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2019年7月 2日 (火)

ボディ&ソウル。

肉とは単なる男であった。他の男と区別がつく程度の男だった。
いじめられる側が男だとするならば、いじめる側(肉)は女だった。
しかし、本当の「女」は仲間作りが好きだったし、勉強をする男を愛したが、肉(いじめる側)は、そのことから下層階級となっていた。
女たちにとって、仲間のいない、勉強も嫌いな「男」(肉)は、女の側の立場に受け入れるのが困難だったが、性別的には女だった。
歳をとり、病気になり、射精が出来なくなると、女たちからの「尊敬」も失った。
肉は「女」のご機嫌をとった。
そこには「宗教」がなかった。
「信じる」ことが出来ないのだから付き合うことも出来なかった。
「病気」というものが存在する限り、【魂】(いじめられる側)とは異なり、生きることが許されなかった。
やがて、肉は介護を必要とするようになるだろう。
オハイオ会議で、「肉とは下層階級の男である」という定義がなされた。
国への義務もなく、人種的純粋さもなく、女に「触らないで」と言われた。
「私は女」
これが強烈に推進されたフェミニズムの時代に、肉(いじめる側の男)は居場所を失った。
歳をとると重いものも持ち上げられない、子供も産めない、つまり「女」だった。
そのように産んだつもりはなかった、しかし、「肉は女となった」のだ。
精子と卵子の世界も卒業した。
女を高い場所に引き上げられなかった時点で、イエスキリストではなかった。
昔は「男の子」だった。
しかし、教育と周囲の影響が異なった。
身体能力が弱かったのが致命傷だった。
身体能力が弱かったために「受け身」になることを知った。
力が弱かったから「女」として生きることに決めた。
女としての生殖能力はなかった。
子育ては「最悪の苦しみ」だった。
「肉」は生殖機能の違いから「女」との違和感を感じ始めた。
「世界に背を向け始めた」
「おちんちんついてるんでしょ?」とよく言われた。
カマを掘られることを覚えた。
肉体で性別は区別される。
勘違いしないほうがいい。もし、マッチョな男のカマを掘れると思うのならば。
学歴がなかった。仲間がいなかった。
女のようにグラマーでもなかった。
しかし、「女の子」と呼ばれたがった。
どのように社会が受け入れろというのだろうか?
Fランキモヒキニートの正体がこれだった。
いじめっ子の末路だった。
「男であることへの違和感」を感じ始めた。
座っておしっこをするようになった。
医学の世界は「性倒錯」という言葉を用意し始めた。
「女のように」彼女に捨てられた。
顔を鏡で見ると醜かった。
電車の中で泡を吹いて倒れた。
より「女らしい」体形を目指した。
いじめっ子、その人生の末路がこれだ。
そこには宗教(男らしさを語り合う論壇)はもはやなく、母であることも出来ない。
いじめる側の論理の「結論」がこのようなものだった。
SPEED Body&Soul

肉(いじめっ子・オカマ・ボディ)は、やがて「現象学」を発見した。
現象学というのは「自分の世界の広さ」という意味であり、それはファッションであったり、多数派工作であったりする。
ファッションを口実に「魂」(いじめられっこ・ソウル)をいじめたりした。
「色あせたTシャツ」
これが宗教として成立したのだ。
新田恵利 恋のミスマッチ

メンズノンノは「いじめの法廷である」とされた。
いじめの法廷があまりにも巨大化し、しかも、カマさえ掘らせれば金に困らないことを知った。
肉は子孫が残せなかったため、心を病んだ。
手足が二本以上あるように感じたり、不思議の国のアリスのように身長を間違える妄想に駆られたりした。
「大ぼら吹き」になったりするのはそのためだ。
「心の風景」といっても「メンズノンノやブランド物」のことばかりだったりする。
自分の体が「タコ」のように思えるのだから仕方がない側面がある。
「肉」の人生に救いがないと思ったら大間違いだ。
「メンズノンノやブランド物」という女の夢が多くつまっているのだ。
いじめっ子として、そしてオカマとして、「現象学の発見」は行ったが、
彼らの「いじめる側の人生」は税金が高かったのだ。
親に面倒を見てもらっているうちは、生活ぶりも豊かであるし、「なで肩」でもそれなりに、女にモテたし、おシャレであったが、社会に出て最貧困層に落ちる宿命にある。
二十歳過ぎたらただの人とも言われる。
なで肩の長い夜

メルロ・ポンティは、「肉」の「現象学」つまり、十代の頃のファッションや仲間作りに自分の哲学者としての人生の活路を見出している。
大人になったら最貧困層に落ちる連中であったが、ジャニーズ系として、若い頃はモテることになったし、親からも税金が取れたからだ。
いじめる側からどのように税金をふんだくり、最貧困層に落とすかの力量が国に求められた。
CoCoが「魂」の青春と歌ったとするのならば、ribbonは「肉」の青春を歌っている。
CoCoは「木綿のパンツ」と言われ、ribbonは「シルクのパンツ」と言われていた。
「肉」「シルクのパンツ」の音楽作品の基盤はすべてメルロ・ポンティが書いている。
JC(日本青年会議所)は、「肉」であり、「シルクのパンツ」であり、財界二世は親のビジネスを一人で傾けた。
年寄りたちが、「肉」は最貧困層に落ちるということを熟知していたため、社会として「虚弱体質」「いじめっ子」「オカマ」をどのように受け入れるかという議論がなされたのだ。
どんな人生にも「人権」というものはあったし、メルロ・ポンティは「いじめる側の論理」の末路に痛く同情し、理論を提供したのだ。

「魂」
さて、魂とは「いじめられっこの論理」のことであるが、そもそも哲学者の歴史が魂の歴史であり、エピクロス派(暴君)にせよ、ストア派(ストイシズム)にせよ、哲学者はいじめられてきたのであり、しかし、筋骨隆々としており、ノンケで大人になっても女たちの「信仰心」の対象となった。
ノンケでなければ、そもそも「政治」(女心の定義・ルサンチマン)は不可能であり、音楽作品を愛することもなかっただろう。
筋骨隆々という「体」をみなければ、男の才能というものは分からないのだ。
宗教というものが「男らしさを語り合う論壇」であるとするのならば、親がいなければ最貧困層に落ちる「肉」とは一線を画したものが「魂」にはある。
「彼には強さが約束されている。彼を恐れるものに祝福を」(ルカ1:46)
松田聖子 赤いスイートピー

ホメーロスも「魂」についてしか詩を残していないし、ヘロドトスやトゥキディデスも魂を持った人物しか歴史書に残していない。
「肉」がなぜ貧困層に落ちるかというと、「女心」(政治・ルサンチマン)に疎いからだ。
いじめっ子(肉)は、凡庸な男でありながら「女」としての側面を有し、「女のマイルール」に話しをあわせてしまうため、「勉強が好きな男が好き」という女にとっては、「飼う」分には問題はなかったが、信仰の対象にはなりえなかった。
「魂」は、大人になったら豊かになる。
なにしろ「女心」に詳しかったため、女たちに人気があったのだ。
ノンケの「魂」にとって、「肉」とは研究対象に過ぎなかったし、肉は肉で何も研究しようとは思っていなかった。
「肉」「魂」「人間」とは、魂の男のための学問であった。
世の中では「いじめの存在は真理」(三位一体)とされていたため、「肉」の存在、「魂」の存在は真理であったが、神は自分に似せて「人間」をつくったとされるように、肉と魂が、死んだあとに「人間」という概念が世の中で継承されていったのだ。
歴史の教科書を見ても「魂」の男しかかかれていない。
そのため、のちの「人間」は、あらためて「肉」の勉強をしなおさなければならない。
肉の研究なくして魂は存在しなかったし、肉(いじめっ子・オカマ・大人になったら最貧困層)の研究は常に歴史上の人物のテーマだった。
「魂」に詳しい「肉」は存在し得なかったが、肉に詳しい魂は不朽の存在として尊敬された。
ミクロでは「肉と魂」、マクロでは「社長会と常務会」で国家というのもは成り立っている。
肉は魂をいじめ、常務会は社長会の悪口を言う。
肉は「若い時期だけ女の子にモテる」し、常務会は「修羅場さえなければ影響力を維持できる」ものだ。
肉に詳しくなった魂は、常務会や専務から社長になるだろうが、そんなときにも「常に二つの顔」を使い分けなければならない。
プロレスラーとしての自分と社会人としての自分である。
それが「組織の頂点」の役割なのだ。
アーティストは「喧嘩をするという発想を捨てなければならない」とされ、つまりは、虚弱体質でなければ向いていないが、つまりは「肉」という意味であり、シンガーソングライターのように「魂」を歌うことは本来は想定されていない。
そのあたりは「喧嘩上等」の男(魂)に、いかに「教育」をするかが重要であり、オカマ、いじめっ子・最貧困層としての「肉」は本能のおもむくままに「駄曲」を作るだろうが、スコアを書く魂のいうとおりに演奏していれば問題はない。
喧嘩上等の男に、いかに「自覚」してもらって、魂を表現させるかは教育次第であり、若さだけに必ずしも依存するものではないのが音楽というものだ。
若い女の子は、肉(メンズノンノ)の男に恋をしがちで、魂(色あせたTシャツ)の男に恋をするためには教育が必要になってくる。
この、「教育」は、音楽作品でなされるものであり、女の子は「歌を歌いながら」生活しているため、彼女の人生をより豊かにするためには、そのような脳の領域にそのような音楽作品を流し込まなければならない。
そうでなければ、「くだらない男」(肉)を取り合うことになりかねない。
うしろゆびさされ組

一定程度年齢を重ねた女が「ビビビ」と来るのは「男が豊かだから」であり、「肉」と「魂」が、明暗を分けるような年齢になってからであろう。
しかし、歳を重ねた女の「ビビビ」を若い女の子にも引き起こさなければ、すぐに別れるか、それとも貧しい生活を余儀なくされるかのどちらかだ。
脳の中の意思の伝達を遮断してしまうことを「ビビビ」と呼び、若い時期にしかないことが多い。
あるいは、くだらない男(肉)とセックスして、自分の影響力が損なわれたあとに、ストイックな「多数派」「なにかやってくれそう」という男に脳の意思の伝達が遮断され「ビビビ」と来ることがある。
おニャン子クラブ ショーミキゲン

肉(メンズノンノ)に女の子が恋しても、社会人になって、その「肉」がどうなったかはほとんど知られていない。
みんな、オカマ・いじめっ子・最貧困層に落ちているのだ。
ジャニーズに恋をする女の子は誰も止められない。
しかし、歴史に残る人物は「ジャニーズ」(肉)から目を背けることはなかった。

「肉」(ジャニーズ系・オカマ・いじめっ子)でも、理論的指導者ならば歴史に名が残る。
ジェラード・コーデモイであろう。
ヨーロッパの「ペルシャ人差別」とは、「肉」差別のことであり、ジャニーズ差別のことだとしたのだ。
ヒトラーはペルシャ人差別は行っていない。
ペルシャ人差別は決して「権力者への道」にはつながらないのだ。
「いじめる側の論理」を知り、彼らが最貧困層であることを見抜かなければならない。
ペルシャ人になるのは「生まれつき」ではない。
体を鍛える環境になかった、親に食事を抜かれたなどの経験から来るものだ。
それでも「若い頃」は適当にモテた。
「騙せる女」がいなくなったらバイトを始めた。
「肉」として生きるのは「風まかせ」の人生だった。
たまたま人気が出るときもあるが「防衛戦」などできなかった。
「心を語れ」
といわれても、女に興味がもてないのだ。
ようするに「カマを掘られて、男の自身を刈られる」とは「女に興味が持てなくなる」ことだった。
セックスは出来たが、「女が何を考えているかに興味がない」ため、むしろ、セックスは気持ちがよかった。
肉のセックスへの執着は「女心に興味がない」ことから生じていたし、頭がイカれていても、貧しくても、とにかく「モテる男」への嫉妬心は尋常ではなかった。
ペルシャ人差別とはこのようなことが背景に行われたものだ。

そもそも、「肉」はなぜ「魂」をいじめるのだろうか?
「太らないため」とも言われるし「こういう奴がいると俺、下痢しちゃうの」という理由も指摘できる。
しかも、学問は女の子たちに人気があった。
「肉」は、貧しく、オカマで、昔、ジャニーズみたいだったが、今となってはただの貧乏人だ。
なんの教養もない。
とにかく「目的を持った奴」がいると下痢しちゃうんだよね。
デカルトは「幾何学・光学・目的的行為論」において、「望遠鏡で女子部屋を覗くことを邪魔してもらいたくない」という議論を行い、1996年には「クスコ」というものがポルノで知られるようになっていた。
デカルトは「女の子を口説くために勉強をするよりも、ポルノを見たほうが下痢をしない」ということを、明らかにしたのだ。
「肉」はしかし、女心に興味ないために「セックス」は気持ちよかったが、クスコにも女のマスターベーションにも興味がなかった。
和式のトイレで下痢をするたびに、「目的を持った奴」をいじめようと誓った。
運動量保存の法則はこのことから明らかになったのだ。
ストッパ下痢止め CM

「目的を持った奴(魂)をいじめて、コントロールすることによって下痢を止めたい」これが、肉の本音だった。
デカルトが「いじめられないため」にポルノを考えたのであり、デカルト以降に「裸の女の絵」が多く描かれるようになった。
一度動いたものは動き続ける、すべての動きが一直線である。
多くの「肉」が私をいじめてきたが、私は社会から心を閉ざしてまで「一直線」に進んだ時期もあった。
とにかく、私の「左フック」を受けた橋本真也は、その後、下痢が止まらなかった。
「他人の目的」をコントロールしなければならなかったのだ。
目的といっても「女目当て」なのが学問だった。
橋本真也とは抜き差しならぬ状況になり、私はとにかく殴ったのだ。
下痢を止めるために「やんわりと」いじめというものは行われるが、それに「力で」反撃したところ、橋本は延々と下痢をしていた。
5キロぐらい痩せたともいっていた。
いじめられない秘訣は「目的を持たないこと」「カマを掘ると暴言を吐くこと」などが考えられる。
カーマは気まぐれ

「肉」は、肛門も性感帯であるため、カマを掘るといっても殴ってなど来ない。
力を弱めるだけだ。

デカルトは、30年戦争の終わらせ方について考えた(1648年)。
オランダのグロティウスが「性の経験の違いでヨーロッパを分けよう」とデカルトに話したことを受け、だったらヨーロッパの「肉」(いじめっ子・オカマ・ジャニーズ系)も何とかならないか?と考えたのだ。
グロティウスは「デカルトと会ったことは覚えていない」と言っていたが、デカルトは「オランダの天才と会った」と語っていた。
デカルトにとって「肉」の行き着く先が見つかったのだ。
オランダに「肉」(いじめっ子・オカマ・ジャニーズ系・虚弱体質)を送ることにした。
30年戦争の結論であることは明らかであり、カルヴァン派の誕生の秘密だ。
「処女アイドル」と「肉」はともに同じ国で育った。
オレンジ公ウィリアムが名誉革命(1688年)でのちに「オランダ美人」をイギリスに売りつけている。
虚弱体質は、環境や栄養とともに変わるであろうが、国の生い立ちとはそのようなものだった。
小泉今日子 和蘭美人

「肉」と呼ばれる男は「下痢をする」つまり、「自分よりも優れた男の存在を認める」ことから「神」を信じている。
「魂」の存在から、魂(ノンケ・哲学を理解できる者・成績優秀)をいじめるのが「肉」であるが、「下痢」という事実から、神を信じることを覚える。
自分よりも優れたものがいることを「体」が認めているのだ。
男が男を崇拝する世界が「神」であるが、「肉」の存在が「神の存在の証明」となるのは皮肉なものだ。
パスカルは「人間は考える葦である」とし、哲学者にとって学問はなんら苦痛ではないとしたが、他人の「「心」に恐怖を感じる限り、下痢はするし、神を信じていることになる。
動物の内臓を摂取すると「人の顔色が分からなくなる」とされているが、ストッパにホルモンが入っているかどうかは明らかではない。

とにかく「肉」は、カント(口説き文句)が理解できなかったのである。
「鏡」を見る(ピタゴラス的展開)習慣が必要になってくるし、しっかり鏡を見て、顔を作らないと、神経に悪影響を与える。
高橋由美子 あと5分

私も、野球をやっていた頃は、ユニホームに帽子をかぶり、帽子をかぶって鏡を見ると顔が分からなくなるために、「トイレに行こう」という発想をなくした。
「なりたい自分」によって我々は「生かされている」ものだ。
「肉」が、ファッションにこだわる理由も「なりたい自分」になれば下痢をしなくなることが指摘可能である。
他人のおしゃれにも常に関心があるのが「肉」というものだ。
ピーコのファッションチェック

小学校にも中学校にも「制帽」というのは存在し、男子が「大きいほうの」トイレを使用することはほとんど想定されていない。
「肉」が神という概念を「下痢」「自分よりも優れた人」から生み出したため、「帽子」というものが考えられている。
自分よりも優れた者を相手にするときは常に「帽子」というものが必要になってくる。
難しい判断や考えをするときの「鉢巻」もあんがい有効だろう。
帽子や鉢巻のコンセプトは「いかに自分を小さく見せるか」というところにある。
BoA ネコラブ

ニットなどは嫌いな人(魂)もいるだろうが、肉(オカマ・ジャニーズ系・いじめっ子)は好んで被っている。
糖尿病の人は、パトロールキャップを好む人もいる。
いずれにせよ「帽子が似合う」というのが「肉」の特徴であり、ホモである。
肉の発想は当然、魂も積極的に活用しなければならない。
お相撲さんも、自分よりも強いものを相手にするために「まげ」を結うだろう。
下痢が止まる、頻尿がとまるという意味では非常に「帽子を被る」というのは人気がある。
次元大介

「肉」は「魂」に声援を送ることもある。
ボディビル 掛け声

中森明菜のほうが、松田聖子よりも「筋肉質な男」をモデルにしており、肉(オカマ)たちは、アニキ(魂)の受け売りとして、中森明菜を応援していた。
「神・男・聖霊」を歌った松田聖子よりも、より複雑な女心を歌った中森明菜は松田聖子よりもより複雑に「女心」を理解している「魂」にしか理解できないものであり、肉(オカマ)は、そもそも「アニキの受け売り」としてファンであるとしているのだ。

エロビデオを見て「女が嫌がっているじゃないか」と考える情報弱者に悩む女がいる。
中森明菜 十戒

友情の18度と呼ばれるギリシャとローマの関係があり、彼氏が旅に出た時に初めて、彼氏と「認め合う」「対等である」ことに気が付き、ふたたびエロスの世界に戻れた。
中森明菜 北ウィング

ギリシャとローマの関係(グレコローマン)を歌ったのが北ウィングなのだ。
レスリング グレコローマン

そもそも、「肉」(オカマ・メンズノンノ・ジャニーズ系)に深い音楽作品の意味は分からないのであるが、「魂」(ノンケ)の側にも「ストア派」(政治家)と「エピクロス派」(庶民)の違いがあり、ストア派は松田聖子を支持し、エピクロス派は中森明菜を支持した。

男が男を崇拝するという「神」概念は、「肉」と「魂」の関係でもあり、「魂」こそが「神」になる資格があった。
君主が「神はゲイを憎んでいる」つまり、「魂」(ノンケ・いじめられっ子)が「肉」(オカマ・いじめっ子)を憎んでいると発言することは「神聖な罰」と呼ばれ、いじめを憎むことは「肉」にとって強烈なフラストレーションとなる。

アメリカの人間行動学によると、「肉」と呼ばれる「10代でアナルセックスを経験する男の子」は全体の8%だとされ、残りは「魂」として、聖子ちゃん派か明菜ちゃん派かのどちらかに属している。
そのような数字の存在は指摘しておきたい。

男の子は「陰毛が生える前には精通している」とされるが、「快感」が先行し、そのあとに「精通」を経験する。
問題は、「快感」が先行した時に「セックスしてしまう」という問題が指摘できる。
この問題に、デリダは「セックスとはその女の”子供の気持ち”を味わう行為である」とし、母子家庭における「マザーファック」が原因ではないかとしている。
とにかく「精子が薄い」「出ない」ことへのトラウマから、中学校に上がって周囲が「カルピス」などと噂し始めることに、やけくそになって「両刀遣い」になる男の子がいるのだ。
神という概念を議論する「肉」と「魂」とは異なる論理が、両刀遣いには存在する。
「攻撃に等しい大きさの反撃を」というのが正当防衛の理論だとするのならば当然、「肉」の範疇に含まれてしまうだろうが、母子家庭ならば通常は「体を鍛えない」ということは指摘が可能であり、しかし、両刀遣いの「攻撃性」というものが存在する。
中年以降も子供がおらず、攻撃的な性格をしているのならば「両刀遣い」である。
しかし、私の知り合いの両刀遣い(王子)は、「松田聖子が好き」と発言している。
「肉」と「魂」という議論だけでは必ずしも「いい男選び」の議論は完結せず、そのために「人間」という議論が残されたものと考えられる。

男の子が「カマを掘られる」理由としては「お金がない」ということが男子同士では想定でき、父と息子の間では「受験に失敗した」ということが指摘できる。
神学上は、両刀遣いというものは「お金がない」「受験に失敗した」のどちらかは必ず存在し、そのため「肉」に過ぎない、という議論が「人間」というテーマで語られている。

結局、神(天皇)の見えざる手というのは、「お金の裏づけを国民に与え」、「肉」の「魂」崇拝、つまり「有神論」国家から、エイシスト国家にするのが目的であるとも考えられる。
つまり、「男の子を男にする」「女の子を女にする」ということを明確に達成すると、おのずと、無神論(エイシズム)が成立すると考えられたのだ。
「肉」を自分の都合のいい方向に導くためならば、「魂」ですら「神」という概念を都合のいいように用いるだろう。
そのあたりに、エイシストの善良性および理想が表現されている。

また、女にとっては「肉」と「魂」という男の区別よりも「勃つか勃たないか」しか興味ないという指摘もある。
「肉」と「魂」という議論は、組織論であり、帝王学ではあるが、「女の都合」とはあまり関係ないのではないかとされたのだ。
しかし、「男は頭をつかわなければ勃たなくなる」ということから「デカいよデカいよ」という声援が「肉」から「魂」へと飛ばされている。

人間社会を導くために「神」という概念は必要なのではないか?
そのために「肉」(ホモ)の「魂」崇拝をなくそうと考えた国はニュージーランドぐらいしかないとされる。
「神」それは巨大ビジネスであった。
「肉」「魂」の二つの論点を消化しないと「人間」という三つ目のテーマには移れない。

「神」が生み出すビッグマネーを「肉」(オカマ・ジャニーズ系・貧困層)の撲滅のために用いていいのだろうか?
神(天皇)の見えざる手は、ひたすらこの問題と向き合わなければ「宗教官僚」を有する君主とはいえないのだ。
「お金がない」「受験の失敗」にカマを掘られる理由は絞られる。
また、それは、国の問題ではなく「地方自治」の問題ではないかとも言われた。
男社会に「神」が存在するかどうかは、「肉」の「魂」崇拝が基盤になっており、女性たちが神を信じることには変わりはない。
人間社会で「神」と言えばお金が動くことから、どうしても「男社会の論理」を議論する必要がある。

私法(男女の出会いの場を作る・性病の治療をする)、
公法(朝鮮の行政調査・朝鮮への行政指導)、
政治(クラスメートから親戚へ)、
という、法学部のアプローチとは異なる、神学部のビジネスモデルはこのようにして作られた。
市民の「同調行動」が存在する限り、国の富は永続的なものとなる。
8%の「肉」はデータそのものが消える気配はない。
しかし、文部科学省も宮内庁も「恒久的に」政策を打たなければならない問題である。
「お金がない」「受験に失敗した」という二つに男の子がカマを掘られる理由は限定されている。
「お上からのお金」の使い道は明らかではないだろうか。
また、「肉」「魂」「人間」という議論を明確にすると「女性たちからのお金」に頼ることが可能となる。
どの女も「口説かれたい」ものだからだ。

体を鍛えた「魂」に「肉」が「切れてるよ!」と祈る。
サングラスをかけた「魂」に「肉」が「健さん!」と祈る。
音楽のレッスンを受けた「魂」に「肉」が「永ちゃん!」と祈る。
男たちの「祈り」に、処女たちは巻き込まれていかざるを得ない。
処女たちは、学校で「だって彼女はマリアだから」というような「病んだ」世界にいたため、男の「祈り」は健康によかった。
「肉」が「魂」に祈るということを撲滅しようとしたのは、ニュージーランドだけであり、それ以外のどの国でも「肉」(オカマ)の存在を否定しようとは考えていなかった。
男性社会のオカマという、全体の8%、つまり、マッキントッシュやフェラーリみたいな存在をどのようにコントロールするつもりなのか?
カマを掘られる理由が「お金がない」「受験に失敗した」という二つに絞られるのであれば、国や地方自治体が「介入」できるのは明らかではないか。
結局、「肉」の「魂」への祈りというのは「処女たちの健康にいい」ことも踏まえて、神(天皇)の見えざる手は常に全体の宗教界の動きを見ていかなければならない。
矢沢永吉 ライブ

男の美容整形とは、男が「女」になるために行われるものだ。
血液ドーピングや、ステロイドは、男が力を増すために用いるものだ。
いい雰囲気のレストランとは、そのような男たちのサロンだ。
「肉」の「魂」崇拝、つまり「神」の集金力は人間の寿命を延ばす。
男の8%のオカマは、国にとってメリットしかない。
しかし、オカマになった原因はあまりにも気の毒ではないか。
また、「魂」も、「そこまで絞るのには眠れぬ夜もあっただろう」と言われるような肉体が「電気とメカニック」だけの状態になることがあった。
「処女が健康になる」
以外に、「祈り」には苦しみがともなうことが分かった。

どの男も得をしない「皇室は祈りでありたい」(美智子)という立場は、しかし、男たちに「多数派工作」の方法を教えた。
しかし、「もっと楽な人生はないのかね」という立場は当然、存在したし、「俺の才能を後の世代に伝えたい」という遺伝子プールというものもあった。
男にも「サクリファイス」(カマを掘られる)、「サヴァイブ」(死んでも私のことを覚えておいてもらいたい)という発想が「祈り」の世界に存在した。
「祈り」の背景に何が存在するのかの説明は今まで十分なされてはいなかった。
普天間かおり 祈り

祈りの世界は男の苦しみが多い、として、「神」の集金力で医学を発展させるよりも、多少苦しんで医者になったほうが早いとも言われた(皇室は祈りではない)。
しかし、美智子が「皇室は祈りでありたい」といった背景には「男たちは勃たなければならない」という考えがあり、男はそもそも「勃つために苦労する」ものだという認識があった。
男たちが「勃てば」処女を愛する可能性も生まれた。
神(天皇)の見えざる手は、祈りのど真ん中にいる必要はない。
テレビでの報道を見ていればいいのだ。
障害者の「スペシャルオリンピック」(パラリンピック)や、そもそも練習する環境がない国同士の「スーパーオリンピック」が知られており、ルール作りも整備されている。
これは「祈り」を否定するものだ。
祈りを否定しても、何しろ世界は広い。
面白いゲームなどいくらでも作れるのだ。
そのため、「皇室は祈りでありたい」という立場は世界では否定する動きが出てきた。
オリンピックの金メダリストだけが人生の目標ではなくなったのだ。
オリンピックを「スペシャルオリンピック」「スーパーオリンピック」が笑いにかえるという発想をとり始めた。
「ルール作りだけで何でも面白くなるし、お金が集まる」
コンピューターを使えば、世界で盛り上がる企画などいくらでも作れたのだ。
「皇室は祈りでありたい」(美智子)という発想はすでに世界から見放されたのだ。
コンピューターの時代のなせる技だったのだろう。

世界の「母・恋人・友人」であるためには、女の側から「抱いて」と言えることだとしたが、そもそも「セックスされる側」としての女は、自分から「女心」を詩にすることは極めて困難な作業である。
私の祖母も「バイロン」の詩の翻訳家であるに過ぎなかった。
私と松田聖子の共通の祖母である遊佐道子はバイロンの詩がなければ「抱いて」も書けなかっただろう。
薩摩から昭和天皇に嫁いだ理由は、「どの女も言えなかったことを言った」からである。
「抱いて」という詩を書ける女性シンガーソングライターはまったくといっていいほどいない。
それほど、世界の「母・恋人・友人」になるのは困難な道なのだ。
松田聖子 抱いて

「肉」というのは「いじめっ子・虚弱体質・オカマ・ジャニーズ系」を意味する。
歴史に残る「魂」と反対の概念である。
肉は「女に興味がもてない」ものである。
ステーキ CM

女にとっての「肉」とは何か?
クラスの輪に加わってワイワイやっていると、どうしてもいじめっ子(肉)の方がいじめられっ子(魂)よりも魅力的に思える。
魂は歴史には残るだろうが、それでも、女の側としては「ついてはいけない修練」があり、楽して仲間を作るためには、「肉」の側につかざるを得ないのが女というものである。
この女の心理を「心」と呼ぶ。
それにしても、「肉」はいきなりフェラチオを強要するオカマであった。
「魂」の鍛え上げられた肉体を見ろ。
鍛え上げられた肉体を持ったノンケの男(いじめられっ子・魂)と、付き合えない女はまるで中国の「纏足」のように女たちが「肉」(クラスの輪・いじめっ子・オカマ)に縛られて「恋」ができない現状を示している。
女がフェラチオを強要されるのは「当たり前」ではないのだ。
ある意味不幸な「男への従属」であった。
鍛え上げられた肉体で相手を寄り切った時に女たちの「心」に感謝した。
怪獣のバラード

ヘンタイプレイをする男の「子供を産む」と、一生そのプレイに付き合わなければならない。
そのあたりは、ロー対ウェイドでも議論した(触らないで)。
米光美保 YADA

受験を「力で押し切る」のならば「学歴も人種」であるということになるが、日本国では機会の平等も含まれており、「高学歴」=ノンケとは必ずしもなっていない。
韓国で「学歴も人種」と言われるのならば「ソウル大学」=ノンケというものがかなりの精度で成立しているものと思われる。
何しろ韓国の乱暴な男たちの間で生き残っているからだ。
2~3人ぶっ飛ばさなければソウル大学には入れない。
東京大学にも似たような側面はあるのだ。

女性は子供を産む装置ではない(厚生労働省見解)。
いろんな経験をしないといい男とはめぐり逢わない。
いじめっ子のことを平気で「彼氏」と呼ぶ女がいるとするのならば、
間違いなく「深い仲」でもないしフェラチオもされていない。
髪が短い女ならば、そもそも「痛い」ために、フェラチオしかできないだろうが。
いじめに加わる女というのは、お父さんに子供の頃いたずらをされている。
「いじめっ子の彼氏」というのはそもそもセックスが出来る体ではないのだ。
いじめっ子の男(肉)はオカマで、その彼女は子供が産めない体なのだ。
「魂」(いじめられっ子)がそのような連中を「親の愛情が足りなかったのだろう」と考える背景には「カマを掘られていた」「いたずらをされていた」などが存在する。
結局、お相撲さんの懸賞(心)とは大人たちの子供への愛情から来るのだろう。

「体とは鍛えるためにある」 そのように考える男の子が多数派であるが、母子家庭ではそのような発想は生まれない。 また、貧しくても「性的虐待」だけが待っているだろう。 中産階級を増やすことが「いじめ撲滅」の秘密なのだ。 日本国は、機会の平等を標榜し、下層階級でも東京大学に入る機会を与えている。 このことから、「高学歴」=ノンケという図式が成立しがたくなっているのだ。 韓国のような「学歴も人種である」という立場は、貧困層を学歴から排除したことが背景にある。 ケツが気になって勉強ができないというのが普通であろうが、女のように投げる、女のように走る男がエリートと呼ばれたりもする。 フェラチオというのは「貧困の証明」である。 人格形成責任というものは、このような「肉」「魂」「心」について法律家が通じていることを意味し、本人にはなんら責任はない。

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