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Foreign Affairs

  • CFR: フォーリンアフェアーズ英語版

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2019年7月 6日 (土)

名誉職。

我々も、令和の新体制がスタートして、二ヶ月が経過するが、強烈なストレスがどれほど新体制に安定感をもたらすかを経験したところである。
しかし、そこで、上皇・上皇后の役割について指摘したい。
まず、今まで「テレビ」(行政)でよく知られていたこと、立法つまり、周囲にカネをばら撒いたこと、そして、司法つまり、音楽作品によって恋愛に詳しかったことが名誉職の存在意義だ。
あるいは、今の天皇・皇后の「実像」をよく知る立場にある。
バロン・ド・モンテスキューは「天皇がオカマについて語っても株価が暴落しないのは名誉職があるおかげである」とし、上皇・上皇后の存在意義を語った。
以前、私がジョゼフ・バトラーの「ヘンタイ」の研究を公表したら、日経平均株価は千円以上の大暴落をしている。
つまり、「肉」と「魂」の研究を深めることが出来たのも名誉職が存在するおかげである。
「ペルシャ人からの手紙」とは「ペルシャ人」つまり「肉」(オカマ・いじめっ子・ジャニーズ系)の研究のことであるが、国に混乱を引き起こさないで「いじめ撲滅」をやることは名誉職が存在しなければ「天皇には不可能」と考えられている。
ステーキ CM

ペルシャは「イラン」と名称を変え、オカマを「ウズベキスタンへ」と追放し始めた。
ウズベキスタンとは、ヨーロッパで言う「オランダ」であった。
ウズベキスタン(肉)の、イラン(魂)崇拝は強烈なものがある。
肉は「恋愛論が理解できない」という特徴があった。
ハメネイ師を崇拝しながら、恋愛論を理解できない、イランのスター(永ちゃん)に声援を送るのがウズベキスタン人の役割であった。
組織内部の「いじめ撲滅」を、若い指導者が自由に行うために名誉職(上皇・上皇后)という役割が存在するのであり、もし、名誉職の立場の人間が「人を殺せ」と言うのであれば追放するしかない。
「人事に口出しできない名誉職」というのは基本なのだ。
それさえ守れば、王朝はかなり力を持つ存在となるだろう。
いじめさえなければ「仕事は定時で終わる」とも言われる。
なぜ、「肉」は「魂」をいじめるのかは「そういう奴がいると下痢をしてしまうから」という観点を指摘したが、ようするに「太か~!」という便を経験したいからだ。
カントの「口説き文句」はオカマには理解できなかったし、高貴なものにしか分からなかったため、恋とはそもそもが「高貴な」(ノーブル)ものとされた。
国生さゆり ノーブルレッドの瞬間

このようなことは、民の支持のある君主制においては必ずしも君主は書けるものではない。
むしろ、名誉職(上皇・上皇后)の存在を踏まえた専制主義において書かれるものだ。
「太い便をしたいだけのために人をいじめる」ことを明らかにすることは、確実に「8%の男」を敵に回すからである。

オカマは常に「解雇」「放校」を恐れながら人をいじめていた。
カント(口説き文句)やニーチェ(女心の定義・ルサンチマン・政治)を知らないまま、組織に属していたからだ。
太い便さえできれば人生に目的などなかった。
「つぶしがきかない仕事」とも言われた。
行政(芸能界)・立法(周囲にカネをばら撒く世界)・司法(恋愛論)の三権分立はノンケの男にとっては区別は明確ではなかったが、オカマにとっては「テレビにしか居場所がない」という男を確実に生み出したのだ。
三権の長(天皇)に声援を送ってさえいれば、下痢はしなかっただろうが、非力な皇族は「下痢をするために」容赦なくいじめた。
このような「肉」の論理は処女たちに人気があったし、普通の女たちも興味を持った。
肉はとにかく「社長の悪口を言う常務会」にしか居場所がなかったし、そもそも社長にはなれなかった。
しかし、女たちに人気があった。
このことを理解することは、「外国国家の常務会」「肉」と手を組むという基本が存在することを意味するため、やわらかな「戦争論」とも呼ばれた。
また、留学生は「体つき」で選抜しろとも言われ、貧弱な体をした男はカマを掘られた。
このことを理解しないと、どれほど今までのキャリアを台無しにされるだろうか?
「金がない」「受験に失敗した」という二つが、男がカマを掘られる理由であるが、このような「肉が食べたい」というメッセージは、パガニーニのカプリースにこめらているとされ、パガニーニのカプリースを流すと為替にいい影響があった。
パガニーニ カプリース

オカマが統計的に多いプロテスタントにおいては「民の支持のある君主制」がいいとされ、オカマが少ないカトリックにおいては「専制主義」がいいとされる。
私は、現在、芸能界(行政・プロテスタント)と密接に関わっているため、オカマの話しをしなければならない。
横浜市民(カトリック)にはふさわしくない話題かもしれないが、「都市伝説」の域を出ないとされながらも、専制主義の救いとなるのが「オカマ」の話題なのだろう。

イエスキリストが「オカマの論理」「太か~!」を本当に理解した時に、そもそもが「民の支持のある君主」であったために、イエスは「悪魔の性質」と人々に噂された。
民の支持のある君主制が、もし民の支持を失うことがあっても、専制主義に堕することなく、いつでも人気を復活させることが出来るようになったのだ。
それのみにとどまらず、外国国家もイエスキリストの「主権」の範囲に含まれることを望んだ。
カント(口説き文句)も、ニーチェ(女心の定義・ルサンチマン・政治)も知らないのに、その場を仕切りたがるオカマは、犯されることに怯えていて、それでいて、声が太く、外見も男だったため、とにかく「ファッションにこだわる」というルールをもっていた。
ファッションを知らない男を「秘密の暗号」でいじめることにしたのだ。
とにかく、カントやニーチェにはついていけなかった。
アナルセックスという快感を知っている以上、もはや、「女を口説く」「女心」などには興味がなかったのだ。
このことから、幼い恋(みんなが噂しているから好きになる)というものも生まれている。
藤本美貴 銀色の永遠

イエスは「磔」にならなければ、尻に「青銅の蛇」をぶち込まれることもなかったし、「悪魔の性質」を知ることもなかっただろう。
「民の支持のある君主」が、ヨゼフとマリア(上皇と上皇后)という名誉職の存在のおかげで、専制主義に堕する(人気を失う)ことがあっても、いつでも人気を復活させることが可能になったのだ。
プロテスタントは、オカマの多い世界であり、「常識」というリアクションや「下品」という反応をしたが、カトリックは、「青銅の蛇」の話しを「都市伝説の域を出ない」「面白いね」と話し合った。
青銅の蛇という言葉がキリスト教社会に突如として登場したのが1981年のことであり、今まで、哲学者が、「女心」について研究していたところ、「理解できない」「面白くない」と言っていた「オカマ」=「肉」を、笑いの対象としてさらに深めることにつながった。
カントやニーチェなどに通じている男に「青銅の蛇」をぶち込むことは、「クジラによる睡眠」と同様に、全体主義につながる恐れがあるとされた。
プロテスタントの世界では、「男が体を売るのは当たり前」と言われて、まったくウケなかった話に過ぎない「青銅の蛇」であるが、カトリックではウケた。
イエスの尻に「青銅の蛇」をぶち込んだのかどうか?
これは当然、各宗派の解釈次第であろうが、「ウケない、笑われたくない」男はプロテスタントの世界では「8%」ではすまない人数がいた。
このあたりの、「肉」と「魂」のバランスを「人間」という議論でどのように受け止めるべきなのか?
それも含めて、天皇・皇后は「上皇・上皇后」という名誉職の存在がなければ、
「青銅の蛇とは何か?」という議論は明らかにはできなかっただろう。

2004年に、シュトローソンは、「日本国でこれがウケるのならば、日本国はカトリック国である」としている。
芸能界(行政・プロテスタント)の世界では「青銅の蛇」は「何が面白いのか?」というリアクションであり、狙いが絞りきれなかったのだ。
レイザーラモンHG

そもそも、シュトローソンは1982年に「怒りを歌え」というテーマソングで「カマを掘られる男をなくそう」という運動を起こしていた。
2006年までこのムーブメントは続き、日本国はカトリック国としてのアイデンティティを確立していたようだ。
2009年にはアメリカの「陣営」が、その効果を確認して撤退している。
「これで日本国も法律(男らしさ)が分かるようになるね」
キス派(カトリック)か、胸派(プロテスタント)の違いも生じた。
渡辺美奈代 Too Adult

胸派(プロテスタント)の「肉」(オカマ・いじめっ子・貧弱な体)に女たちが「吐き気」を感じたため、発言の節々に「芸能人生命」を削ぐ言葉があった。
「おっ○いも禁止」の意味が分かるようになればいいのだ。なぜ禁止なのか?
胸は女にとって「私とは何か?」という問題だからである。
なぜ、吐き気がするのかは「計算が面倒になる」という仮説が考えられる。
男でも、非常に面倒な計算には吐き気がするし、受験時代に「吐いて」簡単な軍師官兵衛として生きようと決めたものも多い。
学問は「やるかやらないか」という側面があり、「やらない」と決めたのならば簡単な人生が待っているだろう。

ツイッターなどのSNSの使い方は「女を漁る男がいる」ことを想定して作られている。
結婚している男が「使い方」に詳しいのならばむしろ恥ずかしいよね。
外に出れば普通にすれ違う「女」目当てにツイッターかよ。
文字だけだと、どこで女が怒ったのかの見極めが困難だ。
人間は「100回発言すれば7回は相手を怒らせている」とされ、その「ポイント」から人物像を特定していく。
言葉の数が男よりも少ない「女」を相手に「お金」=「音符でできた言葉」=「哲学」を語る男は、なかなかおらず、閉鎖的空間だけが待っているのだろう。
松田聖子 四月は風の旅人

「文字だけならどんな学者もどんな有名芸能人も対等」であるとされ、暖簾はほとんど通用しない分析哲学(女の嘘)の世界だとも言われる。
「ヒステリーを起こす女ほど美しい」という見解も存在する。
いずれにせよ、「肉」「魂」「人間」という三部作は「上皇・上皇后」という名誉職がいなければ総括しきれなかったし、君主が「オカマ」について語るだけで体制不安が引き起こされる。
その代わり、名誉職をうまく利用して「肉」「魂」「人間」という三部作をまとめきったらかなり永続的な体制が保障されるだろう。

1959年に西ドイツのブラントが、「男は男であり、女は女であることに気が付いた」とし、これを「文化の時代」と呼んだ。
ブラントは、ワルシャワのユダヤ人ゲットーにひざまずいている。
私も、同じ論法で、従軍慰安婦像にひざまずいたことがある。
ブラントの頭には「ノンケのイエスキリスト」があり、「女の子が女になるのは当たり前ではない」ということのみならず「男の子が男になるのも当たり前ではない」という理解があった。
ノンケのイエスキリストとしては、ユダヤ人ゲットーにひざまずくのは「発想が自由でいい」とされた。
家事審判法には「公益性の高い甲類」と「紛争性の高い乙類」があり、紛争性が高いのならば「女たちにモテる」「アカデミズムに貢献する」結論が求められている。
ニスベットは、1996年に「ノンケのイエスキリスト」が主流であるかどうかで地球の「北と南」を区別した。

ribbon 愛してジャスティス

「美しい経験だと思った」という南半球の論理を、プロテスタントも一部にもつことになったため、「偶像崇拝の否定」を行う論客も存在する。
紀元前540年~537年のオリンピックにおいてはキセノファネスが活躍した。
旅をする「ラプソディ」(狂詩曲)の歌い手として知られた。
ラプソディが登場した時にオリンピックは始まっているため、バアル信仰はオリンピックとともに、そしてキリスト教とともにあったことになる。
「男性的観点から女心を語らないとバアル信仰は成り立たない」
このことから、イエスキリストの尻に「青銅の蛇」をぶち込めという「磔」は行われたのだ。
想定外だったのは、イエスキリストはすでに哲学をマスターしており、「肉」「魂」「人間」という三部作を完成させることに「青銅の蛇」はつながってしまい、悪魔の性質を身につけたとされたことだ。
バアル信仰(プロスポーツの勝敗をコントロールする信仰)以外にも、エンターテイメントが青銅の蛇から生まれた。

2006年に日本国はカトリック国としてのアイデンティティを確立しており、イエスキリストは「スポーツとエンターテイメント」の二つの方面から祝福された。
ファッションや花言葉を用いて男性社会に優位に立つという発想以外にオカマにはなかなか音楽作品は根付かなかった。
小泉今日子 私の16歳 「私の16歳」は、パガニーニのカプリースを参考にしたとされる。

皇室は海から来た。
ノクターンを聴きながら男女で合体すること。
ショパン ノクターン

クジラの声を聴きながら眠ること。
クジラの声

神は天地創造の6日目に「光よあれ」といって、女性を動物ではなくした。
つまり、「昼間」を作ったのだ。
それ以前の、皇室は明らかに「海から来た」のである。

夜、熟睡したら、昼間は「音楽作品とオリンピック」があった。
それで人生が成り立っているのだ。
応援する側も「音楽作品」の耳学問をやって、オリンピックに参加できることになった。

医学の世界で「インフォームドコンセント」というものがあるが、従来の「医者の力量」に頼るのではなく、「カトリックからプロテスタントへの改宗」つまり、芸能界デビューを、自らが「イエスキリスト」として「青銅の蛇をケツにぶち込まれる」ことを「覚悟する」という意味であるとし、それに「同意するのか」「覚悟するのは簡単なのか」を論ずるものとなっている。
なにしろ、医学といっても、医学の宗教的側面は精神科医療が支えている以上、「覚悟」というものは「青銅の蛇」に対するものであり、プロテスタントの世界でそのことをよく「説明」する必要があるとされた。
モーニング娘。Do It Now!

芸能人になるとはどのようなことか?東大に入るとはどのようなものなのか?
彼ら(彼女ら)に「拒否権」を用いることができるのは庶民である。
エホバの証人は「他人の命を用いてまで自分の命を長らえさせようとは思わない」とし、輸血を拒否した。
他人(芸能人)はカマを掘られているとし、その「血」を拒絶したのだ。
1970年代以降、芸能人が「徹夜」して遊ぶのが常識となっていたことも背景にあった。
市民に「血」が差別される、このことにも「覚悟」「インフォームドコンセント」が必要だった。
行政府(芸能界)の「プロスポーツとエンターテイメント」の二つの方面から祝福されたイエスキリスト(天皇制)の「血」をエホバの証人は拒絶したのだ。
「地方自治に溶け込みたい」
これがエホバの証人の主張でもあった。
東大や官僚批判・芸能人の悪口を言っている以上、輸血拒否は当然ともいえた。
「芸能界デビューの覚悟をするのは簡単だった」
本当だろうか?エホバは少なくとも「思いとどまるように」というメッセージを送っていた。
青銅の蛇でカマを掘られたイエスの血すら「避ける」のがエホバの証人であった。
児童虐待の防止と、両親への信頼をエホバの証人は主張したのであり、リーマンとして、権力者から自立し、支配されず、精神病患者に「だから言わんこっちゃない」というのがエホバの証人のアイデンティティとなった。
「肉」(オカマ)にはHIV陽性が多かったが、それは「いじめっ子」であったため、オカマといじめのどちらがHIVの原因なのかは普通は明らかではなかった。
「前に出るかでないかのどちらかだ」と会長や親が子供に決断を迫ることもあったが、エホバの証人は少なくとも「子供」の側に立った。
「名誉職」というのは常に、勝利を求める「会長や親、庶民」に対して、「勝つ必要はない」と言うのが仕事であった。

ユダヤ人もキリスト教徒も、イエスキリストの「青銅の蛇」を使う側と使われる側として、「神の本当の意思」を探ることになった。
エルサレムに近い東方教会の方が、西方教会よりも「青銅の蛇」に詳しかったとされる。
ローマ帝国においては、本当に「処刑」を行うこともあったし、東方教会の方が青銅の蛇をよく理解していた。
ルネッサンスとは「処刑のない世界」のことを言うが、1453年にコンスタンチノープルが陥落して、イスラム圏にも「セカンドルネッサンス」が訪れていた。
女たちは「バアル信仰」を持っていて、音楽作品への理解力を競い合ったし、ヨハネの黙示録は「哲学(女を口説く学問)」こそが「政治学」になるだろうと語っていた。
「犯すなかれ」という戒律を守ったユダヤ教も、イエスがカマを掘られたと衝撃を受けたキリスト教も、現代に至るまで存続している。
【隣人とは街を行きかう人々のことだよ】
Mr.Children Tomorrow never knows

青銅の蛇というのは「女に詳しい」「哲学を知っている」男のケツにぶち込んだものであり、そもそも、大学進学以前に、オカマになっていたら「女に詳しくなる機会が与えられない」「男の自信を刈り取られる」ものであった。
このことから、「青銅の蛇」をめぐる、「論点の土俵を変えてしまえ」というディベート術が発達した。
しかし、心ある女性が「青銅の蛇」の議論に痛く心を打たれたため、日本国のディベート術はまだ発展段階にある。
また、ゴスペルが子供たちによって歌われ、まだカマを掘られていない男の子たちは、「男らしい男」「女らしい女」が存在するだけで国が豊かになるという発展が国連の手によってなされた。
ゴスペルというのは歌謡曲と異なり、なんだか退屈であるが、アイデンティティは「まだカマを掘られていない男の子」が歌う歌として「富の象徴」とみなされたものだ。
松田聖子 雪のファンタジー

「青銅の蛇」の議論を必死でもみ消そうとするオカマ(男の自信を刈り取られた者)のディベート術に対抗する形で「女神崇拝」「アマテラス」「聖母マリア崇拝」というものは生まれたのだ。
聖母マリアとは「美智子上皇后」かもしれないし、イエスキリストの「青銅の蛇」体験にたいそう心を打たれた存在だった。
哲学は哲学として「女心」の探求を続けていたが、カント(口説き文句)、ニーチェ(女心の定義・政治・ルサンチマン)にせよ、ヘーゲル(イケメン)にせよ、JSミル(思春期の女の子の欝)にせよ、詳しかった男が「青銅の蛇にやられた」のならば「それはもはや宗教ではないか?」と位置づけた。
マルクス(女の子の思春期の思い出)は、「青銅の蛇にやられたのならば、もはやそれは、女たちのフェティシズムの対象」であるとし「物象化論」と呼んだ。
宗教と物象化論はどのように異なるのかは明らかではないが、宗教は「男女問わず」支持を得るものであるのに対して、物象化論とは「女性限定」であるとされた。
つまり、マルクスは「唯物論」の立場に立ち、「女たちの支持だけを狙った」のである。
檸檬の年頃を書いた男がカマを掘られたようなものだった。
貴重な論客が「男の自信が刈り取られた」のである。
檸檬の年頃

20世紀になって、ミシェル・フーコーが「真実と力」という論文を書いた。
プロレスラーは弱いなんて議論はナンセンスだとしたのだ。
「簡単な技」で人間というのは落ちてしまうとし、「技」に興味があればカマを掘られないとした。
1960年代から1970年代にかけて、ブーバーやレヴィナスが「プロレス」再評価を行い、力道山の「空手チョップ」でもいいから覚えてくれとした。
バックドロップにせよ「人間を壊すってのはあんがい簡単なんだ」としている。
努力をしないで人間を壊す方法をプロレスが見つけ出したため、イエスキリストの「青銅の蛇」に恐れをなしたプロレスの世界は「ルシファー」と呼ばれた。
イエスキリストがルシファーなのではない。イエスが影響を与えた連中のことを言う。
体形が小柄だ、しかし、男の自信を刈り取られてたまるか、このような連中のことだ。
キムヨナ 007

プラトン(音楽作品を作った人)は、「国家」において、音楽作品さえ満ち溢れていれば「民の支持のある君主制」ができるはずであり、「青銅の蛇」など必要ないと考えていた。
緊急事態条項としては、今まで「最も哲学に詳しい男の顔写真を日本中にさらす」ことが想定できたが、「青銅の蛇」をケツにぶち込むという事例も想定可能となった。
①顔写真を国中にさらす。
②青銅の蛇をケツにぶち込む。
これを、プラトンは「やらない方がいい」と考えていたのだ。
これをやってしまうのは「上皇」「ヨゼフ」の老害だと考えられる。
金も人気もない「上皇」「ヨゼフ」が青銅の蛇を持ち出したのであり、実際にイエスの父・ヨゼフってどんな人?と言われるとかなり議論の可能性が残される。
歳をとるとはどういうことか?豊かになるとはどういうことか?
それは「ヨゼフの研究」をやらなければ年金制度も作れないのだ。

マルクスも、思春期の女心に詳しければいいと考えた哲学者に過ぎなかったが、思春期の頃の記憶は、歳をとったら「そういう夢を見た」としか覚えておらず、そこで、「敗者に寄り添った記憶」などを「恋の思い出」として指摘した。
松任谷由美 ノーサイド

ところが、「世界最高の哲学者に、青銅の蛇をケツにぶち込む」ことそのものが、弱き者が強き者に仕えるという社会の序列を覆してしまう「プロレタリア革命」であると考えた。
カントまでは「青銅の蛇など必要ない」という考えが主流であったし、そうでなければ哲学が発展しないと考えられていたが、マルクスこそが「青銅の蛇」を用いた近代政治学の父であった。

ギリシャのポリスにおいても「恋愛のない街は、恋愛のある街より不幸である」ということは明らかであったし、そのためには、上皇・ヨゼフは不幸しか撒き散らさなかった。
イエスだけではない。
ヨゼフは、国民全体の恋愛を不愉快に思っていたのだ。
ヨゼフ・平成天皇がいるから、「なんでこんな問題で無期限謹慎?」という報道がなされている。
堅物でなければ上皇にはなれない。
このことは、エルサレムのアイヒマンが明らかにしている。
しかし、人生を楽しんでおらず、貧しければ、間違いなく国を誤った方向に導く。
「男らしい男」「女らしい女」がいるのは当たり前のことではない。
しかし、性倒錯に詳しくない名誉職ならば「老害」と言われても仕方がない。
「そんなに偉いのならば医学の知識は当然あるんだろう?」と言うしかない現状がある。
結婚した人間にとって正三角形のものでも、独身男女には高さ一センチで底辺は二マイルとされるのが正三角形であり、これがアインシュタインによって指摘された。
独身男女にとってどれほど迷惑な存在であろうか?
平成の時代は破廉恥が横行した。
しかし、少子化も急激に進んだだろう。
瀬能あづさ 秋

スマートフォンは売れに売れた。
それは素晴らしい。
みんな「不健康からの脱却」を行いたかったからだ。
ヨゼフがいなくなることはどのSNSもスマートフォンビジネスも望んでいなかった。
みんなが、現実よりもインターネットを大事にしていると言う意味ではイエスも得をした。
「文字の筋肉」を見ていれば「恋人がたくさんいる」という女など大勢いた。
文字を読めばお金になったし、ヨゼフ・平成天皇の支持者は根強かった。

子育てに「アメリカの理論」など必要なかった。
古い言葉、高校の便覧こそが必要だった。
痛みさえ取り除けばよく眠れる。
そのためには「古風な」親の存在が必要だった。
私も、アメリカにホームステイしてから不眠症が始まっている。
家庭には「古い言葉」が必要だったのだ。

そもそも、銀行と証券会社は「同じ組織が運営してはならない」(銀証分離)という仕組みがあったのだが、この仕組みが廃止され、しかし、「常務会だけは分離を堅持する」とされている。
つまり、社長の悪口を言うのは「常務会」であり、社内の女子たちに非常に人気があった。
一方、社長や専務(社長会)の悪口を言うのならば、「カマを掘られるのは覚悟しなければならない」とされている。
「親を敬わない、先生を敬わない、国を愛さない、人々の意見の違いを認めない」のならば、他の男(ゲイ)にカマを掘られることは覚悟しなければならない。
「尊敬の気持ちを持つ」ことが、カマを掘られることから自由になる秘訣であり、神社仏閣はそのためにあると言ってもいい。
代々木ゼミナールも、秋には「東大合格祈願」という札を配っている。
男の自信を刈り取られないようにするためだ。
カントは「目上の者を敬ってくれ。そうでなければ私の本が読めなくなるだろう」とし、純粋理性批判(黒革の手帖)に書いてある「世界の指導者の口説き文句」への理解力を持ってもらおうとした。
ここで、カマを掘られる理由が「お金がない」「受験に失敗した」「尊敬の気持ちがない」という三つが存在することが明らかになった。
高校で、いじめっ子が「なんだか人生楽しくなってきちゃった」と言ったら、周囲の男子は容赦なくカマを掘った。
いじめっ子(肉)がオカマであることは、「尊敬を知らない」というところにも理由がある。
「女にも分かる話」(ワラント)を話さない哲学者はみんなカマを掘られた。
法学者に「君はまだそんな低俗な学問をやっているのか」という文学部教授はみんなカマを掘られていた。
自分の「ケツ」が気になっているうちは学問がはかどらなかった。
「尊敬」
それだけで、男は「女たちが必要としている言葉」(純粋理性批判・黒革の手帖)を学ぶ力が与えられた。
カントは、「便をすることにしか使わないケツ」のことを「最高善」と呼んだ。
ケツの心配をしながら生きていたのでは、「口説き文句」すら覚えないだろう。
ましてや、女心の定義(政治)などできる訳がない。
「卑屈・負け犬・骨折り損」「無駄足」と言われていた男が、急激に「化ける」のをひたすら待った。
舞祭組

「筋肉質な文章」「自尊心」からも、ノンケかオカマかの区別はついたし、その「肉体美」まで想像できた。
世代から世代に伝わる「進化の秘密」「帝王学」の答えは「最高善」に存在したし、ケツなんてものは「便」をすること以外に用はないという姿勢が求められた。
最高善というものは「哲学の才能」のことであり、これを身につける方法を「絶対的魂」とも呼んだ。
ケツが気になって仕方がないのならば、復活(イースター)を待つしかない。
ケツが性感帯でなくなることを待つのだ。
高橋由美子 三年過ぎた頃には

デカルトが「恋」の研究に熱中していたフランスで、アンソニー・アーノルドは「デ・グランド」アーノルドとして、知られたオカマであった。
アンソニー(ジャニーズ系)とは何かを明らかにしたのだ。
Duran Duran Rio

初恋は実らないって言うじゃない?
アンソニーはオカマだからでしょう。
キャンディキャンディ アンソニー

思春期の「初恋」の研究をしたのはアーノルドであり、デカルトとも実際は親しかった。
アンソニーのことを「マイトレーヤ」と呼ぶのだ。
グランドキャニオンにせよ、リオデグランドにせよ「グランド」と呼ばれる場所はその金で作ったのだ。
そもそも、アメリカの医学のことを「グランドキャニオン」と呼ぶ人もいる。
アンソニーは「ジャンセニズム」と呼ばれる「ジャニーズ」的資金集めを行ったのだ。
今日も「便」をすることだけが楽しみ、勉強するつもりがない、勉強する男をいじめる、下痢をしないようにする、メンズノンノを読んで、ノンケを差別する、それがジャンセニズムだった。
恋を追い越していく男が許せなかったし、メンズノンノ派に興味のない女などいないという考えをもっていた。
酒井法子 恋と愛のニュアンス

男らしい男が「第一世界」ならば、女らしい女が「第二世界」であり、それを踏まえて予言を行うのが「第三世界」であり、「恋」というのは第四世界と言われた。
女子中学生や女子高生の「神さま」は我々とは違うという理解が必要である。

生活保護に関しては、厚生大臣の保護基準の設定は「き束行為」(妹との関係)であるとし、国民所得ないし所得の反映である国の財政状態、国民の一般的生活水準、都市と農村における生活の格差、低所得者の生活程度とこの層に属するものの全人口に占める割合、保護を受けていない多数貧困者の生活より優遇されているのは不当であるとの一部の国民感情および予算配分の事情」
(朝日訴訟上告審判決)
が考慮されて金額が決まる。
き束行為であるという判決は、「クラスメートや従姉妹から」恋をされたという側面を排除し、あくまでも「妹」にその対象を絞ることを意味する。
これを「法規裁量」(クラスメートの女の子)にまで広げることは可能であるのかが重要な論点となる。
アンソニーに恋をしたクラスメート(法規裁量)にまで、範囲を広げると、アンソニー(ジャンセニズム)のあり方は極端に変わる。
思春期に「ジャニオタ」とバカにされながら、いつしかそれもいい思い出に変わり、アンソニー自身は生活保護を余儀なくされる、それが「裁く側」(東大生)の考えであることは事実であるが、き束行為(妹の都合)にとどめている現在の判例から、クラスメート(法規裁量)あるいは従姉妹(便宜裁量)にまで広げるだけで、のちの人生の福祉(パートナー)は変わってくる。
ジャニーズを「クラスで話題にしたことがある」以上、き束行為にはとどまらず、法規裁量であると位置づけ、アンソニーののちの人生まで一定程度、保障する必要がある。
今のままでは「恋を追い越した東大生」の論理がまかり通り、ジャンセニズム(グランド)はかなり冷遇されざるを得ない。
私は、田原俊彦も近藤真彦も知っているが、もっと、女の子のクラスの話題(法規裁量)に配慮してもいいのではないかと考えている。
どれだけ、政治の側が「女の子の思春期の記憶」を政治フォーラムで活用するかにそれはかかっており、政治が動けば行政も動く、あるいは芸能界も動くと考えるしかない。
近藤真彦 愚か者

マリアとヨゼフは、子を宿した時に、アブラハムに祝福された。
「彼には強さが約束されている。彼を恐れるものに祝福を」
ヨゼフがノンケだったため、イエスは、「いじめのない組織においてはみんなが定時に帰ることができる」ということを証明し、オカマだけが「残業、夜勤」を繰り返すだろうとしたのだ。
世代にわたって「人生のフラストレーションや怒りのない」人生が約束されるとした。
オカマは「太い便」をするのが人生の目的だったが、イエスには目的があったし、それを呆然と見送るのがオカマの仕事だった。
「赤いスイートピー」
それだけで男は世代を越えて繁栄が約束されるのだ。
オカマはパートナーから中森明菜の話を聞かされたが、世代を越えることはできなかった。
赤いスイートピー 松田聖子

アフターファイブに「お金と自由恋愛」があるのがイエスの世界であったし、オカマのように太い便をすることだけを楽しみにし、貧困層の人間とは異なった。
中年を過ぎて、「いじめの問題の決着」がつくのを静かに待った。
いじめっ子は「肉」(オカマ・貧困層・ジャニーズ・メンズノンノ)であり、「魂」は世代を越えた豊かさを約束されたため、「人間」として生活保護の問題に助け舟を出した。
「肉」「魂」「人間」の三部作が出揃わない限り、「いじめる側」が、のちの人生で辛酸を舐め続けることになった。
「お金がない」「受験に失敗した」「尊敬というものを知らない」という理由からカマを掘られた「いじめっ子」であったが、生まれつきのものではなかった。

18時の男(オーストラリア派・リベラル)か、23時の男(ロシア派・リバタリアン)かの違いは「便」の都合があった。
「肉」は23時が好きだったし、「魂」は18時が好きだった。
肉体労働者が18時が好きで、知的労働者が23時が好きだというのも側面としては指摘できるが、ノンケが18時が好きで、オカマが23時が好きであるという側面もある。
いずれにせよ、ワークライフバランスの立場からも、いじめのない職場というのは理想であったし、定時に切り上げる男が、残業・夜勤をする男を追い越すのは見ていて心地よかった。
ロールズは、オカマを正社員からどんどん外していき、バーテンや寿司職人にしていた。
そのほうが、ノンケの正社員も快適に働けたからである。
これがイエスキリストの教えでもあった。

「肉」(オカマ・ジャニーズ・いじめっ子)が、のちの人生で生活保護になるとするのならば、芸能界(行政)と、市民、つまり「向こう側とこっち側」を、「肉」と「魂」で区別することになる。
芸能界(行政)には独特の「多数派工作」(道徳)、「他人に影響を与える方法」(訴訟)の論理があったが、あくまでも「肉」であり、「魂」(ノンケ)との共存は部分的なものにとどまらざるを得ない。
芸能界(行政)特有の道徳や訴訟に慣れた女性は、今となっては一般人と結婚することは難しかったし、芸能事情通という名の「行政法学者」と縁を切ることも難しかった。
男の二元論とは「会社」「経費」の世界(一般)と、芸能界・行政という特殊の世界に区別されている。
芸能事情通(行政法学者)とは、東大で心を病んだノンケ(101匹目のワンちゃん)のことであり、母親に見たこと聞いたことを話し、父親(会長)からカネを引っ張ってくることにより生活しているもののことだ。
「肉」(いじめっ子・オカマ・ジャニーズ・メンズノンノ)と「魂」(ノンケ・いじめられっ子)は特別な施設で共存していたが、魂は「鍛えられた肉体と少しの薬」さえあれば才能があるとされた。
物理学や化学はともかく、医学(精神医学)、経済学(男が女を愛することの研究)、法学(男らしさの研究)、文学(いろんなキャラクターの研究)などは当然身につくのが魂であった。
生活保護の世界こそが「肉」であり「芸能界」であり「行政」であることから、「これが苦手」という世論は確かにある。
私も、有名歌手に財布から六千円引っこ抜かれて、奪い返したらお金が破れてしまうと思い諦めたことがあるが、このような文化が愛せないのならば「芸能事情通」は務まらない。

女をいかに「マンガ」にするかが芸能界であり、男ですら「マンガ」だった。
「写メ」と「映画」のようなセックスを想像しなければ、カップルは性生活も営めなかった。
「噂」はYouTubeでいやおうなしに入ってくるが、それも「芸能人のプライベートのため」という側面があった。
実物は「目の大きさ」で判断できる程度である。
政治(女心の定義・ルサンチマン)の側が、積極的に、彼女たちの「渦中」に入っていかなければ、なかなか、生活保護がき束行為から、法規裁量に切り替わることはない。
実物は実際に「兄弟のみの愛」(き束行為)にとどまり、クラスの話題にはなったが、実物との乖離(クローン)の見極めが難しい。
「目が大きい」のが特徴である女たちの「裏表絶対」がある限り、法規裁量に切り替わるのは国の判断としてはなされていない。
この「き束行為から法規裁量への切り替え」つまり「国会の判断のみにとどまらず、行政や裁判所の判断の余地」を認めることは、王がその世界で生き残っていくための高度統治行為に含まれる。
片思いの終わりに 亀井絵里

私は、1996年に東大法学部を去っているが、この時に、マクノートンルールが明確になっている。
「頭のねじがぶっ飛んだ奴には、ケツのねじがぶっ飛んだ奴の記録を書かせよう」

刑法学においては「他行為可能性」(他に選ぶべきパートナーはいたのかな?)という要件を外したとされる。
つまり、どの芸能人女も「グルーニン」と呼ばれる「美しく見える薬」を使用していたため、「王子さま」というものを本気で信じるようになっていたのだ。
グルーニンを試してみれば分かるが、肌は信じられないぐらい真っ白になり、ステージ度胸もつく薬だ。
さんま 深田恭子

男は「オープン」で「速く」なければならない。
女をいかに「美しく」描くかが問われた。
この「男」の実像とも接していなければならない。
明石屋さんま=小沢一郎
という信じられない答えを導き出さなければならないのだ。
この「解」を導き出せなければ、なかなか、生活保護の問題も解決しないだろう。

教育勅語においては「汝臣民、父母に孝に」「兄弟に友に夫婦相和し」とあり、父母を裏切る真似、兄弟を裏切る真似、離婚などは生活保護になる原因となるし、ヨゼフ(父)の年金に対しては、生活保護は「補完的なもの」とされ、障害年金受給者は、年金を補う形で「ヨゼフとマリアが最優先」「妹、クラスメート、親戚は補完的なもの」とされている。
つまり、どれほど政治活動をして「親戚」(便宜裁量)を増やしても、あるいは、クラスの話題になっても(法規裁量)、兄弟(妹)が優先順位が高く(き束行為)、親と仲が悪ければ、どれほど影響力があっても面倒見切れません、というメッセージが、「生活保護は年金制度の補完的なもの」とされる理由だと思われる。
①親
②兄弟
③友
④夫・妻
という哲学が表現されている。
「年金制度は政治家に対して不親切である」というのが麻生大臣の真の意図であり、庶民の問題ではないのだ。

「肉」(いじめっ子・オカマ・ジャニーズ)はグループの中心にいた。
「魂」(いじめられっ子・ノンケ)が、何かを成し遂げる時期になり、オーバーニュのウィリアムはそれが「35歳ぐらいだった」としている。
私は43歳ぐらいだっただろうか。
「肉」から、グループの輪からのけものにされ、それでいて、垂加神道を書き始めた。
「肉」と女たちが、「みんなでワイワイ」やっている時に、「マーケットからの進退を考えたい」と言い始めた女もいた。
本来ならば、「魂」(いじめられっ子・ノンケ)と女は「すれ違うだけの人」となる予定だった。
hiro confession

 

ウィリアムは、「男が立証責任をおっている」として、多くの「証し」を明らかにし始めた。
「神の住む場所」
そこには「群れからはぐれた女」が次々と顔を出した。
女の「くびれのある腰」をみながら「お母さんと仲悪そうだな」などと眺めていたのだ。
ヨーロッパのルネッサンスに影響を与えたのは間違いなく「イスラム」であり、ラテン語だった。
私の文章もいずれ、すべてラテン語になって過去に戻るのだろう。
「肉」が二人に「魂」が一人という三位一体は、芸能界では当たり前だった。
群れからはぐれなければカップルは成立しなかった。
群れにとどまりながら、「マーケットからの進退を考えたい」という女は、孤立した女に「探りの電話」をいれて、決断をするかどうかを判断したのだ。
「いじめられたご褒美に美女が現れる」
これもまた、三位一体の真理とされた。
思春期に自殺を考える男女は四人に一人といわれるが、実際にこれを行動に移すのは13万人に四人程度とされている。
それは「いい出会いがあった」からだとしか考えられない。
よっぽどの面食いが死ぬのだろう。
高橋由美子 バスルームでキャッチホン

 

「いじめられていることに鈍い」「モテることに敏感」な「魂」をウルトラソウルと呼ぶ。
男女共学の高校から東大に受かるために必要な「魂」であるとされる。
鍛え上げられた肉体が条件となるだろう。
また、「恐怖」を感じた時に、いじめてくる男の人生相談に乗ることから学問が身につく。
ウルトラソウル

ウルトラソウルかどうかは、あんがい若い時期に明らかになる。
周囲は、彼が「35歳を過ぎるのを」待った。

ワシらどうせ30までしか生きられんけ。
イギリスの内戦(17世紀)は、子供たちの争いだった。
成績がすべてであったため、「肉」と「魂」の対立の決着の方法は、「成績を貼り出す」「夏休みや卒業を作り出す」という社会契約論から行うしかなかった。
「男らしさを語り合う論壇」(宗教)も、「女心の定義」(政治)も、社会契約論がなければ成立しなかっただろう。
宗教と政治をあわせて「産業」と呼んだ。
男が女を愛することを「経済」と呼び、そこにいろんなキャラクターが生まれることを文学と呼んだ。
美しい女が王室にいたら戦争になったのだ。
その戦争をいかに「受験戦争」にするかが問われた。
受験戦争はゲームとして成立させることが重要であったし、勉強が「学問」と名を変えたら、カント(口説き文句)も学べたし、芸能界の多数派工作(行政法)も学べたし、市民として影響力を増す方法(民事訴訟法)も学べた。
カント(口説き文句)が分かればそもそも影響力を増すため、法律が分かるようになる。
権威は「単位」というものを考えたし、学年末試験もやった。
国内最高の権威は東京大学法学部だったし、その後の人生の「多数派工作」を約束した。
法律は「男らしさ」(宗教)とほぼ同じ意味であったが、女でも法律に詳しいものはいた。
そのようにして、「太い便」をするのが人生の目的であるとする「肉」と、ノンケの「魂」は共存していたし、ウルトラソウルと呼ばれる人物は「魂」の中から選別した。
ribbon 卒業旅行

野球、サッカー、ラグビー、バスケットボール、いろんなスポーツをカントは数学者として作った。
すべてのスポーツに「女心の理解力」が問われた。
将棋も、囲碁も、チェスもカントが考えた。
「どうしても訓練が必要となる」ゲームはカントが考えたものだ。
「純粋数学」と呼ばれ、アキレスと亀のように「女は男を追い越せない」などから、大量ビハインドを追いかけたり、同点の場面ではゲーム理論を使ったり、リードした場面では「自分をいかに小さく見せるか」などを研究したりした。
「7+5=12」とも呼ばれ、プロフェッショナルでも「ファンの声援」は「5」の意味を持った。
ずば抜けた力量は、「7」の意味を持ち、ファンの側ではどうすることもできなかったが、「5」だけはコントロールすることができる。

カントは数学的「処女」と、数学的「セックス」に、仲間が多いことを証明した。
人数は問わず(数学的)に、「処女」と「セックス」はとにかく人気があり、これを音楽作品で用いることは、他の「いかなる人気をも」凌駕したのだ。
「女心」と、その「考え方」を明らかにする必要があり、数学とは「処女」「セックス」「女心」そして「その考え方」のあわせ技であった。
しかも、目の前に「女」がいなければならなかった。
円をどの線で切っても、二つの「コード」は同じである。
女の頭を「言葉」という「線」で切る必要があり、カントは「女の頭にかすりもしない」言葉を排除し、ひたすら「女の頭」を「線」で切り続けた。
「処女」「セックス」「女心」そして「その考え方」の人気を探求したという意味においてカントは生涯にわたって数学者であった。
Qlair 泣かないでエンジェル

女の「頭」は、絶対空間であり、線で切った時の「量」と「外延」をひたすら観察した。
女は「線」の切り方次第では、マスターベーションもしたのだ。
経験豊富な女(純粋理性)は、「お前はコウモリか?」というほどカンが冴えていたため、男もそのカンを参考にすることがあった。
「返信するな」といわれたらしないほうがいい、「ハァ?」と言われたら、自分の「線」の切り方を間違えたと思ったほうがいい。
「処女」「セックス」「女心」そして「その考え方」それはとにかく人気がモノを言う世界であった。

窓の外を見ている女は「哲学」をしていた。
つまり、「質」と「量」の世界である。
しかし、男の言葉は「女の頭」を「線」で切るという数学であり、その「量」と「外延」を見ていくという数学の世界であった。
「質」が問われるのは、その「切り方」の問題であり、「かすりもしない」時に質が問題とされる。
酒井法子 窓際の恋飛行

女の「頭」を線で切っていったところ、結局、女たちは「真理」を求めていたわけではないことが分かった。
自分の考えていることに「人気」があればいいことが分かったのだ。
そのあたりは、かなり「分析的」(女の嘘を考慮した)アプローチが必要になる。
バートランド・ラッセルなどは、女たちは「自分の考えていることに人気を求めている」とし、音楽作品というものはその「宝庫」であると位置づけている。

その「自分が考えていること」が、世界レベルで「基地のアンテナとFENのニュース」で共有されているということが重要なのであり、御言葉から始まり、英語なまりの日本語で「頭を線で切られる」ことを喜んでいた。
Qlair パジャマでドライブ

カントの考えにしたがうのならば、音楽作品は「女が考えていることの人気の宝庫」であることから、女を相手にすることも重要であるが、音楽作品をとにかく英語で「切って、切りまくる」作業の経験値が重要であることになる。

戦争というものは、資金集めをするハト派(ジャストウォー)と、戦闘の現場(タカ派)とな女性たちの三本柱から成り立っている。
ジャストウォーは、女性たちの支持を集め、タカ派の戦闘を優位に進める。
これが古典的な図式であり、カントのように「女性の頭を線で切る」「音楽作品の解釈をする」のがハト派の仕事となる。
しかし、組織には「社長会(社長と専務)」と「常務会」(社長会の悪口を言う存在)があり、常務会は組織内部において、社長会に「戦争」を仕掛けていることが明らかになった。
社長会が、プロ野球などの戦闘を優位に進め、女性たちの支持も磐石である場合に、常務会が、社長会に「戦争」を吹っ掛けることが明らかになった。
この時に、常務会は、戦闘を優位に進め、女性たちの支持も磐石な社長会のおかげで、孤立感を高め、貧しくなっていき、食うものにも困ることになる。
この、「新たな戦争論」は、人道的介入という発想をもたらし、「誰もが人気のある指導者になりたいからね」ということから、食料や救援物資を送られる対象となった。
仲間が多く、女性にモテる、それは男たちの夢であり、何の才能もなくその地位にあこがれるものへの食料や救援物資には「多少の外交儀礼」が含まれていた。
「大量破壊兵器はなかった」と言われたイラク戦争においては、アメリカの社長会は常務会の激しい攻撃にさらされ、アメリカ軍に食料や救援物資を送るとした「イラク特措法」は違憲であるとされた。
社長会は常に戦闘を優位に進め、女性たちの支持を集めなければならない。
現在、私は横浜DeNAベイスターズを柱に戦闘状態であるが、戦闘は常に優位にあり、女性たちの支持も根強い。
これに、宮内庁の西村次長が嫉妬して「その地位を取って代わろう」と考え、常務会を形成したが、暮らしぶりは貧しく、うどんも食べられない。
首相官邸は「西村次長などの常務会」に、食料や救援物資を送ろうという人道的介入を違憲だとは考えていない。
そのまま、うどん一か月分を送ったようだ。
もちろん、食料や救援物資に「ひがみ根性に満ちた人間」への毒物(外交儀礼)が入っていることは確実とされる。
仲間の多い社長会には必ず「常務会」が存在する。
誰もが人気者になりたく、しかもモテたがっている。
Madonna Spanish eyes

社長会としては、「戦闘が優位に進み」「女性たちの支持がある」「お金がある」のであれば、
常務会からの攻撃に「首相官邸と相談する」ことをためらってはならない。
「戦局が芳しくなく」「女性たちの支持もなく」「お金がない」のならば、社長は交代するしかない。
首相官邸の「人道的介入」が合憲であるのか違憲であるのかは常に問題になるが、首相官邸はこのような問題に「慣れている」のである。
人道的介入が合憲である場合に、食料や救援物資に含まれる青酸カリで常務が窒息死しようが知ったことではない。
食い物にも困る、嫉妬心に狂った人間に、首相官邸が「贈り物」をしなければならないのだ。
社長会の「カントの解釈」に支持が根強ければ、男女を問わず支持したし、それでも、常務会は嫉妬に狂った。

実際は、人道的介入の食料や救援物資には青酸カリなど入ってはおらず、「窒息死を予感させる」よくできた薬が入っているだけである。
外交とは奥の深いものである。

よく本を読む個人主義者でもいい社長になることがあるし、仲間を糾合し自分は特別だと考える常務は存在する。
それでも、組織全体は「人気」を見ていたし、争いを静観していた。
あの社長に喧嘩を売るなんて、常務は殺されるんじゃね?と考える人が多かったが、とにかく、常務の嫉妬心は尋常ではなかった。
首相官邸は国際社会でイラク特措法の違憲判決などを経験し、この問題に詳しくなっていたため、国内の、いかなる「人気のある社長」も首相官邸の人道的介入を利用してもいいことになった。

そもそも、女性たちの支持とはマタイ第五章の「山上の垂訓」のことであり、端的に言うと「喧嘩ならば向こうでやってよ」というのが山上の垂訓の意味である。
それが、パシフィズムと呼ばれ、それを「反戦運動」と翻訳していいから明らかではない。
反戦運動と翻訳することは、日本国を「二度と戦争のできない国にしてやろう」というアメリカ合衆国の思惑が見え隠れする。
実際は、パシフィズムとは「パシフィック」(太平洋)から派生した言葉であり、「記憶のない海」とも呼ばれたものだ。
平成天皇の「慰霊の旅」などは知られているが、ガンディーは「アヒンサー」(非暴力)という意味だとしており、山上の垂訓(マタイ第五章)とはようするに「向こうでやってよ」という女性たちの気持ちを語ったものだとしている。
そんなことを言うのならば、哲学の研究など、かなり高度な学問も「向こうでやってよ」ということになり、ヨハネの黙示録ともつながるものとなる。
記憶のない海においてはそもそも「勝負事」は存在しなかった。
パシフィックリーグは、セントラルリーグと異なり、「ベンチに三億円流れる」ようなことはない。
パトリック・ヘンリーは「私に自由恋愛を与えるか、それとも臨終の言葉を述べさせるかのどちらかにしてくれ」(自由か死か)とし、パシフィックを「平和の海」「記憶のない海」としていた。
マタイ5:39 5:44 ルカ6:27-30 悪を行うものに逆らうな。敵を愛せ、あなたを起訴するもののために祈れ
つまり、「力のあるものが勝つ」「勝負事をお金で買収することはない」というパシフィックリーグの基本を示した。
【しかし、太平洋戦争は起きた】
つまり、勝負事をお金で買収することのない「殺し合い」だけが、日米・米中・日中・日露などに存在したのだ。
これは「暴力を振るったものが歴史に名を残す」という東京裁判史観と呼ばれ、日本の大河ドラマの伝統ともなった。
「日本人にカントを学ばせるな」
これが、パシフィズムであり、山上の垂訓であり、イエスキリストの考えであった。
「記憶のない海」とは、日ユ同祖論でもあり、イエスキリストが日本国というものを「戦争のない国」「女心の分からない国」にしようとしたものと考えられる。

1980年代に、日本国で「パシフィズム」「記憶のない海」「女心が分からない国」というイエスキリストの教えが花開いた。
松田聖子 ロックンルージュ

その「神・男・聖霊の完全性を議論すると爽快感がある」というイエスキリストの教えは、21世紀になるまで「真の意図」の分析はなされていない。
セントラルリーグは、「スパイ野球、八百長」が横行していたが、1980年代1990年代の音楽作品の分析によって、「お金がモノを言う」世界となっている。
平成天皇の「慰霊の旅」による「太平洋の記憶」は、令和天皇が呼び覚ました。
「女心」「記憶」を知った以上、令和天皇が「慰霊の旅」をする必要はもうないだろう。

そこで、ガンディーの「アヒンサー」(非暴力)も、あくまでも日本国へのメッセージであったことが明らかになっている。
「怖い国」「イエスキリストが王国の到来に指名した国」
それが怖かったのだ。

こんなにカネがポンポン飛び交う国だと、大変な宗教ができかねない。
平成天皇は太平洋で「女心」を感じたし、令和天皇は論文からそれを感じた。
ルサンチマン(女心の定義の正確性・政治)は、太平洋戦争のときは日本国は知らなかった。
サンフランシスコ(スタンフォード大学)と、神奈川県の海でキャッチボールが成立するまでは、「南の島」の秘密とされていた。
ヨーロッパでは自由に女の子を口説けないと考えたオルテガ・イガゼットがゴーギャンなどとともに「カント」(口説き文句)を南の島に持ち込んでいたが、日本軍はそんな「南の島」に進出したのだ。
パールハーバーを叩いたら、イギリス軍・オランダ軍が一気に南の島から撤退した。
「殺し合いはごめんだ」
しかし、日本国に「カント」はいなかった。
イエスキリストは「1980年代まで」日本国において沈黙を守ったのだ。
アメリカ合衆国は、日本国との戦争を、必ずしも「過去のもの」とは考えていない。
日本国にイエスキリストが現れれば、アメリカ合衆国は、日本国との友情を「もはや古いもの」と考え、フィリピンやインドネシアなどに「若いアメリカには若い友人を」探し始めるだろう。
アメリカが日本国の令和天皇の老化とは逆に「若返る」のは事実なのだ。
Qlair タヒチアンラブ

「目立ちたい?」それが罪深い。 日本国は、「殺すのならば罪人を」をキャッチフレーズに、防衛省を芸能界の発信源にし始めた。 芸能界にデビューしたければ「自衛官募集」に応募するしかない。 プロデューサーも制服組だった。 「肉」(オカマ・ジャニーズ・いじめっ子)と「魂」(ノンケ・いじめられっ子)という構図を超えた、より高貴な動機から「女心に恋をする」人間が必要とされた。 それでも、「目立つのは罪深い」「今度こそ天皇は戦争責任は免れまい」という考えが、芸能界やアカデミズムの主流となった。

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