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Foreign Affairs

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2019年11月15日 (金)

怖い婆さんの扱い方。

美智子上皇后が、たいそうお怒りらしい。
美智子さまにとって娘は「おちんちん」(ピエロくん)であり、それを私に持っていかれたことから、「去勢」(キャストレーション)を経験し、思春期のメランコリーがぶり返したのだ。
しかし、「声をかけられクルリ振り向けば、素敵な人が立っている」という思春期のキャストレーションとは異なり、自分の姿はもはや「ネズミ」であった。
さよなら失恋ピエロくん

フロイトの去勢(キャストレーション)論争は「100年続いた」とされるが、マスオとフネの論争は、イケメンとネズミが絡んだ難しい議論であり、ネズミである自分は、もはや対立する母もなく、美の探求にも関心は向かわない。
娘のいる高齢女性特有の悩みを解決するのが今後の哲学の方向性なのだろうか?
カントが「永久平和のために」を記したのならば、この「ネズミの救済」は論点にならざるを得ない。
50歳以上はふたなり、という私の議論と、女性は51.4歳で生理を終えることから、抜群のタイミングで、美智子上皇后は同世代のご婦人たちに「悩み」を打ち明ける格好となった。
ニーチェは、「悲劇の誕生」において、ネズミの救済を取り上げ、ウォルト・ディズニーは、ディズニーランドをそのような高齢女性のために作っている。
「夫をなくした翌日にディズニーランドにいた」という女性もいる。
ディズニーランドの木や山は、素敵な男たち、エリートを表現しており、アメリカではミネラルキングバレーの「ディズニーランド造成計画」は、「悲劇の誕生」を根拠に合憲判決が下されている。
私は中学の卒業旅行は、東京ディズニーランドであったし、留学の卒業旅行は、ロサンゼルスのディズニーランドであった。
「いつかカントやニーチェが分かってくれれば」という大人たちの願いが込められていた。
ribbon 卒業旅行

カントが「あそこの婆さん怖いから気を付けろ」と言ったときに、「国家の資金の流れ」が決まった。
カントは、「女心」を探求し「プロスポーツに生かす」ことがライフワークだったが、「怖い婆さん」だけは、自身の政治活動の障害物だった。
そこで、ニーチェはのちに「ディズニーランド」を構想したが、カントは、「ボールパーク」(野球場)を想定していたようだ。
ボールパークの婆さん。

カントのポリシーは「処女をうまく使う」「頭を使う」というものであり、その上で「勃つ」のが男であるとし、「カネで治める」ことで体系化されている。
この体系こそが「実践理性の定言命令」と呼ばれるものだ。
そのコツは、カネを最後に婆さんに集めて放出させる、というものだった。
男だって女だって、最後に頼るのは「婆さん」だということを知らなければならなかった。
おカネの動きは決して「男性的・合理的」な動きはしていない。
カントは、自分がいくらおカネを儲けても、怖い婆さんに乱暴かつ非合理的に浪費されていくのを見た。
「予算編成」など女の仕事ではなかったのだ。
予算法律説はここから生まれている。
予算をうまく組んだ者を、「上流階級」と呼び、それには男が関与する予算法律説を採用しなければならない。
予算法形式説でも、予算行政説でもない。
この順番に「階級社会」というものは出来上がるからだ。
私は東大ボクシング部(大学3部リーグ)で、予算担当の三年生が自分のマンションやバイクを購入しているのを見ている。
カントは、しかし「女も四人集まれば男と変わらないね」とし、福祉の文書家(法律家)・会計家を間にいれれば、「乱暴なおカネの使われ方」は防げるとしている。
おカネの使い方における「怖い婆さんの独裁」だけは予算行政説であり、最貧困層の考えることだ。
美智子上皇后にはこのような「テレビに出ている私が使い道を考える」という予算行政説の発想がある。
男がちんちんに値段をつけるのならば「上限はない」と言っていい。
それを理解しないのが予算行政説であった。
主権(予算を決めること)を法律としない限り、天皇にその「公布する」権能はなく、美智子上皇后が予算行政説にまかせておカネを浪費している限り、宮内庁は三流官庁・最貧困層であり続ける。
最後には「社会契約論」に答えを見いだすしかない。
「うちの会社は一流だよ?三流だよ?」それだけの違いだ。
リクルートメントに救いを見いだすしかないのだ。
「アニキ、強いってどんな気持ちですか?」
予算法律説が一位、予算法形式説が二位、予算行政説が三位、それだけだよ。
一家に一冊「憲法」が置いてあるのならば、天皇が「予算を作る」訳ではないが、予算法律説にしたがって一家の大黒柱や、誰よりも強さを探求した主将が、予算を「公布する」必要がある。
さて、「予算」について話したが、「一流家庭」と「三流家庭」の予算の違いが明かになった。
そうなると、やはり見えてくるのは「芸能界」(公務員)の世界であろう。
公務員は皆、テレビに出演し、まるで話す言葉がすべて「詩」のようであった。
しかし、いざ「人権」となると閉鎖病棟で看護士に反抗し、他の患者に「こんな奴やっちまえよ」と発言するなどの「煽り行為」に違法性を求め、さらに看護士に反抗することへの違法性を求めていた全逓東京中郵事件のような、「主婦層が芸能人におおらかだった時代」を終え、全農林警職法事件においては、「公務員の一切の人権」に司法(恋ばなをする世界)は心を閉ざしたのだ。
ニーチェは、ワーグナーと若い頃はピアノの腕を競いあったが、いずれそれはワーグナーという天才への尊敬に変わり、最終的には哲学に目覚めている。
モーレンドルフは、のちに歴史的評価を見てからではあるが、「ニーチェの膝元に豹や虎がひざまずくであろうと思った」と語っている。
勉強ができない、それが理由で「私を快楽のため、そしてあなたの面倒を見るために使ってください」と言える。
これが「女」であることの告白である、という意味すらわからずに1970年以降の世代は歌を歌っていた。
大人のいう通りにしなければ生きていけない。
でも、トーク番組に出なければならない。
このことから「恋ばなの得意なおっさん」の話を熱心に聞いた。
愛の炎 田中れいな

 

1970年生まれ以前の男は「ふたなり」であるということも一部の風俗上がりの女しか知らなかった。
若い女のなかにはそもそも「ふたなり」「シーメール」という言葉すら知らないものもいた。
「五分間のパフォーマンス」で「人生の結論」を歌わされたあとには、知識への渇望と、落ち着かない人間であるという残酷さ(人間、あまりにも人間的すぎる)が残された。
私も、東大に受かったあとにアカシジア(体を左右に揺する症状)が止まらなかった。
東大生と芸能人は同格であったし、合格発表とアイドルの「五分間のパフォーマンス」は同じ意味をもった。
「結論が先、知識はあと」
これが「悲劇の誕生」という意味である。
ニーチェは、ツァラツストラはかく語りき、において「ありとあらゆる醜い男」を描いている。
「これが東大生の悲劇の誕生よ?」
優秀な後輩すら、東大を避けるようになった。
「醜い男と、美しい女」が共存する、これが芸能界だった。
キルケゴールが「読め」と言った本を読むのはニーチェも同じだった。
即位の儀式を終えた令和天皇は「汚い歯をしてタバコ臭い部屋」にいた。
「結論が先、知識はあと」
このような「悲劇の誕生」はまだ免れた部類だろう。
あとでゆっくり歯の治療をすればいいのだ。
ブレーンがいる、などという「夢物語」が「悲劇の誕生」を誤魔化すために用いられている。
そんなブレーンなどいない。
新ドイツは、「悲劇の誕生」とともに作られた。
それにしたがわない指導者など存在し得なかったのだ。
「悲劇の誕生」を知らずに、「完全に潰したと思った」と語る主婦もいたが、「休養とそれにともなう復活」に怯えた。
私が語った「ネズミ」は、美智子上皇后のことてあるが、あの婆さんとて「結論が先、知識はあと」という世界に放り出されて、しかも「キルケゴールが読めといった本を読まなかった」のである。
その姿は「滑稽な芸人」に過ぎなかった。
しかし、シラーは悲劇の誕生と、それからはぐれた「滑稽な芸人」を歓迎していた。
なにもかもうまくいく、そんな女に寄り添うつもりはさらさらなかったのだ。
いわば、「キルケゴールが読めといった本を読まなかった」人間たちが芸能界を盛り上げた。
中森明菜 リフレイン

のちに「悲劇の誕生」と直面する羽目になる男たちも「深刻な歌」を聞いて言葉が豊かになった。
シラーの詩に、カントまでもが「俺はそういう気持ちが分からないんだ」とファンレターをよこした。
カントからの手紙は「カリラスレター」と呼ばれ、女心というものをいっそう深めることになった。
令和天皇がカントだとするのならば、上皇后美智子はシラーだったと言える。
「うちの王子は、殺すと脅かすとものすごく悲しい歌を歌うのよ」
皇族全員が中森明菜のリフレインを覚えた。
「いじめられる痛みは、失恋する痛みと同じなのかしら?」
無敗の王者であるカントも、いじめられる痛みならばいやというほど知っていた。
CoCo 優しさに帰れない

自然災害の猛威や、人々の恐怖に共感できる人になってもらいたい、それが「滑稽な芸人」に映った女性の気持ちであった。
秋篠宮眞子も、「ショパンの雨だれ」を「好きな曲」のひとつに挙げている。
ショパン 雨だれ

悲劇の誕生、つまり「結論が先、知識はあと」という立場におかれたものは「悲しい旋律」を好む。
カントからの「カリラスレター」は、女の悲しみを知るとますます「女心」の研究が深まった、と深い感謝の言葉が記されていた。
カントは「女の悲しみ」を知る必要に駆られて「エステティックレター」と呼ばれる一連の手紙もよこすようになった。
「私は今、女の悲しみの研究に没頭しています」と書かれていた。
ribbon さよなら

カントからの手紙は20通以上におよび、24通目では「私の寿命が伸びました」と記されていた。
カントにとって「勉強しすぎて失ったものが、女らしさ、だったということがバレたら大変だ」という思いがあったのだろう。
「なんにも知らず無邪気に生きている女」を口説くのは、カントにとっても喜びであったし、私も、1970年以降に生まれた女が「ふたなり、両性具有」という言葉すら知らなかったことは、驚きでもあったし、楽しかった。
ショーペンハウエルは、「結論が先、知識はあと」という悲劇の誕生を受け、「没頭するからファンができるんだよ」としている。
この考えに、ニーチェ、ワーグナー、ブラームス、フロイト、ヴィトゲンシュタイン、ホルクハイマー、ハーディ、マン、リルケ、プルースト、トルストイ、マーラーなどが影響された。
その「道」を極めるために、気がついたら「世の中のだれともつながっていない」状態にすらなった。
数少ない友達は大事にした。
酒井法子 風邪

世の中の「知識」はすべてがすべて「人気のあるもの」ではなかった。
「結論が先、知識はあと」
それが東大生であったが、駒場には「結論」すら得ていない左翼が学内をうろちょろしていて、恥知らずのようにビラを配っていた。
「俺は中卒とどう違うんだ?」
そんなことすら考えた。
しかし、女たちはそうは思ってはいなかった。
「東大生」
それは憧れだったのだ。
「結論すら得ていない左翼はどうせ、俺、頭悪いからと言い訳をするからね」と女たちは見ていた。
「お前が東大に受かった時は、一族が沸いたな」
周囲がそのように「結論」を与えるものだから「没頭すること、知識を得ることは宿命」とみなされた。
「結論」がある以上、食い物にも酒にも困らなかった。
あとは「今の時代には何もない」というような「大人たちの無責任」だけを回避するだけだった。
悲劇の誕生、それは「天才と気狂いは紙一重」とするものだ。
少なくとも、平成の法律学者は無責任だった。
「司法試験の受かり方」は教えてくれても、女一人口説けない、芸能人(公務員)に通用する話ができなかったのだ。
「悲劇」それは時代が生み出すものであり、英語さえできれば、かなりの部分は克服できるものだった。

女には「仲間・女友達」が大勢いた。
美しいからだを比べあい、男の快楽の対象となった。
二人の女がいれば必ず「体を比べあって」いたのだ。
そのため、セックスとは女にとって「仲間を代表して」行われるものであった。
ribbon Virgin snow

すべての女の「からだ」は、印象に過ぎなかった。
女の多数派工作からもたらされたものだ。
女の多数派工作の動向次第でセックスの気持ちよさが変わったため、その多数派工作は熾烈を極め、男の仕事は横浜ウォーカーで「おいしいお店」を探すことだけになった。
仲間の多い女はとにかく「気持ちがよかった」ために、男は「おいしいお店」を覚えたのだ。
酒井法子 天使の館

気持ちいいセックスのために男が生きているとするのならば「横浜ウォーカーを読む」のが正解だ。
東京ウォーカー、横浜ウォーカーだけで気持ちいいセックスが約束されるのが男だ。
「悲劇の誕生?」
結論が先、知識はあと?
そのような学歴社会、身分制社会をも揺り動かしたのが「おいしいお店」だった。
女は女友達が多ければ多いほど「いい女」「気持ちのいい女」だとするのならば、ヒュームは「悲劇」を嘲笑った。
長嶋茂雄のように「腹が一杯になれば幸せ」という男は、とにかく努力家でなければならない。
読売ジャイアンツドラフト一位ならば、おいしいお店なんて覚える暇もない。
悲劇の誕生をヒュームは「おかしいな、セックスさえ気持ちよければいいのにな」と思ってみていた。
「外食産業の売上」は、「女の多数派工作の動向」を示していた。
外食産業の売上が落ち込むと、女たちが孤立感を高めたことを意味する。
それは、悲劇の誕生でもあり、令和天皇のように「知識を求める生き方をしたい」と思うのならば、「セックスよりも気持ちいいものがある」と男たちが考えたことを意味する。
酒井法子(1971年生まれ)は、1970年以前に生まれた男が「ふたなり」であることを受けて、
知識を愛する(ソフィア)者が男であるとし、ソフィアを持っている男とそうでない女の関係を「愛情」と呼び、ソフィアを持っている男同士、持っていない女同士の関係を「友情」と呼んだ。
酒井法子の特徴は、「上の世代に心を閉ざす」というところにあり、時代の過渡期に「友情などよく分からない」としている。
酒井法子 オールライト

男を愛することは、知識を愛した男(ソフィア)を愛することであり、ribbonの永作博美(1970年生まれ)は、「愛情と友情を比べることなんて出来ない」と歌っている。
ribbon 君ならば大丈夫

プラトンは友情を「リシス」において、愛情を「シンポジウム」において語っている。
松田聖子(1970年以前)となると、娘とて「子供の頃は少年」に見えたのだろう。
アレキサンダー大王は「少年愛」が知られているが、どの子供も生まれたときはみんな少年であり、勉強ができないことから「私を快楽のため、あなたの面倒を見るために使ってください」という「告白」を経た上で「女」として認定してきた。
このことから「愛情と友情」論争も始めなければならなかったのが世界史だった。
松田聖子 時間の国のアリス

ソクラテスは「裁判」(ソクラテスの弁明)を終えて聴衆の喝采を浴びたあとに、監獄に戻った。
囚人仲間のアルキビアデスが「あなたのような知恵があれば」(ソフィア)と言ったことから、ソクラテスとアルキビアデスは激しく愛し合った。
1970年以前に生まれた男にとっては「愛がすべて」という言い分は当然なりたつのだ。
ハウンドドッグ フォルテシモ

年配の女性にとって「根性なし」の男を「ちんちん切れ」というのは常識であった。
ミシェル・フーコーが「愛」という概念にとんでもない影響力をもったのは明らかであった。
ビートルズ All you need is love

台風撃退の歴史を知らないと「宗教史」を見失う。
ミシェル・フーコーを知らないと「文化史」を見失う。
知識を愛した者、根性のある者以外に「愛される資格がない」というのが「男の歴史」であった。
職場における「男女別コース」も合憲とされている。
年配の男性芸人の中には「ウォシュレットのビデが気持ちいい」と赤裸々に語る人もいる。

源氏の君は「紫の上」という「少年」にご執心だった。
この頃から「風呂に入っていない、靴を履いていない、美しくない」少年が、「愛されるために」志すのが学問であるとされるようになった。
そのような意味では紫の上は「美しい少年だった」ものと思われる。
美しさのために美を捧げるのが男とも言われ、哲学を学ばない男は、そもそも「世代間ギャップ」を埋める力量がないのだ。
アレキサンダー大王の「少年愛」は、今で言う「美少女マニア」という意味であった。
知恵の分だけ男は勃起する。
学問を志すかどうかで、クリトリスがおちんちんと呼ばれるようになるかが決まった。
水を浴びると少年が美少女になるというのは「黒いシャリオット」と呼ばれる少年の現象であった。
さて、「神・男の完全性を語り合うと爽快感がある」「男らしさを語り合う論壇のことを宗教という」ということの意味が理解していただけたであろうか?
また、美少年が失っていくものの代わりに得るものが男の魅力ということの意味が、世界史においてどのような意味を持つのかも明らかになった。
また、紫の上は「パトロンがいたから髪を伸ばした」とも言われ、
ミシェル・フーコーの「1970年」以降の女で髪の短い女は「未成熟な膣に挿入を受けた」あるいは「そもそもおカネに酔っている」と言われた。
しかし、アダルトビデオ産業は「勉強という名の宗教」を背景に、1970年以降に生まれた男たちに「手術」を施して巨大なロッドを競い合わせた。
自分の学識に自信のない男の子たちは、性に奥手になり「草食系」と呼ばれた。
「東大に入ってもこのサイズだ」という達観が求められる。
幼い頃に「しゃぶらされた」少年は「フルートガール」と呼ばれ、「女として生きるという結論が先、知識はあと」という「悲劇の誕生」を経験した。
ミシェル・フーコーによって「性の簡略化」が行われるまでは、このような強烈な「知識崇拝」があったし、「男性崇拝」(宗教)が存在した。
「男でなければ天皇は務まらない」
それは、予算の公布の都合のみならず、資金力が違ったり、予言力が異なったり、さまざまな理由がある。
ミッシェルガンエレファント パンテオン神殿に「理想の男」を祀り、シェークスピアは、男たちが「女心」を理解して、予言を行うというストーリーを練った。
「リア王」は、女心を理解しない暗愚な王として描かれ、「リチャード二世」から「リチャード三世」までのつづきものは、「なぜ王朝の断絶がイギリスにおいて生じたのか?」を描いた。
チューダー朝のエリザベス女王は、常にリチャード三世を気にしていたし、「マクベス」においては、王家の女が犯されたことから、男たちが夜を徹して猛抗議を家の前で行い、明け方になってなんだか虚しくなったという話である。
「ハムレット」においては、「墓を荒らすシーン」が描かれ、地球は世界で一番美しい、生きていることそのものが美しいことを描いた。
これらの「パンテオン神殿とシェークスピア」は、理想の男と、そして「女心を理解すると王になれる、生きていることは素晴らしい、それでいて女として生まれることは時として悲しい」ことを巧みに表現した。
ribbon 愛してジャスティス

 

エロくなければ「文字」というものが人々に拡散されることはなかったし、日本語の「現代語化」は、賀茂真淵以降を「現代文」と呼ぶにしても、人々に分かりやすく、誰でも書けるようになったのはロマン主義文学のおかげである。
カントは「いかに女たちにモテるか?」(悟り)を研究したが、19世紀にはカントの人生をいかに「エロ」く描くかが問われ、人々は文字と日常に接するようになった。
「ミッシェル?なぜあんなことをしたんだ?」
フーコーがなぜ、男と女を「生まれながらに」区別したのか?
それはひとえに「現代文の完成」を受けてのことてあり、識字率の低い国ではまだ「1970年」は、訪れていないということも指摘できる。
日本国は「1970年」に、すでに準白人国家としてミシェル・フーコーを受け入れていた。
カントという「女を口説く達人」が王として君臨し、その生きざまをロマン主義文学が描き、文字の普及を見極めて「男女を明確に区別する」という方法がとられた。
世界史の流れは「女作りが先、男作りはあと」という展開をたどるのが定石であり、パンテオン神殿とシェークスピアは、それを実践していたわけであるが、フーコーは、かなり大胆に「ドン」と男女の違いを示したことになる。
移民政策は「男作りが先、女作りはあと」という政策であるが、フィリピンカトリックのように、三位一体を「神・勃起・女の癒し」という具合に、そもそも神概念に「女」が登場する宗教もある。
フィリピンの識字率から「男にだって女の側面はあるんでしょう?」という認識があるものと思われる。
とにかく、フーコーが「生殖腺」まで生まれたときから定めるまでは、識字率との兼ね合いから先進国とそうでない国が分かれざるを得なかった。
「文字は男」という割りきりのある女の子たちは、成績がよかった。
酒井法子 放課後のヒロイン

フィリピンカトリックがなぜ「神・勃起・女の癒し」を三位一体としたのだろうか?
フィリピンにおいてはいまだ「生まれながらの男女の区別」がなされておらず、勃起そのものが「知性崇拝・男性崇拝」であったのだ。
女たちは「勃起する男」を奪い合った。
Wink 愛が止まらない

エロい皇帝がいて、ロマン主義文学が流行しないと、識字率は上がらない。
日本国は、ロマン主義文学において、必死で「翻訳」の作業を進めたし、この辺りは明治天皇(ビスマルク・福沢諭吉・小野慎一郎)や、大正天皇(アインシュタイン・野口英世・小野達郎)がいなければ、「天皇ってどんな人?」ということが知られることはなかっただろう。
悟った人(モテモテだった人)ってどんな人?
これがロマン主義文学であり、明治天皇(ビスマルク・福沢諭吉・小野慎一郎)にせよ、大正天皇(アインシュタイン・野口英世・小野達郎)にせよ、本当に日本に住んでいたかは明らかではない。
とにかく「皇帝」は、国際人であったし、それが愛国主義とない交ぜになって「お墓」が残ることがある。
小野家の系図

私たちは「ヨーロッパの幻」を見ていたのかも知れないね。
どの家のお墓にも明治天皇(ビスマルク・福沢諭吉)、大正天皇(アインシュタイン・野口英世)は眠っているし、ロマン主義文学が残されているはずだ。
とにかく、日本語教育・国語教育の発達がミシェル・フーコーの登場を待った。
アダルトビデオを見て、子供を残す気がなくなった草食系の男の子などは、先進国特有の少子化問題を引き起こし、アメリカプロテスタントも、少子化に悩み「優生学」というものを作っている。
しかし、識字率の低い国の「勃起崇拝」は、否応なしに世界の人口を増やし続けるだろう。
杏里 悲しみがとまらない

アンティゴネと、エディプス王がいたが、息子が「勃つ」ためには、「仕事をすること、勉強すること、いじめられること」の三つしかない。
中学生ぐらいならばアルバイトは禁止であろうし、「勉強といじめ」に、「男になるための条件」を絞ったことを意味する。
ラファエロの「システィーナの聖母」を見て「勃てば」男になったことを意味する。
仕事・勉強・いじめは、男の子が「男」になるために必要なものであり、他人を「髪型がダサい、歯が汚い」などと言いがかりをつけていじめている男は、とにかく「勃たなかった」のである。
瀬能あづさ 永遠に友達

「自由」それは夢がぶつかり合って身動きのとれない世界であった。
カントはシラーへの「カリラスレター」において、女性は「おちんちんを切られる」ことから鬱になり、辛い夜を過ごすが、自らは学問において同様の経験をしたと語った。
人生の目的は「ギリシャの神になることかイエス・キリストになること」ではあったが、女の子の思春期の「鬱」を理解するためには、男は「仕事・勉強・いじめ」で鬱を経験しなければならなかった。
「男は勃てばいいではないか?それ以外に目的なんてあるか?」
それほど「仕事・勉強・いじめ」を経験することは重要なことであった。
ゼウスとアフロディーテは、アンティゴネとエディプス王の、美しい息子と娘であった。
とにかくスポーツのようなシンボリックアートのようなものもあれば、異性の美を表現したロマンティックアートもあったし、「仕事・勉強・いじめ」によって生まれた男らしさを表現するクラシックアートもあった。
松田聖子 赤いスイートピー

シンボリックアートは、プロ野球を観たり、車を運転するなど「勃つ」ための芸術を提供してくれる。
「観客ため息」のような「人間の限界」を感じて欲しいという側面もあり、常勝軍団でなくてもファンは確実にいた。
「仕事・勉強・いじめ」によって生まれた「男」を表現するクラシックアートもあるが、鍛え上げられた肉体美のように、ゲイカルチャーに属するものもある。
ロマンティックアートは、そのような意味ではより健全な「勃起」を誘発するものであった。
「男は勃てば神」とも考えられ、そのために持ち家(建築物)のように形に残るものを必要としたりもした。
絵画でも彫刻でも、音楽でも詩でも、形に残るものには違いがない。
とにかく、ミシェル・フーコー以前は、「エディプスという父を持った息子ゼウスがどのように勃つか?」が芸術の歴史であり、今は、女の子アフロディーテとの区別が生まれながらになされているため、「アートとは男を作るもの」という色彩が薄れた。
アートの終焉とも呼ばれている。
田中れいな

しかし、カント以降の男たちは「常に迷いながら生きていた」ため、勃たなくなる男は普通にいたし、アートと疎遠になるのならば、文化のありようが問われることになる。
いじめをやる男は「太い便がしたいだけ、勃たない」などの理由がある。
一方で、街を歩いている女の子とセックスするのならば日経平均株価を支払わなければ犯罪(貧乏セックス)であり、家族ならばTOPIXを支払わなければ犯罪と呼ばれるように、勃つということが、おカネとの兼ね合いから「罪深い」「犯罪」とされることがある。
日経平均株価リアルタイムチャート

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