最近のトラックバック

2019年8月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31
無料ブログはココログ

Foreign Affairs

  • CFR: フォーリンアフェアーズ英語版

« 行政指導と行政調査。 | トップページ | 訴訟。 »

2019年6月24日 (月)

法規裁量と便宜裁量。

法規裁量というものは、いわば「クラスメートの女の子」と向き合う時に存在する「摩擦」のことであり、便宜裁量というものは「従姉妹の女の子」と向き合う時に存在する摩擦を意味する。
便宜裁量という「従姉妹」と向き合うのは「季節」に限定されており、社会契約論とも関わりがあるが、法規裁量という「クラスメート」と向き合うのは毎日のようなものである。
二つの頭を持った人間が目の前に登場した時などは、もはや裁量の問題ではないとされ「裁量権ゼロ収縮論」というものもある。
二つの頭を持った人間と言っても「ムチャクチャ頭がいい」という意味であり、そのあたりは「行政指導と行政調査」に精通しているなどの事例が考えられる。
電話の窓口が「奥」までつなげるしかないのが裁量権ゼロ収縮論であり、それ以外は「従姉妹」か「クラスメート」かの違いを感覚で判断していくしかない。
いつも電話してくるためよく知っている人ならば「便宜裁量」で応じることが可能であるが、初めて電話で話した人は「法規裁量」で応じる。
よく知らない人ならば、金目当てだと分かると「警察呼ぶぞ!」などと口走りかねないのが法規裁量であるが、便宜裁量では「警察」という言葉はもはや出てこなくなる。
身長180センチの男はピグミーでは背が高い(従兄弟)ほうであるが、マサイでは大して背が高くない(クラスメート)などと言われ、クラスメートは法規裁量であり、従姉妹は便宜裁量という時の尺度となる。
法規裁量(クラスメート)とは日常的に接しているし、便宜裁量とは季節ごとに接している。
法規裁量には「警察呼ぶぞ!」という言葉が登場し、便宜裁量では「警察」は存在せず、裁量権ゼロ収縮論においては電話を上席のものに変わる、これは覚えておいていい。
松田聖子 制服

もし従兄弟が「歴史上の人物になったら」、もし従姉妹が「きれいな女優さんだったら」「簡単な関係」「無料でセックスさせてくれる存在」が、きわめて難しい問題になる。
季節ごとの関係であったはずなのに「毎日会いたい」ということになり、便宜裁量は法規裁量に限りなく近づくだろう。
おニャン子クラブ 夏休みは終わらない

市民としては、毎日事務的に処理される「クラスメート」(法規裁量)よりは「従兄弟」(便宜裁量)の対象になりたいと考え、役人や医者に「親戚のように」扱われたいと考えるだろう。
ジョージ・プレハーノフがこの区別を行ったとされる。
事務的に処理される他人よりも親戚のような関係でありたい(法規裁量から便宜裁量へ)というのはどの市民や患者も考えることである。
便宜裁量になってしまえばもはや「警察」(比例原則)は立ち入ることはないからである。
よく知らない関係(クラスメート)、それでいて日常的に接するという法規裁量と、よく知っている(従姉妹)、それでいて季節ものの便宜裁量という議論の「感覚」は磨いておく必要がある。
また、やたら頭のいい男(裁量権ゼロ収縮論)ならば、あっという間に相手の懐に入ることができることも知っておく必要がある。
相手の懐に入ろうとして(裁量権ゼロ収縮論)失敗すると、法規裁量の世界においては「警察呼ぶぞ!」(比例原則)ということになる。
片思いの終わりに

みんな、医者や役人、あるいは女の子とは「親戚」のような関係でありたいため、やたら頭のいいふりをして接するが、まちがえると「警察呼ぶぞ!」ということになる。
この議論の感覚は知っておかなければならない。
役人や医者など、たまにしか用がない人たちをいかに「親戚」にするか(便宜裁量)の力量が市民には求められるのだ。
しかも、警察すら立ち入れないものにする必要がある。
世の中をいかに快適にするかというテーマが「法規裁量から便宜裁量へ」というものである。

たまにしか会わない親戚(便宜裁量)を目指すのが政治家の目的であり、しかも、そこには警察はいなかった。
そのためには「女心」にムチャクチャ詳しくなければならない。
裁判所も「よく話を聞かせてくれないか?」というのは「たまにしか会わない親戚」との関係であり、便宜裁量は「自由裁量」とも呼ばれた。
「女心」について知りたかったのだろう。
なぜ、女心に詳しい男が「プロレス」の世界で噂になっているのか?
なぜ、女二人が男を奪い合ったのか?
なぜ、行政・立法・司法は分かれたのか?
結局、どの男も、親戚のような役人や医者を増やしたかったからであり、警察のお世話にはなりたくはなかったからである(法規裁量から便宜裁量へ)。
女心に詳しかったり、朝鮮に詳しいとそのような結論になるのだ。

家族で初詣に行って、誰が一番「知り合いに声をかけられるか」で政治家への適性が分かる。
しかし、深い男女の関係だけは異なる論理があるだろう。
工藤静香 FUJITSU

「今日はじめて来た男性客」を女二人が奪い合えるのが便宜裁量であり、男性の自尊心を満たさなければならないのは法規裁量(一見さんお断り)となんら変わりはない。
経営の「コンセプト」(人気)は「ノンケ」を狙うべきだとされ、はじめてきた男性客の自尊心を満たせばあっという間に「人々に知られた喫茶店」になる。
このへんはスターバックスもエクセルシオールも理解しているものと思われる。
「経営戦争」においては「はじめて来た男性客」を立てるのは基本であり、「一見さんお断り」との違いや強さが喫茶店にはある。
この国は中国ではない。
国営企業のない「自然淘汰の国」なのだ。
一見さんお断りならば「女性優位」になるが、喫茶店ならば「はじめて来た男」を立てなければならない。
男の「欲望」をうまく利用しなければお金にならないのは「一見さんお断り」の店でも、喫茶店でも同じなのだ。

トンタン茶房

スキュデリーは、フランス王室ソサエティの人物であるが、読み、書き、絵画、音楽、ダンスなどを覚えた。
さらにはイタリア語とスペイン語の勉強をしている。
このスキュデリーこそが、日本の喫茶店にクラシック音楽やジャズを持ち込んだものと考えられている。
マダムラファイエットや、マダムシャロン、マダムメイテノンなどと喫茶店を営んでいた。
あくまでも「王室ソサエティ」のメンバーだったため、「一見さんお断り」の店とは一線を画し、カントが考えた「風俗営業と飲食店」の明確な区別にしたがうのであれば、飲食店の側に立った。
つまり、「警察のお世話になるつもりはない」という意思表示であった。
このようにして、喫茶店というものは「高級サロン」として発展したのであり、缶コーヒーとは異なる趣がもたらされた。
スキュデリーの時代は、アンシャンレジーム(旧体制)と呼ばれるだけのことはあって、かなり専制主義的な体制が存在し、そのことを話し合うサロンというだけでも喫茶店は人気があった。
専制主義的な王の母が喫茶店を営むという意味では、やらせみたいな側面はあった。
喫茶店の女性たちは美しかった。
カントのような「一見さんお断り」などという店が汚らわしく思えたのだ。
アンシャンレジームの残骸が現在の風俗営業法として残されているし、それを支持するかどうかでフランス寄りかドイツ寄りかが決まった。
ドイツ寄りの連中が、店の前に塩をまいているのを眺めていた。
「アンシャンレジームは体制打倒までが楽しかったのよ?」
マダムのひとりはそう語った。
アンシャンレジーム打倒のためのエネルギーが喫茶店には満ち溢れていた。
「ドイツのカントも汚らわしかったし、アンシャンレジームもカントを参考にしている」
そのように、風俗営業法はフランスで批判された。

「どの政治家が、もっとも”私たちの問題”に詳しかったかしら?」
女たちは情報を持ち寄っていた。
健康問題から、女心、子育て、そして芸術論まで話し合った。
「汚らわしいものはみんなドイツのカントが考えたのよ?」
女は「女が嫌がっているじゃないか」と考える男の存在に悩んだ。
CoCo メロディー

女にとっては芸術論はうってつけの話題だった。
ルイ16世はユニークな側面があり、実母がスキュデリーだったようだ。
ルイ16世の「女性観」はそのまま、喫茶店に持ち込まれたし、ルイ16世のシンパは「進歩主義者」と呼ばれた。
子育て論でラファイエットに敗北するまではなかなか体制は崩壊しなかった。
マックス・ウェーバーやダークハイムもルイ16世を支持していたし、20世紀中頃まで「フランス革命とはなんだったんだ?」という用語が知られていた。
なぜ、あんな面白い人を殺したんだ?という批判の意味がこめられていて、「もっと面白い人が出てくるぞ?」と思ったフランス人を批判していたのだ。
「男女の出会いの機会を増やす」というフランス民法典と、「性病の治療をする」というドイツ民法典も、フランス王室ソサエティで話題になった。
ハンス・ケルゼンは「風俗営業支持・性病の治療支持」という熱烈なカント信者であった。
しかし、ケルゼンは「フランス女にモテたかっただけ」と言われた。
ケルゼンは、「風俗営業支持・性病の治療支持」を訴えた上で「規範」という「守るべきルール」を定めている。
この瞬間、「法律学はドイツのもの」となったのだ。
「ごめんで済めば警察はいらないよ」
これがケルゼンのキャッチフレーズだった。
アメリカ合衆国も、フランスとドイツの対立は「面白い」と考えてみていた。
繁華街をパトロールする自警団を作るフランス寄りの連中もアメリカやイギリスにはいた。
相変わらず、喫茶店というものは「ルイ16世」について語り合うサロンであった。
ドゥオーキンが「人間というものは、家族と言えば金を払い、水と言えば金を払う」という露骨な議論をアメリカでけしかけてくるまでは、ルイ16世の時代は続いた。
ドゥオーキンのおかげで「ファミリーレストラン」が誕生した。
モーニング娘。男友達

商人の道ならばデラウェア州に聞けよ。あいつらはドイツに詳しい、とされた。
「風俗営業支持?性病の治療?」
ドイツの勢いは止まらないね。
ケルゼンは世界でそのように語られた。
赤線の「痴話喧嘩」は警察に高度な司法官であることを求めたし、黒人を警防でぶったたくアメリカのロサンゼルス市警は「勉強不足」が批判された。
「想定内」
それはルイ16世のセリフだった。
ホリエモン 想定内

「ファミリーだ?水だ?」なにもかも想定内だ。
これがルイ16世であり、はたして「男女の出会いの場を与える」「王室サロン」が「ファミリー、水」を想定していたかは明らかではない。
しかし、ドゥオーキンは公然と、ルイ16世を攻撃し始めたのだ。
王室サロンではコーヒーを飲んだよ?
ファミリー?
ファミリーの問題ぐらい話し合っただろ。
スマホ?
それはなかった。
ドゥオーキンの「アンシャンレジーム打破」の悲願は部分的には達成された。
「でも、それでも想定内と言ってはいけないのか?」
ルイ16世の系譜を引き継ぐ連中はそのように語った。
アンシャンレジームと王室サロンに関する議論は1980年代までは「フランス革命とは何だったのか?」と問われ続けたが、コンピューターやスマホの普及により、「想定内だったかどうか」が問題になった。

回転寿司?
それもなかった。
しかし、ITの時代は常に「想定内」かどうかが問われたのだ。
「男女の出会いの場を与える」「王室サロン」
これですべてを説明できるのだろうか?
ルイ16世の系譜には考えがあった。
「想定外の中の想定外はカントだろうが!」
コンピューターやITすら上回るのが「風俗営業と性病の治療であるはずだ」とし、ITの時代を「我らの時代」に含めようとしたのだ。
小野光太郎による、ルイ16世とカントの拡散は?
それはドゥオーキンのせいだ。
ドゥオーキンは「アンシャンレジーム打破」のために「スピードは速めた」がはたして、それでルイ16世に勝ったかどうかは人間活動である以上、明らかではない。
IBMは「Think」(エクスタシーを感じろ)と言って、ドゥオーキンの側についた。
それはカントの側ではないのか?
「カントが想定外なのであって、お前らではない」
これがルイ16世の系譜の考えだった。
これが「我らの時代」と呼ばれる議論だった。
あのな、人間、何をしようがかまわないが、ルイ16世が「最後の王」だったとみとめろよ。
これが「天皇制支持」の議論の基盤となっている。
ルイ16世にとって想定外だったのはカントだけであり、それでフランスとドイツは世界から体制保障がもらえるだろ。
日本の天皇制もドイツとフランスが続く限りは存続できるだろう。
天皇制廃止論はドイツとフランスを滅ぼしてから言え。

人工知能?
ああ、北朝鮮か。
自分をわざと低く見せて情報を集める連中ならアンシャンレジームにもいたよ。
朝起き会?
地方自治を優先させる奴ならオーストラリアを作っただろう。
ルイ16世は、「結論として、処女を大事にした王であった」という結論だけは出ているようだ。
フランスの最後の王である。
AKB48 恋するフォーチュンクッキー

ドゥオーキンほど「フランス革命」を正当化するために尽力した哲学者はいなかったが、どこまで「我らの時代」「天皇制打破」に成功したかは明らかではない。

お上が決めた「卒業」はあまりにも悲しくないですか?
いじめから自由になるために必要なものだろ。お前だって逃げるように卒業しただろ?
福山雅治 桜坂

「夏休み」の終わりは悲しくないですか?
成長ってもの、約束ってものが分かるようになるだろ?
ribbon 避暑地の風

「法規裁量」(風俗営業支持・性病の治療支持)から「便宜裁量」(男女の出会いの場を作る・王室サロン)へ、という政治学とも行政法ともつかぬものが、朱子学においては「四つの書」という形で、「季節ごとに経営戦略が異なる」とされ、顔の美しさを作った仏教や、音楽作品を作った道教を合わせる形で、朱子学は「喫茶店経営の司令塔」として寺院に資金を集めた。
仏教が作った「美しい男女」や、道教が作った「音楽作品」がなければ朱子学は夢が見れなかった。
あとは「季節」に溶かし込むだけだったのだ。
星座占いで瞳を閉じて おニャン子クラブ

朝鮮、ベトナム、日本にまで「季節の問題」は持ち込まれ、それはつまり「星座占い」であった。
テトラビブロスのことを「四つの書」というのではない。
朱子学と喫茶店の学問をそのように語ったのだ。
「階級社会の象徴」
それが喫茶店であり、星座占いによって女たちはその店に入るかを決めていた。
酒井法子 20歳のバレンタイン

誕生日が近いと「みんなが祝ってくれる」という現実的な理由も「星座占い」には存在した。
みんなが祝ってくれるということは「お金がある」という意味であり、女子高生にはあんがい喫茶店の敷居は高い。
ブルジョア男は「季節などお構いなし」「誕生日などお構いなし」に喫茶店に行っていた。
松浦亜弥 S君

「血のつながったもの」しか誕生日にお金をくれなかったため、儒学においては「ファミリーライン」というものが重要であるとされた。
誕生日の前後とはそれほど女子高生には縁起のいいものだったのだ。
女子高生は誕生日の前後しか「出会いの場」を広げる機会がなかった。
誕生日をお祝いする習慣と喫茶店を結びつけた音楽作品はけっこう多い。
からだを売らない女子高生という意味合いもこめられていたのだ。
「意味が分かるか分からないか」
それは、女子高生によって異なるだろう。

法律を作るのには仲間が必要であるし、議会構成を作る投票というのも「誕生日」以上に、お金になるときである。
お金のある存在が法律を作るのであって、それは「政府提出法案」の場合は各省庁の予算請求が通るかどうかにかかっている。
各省庁は「仲間作り」を成功させたら予算の請求が認められる。
ローマ法とは「イエスキリストの仲間作り」「お金」によって作られたものだ。
イエスキリストの仲間作り・お金によって作られたのではない「ゲルマン法」とはこのように区別される。
選挙の日は「外食できる」というのはローマ法の立場である。
モーニング娘。ザ・ピース

コモンローはすべて、ローマ法の系譜に属するものである。
ドゥオーキンは「憲法マネーを柱として法律を作った」とし、コモンローの「マネーによる階層化」を提示した。
ドゥオーキンは「ファミリーと水とさえいえばどんな法律でもできる」としており、憲法マネーの源を「ファミリーと水」に求めた。
さらには、ファミリーには女子高生になる女の子もいた。
ドゥオーキンの「ルイ16世批判」は、「憲法を作った」ということからもアプローチ可能だ。
三浦理恵子 日曜はダメよ

専制主義的に作ったゲルマン法は、ルイ16世やカントによるものであったが、イエスキリストと憲法にその根拠を見出したのがローマ法である。
大陸法と英米法は、ゲルマン法とローマ法の対立であり、専制君主と、イエスキリスト・憲法の対立だった。
当然、大陸法にも憲法というのはあるが、憲法マネーという発想がなく、なかなか「選挙の日に外食する」という英米法的な発想は身につかなかった。
日本の「押し付け憲法」というのもそのような側面が見られる。
「憲法は法律を作るためのマネーの柱」という発想は英米法特有のものだ。
「胸」「セックス」「女」
これらをイエスキリストは巧みに用いた。
ドイツでは「結婚」という言葉が、「風俗営業支持・性病の治療支持」を背景に人気を集めた。
ルイ16世にとって「想定外だったのはカントだけ」とされており、「結婚」という言葉と「ファミリーと水」という言葉がどのように関わっているかは「想定内」「想定外」の議論となる余地はあるだろう。
日本でも「結婚は憧れ」とされているが、ルイ16世の想定外であり、「ファミリーと水」と、「結婚」の関係も、「男女の出会いの場を作る」「王室サロン」とどのような関係にあるかは「ルイ16世のアンシャンレジーム」「天皇制支持」の立場から、おのずと、ルイ16世とカントという二名の王の顔を立てながら詰めていかなければならないだろう。

もっと「噛み砕いて」表現しなければ理解できないかもしれない。
ルイ16世の立場は「男女の出会いの機会を与えるのが民法」であり、「王室サロン」において「便宜裁量」(痴話喧嘩の自由な判断)が行政法においては可能であるとした。
また、ルイ16世は「ITなどというものはすべて想定内、カントだけが想定外であった」としている。
ここで、カントは「結婚」という制度を構築した。
「結婚に愛がともなった」とされるラブレボリューションはカントが作ったものだ。
ラブレボリューションに対して、ルイ16世は「想定外」として、フランスとドイツの共存と戦争の歴史を繰り返した。
ドゥオーキンは「ファミリーと水さえあればいかなる富も生み出せる」とし、ルイ16世の系譜・天皇制を打倒しようとした。
カントもルイ16世も「専制君主」であり、大陸法・ゲルマン法を作った。
ドゥオーキンなどの英米法・コモンロー・ローマ法は、「選挙の日に外食する」ほど選挙は市民にとってはお金であるとした。
ドゥオーキンの「ファミリーと水」は、カントが作った「結婚」の中に含まれるのか(ルイ16世にとって想定内)だったのか、それとも「天皇制打倒に一部成功したのか?」が問われる。
「ファミリーと水」が必ずしも「結婚」だけでは説明できず、同性婚や「小室ファミリー」などというものが成立するのであれば天皇制打倒は一部成功したことになる。

なお、所有(セックス)というものが、ローマ法においては「ポッセシオ」(愛の下にあるもの)とし、ゲルマン法においては「ゲヴェーレ」とされ、「愛がなくても」とされていたのが印象的だ。

フランスのラカンなんてのは「愛がなくてもそもそも気持ちいい方法」を探求している。
不思議の国のアリスのように、お母さんのもとを離れて「猫に見守られながら」穴に落ちるアリスという「一連のシーケンス」をアニメにしたものだ。

また、ドイツのゴッホは「掘る」という絵画において「女にとってはこう見えるよね」ということを探求している。
ラカンにせよゴッホにせよ「愛のないセックス」を探求した節がある。

「法規裁量」つまり「クラスメート」「一見さんお断り」の世界がまず存在し、この世界においては、「お店のルール」がすべてという側面がある。
一方、「便宜裁量」つまり「従姉妹」「喫茶店」の世界においては、「男を立てることを知り、みんなが親戚のような存在」であり、街で見かけたら挨拶できるというものである。
この、ゲルマン法・大陸法の世界は、カントとルイ16世が作ったものであり、「法規裁量から便宜裁量へ」というキャッチフレーズは、すべての女が「猫に見守られながら穴に落ち、穴を掘る人を想像する」という政治活動を意味している。
みんなが「親戚」であり、「ファミリー」であるという意味では、君主の力量次第で「天皇制打倒は困難」だと考えられる側面がある。

 

« 行政指導と行政調査。 | トップページ | 訴訟。 »

スタンフォード哲学」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

« 行政指導と行政調査。 | トップページ | 訴訟。 »