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Foreign Affairs

  • CFR: フォーリンアフェアーズ英語版

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2019年11月

2019年11月20日 (水)

今こそ「哲学入門」を。

アリストテレスは、「男」(ファースト)が「女心」(セカンド)を語り、「予言」(サード)を行うというモデルを確立した人物だ。
プラトンのように「音楽作品を聞いて感化される」という密教とは異なり、数学によってスポーツのルールを決め、物理学によって技術を磨き、生物学によって選手のコンディションを考えるという用い方を行い、それは顕教と呼ばれた。
「仕事」というものは横浜スタジアムや、国立競技場を中心に生まれるものだと考えたのだ。
しかし、アリストテレスが「スタジアムや競技場」を見ていたとしても、プラトンの「コンサートホール」の大観衆の存在に依存していた側面は否定できない。
女は「子を宿した」時にはじめて男にたいして優位にたてる。
しかし、男女という概念の相対性はすでに述べたとおりである。
松田聖子 抱いて


「スタジアムや競技場」の感動の再生産は、常に時代によって「やり方」が異なったし、「コンサートホール」の動向も気になった。
東京ドームでエアロスミスが、後楽園ホールで名護と松倉が戦っていた時代は、まだ、ショービジネスも各人の仕事も安泰だった。
しかし、コンサートホールが冷え込んだらどうなるのだろうか?
スタジアムや競技場が「やり方」を考え直さなければならなくなる。
松田聖子は「仕事・勉強・いじめ」の三つによって「男」というものは生まれるという時代の人てあり(1970年以前の誕生)、生まれながらにして「男」ってわけではないとし、男性崇拝を推し進めた。
松田聖子 赤いスイートピー


発展途上国においては「障害を持った子」が生まれたら「女の子だ」としている。
貧乏セックスのことを「犯罪」と呼ぶが、カネがないのに勃起することから犯罪というものは生まれている。
しかし、勃起すれば「女の子たちが奪い合う」、勃つのならば哲学に興味を持てるという意味では、犯罪の撲滅は可能なのだ。


コンサートホールにおいては、常に「男と女をぶつける」(弁証論)ことを考えていた。
モーニング娘。ファンタジーが始まる


しかし、スタジアムや競技場においては、「男同士」「女同士」がぶつかり合っていた。
コンサートホールにどのような「知識」をもたらすかは、哲学者の日々の女たちとの対話が必要であり、実践のともなわないものてあってはならない。
スタジアムや競技場においては、数学、物理学、生物学の世界となっており、審判の卍のために両チームの経済ブレーンが、常にコンサートホールの動きをにらみながら、キュレーション(評論)を競いあっていた。
審判卍


NHKがとうとう「毒親」という言葉を出してきた。
TOPIXの値段すらセックスでもらえない「家庭内の女」がいて、女がノイローゼになっていたのだ。
高橋由美子 僕をぶたないで


男が「女心」を語り、「予言」をする、その哲学の基本を示したのがソクラテスであり、コンサートホールを作ったのがプラトンであり、スタジアムや競技場を作ったのがアリストテレスである。
女の子はみんな「障害者と同じ」という扱いで女となっており、それでもステージの上にあがる美しい女はいた。
コロッセウムなどがローマ帝国では知られているが、数学と物理学、生物学がなければ「みんなが熱狂することはなかった」とも言われ、デュープロセス(フェアプレー)は、ローマ法に属することになる。
この仕組みが哲学界で知られているときに「体重73キロのソクラテスは走っている」と表現された。
ホルモンは「見た目と勃起」からおのずと定まってきた歴史がある。
つまり、フィリピンの少年で「美しい・仕事・勉強・いじめを経験していない」場合は胸が大きくなってくることになる。
ホルモンという概念もアリストテレスが考えたものだ。
フィリピン美女


あとは、「女は胸を隠す」という文化が普及すれば、ギリシャ哲学は完成したと言っていい。
「その方が気持ちがいいから」というのを目的的行為論と呼ぶが、家の鍵は出掛けるときには締めている、忘れ物はしないなどの生活習慣は「その方が気持ちがいい」というところから来ている。
目的的行為論は「女は胸を隠した方がいい」という方向に向かい、これはそのままグノーシス派と呼ばれ、人類に「20世紀の到来」を約束した。
20世紀以降は?と言われるとどうしてもミシェル・フーコーの存在がクローズアップされる。
「あなたは生まれたときから男の子・あなたは女の子」という文化がポストモダニズムをもたらしている。
なんで「仕事・勉強・いじめ」を経験すると勃起するの?と思うだろうが、それは「頭を使うから」としか言いようがない。
そこで「あなたは生まれながらの女の子」と言われているのに「仕事・勉強・いじめ」に耐えられる「美しい女」がいるわけがないことも
理解しなければならない。
美しい女は「仕事・勉強・いじめ」を経験していない。
「歌って踊れば美女になる」という言い伝えもあり、お稽古事が生まれた。
SPEED Body&Soul


「仕事をしている私だって美しいわ?」と思う女性もいるだろうが、「コンサートホール」「スタジアムや競技場」が「仕事」を生み出しているとした以上、「女心を定義する」(政治)ことを仕事と呼ぶしかない。
矢野顕子


一人の統治者の独壇場の場合は、ファミリーに委ねた方がいい。
そうでないと暴君になる。
「女心を定義する」のが「政治」だとするのならば、それは出版するなどして民主主義にしなければならない。
出版しないから、「ファミリー・暴君」は生まれるのであり、文壇があるのに「暴君」などいるわけがない。
さて、勃起するおちんちんは当然、女の子への挿入に向かうわけであるが、ここで、「音楽作品の大ブレイク」がもたらされた。
男同士の知恵比べ(モード)にまで発展することもある。
SPEED Deep blue&truth


ソフォクレスもユーリピデスも、女の子として真剣に生きています、という芸術作品を発信した。
子供は全員が少年である。
しかし、どの家庭にもエディプス王がいたのだ。
エディプスコンプレックスは「男の子の話」ではなかった。
女の子として生きなさいというお父さんからのメッセージのことを言ったのだ。
女の子としていきることに決めることを「カタルシス」とも呼んだ。
真夏のフェミニスト ribbon


カタルシスには、女カタルシス、セックスカタルシス、勉強カタルシスがあり、自分から「女の子の文化が好き」と考えるか、お父さんに「従属の対象」にされたり、「だって勉強嫌いだもの」と考えるものがある。
いずれにせよ、政治(女心の定義)や、男らしさ(宗教)を理解する上で、「女の子の生い立ち」「女とは生まれるものではなくなるものだ」ということを理解しなければ、「予言」もできないのが男であった。
このあたりを「哲学入門」と位置付けたい。


レーニンは、あくまでも「プロポーズという名の全体主義」を推し進めていた。
たとえ男女の「性」が相対的なものであっても、社会主義というものはそういうものだと考えたのだ。
しかし、1924年にレーニンが死んで、スターリンが権力を握ると、社会主義ではなく、「プロポーズからはぐれた男女のより洗練された文化や芸術」が志向された。
フーコーの「1970年」以降に、レーニン主義(プロポーズという名の全体主義)が先進国において確立するのは目に見えていたが、1924年にはまだそのような「確立した性概念」はなかった。
そこで、「いじめのなき貧困」などのように「仕事・勉強・いじめ」を経験しないから女になるというアプローチがとられ、たとえ新カント派が「有名な芸能人女性を口説くのがうまい神」を標榜したとしても、スターリニズムは、女になることを「悲劇の誕生」としたのだ。
レーニン主義と戦うドン・キホーテというのがスターリニズムであり、今でもニューミュージックや絵画などに表現されている。
ribbon 愛してジャスティス


「社会主義には仕事・勉強・いじめがない」などと皮肉ったのはスターリンであり、つまりは「男がいない」という意味であった。
スターリンが「レーニンの」社会主義のことをボルシェビズムと呼び、スターリニズムは、プロポーズという名の全体主義を、「まだ、その時期ではない」と考え、「処女と神学(男らしさ)」を強烈に打ち出した。
処女フェチ・男フェチがスターリニズムの正体であり、日本では「プロポーズという名の全体主義」と同じくらいの影響力を「処女フェチ・男フェチ」は持つことになった。
恋するフォーチュンクッキー


「仕事・勉強・いじめ」つまり「男」を生み出すのはブルジョアではないか?とも言われ、貧困層は「処女」を生み出せばいいとスターリンは考えていた。
レベッカ チープヒッピーズ


マルクス主義を振り返ってみると、やはり「囲い混み運動」(エンクロージャー)をやって、多くの処女を、牧場で「生産」したのが思い出深い。
「仕事・勉強・いじめのない空間」さえ作ればよかった。
このエンクロージャーは、唯物論(マテリアリズム・女主義)とも呼ばれ、ロンドンを世界一位の都市にしている。
カタルシス(女として生きようと決めること)をどのように作るかも問われた。
ローリングストーンズ アンジー


女の「美しさ」のことをプラトンは「カロン」と呼び、深く知らない間柄の女でも、「勉強をしている男」にエネルギーを与えるために作り笑顔をする。
よく人柄が知られるようになると、会ってもニコリともしないのが女であるが、最初、会ったときの作り笑顔は「男の噂」を背景にした「高貴で」「美しく」「癒される」ものである。
所詮、作り笑顔だなどと考えてはならない。
最初、会ったときの作り笑顔は「すでに噂で知っていた」から作ったものなのであり、女は「興味のない男には60%ポジティブ」な表情を向けるものだ。
表情を作ることそのものが「高貴な」ものなのである。
絶対解ける問題 松浦亜弥


プラトンは「コンサートホール」の研究をした人物てあるが、唐突に「ステージを降りた女」との交遊関係を語り始めた。
宮前真樹は、「なにか作業をしていたので話しかけなかった」と私のことを語っていたが、「女はパートナーがなぜ自分とセックスしたがるのかの説明を与えている」という論文を読み、宮前真樹作詞の曲は「ガラクタたちが教えてくれる」としているという調査などを私はやっていたのだ。
シャボンのため息 宮前真樹


男たちという「ガラクタ」の愛の対象になると、セックスで感じなくなる、料理できない、掃除できないという女になるが、本来、女は「多くの女を代表して男に抱かれている」という側面があり、「女友達の多さ」を競いあっているのだ。
日本中の男たちが「勃起した」女が気持ちいいのかと言われると、「女友達の多さ」に依存しており、しかも、男が射精をする前に声を変える瞬間に「想像」モードに入ったことを意味し、できるだけ多くの女を想像できた方が気持ちがいい。
そのため、日本中の男たちが勃起した女が必ずしも気持ちがいいとは言えないのだ。
しかし、日本中の男たちが勃起した女とパートナーになったら、女の「音楽作品の意味」を探求すれば、掃除や洗濯、料理などは「他にやってくれる人がいる」ということも可能だ。


プラトンは、ステージ上のパフォーマンスは「ホメーロスやヘシオドスの問題」としてあえて議論はしていない。
それよりも、「料理できない、洗濯できない、掃除ダメ」という女にとって「大切な人」になることを語っている。
松田聖子 スター


まあ、哲学をやるのにも英語が分からなければならないし、詩を作るのも「ミメシス」と呼ばれる、いわゆる「パクリ」を理解しなければならない。
いずれにせよ英語が分からなければ何も始まらない。
哲学をやるのならば「酷いいじめ」(ウルトラソウル)を経験しなければならないため、ウルトルソウルがないのならば詩をやればいい。
ウルトラソウル


1980年代から2007年のモーニング娘。まで「ミメシス」(英語の詩の翻訳)は、常に正解であり続けた。
詩だけでなく、サウンドもミメシスに頼っていた。
今のコンサートホールはミメシス(欧米からの輸入)をどう思っているのかが明らかではない。
柔らかくてデカい体をした哲学者が薬を飲みながら研究するのが哲学だ。
しかも、酷いいじめ(ウルトラソウル)がなければ哲学を研究する理由がない。
女と男のララバイゲーム


現在、神社がキリスト教の吸収を行っている。
街を歩いている女ならば日経平均株価(2万3千円程度)を支払わなければセックスしてはならず、付き合ったのならばTOPIX(1690円程度)は支払わなければ「犯罪」であり、支払わなければ、女が病んできて男が犯罪を犯すとされている。
米津玄師 レモン


米津玄師は、男友達は「財産」であり、女友達は「担保」であるとし、男の「非犯罪化」を進めたが、それを実践したのは神社であり「教会ではない」という強烈なメッセージを歌に込めた。


ミメシスとウルトラソウルは、天皇のものであり、それはつまり「天皇を敬え、政府にしたがえ」という神道となっていた。
政府にしたがえと言っても「犯罪」を抑止する「男友達」(財産)、「女友達」(担保)を男に与えるのが仕事だ。
所有が「男友達」で、占有が「愛という概念をともなった関係」を意味し、男にとって「男友達」は財産であり、「女友達」は担保であるということを踏まえて、「男女がどのようにして二人の関係を深めていくか?」という学問が債権法であることを理解しているのならば法律を勉強してもいい。
「愛の法律」(債権法)が、物権法(おカネの裏付け)に優越すると我妻栄は考えていたが、キャンパスで何を得ることができるのか?は理解しないといけない。
また、セックスをしたら「友達のラインを越え、恋人になる」という基本を踏まえ、刑法・民法と向き合っていかなければならない。
三浦理恵子 グッバイフレンズ


詩の発展は、ギリシャ哲学の頃からなされていたが、ミューズの女神(ミュージック)の発展はバロック音楽の登場を待たなければならなかった。
本当に「最後の審判」「決戦の時」が怖くなくなったのはバロック音楽ができてからだ。
スコアや弦は「計算するためにある」ということも理解しなければならない。
すべての世界が「アメリカ合衆国を真似する」時代になっている。
いいものを真似することを恐れてはならない。
ピカソの「イカれた」絵画もいろんな人の絵を真似て、イカれた頭で描いただけなのだ。
頭がイカれたら、イオニアの空でも眺めるしかない。
そういう世界なのだ。
モーニング娘。 歩いてる


ウォルター・ベンジャミンは、私の父の「先生」でもあり、夜の街に堕ちていく男たちを尻目に王道を歩む男の子の研究をした人物である。
SPEED Another sweet field


ベンジャミンは、ハインリッヒ・リッカートや、ゲオルグ・シンメルなどと交遊を深め、カフカの小説にも触れた。
どのように「男は化けるのか?」、それがベンジャミンのライフワークとなったのだ。
ボルシェビキ・ラトヴィア劇場で「プロポーズという名の全体主義」を見て、人生の勝者というものがだいたい分かった。
彼は1939年に戦争が始まると、フランスで「ドイツ人である」として政治犯収容所に入れられているが、すぐに解放されている。
女の願いが「プロポーズ」だとするのならば、その世界の「優等生」を作りたかった。
のちに女は「出産の方が大事だった」と気がつくとしてもだ。
真冬の観覧車


くだらない人生、周囲はそう呼んだが、大人になってからの「パフォーマンス」にはみんな避けて通っていた。
「男女の経験などカントを読めば全部書いてあるだろう」という思いがあった。
あくまでも「カント」を前提に、人生のすべてはすべて本に書かれていることを前提にベンジャミンは、「アーケードプロジェクト」というものを考えたのだ。
ぺピン


私も、父の指導にしたがい、そこのけそこのけお馬(聖徳太子)が通る、と言われるように、アーケードのなかを歩いただけで東大文一に受かっている。
他に優秀なやつは腐るほどいたが、みんな「消えた」としか言いようがなかった。
夜の街に堕ちていっていたのだ。
かなりメシアニック(救世主待望論)的な発想であったが、カフカだけでなくフィヒテまでこれに賛同してしまった。
今でもCDショップは、メインストリート(アーケード)に堂々と店を構えている。
「遊ぶカネをやらない」というのが私の祖母や父の考えだったようだ。
その代わり、CDでは「歌のモデル」にしてもらうなど、案外楽しい時代だった。
私が21歳で心を病んでも、祖母はこのような作品を書いている。
酒井法子 エアー


朝のうちにマスターベーションを終わらせておくこと(モーニングプレイ)も、必要だった。
とにかく、祖母は私の従姉妹の酒井法子を強烈にアピールしてきた。
秘密のガーデン 酒井法子


従姉妹の女は、クラスメートの女よりも簡単にセックスできる。
しかし、祖母はあえて酒井法子を私から「遠ざけた」のである。
祖母はカルヴァン派(オランダ美人)として、「処女のアイドル」だった薩摩藩の娘として、酒井法子を認めていなかったのだろう。
薩摩藩の出身の祖母にとって、私が「アメリカに留学した」「帰国後3ヶ月で大検に受かった」時点で、ソウルメイトとして「CDショップを通じて」キャッチボールをすることは決まっていた。
なにしろ香淳皇后には「権力」があったのだ。
酒井法子 エアメール


私は、祖母との「対話」に夢中になったし、熱心に酒井法子も聴いた。
勉強もした。
なにしろ、私の「勉強」のために動いたものが大きすぎた。
生魚を食べたら誰だってアニサキスで下痢をするだろうが、私は排泄する時間すら惜しんで勉強した。
おかしい、体調が悪い、疲れる。
私は寿司をたらふく食い過ぎたせいで肝臓に虫がたまっていたのだ。
「顔の赤い痩せたソクラテス」
祖母は認知症になり、「マンモス」というアルバムを最後に、私との「対話」を打ち切っている。
自身の薄れ行く記憶を頼りに、先妻の娘・美智子とその娘のことを歌っている。
酒井法子 平気!平気!


28歳の時(1999年)に、ホリフイールドと、レノックス・ルイスが戦い、私は「インターネットの情報力」を世界に紹介した。
この時に、香淳皇后は、私と「美智子の娘」との結婚を認め、しかし、香淳皇后は次男に殺害されている。
次男は令和の改元の前日に自害している。
2000年に香淳皇后は亡くなっているが、母方の祖母が2005年まで必死で「身内の私への造反」を食い止めていた。
2005年に母方の祖母が亡くなったら、もう、家庭内のいじめは「戦争状態」となった。
私はそのメンバーを「ぺテロの葬列」という記事にしている。
ペテロの葬列


香淳皇后は認知症と戦いながら、無我夢中で生きた。
昭和天皇の「戦争」と同じ、戦争を私が経験し、暗愚なものたちが歴史に名を残すように、ユネスコやスタンフォード大学に「後始末」だけは頼んでくれた。
ノーベル賞の数など今さら数えようとは思わない。
私は「おばあちゃん子」だったのだ。


精神病の原因の探究は新時代を迎えている。
マスターベーションが「普通の女」を対象としたものではないこと、女を知らないこと、その女と日常を過ごしていないこと、などが精神病の原因として指摘できる。
「今は言えなくて、きっと傷つけて」
CoCo メロディー


統合失調症にせよ、うつ病にせよ、強迫性障害にせよ躁病にせよ、「女とは何か?」を知ることで治すことができる。
これは、精神病の女にとっても「女とは何か?」を理解すれば精神病が治るという意味では同じことだ。
男(ファースト)が、女心(セカンド)を語り、予言(サード)をするというのは、プロスポーツを楽しむごとにみんなが健康になっていくことを意味する。
女心を語るというのは、男にとっても健康であり、女にとっても健康なのだ。
「男が女を愛する気持ちを利用するのが経済学」であるが、それはメンタルの「健康」を基盤としたものであり、精神医学の世界にせよカントにせよ「男心」ではなく「女心」に常に注目してきたことにはこのような理由がある。
女の子は思春期に「仕事したくない、勉強したくない、いじめられたくない」という三つの要件を揃えて、「美しく」なる。
この「正直」を伝えないのが大人の恋だと思ったけど、いろんな現実もあったし、大人に近づくたびにみんな「男に頼って」美しくなっていた。
愛の炎 田中れいな


要するに「男女の間の神経伝達」が男には必要であったし、女は「女らしさ」を表現する必要があった。
女らしさは「仕事をしない、勉強をしない、いじめられない」ことからもたらされる。
しかし、「女心」を知ることは、男にとっても(もちろん私にとっても)「仕事」と呼ぶほど厳しい作業ではなかった。
脳がダメージを受けたら「女性芸術」「処女芸術」に心が向かうのは当然だったのだ。
男は「男女の対話を」、女は「女らしくある方法を」知る必要がある。
「君が僕の子孫を残すのかと思うと緊張するんだ」
恋じゃなくなる日 Bz


このような「読書」は、学校の勉強とは違うと思われる。
このような「男が女と対話する」あるいは「女がより女らしくなる」ことを「税収領域」と呼び、「どうしたら病気ではなくなるの?」という問題を明らかにするだけで、人々は「お金の蒸発」から守られ、手元にお金が残り、さらに納めた税金はしっかりと財務省に届いた。
「気分がいいから読んでいる」というのがもっとも好ましい税収領域であり、「神・男の完全性を議論すると爽快感がある」などのように、よりシンプルな形で、「精神病患者のいない」豊かな国を作ることができる。
赤いスイートピー


精神病になっても基本的には問題はないのが、「周りにアイドルたちが普通にいる」というところにある。
「仕事・勉強・いじめ」から自由になることが「女らしさ」を生み出すし、逆に「仕事・勉強・いじめ」が男のちんちんをどんどんデカくする。
男女の対話は「1970年生まれ」以前と以降では意味が異なる。
1970年生まれ以降には確実に精神病患者は減ったし、今ではデジタル化の時代そのものが、「家庭」と呼ばれる芸能人を病気から自由にする技術によりさらに減った。
つまり、「地上波デジタル」の時代には「新しい患者さん」はほとんど想定していないのだ。
「周りが自分の噂をしている」「私のことを笑っている」
それは「幻聴」と呼ばれたが、人々は実際に噂していたし、笑っていた。
周囲は「なぜ、女の子ともっと話をしないのか?」「女は男に頼らないのか?」と不思議がった。
これが精神病の正体だったのだ。
ICD-10は、「周囲は最終的には勃たなくなる、異性に興味が持てなくしてやる、と考えていた」としている。
異性の気持ちが分からない、これが重篤な精神病につながる。
しかし、カントは「男心」の研究にその答えを見出したのではない。
あくまでも「女心」さえ分かればいい、というよりシンプルな答えを見つけたのだ。
女ネットワークが、有名男の「噂をした」「笑っていた」のは本当なのだ。
しかも、「相手にしてくれないのならば、完膚なきまでに勃たなくしてやろう」と考えたのも本当だった。
かつては「痩せすぎ、高熱、覚醒剤、低身長」などの特徴が統合失調症には見られた。
しかし、要するに「有名男が弱った瞬間をみんなが狙っていた」ということなのだ。
このあたりは、「娘ができれば、女心に興味を持つだろう」と考えたソシュールや、実際に、病院で「バカウケ」する話をして自信をつけていくしかないと考えたフッサールにまで遡らなければならない。
男がどのように「女心」に興味を持つかは「謎が多い」とされている。
「どっか連れてってくださいよ?」と言われたら、それはいじめであるし、男としては「赤と木」つまり、赤い花と木を見せて「これが男なんだよね」と語れる上級者ならばいいが、そうでないのならば、「大きすぎるもの、小さすぎるもの」(超越論的)が女の美学だと心得て、「天文台と海岸」「ランドマークタワー」などの「答え」を用意していなければならない。
中嶋美智代 天文台と海岸


私も、東大に入って有名になった時に、女性たちが私の噂をしていても、顔を真っ赤にして寝たふりをしてしまった。
これが、もっとも最悪なパターンである。
なぜ、そのような「チャンス」に女の子に話しかけないのか?
私も、電車で女の子たちに「俺、東大哲学科」と言っていろんなインタビューが出来るようになるのに時間がかかった。
心ならば「女の側に開かせよう」というのがカント以来の伝統であったし、それがそのまま精神病の治療につながるのだ。


「心の痛み」は確実に脳にダメージを与える。
このことから、周囲は「脳への攻撃」に容赦はしないだろう。
電話をガチャンと切られることにすら慣れていないのが若者なのだ。
「俺、スターなのに?」と思ったら大間違いだ。
育ちが違えばよそ者である。
脳にダメージを与えるためなら周囲は何でもやる。
外科内科的理由が鬱病の原因だとされていたが、今では「お育ち」がかなり無理を強いてくると「ディスチミア」という鬱病になる。
お育ちがいいのならば、これも周囲の攻撃材料になる。
「仕事・勉強・いじめ」から自由になった「女らしい」女性はこれほどまでに「男に頼りたい」し、「男を潰す力を持っている」のだ。
「女にも分かる話をしてよ?」
学者たちは精神病院通いに大忙しだ。
「有名」「女と話すのが苦手」これだけで心を病んでしまうのだ。
東大としては「英語と第二外国語は教えたからな?」という国際関係論と呼ばれる言い訳は成り立った。


かつては、「統合失調症になると精子の価値は49%になる」と言われたが、私が「20世紀JーPOPレジェンド」たちとの交友関係を明らかにしたことは、「マッドプライド」と呼ばれて精神医学の世界に衝撃を与えた。
男にとって「男友達」は財産であり、「女友達」は担保である、とし、男友達同士で「口説き文句」を取引し、女友達にそれを話してみるという物権法の世界を経て、
モーニング娘。男友達


セックスをするのであれば「おカネが必要」というのが債権法の世界であり、刑法の世界であるとした。
街を歩いている女の子ならば日経平均株価(2万3千円程度)、家庭内ならばTOPIX(1690円程度)が必要と考えられる。
男友達同士で「口説き文句の取引をしている」と言っても、電話口ではなく、まとまった論文が必要だ。
1948年の世界人権宣言を経て、21世紀に入って国際刑事裁判所でもこの「やり方」は認知された。
日本国の神道が先にこのことに気が付いたのか、それとも「キリスト教社会が既に知っていた」のかは明らかではない。


レズビアンの女と会った。
「理想の男の夢を見ない」「周囲の異性が自分をどう思っているかに興味がない」
つまり「あなたの痛みは消えないわけですね?」というと「内科的なものですから」という。
レズビアンの「おカネ」と、ハンターとしての本質、さらに彼女にとって「愛情とはどのようなものか?」このあたりがテーマとなる。
むしろ彼女は「純粋な少年」なのかもしれない。
プルタークの英雄伝にも興味がないだろう。
あるいは、自分が「英雄」なのかもしれない。
「処女に興味はあるか?」と聞いたが、本来スターリニストならば興味があるはずであるが、それも「ない」と言う。
「理想の男」に興味がないのならば、とんでもない財産的損失を被ることになる。
旧約聖書では「理想の男」は語っていたが、レズビアンを議論したのは新約聖書である。
「処女」=レズビアン=カトリックは、「階級闘争」と深く関わっている。
異性でマスターベーションできない人を相手にしたのはナポレオンだった。
女の園、それは指原莉乃のためにあった。
指原莉乃のソドムがAKB48だったし、スターリン以前にナポレオンが「カトリックの資金力」に目をつけていた。
1969年に「ビリティスの娘」と呼ばれる今のAKBグループに警官隊が突入した。
ミシェル・フーコーの「1970年」の前の年だ。
階級格差は、指原莉乃のソドムであるAKBグループが解消する。
同性愛に執着を持つリーダーが卒業した時点で、グループはおしまいだ。
ソドムにはストイシズムしかなかった。
「膣セックス」以外の「可能性」が必要だった。
「勉強」を愛さなければリーダーではなかった。
「勉強を愛しているふり」をしなければ、ソドムのリーダーではなかったと思った。
これが指原莉乃の正体だった、という夢を見た。
指原莉乃、それは非常に興味深い研究テーマとなった。
実年齢は50歳を過ぎているだろうか?
つまり、「なぜあしたのジョーで、矢吹ジョーを応援する子供たちの中に女の子がいるのか?」という問題とぶつかる。
カントは「子供の頃、非常に可愛がられた」とされているが、
「1970年」以前の生まれである指原莉乃は「フルートガール」つまり、ちんちんを口に入れられていたのだ。
日本国の神道のように「勉強崇拝」をしていたのがカントの両親であり、森の巨木をちんちんとみなし、「これが勉強の目的よ?」と教えていた。
生まれながらにして「皇帝の後継者」とされたカントは、6歳ぐらいでクリニックで勉強を教わった。
勉強と言っても、父が書いたテキストで常に「おカネの話」を聞いていた。
指原莉乃のような「同性愛多数派工作」がカトリックであるとするならば、プロテスタントはもっと「おカネ」に敏感だった。
「国の汚い部分をなんとかしてくれ」も言われたら、政治家は「プロテスタントの美しい歌声」に頼るしかない。
映画「タクシードライバー」の、大統領候補パランタインは「簡単な問題ではない」と答えているが、ニューヨークの汚らしい側面は「プロテスタントの美しい歌声」こそが解決する問題だったのだ。
インディゴブルーラブ


痛みに関しては、とにかく「休むこと」が必要であったし、それでいてかつての自分の「伝説」を異性がどう思っているのかを知る必要があった。
しかし、指原莉乃は「女の子」が自分をどう思っているのかを知る必要があった。
しかし、世の中の「波紋」は毎日のように混乱し、また、干渉しあっていたため、メディアで少なくとも「自分がどう思われているか?」を知ることはできなかった。
そのために「街やクリニック」で他者と交流する必要があった。
いろんな男たちがいたが、一言でいうと「神」という共通項が見つかる。
男は「勃てば」どの男も、時代の寵児と変わらなかった。
指原莉乃も「休養をとり」「アフロディーテのために祈れば」内科的疾患や顔の浮腫もなくなるのだろう。
酒井法子 涙が止まらない


私も、激務で体が痛いが、「常にセンターであり続けること」よりも、その時代の寵児のために祈る必要がある。
人間は「食べると得をする」とされる。
私とて、他の宗教家の「勢いとエネルギー」にいつまでも勝ち続けられるわけではない。
イエスは「祈らない、笑わない」存在だった。
しかし、もし私が休養を十分にとり、しかも祈れば、人生に悩みなどないことになる。
「この宗教家の勢いは止められないね」
そう思ったら、私も、ようやく宇宙のメンバーとして、貯蓄ができるのだろう。
誰だって「一人勝ち」の時はある。
しかし、指原莉乃は「次世代アフロディーテ」のために祈れなかったのだ。
男は、女をめぐる「仕事・勉強・いじめ」によって男になっている。
つまり、ちんちんがデカくなっている。
一方で、女はこれらの作業から自由である代わりに、男の話を聞くようにできている。
そこで、「1970年生まれ以前」は、男と女が「知性によって」つながっていたのだ。
この「つながり」を断ち切ればどこか健康に異変をきたすだろう。
今は、「電話」「スマホ」という便利なものがあるではないか?
「すべての人間がつながっている」
これが健康な社会というものだ。
少なくとも、指原莉乃は、「男に心を閉ざした」のである。
しかし、「男に心を閉ざした女」がカトリックというものを作ったのだ。
「私は動物なのかな?子孫を残せないのかな?」という気持ちから、AKBのメンバーは、普通にクリニックにいたし、男(ファースト)、女(セカンド)は、男が女心を語ることで女たちの支持を得て、スポーツの世界などで予言(サード)を行うことでみんなが健康になった。
資金集めのうまい陣営をみんなが応援したし、結果を見て笑顔で家路についた。
1755年にリスボンに津波が襲い、7万人が死んだ。
しかし、カントはこのことを「予言」していたのだ。
「地震という断層運動のズレも人間がやることなんだよ」
地震が起きたら、気象庁や宮内庁に苦情を言っていい。
数学がスポーツを作り、物理学が技術論を作り、生物学がコンディショニングを考えた。
地震など、スポーツビジネスの失敗でしかなかった。
地域住民が「メンタルな健康」を見失ったら地震が起きる。
ノストラダムスの大予言というものがあったが、平成天皇は「おの」の登場によって救われている。
20年後には、すべての日本人が「アメリカ化」するのではないか?という期待感もあり、天変地異を免れたのだ。
皇室と関わっていると「ブーメラン」という言葉を目にする。
「意思の自由のないものは、自分のことをまるで相手のことのように語る」のである。
皇室のメンバーに意思の自由がないことからこれは生じるのだろうが、宮内庁関係者も在日や部落民などで構成されており、「意思の自由がない」という意味では皇室のメンバーと文化は変わらない。
国語の「問題文」を答案に書いてしまうことは、東大不合格を意味する。
「なぜか?」ときかれたら「~だから」と答え、「どういうことか?」ときかれたら「こういうこと」と答える。
問題文を答案に書いてしまわないことを覚えただけで、私は東大二次試験の現代文で満点を取っている。
すべて「意思の自由」を確認されたのだ。
意思の自由のない「統治体」ほど危険なものはない。
21歳より下ならば「教わったことしかできない」ものだ。
私も、東大現代文の「法則」は、模範答案の研究を綿密に行なった上で発見している。
若さを楽しみたまえ、若者よ。
モーニング娘。


なにしろ「ブーメラン」は、男と女の「知性によるつながり」から排除された障害者のような連中が返してくるのだ。
「我々のアイデンティティは純潔にある」という保守派が多く、女が「その言葉は欲しくない」と思ったら、全部「相手のこと」になっているのだ。
宮内庁には低学歴が多いとされるが、要するに「プレイヤー」(皇族)の動きが緩慢で鈍いのだ。
どの組織もスピードアップは嫌いである。
女の配置も定まらないまま、ピョンピョン話を進められても困る。
巨大組織は、サプライズを引き起こすのを苦手としている。
スピードアップが嫌いならば、プレイヤーはみんな皇族みたいな連中になり、動きがのろい者が出世する。
大企業や官庁の不祥事ばかりが報じられ、男と女が知性によってつながっているような連中は大企業や官庁を発信源に病んでくる。
これが1755年のリスボンの津波の予言の意味である。
みんなが死にたがっていたのだ。
女の「死にたい」発言は「ちんちんのついている男の側の責任」なのだ。
「高度な政治意思」ってあるのかね?
高度統治行為ってあるのかね?
これが「巨大組織」を率いる者の結論である。
吉田茂は、池田、佐藤、山崎の3名の閣僚の署名をもって那須に向かった。
これで憲法7条解散が戦後はじめて行われたのだ。
「批判に耐えられんか?」しかし「3名だけか?」
最高裁はこの苫米地事件に「憲法判断回避」を行なっている。
昭和天皇の源氏物語のセールスが伸び悩んだり、国会対策費・メディア対策費が足りなかったことから、昭和天皇の「男女の知性によるつながり」が疑問視されざるを得ないからだ。
巨大組織はとにかくスピードアップを恐れている。
教祖というものも、その「のろさ」をよく理解しているし、「意に反する薬の服用」を行い、神道信者公称9500万人のトップならば、常日頃から女性とコミュニケーションをとっておかなければならない。


寝てる時に「痛み」で目を覚ます。
夢で見るのは「理想の男」であり、「理想の恋人」と付き合っている。
しかし、指原莉乃が見た夢は「女の子たちに囲まれている」ものであった。
おとぎ話のような話であり、人間はレム睡眠の時に「痛みで目を覚ます」あるいは持病を持っている人は発作を起こす。
酒井法子 おとぎ話のシンデレラ


とにかく眠っている時に見る夢は「大きすぎる」のだ。
これをそのまま「AKB48」としてオンエアしても、それが「当たり前」になるとむしろのちの人生には「痛み」が待っている。
夢はひとりみるものじゃない


夢で見たことを他人に押し付けると、むしろ有害であることもある。
今の知識に疑いを持つ必要がある」のである。
夢で見る「女」は皆、処女のようだった。
私の夢を絵にしてみよう。
印象派は、そのように考えてのちの世代の評論を待った。
印象派ルノアールのように


眠っている時に見た「夢」は実現できるのか?
私は「俺を殺してくれ!」と夢でうなされて寝言を言った。
「心」には合格点はない。
大学に合格した、就職の内定が出た、それだけで叶う夢が果たしてあるのだろうか?
Do It Now


夢を見ている時のレム睡眠は、人間が「休む」という通常の体勢ではないとも言われる。
起きている脳に麻痺した筋肉とされている。
試しに体に痛みを与えて眠ってみたところ、夢を見た瞬間に私は「エンコ詰めろ!」と怒鳴っていたそうだ。
日常の職場で「エンコ詰めろ!」と言っている方もどうかしているが。
そこで研究者は、夢を見る時間帯にはなんら法則のようなものはない、とし、「ゆっくり休める睡眠を」と研究テーマを変えていった。
なぜならば「自分が怯えているものが夢で実現することもある」からである。
夢を見た瞬間、麻酔が切れて痛みを感じるのならば「現実とのギャップ」の存在も指摘できる。
夢と論文とスタジアムという生活は、現実社会から離れ、体に痛みをもたらす。
寝てるよりはデートの方が意味があるだろう。
ribbon 変な愛のカタチ


また、白黒の夢とカラーの夢があるとされ、カラーの夢ほど「嘘が多い」とされる。
夢は「女にたどり着く道であり、戦いである」とも言われる。
それならば、指原莉乃は「自分にたどり着くための戦いなど必要ない」と考えているだけであり、「理想の男を夢見る」というフロイトの説はすでに克服されたのではないだろうか?
ユングやフロイトの場合


夢は、始まった瞬間に「ゲームとして成立させよう、長続きさせよう」と脳が判断している。
また、「夢を見るならば健康だ」とも言われる。
コンサートホールにカネを払ったら、夢で倍返ししてもらえるという説もある。
アンデルセン童話も、寒い国の印象派なのだろうか?
マッチ売りの少女


また、夢を食べるのは「バク」ではなく「女の胸」であるとされ、もっとも疲れが癒える睡眠は女の胸からもたらされるとされている。
指原莉乃は、貧乳なだけ、そもそも夢を見ない、という仮説も十分に成り立つ。
私は、夢で「女にたどり着く道、戦い」を見て「俺を殺してくれ」と寝言を言った後に、本能的に、魔除けとしてアイドルのポスターを壁に飾った。
「勃つために夢は必要」とする学者もいる。
そもそも、キリスト教(セックス崇拝)が真理であると確定したのも、「夢がそうだったから」ではないだろうか?
また、夢を見ると「余計な情報がカットされる」という説もあり、余計な情報を取り除くために、あえて眠りが必要な人もいる。


巨乳女と長時間過ごすと疲れる。
しかし、巨乳は魅力的である。
このことから、朝ドラや映画など長時間のパフォーマンスをする女は貧乳の方がいい。
一方で、歌などの「5分間のパフォーマンス」をするだけならば巨乳の方がいい。
これらの原則を「デシプリン」と呼ぶ。
デシプリンは、1500年代中頃に、日本の能や歌舞伎、文楽などが知っていたとされる。
これは「人生の伴侶」というもっとも長時間のパフォーマンスにも影響を与えるものであった。
藤原紀香 CM


映画で貧乳女に癒される。
そんなカップルはよくいるだろうが、巨乳女との日常に帰っていかなければならない。
シアターを都合よく使わないカップルはいないし、テレビでもそれは同じである。
見つめてあげたい


彼女が貧乳ならば、生活をともにしても疲れないだろうが、男は時に不幸に見舞われたら「揉みたく」なるものだ。
そのような時は、ソープランドやポルノシアターなど、かなり「偏見」をともなう場所に行かなければならない。
とにかく胸とは女性にとって「私とは何か?」という問題であったし、男はそのことと常に向き合わなければならなかった。
なんにも言わずにI Love you


能や歌舞伎、文楽が世界に発信した「私とは何か?」という問題であったが、
貧乳女を観客全員で追いかけた後にはみんな爽快感で喝采を送った。
タクシードライバー


国民的アイドルはみんな貧乳であったし、視聴者に「巨乳女との理想的セックス」を約束するものであった。
「私とは何か?」というものを正確に理解し、文化との接し方さえ理解していれば、男は浮気をする必要もなかった。


愛も深まるのと同時に、「文学座」などはジャズを好み、「このフルートはどうやって使いこなすの?」というような素材を放映していた。
「何かが難しかった」のだ。
「不倫は文化」というよりも「文化に委ねなければなくならない問題」であると言えた。
「巨乳は疲れる」「紀香が重い」
そのために、映画館は常に「カップルの集いの場」でなければならなかった。
映画館の数の減少と言っても、家での「重さ」を解消する意味合いもあった。
まあ、DVDでもいいだろう。
rebecca trouble of love

伊豆の踊子で、踊り子が学生さんに「学生さんがいっぱい大島に遊びに来るね」というと学生さんは「それは夏でしょ?」という。
踊り子は目を伏せたように「冬でも・・・」という。
おばちゃんが「おかしな子だよこの子は」という。
実は、冬の海での「男女の秘儀」を踊り子は言っていたのだが、学生さんはショーペンハウエルを知らなかったのだ。
父と子の問題も「僕は身寄りがない」と言ってニーチェを理解する才能を疑わせた。
哲学科であることからハイデガーが「読め」と言った本は読むだろうし、ただあてもなく旅をしているということからキルケゴールの道を歩んでいた。
踊り子は「いい人はいいね」と話していた。
この帝国大学の学生は、実は和辻哲郎をモデルにしたものと思われる。
兵庫県姫路市出身で、旧制一高(現在の東京大学)に入り、その後、東京帝国大学に入っている。
「西洋化」
それは、和辻哲郎も夏目漱石も向き合った問題だった。
夏目漱石は「行人」において「孤独で孤独で仕方がなく家に帰った」イチローという人物を描いている。
男の子は「男」になるために「仕事・勉強・いじめ」に耐えなければちんちんがデカくならない。
また、和辻哲郎は、バイロン、テニソン、シェリー、キーツなどの詩を学んでいる。
美男美女になるために「古寺巡礼」を書いたが、みんな子供の頃は「美少年」であって、日本精神史研究において、日本国の「男」はいかに「仕事・勉強・いじめ」を経験して男になるかを描いた。
桂離宮の「制作過程の考察」を行い、ものづくりこそが「男」を作ってきたとした。
ハイデガーは、「ザインとゾレン」において、「ただあるがまま」の存在を「女」とし、苦労を重ねた人物を「男」としていた。
偶像細工によって「女は女らしく」を描いている。
偶像細工がなければ、日本国の株価が上がらなかった。
「悪の天才」ほど「小柄な人間」になる。
駆け引きを知らない人間は図体がデカくなる。
いろんな意味で、明治維新以降に「性概念の確立」を試みたのが和辻哲郎であった。
尾崎豊 シェリー

「女は女らしく」これが人類未体験ゾーンであってはならなかった。
「昔から女らしい女性はいた」
これを万葉集で描くことが必要だった。
和辻哲郎は、1960年に死んでいるが、1960年代に「セックスと革命の嵐」が吹き荒れた。
仏教が「美男美女」を生み出していた。
しかし、美男美女が「セックスをする」というモデルが「全国民のもの」となったのだ。
徳川将軍が70人も子供を作る時代ではなくなった。
「男の誕生」
それは宗教であったが、1960年代に「男たち」が荒れ狂ったのだ。
1970年代には少年非行は沈静化に向かった。
ミシェル・フーコーの「1970年」を待つまでは、我が国も革命の恐れがあったし、「暴力革命」つまりプロポーズという名の全体主義を通じて、
「自然革命」つまり「処女と男」の確立を行わなければならないと思われた。
しかし、西側陣営の一員として、日本国は「1970年」に、生まれながらの「男の子・女の子」を決めることにしたのだ。
和辻哲郎を失った1960年代の日本国のことを「シチリア島」にたとえて、ゴッドファーザーは作られている。
ゴッドファーザー 愛のテーマ

「男に何ができるのか?」
それは21世紀、しかも令和の時代になっても「まだ実験中」であった。
世界レベルで、男(ファースト)、女(セカンド)、そして「女心を語ることによる予言」(サード)は、発展段階にある。
和辻哲郎が「人間存在」において、「男の誕生」を書かなければ、日本国は西側諸国、準白人国家としては存在していなかった。
ボクシングの世界においては、いまださいたまスーパーアリーナとラスベガスは「条件は同じ」ではない。
低血圧の人が好むスポーツのまま、熱が覚めたり燃え上がったりしている。
まだ、ボクサーやジムが「論文」のセールスを行う世界ではないのだ。
そのような意味では、デトロイトスタイルやタイソンストリートに30年は遅れをとっている。
ファースト、セカンド、サードが、誰も「小野光太郎の発明」であることを認めたくないまま、世界の哲学は動き続けている。
阪神電鉄は「球場周辺のいかなるビジネス」も手がけ、読売新聞は「日曜版」のセールスを見ていた。
横浜DeNAベイスターズはそこに割って入った。
三浦理恵子 日曜はダメよ

第二次世界大戦終結の5ヶ月前に、和辻哲郎は「鎖国~日本の悲劇」を書いている。
これも、「令和天皇ならば違うやり方をしたのだろう」と改竄されている。
アジア初の近代帝国でありながら、膨張路線を取り、それでいて「ファースト、セカンド、サード」という概念を明確にしきれなかったのだ。
「令和に入ってもまだ、男女の性概念は流動性を持っている」
「株価ポテンシャルはまだまだある」
これは、私も日常的に「シスコン女」と接していることから理解している。
お母さんの作る食事が美味しすぎる、愛よりも食べ物、このような系統と、お父さんに幼い頃いたずらされた、という系統、いろんな「女になりきれない女」のポテンシャルがあるのだ。
どの母親も「娘に嫌われたくない」と思っている。

2019年11月15日 (金)

怖い婆さんの扱い方。

美智子上皇后が、たいそうお怒りらしい。
美智子さまにとって娘は「おちんちん」(ピエロくん)であり、それを私に持っていかれたことから、「去勢」(キャストレーション)を経験し、思春期のメランコリーがぶり返したのだ。
しかし、「声をかけられクルリ振り向けば、素敵な人が立っている」という思春期のキャストレーションとは異なり、自分の姿はもはや「ネズミ」であった。
さよなら失恋ピエロくん


フロイトの去勢(キャストレーション)論争は「100年続いた」とされるが、マスオとフネの論争は、イケメンとネズミが絡んだ難しい議論であり、ネズミである自分は、もはや対立する母もなく、美の探求にも関心は向かわない。
娘のいる高齢女性特有の悩みを解決するのが今後の哲学の方向性なのだろうか?
カントが「永久平和のために」を記したのならば、この「ネズミの救済」は論点にならざるを得ない。
50歳以上はふたなり、という私の議論と、女性は51.4歳で生理を終えることから、抜群のタイミングで、美智子上皇后は同世代のご婦人たちに「悩み」を打ち明ける格好となった。
ニーチェは、「悲劇の誕生」において、ネズミの救済を取り上げ、ウォルト・ディズニーは、ディズニーランドをそのような高齢女性のために作っている。
「夫をなくした翌日にディズニーランドにいた」という女性もいる。
ディズニーランドの木や山は、素敵な男たち、エリートを表現しており、アメリカではミネラルキングバレーの「ディズニーランド造成計画」は、「悲劇の誕生」を根拠に合憲判決が下されている。
私は中学の卒業旅行は、東京ディズニーランドであったし、留学の卒業旅行は、ロサンゼルスのディズニーランドであった。
「いつかカントやニーチェが分かってくれれば」という大人たちの願いが込められていた。
ribbon 卒業旅行


カントが「あそこの婆さん怖いから気を付けろ」と言ったときに、「国家の資金の流れ」が決まった。
カントは、「女心」を探求し「プロスポーツに生かす」ことがライフワークだったが、「怖い婆さん」だけは、自身の政治活動の障害物だった。
そこで、ニーチェはのちに「ディズニーランド」を構想したが、カントは、「ボールパーク」(野球場)を想定していたようだ。
ボールパークの婆さん。


カントのポリシーは「処女をうまく使う」「頭を使う」というものであり、その上で「勃つ」のが男であるとし、「カネで治める」ことで体系化されている。
この体系こそが「実践理性の定言命令」と呼ばれるものだ。
そのコツは、カネを最後に婆さんに集めて放出させる、というものだった。
男だって女だって、最後に頼るのは「婆さん」だということを知らなければならなかった。
おカネの動きは決して「男性的・合理的」な動きはしていない。
カントは、自分がいくらおカネを儲けても、怖い婆さんに乱暴かつ非合理的に浪費されていくのを見た。
「予算編成」など女の仕事ではなかったのだ。
予算法律説はここから生まれている。
予算をうまく組んだ者を、「上流階級」と呼び、それには男が関与する予算法律説を採用しなければならない。
予算法形式説でも、予算行政説でもない。
この順番に「階級社会」というものは出来上がるからだ。
私は東大ボクシング部(大学3部リーグ)で、予算担当の三年生が自分のマンションやバイクを購入しているのを見ている。
カントは、しかし「女も四人集まれば男と変わらないね」とし、福祉の文書家(法律家)・会計家を間にいれれば、「乱暴なおカネの使われ方」は防げるとしている。
おカネの使い方における「怖い婆さんの独裁」だけは予算行政説であり、最貧困層の考えることだ。
美智子上皇后にはこのような「テレビに出ている私が使い道を考える」という予算行政説の発想がある。
男がちんちんに値段をつけるのならば「上限はない」と言っていい。
それを理解しないのが予算行政説であった。
主権(予算を決めること)を法律としない限り、天皇にその「公布する」権能はなく、美智子上皇后が予算行政説にまかせておカネを浪費している限り、宮内庁は三流官庁・最貧困層であり続ける。
最後には「社会契約論」に答えを見いだすしかない。
「うちの会社は一流だよ?三流だよ?」それだけの違いだ。
リクルートメントに救いを見いだすしかないのだ。
「アニキ、強いってどんな気持ちですか?」
予算法律説が一位、予算法形式説が二位、予算行政説が三位、それだけだよ。
一家に一冊「憲法」が置いてあるのならば、天皇が「予算を作る」訳ではないが、予算法律説にしたがって一家の大黒柱や、誰よりも強さを探求した主将が、予算を「公布する」必要がある。
さて、「予算」について話したが、「一流家庭」と「三流家庭」の予算の違いが明かになった。
そうなると、やはり見えてくるのは「芸能界」(公務員)の世界であろう。
公務員は皆、テレビに出演し、まるで話す言葉がすべて「詩」のようであった。
しかし、いざ「人権」となると閉鎖病棟で看護士に反抗し、他の患者に「こんな奴やっちまえよ」と発言するなどの「煽り行為」に違法性を求め、さらに看護士に反抗することへの違法性を求めていた全逓東京中郵事件のような、「主婦層が芸能人におおらかだった時代」を終え、全農林警職法事件においては、「公務員の一切の人権」に司法(恋ばなをする世界)は心を閉ざしたのだ。
ニーチェは、ワーグナーと若い頃はピアノの腕を競いあったが、いずれそれはワーグナーという天才への尊敬に変わり、最終的には哲学に目覚めている。
モーレンドルフは、のちに歴史的評価を見てからではあるが、「ニーチェの膝元に豹や虎がひざまずくであろうと思った」と語っている。
勉強ができない、それが理由で「私を快楽のため、そしてあなたの面倒を見るために使ってください」と言える。
これが「女」であることの告白である、という意味すらわからずに1970年以降の世代は歌を歌っていた。
大人のいう通りにしなければ生きていけない。
でも、トーク番組に出なければならない。
このことから「恋ばなの得意なおっさん」の話を熱心に聞いた。
愛の炎 田中れいな


 


1970年生まれ以前の男は「ふたなり」であるということも一部の風俗上がりの女しか知らなかった。
若い女のなかにはそもそも「ふたなり」「シーメール」という言葉すら知らないものもいた。
「五分間のパフォーマンス」で「人生の結論」を歌わされたあとには、知識への渇望と、落ち着かない人間であるという残酷さ(人間、あまりにも人間的すぎる)が残された。
私も、東大に受かったあとにアカシジア(体を左右に揺する症状)が止まらなかった。
東大生と芸能人は同格であったし、合格発表とアイドルの「五分間のパフォーマンス」は同じ意味をもった。
「結論が先、知識はあと」
これが「悲劇の誕生」という意味である。
ニーチェは、ツァラツストラはかく語りき、において「ありとあらゆる醜い男」を描いている。
「これが東大生の悲劇の誕生よ?」
優秀な後輩すら、東大を避けるようになった。
「醜い男と、美しい女」が共存する、これが芸能界だった。
キルケゴールが「読め」と言った本を読むのはニーチェも同じだった。
即位の儀式を終えた令和天皇は「汚い歯をしてタバコ臭い部屋」にいた。
「結論が先、知識はあと」
このような「悲劇の誕生」はまだ免れた部類だろう。
あとでゆっくり歯の治療をすればいいのだ。
ブレーンがいる、などという「夢物語」が「悲劇の誕生」を誤魔化すために用いられている。
そんなブレーンなどいない。
新ドイツは、「悲劇の誕生」とともに作られた。
それにしたがわない指導者など存在し得なかったのだ。
「悲劇の誕生」を知らずに、「完全に潰したと思った」と語る主婦もいたが、「休養とそれにともなう復活」に怯えた。
私が語った「ネズミ」は、美智子上皇后のことてあるが、あの婆さんとて「結論が先、知識はあと」という世界に放り出されて、しかも「キルケゴールが読めといった本を読まなかった」のである。
その姿は「滑稽な芸人」に過ぎなかった。
しかし、シラーは悲劇の誕生と、それからはぐれた「滑稽な芸人」を歓迎していた。
なにもかもうまくいく、そんな女に寄り添うつもりはさらさらなかったのだ。
いわば、「キルケゴールが読めといった本を読まなかった」人間たちが芸能界を盛り上げた。
中森明菜 リフレイン


のちに「悲劇の誕生」と直面する羽目になる男たちも「深刻な歌」を聞いて言葉が豊かになった。
シラーの詩に、カントまでもが「俺はそういう気持ちが分からないんだ」とファンレターをよこした。
カントからの手紙は「カリラスレター」と呼ばれ、女心というものをいっそう深めることになった。
令和天皇がカントだとするのならば、上皇后美智子はシラーだったと言える。
「うちの王子は、殺すと脅かすとものすごく悲しい歌を歌うのよ」
皇族全員が中森明菜のリフレインを覚えた。
「いじめられる痛みは、失恋する痛みと同じなのかしら?」
無敗の王者であるカントも、いじめられる痛みならばいやというほど知っていた。
CoCo 優しさに帰れない


自然災害の猛威や、人々の恐怖に共感できる人になってもらいたい、それが「滑稽な芸人」に映った女性の気持ちであった。
秋篠宮眞子も、「ショパンの雨だれ」を「好きな曲」のひとつに挙げている。
ショパン 雨だれ


悲劇の誕生、つまり「結論が先、知識はあと」という立場におかれたものは「悲しい旋律」を好む。
カントからの「カリラスレター」は、女の悲しみを知るとますます「女心」の研究が深まった、と深い感謝の言葉が記されていた。
カントは「女の悲しみ」を知る必要に駆られて「エステティックレター」と呼ばれる一連の手紙もよこすようになった。
「私は今、女の悲しみの研究に没頭しています」と書かれていた。
ribbon さよなら


カントからの手紙は20通以上におよび、24通目では「私の寿命が伸びました」と記されていた。
カントにとって「勉強しすぎて失ったものが、女らしさ、だったということがバレたら大変だ」という思いがあったのだろう。
「なんにも知らず無邪気に生きている女」を口説くのは、カントにとっても喜びであったし、私も、1970年以降に生まれた女が「ふたなり、両性具有」という言葉すら知らなかったことは、驚きでもあったし、楽しかった。
ショーペンハウエルは、「結論が先、知識はあと」という悲劇の誕生を受け、「没頭するからファンができるんだよ」としている。
この考えに、ニーチェ、ワーグナー、ブラームス、フロイト、ヴィトゲンシュタイン、ホルクハイマー、ハーディ、マン、リルケ、プルースト、トルストイ、マーラーなどが影響された。
その「道」を極めるために、気がついたら「世の中のだれともつながっていない」状態にすらなった。
数少ない友達は大事にした。
酒井法子 風邪


世の中の「知識」はすべてがすべて「人気のあるもの」ではなかった。
「結論が先、知識はあと」
それが東大生であったが、駒場には「結論」すら得ていない左翼が学内をうろちょろしていて、恥知らずのようにビラを配っていた。
「俺は中卒とどう違うんだ?」
そんなことすら考えた。
しかし、女たちはそうは思ってはいなかった。
「東大生」
それは憧れだったのだ。
「結論すら得ていない左翼はどうせ、俺、頭悪いからと言い訳をするからね」と女たちは見ていた。
「お前が東大に受かった時は、一族が沸いたな」
周囲がそのように「結論」を与えるものだから「没頭すること、知識を得ることは宿命」とみなされた。
「結論」がある以上、食い物にも酒にも困らなかった。
あとは「今の時代には何もない」というような「大人たちの無責任」だけを回避するだけだった。
悲劇の誕生、それは「天才と気狂いは紙一重」とするものだ。
少なくとも、平成の法律学者は無責任だった。
「司法試験の受かり方」は教えてくれても、女一人口説けない、芸能人(公務員)に通用する話ができなかったのだ。
「悲劇」それは時代が生み出すものであり、英語さえできれば、かなりの部分は克服できるものだった。


女には「仲間・女友達」が大勢いた。
美しいからだを比べあい、男の快楽の対象となった。
二人の女がいれば必ず「体を比べあって」いたのだ。
そのため、セックスとは女にとって「仲間を代表して」行われるものであった。
ribbon Virgin snow


すべての女の「からだ」は、印象に過ぎなかった。
女の多数派工作からもたらされたものだ。
女の多数派工作の動向次第でセックスの気持ちよさが変わったため、その多数派工作は熾烈を極め、男の仕事は横浜ウォーカーで「おいしいお店」を探すことだけになった。
仲間の多い女はとにかく「気持ちがよかった」ために、男は「おいしいお店」を覚えたのだ。
酒井法子 天使の館


気持ちいいセックスのために男が生きているとするのならば「横浜ウォーカーを読む」のが正解だ。
東京ウォーカー、横浜ウォーカーだけで気持ちいいセックスが約束されるのが男だ。
「悲劇の誕生?」
結論が先、知識はあと?
そのような学歴社会、身分制社会をも揺り動かしたのが「おいしいお店」だった。
女は女友達が多ければ多いほど「いい女」「気持ちのいい女」だとするのならば、ヒュームは「悲劇」を嘲笑った。
長嶋茂雄のように「腹が一杯になれば幸せ」という男は、とにかく努力家でなければならない。
読売ジャイアンツドラフト一位ならば、おいしいお店なんて覚える暇もない。
悲劇の誕生をヒュームは「おかしいな、セックスさえ気持ちよければいいのにな」と思ってみていた。
「外食産業の売上」は、「女の多数派工作の動向」を示していた。
外食産業の売上が落ち込むと、女たちが孤立感を高めたことを意味する。
それは、悲劇の誕生でもあり、令和天皇のように「知識を求める生き方をしたい」と思うのならば、「セックスよりも気持ちいいものがある」と男たちが考えたことを意味する。
酒井法子(1971年生まれ)は、1970年以前に生まれた男が「ふたなり」であることを受けて、
知識を愛する(ソフィア)者が男であるとし、ソフィアを持っている男とそうでない女の関係を「愛情」と呼び、ソフィアを持っている男同士、持っていない女同士の関係を「友情」と呼んだ。
酒井法子の特徴は、「上の世代に心を閉ざす」というところにあり、時代の過渡期に「友情などよく分からない」としている。
酒井法子 オールライト


男を愛することは、知識を愛した男(ソフィア)を愛することであり、ribbonの永作博美(1970年生まれ)は、「愛情と友情を比べることなんて出来ない」と歌っている。
ribbon 君ならば大丈夫


プラトンは友情を「リシス」において、愛情を「シンポジウム」において語っている。
松田聖子(1970年以前)となると、娘とて「子供の頃は少年」に見えたのだろう。
アレキサンダー大王は「少年愛」が知られているが、どの子供も生まれたときはみんな少年であり、勉強ができないことから「私を快楽のため、あなたの面倒を見るために使ってください」という「告白」を経た上で「女」として認定してきた。
このことから「愛情と友情」論争も始めなければならなかったのが世界史だった。
松田聖子 時間の国のアリス


ソクラテスは「裁判」(ソクラテスの弁明)を終えて聴衆の喝采を浴びたあとに、監獄に戻った。
囚人仲間のアルキビアデスが「あなたのような知恵があれば」(ソフィア)と言ったことから、ソクラテスとアルキビアデスは激しく愛し合った。
1970年以前に生まれた男にとっては「愛がすべて」という言い分は当然なりたつのだ。
ハウンドドッグ フォルテシモ


年配の女性にとって「根性なし」の男を「ちんちん切れ」というのは常識であった。
ミシェル・フーコーが「愛」という概念にとんでもない影響力をもったのは明らかであった。
ビートルズ All you need is love


台風撃退の歴史を知らないと「宗教史」を見失う。
ミシェル・フーコーを知らないと「文化史」を見失う。
知識を愛した者、根性のある者以外に「愛される資格がない」というのが「男の歴史」であった。
職場における「男女別コース」も合憲とされている。
年配の男性芸人の中には「ウォシュレットのビデが気持ちいい」と赤裸々に語る人もいる。


源氏の君は「紫の上」という「少年」にご執心だった。
この頃から「風呂に入っていない、靴を履いていない、美しくない」少年が、「愛されるために」志すのが学問であるとされるようになった。
そのような意味では紫の上は「美しい少年だった」ものと思われる。
美しさのために美を捧げるのが男とも言われ、哲学を学ばない男は、そもそも「世代間ギャップ」を埋める力量がないのだ。
アレキサンダー大王の「少年愛」は、今で言う「美少女マニア」という意味であった。
知恵の分だけ男は勃起する。
学問を志すかどうかで、クリトリスがおちんちんと呼ばれるようになるかが決まった。
水を浴びると少年が美少女になるというのは「黒いシャリオット」と呼ばれる少年の現象であった。
さて、「神・男の完全性を語り合うと爽快感がある」「男らしさを語り合う論壇のことを宗教という」ということの意味が理解していただけたであろうか?
また、美少年が失っていくものの代わりに得るものが男の魅力ということの意味が、世界史においてどのような意味を持つのかも明らかになった。
また、紫の上は「パトロンがいたから髪を伸ばした」とも言われ、
ミシェル・フーコーの「1970年」以降の女で髪の短い女は「未成熟な膣に挿入を受けた」あるいは「そもそもおカネに酔っている」と言われた。
しかし、アダルトビデオ産業は「勉強という名の宗教」を背景に、1970年以降に生まれた男たちに「手術」を施して巨大なロッドを競い合わせた。
自分の学識に自信のない男の子たちは、性に奥手になり「草食系」と呼ばれた。
「東大に入ってもこのサイズだ」という達観が求められる。
幼い頃に「しゃぶらされた」少年は「フルートガール」と呼ばれ、「女として生きるという結論が先、知識はあと」という「悲劇の誕生」を経験した。
ミシェル・フーコーによって「性の簡略化」が行われるまでは、このような強烈な「知識崇拝」があったし、「男性崇拝」(宗教)が存在した。
「男でなければ天皇は務まらない」
それは、予算の公布の都合のみならず、資金力が違ったり、予言力が異なったり、さまざまな理由がある。
ミッシェルガンエレファント パンテオン神殿に「理想の男」を祀り、シェークスピアは、男たちが「女心」を理解して、予言を行うというストーリーを練った。
「リア王」は、女心を理解しない暗愚な王として描かれ、「リチャード二世」から「リチャード三世」までのつづきものは、「なぜ王朝の断絶がイギリスにおいて生じたのか?」を描いた。
チューダー朝のエリザベス女王は、常にリチャード三世を気にしていたし、「マクベス」においては、王家の女が犯されたことから、男たちが夜を徹して猛抗議を家の前で行い、明け方になってなんだか虚しくなったという話である。
「ハムレット」においては、「墓を荒らすシーン」が描かれ、地球は世界で一番美しい、生きていることそのものが美しいことを描いた。
これらの「パンテオン神殿とシェークスピア」は、理想の男と、そして「女心を理解すると王になれる、生きていることは素晴らしい、それでいて女として生まれることは時として悲しい」ことを巧みに表現した。
ribbon 愛してジャスティス


 


エロくなければ「文字」というものが人々に拡散されることはなかったし、日本語の「現代語化」は、賀茂真淵以降を「現代文」と呼ぶにしても、人々に分かりやすく、誰でも書けるようになったのはロマン主義文学のおかげである。
カントは「いかに女たちにモテるか?」(悟り)を研究したが、19世紀にはカントの人生をいかに「エロ」く描くかが問われ、人々は文字と日常に接するようになった。
「ミッシェル?なぜあんなことをしたんだ?」
フーコーがなぜ、男と女を「生まれながらに」区別したのか?
それはひとえに「現代文の完成」を受けてのことてあり、識字率の低い国ではまだ「1970年」は、訪れていないということも指摘できる。
日本国は「1970年」に、すでに準白人国家としてミシェル・フーコーを受け入れていた。
カントという「女を口説く達人」が王として君臨し、その生きざまをロマン主義文学が描き、文字の普及を見極めて「男女を明確に区別する」という方法がとられた。
世界史の流れは「女作りが先、男作りはあと」という展開をたどるのが定石であり、パンテオン神殿とシェークスピアは、それを実践していたわけであるが、フーコーは、かなり大胆に「ドン」と男女の違いを示したことになる。
移民政策は「男作りが先、女作りはあと」という政策であるが、フィリピンカトリックのように、三位一体を「神・勃起・女の癒し」という具合に、そもそも神概念に「女」が登場する宗教もある。
フィリピンの識字率から「男にだって女の側面はあるんでしょう?」という認識があるものと思われる。
とにかく、フーコーが「生殖腺」まで生まれたときから定めるまでは、識字率との兼ね合いから先進国とそうでない国が分かれざるを得なかった。
「文字は男」という割りきりのある女の子たちは、成績がよかった。
酒井法子 放課後のヒロイン


フィリピンカトリックがなぜ「神・勃起・女の癒し」を三位一体としたのだろうか?
フィリピンにおいてはいまだ「生まれながらの男女の区別」がなされておらず、勃起そのものが「知性崇拝・男性崇拝」であったのだ。
女たちは「勃起する男」を奪い合った。
Wink 愛が止まらない


エロい皇帝がいて、ロマン主義文学が流行しないと、識字率は上がらない。
日本国は、ロマン主義文学において、必死で「翻訳」の作業を進めたし、この辺りは明治天皇(ビスマルク・福沢諭吉・小野慎一郎)や、大正天皇(アインシュタイン・野口英世・小野達郎)がいなければ、「天皇ってどんな人?」ということが知られることはなかっただろう。
悟った人(モテモテだった人)ってどんな人?
これがロマン主義文学であり、明治天皇(ビスマルク・福沢諭吉・小野慎一郎)にせよ、大正天皇(アインシュタイン・野口英世・小野達郎)にせよ、本当に日本に住んでいたかは明らかではない。
とにかく「皇帝」は、国際人であったし、それが愛国主義とない交ぜになって「お墓」が残ることがある。
小野家の系図


私たちは「ヨーロッパの幻」を見ていたのかも知れないね。
どの家のお墓にも明治天皇(ビスマルク・福沢諭吉)、大正天皇(アインシュタイン・野口英世)は眠っているし、ロマン主義文学が残されているはずだ。
とにかく、日本語教育・国語教育の発達がミシェル・フーコーの登場を待った。
アダルトビデオを見て、子供を残す気がなくなった草食系の男の子などは、先進国特有の少子化問題を引き起こし、アメリカプロテスタントも、少子化に悩み「優生学」というものを作っている。
しかし、識字率の低い国の「勃起崇拝」は、否応なしに世界の人口を増やし続けるだろう。
杏里 悲しみがとまらない


アンティゴネと、エディプス王がいたが、息子が「勃つ」ためには、「仕事をすること、勉強すること、いじめられること」の三つしかない。
中学生ぐらいならばアルバイトは禁止であろうし、「勉強といじめ」に、「男になるための条件」を絞ったことを意味する。
ラファエロの「システィーナの聖母」を見て「勃てば」男になったことを意味する。
仕事・勉強・いじめは、男の子が「男」になるために必要なものであり、他人を「髪型がダサい、歯が汚い」などと言いがかりをつけていじめている男は、とにかく「勃たなかった」のである。
瀬能あづさ 永遠に友達


「自由」それは夢がぶつかり合って身動きのとれない世界であった。
カントはシラーへの「カリラスレター」において、女性は「おちんちんを切られる」ことから鬱になり、辛い夜を過ごすが、自らは学問において同様の経験をしたと語った。
人生の目的は「ギリシャの神になることかイエス・キリストになること」ではあったが、女の子の思春期の「鬱」を理解するためには、男は「仕事・勉強・いじめ」で鬱を経験しなければならなかった。
「男は勃てばいいではないか?それ以外に目的なんてあるか?」
それほど「仕事・勉強・いじめ」を経験することは重要なことであった。
ゼウスとアフロディーテは、アンティゴネとエディプス王の、美しい息子と娘であった。
とにかくスポーツのようなシンボリックアートのようなものもあれば、異性の美を表現したロマンティックアートもあったし、「仕事・勉強・いじめ」によって生まれた男らしさを表現するクラシックアートもあった。
松田聖子 赤いスイートピー


シンボリックアートは、プロ野球を観たり、車を運転するなど「勃つ」ための芸術を提供してくれる。
「観客ため息」のような「人間の限界」を感じて欲しいという側面もあり、常勝軍団でなくてもファンは確実にいた。
「仕事・勉強・いじめ」によって生まれた「男」を表現するクラシックアートもあるが、鍛え上げられた肉体美のように、ゲイカルチャーに属するものもある。
ロマンティックアートは、そのような意味ではより健全な「勃起」を誘発するものであった。
「男は勃てば神」とも考えられ、そのために持ち家(建築物)のように形に残るものを必要としたりもした。
絵画でも彫刻でも、音楽でも詩でも、形に残るものには違いがない。
とにかく、ミシェル・フーコー以前は、「エディプスという父を持った息子ゼウスがどのように勃つか?」が芸術の歴史であり、今は、女の子アフロディーテとの区別が生まれながらになされているため、「アートとは男を作るもの」という色彩が薄れた。
アートの終焉とも呼ばれている。
田中れいな


しかし、カント以降の男たちは「常に迷いながら生きていた」ため、勃たなくなる男は普通にいたし、アートと疎遠になるのならば、文化のありようが問われることになる。
いじめをやる男は「太い便がしたいだけ、勃たない」などの理由がある。
一方で、街を歩いている女の子とセックスするのならば日経平均株価を支払わなければ犯罪(貧乏セックス)であり、家族ならばTOPIXを支払わなければ犯罪と呼ばれるように、勃つということが、おカネとの兼ね合いから「罪深い」「犯罪」とされることがある。
日経平均株価リアルタイムチャート

2019年11月 6日 (水)

宗教体験について。

宗教体験、それはもはやセックスと関わった概念であり、今となっては「いかに女性芸能人とセックスする夢を見るか?」という議論となっている。
女性の場合は「理想の男」「イエスキリスト」であろうが、ジャニーズは「女の子のおちんちん」に過ぎず、「理想の男」かどうかは検証を待ちたい。
とにかく、私は女たちを口説き続けた結果、激しい権力闘争の末、「杖をついて歩いている」のであり、それでもこの時刻になって街を歩いていると、自分の周りでフラッシュが焚かれていることがわかる。
「権力闘争」の挙句に「杖をついて歩いている」のだ。
このようなおっさんが若い女の子たちにニーズがあるかは論文を読まなければわからない。
とにかく「のぼり詰める」という経験が必要であり、「男の現実」を表現するものでなければならない。
女性芸能人とセックスする夢を見たいという男の子は「鏡の前で自分の裸を見ながらマスターベーションしろ」と私は指摘したが、
これはソクラテスの教えであり、デカルトの「瞑想」はとにかく「第5番の瞑想」というぐらいパターンが多く、どのように国民の「財布」を豊かにするかは明らかではない。
とにかく私は、徒歩5分のところにあるコンビニに行っただけで2度ほどフラッシュを焚かれたのだ。
もはや女性たちの目と耳は、目と耳ではなく「見る・聞く」ものとなっていた。
横浜DeNAベイスターズを横浜スタジアムでのクライマックスシリーズ開催に導いたりした「強さ」と現実を女性たちは知りたがったようだ。
健康な女性たちと「杖をついている男」が熾烈な戦いの後に残された。
女たちは写真のコメントに「プレスリーみたいな男を見た」と書いたため、私の評価は高まった。
さらに「彼は私の罪の代わりに杖をついて歩いている」という理解があったようだ。
モーニング娘。幸せですか


女たちの快楽の記憶を、一人で背中に背追い込む、これが「十字架を背負う」という意味だ。
なにか「確かなもの」「語ってはいけないもの」「激突してはいけないもの」が「杖をついて歩いている男」であり、国家の中枢においては「やらざるを得なかった」ことであった。
徳川家康は「見ざる言わざる聞かざる」であった。
本気で自分を殺しに来た連中のことを思い出させてはならない。
マルクスは「プロポーズという名の全体主義」からの脱却を試みたし、フロイトはもっと若い女の子たちを相手にしていた。
しかし、「普通の女たち」を相手にしたのはカントだろう。
私も即位の礼を終えてこの状態であるが、3年連続日本シリーズ制覇した孫正義はもっとひどいことになっているだろう。
お公家集団を相手にしていた私とは異なり、孫正義は「山口俊のストレート」を相手にしていたのだ。
私の発言をソフトバンクのスマートホンで読むのは自由だろうが、私はソフトバンクとは何ら契約のようなものは交わしていない。
いずれにせよ、仏教もヒンドゥー教もジャイナ教も「テレビ」がなければ成立しない。
「どのように快楽に満ちた夢を見るか?」にしか興味がないのだ。
儒学は「周王朝を滅亡から救いたかった」男の物語であるが、日本国を滅亡から救いたかった「男」は、もはや論語ではなく西洋の哲学書を読んでいた。
人生の三分の一は睡眠だとするのならば、国民により快楽を与えるのは「夢を制すること」なのだろう。


右翼の歴史は「街で指を指されて笑われる」歴史であった。
少なくとも、私は高校時代に三島由紀夫に傾倒し、「楯の会」という名前を知っていたため、「大日本楯の会」というペイントがなされた右翼の街宣車を見て指を指して笑った。
しかし、建築や芸術、哲学、映画、環境問題、言語学、文学、政治学などは「右翼によって」作られている。
右翼思想にかぶれ、中央公論社の社長宅を訪問し殺人事件を犯した男がいた(風流夢譚事件)。
この時、家庭裁判所は「矯正は困難」と判断し、少年だった男を起訴している。
しかし、法学や哲学、経済学をやっている私も、「指を指されて笑われている」ことに気がついた。
そもそも「笑い」というものが「性欲」から起きるものである以上、インドや中国に「右翼」という言葉をもたらしたサルトルは、いいクリエイターであったし、言葉の感覚が鈍った思春期の女の子が「右翼的発言を暗記する」というアクティビズムは正解でもあった。
少なくとも、ボーイフレンドは「恋は楽しいもの」と考えたし、後々になって「お前の言っていたことは正しかったわ」と元彼が電話してきたりする。
八月、最初の水曜日 渡辺満里奈


鬱病の患者が「ドイツ第三帝国」などという書籍を好むことは知られているが、高校生にとっても「理解するのに苦労しない」ものだった。
教科書をまともに読むと下痢をするという女の子も右翼が大好きだった。
脳にダメージを負った男が、アドへマー・ゲルブや、カート・ゴールドシュタインの本を読んでいるのを見て、メルロ=ポンティは、「右翼とは何か?」を悟った。
カントが理解できず、それでいて「カントとは何者か?」を語る連中のことを右翼と呼んだのだ。
いわば、哲学者イエスキリストの肉声を聞かずに、「イエスキリストとは何者か?」を語るような行為が右翼であり、聖書は常に自由民主党の側にあった。
哲学書を読むのならば下痢をするけど、聖書を読むのは疲れないという女性がいてもいい。
しかし、それでは聖書は「予言の書」となってしまうし、敬虔なキリスト教徒が「権力闘争こそが磔をもたらす」ということを理解するにとどまる。
国家基本問題研究所


いつ、カントが、何を、どのように「取った」かを語る結果論のようなものを学習するのが聖書であり、右翼であった。
メルロ=ポンティにも見るべき業績はあった。
米ソ冷戦の時に、「弁証論に基づいて両陣営をぶつけてみよう」と考えたのだ。
弁証論は、「ぶつけるのならば新鮮なうちに」という「発見」をもたらした。
キャリアが斜陽に向かった時に「狙い撃ち」したのでは意味がないことを悟った。
どちらの陣営もがビッグマネーを背負っていた方がいい。
オスカー・デラ・ホーヤ


サルトルは、右翼と左翼という言葉を考えた張本人であるが、「人間というのは結果(物自体)しか見ていないんだよ」とし、女たちも「結果」にいかに関与するかを争っているとした。
ラブパッション レベッカ


いわば、最高裁判例を研究するのを実体的憲法観と呼び、その「結果」ではなく、もっと女たちの肉声に迫ろうとするのをプロセス的憲法観と呼んだ。
男が「勃起する」「ノンケである」ことをライバル女から確かめてから略奪する「仕方がないじゃない、わたし神の子なんだから」という
信教の自由の存在などがプロセス的憲法観からは深めることが可能だ。
女二人がラブパッションによって争ったオフィシャルレコードを追ってみたところで何があるのだろうか?という考えである。
Wink 愛が止まらない


サルトルは、物自体(結果)というものはヒューマニズムなんだよ、としている。
その人の名前と、議論する理由、心、いじめ、そして、女心への理解度(政治)を踏まえた上で、さらには芸術と哲学への造詣の深さを踏まえた上で「物自体」(結果)を決めているとした。
とにかく「プロポーズを頂点とする全体主義」を理解しなければ何も始まらないのだ。
女は彼氏と付き合っていくうちに、自分は凡人になるのか?彼氏が子供に興味を持ってくれるかな?家庭に縛られるのかな?と態度決定を迫られる。
BoA Is this love?


デカルトの「芸能人とセックスする夢を見る方法」や、カントの「口説き文句」の研究、さらにはベルクソンのように「人間がひとつになるわけがないじゃないか?」という議論(ベルクソニズム)を経て、最終的には「物自体」(結果)を語るしかないんじゃないか?という境地に至ったのだ。
それは「自分の世界の広さ」(現象学)つまり「顔の広さ」を誇るのが哲学者であるというフッサールやハイデガー、シラーなどの「現象学」へと議論を進めた。
もっとも、「カントほどの人生の成功は収めていない」のが政治の世界となってしまった。
サルトルがいつハイデガーと接したかは明らかではないが、どの男の子も「若さを無駄にする時期」というものがあり、それを「存在と時間」によって明らかにしていたが、
サルトルは「せめて子供たちの記録をスコアブックに残そう」と考え、これを「存在と無」によって「物自体」(結果)と呼んだのだ。
ハイデガーは、目的を持った男はダサい、と語っていたが、サルトルはそのことに強烈な挑戦状を叩きつけた。
サルトルは「政治家のように振る舞え」とし、若者たちもやたらと人をオルグしたり、子供の頃の記録を大事に保存したりしたが、「若い頃はハンサムでモテていいよな」という割と冷めた政治の見方をしていたとも言われる。
「俺は一生結婚できないんじゃないか?」
そんなことに悩む、国の希望が、「共産主義という生き方」を知らないんだよ。
戦後、ドイツにおいて、サルトルの物自体(結果)を残すことしか政治の世界ではできない、としたことに対して、「フランスは自信をなくした」と大々的に報じられた。
カントと互角にやり合ったルイ16世を殺していたことから、フランスでも「フランス革命とは何だったのか?」と語られた。
また、「我々は物自体(結果)があるから頭を使うんじゃないか?」という指摘も行っている。
勃起する二人の男が争うんだよ。
どちらかが負けてオリゴ糖を飲む羽目になるだろう。
若い頃はビックルとかヨービックに夢を感じなかったか?
サルトルは「詩というものは閃きなんだ」とし、それを生かす作業の方が大変だとしている。
女はパートナーをコミュニティから離さないためにセックスしている。
ribbon レディラブ サルトルは、物自体(結果)を出すために必要なカントの知識(女を口説く知識)を「集列体」に過ぎない、としている。
大人たちが集列体を扱うのはわかるが、プロスポーツ選手は「別のこと」を考えているとし、それはそれで「大人たち」も異論のないものだった。
大人たちは「集列体」をめぐって大喧嘩をしていたのである。
また、サルトルは「物自体」(結果)の奴隷になるなよ?と警告を発している。
物自体(結果)の奴隷は、本物のナチズムだよ。
なにしろ若者は「プロポーズという名の全体主義」を生きているのだから。
この「若者の芸術作品の全体主義」を「スポーツの全体主義」につなげる発想を「マキャベリズム」と呼び、その経験値の低さを批判した。
1930年代は、みんな「左翼」だったよ。
記録が残らないんだからね。
哲学と音楽作品の独壇場を目の当たりにしたんだ。
しかし、1956年にソビエトがハンガリーを侵略した時から物自体(結果)というものは政治の世界で知られていたり1968年のプラハの春でも、ソビエトは「結果責任」を引き受けていた。
かなり乱暴に、集列体(カントと音楽作品)を支持する連中を「大文字の他者」(赤子のような存在)と指摘した。
ハンガリー動乱やプラハの春を見て、サルトルは「社会主義は乱暴だ」と指摘している。
「プロポーズという名の全体主義」の支配下に国家の戦争が位置付けられ、サルトルは「マキャベリズム」「大文字の他者」などとあらゆる批判の言葉を浴びせた。
ribbon Virgin snow


つい先日まで、私自身が物自体(結果)の奴隷であり、プロポーズを頂点とする全体主義も考えたが、サルトルは「それは社会主義だ」としている。
さらには、21世紀に入り、サルトリアンは、「結婚からはぐれた共産主義者や次男を何とかしてほしいね」と語るようになっている。
若者は、結果(物自体)を持たなかったため、父と息子の関係(神は死んだ)という問題と直面した。
父はすでに結果(物自体)を持っていたが、息子はそうではなかった。
父が息子の結果(物自体)に協力できるのは息子が「25歳になるまで」だとも言われ、それ以降は「同じマーケット」で女たちと共存していくため、サルトルの「実存主義」は、世界の広さ・顔の広さ(現象学)と直結した。
父に潰されそうになって街をさまよった男が「仲間」を集め始めたら、そのハンサムな顔を見ると「父を圧倒するのは明らかじゃないか?」と思われた。
実存主義は、現象学と結びつくのが必然だったのだ。
ミスターチルドレン


このままでは俺は親父に潰されてしまう!
そんな男たちに「実存主義芸術」が提供された。
「なぜ現象学に向かわないんだ?」
カメラ技術を磨いたり、原稿を書く腕を磨いたり、ファンクラブを運営すると仲間が増えるだろう?
帝国大学に受かった男が「学者」になることだけを父は夢見ていた。
新派の舞台に興味を持つのならば、miwaのファンクラブを主宰するという方向に向かうのは必然であっただろう。
miwa


しかし、隣の男に「おたく」と話しかけるぐらいにしかコミュニケーション能力はなかった。
「オタク」の誕生だ。
miwaも、昔のCoCoも、そのような「草の根の実存主義者が現象学に向かう」つまり私設ファンクラブを乱立させる方向を見ていたはずだった。
カメラ技術を磨く、原稿を書く腕を磨く、原稿のセールスを伸ばす、時には人生相談のようなこともやるという意味では、私設ファンクラブは、「就職の入り口」であったし、一度は実存主義芸術が目当てで知り合ったものたちが、「父と息子の関係から人混みをさまよい、ここにたどり着いた」ことを正確に発信する「原稿の腕前」は、ヨハネの黙示録とも言われた。
「誰々の息子」「誰々の息子」そのような記録は聖書にあるものであるが、私設ファンクラブにあるべきものだった。
隣の男に「おたく」と話しかけるか「お父さん元気?」と話しかけるかが社交界との違いに過ぎなかった。
CoCo 夢だけ見てる


なぜ聖書に「誰々の息子」「誰々の息子」と長々と書いたのだろうか?
司法試験に受からなくて鬱屈した日々を過ごしているのならば、私設ファンクラブで「誰々の息子」という記録を書き始めた方が、よっぽどカネになるし仕事になる。
カメラぐらい親父に買ってもらえ。
男同士でも「横のつながり」をもてれば、若さを無駄にする時期は不幸でも何でもないのだ。
わずか5名の「美しい女たち」をめぐってできた組織だろうが、男仲間に憧れて女たちも寄ってくるものだ。
「親衛隊」というものは、事務所が「最大派閥」を公認しているだけだ。
なぜ、ニーチェを理解しないのか?
父と息子の関係を理解しないのか?
実存主義芸術が現象学に向かうのは必然だった。
親衛隊が「誘導灯を使うのは俺たちの専権だ」と言って12名で取り囲んできた。
人生相談・生活相談の原稿の「腕」がまだ未熟だったと諦める他はない。
就職や資格を取るだけが仕事ではない。
ニーチェの「神は死んだ」を理解し、克明に「父と息子の記録」を書くことそのものが仕事だった。
CoCo なぜ


そんな私の前に、質素で目立たない格好をした郵便局員の女が現れた。
これが遠野舞子だった。
遠野舞子 ミスターサブマリン


文字通り「質素で目立たない」女だったので相手にしなかったが、実存主義者と現象学の「現実」を私ものちに知った。
精神病院で「質素で目立たない」AKB女を見て「あの系統か!」と気がついた時にはすでに40歳を過ぎていた。
司法試験から逃げたら人生おしまいだ、と思ったが、肝心の法律学が立ち遅れていた。
立ち遅れていた法律学に縛られて、ニーチェを理解しなかったのだ。
どっちが「世界のスーパースター」なのかをよく考えなければならなかった。
ファンクラブの会報も「よく練られたもの」でなければならない。
要するに「実存主義とは何か?」をひたすら書くのだ。
そのような言動をしていたら家族として受け入れることはできない、ということや毒物の存在など、通常は理解できないことを書く。
詩の解釈にも抜群の力量を見せ、事務所やレコード会社に一目置かれる。
所詮、CoCoというグループそのものが、留学や東大文一合格という早熟な側面があった私のように「私たちも夢が見たい」と考えて作られたグループだった。
エロビデオを見て「女が嫌がっているじゃないか?」と考える政治的弱者がいる。それに悩む女がいる。
CoCo メロディ


このような「オタクカルチャー」が生まれたのは戦後のことだ。
ボーボワールや、メルロ=ポンティ、アルバート・カミュ、ハイデガー、ヤスパースなどの哲学者のみならず、ドストエフスキー、カフカ、イプセンなどの小説家も生み出している。
「我らの時代」とは何だったのか?
それは哲学書や小説に残されている。
アイドルは、「正しい神」を信じ「恋に詳し」ければ成り立った。
しかし、それを取り巻く男たちは、これほど偉大な人物たちで溢れていたのがヨーロッパの「オタクカルチャー」であった。
私の場合は、読売ジャイアンツの桑田真澄が「短答式試験に受かった」と報告をよこしたのが印象的だった。
プロ野球のピッチャーとして適当に女遊びをしていた方が受かりやすいのかと今となっては思っている。
Melody 世界中の微笑を集めてもかなわない


また、Melodyのイベントの会場には、いつも最前列のど真ん中の席を、麻原彰晃が陣取っていて、カメラを構えていた。
どの男たちも「若さに対して悪意が加えられている」ことを感じていた。
「将来のある若者」であろうと、正規雇用の壁は高く、大学三年次の就活を逃したら、人生は詰んだものとみなされていた。時代が「哲学」を見失っていたのだ。
「周りにいる男たちが財産なんだよ」ということを語る論客もいなかった。
アブラハムが「息子のために犠牲になる」というのは「自己批判」と呼ばれる「昔の自分を思い出す」営みであった。どの哲学者もどの小説家も、自己批判をしていたし、
「オタクカルチャーを偏見に満ちたもの」と位置付けていいわけがない。
ビジネスチャンスがそこにはあり、青年実業家の卵が大勢いるという認識に改めなければならないのだが、それはひとえに文壇の責任と言っていいだろう。
「最近の若者は」という発言は「テロ」以外の何物でもなかった。
ドストエフスキー、カフカ、イプセンだけはテロを行わず、若者に愛情を示したため歴史に名が残った。
ドストエフスキーは、カラマーゾフの兄弟において、イワンに「親父という神が死んだらやってはいけないことは何もない」と語らせている。
親父から生を授かるというのは「神聖な罰」であった。
神聖な罰から「権力への意思」は生まれる。
病気の動物は、「将来という名の妊娠」をしていた。
将来には健康と強さ、そして地球の重力という悪意があるだけだ。
プロポーズという名の全体主義において、「結婚よりも大事なもの」が物自体(結果)として残せれば、おのずと彼女にプロポーズするだろうとされ、しかし、ニーチェは、「それはカントを学ぶことであって、俺には関係ない」というニヒリズムの立場だった。
「誰々の息子」ということはニーチェが語ったが、カントに対してニーチェはニヒリスティックだったのだ。
私のようなおっさんの自己批判(昔の自分を思い出す)という作業は、常に自己疎外(自分と世界がかけ離れている)と向き合わなければならない。
自分と世界がかけ離れ、そこに「若者への悪意」が加えられたら、かなり厳しい試練になる。
桑田真澄も名球会には入れなかったし、麻原彰晃は国家には敵わなかった。
それでも「ナイスガイ」でいられるのだろうか?
薬を飲み、かろうじて正気を保つのが精一杯だったではないか?
「本物」
それは、常に実存主義とは何かを理解している指導者の言葉と接することだった。
現象学(世界が広い・顔が広い)と言っても「俺は子孫を残せるのかな?俺は動物なんじゃないかな?」と考えると頭がボーッとしてくる。
身だしなみを整え、ゆっくりと休養してみることも必要だ。
ダイヤモンドブルー 酒井法子


桑田真澄が球界ならば、麻原彰晃は宗教界であったし、私は法曹界であった。
そこで「もうこれ以上ギアが入らない」と考えたからアイドルのイベントに顔を出したのだ。
みんな「心配事」を忘れたかった。
集中しただけの結果は出せたが、カントのように「女の子を口説く」だけの余裕はなかった。
20世期実存主義を桑田真澄や麻原彰晃とともに経験できた法曹界の住人は私ぐらいではないだろうか?
みんな「先生が言っていたこと」を答案に書くだけだったからだ。
「何が間違っているのか?」を明らかにした小野臨調のようなものは到底作る能力がなかった。
結果(物自体)が出せなかったらどうなるんだ?
プロポーズという名の全体主義において、男が「何者か」にならなければ、一生独身の共産主義者になるのか?
それは、大人たちが「人生の瞬間」をうまく切り取ってくれるはずだ。
「絵になるシーン」をセールスにかけてくれる大人たちがいる。
とにかく「集中」することと休むこと、身だしなみを整えることを思い出し、「おのれ20世期実存主義を知らんのか?」と後輩たちを「呑んでかかれる」ほど努力することだね。
ハーバードロースクールなどでは「本物」という言葉が知られている。
本物とは「版権の強烈な起源」のことを意味し、一方で「信頼できる心の風景」のことを意味している。
今の「私」はどこからきたのか?
女心にどのようにして興味を持ったのか?
最後に「どのように多くの強者をのしてきたのか?」をも示している。
みんなが真似して「仲間を作り」「自分を見つけ」「物事を解釈する」ことができる生い立ちがいちばん人気がある。
欲望に忠実で、それでいてやる気が出て、そばには音楽作品と彼女がいる、スタンフォード大学が最後に目指したのは「人づくり」「理想の人間作り」の研究だった。
BoA This is who I am


その際に忘れてはならないのが、誰しもが「伝説」をまとわない一人の人間である、ということだった。
社会契約を結べるような境遇、つまり「私もオタクなんです」と言えるような人物像が見えればよかった。
隣の人を見て自分の道を確かめるような世の中では、指導者の肉声ほど貴重なものはなかった。
「つまらない軍務についた英雄」
ハンサムなだけのブルジョア出身の正直者。
姪のプロデューサーまでやってしまう「優しい」おじさん。
奥さんがなぜこの人を選んだのかが分かる人。
いろいろな褒め言葉が存在した。
遅咲きながら、どのようにみんなにボコボコにされて己を確立したのかが分かる人がいちばん信頼できた。
常にタバコを吸っている文化人だということは知っていた。
どのように世論を拾い、進む道を「すでに舗装されているかのように」進むかが大事だった。
ただ「カネにモノを言わせる」だけではなかった。
周囲も人間だったからだ。
「勉強っていうのは基本的に難しいものだ」
それでも「勉強」というものを「案外楽しいものだ」と楽観論を持つことも必要だ。
このような「スタンフォード式」は、カリフォルニアカルトとも揶揄されたが、支持者が多かった。
「音楽作品の拡散力に期待しているんだ」という人もいた。
女心を全て解明したと豪語した時に、業界は「音楽作品の伝達メカニズム」の再編を進めた。
私も仕組みは知らないが、今の音楽作品の拡散力は、私が考えた垂加神道に合わせて拡散されている。
ただやみくもに作って売るのではなく、拡散方法が絞られたのは事実のようだ。
作り手としては「あいつら」に売ってやるんだ、という明確な標的ができたとも言われる。
努力はカッコいい、と言うわけではない。
「鏡で自分の裸を見ながらマスターベーションすればテレビに出ている女とセックスする夢を見る」と言ったのだ。
男の子たちの表情が変わるのが分かった。
ハイデガーは少なくとも「努力はダサい」と考えていた。
それでも専門誌は克明に「オフィシャルレコード」を記録し続けていた。
そもそもソクラテスが「夢」の話をしたのだが、デカルトが「瞑想」と言うものを「5種類」も考えた。
デカルトの「瞑想」「夢の話」だけで、庶民にカネが行き渡るようになりヨーロッパ中世は「近代」と名を変えた。
ユングやフロイトの場合


サルトルは大雑把に言うと「好きなことをやってくれ」と言って大勢の人に攻撃させるという手法をとった。
間抜けな「敵」に忠誠を尽くす者がいて不思議だったが、「人生のためだろう」という結論も導いた。
物自体(結果)だけはもはや誰も触れることはできないことも知った。
「真面目な脳」をふざけた者に取って代わらせると「取り返しがつかない」ことも分かってきた。
プロ野球とか台風とかの「修羅場」が周囲に学習をもたらしていた。
資本主義におけるタテ社会においては、しかし「音楽作品の拡散力」がモノを言ったのだろう。


アルベルト・カミュは、実存主義に立脚するエッセイストであったが、自身を「哲学者」と呼ぶことは否定したことがある。
カミュが探求したのは「とにかく自殺について」であった。
私も、東大法学部に進み、司法試験と向き合うようになると、口癖が「死にてえ、死にてえ」というようなものになり、勉強で疲れ果てて1日寝込んだ時に、寝言で「俺を殺してくれ」と言ったことから、隣の部屋にいた弟が、怖くなって家から去ってしまった。
法律学というのは寝言で「俺を殺してくれ」というほど自分を追い込むにはあまりにもバカげた学問であった。
のちに「小野臨調」において、「貧乏セックスのことを犯罪という」「所有とは友情のことであり、占有とは愛という概念を理解した異性との関係をいう」とし、あるいは「債権法とは異性との出会いの生成過程を探究する学問であり、担保物権法とは異性の友達のことをいう」などと、かなりセンセーショナルな発想を明らかにしている。
あの時の「死にてえ、死にてえ」「俺を殺してくれ」といううわ言はあまりにもバカげていたし、そのことへの暴動のようなものが小野臨調としての答申であった。
小野臨調の言っていることを踏まえると「先生が言っていることをそのまま答案に書き」主席になる、司法試験に合格するというのはなんら生産的な営みではない。
とにかく「バカげたこと」が「死にてえ、死にてえ」「俺を殺してくれ」という若者にはつきまとっていた。


東大法学部は、法文1号館と2号館が、安田講堂の正面という絶好の位置にあったが、その「宗教」は私にとって恐怖でしかなかった。
まともに取り組んだら「自殺」と向き合わなければならないようなものだ。
私は、学年末試験の空き時間に朝鮮人キリスト者に話しかけられている。
「深刻な表情をしていますね」
「ええ、今から破産法の試験があるんです」
そのようなやりとりを行った。
破産法とは、本来、「テレビに出るカネがなくなった」人のための学問であり、精算型のように「忘れた頃にまた出てくる」芸能人がいたり、再建型のように「芸名を変えてしまう」
などの立ち直るための職人芸の研究であったが、とにかく当時は「真面目にやってもわからない、つまらない」ものだった。
その朝鮮人キリスト者は、のちに「金集めの方法」を私から教わり、文在寅大統領となっている。


「夜逃げ」というものが知られているが、破産法では「黙示の支払い不能」と呼ばれている。
しかし、実態は「小学生の娘の失恋が理由で親が引っ越しを余儀なくされる」ものであった。
松浦亜弥 元彼


テレビに出るためには、あるいは芸能人を続けていくためにはカネがかかる。
そうではない民間人には本来、「破産」というものは想定されていない。
「働け」としか言いようがないものだ。
恐怖の「安田講堂」の前で、女の子を口説けるようにしたい、
これが「シシファスの神話」であり、東大という「灰色の世界」を血や肉の通ったものにする営みであった。
「バカげた道を極めようとすると自殺だけが待っている」
しかも、債権法とは「異性の出会いの生成過程を探究する学問」であることを知らない法学部の学生は、かなり絶望的な道を進まざるを得なかった。
「それでも、死への扉を開けたいですか?」
どうせくだらない講義しかしていないんだろうと言って、企業は若者たちを根こそぎ持っていった。
しかし、私は東大法学部にとっては「よそ者」でありながら、常に東大法学部の王道を歩み続けた。
それで「東大のここがおかしい」ということが分かるようになったのだ。
司法とは「恋バナ」を学ぶことであり、立法とは「カネをばら撒く」ことであり、行政とは「テレビに出る」ことである。
こうなると「法律」を作るためにはカネをばら撒く必要があるため「立法」に委ねざるを得ない。
しかし、閣法というのは行政が作ったものを立法に委ねている。
「20世紀実存主義」を経験した法曹界の住人は私ぐらいだろうと言ったが、なにしろ王室サロン=精神病院に東大法学部の出身者がいないのだ。
私の弟の「中曽根承太郎」が法務大臣を務めるまでは日本の法学部の学生は「死への扉」を開け続けるだろう。


現象学(顔の広さ・世界の広さ)が、実存主義(父に潰されそうな息子)と結びつくのは必然であると考えられるが、
現象学というものは「大勢の男たちが何かの目的に向かって進む」という意味であり、多数派工作というのは「道徳」という別の表現がなされる。
東大受験というものは「正しい神」だけを追い求めて集団が行うものであるが、アイドルファンというものは「正しい神」があんがい曖昧で「恋に詳しい」ということを柱として構築された世界だ。
アイドルファンの世界では「担当」というものが決められている。
しかし、永田町のように「多数派工作をやり、自分の得意な分野をだんだん絞っていく」というものではなく、また、永田町そのものも萩生田大臣が言うような「多数派工作をやり自分の得意な分野をだんだん絞っていく」という理想は達成されていない。
アイドルグループも「批判に耐えられずに」「解散」することがあるが、政権も批判に耐えられずに「衆議院解散」することがある。
国会対策費・メディア対策費が必要なのはアイドルグループも政権も同じであり、アイドルも政治家も「最後にはマンションすら残らない」という現状がある。
「解散」というものが存在しても、男たちは「正しい神」と「恋に詳しい」神のために前に進んでいく。
つまりは「現象学」というものは「アメリカ合衆国に詳しい者」に群がる男たちであり、女たちを目当てとしたものだったのだ。
安倍首相にも周囲に現象学はあるだろうし、令和天皇には「もっと長い目で見た」現象学がある。
アイドルグループはそれに比べたらかなり「短期的で視野の狭い」現象学がある。
インディゴブルーラブ


そこで、東大法学部が「正しい神」であることは多くの企業や、世論が認めているが、それが「恋に詳しく」なれる場所にならなければ、講義のエスケープは日常の風景とならざるを得ない。
そもそも、債権法が「異性との出会いの生成過程を探究する」学問であり、担保物権法が「女友達を増やす」学問であることを踏まえ、友達と恋人の境界線はセックスしたかどうかであるという共通認識のもとにキャンパスライフを過ごすものだということを理解しなければならない。
三浦理恵子 グッバイフレンズ


アイドルや政治家、そして天皇にまつわる「男たちの目的を目指した行動」も、「若さの特権」であり、その参加メンバーに「これが仕事なんだよね」ということを教え導かなければ長期的なビジネスとしては存在し得ない。
国会が「田舎のプロレス」であるのならば、今の令和天皇はもっと深く現象学を理解している。
自分に興味を持つ連中に職を与え、資格を与え、彼女を与えるのが現象学の世界でなければならない。
亀井絵里 片思いの終わりに


令和天皇にせよ、安倍首相にせよ、その他のアイドルグループにせよ、自分たちに押し寄せてくる男たちにとって「正しい神」でなければならないし「恋に詳しく」させなければならない。
東京大学などの大学もそうであろう。
大学は「就職の斡旋」をしてくれるが、天皇・首相・アイドルグループも最後には「仕事ってこういうものなんだよな」ということを男たちに教えなければならない。
この「現象学」を無視しては、いかなる「ファンクラブ」を持つ資格はないと言っていい。
男(ファーストオーダー)が、女心(セカンドオーダー)を理解すると、予言(サードオーダー)ができるようになる。
私もシアトルのシナゴーグに行ったことがあるが、男の子サークルと女の子サークルに別れ、なにやら話し合いをして、その後の自由時間にエヴァンジャリストのスピーチを聞いて、ホストファーザーが「我々はサードチャーチだ」と、まるでマリナーズやスーパーソニックスの勝敗をシナゴーグがコントロールしているかのように語っていたのが印象的だった。
シアトルにおいて、マリナーズやスーパーソニックス、シーホークスがどのような存在かを理解するだけで、シアトルダウンタウンにあるシナゴーグにどれほどの「敬虔さ」が集まるかがわかると思う。
私も「横浜DeNAベイスターズ」という球団の予言(サードオーダー)をやっていたが、とにかく「男が女心を理解する」という手法の重要性には気がついていた。
アメリカユダヤ教が「サードチャーチ」つまり「男が女心を理解してメジャースポーツで予言をする」場所であると私のホストファーザーは発言している。
法律を勉強しようが、経済学を勉強しようが、「人生、野球以外に何があるんだ」という境地になるのがユダヤ教なのだろう。
ザ・ファン 映画


この「サードチャーチ」は、日本国においては「若さを無駄にする時期に音楽作品を聞いておく」という手法以外に私はなにも想定していない。
ナベツネさんの指導を受けた桑田真澄や、自身が宗教家だった麻原がとにかく「なにも面白いことのない」時代にアイドルのイベント会場にいた。
絶対勝つぞベイスターズ


男社会に、結果(物自体)という概念が持ち込まれたときに、女たちは「セカンドセックス」として「待っている女」という構図が出来上がった。
おニャン子クラブ 好きになってもくれない


しかし、それも高校時代までだった。
プロフェッショナルになると女たち(セカンドオーダー)は、「待っているだけ」の存在ではなくなっていたのだ。
「私たちも仕事がしたい」「美しくありたい」というフェミニズム第二の波とともに1960年代にプロスポーツが発展し、「女」「女心」「セカンド」を無視しては勝利はおぼつかなくなっていた。
檸檬の年頃 AKB48


この「20世紀実存主義」の誕生および、フェミニズム第二の波によって、「プロスポーツとはどのようなものか?」「教会とは何を教える場所なのか?」が明確になった。
神が作った「男女」の存在と、それが「何のためなのか?」ということがプロスポーツの世界では知られることとなったのだ。
「ハードコアが露骨になって、女に興味が持てない?」
それは、おカネの起源を見失うことにもなるし、勝負事に弱くなるだろう。
プラスティックの唇


女たちは、ハードコアが露骨になってから、「私の心を教えて?」とかなりわがままになったし、「私の心」を必要としているのはプロスポーツしかなかった。
プロ野球は、勝つためには「猫」の手も借りたいのだ。
「私の心」を知りたい女たちが、群がるのは当然とも言えた。
今後、女たちはますますわがままになっていくだろう。
2017年には私は「女シリーズ」という連載とともに横浜DeNAベイスターズを日本シリーズに導いている。
今年は「プロポーズという名の全体主義」を明らかにした。
「私の心」が知りたいという女たちは、「猫の手」も借りたいという世界でその願いが叶えられるだろうし、今後の見通しとしては、ハードコアの時代を乗り越えて、女たちがかなり「わがまま」になっていくものと思われる。
1920年代に、アフリカの黒人が三名、フランスに留学してきた。
マルチニク、ギニア、セネガルから来た。
それぞれが「黒い肌」をしており、ネグリチュードは、とにかく「グレー」な世界で、「白黒つける」ことの人気を知った。
「男が女心を理解してメジャースポーツで予言をする」
これが、白人か黒人かを問わずに人気を博したのだ。
「歌を歌う奴はヨーロッパのチンパンジーだ」という差別もあったが、ハーレムルネッサンスは着実に進行した。
ブラックだろうがイエローだろうが、本国にヨーロッパの知識を持ちかえって、「要塞」を構築し始めたのだ。
ribbon サイレントサマー(ハーレムナイト)


 


台風での被害が報じられているが、我々がハーレムルネッサンスで構築した「要塞」はそんなに弱いものではない。
ハーレムルネッサンスの「千手観音」を見たか?
あれが日本国の各都市を「要塞」にしたのだ。
「天変地異」などもはや過去の宗教に過ぎない。
もっと我々が構築した「要塞」を信じてみないか?
「黒い蜜蜂」がチクリチクリと災害の報道を知らせてきたが、「プロスポーツのシーズンを越すたびに」我々の要塞は強度を増してきた。
最近の歌はつまらない?
だったら「要塞」の強度は「もはや十分」と国が判断したことを意味する。
愛の炎 田中れいな


アフリカが「黒人ゲットー」を安全なものにしようとしてきた歴史がある。
日本国に住んでいて、役所に住民票があるのならば、もっと「要塞」を信頼してみたらどうだろうか?
マイケル・ジャクソン ビートイット


さて、実存主義の世界が確立されてから、男でも女でも「オフィシャルレコード」が出るようになった。
なぜ、男は女とセックスすると気持ちがいいのか?
それは「女の子供の気持ちを味わえる」からである。
それならば、子供を偉大な人物の「復活」と位置付け、その後の夫婦生活の充実を試みたらどうか?
さらには、禅において美女を瞑想すると「子供が美男美女に生まれる」ことから、禅というものそのものがセックスを気持ちよくするのではないか?
美しいアイドルを見て、マスターベーションする行為は、そのアイドルとセックスする夢を見ると同時に、「美男美女として生まれた子供の気持ちを味わう」ことにつながるとしたのが禅であった。
夫が娘に「昔の女」の名前をつけたのならば、妻としてはそんなことをされたのではたまらない訳であるが、
なぜ、男が女とセックスしたがるのか?という理由は知っておかなければならない。
女の「子供の気持ち」が味わいたいからなのだ。
今から思うと、私は娘が生まれてから哲学(女心の探求)・政治(女心の定義)が理解できるようになり、息子が生まれてから宗教(高齢の男を崇拝する世界)・法律(若者や年寄りの男らしさを探求する世界)が分かるようになった。
私も、ほとんど自閉症に近いぐらい寡黙な男であったが、妻とであって子宝に恵まれてから「言語」を覚えたに等しい。
ソシュールなども「セックスと子供」と「言語学」を結びつけたのだ。
アイドルのイベントに桑田真澄や麻原彰晃がいたと言ったが、ドゥルーズなどはステージに背中を向けて観客席しかみていなかったと皮肉られている。
いずれにせよ「なぜアイドルを応援するのか?」について、禅(子供が美男美女になるため)であるとか、他の彼女とのセックスが気持ちよくなるためであるとか、
そもそも「美女とセックスする夢を見るため」であることなどの理由が存在することを理解しなければならない。
特定のアイドルと結婚するためであるのならば「株式買取請求権」を行使しなければならず、案外割りに合わない思いをするだろう。
タントラ教(セックス崇拝教団)について歌った曲。
デュランデュラン ユニオン・オブ・ザ・スネーク


プロテスタンティズムが、カルヴァン派(AKBグループ)や、ツヴィングリ派(モーニング娘。)を作ったが、このような「ミクロの女たち」がいなければ「マクロの男たち」が大声援を送ることはなく、各自が「担当」を持つことを超えて「自分の世界の広さ」を知ることはなかったのだ。
ジャニーズのイケメンがマクロなのかミクロなのかは明かではない。
本来、ミクロと位置づけられる若い娘が声援を送るのならば、「ミクロからマクロへ」という「声援の還流」が起きていると考えられるが、誰しもがジャニーズのようなイケメンであるわけではない。
かなり難しい議論が必要で、おちんちんを暴力的に切られた女の子が、鬱になって、イケメンを「自分のおちんちん」と見なしていると考えられている。
あるいは、母親でも娘を「自分のおちんちん」と見なし、自らはネズミのようになってもマスオさんをいじめるお婆さんもいる。
ジャニーズファンの女の子は鬱であり、キッチンでメチャクチャに格闘したあとに美味しい料理をつくる爽快感を知る。
ジャニーズファンの女目当ての男を「親」と言うが、しっかりと「ファンの心理」を理解しさえすれば、料理ダメ、洗濯ダメというアイドルよりもはるかにいい女をゲットできる(戦う民主制)。
戦う民主制においては、警備員の制止を振り切り、最前列に押し寄せる女たちを目の当たりにし、その「鬱」の酷さに圧倒されることもある。
しかし、プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神は、このようにして戦う民主制と結び付いたのだ。
アイドルファンをやって自分の世界の広さを知るというのは、現象学と呼ばれている。
御朱印ガール目当ての男と戦う民主制は基本的には同じ構図であるが、戦う民主制とは何かをしっかりとメッセージとして出さなければならない。
ヒトラーに侵略される前のオーストリアは、戦う民主制のメッカとして男子と女子が共存していたのだ。
國府田マリ子 愛のクレイジーエプロン


女性アイドルが、どのような人生をのちに送っていたか、男性アイドルも同様にどのような人生を送っていたかを目の当たりにした「東大生」でなければ、若くて美しさに盲目な「男女」に「付き合っちゃいなよ」というだけの力量はない。
いずれにせよ、オーストリアのウィーンに数多くあった「ハプスブルク家」のサークルは、カルナップの暗殺がなければ「ヒトラーも落とせなかった」とされている。


ミシェル・フーコーは、マッド・ホモ・囚人と向き合っているうちに「ブルジョアへの怒り」を持つようになっていた。
私が目撃した「マッド・ホモ・囚人」の典型は田原俊彦だろう。
1949年から1959年まで、フーコーは、マッド・ホモ・囚人の研究を行い、1963年に「クリニックの誕生」を書いている。
地図では道が「広さ、長さ、色、線」で書かれており、その道の「交差」が記されている。
学問の世界においても、プラトン・アリストテレス・アクィナス・カントという巨大な線に多くの論客が交差している。
フーコーは、その「地図の読み方」をより明確にし、それでいて「人間の誕生」において、「彼らは皆、病人だった」としている。
「病気の哲学者」と「アイドル」の恋を描き、それで社会の「路線」から外れた存在としてブルジョアを憎んだのだ。
男はどのようにして「言葉」を覚えるか?はソシュール言語学のみならず、ミシェル・フーコーも問題にしている。
世の中は「多神教」の世界であり、多くの男たちが「噛みついてくる」ために無口にならざるを得ない。
しかも、「言葉を発する」という行為そのものが「混乱と歪曲の世界」なのである。
古典的な方法は、美女たちに「話が通じる」ことが重要だとされてきた。
これが新カント派である。
カントの「言葉」は貫通力に満ちており、とにかく古典の世界を制した。
それならば、マッド・ホモ・囚人の反応はどうであろうか?
フーコーは、地図の重要箇所にどっかりと腰を下ろした「カント」そしてカントを知っているブルジョアを憎んでいたのだ。
ヘーゲル(イケメン)、マルクス(婚期を逃した男女)、ニーチェ(父親に押し潰されそうな男)、ハイデガー(若さを無駄にしている男)は、マッド・ホモ・囚人の味方をしてくれるであろうか?
「面白ければいい」という連中以外に、古典を脱した「新派」の世界に味方はいなかった。
ソシュールは「娘や息子が生まれた」ことに「言葉を覚えた理由」を見出だしたが、フーコーは「狂人に話が通じた」という成功体験に言葉を覚えた理由を見出だしている。
新カント派は、美女たちに通じた話を「男にも」話してしまうとフーコーは考えた。
男社会は、「言葉の縦社会」であり、美女たちに通じた話を男にもしてしまうと、案外、喫茶店やレストランのマスターは「マッド」が多く、「ちょっと黙っていてください」という返事ならばまだ良心的だが、「次、口を利いたら出入り禁止だよ」という喫茶店のマスターもいる。
世の中にどれほどマッドが多いかを人々は知らないのだ。
フーコーは、男同士ならば「いい体してるね」という入り方がいいと考えたこともあるが、
いかんせんガタイが良かったフーコーに、周囲のマッド・ホモ・囚人は「犯すぞ・殺すぞ」というメッセージにしか聞こえなかった。
そもそも昔の「女」というのはどのように「子供」を生んできたのだろうか?
フーコーは、女が教会で「私を快楽のため、そしてあなたの面倒を見るために使ってください」という「告白」を経た上で「女」と認定してきたとしたのだ。
hiro confession


つまり、グレコローマン(ギリシャ・ローマ帝国)の時代は「私は学問に耐えられない」と考えたら「女になれた」のだ。
ちんちんがついていても「告白」をする男がいた。
生まれたときに性別を記すようになったのは「クリニックの誕生」以降の1970年のことだ。
カントが「女の口説き文句」を考えた、そしてその貫通力を証明したとしても、世界史はフーコーに味方していた。
耐えられない、下痢をする、そのような「男社会」が存在し、ちんちんのサイズの相対化まで行わないと、「性概念」というものは明かにならなかった。
しかし、フーコーの「世界史の研究」は、未公表のまま「カントの悪口」として終わった。
皆さんもご存じの通り、男女の境界線には「アダムとエヴァ」以来、分からないことが多い、という現状があったのだ。
このあたりの議論は「世界史の謎」として終わればいいのだろうが、興味のある人は「50歳以上ふたなり教」などのスレをたてて調査してみてほしい。
私は次のテーマに移りたい。
しかし、中にはライフワークにしている人もいると思う。
フランツ・ファノンはアルジェリアの「国民解放戦線」(FLN)を率いた。
植民地化によって、ふたなりの男と共存するように、「私を快楽のため、そしてあなたの面倒を見るために使ってください」と誓う「黒人女」が生まれていた。
黒人社会に「黒人女」というものを作ったのが植民地化だったため、当然、「ヨーロッパへの支持」は根強く、ファノンはガーナにアルジェリア暫定政府を作っている。
ファノンの代表的な著作は「黒い肌に白い顔」というものだ。
ヘーゲルのような「イケメン」をつくることから始めた。
世界史は「女作りが先、男作りはあと」という展開をたどるのが定石であるが、なにしろフーコーの「1970年」以前は、どの男も「ちんちんがデカいだけのシーメール」だったのだ。
アルジェリアの男たちは洗練されたフランス語を話した。
しかし、フランス女とセックスするのは「タブー」とされていた。
なにしろ黒人男にとって「女の白い肌」は、トラウマとなり、日本でも「痛風」と呼ばれている病気が、もっと重篤なかたちで黒人男を襲ったからだ。
日本人でも白い女とのセックスが痛風の原因であるため、あえて「クロンボ!」などと叫んでみると痛風が良くなる。
マイケル・ジャクソンもモハメド・アリも、白人女とセックスしても「ろくなことはなかった」であろう。
いずれにせよファノンも、「ホワイトとブラックの共存は困難」と考えていた。
植民地化?キリスト教?
ちんちんのない「黒人女」を作ってくれたことには感謝するよ。
しかし、痛風患者が「クロンボ!」と呼んで病気を治しているのはどうにも我慢がならなかった。
白人男が黒人女とセックスしても痛風の心配はなかった。
それどころか痛風が治ってしまうではないか?
ファノンの戦いはこうして始まった。
1961年にルムンバが死んで、コンゴなどでも「独立しようか?」という空気が生まれた。
ルムンバは「奴隷貿易の象徴的存在」であり、痛風の治療のために黒人女を売りさばいていた。
ファノンはあくまでも実存主義の文脈に位置づけられる存在であり、アフリカの黒人が全米メジャースポーツで活躍する様を「アルジェリアの家族」と呼んでFLNの雑誌に掲載していたのだ。
移民政策においては「男作りが先、女作りはあと」でなければ、今の日本のように朝鮮パブやフィリピンパブが蔓延するだけだ。
フィリピンも、フラッシュエロルデから始まり、マニー・パッキャオ、ノニト・ドネアなどの「男作り」はやっている。
しかし、日本本土を拠点とする「男」がいなければこのような風俗店はなくならない。
ファノンは1960年代に死んでいるが、ヨーロッパ植民地政策が「女作り」(おちんちんのない女)をやってくれたのならば、それをうまく利用しながら「男作り」をすることを「脱植民地運動」と位置付けた。
男作りとは「オフィシャルレコード」がなければ成立せず、当然、サルトルの影響を受けざるを得ない。
サルトルがいなければ、日本国とて外国国家の植民地となっていたであろうし、日本国は「鎖国」を行うことで「男作り」をやったのだ。
台風撃退が日本国の宗教史の花形であるが、貝原益軒以前の宗教団体を「既存の宗教団体」と呼び、それ以降を「新興宗教」と呼んだ。
本当に「シーメールではない男」を生み出したのはミシェル・フーコーであり、1970年以降に生まれた男たちをもポルノで売り出した。
「男作り」は宗教でもあり、法律でもある。
1970年以降に生まれた男は、貝原益軒以降の「新興宗教」のみならず「既存の宗教団体」にも組み込まれた。
余談であるが、私は1971年3月生まれで、酒井法子が2月生まれ、渡辺満里奈が1970年11月生まれである。
酒井法子にせよ渡辺満里奈にせよ「年上の男性との恋愛」を歌っているが、その男は「シーメールである」ことになる。
しかし、それらの作品を聞いていると「シーメールの方がよっぽど成熟した文化を持っているのではないか?」と思うこともある。
古くは「黒い雪事件」において「映画でろうそくを吹き消すシーンがあり、セックスを連想させた」ことが猥褻物陳列罪になっており、チャタレー事件においては「コニーとメラーのあまりにも女性を従属的に描いたセックス描写」が猥褻概念をめぐって最高裁で争われた。
「ストイックな方が大人である」という側面が指摘できる。
酒井法子の15歳の時の歌。
酒井法子 サヨナラのかわりに

平成生まれの「五割が子なし」というのは猥褻概念と関わったものであり、たとえば昔、「この小学校はいずれ老人ホームとなる」という噂があり、今はそれが現実のものとなったり、
代々木ゼミナール横浜校が「ホテルにできるように作られている」という噂があり、実際に何年か前に廃校・不動産売却を公表したりしている。
ミシェル・フーコーが日本国に少子化をもたらしたという側面があり、一方で、世界の人口は、30年後には90億人を突破するという現実もある。
1970年のミシェル・フーコーからのメッセージをどのように受け止めるか?
それもキュレーター(評論家)に委ねられている。
酒井法子(1971年2月生まれ)、渡辺満里奈(1970年11月生まれ)が「年上の男との恋」をどのように表現しているかに注目してほしい。
渡辺満里奈 マリーナの夏

もはや文明批評である。
渡辺満里奈

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