというと「記号論」(人々を興奮させる文章・芸能界)を理解しているかどうかだった。
その後、ノーベル平和賞は、ニューディール政策や東西冷戦を経験した。
ニューディール政策を行ったルーズベルトやヒトラー、あるいは東西冷戦下の世界の指導者が「肉声を語らなくなった」のである。
なぜなら「自分よりも頭のいい指導者が世界にいると戦争になる」からである。
また、守るべき家庭があると、なかなか「恋派の合意を得ることができる愛派」は生まれなかった。
そこで、自分に子供ができたときに、愛派はようやく「柔らかく」なることを覚えるのだ。
「子供が誘拐されたときの、いざという時」を覚悟するから柔らかくなると考えられている。

1870年に、ハーバードでウィリアム・ジェームズは「女心(形而上学)クラブ」というものを作っている。
「タフなハートを持って噛み砕こう」をモットーに、哲学を柔らかくしていったのだ。
それは、神聖ローマ帝国を滅ぼしたライプニッツ・ナポレオン系の英語よりも、さらに「柔らかい」ものであった(1907年)。
なによりも、「私の子供たちに理解してもらいたかった」とジェームズは語っている。
我々は、そもそも「ノイズのない、音符でできた言葉」を話せるのだろうか。
音符でできた言葉ならば、そのまますべてを貫通してしまうだろう。
松田聖子 四月は風の旅人

愛派は「セックスに至るまでの複雑な理論、セックスした後の複雑な理論」には詳しいだろうが、「性の作法」を語るようになるのならばラカン以来の、大統領であり君主である。
「ドピュッとやるだけが人生」と語る坊主に、その前の複雑な理論とそのあとの複雑な理論が理解できるかはその人の力量であろうが、結局、「恋派」はそれにしか興味がないのかという達観が得られた。

理論と言っても、貧乏セックスは犯罪だということから、クラミジアを研究して、「NHKの集金人が貧乏人にあしらわれて、蜘蛛を家に放り込んでいる」とか、「NHKに出演すると尻の周りがかゆくなる」(青銅の蛇)などを理解することが必要でもあるし(梅毒)、それ以外にも恋愛論は山ほどあった。
音楽作品は「プロポーズを頂点とするもの」であった。
しかし、「性の作法」(セックス崇拝・キリスト教)は、真理として確定しているではないか?
日本国の「神道」もそのことに気が付いていた。
「おばあちゃんが必死でいじめを食い止めてくれている」(祖先崇拝)、何を見ても太陽(男)が月(女)を理解して、世の中を動かしていくものだということの学習も必要だった(自然崇拝)。
高橋由美子 おみくじ

記号論にとって、「哲学の敵は反知性(イビド)」であり、常に和解の道を探っていた。
結局「男の人気」に書き換えるしかないんだよね。
チャールズ・サンダース・パースは、そのようにジェームズのプラグマティズムを発展させていった。
「記号論とは、人々を興奮させる文章であり、芸能界でもある」
芸能人を多く見た結果、変態や狂気と接することになるであろうし、それでも、公約数的見解は「性の作法」にあることを知るのだ。
彼らを見た結果「自分が何をやったらいいのかを悟る」これが必要だった。

ウィリアム・ジェームズで完成していた理論が、プラグマティズムであり、記号論であったが、それはあくまでも「土台」であり、ジェームズは「処女の向こう側、お父さん以外の男に裸を見せる女」(セカンドラブ)にまで深く立ち入ってはいなかった。
中森明菜 セカンドラブ

処女とセックスするのは難しい。
何故だろうか?
セックス崇拝をしている連中が男に「硬いもの」を窓から放り込んでくるからである。
「恋派のバカども」と言いたくなる気持ちをこらえきれなかったら大統領や君主にはなれない。
警察は「赤い息を吐くな」で済ますことができる話が、政治の世界ではそれでは収まらなかったのだ。

処女とセックスすることが難しい、恋派の連中の納得を得なければならない。
このことと向き合ったのが、チャールズ・サンダース・パースだった。
自分は子宝に恵まれ、「パワフルな政治」が可能になるが、それでも厳しいスポーツになる。
自分の学問がスポーツとして成立したのならば、本当のメジャースポーツにも生きるようになる。

このような経緯を経てできたのが、共和党だった。
自由民主党と公明党が「共和党」を名乗ることは可能であろうか?
このあたりは「神と仏」の学問となり、非常に勉強になる覇道である。
つまりは、「横文字」をうまく日本語に翻訳する才能だけがそれを可能にするだろう。

一人上手と日本経済一人勝ち理論

アベノミクスはこれから始まる。

いずれにせよ、プラグマティズム(君主の真似をして生きること)が、記号論と出会って、恋派と愛派の妥協点を見出すことを「真理」と呼んだ。
クンバカが真理だとする連中と、セックスが真理だとする連中の「真理は同じ」ということを知らなければならない。
民青(中堅校出身の東大生)と、原理研(一流高校出身の東大生)に妥協点はあるのだろうか?
一流高校の連中は、カマまで掘られて生き残っていたのだ。
妥協点は抜き差しならぬ問題とならざるを得ない。
それを「真理」と呼ぶのだ。
愛派には、「常識に戻ろう。恋の生み出すお金は無視できないだろう?」という問いかけがなされた。
この問いかけを行わなければ、愛派が「ギリシャ哲学」を振り返ることもなかっただろう。
「男が勇敢な形で敗北する」「反則を使った神が無様な姿で負ける」
これを「笑顔でノーサイド」と呼んだ。
「恋」だけは彼を見捨てなかったからだ。
笑顔でノーサイド 宮前真樹

日経平均株価というのは、上昇すれば「日本国の豊かさ」が増すことになる。
しかし、なぜ「下がることがある」のだろうか。
答えは「失業率の増加・利上げ・インフレ」の三つにある。
女たちが魅力を増せば、株価は上がるが、「あいつ仕事ばかりしてすべての女を独り占めしようとしているのか?出て行ってくれ」などの失業の理由があったり、利上げというのは「クビにしたい上司がいる」から行うものであるが、権力を利用して、部下から女を奪うなど、女の魅力が高まる日経平均株価の上昇は必ずしも歓迎すべきものではない。
また、インフレというのは「感じなくなる女が増える」という意味であるが、「ひきこもり主婦」のように、セックスのし過ぎでノイローゼになってしまう女性もいることから必ずしも日経平均株価の上昇を望んでいない人たちがいる。
「失業率の増加・利上げ・インフレ」の三つがあるから「株価は右肩上がりではない」という現状がある。

また、日経平均株価は必ずしも「女理論」で割り切れるものではないとの指摘も考えられる。
世界経済の影響を受けるのは事実であるし、また、企業の業績に従っているのも事実である。
しかし、「切れ味のいい理論」ならば使おうではないか?

まあ、「君主の真似」をするのがプラグマティストだとするのならば、あとは「経験」に委ねるしかない。
「女性にモテた」「気持ちよかった」「健康になった」などいろいろな経験談に頼るしかないのだプラグマティズムであり、人々の経験がなければ議論する理由がない。

君主は、スタンフォード大学の高等教育を受け、カリフォルニアのエリートだった。
オックスフォードの英国紳士と「言っていること」は同じではないか?
また、「仕事とセックスは家庭に持ち込まない」という人もいるだろうが、企業の重役さんなどがそのようなポリシーを取っており、しかし、息子や娘たちは「お父さんの仕事」には興味津々であった。
家庭内では「天網恢恢疎にして漏らさず」と言って、下ネタは禁止であったが、それで世の中は成り立っているのだ。

それでも「共和党とはアメリカ独自の存在なのか?」が議論された。
気持ちいいセックス(アメリカの正義)は、ほかの国では通用しないとも言われた。
しかし、どうだっただろうか?日本人は案外アメリカに対してオープンであっただろう。
ribbon 愛してジャスティス

「私はエリートだ。恋なんてものに回帰していくことはできない」という立場は当然存在する。
企業は「東大の論理」でも動くし、「スタンフォードのお下劣論理」でも動く。
あとは「多数派工作」だけが待っているだろう。
私は「東大の論理」もかなり勉強したが、勉強していると鬱になる。
権力がそのように動いているという側面は楽しかったが、なにしろ国内の主流派であり、つけ入る隙もない。
しかし、スタンフォードの法律学は「小野臨調」でも紹介させてもらったが、学生たちに大人気だった。
すくなくとも、芸能人女性は「東大?それが何?」という反応であり、スタンフォード大学の論理以外に通用する世界ではない。

「役所とはこうやって話すのね?」と言っていた女性芸能人はいたが、あくまでも「東大慣れ」する必要だけがあり、スタンフォード大学がなければ「こちらからアクションを起こす」ことはできない。
「お上」を動かすのはあくまでも「スタンフォード大学のお下劣ネタ」であり、私もそのような「君主」こそが「英国紳士」であり、人々の経験談に支えられた存在だと考えている。

いじめにも遭遇するし、音楽作品にも親しんだ。
はたして、学校の先生が「令和天皇みたいになってほしいからだよ」というかは明らかではないが、プラグマティズムというのは、常に「政府与党と共に歩む」者たちの立場だった。

1990年代に、私が東京大学に合格してから、女の子が「からだ一つで」夢が見れるようになった。
これは新時代の始まりであり、最終的には、彼女たちは芸能界に入って、歳を重ね、中年になった頃に私が天皇になり、「気持ちいいセックスとは何か?」「からだ一つで夢を見るとはどういうことか?」を明らかにしている。
19歳の東大一年生ならば、この境地には至るだろうという加速度も周囲は念頭に置いていた。

 

「セックスはムードですもの」
「クリトリスから先がいいわ?」
「濡れてきたね。スムーズだよ。リラックスして」
「呼吸を乱してもいいんだよ」
「大丈夫。痛くない」
若さに自信のある女の子は「若い女性ホルモンを感じて?」と言ってもいい。 また、「エンジンが効いてる」というのも有効だ。
これを覚えよう。
「あなたの子供が生みたい」も適宜用いる。
「ああ貴族!ああ官僚!」
「大きい」
「オナニーさせて」
これで女性がオーガズムに達するのは明らかであるが、考えなければならないのが「貧困女子」のことである。
そもそも「男が女を愛する気持ちを利用するのが経済学」という基本を理解しなければならない。
君主は、妻を愛し、それでいて周囲の女性たちを愛するという二元論に立脚していた。
瀬能あづさ I miss you

妻が産んだ子供たちは可愛かったし、それでいて政治力(女心の理解)を深めたかった。
そのためには二元論の立場に立たざるを得ない。
妻以外の女たちも、君主に「女とは何か?」を教えたために豊かになった。
他の女たちは「おカネ目当て」という側面があったため、おカネをもらったら君主とは適切な距離を置いて、ファミリーを見守った。

要するに「君主とともに有名になった女がたくさんいる」ことを、プラグマティストフェミニズムと呼ぶのだ。
深津絵里 CM

プラグマティズム(君主の真似をする主義・思想)は、女性を強烈に「快楽の対象」にせざるを得ない。
なにしろ「君主」であったからだ。
愛された女たちは「沈黙」するか「セリフを読む」「歌を歌う」ことしかできなかった。
強烈な快楽の対象となった羽田恵里香も、私とともに有名になった女の一人であったが、「セリフ」「歌」以外では「迷子」にならざるを得なかった。
羽田恵里香 迷子にさせないで

「それでも彼女たちは君主のそばで生きてきた」
メンタルクリニックでひどい鬱に悩まされてきた私であったが、彼女たちもすぐ隣で病院の順番待ちをしていた。
「有名になるという病気」を抱えた者たちが隣同士になるのは当然であったし、横浜という土地柄、クリニックの数は限られていた。

君主の真似をして生きるプラグマティズムには、「哲学は難しすぎる」という負の側面と、「言葉の誤魔化しをやる連中を排除することができる」という明るい側面があった。
自己欺瞞というと「男が勇敢な形で負ける」「反則を使った神が無様に負ける」などのいみであることや、自己疎外というと「自分と世界が遠くかけ離れる」という意味であることなどを明快に描くことができる。
また、君主の真似をして生きると「キャラ設定」が無難に行えるとも言われ、そのアイデンティティは「勉強が好きであること」「性に寛大であること」そして「日本語ができる人が日本人」という割り切りがあることなどが指摘できる。
性に寛大であることはブルジョアであることを意味したし、親が勉強するだけのおカネをくれることをも意味した。
また、日本語がネイティブランゲージであったことから、「俺の言っていることがわかる人は日本人」という境地にもなった。
その影響力にかんがみると、なんら差別主義の立場には立たないことを示していた。
君主の真似をして生きると言っても、いつかは特定の女にプロポーズをしなければならなかった。
101回セックスしたら、女が「殺す、殺す」と言い始めて、「僕は死にましぇーん、貴女のことが好きだから」と言わされる羽目になる。
プロポーズを頂点とした全体主義に若者は身を置いているのであり、「処女とジャニーズ」というスターリニズムとは距離を置いていた。
ribbon Virgin snow

「処女とジャニーズ」をセールスにかけるスターリニズムの影響力は強かったが、それは「性への寛大さ」とは異なる論理を持っていた。
ジャニーズは「太った女」を量産したし、処女にこだわるというのは性への寛大さを疑わせる議論だった。
高校一年生でも、クラスメートの女子の中には、読書感想文が入選する女子もいた。
普通に「子供がいた」のだ。
子供がいなければ「コピーペースト」しかできないと言われ、文章を要約する才能は通常は持っていない。
「大意を述べよ」などというのは子供たちにとっては最悪な問題であった。
そういう問題は親などの「子供がいる人」に答えを聞いてみるしかない。
「大意を述べよ」とは自分の人脈を問われていたのだ。

共和党の言っていることの「大意」をつかんだら、資本論(男論)が唯物論(女論)をかたり「予言をする」という共産主義の世界が開かれた(新左翼)。
旧左翼との違いは「予言」にあったし、メジャースポーツなどで生み出されるビッグマネーが異なった。
1960年代以降、新左翼はメジャースポーツを楽しみ始めたのだ。

唯物論(女論)と言っても、私が考えた「男女の性欲の起源」から始まり、垂加神道のような「客観的事後予測」(男から見たセックスの影響力の見方)などのようなものである。

女に電話して、「セックスはムードですもの」
「クリトリスから先がいいわ?」
「濡れてきたね。スムーズだよ。リラックスして」
「呼吸を乱してもいいんだよ」
「大丈夫。痛くない」
「若い女性ホルモンを感じて?」
「エンジンが効いてる」
「あなたの子供が生みたい」
「ああ貴族!ああ官僚!」
「大きい」
「体中の血液をチンポに集めて?」
「オナニーさせて」
「私の柔らかい体を見て」
「いい匂いがする」
「からだが締まってくる」
「秘密は守ってね」と言わせてみよう。
千年の媚薬 CoCo

このセリフの対象にされる女を「主観的判断」と言い、どのようなリアクションを取るかは女によりけりだろう。
私の場合は「彼女たちの各人の都合」があり、電話に出てもらえなくなった。
なぜならば、これが「男女の性欲の起源」の真理だったからだ。
瀬能あづさ 愛になりたい

セックスに「悔いが残る」ことを「因果関係」と呼び、それを「男の側から」判断できるのか「女の方が詳しい」と見るかは時代によって異なる。
男性社会を強烈にアピールする行為無価値論の立場からは「客観的事後予測」が主張され、女の社会参加を求める結果無価値論の立場からは「主観的判断」が求められた。
「君主の真似をして生きる」のならば、家庭崩壊だけが怖い。
そのため、最高裁はいまだに行為無価値論を堅持している。

いずれにせよ、プラグマティズムは、君主のエネルギーを政府与党と直結させる形で「共和党」を作ったのだ。
共和党選出の大統領は君主であり、民主党選出の大統領はそうではないという奇妙な構図も生まれた。
一人の人物が「民の支持」を得られない時代というものは確実に存在するため、それでいいとされている。
アメリカ合衆国においては、インターネット時代というものは「ほとぼりが冷めるまで」民主党が楽しみ続けただろう。
「トランプショック」というものは、令和天皇が王子の時代に「聖子ちゃんは神・男・聖霊の完全性を議論している」としたことから引き起こされたものだ。
次の大統領選挙でも、「男女の性欲の起源」がトランプ大統領を支えるネタとなるであろう。
つまり、来年の「トランプ外交」は、案外「乱暴なものとはならない」という見方も可能だ。
君主も、思うにまかせぬものは山法師(宮内庁)と考えているうちは、人々に必要とされ続けるだろう。
台風撃退の歴史が日本の宗教史ではあったが、山法師は「男女の性欲の起源」が分からなければ治まらなかった。

長屋王は、吉備内親王と結婚し、政界の重鎮となった後に殺されたが、今は時代が違う。
長屋王の変は「藤原氏の起源」とされているが、藤原氏も逆らえないような知識がアメリカ合衆国にはある。

三島由紀夫は「天皇とさえ言ってくれれば君たちとも組める」と新左翼に訴えかけたが、君主の言っていることへの理解度や、学歴などが両者の垣根を作っていたものと考えられている。
私も村上春樹とはよく話をしたことがあるし、対立したことがある。
しかし、三島由紀夫と昭和天皇の関係ほど深い仲ではない。
しかし、私は村上春樹にとって「作家としての先輩」だったことは事実である。
昭和天皇と三島由紀夫の関係は「マルクスとエンゲルス」の関係に似ているとされている。
つまり、科学的社会主義(学問にもとづいた自由恋愛社会)か、空想的社会主義(学問には必ずしももとづかない自由恋愛社会)かの違いだ。
ノーベル文学賞は常に科学的社会主義を見ていたのだ。
「プロポーズを頂点とした全体主義」でもあったし「処女とジャニーズ」を用いたものでもあった。
前者を、マルクス・レーニン主義と呼び、後者をスターリニズムと呼ぶ。
どのみち、「男女の性欲の起源」が理解できないと発展しないのである。
スターリンは「ジャニーズ帝国」の研究などから、ヘンタイの存在に気が付いていたが、トロツキーは、よりレーニンに近かった。
トロツキーは、レーニンに近かったというよりも「ナチスドイツの構造に詳しかった」と言った方がいいかもしれない。

男女の性欲の起源とは、かなりナチズムに近いものがある。
「男であること、女であること」は、ミシェル・フーコーが1970年に決めたが、それ以降に、ナチズムが登場する可能性を令和天皇は示した。
あとは、「キャンパスライフを楽しんだかどうか?」という学歴社会だけが残った。
大卒でないのに「能力は大卒と変わらない」という時代は君主性を危うくする。
低学歴者の「下半身」をわしづかみにする「君主」というものそのものが、君主性を危うくしてしまうのだ。
それは「政治的無関心をなくす」からであると考えられている。
高学歴者からの反発も当然予測しなければならない。
「右翼少年の誕生」であり、「矯正は困難」と呼ばれる事件もあった(風流無譚事件)。

令和天皇が、英国のEU離脱及び、「世界の髪の長い19歳の女の子」がもたらす富を英国イングランド銀行に集めたのも事実だ。
シルバーリングに口づけを

私の「東京大学の限界を悟り、アメリカという覇権国家の知識を吸収していく」という国家社会主義と、共産主義は「どちらが正しいのか?」をナチスとソビエトは決しようとしたが、アメリカとイギリスという資本主義国家が、その結論を有耶無耶にしている。
いまだに結論は得られていないのだ。
マンチェスターユナイテッドや、シカゴブルズを愛する人たちがその結論を出そうとはしないだろう。

君主(天皇)にせよ、首相にせよ「常にその地位を狙われていた」ため、よく勉強したし、赤ん坊がノイズの世界に晒されたときに、いちばん聞くに値する「ホワイトノイズ」は君主や首相が発信していた。
問題は、世界のほかの国に「自分よりも賢い指導者」を見つけたら戦争になるということであり、肉声を発することのできる指導者は国内でも限定的だったということである。
妻という大切なパートナーがいながら、「女」「女の口説き方」を発信することは二元論だった。
権力闘争こそが「宗教」を生み出していたため、それをいかに裁量的(創造的でありゲームとして成立するもの)なものにしていくかが問われた。
王子は「伊勢神宮の人格的統治者」をやって女性たちの人気を博さなければならなかった。
この経験を経なければ君主が務まらなかったのだ。
王子の仕事は「受け身」なものではない。
国家世俗性説に立脚してもいいし、宗教非抑圧論のもとで「王子が熾烈な権力闘争をしている」ことが人々の支持を集めてもいい。
宗教非抑圧論の方がより「パワフルな」宗教が生まれる可能性を秘めている。
どの子供たちも学校では権力闘争を行っていたため、宗教非抑圧論というものは存在する。
国家世俗性説の時代もあるだろうが、そんな時は、民主党政権に移行せざるを得ない。
国家世俗性説や民主党政権は「セッターのいないバレーボールチーム」にたとえられ「どこにボールを返していいかわからない」と批判され、その政策がどこから出たのかわからない、と語られるが、そういう時代も過渡的には存在しうる。
「100万人保育拡充」と「女性の社会参加」を民主党政権は推進したが、「女」というものを知らな過ぎた。
そのあたりは、国家世俗性説の限界だったのだろう。
職場の上司は「仕事を教えてくれる神」であるが、看護師などはその「神」を外国人の名前にするという知恵を持っている。
また、ステークホルダー論のように、顧客ともセックスしてしまう女性社員がいるケースと、株主利益最大化論のように、セックスサークルを社内だけにとどめておく発想があり、日本国では株主利益最大化論が通説とされている。
「男女の性欲の起源」が明らかになった以上、ステークホルダー論は、「会社に溶け込みたい」と考える女性社員にとっては有害であるという指摘は確かに可能である。
瀬能あづさ ノーと言えない

男女は「知性」によってつながっている。
顧客に知恵があるのならば、女性社員はステークホルダー論の立場に立つかもしれない。
しかし、「デリカシー」というものは「ベッドの上で情報を漏らす」ことを否定するものであり、大企業の多いフランスで採用されている。
カトリック=大企業=デリカシーは、切っても切れない関係なのである。
漏らす情報は「違法秘密でなくても」十分デリカシーを侵害しているとされている(西山事件)。
女は知恵と知識を生み出すためにいろんな男の声を聞きたがっている。
しかし、デリカシーだけは守ろうという株主利益最大化論に、宗教非抑圧論も味方するだろう。
「肉声のある君主」にしか取れない立場なのだ。
苦しみの向こう側に立たなければ「肉声」を語ることはできない。
「僕、そのことをすでに知っていたよ?」という観音様では困るわけだ。
観音様は「僕、そのことをすでに知っていたよ?」と言ってお年寄りに撫でられていたが、観音様=聖徳太子と、君主は明らかに異なる。
「人間とはなぜひとつになれないのか?」と言ってベルクソンの論文を読んでため息をつくのがあらゆる指導者の経験談だったはずだ。
あとは「あの王子、カッコいい!」と若者が「君主の真似」を称賛される経験論を待つほかはない。
それが「君主制」というものなのだ。
君主が「北風」しか吹かすことができなくなったら、王子は「南風」を吹かして次世代をうかがうだろう。
センチメンタル南向き タンポポ

また、君主と王子という図式がどの男の子にも当てはまるのならば、「レイプと女嫌いだけが女が神に失望する理由」ということを踏まえ、呪いや祝福に脳がアクセスしていないセックス(レイプ)が防げるかはともかく、「女嫌いの男の子」だけはなくすことができるのではないかとされた。
つまり、「神さまを信じることができるかどうか?という滑りやすい坂道」を転ぶことなく上っていけるのが君主制であり、その人々の信仰心は、天皇陛下への侮辱を「貴様!」と呼ぶ国民も現れた。
冬の微粒子 CoCo

クリスマスを考えたのは、「プロポーズを頂点とした全体主義」であるレーニン主義でも、「処女とジャニーズ」を推進したスターリニズムでもなく、より「ナチズムの性欲の研究」に造詣の深かったトロツキーだった。
1970年代以降の、ネオプラグマティズムは、君主が常に「王子」を探しているという構図を構築した。
日本国の北風と南風は、イスラエルの東からの風と西からの風に該当する。
風向きが、中東では常に問題にされ、日本国の北と南が、中東では東と西となっていることから「宗教マップ」が若干異なる。
君主は常に「暖かい風」を求めていたし、平成天皇ですら「ノストラダムスの大予言」の時に私を頼り、「北朝鮮による拉致問題」の時に安倍晋三を頼っている。
君主は常に王子を探していたのだ。
ジュディオング 魅せられて

君主といえども、人間の経験には限界があったため、「女に甘え、若者に甘える」という甘えの構造が君主制を構築していたわけである。
どれほど多くの哲学者が、ヨーロッパ君主制・大統領制を支えてきたかは数知れないものがある。
少女マンガにしか興味のない女の子を愛せるか?
「性欲の起源」によって踏み込んでみることは可能なのだ。
みすぼらしいファッションをバカにされたりしても、君主でいられるか?
それは両親との和解が困難だった証だろう。
中年以降に感じる「母の愛」というものが日本人には存在するのだ。
病人や貧乏人から学んでいるのが君主なのである。
すべての病気の源は「鏡で見る自分の顔」が原因かと思うこともある(ミラーイメージ)。
健康になりたければ、できるだけ映りのいい鏡の自分の顔を眺めてみよう。
私の顔 タンポポ

16世紀から17世紀にかけての宗教改革(ルター改革)は、「美の改革」でもあり、ミラーイメージが健康に極めて重要な意味を持つようになった。
アイドルの実物を知らないと、とんでもない病気になってしまうこともある。
「私の顔はこれでいいんだ」という境地になるコペルニクス的転回が極めて困難になり、多くの病気を生み出していった。
また、「恋をする」ということも重要だった。
コンプレックスのない「男の顔」があるとするのならば「女の子」だと自分をみなしかねない。
スペース(空間)でダイナミックに動くためには「顔」が重要になってくる。
「私の顔」がどこに住んでいるのかを正確に理解する必要がある。
女性の場合はそれが裸体にまで関わるのだ。
動くという動作そのものが「顔」と関わっているのだ。
しみったれた顔をしていると幸福すら逃げていきそうだ。
バスルームでキャッチホン 高橋由美子

あなたはそれをやってはいけない、というのは「顔」が決めていた。
他人に自由に声をかけることができる、それはアスリートが「スペース」をうまく使う上での日常トレーニングだった。
現代人の身体能力の限界を芸能界が作った、とも言われ、この「顔」の研究が立ち遅れていた日本国はまだまだスポーツポテンシャルに満ちていた。
自分の「顔」が「御神影」とまで言われて崇拝されると、一気に足腰が立たなくなる。
そのメカニズムまで正確に理解する必要がある。
自分よりも人気のある人はどうしても存在するし、勝負事の世界では結果を出さなければならない。
そのために「顔」の研究をやらないで勝てるアスリートはいないのだ。
モテるかモテないかでこの20年間「いじめ」が存在したのは認めざるを得ない。
しかし、「君主の真似」はアスリートにも影響を与える。
女にモテれば、男社会での序列も高まるのだ。
息子は父の影響を強く受けざるを得ない。
私の父は「女の話」を家庭内で話すことを極端に嫌ったため、私もアスリートとして大成する時期を失った。
ボクサーとしての才能への評価は東大では高かったのだ。
肉体をいじめる快楽は、社会でいじめられる快楽と似ている。
しかし、社会人としては「いじめの対象」というだけであってはならない。
自由度を少しでも高めていかなければ肉体はどこかで悲鳴を上げるからである。
ミシェル・フーコーが「あなたは生まれた時から男の子・あるいは女の子」と決めた1970年以降、それにいかに順応するかがあらゆる世界での才能につながった。
超人的作家は「顔と学問が一致しない」と悩んだ。
手塚治虫の腰痛もそうだったのだろう。
哲学界の答えは「同性同士の社交性」ではなく「男女の社交性」にその答えを見出すようになっていた。
私も「冴えないおっさん」であるが、その超人的文章に、腰痛に悩まされる理由を見出すことができた。
「ブラックジャックが知らないこと」を知ることができたのだ。
「差別のある社会」では当然、才能を伸ばすというのは難しいことだろう。
「ハワイ出身者」が実はアメリカ合衆国本土では差別されていることも認めなければならない。
「顔」というものは、実績が作るし、知名度が作る側面がある。
その重要性だけは指摘しておきたい。
酒井法子 シャワールームに電話

君主が歩んだ権力闘争(宗教非抑圧論)の結論が「テレホンセックス」であり、それは仏教のクンバカとも、キリスト教のセックス崇拝とも共存できるものであった。
「人はなんのために戦うのか?争うのか?ざわめきたつのか?」の答えがここにあった。
電話の向こうで喘ぐご婦人たちを目の当たりにし、男たちは恐れおののいた。
これが「君主制真理神学」の結論でもあった。
キャバ嬢もこのネタには嘘はつけなかったのだ。
愛の炎 田中れいな

パースは「君主がいちばん芸能界に詳しい」と胸を張った。
生娘を嫁にもらったことから、夜を徹して争った男たちもマクベスのように明け方になってむなしくなっていた。
周囲の男たちみんなに「満足とは何か?」を教えればいいことが分かったのだ。
「権力闘争を終結させるためのプログラムを持っている」という意味では君主はリチャード三世でもあった。
背景には、女=おカネという割り切りがあった。
ケインジアンでもあるのだろう。
「真理」とは教えるものではない。「人気」によって証明するものだ。
女たちが奪い合うものが「真理」だとも言える。
共和党政権下のアメリカ合衆国は強い。
しかし、「もはや我々の手の届かないものとなっている」とアメリカ政府首脳が考えるような出来事があると民主党政権に移行した。
どうにかマクベスをめぐって争った男たちを治めようとして知識を求めたが、知識はやがて「真理」となる。
「絶対」はとっくに見つけていたが、「真理」を求める道筋を確認し続けるのに役に立ったに過ぎない。
人々の想像をはるかに超える「ありえないこと」を目撃したら、それを「真理」と位置づけ、自分なりのプラグマティズムを体系化するしかない。
ネオプラグマティズムは、それだったら、他に「真理」はあるのだろうか?という方向を見始めた。
パーフェクトヒューマン

女を口説く方法を説いていた君主がいよいよ「本番」について語った。
「絶対」とは女を口説く方法の世界にあったが、「真理」とは本番の世界にあった。
女を口説き続けて、絶対を悟り、迷うことなく「真理」に到達するのだ。
アメリカ大統領選挙は「四年に一度」であるが、日本の天皇制は「千年」の媚薬と銘打たせてもらった。
2年間のトライアスロンでは到達できない境地であることは私も理解している。

「令和真理教」としての神道・仏教・キリスト教はここで完結させることも可能である。
しかし、「オカマ」「ゲイ」「レズビアン」などがこの「真理」すら拒絶することも想定しなければならない。
カマを掘られたことのない「人物」が作り上げた「理想」に過ぎないという受け止められ方も十分に考えられるからである。
このことから、私の哲学の探求はまだまだ続編があるのである。

体制の安定のためには、「男女の性欲の起源」(科学)をよく理解し、人間社会の半数は女である(民主主義)というものをよく理解しなければならない。
男女の性欲の起源(科学)を理解するだけで、芸術作品の見方も変わってくる。
「セックスはムードですもの」
「クリトリスから先がいいわ?」
「濡れてきたね。スムーズだよ。リラックスして」
「呼吸を乱してもいいんだよ」
「大丈夫。痛くない」
「若い女性ホルモンを感じて?」
「エンジンが効いてる」
「あなたの子供が生みたい」
「ああ貴族!ああ官僚!」
「大きい」
「体中の血液をチンポに集めて?」
「オナニーさせて」
「私の柔らかい体を見て」
「いい匂いがする」
「からだが締まってくる」
「秘密は守ってね」
恋するフォーチュンクッキー AKB48

「科学」が発展すればするほど「隣人の妻を犯すなかれ」という言葉が強烈に響いた。
ここから「感じない女」というものはできるものなのだ。
隣人の妻ほど興奮する存在はない。
しかし、それを強烈に戒めるのが共和党であり、君主であり、イエスキリストであった。
経済に悪影響を与えるからである。
「遠くに住んでいることもよかったと思っている」「まだ私は感じるから」
穴井夕子 フェアリーデイズ

また、隣人の妻を犯すと多数決が機能しなくなる。
「民主主義は多数決ですから」=「隣人の妻を犯すなかれ」と表現することも可能だ。
あるいは、科学の発展にともない、「処女のガード」もかなり厳しくなった。
隣人の妻を犯すなかれ=隣人愛は、民主主義ともつながっていたし、感じない女をなくす経済政策の柱ともなるものである。
この「君主の教え」が機能しなくなると、リベラルの研究が必要になってくるし、景気の悪化と雇用対策のための民主党政権が必要になる。
君主は「男女の性欲の起源」(科学)を明らかにしたのであるならば、隣人愛=隣人の妻を犯すなかれというメッセージを明確にしなければならない。
これは「カトリックマイトレーヤ」とも呼ばれるものである。
同じ人数だけいる男女が、隣人愛を実践して、なおかつ愛し合うのならば、民主主義はプロスポーツの世界でもかなりの強度を持つことになる。
しかも、「多数決」がかなり円滑に進むようになる。
エリート階級が「恋愛論」を拡散しやすくなるからである。
「恋の話を聞かせてください」という女の子たちには政治を理解する才能があった。
隣人愛の崩壊から君主制は壊れていくのだ。
今の自公政権も同様の意味合いを持っている。
公明党=創価学会のおばさんが人気のある男の悪口を言いふらさなければ、隣人愛の崩壊と自公政権の崩壊、そしてリベラル社会の研究に詳しい立憲民主党や国民民主党の政権の到来を予感させる。

さて、令和の新時代の最初の年を終えようとしている。
そこで、もう一度、「天皇制とは何か?」「天皇に政治的権能はあるのか?」について語りたい。
振り返ると、苫米地事件において「天皇の政治的権能」が争われた。
吉田茂首相は、池田、佐藤、山崎のわずか3名の署名を持って那須に向かっている。
昭和天皇は「ワシの源氏物語の印税では首相を含め四名を支えきらんか」と思ったことは推測に難くない。
作家昭和天皇の印税が国会対策費・メディア対策費に用いられていたからだ。
三島由紀夫すら舎弟にしてしまったのが源氏物語であった。
考えてみてほしい。
通常、内閣が批判にさらされるのは国会の会期中だけであるということを。
他の芸能人はまるで「通年国会」のように、一年中インターネットで批判されているのだ。
「会期制」の意味をここで悟るのだ。
スマップのように本当に「解散」してしまう芸能人もいる。
そこで、私も、「印税」が首相および内閣を支えきれなくなるほど文才が下がったら、平成のように「首相の名前や就任した順番を覚えていない」ことにもなりかねない。
これが、天皇制の本来の姿であったし、そのような「資金メカニズム」を理解しなければ、天皇制の議論は深まらない。
「おカネ」を語らなければ天皇制を議論する意味がないのだ。
そこで、芸能人すら「天皇の印税」に頼ることが可能であることも悟ることができる。
さて、リビアでカダフィが殺されたときに、アメリカは「8か月で憲法を作り、8か月で選挙をやる」という計画を立てた。
日本国にアメリカ軍が駐留して、松本委員会は、アメリカの何に「衝撃」を受けたのであろうか?
アメリカは「愛とは何か?」「嫉妬とは何か?」「愛国心とは何か?」「忠誠心とは何か?」などの問いかけをポンポン投げかけてきて、松本丞二が立ち往生したであろうことは想像に難くない。
たとえば、天皇は「サブジェクト・トゥー」と連合国側に示されたと語られているが、アメリカの真の意図は「連合国側の女性たちの支持がある」という意味だったのだ。
これを、当時の翻訳は「従属する」と訳すという国益への大損害をもたらしている。
あるいは「象徴」というのは「記号論」でもあり「君主」としての作家であるという意味であった。
「戦争の放棄」も、「思い出話をしよう」という翻訳が正解であった可能性もある。
国民主権とは、「国民こそが最高の作家である」という意味とも受け止められる。
「至高」とは30歳を過ぎて社会デビューする弁護士のような存在であり、究極とは「サラリーマン」のことである。
小説吉田学校
愛とは「妹への愛は長続きするのに、彼女との愛は長続きしないのはなぜか?」という議論でもあり、嫉妬とは「彼に与えられたいいものが自分にも与えらえる可能性があった、しかし、嫉妬心から自分の仕事が手につかなくなってしまったり、病気になってしまうことがある」ことを議論するものだ。
また、愛国心とは「国の個性を見るという意味では息子への愛と変わらない。しかし、性欲を満たしてくれる国であれば、他の国のボルテージの高まりとともに高まらざるを得ない」などという議論であり、忠誠心とは「なんでこんな奴に忠誠を尽くしているのかな?といわれると、人生のため」としか言いようのないものである。
自民党の憲法調査会は、憲法判例などを調べているようであるが、最高裁判例は、「二人の女の争い」が最終的に議論になってしまい、そのために朝日訴訟のような生活保護受給権までもが、14万円程度の金額の争いでも最高裁に行ってしまう。
rebecca ラブパッション

なお、「8月革命」とは「夏休みの資金集めの方法が政治コミュニティーで変わった」という意味であり、ロシアで知られている「何月革命」というものを昭和天皇は熟知していたものと思われる。
常に「カネの心配」をしているのが天皇であるという現実を知らなければならないだろう。
夏休みは終わらない おニャン子クラブ

さて、「男女の性欲の起源」について話してきたが、すべてのセリフの共通項は「支配と従属」にある。
マルクスは、「男社会にも支配と従属はあるんだよね」とし、しかし「賃金」という形でそれをお金に換えることにした。
セックスするたびに、聖書や立正安国論にしがみついていた主婦たちは、「資本論」という新たなテキストを得ることになった。
東大ボクシング部在籍の頃に、先輩に「声出せ!」と私が怒鳴られていたことも周囲は詩にしている。
グッバイフレンズ 三浦理恵子

人間は、子孫を残すために性欲がある。性欲があるから「笑う」のだ。
もし、宇宙人が笑うのならば、そこには性欲があり、さらには「死」があることを意味する。
このあたりをコントでいじると面白いかもしれない。
デスラー総統

最後に、我が国は、アメリカによるエネルギー革命がなければ、OPECが怖くて「イスラエルについて語れない」国であった。 陛下がシリアやイランを基盤に冷たい東からの風を吹かすのであれば、王子は「暖かい西からの風」を吹かす。 我々は令和の君主制の確立をすでに見ており、王子の「暖かい風」を楽しめり環境にある。 王子といっても安倍晋三から羽生結弦まで大勢いるが、テレビを楽しむのもまた一興であろう。 暖かい風が君主にとってどう感じられるかは明らかではないが、それもまたイスラエルの「世襲」というものであった。 また、本ブログが「モテる奴が受かる」国家試験や司法試験、東大入試などに出題されることから、丸山スタイルではなく「横浜ボーイスタイル」と名付けたい。 CoCo 横浜Boy Style

2019年12月 2日 (月)

神道・天皇家新時代に向けて。

ミシェル・フーコーが、1970年に「クリニックの誕生」において、生まれた時に「あなたは男の子、あなたは女の子」とする以前は、子供の頃は皆、少年であり、「おじ」(ペテロ)がいるかどうかで性概念は決まった。
「男系男児なんてナンセンス、おじにどれだけいじめられるかだ」
おじからのいじめは「おばあちゃん」が食い止めていた。
おばあちゃん崇拝(祖先崇拝)がなければ、男になれただろうが、適当に付き合っていかなければガンになる。
私は1970年以降の生まれとして、おばあちゃんと関わっている。
この「ペテロ」(おじ)からのいじめと、おばあちゃん崇拝を欠くことが「男」を作ってきたのであり、「男系男児」などという話を持ち出すこと自体、世界史を知らないとしか言いようがない。
トイレの神様

2013年の伊勢神宮の式年遷宮は、私もファイナンス係を務めさせていただいたし、その後も、伊勢神宮の人格的統治者として、「女心」を明らかにしてきた。
山崎闇斎の垂加神道(伊勢神宮とヤマトヒメ)という神道の歴史を理解しないと、なかなか伊勢神宮に若い女性ファンを集めて、自らの権力基盤にするという発想は生まれない。
令和の「次」をもし想定するのならば、2033年の式年遷宮のファイナンス係をいかに務めるか?
あるいは、私は現在、伊勢神宮の担当を離れ、日枝神社を担当しているが、「王子になるのならば伊勢神宮に女性ファンを集めなければならない」ということをどれほど理解するかが問われる。
私は「日枝神社は、天皇の長寿をお祈りする所」ということを踏まえて、医学の知識を拡散させている。
NHKの問題もその一環である。

男・ちんちんというものは「仕事・勉強・いじめ」から作られている。
しかも、「世界を敵にすると勃たなくなる」つまり、「仕事・勉強・いじめ」が実を結ばないとちんちんも意味がなくなる。
「仕事・勉強・いじめ」の中に「真理」がある以上、「男崇拝」を宗教と呼ばざるを得ない。
「男が女心を語る」のは自身の影響力を高める方法であり「政治」と呼ばざるを得ない。

文法さえあれば、女たちが「悔い改める」(失恋する)ことから、自在に「言葉」を作ることはできた。
女たちが「言葉」を作り、言葉と脳は似たような構造を持ち、言葉が追いつかないような出来事は「スローモーション」になったため、新たな言葉を作った。
はじめに言葉ありき、それは「女づくりが先、男作りはあと」という意味でもあった。
中森明菜 スローモーション

14世紀のイギリスは「人口5万人の島」だったが、薔薇戦争を経た上で「貴族」「階級」が定められた。
英国紳士の誕生だ。
イギリス身分制社会において、「移民の受け入れは困難」つまり「男づくりが先、女作りはあと」という政策は打てない、どうしても「移民」=「風俗嬢」という文化が出来ざるを得ないことからイギリスの「EU離脱」という問題が議論されている。

「フェミニストの作り方」はいろいろあるが、「新カテゴリー」と呼ばれるジャンルは、「従姉妹に対してシャイであった」ことにそれを求めた。
さらには、「父親がいて、青年時代に友人を亡くし、姉が結婚した」ことに求める新左翼もいる。
ribbon 真夏のフェミニスト

従姉妹には兄がおり、カネにものを言わす形で、妹のヒロイセと関係を持っていた。
1999年に「女心は日本国のJ-POPで、出尽くした」と言われた。
SPEEDが、「女はパートナーがいても、知恵や知識を生み出すために異なるパートナーの声を聞きたがっている」というキューリー夫人(女性して初めてノーベル賞を複数受賞した人)の見解を紹介した時に、「女心は出尽くした」という議論がなされた。
SPEED Deep Blue & Truth

和辻哲郎が1960年に死んでから、東京は「今まで見たことのない風景」を見た。
「セックスと革命の嵐」である。
安保闘争で外国人を見せしめに日本政府が殺し、谷中の「レッドゾーン」に、「樺美智子さん」として大々的に報じ、埋葬した。
三里塚で「死人が出た」と言っては、「都合の悪い人物」を東京湾に沈めてきたのも日本政府だ。
日航機墜落事故が1985年にあったが、それが「成田発」であったことから、その前の「機長逆噴射事件」が「東京湾の呪いである」という説が払しょくされ、日本政府は安堵したのが現状だった。
日本政府は「人を殺してまで体制を守ろうとした」のは事実である。
それが、ミシェル・フーコーの「1970年」まで続いた。
福山雅治ラジオ

私の祖母の、遊佐道子(香淳皇后)が、弟にサンミュージックの社長をやらせていたが、松田聖子は、「久保」系であり、昭和天皇の後妻の「国友」系の「顔が嫌いだった」つまり、香淳皇后の薩摩の臭いが嫌いだったとされている。
いずれにせよ、1986年に岡田有希子が「芸能界最後のトラブル」を引き起こした時も、「五分間もだえ苦しんだ」岡田有希子に対して、電話で笑いながら実況するもの、パンツを脱がしたもの、ブーツを盗んだものなどがいて、香淳皇后は、「人物を特定して」朝の新宿の歌舞伎町で死体として晒した。
今は、平成を経て、令和の時代になったが、昭和という時代は、1960年の和辻哲郎(小野達郎)亡き後、まるで修羅場だったではないか。
香淳皇后は、現在の私と同じで、夫である昭和天皇が「死と身近に接していた」ことから、昭和天皇の「源氏物語のセールス」が、時の政権の「国会対策費・メディア対策費」として用いられており、現在の羽毛田信吾宮内庁参与のように「その送金を邪魔してやろう、できるだけ多くの人間を巻き添えにしよう」という考え、つまりは「田舎者」の考えとは異なり、「自衛隊(日本軍)は日本国民の命を守るためにある」という統制派と、「自衛隊は天皇から政権の側への送金を守るためにも存在しうる」という皇道派の対立があったことをよく理解していた。
安倍政権は、臨時国会を無事に終えようとしている。
しかも、安倍晋三の再選には、二階幹事長も「異論はない」としている。
もし、安倍政権が窮地に陥ったら、「羽毛田信吾宮内庁参与」はどう責任を取るつもりだったのだろうか?
他にも、「上皇・上皇后」「山本信一郎宮内庁長官」「西村泰彦宮内庁次長」「出雲大社の千家国麿・典子夫妻」「川嶋龍彦学習院大学名誉教授」が「政権の敵」であり続けながら、安倍晋三や菅義偉と共存し「天皇に政治的権能があるのか?」という議論が詰め切れずに立ち往生している。
政治とは「女心を定義するもの」であると言ったはずだ。
「文学者・哲学者として小説のセールスがある限り、政治的権能はある」と言うしかない。

私は、昭和天皇の後妻の系統の孫なので、薩摩の男のような顔をしているが、松田聖子や志村けんは、前妻の系統なのでファッショナブルな顔立ちをしている。
私は、前妻の久保の系統の昭和天皇の長女が「紫の上」として描かれた「美智子上皇后」ではないかと考えている。
アレキサンダー大王に「少年愛」が知られているが、昭和天皇も「少年愛」がいつしか少年に「フルート」をくわえさせて、「美少女」を作ったものと考えている。
美智子上皇后は、松田聖子や志村けんの実母である。
男たちはみんな「ふたなり」だった時代。
男になるためには「仕事・勉強・いじめ」が必要だった。
3年B組金八先生

男女の「性の違い」というのは、そもそも、ダーウィンが「精子と卵子がぶつかる速度の違い」を指摘していて、速度が速いと男の子が生まれ、遅いと女の子が生まれるとしていた。
これは、生まれる直前に「電気が胎内で流れ」「全身脱毛される」ことから「女の子」が生まれるという指摘であった。
毛深くない「性」が「女の子」という指摘であり、それはのちに「女らしさ」の特徴の一つをかたちづくることになった。
しかし、それでも「性概念」は相当混乱していた。
一昔前までの医学書では、「あなたの子供が生みたい」と言ったら女性はオーガズムに達していたが、
現在は「濡れてきたね。スムーズだよ。リラックスして」と女性が自分で言うとオーガズムに達するようだ。
この辺は、ヒトゲノム解析が終わる前の経験論である「あなたの子供が生みたい」が正解なのか、それとも、ヒトゲノム解析が終わった後の「濡れてきたね。スムーズだよ。リラックスして」が正解なのかは実験が必要だ。
いずれにせよ、「親密な関係」にならないと、言えないことが「性欲の発信源」となっているため、カントの「女の口説き文句」は医学の世界も受け入れざるを得ない。

「大丈夫、痛くない」
と女性が自分で言うのも有効だ。
その前に、「クリトリスから先がいいわ?」という前戯も基本として覚えよう。

おさらいしておこう。

「セックスはムードですもの」
「クリトリスから先がいいわ?」
「濡れてきたね。スムーズだよ。リラックスして」
「呼吸を乱してもいいんだよ」
「大丈夫。痛くない」
若さに自信のある女の子は「若い女性ホルモンを感じて?」と言ってもいい。
また、「エンジンが効いてる」というのも有効だ。

これを覚えよう。
「あなたの子供が生みたい」も適宜用いよう。
ribbon さよなら

ロールズの「正義論」を読むと、「いかに女を高く売るか?」が株価を決めているとしている。
不感症の女をなくすと、株価が高く出るか安く出るかは明らかではない。
いずれにせよ、激しくあえぐ女がいる限り「デフレ」状態が続かざるを得ない。
現在、デフレ状態にあると言っても、感じない女性を感じるようにする政策を「デフレ脱却」とも言い、インフレ退治との区別は明確ではない。
レズビアンや、シスコンが大勢いる中で、本当に現在「デフレ状態」なのかは議論の余地がある。
インフレ退治が自由民主党の仕事として、「現在、仕事はうまくいっている」というメッセージを明らかにするしかないだろう。

エロビデオを見て「女が嫌がっているじゃないか」と考える政治的弱者もいたのだ。
CoCo メロディー

ここで、アベノミクスの正体は「デフレ脱却株高」政策であるとも言え、もはや「生活水準はバブル期並み」という指摘も可能なのである。

株価が赤、為替が赤ならば、女たちは「男からの電話を欲しがっている」のだ。
日経平均株価チャート

電話のベルが黙った夜が素敵、という夜は株価が上がり続ける。
安倍なつみ ひとりぼっち

セックスは「敵がいない」状態でしか、女は「感じない」のである。
「セックスはムードですもの」という理由はここにしかない。
清潔なベッドに、安心できる環境がなければ、女がオーガズムに達することはない。
工藤静香 奇跡の肖像

一人上手を覚えた女の子は、教科書を読んでいても、文字が男に見えてムラムラ来るとされる。
女性が便秘になる原因は「セロトニン不足」であるが、本屋に行っただけで便秘が解消されたりするのは、ひとえに「一人上手」のおかげである。

小野光太郎講演会。日本経済の将来と女子力について。

プラトンは本来「五分間のパフォーマンス」を音楽作品を通じて行っていたが、勇気・自制・セックス・神聖さ・友情そして「治めること」を、もっと長時間描きたくなった。
「国家」においては「~って何?」という問題が多く、そのことへの回答を与える必要があったのだ。
「許しって何?」
それは、キリスト教においては「多数派工作に成功する」(サルベーション)ことであった。
嵐の女神

 

「舞台」「映画」のヨーロッパでの誕生は五世紀のことだった。
「知識って何?」
これを舞台・映画を見た人は「登場人物全員悪人っすよ」などと語り合い「知識」を得ていった。
「ソクラテス(女心に詳しい男)」を中心に映画は作られている。
女たちは「ソクラテス」を見てマスターベーションしていたのであり、ソクラテス(君主)の真似をしてくれる男でなければ「主人公」にはなれなかった。
再建論者は、ソクラテスを殺して我々で一から作り直そう、と言った。
しかし、舞台・映画・ドラマは容赦なく「ソクラテスの側」に立ち、女性たちを魅了し、君主の命を守った。
再建論者は、20世紀のパリにおいても、「フランス革命とは何だったのか?」と150年以上たった後に、ルイ16世を超える人物はいなかったではないかと批判されている。
「だって君主はモテるだろ?だから主人公に真似させたんだよ」
これを「暖かい風は吹いている」と呼ぶ。
風は吹いている

「セックスはムードですもの」
「クリトリスから先がいいわ?」
「濡れてきたね。スムーズだよ。リラックスして」
「呼吸を乱してもいいんだよ」
「大丈夫、痛くない」

これを知っているソクラテスに、勇気・自制・セックス・神聖さ・友情そして「治めること」を語らせたのだ。
映画を見た後に、「完璧な知識」を得たよ。
体制側の君主は舞台・映画・ドラマに守られながらも、常に「冷たい風」に晒されていた。
風に吹かれて

舞台・映画・ドラマには常に注意を払っていた君主であったが、風は暖かいときも冷たいときもあった。
暖かい風がメディアを席巻すると、自分の周りには冷たい風が吹き荒れた。
みんな「ソクラテス」(君主)になりたかったのだ。
このことから、再建論者という立場が生まれざるを得ない。
ソクラテスも「子供が生まれたから」自分の立場が守られたことはよく理解していた。
しかし、娘を利用して自分の立場をよくしようとした「リア王」になるつもりはさらさらなかった。
王子様と雪の夜

「舞台・映画・ドラマの感想を聞かせてくれ」「知識というものはそういうものだ」
これが、暖かい風・冷たい風にさらされた「君主」の仕事となった。
リア王だって「ルパン三世」「ガンダム」の主人公であり続けた。
ルパン三世 エンディング

湾岸戦争のときに「国連平和維持軍」を日本国は作れなかった。
この時に、ルパン三世とガンダムは終わったとされている。
再建論者には「五年熟成させたワインが一番うまい」と教えた。
暖かい風と冷たい風の双方を知っている「五年熟成ワイン」を知らなければ「再建」しようがなかったのだ。
君主がつまらなければ舞台・映画・ドラマもつまらない。
毎日が退屈すぎるのであれば、クーデターでも企てろ。
そうでなければみんなテレビを楽しんでいるから、悪だくみの座に乗ってこない。
私が王子の頃は、暴走族すら赤信号で停車して、私の横断を待った。
今は「確変」を終えて、暖かい風も冷たい風も存在するため、暴走族が過ぎ去るのを待つしかないだろうが、当時は、私に「自信」があったのは事実だ。
とにかく、舞台・映画・ドラマがなければ「体制が維持できるとは思うな」というのは君主への教訓である。
いい宣伝効果が君主にもたらされるからである。
テクノロジーの進化も「君主の資金力」の賜物である。
インターネットというものを世の中に知らしめたのは最初は私であった。
二人目の子供が生まれたときに「何かのちの世に残そう」と考えた。
三人目の子供が生まれたときに「この子はテレビで学べばいい」と思った。
人々が見る「夢」は眠っているときの夢でも起きているときの夢でも、君主にとっては危険なものだった。
周りの人が舞台・映画・ドラマの主人公になら「俺でもなれる」と思うからだ。
それならば「読め」としか言いようがなかった。
君主に「俺でもなれる」と思ったら、図書館の膨大な本に病気にさせられるからだ。
再建論とはそれほど危険なものなのだ。
文章のセールスが伸びなければおのずと悩むようになっている。

国王は、東からの「冷たい風」をイスラエルにもたらし、王子は「西からの風」をイスラエルにもたらす。
西からの風は、国王にとって暖かかったのだろうか?
そのあたりは、取材が必要であるが、伝説的な名曲は存在する。
王子は「君主の真似をする人」「一流アスリート」が演じるしかない。
これが君主制である。
魅せられて ジュディオング

女子高生の女の子は、「男は賢い方がいい、女は美しい方がいい」という形而上学の結論から、「父と娘」という問題と直面していた。
お父さんを倒す力がないから、「娘」なのだ。
お父さんにはお母さんがいたし、女の子は高校生になって「クラスメートの男の子」に救いを求めていった。
高校生の男の子が仮に「仲間が多い、何かやってくれそう」であるのならば、女の子は恋に落ちた。
彼女の前では彼氏は「神」であったし、高校生レベルの見識や知識でも「完璧」でなければならなかった。
このことから「恋派」は、恋を追い越していったアブラハム(愛派)を、「お前には何を言っても分からない」と批判した。
この「恋派」の男の立場を「懐疑論」と呼ぶ。
恋と愛のニュアンス 酒井法子

星が太陽の十倍の輝きを見せる瞬間がある。
そのような「愛派」のスターを「神」と呼んでいたが、「恋派」は、あまりにも数が多く、天の川のような輝きを見せていた。
これじゃどっちが神かわからないな。
そのような対立のもとに、懐疑論というのは「天の川」の輝きとして「神」の立場をかなり集団主義的にアピールした。
天の川の膨大な記憶はそれ自身が巨大な富であり、懐疑論を否定することはファイナンスの立場からも得策ではない。
松任谷由実 卒業写真

男子高校生は、「大人のセリフ」を真似して女を口説いていた。
それならば、「昭和の恋」「平成の恋」「令和の恋」は全く異なるものであるはずだ。
「平成の恋」を経験した者は、令和天皇には常に批判的であった。
「これが完璧なのかがわからなかったからメールにも残せなかった」
これが「懐疑論」である。
BoA Is this love?

「昭和の恋」を経験したおじいさんは、案外明るく「入れて!出して!」とラカンを語っていた。
第二次世界大戦の狂気を経験したラカンが考えた「性の作法」が知られていたのだ。
しかし、平成には特に特徴らしいものはない。
令和は明らかに新時代だった。

「セックスはムードですもの」
「クリトリスから先がいいわ?」
「濡れてきたね。スムーズだよ。リラックスして」
「呼吸を乱してもいいんだよ」
「大丈夫、痛くない」

性の作法が異なるのだ。
さらには「女性と親密になる方法」など、令和天皇は平成の時代からかなり広く人々に語ってきた。

思春期の頃の恋は、「女の子にとってはいい思い出」というのは毛沢東も宮本顕治も認めていた。
しかし、男の子が「明日昇る太陽」「新時代」を受け入れなくなっていたのだ。
檸檬の年頃

デカルトは「鏡を見ながらマスターベーションすると、テレビに出ている異性とセックスする夢を見る」とも言っている。
テレビに出ている女の美しさは、昭和・平成そして令和へと進化し続けている。
ゼブラや創価学会の主婦は「天皇についてどう思う?」と東大生との昼食会で語った。
ゼブラや創価学会の主婦は、お食事会の費用を経費で落とせた。
その理由は、教団本部が「東大生とのお食事会を主婦がやっている」というだけで、子会社に社債を出させることができたからだ。

主婦層は、東大生の将来を予言したり噂したりしていた。
お食事会にはお母さんも同席しているだろうから、本人の口からは言えないが、周囲の主婦層が、

「セックスはムードですもの」
「クリトリスから先がいいわ?」
「濡れてきたね。スムーズだよ。リラックスして」
「呼吸を乱してもいいんだよ」
「大丈夫、痛くない」

って言って?
と「おねがい」することは可能だ。
忘れてはならない。
音楽プロデューサーや、芸能プロダクションの社長、レコード会社の幹部などの奥さんが普通の「主婦」としてお食事会に紛れていることを。
私は、瀬能あづささん(本名は別にあります)の家庭教師を高校時代にやっていた。
お父さんが小林亜星だったのだ。
瀬能あづさ 君の翼

大企業の社長の奥様に可愛がられたら就活どころではないだろう。
どの奥様も「噂づくりの達人」であり、しかも「予言を外したくない」と考えていた。
そのため、噂と予言のメインストリームに身を置くことが必要だった。
私は、小林亜星にたいそう可愛がられた。
直接の面識は小学校の時以来なかったと思う。
CoCo 横浜Boy Style

一方で、懐疑論(恋派)は、東大生になるのは極めて困難であるため、
別の「資金調達の方法」を考えなければならない。
ハロウィンパーティーやクリスマスパーティーを主催する「ゼブラ」が社債を出して、娘に「どの男の子を呼びたいかは自由に決めなさい」と言って、「恋派」「アンチ東大派」として、高校時代を謳歌しようという立場である。
アメリカでは、広い邸宅を持った家庭の奥様は、娘が高校生ではなくなっても、邸宅をハロウィンパーティーのために開放しているようだ。
ゼブラのメンバーなのだろう。
資金は、日枝神社・日吉大社から持ってくるのだ。
あるいは創価学会だろうか。
高校生は「バック」までは知らなかったため「スカーレット」とグループのことを呼んでいた。
高橋由美子 レイニーデイ×3

現在の日本国においては、「東大に入れなくてもスタンフォード大学を出たのと同じ」学識を身に着けることが可能となっており、大学入試を頂点とする学校知とは「別のルート」が当然存在してもいい。
しかし、男が予算を公布する(予算法律説)ことの必要性や、マザーファッカー(両刀使い)・オカマの攻撃性は理解しておかなければならず、つまりは「人事」も学ぶことになる。
ふだんは攻撃性・違法性をもって組織で人気を博していても「いざとなったら逃げだす連中」だということは人事を理解するうえで必要不可欠だ。
ノンケの男こそが「法律であり宗教である」ということを知らなければならない。
さて、組織ができ、お金の裏付けが得られたのならば「面白いことをやろう」(コンテク派)という立場に立つのは当然である。
男女は「2対2ならば必ず割り切れる」ということを踏まえて、NBAのスターみたいなやつも仲間に加える必要がある。
避暑地の森の天使たち

「ゲームの話題」「マンガの話題」などを話してばかりいる連中を「コンテク派」と呼ぶが、コンテク派が好きだという女は確実にいる。
昔は「パラパラができない男は無理」という女がいたのだ。
コンテク派は常に「懐疑論」(恋派)であり、東大生のような「愛派」とは相いれない存在だ。
高卒ルーキーと大卒ルーキーを区別する理由も「恋派」(懐疑論・コンテク派)と「愛派」の区別をするためである。
懐疑論者には「逆指名」する権利がなかった時代もあったのだ。

しかし、君主の肉声がある時代には「キャリア制度は解消に向かう」とも言われ、天皇が何を言っているのかがわかるのならば高卒も大卒も「変わりはない」という指摘がある。
高卒こそが、令和天皇の長寿をお祈りし、大卒は「あんなに勉強したのに」と思うこともあるだろう。
しかし、ゼブラにせよ、予算・人事にせよ、「ほとんどは大学で学んだよ」という仕組みも残されている。
いずれにせよ、実力主義を採用するのならば「28歳ぐらい」が一番戦力になる。
しかし、「高度な政治意思」の調達のためのキャリア制度が残る限り、「38歳ぐらいが一番戦力になる」とされている。

スポーツにせよ勉強にせよ、裁断的なルールをいかに精密に構築するかが問われ、人々の支持も必要だった。
アスリートや学生・生徒は常に「裁量的な」世界で訓練を積んでいたのだ。
「人が死んで勝つことほど情けない政治家はいない」
これは命という裁断的なものに依存した「裁量的なものに弱い」人物像を抉り出す。
誰もが「裁量的な」技術や技を磨いていたため、ビッグマネーは裁量的なものからもたらされるのだ。
資本論(男論)が、唯物論(女論)に詳しくなり、メジャースポーツの世界で「予言」ができるようになる。
これは、アリストテレスの、男(ファースト)、女(セカンド)、予言(サード)と何ら異なることはないが、マルクス主義者や、「資本論」という四冊の本の完成度の高さを見よ。

子供も、10歳になるまでは「ひたすら楽しみたい」と考えるだろうが、10歳を過ぎると、裁断的なルールに従わないとモテないことを悟る。
その後、自分の選んだ道で「裁量的な」訓練を積むのが人生となる。
技術革新などの裁断的な組み換えはなされるだろうが、その後、すぐに裁量的な「技」をみんながすぐに磨き始める。
裁断的なものを動かすのならばプレスリリースが必要になる。
それに応じて裁量的な「技」も変わってくるのだ。
裁断的なものはあくまでも「世界の支持」が必要であり、なにも「日本人に勝てなくしてやろう」というばかりが裁断的な変更ではなかった。
日本という国はそんなに弱い国ではなかったのだ。
大人たちは、裁断的なものを動かすことの背景にも「おカネ」を要求していたのだろう。
とにかく、平成天皇のように、邪魔者にすぐ「自殺しろ」というような裁断的ないじり方は失脚に直結した。
裁断的なものを動かすことの背景にもおカネが必要であった。
裁量的な世界で動いたビッグマネーを背景に、裁断的なルールで妥協しさらにおカネを得る、
これが「日本人に勝てなくするためのルール変更」の正体である。
「イリーガル」(反則だ!)と指摘するのは子供の基本であり、モテることにつながる。
あとは自分の技を「どの言語で」作っていくかが問われる。
このあたりは国際関係論であろうが、私の発言は常に英語から作られている。
島国に「英語で作られた技」を持ち込めば革命が起こせることは、どのトップアスリートも理解していると思う。
英語は素晴らしい言語であるが、アメリカ人は、「革命騒動」に興味ないんじゃないかな。
Perfume Edge

それを踏まえたうえで、
「セックスはムードですもの」
「クリトリスから先がいいわ?」
「濡れてきたね。スムーズだよ。リラックスして」
「呼吸を乱してもいいんだよ」
「大丈夫、痛くない」

という言葉も、最終的には必要になるだろう。
裁量的な技を磨いた男が、あくまでも裁量的な「発言」をする世界なのだ。
反則などどこにも存在しない。
この「女の性欲の起源」は私もYouTubeで発言したが、何らのルール違反の指摘もない。
「裁量的なもの」「言葉のスポーツとして成立している」という判断を受けているのだ。
裁量(最良)の人になるか、裁断(祭壇)の人になるかは人それぞれだが、かつては裁量的な世界で鳴らさなければ、裁断的な世界で金儲けすることはできない。
裁断的な「ルール変更」をすると、今までの実績のすべてを失い、死人が出る世界もあるのだ。
117+136=253
これをどのように発音するつもりか?
私は当然、日本語で発音している。
それならばそれが「母国語」であり、その国で生きていった方がいい。
しかし、その「母国語」にどのような改造を施すかは人それぞれだ。
なぜ彼は強いのか?八百長ではないか?
そう思うのならば、アメリカのESPNを丹念に追ってみた方がいい。
世界はそんなに甘くはないのだ。
平成天皇を退位させたのはESPNなどの海外メディアなのだ。

資本論(男論)と唯物論(女論)があり、「予言」がなされるのが哲学の世界であり、とくにマルクス主義や、イスラム教シーア派は、それを宗教の柱とするものである。
ところが「負けることがある」のだ。
この時に「フィクション」というものが生まれた。
「負けることから始まる物語」のことをフィクションと呼ぶ。
CoCo さよならから始まる物語

「神がいないのならば私たちが発明するわ?」
これがフィクションである。
私は、アメリカの高校でタイプライターの先生と折り合いが悪く、それでも、私の英語の学習への真摯な姿勢を目撃されていた。
仲の悪かった先生が、私が帰国すると聞いて、上機嫌で話しかけてきた。
「そんなに別れが嬉しいのか」と思ったが、のちに「中国人は窓に向かって英語をぶつぶつを話して勉強している」という噂を聞いた。
あの先生が作り出した神学なのだろう。
ribbon 三つの願い

この時に、アメリカの女たちは「親日派」ではなく「親中派」という想像も取り入れている。
神を作るのは「女たち」という側面があり、純文学ではなく「語っていて楽しい」ことを女たちは自由に創作していた。
純文学は「女たちが語っていて楽しい」創作の世界ではない。
しかし、フィクションは「自分たちの好みの神を生み出せる」世界である。
ここで、「ニッポンのコータロー」と言うか「中国人」というかの違いが純文学かフィクションかの違いにすぎないであろうが。

純文学は、国家の企画立案に用いることも可能である。
しかし、フィクションは「純文学よりもより長期的な」視野で企画立案に用いることができる。
彼とは真剣勝負だった。
しかし、別れた時は嬉しかったし、私が高校二年生の時にアメリカに留学した時は、高校一年生の時の女の子が、終業式の時にはしゃいでいて、のちにこの曲を作っている。
酒井法子 窓際の恋飛行

その後、私は代々木ゼミナールの東大文系コースに入ったが、酒井法子ファンの男たちはみんな私のことを「小野光太郎か」と言っていた。
酒井法子 エアメール

真剣勝負のあとの別れは嬉しいものだ。
みんな筆が進んで止まらなかった。
このことから、プロスポーツとフィクションの共存も始まった。

女の「性欲の起源」は男よりも複雑であるが、すでに説明は終えている。
男の性欲の起源は、女が喘ぎながら「ああ貴族!ああ官僚!」というところにある。
ベルサイユの薔薇

 

お笑いの秘訣は「性欲を刺激する」ことであるが、男の性欲を刺激するうえで「男の体を褒める」ことがどれほど有効であろうか。
女の声で「キレてるよ!」「チョモランマ」「そこまで絞るのには眠れぬ夜もあったのだろう」などと言うのが有効だ。
あるいは「トイレ」と性欲の関係も指摘できる。
女が「トイレ行きたい」ということも重要である。
ボディビル掛け声

松田聖子の赤いスイートピーほど、「男の性欲」という基本を理解した曲はない。
セックスはどうしても「男による女の支配と従属」という関係を取らざるを得ず、それがそのまま、「男の性欲」となっている。
たとえば、男に「ああ貴族!ああ官僚!」と言って喘ぐことや、男の方が女よりも「体が大きい」ことを口に出して指摘するなど、「キレてるよ、チョモランマ、そこまで絞るのには眠れぬ夜もあったのだろう」など、あるいは、男社会では「女性用トイレ」に制約が多いことを活用して「トイレに行きたい」などといういことを、うまく「ポエム」に混ぜ込んでいかなければならない。
松田聖子 赤いスイートピー

 

小野光太郎講演会2 ラカン以来の性の作法とアベノミクス

 

 

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