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Foreign Affairs

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2019年5月24日 (金)

インドについて。

「ニューデリー」 世界最大の民主主義国家であるインドは、アメリカ合衆国も「民主主義をアジア地域に定着させるカギ」と考えている。 しかし、インドは「放っておいても強くなる国」であり、アメリカもそれを歓迎している。 一方で、同盟国ではなくあくまでもパートナーとして、核から安全になる方法、ハイテク貿易、ミサイル防衛システムの提供などで、インドをコントロールしようとしている。 一方、アメリカにとっては「モスクワや北京の方が相手をしやすい」という側面があり、「ニューデリー」と言われても、なかなかピンと来ないことがある。 しかし、中国とはカシミール紛争を抱え、中国が「インドを水浸しにすることが可能なダム」を建造したことから、「このような暴挙を止められるのはアメリカしかいない」と考えている。 しかし、インドを「国際社会の重要なプレーヤー」にしたのはジョージ・W・ブッシュであり、トランプ大統領は時として「インドは関税大国」と呼んだりしている。 トランプは、日本や韓国とは何の相談もなしに北朝鮮の非核化を試みたりした。 インドにとっても「サプライズの大きい」相手がアメリカなのだ。 トランプは時として「モスクワしか見ていない」こともある。 また、日本は、中国の一帯一路の政策に、なんと「東南アジア、南アジア、アフリカの論理が分かった」としてなんと協力してしまうことを表明したのだ。 「ニューデリー」 それは、世界最大の民主主義国家であり、イデオロギーの柱でありながら、アメリカももちろん重視しているが、「北京の方が上だってね」という評価を免れない存在なのだ。 世界から民主主義が後退した、そんな時に振り返りたくなる「パートナー」ではあるが、インドも「アメリカとは別の生き方がある」と考えてしまいがちな国だ。 アメリカは常に「インドは我々の妹」を標榜してきたが、このような図式ができると日本としても「絡みづらい」国になってしまう。

「ヒンドゥー教」
気持ちいいセックス、それは誰しもが望むものであるが、ヒンドゥー教は「男の方が気持ちよくなければ女も気持ちよくない」とし、たとえば、女が大げさにヨガったとか言うのはいいセックスとはいえないことや、男にとって女への挿入が気持ちいいのは、女が「有名であること、女らしいこと」から生まれることから、ヨーガという「有名な女を作り出す世界、そして女らしさを生み出すもの」を作り上げた。
ヒンドゥー教とヨーガはこのように密接に結びついたのだ。
ヨーガ

いいセックスも悪いセックスも「ヨーガができる女次第」という側面があり、ニャーヤ経では、そのことが歌われた。
酒井法子 モンタージュ

有名で女らしい女性に「似ている」(バッタ)ということも巧みに用いられた。
もっとも、テレビのデジタルイメージが「本人ですら似ていない」ぐらい美しく、「有名で女らしい」というモデルが強烈にアピールされ、庶民の方がよっぽど、「有名で女らしい」とされる女よりも可愛らしかった。
バッタとセックスしたほうがよっぽど気持ちよかったのだ。
それはアレキサンダー大王のインド征服以来の、メディアの事情があり、また、美少女という「枠」を作り上げたら、それに似た子供が生まれるという仏教からの伝統もあった。
バッタというよりは本当の美女だったのだろう。
男の「感性」の公約数的な感じ方を、美女に与えたのが仏教であった。
「有名で女らしい」「ヨーガが出来る」「その有名な女に似ている」それに「息がきれい」が加わったら、アドヴァイタ・ヴェダンタの完成だった。
女の側よりも男の側の方がより気持ちいい、これがヒンドゥー教である。
男は「女の幻を愛する」とも表現される。
杏里 オリビアを聴きながら

ヴェーダはこれらの「気持ちのいい女の条件」は「顔に表現されている」とし、「有名で女らしい」「ヨーガが出来る」などの女と「顔」さえ似ていればいいと考えるに至った。
顔は声を作る(バリントシンドローム)と呼ばれ、女が歌を歌うと、より気持ちのいいセックスにつながった。
マハポーシャとは、そのような美女の集まりであり、店員や受付、電話係に用いることが出来た。
ブッダとマハーヴィーラは「全能」つまり「気持ちのいいセックスを知っている」と言われた。
「男は賢いほうがいい、女は美しいほうがいい」と言っても、「賢さ、美しさ」が信仰心から生まれているために、失恋というものは非常に大きく傷つくものとなっていた。
高井麻巳子 こわれかけたピアノ

インドの政府与党であるBJPは「ヒンドゥ教寄り」であるが、インドの人口の15%はイスラム教徒である。
気持ちいいセックスを知っているヒンドゥ教と、「人生に飽きるまで生きる」とするイスラム教の対立は根強い。
しかし、インドの港で船を修理してもらいたい、と考える日本国も「彼らの論理」ぐらい知っていても損はない。

ヒンドゥ教において、1966年に「ザイゴン」という雑誌が出版された。
「女を口説くのがうまい男」と宗教(男らしさを語り合う論壇)がなぜ結びつくのかが議論されたのだ。
女を口説くのがうまいだけでは「女ったらし」と言われるだけだろう。
しかし、その「口説き文句」をザイゴンに載せただけで「男らしさ」というものは生まれた。
1980年から2000年を過ぎるまで、「女を口説くのがうまい男」=「宗教?」という議論は続いた。
媒体がなければ宗教は成立しないことが明らかになったのだ。
酒井法子 今夜もニュースホリック

勉強と実験の両方が「口説き文句」の世界にはあったため、「女を口説くのがうまい」=「宗教」とは簡単には結びつかなかった。
哲学はひたすら「女を口説く方法」を探求し続けたし、それが「宗教」(男らしさを語り合う論壇)とどのように結びつくかは、本を書いて、読んでもらい、実践してもらうしかその関係は明らかにはならない。
「仲間が多い」(プット)ことと、「女に優しい」(コール)ことは、媒体がなければ成立せず、ブッダも100年間も「言い伝え」として知られるにとどまっている。
まず、文字が読めるという才能を持つことだった。
さらに、「先生に恵まれること」そして「実践すること」が必要だった。
ヒンドゥ教は「ザイゴン」という媒体を通じて成り立っているものであり、その起源は17世紀のイギリスにあった。
マルクスのように「思春期の女の子の欝と初体験という記憶」(夢)を語ったり、マックス・ウェーバーのように「戦う民主制」(婦人参政権運動)を求めたりする理由はここにあったし、インドは1966年のザイゴン創刊以来、世界最大の民主主義国家への道を歩み始めた。
「親父が女を口説いている姿など見たくはないよね」
カースト制はそこで克服されたのだ。

「王位継承」から生まれる宗教(アブラハム宗教)は世界最大規模を誇るものだ。
アブラハムには「勉強の書」と「肖像の書」があり、言葉を読むのも、肖像を飾るのも自由である。
中国の「豹(北方異民族)」や、若者のファッションは「肖像の書」から成り立っている。
イエスキリストの真似をすれば「勉強の書」も読めるようになるのだ。
アラブ首長国連邦(UAE)などは、媒体の影響力を十分に楽しんでいる。
キリスト教もイスラム教も「アブラハム宗教」である。
それでは、「世界で三番目に大きな宗教」であるヒンドゥ教はどうであろうか?
ヒンドゥ教、仏教、ジャイナ教、シク教は「ハンサムな男、美女こそが神に愛されている」としている。
しかし、ヒンドゥ教だけは「勉強の書」を重視し、勉強するためにハンサムに生まれたとしているのだ。
つまり、ヒンドゥ教も「アブラハム宗教」であるという選択がなされた。
王位継承にともなう「勉強の書」を読むのであれば、それはアブラハム宗教だ。
「アブラハム」とさえ言ってくれれば、アウグスティヌス以来の「国家財政」も保障されたし、それはジャイナ教やシク教のような「ハンサム、美女であればいい」という立場とは異なる。
つまり、ヒンドゥ教は「勉強の書を理解できるものがハンサム」であるとしたことを意味する。
このことは、インドがロックフェラーやロスチャイルドの軍門に下ったことを意味した。
ビジネスパートナーとしてキリスト教社会を認めたのだ。
「知っている者がえらい」のではない。
「女たちの心に響く者がえらい」のである。
キリスト教社会は、「面倒な契約書」など読むほど女々しい男はいない。
有利な契約書を送り返す(バトルオブノート)ことは「もっと話しを聞かせてくれ」という意味であった。
70万年前から5万年前の化石のDNAを調べても、人間は、ゾウリムシから進化したものではないということは分かっていた。
この「特別なクリエイション」が、アダムから始まっており、自分に人気があるというのならばすでに自分はアダムではないことにもなる。
他にもリンゴをかじったものがいなければアダムには人気はないはずだ。
浅香唯 コンプレックスBANZAI!!

いずれにせよ、インドは「アメリカ合衆国・ヨーロッパ」に対してオープンであることを志向したし、日本国には二万人しかいないインド人も、アメリカには二百万人いる。
インドの「平和的核分裂」と称する核実験も、ヒンドゥ教がなければ、「6番目の核クラブ」になることはなかった。
経済制裁のともなわない「核クラブ」はインドで「六カ国目」だった。
「経済制裁のともなわない核クラブ入り」というヒンドゥ教は「繁栄教」ではないだろうか。
インドにも「王位継承」は昔からあった。
しかし、ヨーロッパの王位継承を「自国のもの」として引き受ける必要があった。
仏教の世界にも「ハンサムな男、美女」が多くいたが、「勉強の書」つまり「純粋理性批判」を容認することが、繁栄教の正体である。
インドには六世紀のクマーリラぐらいしか「アブラハムに似た」王は存在しない。
しかし、「列王記」を作ることで繁栄教としてのアイデンティティを確立した。
インドのヒンドゥ教は「クマーリラだけが頼り」であり、クマーリラの人生を研究することを「経済制裁のない核クラブ入り」「繁栄教」の根拠としている。
インド国内でも1982年に「クマーリラの存在」が注目されたのだ。
それもすべて繁栄教のためである。
「クマーリラはとにかくハンサムだったからね」
という指摘もあり、仏教とジャイナ教は「経済制裁のない核クラブ入り」に背中を向けた。
「アメリカ高等教育に背中を向けることそのものが経済制裁」であるとも言われ、東京大学は、ハーバードやスタンフォードよりも格が落ちる。
核クラブでないのに経済制裁を受けている状態であったから、つまりは、繁栄教とは「アメリカ合衆国崇拝」を意味するように日本では解釈されている。
本来は「経済制裁をともなわない核クラブ入り」のことである。
日本国が核実験を行い、スタンフォード哲学百科事典が切断されたら、それは明らかに日本国が「失うものの方が大きい」だろう。
アメリカ合衆国に対してオープンである繁栄教の極意は「死の研究」にあった。
二億七千五百万人のアメリカ人のうち二百四十万人が一年間で死亡する。
純粋理性批判を読んで、女性にモテまくって、自分に良く似たイエスキリストに会うか(天国)あるいは父親に潰されてエサウに会うか(地獄)のどちらかしか男にはなかった。
女は「塵」だったため、この世にもあの世にも存在した。
この世でモテたおじいさんは「悪いこともあったが、いいこともあった。それでいい、それでいい」と言った。
モテなかった男は「老醜」を晒したのだ。
モテない人生だったため、人生に悔いを残し、モテたおじいさんから「富の移転」を受けることを「コンディティオ」と呼んだ。
モテる人は接待ゴルフなどを得意とし、モテない人をもてなした。
ビジネスにおいてもコンディティオは活用されている。
「だって、勝ちたいんや」(星野仙一)とは人生のストイシズムを意味している。
ヒンドゥ教は、ヴァスバンドゥという3世紀のグプタ朝の王も発見した。
列王記がかけなければ、インドは「経済制裁のない核クラブ入り」が許されないため、「チャンドラグプタ二世」と名づけた。
列王記を書いてみても、クマーリラにせよヴァスバンドゥにせよ「仏教徒の美男子」であったため、「経済制裁のない核クラブ入り」を目指したインドから「仏教が消えた」とされ、ヒンドゥ教と呼ばれたのだ。
ヒンドゥ教も、ロックフェラーやロスチャイルドの軍門に下ることを意味したため、経典は、純粋理性批判(黒革の手帖)と「きれいな息」あたりに落ち着いている。
カントの純粋理性批判を受け入れるのであれば、ロマンティシズムも成り立つ。
ムトゥ 踊るマハラジャ

インドにおいて、ザイゴンという雑誌が出つづけたが、「ご先祖さまってどんな人たち?」という概念が、1980年代以降の音楽作品の蓄積によって、「我々は人生を楽しんでいたし、気持ちいいこともたくさんあった」ということが2020年には確定するとされている。
このような「祖先」概念は、ナチスによるユダヤ虐殺が原動力となったとされている。
「火星を見るたびに思い出してもらいたいもの」とも言われ、アメリカでは「火星人襲来」などと誤解されたこともあった。
祖先崇拝とは2020年に確定する宗教であり「男がいない宗教」とも言われている。
1980年代からの音楽作品を発掘する力量は、一部の哲学者にしかないともされている。
我々の時代はこんなに豊かだったんだよ、という祖先崇拝が2020年に成立し、「火星人が襲来する」のである。
CoCo 何かが道をやってくる

心置きなく「死せる詩人の会」に属すことが人間はできるようになったし、「今を生きる」(カーペディエム)ことも可能になった。

2020年以降、「死ぬ時に見る光」が変わってくるとされ、日本人の子孫であるイスラムやユダヤは「そのことを知っている」という死生観の違いがある。
タイムマシーンの完成は2024年であるとされる。
この光は、2020年以前は「OBE」と呼ばれていたが、それ以降は「NDE」と呼ばれることになる。
ヒンドゥ教は、「列王記」の中に、小野光太郎という名前を書き加えたし、日本国の神道と区別がどのようにつくかは明確ではない。
仏教のカルマ(伝説からの教え)とヒンドゥ教が本当に和解するのが2020年なのだ。
インドには15%のイスラム教徒がいるとされているが、すべてが和解に向かっている。

アメリカ合衆国が核兵器を開発してから「インドは変わっちまった」と考えたのがチベットの仏教であったり、ジャイナ教、シク教である。
イスラム教シーア派の「イランの核開発」は、世界の宗教の王であるアメリカ大統領にとっては到底容認できないものだった。
核兵器は「アメリカやヨーロッパの傘下にない貧しきものが持つべきものではない」と考えられており、日本国は「核兵器保有は憲法の禁ずるものではない」(岸信介見解)とされている。

インドの、「美男美女を生む」という仏教は核兵器によってすべてが変わった。
いまだに、ニャーナ・ヴァイセシカという仏教の教えにしたがいながらも、「死生観」が変わろうとしており、「豊かさが違う」「女性たちの支持が違う」というヒンドゥ教が確立したのだ。
愛し合うこと、そして時には憎むことの意味をのちの世に伝えられるのならば、インド人は「ヒンドゥ教であっても美しく生まれる」と考えられ、その基盤となる「芸能界」も2020年には一定の水準を見るとされている。
「顔を美しくする」というのはインドの永遠の悲願であった。

 

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