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Foreign Affairs

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2019年4月30日 (火)

仏教再考。

日蓮宗においてはブッダの弟子に「弥勒」「菩薩」「弥勒菩薩」の三名がいたとされています。
弥勒というのは、コミュニティに溶け込んだ創価学会員・床屋さんだと思われます。
アニメ「犬夜叉」「ナルト」にも弥勒というキャラクターが登場します。
いわば、私の周辺では「熊谷さん」という方だったかもしれません。
菩薩というのは、サクヤムニとも呼ばれ、朝鮮人の元芸能人女性で「先生」と呼ばれ、阿弥陀に説教する存在です。
私の周辺では「貝和さん」というおばさんでしょう。
弥勒菩薩というのは日本で広く信仰を集めていて、阿弥陀ともよばれ、私の周辺では「お母さん」だったものと思われます。
浄土(きれいな国)というのは「朝鮮人のいない国」という意味でして、弥勒菩薩(お母さん)の息子である王子が「中国・アメリカ・ヨーロッパの学問」に目を向け、しかも女性たちに話して回ることで、朝鮮人である蘇我氏を滅亡させるという中大兄皇子の大化の改新というのは行われています。
今となっては貝和さんも地域の一員となって、暮らしていますが、それはそれとして、時には「深刻な問題が生じたこともあった」として日本国は教訓にしなければなりません。
弥勒も菩薩も、「弥勒菩薩の富」が目的で動いていますが、それを巧みに利用しながら、弥勒菩薩の息子は「世界に目を向ける」「女性たちの支持を得る」ということだけで、弥勒と菩薩の思惑を一掃することができます。
カントやデカルトなど弥勒も菩薩も「知るわけがない」からです。
時には「深刻な問題が生じたこともあった」という過去の話なので、今さら問題にしようとは思いませんが、日本人にとってはまだ終わった話ではありません。
仏教の教え(浄土・きれいな国)という意味においては、ヨーロッパやアメリカ・中国に若者が接する機会が持てる非常にいい教えが浄土宗・浄土真宗・天台宗でして、これはこれで私も学ばせていただきました。
私が「アメリカ」と言えば貝和さんが小さくなるというゲームの存在は指摘していいと思います。
今となっては犬を引き取ってもらうなど良くしてくださいますが、時には深刻な問題が生じたこともあったとして記憶に残しておきたいと考えています。
これが、天台宗・浄土宗・浄土真宗なのです。

 

「禅について」
禅というものは、禅を組むとちんちんに意識が集中することから「女たちの名簿」を頭に浮かべ、目を閉じる(Not Two)ことから始め、みんなが心地よいおちんちんのあり方に関して思考をめぐらせ、論点整理を終わらせる(Not One)営みである。
臨済宗においては公案が示され、発心・源泉・難答・向上というプロセスを経るが、おちんちんのあり方に関して思考をめぐらせ、「女たちの名簿」を頭に浮かべるという点においては曹洞宗と変わりはない。
本覚が得られば、それが涅槃であり、苦のない世界である。
曹洞宗においては「死角」をなくす営みであるとされた。
浄土というものは「弥勒菩薩の息子が外国に関して学べば、菩薩が悲鳴を上げる」というものであったが、禅においては「女たちの名簿」とおちんちんの関係を論点整理できればいいという発想だった。
そこには、「お城に住みたい」などというファンタジーという発想もなくなるし、より現実を見据えた「男と女の関係」が浮き彫りになるという効果があった。
「おちんちんと女の名簿」だけでいかなる論点も解決できるという考えだった。
これに気付くことを「突然の悟り」と呼んだ。
禅をやるためには「適度のダイエットと運動が必要」とされている。
そして、呼吸を数える「数息感」というものを行う。
これをマスターすることは、水に浮かんだ巨大なボールに乗るほど難しいとされ、禅を組んでいる者に対して周囲は「自分たちの分析が行われているのか」と考えた。
「おちんちんと女の名簿」を瞑想するほど恐れられるものはなかった。
周囲に「禅の真の意図」を告げることも「公案」と呼ばれた。
無とか視とかいろいろ言われたが、周囲が自分たちの「おちんちんと女の名簿」を瞑想されることを恐れて噂しあったものだった。
一度に二人の女を相手にするほど男のソーセージはタフではなかった。
その割り切りのよさと現実への洞察力で禅は卓越していた。

 

アメリカで「アポロ計画」というのがあり、月面着陸したと言っては、別の島で映像を撮影したことがあるが、目的は「インドの支配」にあった。
「人間の顔にはいろんな可能性があっていいのではないか?」
これがインドを支配するためには必要な発想だったからだ。
そこで、ブッダの「インドにおける仏教」の話に入れるわけである。
ブッダは「私をなくせ」と言ったが、「みんながみんな俳優である」という意味であった。
そうでなければ「個性的な顔」はすぐに癲癇などの病気になってしまうからだ。
日本人の仏教、「日本とはきれいな国」「禅」とは異なる事情がインドにはあった。
私たちの望むものは

「みんながみんな俳優である」という発想は、インド人の「個性的な顔」に由来し、テキストは「パーリ法」であった。
そのパーリ法において、「俳優」になる方法が明らかにされていたが、
その中に「私のもの」という発想を取り上げてしまい、政府のものとする考えが組み込まれていた。
これを理解しなければ「仏教」というものは理解できないだろう。
パーリ法の時代には、「鏡」の普及が遅れたために、みんならい病のような顔をしていたものと思われる。
「それでも教会法が必要」
これが原始仏教だった。
「私をなくせ」というパーリ法の中に「私のものという発想をなくせ」と書いてあった。
化ケモノ青年

「私をなくせ」というパーリ法の教えは「みんな俳優になればいい」という教えであるが、「私のものという発想をなくせ」というのはお金の問題であり、政府・宗教界の問題であった。
しかし、「私のもの」という発想をなくしたら、人々の心は「勢いのゲーム」という側面を有するに至った。
「ブッダの顔は車輪である」
人間つらいときはつらそうな顔をするものだ、そんなことすら長時間の法事で我慢させた。
パーリ法にしたがって「みんな俳優になればいい」と教えたら、ようやく「顔」というものが出来上がってきた。
鏡のない時代のことだ。
その後、「感情」が芽生えた。
そのあとに「好みのタイプ」が生まれた。
さらに「演じきることが抜群にうまい」者の中から指導者が生まれた。
インド人が「男らしさを語り合う論壇」(宗教)と「女心の定義」(政治)そして、「男が女を愛する気持ちを利用する学問」(経済学)を理解するのには時間がかかった。
私の顔 タンポポ

「鏡が人間の顔を美しくした」
しかし、鏡のなかった時代のこのような原始仏教は、現代人がスランプなどに陥った時には、必ず「心の故郷」として役に立った。
思想だけで顔を作り、感情を作り、好みのタイプを作り、指導者を作ったのだ。

「私をなくせ」といういパーリ法の教えや、「私のものという発想をなくせ」という発想は、殺生を禁じ、肉を食べることを禁止するに至ったため、仏教徒は強烈ないじめに直面することとなった。
「原始仏教を踏襲したのならば、今の時代を生きることは困難なのではないか?」
しかし、我々の祖先が「顔」を作り、感情を芽生えさせ、好みのタイプを生み出し、指導者まで作った原始仏教の教えは「今の時代を生きる上でなんらかの参考になるのではないか?」と考えられるの至り、いじめられても、そこに「多数派工作」の余地を見出すことが可能であった。
みんなが「らい病」のような顔をしていた時代の教えが、今を生きるうえでの救いとなった。
地獄、色界、畜生界などが想定されたが「私は生きる」という動機になった。
強欲さ、憎しみ、希望は苦しみの源泉であった。
しかし、鏡のない時代に「顔」を作った教えが「美男美女」を生み出さないはずがなかった。
教えは「哲学者としては倒錯している」と言われ、いじめられたが、「美男美女」だけは人気があった。
テラワーダ、マハーヤーナ、バジルヤーナという三つの流派に分かれて、テラワーダは南伝仏教となり、マハーヤーナが中国や日本に伝わった。
子供は13歳から18歳までは「顔」にしか興味がなかった。
いくら「教え」にいじめがともなっても、「美男美女」にまったく文句のない年頃というものはあった。
「創価学会の女の子はお姫様みたいだね」
無宗教だった頃の私は率直にそう思った。
「美男美女」こそが「伝説からの教え」(カルマ)を受けたものたちであった。
このようにして、仏教は「芸能界」へと活路を見出すことになったのだ。

唯識宗、天台宗、浄土宗、華厳宗などに「教え」は分かれていったが「美男美女を生み出す方法の違い」があった。
禅というものは、おちんちんに意識を集中させ、「女の名簿」を思い出すことを言うが、これらの宗派がなくては成立しないものだ。
「気を吐く」ためにも、心の平穏(本覚)を得るためにも必要なものだった。
法華経(ロータススートラ)にとどまらず、ヴィマラキーティスートラ、ニルヴァーナスートラ、フラワーオーナメントスートラ、ランカーヴァタラースートラなどいろんな経典があった。
「美男美女」に、歌を作るのが専門である道教が無関心であるわけがなかった。
作詞作曲をやる道教が仏教と結びつくのは必然だった(自然・道)。
美しい男女と交流を持ちたいという真如という教えも生まれた。
社会生活を営みながら、無宗教で、学校や会社の女の子を想像して禅を組むのとはことなる宗教が生まれたのだ。
田中れいな 愛の炎

ダルマカーティ(ダルマ)は6世紀のインドの人物であるが、ナーランダ大学に入った
秀才で、ハンサムだった。
しかし、ナーランダ大学に入ったことが彼を傲慢にさせていたし、視野も狭かった。
ダルマカーティがディグナーガという先生を見つけたことが彼の人生を変えた。
「女らしさの探求は金になる」
とにかく仏教は「私のもの」という発想を排除していたため、女らしさの探求は金になった。
研究すれば金になるのだから、ディグナーガ・ダルマカーティ学派というものは、ダルマが「プロとしての研究者の道」を歩んだことから作られた。
ヨーガというものを考え、骨盤矯正には別のアプローチが必要であっても、普通の腰痛にはヨーガは明らかに有効であった。
なによりも、ヨーガはセクシャルポーズを多用していたため、見ていて飽きなかった。
女の子が男にモノやお金をねだる、ここに資金の流れを見出した。
この「資金の流れ」を見て、よりマクロレベルの見地から「女らしさ」の探求をすれば、邪魔者は、まるでハンマーで打たれた陶器のように消えてなくなると考えたのだ。
日本国の浄土(きれいな国)という発想が「外国の情報に接し、女の子たちに話して回る」ことから実現すると考えられたのに対し、ダルマは「女らしさ」の探求さえしていれば「敵はハンマーで打ち砕かれる」と考えたのだ。
セクシーヨーガ

セックスを想定し、セックスを知っている男に対して、「女らしさ」をアピールし、その弟子はナガールジュナやマッディーヤマカへと拡大していった。
美男美女を作ったあとは、「女らしさの探求」へと仏教の世界は進んだ。
始めに「女」を作ってから「男」を作るというのは世界史の定石だと思われる。
鎮護国家などと日本で言われたのとあまり時間の開きはなかった。
日本国においては「女を作ったあとに男を作る」という政治手法のことを言ったが、この「男女の世界」に「十二の苦の連鎖」(十二縁起)が存在するだろうなどと議論され、その「苦」ほど音楽作品へと発展し、美男美女が歌って踊った。
SPEED Deep blue & truth

キリスト教はどうか分からないが、仏教はとにかく「インド人の個性的な顔」をまず最初に問題にし、それを解決することから教義が作られている。
「みんな俳優になればいい」として、らい病のような顔でも生きていけるようにしたことから、「顔」というものが作られていき、感情が芽生え、好みのタイプが生まれ、指導者が生まれた。
さて、「美男美女」を作るのが、「第一のバスケット」だとすると、「女らしさを生み出す」のが「第二のバスケット」である。
そこで、「美男美女を生み出し、女らしさを作り出す」ことができる力量を持った人物は「予言が可能となる」という「第三のバスケット」がアブヒダルマによって作られた。
この、アブヒダルマ(ダルマ神学)こそが、デカルトの「恋」の研究や、カントの「口説き文句」の研究に影響を与えている。
「仲間が多い」「何かやってくれそう」という理由から女の子は男の子に恋をし、また、カントは女の子に優しかった。
それらの条件がそろったら「俺は東大に合格する」「総理大臣を目指す」などの予言が可能となった。
仕事の大小の規模はあったが、予言というものは「美男美女を作る」「女らしさを作る」という二つのバスケットを埋めてからなされるものである。
Melody 運命’95

「美男美女を作る」「女らしさを生み出す」
こののちに、「高貴な真実を見つける」「心を満たそうとする」「もだえ苦しむ」「第六感を働かせる」「自分だけ目覚めている」などの道を経て「十二縁起」と呼ばれる音楽作品が生まれる。
音楽作品こそが税金の源であり、予言を可能にする力を持ったものだった。
現代においても「レコード会社と交流のない政治家はいない」と言われる。
自分の悲しみを地球の奥底に沈め、最後の審判を恐れなくさせたのは間違いなく音楽作品の登場があったからだ。
「2月革命」「3月革命」「「8月革命」「10月革命」「11月革命」などは20世紀になって行われたものだ。
夏休みは終わらない おニャン子クラブ

「痛み」
それは多くの男女が共感できるものであり、ナガールジュナはその数は「82種類」とまで明確にした偉大な人物であった。
髪の長い女・髪の短い女・巨乳・貧乳・子供を産んでいる・産んでいない、そして「すべての女」という意味においては陰陽五行説に似ていた。
「チッタ」と呼ばれ、キリスト教においては「バイブル」と呼ばれている。
この愛がバイブル 三浦理恵子

「男に対しては頭がぐるんぐるん」
それは「傷つきたくなかった」から生まれた発想である。
痛みを知っているから、そうでなければ知恵はつかない。
音楽作品を聞きながら、「美男美女」「女らしさ」そして「十二縁起」を感じるだけでもいろんなことが分かる。
CoCo 冬の微粒子

十二縁起は女にとって深刻な問題であった。
この「女の世界」が嫌いという男に女の子は失望感を味わったし、レイプされるのと同じような意味を持った。
痛みから自由になれることはないだろう。
しかし、女の子の痛みを決して嫌いになってはならない。
このことをサーンタラクシタは国の統合のために主張している。
おニャン子クラブ メリークリスマスフォーユー

サーンタラクシタは、ナーランダ大学(東京大学)に合格するエリートを「右翼的な存在」とし、多くの女たちが夢を見てあとをついてくる現象を批判した。
女たちまで夢を見るから「アッシー、メッシー、ゲッシー」などといって卑屈になるんだろうと考えたのだ。
それはまるで、東大閥による「一夫多妻制」に見えたため、真理としては学閥の否定を仏教の側が行った(中道)。
ribbon ポイズンの退屈

学歴は必要だ。情報が違う、人脈が違う。
しかし、女たちだけでなく男たちまでが「あいつは俺が育てた」と言い始めるのが学歴というものであった。
勉強(プラクティ)しなければ「仏の道」が分からないのは事実だった。
しかし、「女たち」がいれば、同じ数だけ「男たち」がいた。
禅で「女の名簿」を想像すると爽快感があるだろう。
しかし、「男たち」の存在を理解することも必要になってくる。
サーンタラクシタの「中道」を理解しなければ、創価学会が「東大」をどう思っているのかが理解できないだろう。
とにかく、難攻不落の要塞が東京大学だったのだ。
トリクルダウンには三種類ある。
皇室が「家族の問題」を庶民に広め、その解決法を明らかにすること。
女が金持ちからお金をもらい、若者に貢ぐこと。
東大生が口説き文句を中道の連中に教えること。
この三つのトリクルダウンが起きるのは事実なのだ。
皇室・金持ち・東大の三つの要素がトリクルダウンに付きまとっている。
市民は三つの方向に「お悩み相談」ができることになった。
中道とはこのような生き方を意味したし、いろんな人に教えてもらいながら、一夫一婦制を維持しようとするものだ。
サーンタラクシタが、三つの方向からのトリクルダウンを中道にもたらしたことは、サンタクロースとトロツキーに言われるほど影響力を持った。
チベット由来のものであるといえる。
Melody You are only my love.

皇室・金持ち・東大から「中道」へとトリクルダウンを引き起こすのが、仏教の目指した境地であったが、その阻害要因として在日朝鮮人や部落民の存在が指摘できる。
皇室・金持ち・東大の三つが「在日朝鮮人や部落民に苦しめられ続けた」のであれば、「トリクルダウンは起きないのではないか?」という予想がなされる。
在日朝鮮人や部落民は「家庭の問題は一向に解決せず、若者にお金を貢ぐ女もなく、口説き文句も東大生が教えてくれない」という問題が生じるのだ。
在日朝鮮人や部落民が「皇室・金持ち・東大」を苦しませ続けたことが理由であり、その問題は根の深いものとなっている。
医者は警察の「在日朝鮮人や部落民への差別」はそのようなことが背景にある。
在日朝鮮人や部落民は「鏡を見る」という習慣で日本人に劣り、決して美しくはない。
美しければそもそも差別もなければ、皇室・金持ち・東大を苦しませ続けたりなどしないだろう。
在日朝鮮人はともかく、部落民には「下水が整備されていない」という問題がある。
つまり、「鏡を見る習慣」が一部分欠落している。
在日朝鮮人は、地震が起きたら虐殺されるというトラウマを持っている。
地震というものは「天皇による人心コントロールが機能しなくなったとき」に引き起こされる。
天皇への背信行為が在日朝鮮人によってなされるからこそこのようなことが起きるのだ。
答えは、「仏教の側」に求めるしかないし、浄土(きれいな国)とは「朝鮮人のいない国、部落民のいない国)というのが本来の趣旨であっても、西本願寺は少なくとも、部落民、在日朝鮮人の「顔面偏差値」の向上のために活動している。
Twice Fancy

天台というのは「空の下のプラットフォーム」という意味であり、ヘーゲルやマルクスと結びついた。
「空の下のプラットフォーム」で、権力者が面白いことをやるという意味であり、あくまでも仏教であることから「美男美女」を作ったあとに「女らしさ」を作り上げ、さらに「予言」を行うという基本は踏まえていた。
どんな「面白いこと」かは、オリンピックなどいろいろあるだろうし、お金と時間と競争が背景になければ「面白いこと」を「予言」することは困難である。
ヘーゲルは「イケメン」の研究をおそらく仏教から学んだであろうし、マルクスは「人間は労働している限りにおいて死なない」とし、中国に労働が根付いた。
「美男美女」を作って「女らしさ」を生み出せば「予言が可能になる」
その資金の裏づけを中国人民の労働に求めたのだ。
男にモノや金をねだる女に「資金の流れ」を見出し、オリンピックレベルにまで上げていくのだ。
しかも、お金、時間、競争という三つこそが「いじめが生じる理由」であることから天台宗の教義は練られて行った。
長い時間を経てオリンピック選手は結果を出すが、その結果を待つまでのさまざまな理論が組まれている。
音楽作品のモデルにしたり、お金をあげたり、認めてあげたり、時には「王子さま」と呼んだりした。
いじめを耐える方法はいろいろあるが、音楽を聴いたり、銀行口座を見たり、いろいろあるだろう。
負け犬は「生きるのを諦める」とまで言われた(生滅四諦)。
勝つ予定の者は夢中になると言われ無生四諦と呼ばれた。
選手としては、勝っても負けても「生きているうちに入らない」(不生生)と呼ばれ、あくまでも「資金メカニズム」を「美男美女」を作る「女らしさ」を生み出す「予言」をするという権力者の存在が「面白い」とされたのが天台宗である。
中国の女優

 

選手として、そしてのちに財界人として「天台宗」が分かっている人物。
李寧。「女らしさ」をセールスにかけたことには触れられていない

いずれにせよ、天台宗に造詣の深い「いちばんいい指導者」(円教)に教えてもらわなければ国際舞台には立てないのだ。

女の「82種類の痛み」とは何だろう?こちらが聞きたい。

女の「82種類の痛み」とは何だろう?こちらが聞きたい2

女の「82種類の痛み」とは何だろう?こちらが聞きたい3

 
日本国においては「空海」の存在が大きい。
佐伯氏の出身で、姉がいたため、儒学の才能に満ち溢れていたが、仏教の顔の研究、女らしさの研究、そして予言をすることと、道教の「歌」に回帰して行った。
三行指帰においてそのことが記されており、三つの「道」に迷っていたが、平安時代に入ってから虚空蔵求問持の法において「儒学から仏教への転向」を明らかにしている。
24歳から31歳までは、自身の出身の四国においてかつて自分をいじめた連中に「仏教」を説いて回っている。
この時に、文字曼荼羅を所持していて、音楽作品を歌ったことは明らかである。
音楽作品は「マハーヴァイロカーナスートラ」(大日経)と呼ばれた。
804年に唐の長安に留学している。
自分が知っていた大日経の元ネタを長安で見つけている(ヴァジュラセカラスートラ)。
806年に九州に戻り、請来目録を書いている。
平城天皇の退位と嵯峨天皇の即位と同時に京都に入っている(809年)。
高尾山寺で823年まで新天皇を支えている。
かつて四国で歌った歌や文字曼荼羅が「中国で充実度を増した」のは明らかであった。
一緒に曼荼羅を見ながらお経を唱えるだけで「霊的に感化(いじめる気が失せる)」されるのだ。
垂加神道版(文字曼荼羅)。

「美男美女」を作り、「女らしさ」を生み出し、「予言」をするという仏教の基本がここにあるが、このやり方は2017年の横浜DeNAベイスターズ日本シリーズ進出によって、その「真言宗の真の意図」は明らかにされていなかったが、やり方としてはすでに使い果たされている。
空海は「ヨーガ」も取り入れたセクシャルポーズを女に踊らせている。
奈良時代にすでにあったではないかと言われたが、空海は「当時はレゾンデートルであり、真の真言宗の意図は伝わっていなかった」としている。
三部書を著し、「美男美女」を作り、「女らしさ」を生み出し、「予言」をするという
仏教の本来の姿を、ナガールジュナのような「女の痛みは82種類」という表現とは異なる形で、より「女らしさ」をアピールした。
しかし、なにしろ複雑なのが女心であり、それでいて、「男より単純」だった。
「美男美女」「女らしさ」「予言」の三つを理解していたことから「ダルマ」を知っていたとされる。

空海にとっては、サクヤムニは「芸能界に進出した朝鮮人女」としてではなく、「美女」であったし「女らしさ」をアピールする存在であった。
また、大日仏陀は「イケメンピエロ」としてサクヤムニを盛り立てる存在であった。
男は、勃たなければ(発心)、法を知ろうとはしなかった。
阿弥陀は空海の母であった。
阿弥陀の「先生」を名乗るサクヤムニは鬱陶しかった。
それでも「長安」にはサクヤムニも逆らえなかった。
鎌倉仏教の「浄土」(きれいな国)の時代ほど朝鮮半島は邪魔な存在ではなかったのだろう。
千手観音から始まる曲です

文字曼荼羅を見ながらお経を聞くという密教世界を広めようとする(発心説法)と、ライバルは目を背けた(発心苦境)その理由は文字曼荼羅の威力を知っていたからであり、無理強いしてはならないことも悟った。
佐伯氏の頃のいじめ体験から、「いじめられた経験」「大日仏陀」「ダルマ」を「三密」と呼んだ。
空海にとって「空」(くう)とは「みんな仲良く」という意味であった。
メルロ・ポンティやドゥルーズは「なぜみんなひとつになれるんだ?」と語り合ったし、アラブイスラムやマイスター・エッカルトなどは、「大日仏陀」の一神教を主張し、「女らしさ」よりも大日仏陀を崇めるべきであるとしている。

ブッダ(ゴータマ)は、釈迦(サーキャ)族に生まれ、王室の生まれであったことからハンサムだったものと思われる。
釈迦族は、ヴェーダやウパニシャッド哲学を有しており、「美男美女」が育つ環境にあったのだろう。
苦のない世界を「涅槃」と呼び、涅槃にたどり着く方法を探究した。
あるいは、輪廻転生というものを考え、「生まれ変わりたい」と思う人間を、「人生が充実していないからである」として、カルマ(伝説からの教え)を説くことによって輪廻転生から人間を追い出す方法を探究した。
「私」を否定するのは「みんな俳優のように演じれば美男美女になる」と考えたからであり、「私のもの」という発想を否定したのは、教団の資金源とするという都合があった。
「仏」というとさも高尚なものに思われるかもしれないが、人間は思春期(特に13歳~18歳)に「顔がすべて」という時期を過ごすことから、仏教の存在意義は認められる。
ブッダの死後、彼が語ったことはパーリ語、中国語、サンスクリット語になっている。
「苦とは何か考えてごらん?」
明るい音楽作品しか聞かないものは言葉が不自由だ。
暗い音楽作品を愛する者は言葉が豊かであり、「美男美女」である。
「生・老・病・死」と言っても、すべての原因は「顔」にあった。
「欲しがるな。背が高くてハンサムならば手に入らないものなどない」
他人に嘘の情報を教えてレポートを落第にさせたりする者の醜い顔を知っていた。
顔がハンサムならば、親が栄養を十分に与えて背が高くなる。
それだけで世の中の女子たちの憧れとなれるのだ。
ハンサムな顔とは「豊富な言語能力」からくるものであり、人間の「苦しみ」に興味を持つことから出来上がるものだ。
アニソンで盛り上がっている醜い連中を尻目に、暗い歌を歌う男こそが「涅槃」に近かった。
Madonna borderline

「美男美女」の生み出し方を探求し、「女らしさ」をセールスにかけて「予言」をするという仏教にあって、ゴータマは「背が高くなる方法」を明らかにしたという意味で傑出している。
「嘘」をついたり「他人を蹴落としたり」する人間は「小男」になるとしたのだ。
さて、「背が高くなる方法」をブッダは明らかにした。
しかし、「嘘」をついたり「他人を蹴落としたり」する人間が背が小さくなると言うことは、男は「背が高いほうがいい」ということは言えても、女の場合は「背が小さいほうが人生をよく知っている」「可愛らしい」という形で表現された。
マッディーヤマカは「言葉でこれらを表現することはできない」として、「5分間のパフォーマンス」で「人生をよく知っている女」をセールスにかけることにしたのだ。
CoCo ささやかな誘惑

背が低くて、人生をよく知っている女は「ガンダーラ」(カンダラカーティ)と呼ばれた。
人を蹴落とすことを知っていて、嘘をつくことも知っていた。
背の低い女は、背の高い男を見ると「どのように?」までは分からないが、司令塔としていじめる力をもっていた。
体を売っていた可能性も指摘できる。
背の高い男にとって「どのように?」が分からないのだからそうとしか言えないだろう。
いずれにせよ、ヨーガを学習し、セクシャルポーズをオンエアすることによって影響力を高めるのが背の低い、可愛らしい女というものだ。
ゴダイゴ ガンダーラ

西田幾多郎(遊佐道子)は、西谷啓治や田辺元とともに「京都学派」を形成した。
東京は完全に西欧化されたが、京都には仏教などが根強く残った。
つまり、「顔の作り方」「背の高さの生み出し方」の研究が残ったのだ。
西田幾多郎の娘が皇后美智子であり、石原慎太郎であり、林芙美子であり加茂さくらである。
孫が、私、小野光太郎であり、志村けんであり、松田聖子であり、酒井法子であり、松野有里巳であり、浅香唯であり、倉木麻衣である。
なぜ、「子供の頃みんな美男美女なのか?」
こたえは「禅」にあった。
西田幾多郎は「日本の美女図鑑」のコレクターであり、いつも美女を眺めて禅を組んでいたのだ。
美女図鑑を眺めて、「ああ、すっきりした」と言って禅を終えると、美男美女が生まれる。
田辺元や西谷啓治の系譜のアイドルは存じないが、どこかにいただろう。
1970年代に、日米安全保障条約の下で、藤田や竹田、戸坂や三木などの論客はでたが、それらの系譜のアイドルも私は存じない。
大橋や服部という系譜もある。
日本の芸能界はこのどこかの人物から出ているものと思われる。
私は、西田幾多郎(遊佐道子)の系譜しか個人的な面識はない。
とにかく、「日本の美少女コレクター」であり、禅を組んで美女を思い浮かべ、爽快感を味わうという営みから生まれたものだ。
「花の命は短くて」という側面があるのが禅だった。
酒井法子 夢冒険

西田幾多郎(遊佐道子)は、学業が困難を極めて「若さを無駄にする」時期に、「美女図鑑」を収集することを薦めている。
Bomb!を私は集めていた。
美女の悪口を言わず、己のすべてを委ねる、これが禅であった。
自分が気分がよければいいだけなのだ。
「有即無」とも呼ばれた。
美男美女が生まれるという「西田教授」の考えは、信者も多かったが、やがて世の中は「美男美女への悪口」に満ち溢れていった。
インド・中国・日本というラインを守ったのが「日本的美女」の図鑑であったし、今、日本国は「京都学派第三世代」が芸能界に大勢いる段階である。
この、日本的な「美男美女」の存在そのものが朝鮮半島の排除(浄土:きれいな国)を作るものと考えたのだ。
少年時代 井上陽水

中国においては、禅(女の名簿を想像しながら座禅を組む営み)は、別の発展を見せた。
娘が、学校を出て「変っていく」ところに「道」を見出し、娘が明るければ母は暗い(陽)、娘が暗ければ母は明るい(陰)という、母と娘の「陰陽」が指摘されたのだ。
母と娘で喜びを分かち合うと思ったらそれは親子というものを知らないとされた。
サードパーティの必要性も指摘できる。
卒業写真 荒井由美

母との関係から妥協して、社会人になって、OLさんをやっているのを「陰」と表現する音楽作品もある。
女が「変わる」というのは常に母親との関係が念頭にある。
「陰」を指摘されるから「いいかげんにして」と言っているのだ。
rebecca bottom line.

「美少女生まれないかな」と思って禅を組んだお母さんだったのに、いざ、生まれ、育ってみると、女の子は「キレイになる」(陽)のにも頭を使う。
松田聖子 赤い靴のバレリーナ

キレイになる方法(道)は、常に、母親との関係を考えなければならず、結婚して母親の軍門にくだり、髪を切ってしまう女性もいる。
天才的に可愛い子がボーイスタイルで売る、それもお母さんとの兼ね合いがあるし、どっちのキャラに進むかもお母さんのご機嫌を伺わなければならない。
それが「陰陽」というものである。
女子かしまし物語

文帝と武帝の時代を経て、妻が美しいと「文武両道」が必要になってくることが分かり、天命として知られるようになった。
適当にブサイクでなければ体力が持たないのだ。
お金があること(義)、女たちにモテること(礼)などの要素がなければ、皇帝になるためには乱闘騒ぎを経験しなければならなかった。
女がキレイになる方法(道)というものは、時には男の出世を妨げるものだ。
時間というのは「有る」か「無い」かのどちらかだ(有無)。
体を鍛える時間、学問に励む時間の両方を含む。
できるだけ可愛い彼女と付き合いたいと思って、文武を鍛えるが、若いうちだけだ。
若いうちに文武を鍛え、ブサイクな女を選択したら皇帝になれる。
それが天命というものであり、女の道に男が関与しなければならないことからそのような展開をたどる。
ブサイクな女が「可愛い女の子が欲しい」と考えることから「禅」というものは生まれ、遊佐道子(香淳皇后)も決して美しくは無かったことから「西田幾多郎」として禅に励み、日本国の芸能人の祖先となっている。
浅香唯 セシル

母親が「禅」を知っていて、美男美女として生まれても、歳をとったら親に似てくる(自然)。
しかし、若い頃の美しさは、男の子の場合は「文武」両道に関わってくる。
女の子の場合は「陰陽」と関わってくる。
男の子に「文武」に励む時間を与えることを「無為」と呼ぶ。
Mr.children Tomorrow never knows.

 

思い切り稼いで(義)、思い切りモテて(礼)、ブサイクと結婚する(天命)。
そして、妻は「禅」を理解し、可愛い女の子、ハンサムな男の子を産む。
これらの仕組みに詳しかったのが西田幾多郎(遊佐道子)だったのだ。

天命を理解している男は、周囲に人が群がる(感応)。
人気のある人は「縁起がいい」とも言われた。
音楽作品を愛したのが天台宗であり、禅に詳しかったのが華厳宗であり、女らしさをヨーガから研究したのが唯識宗であり、この「三論」には優劣はない。
皇帝というのはどの世界にもいるが、いわば「社長さん」を育てる学問を「道学」と呼んだのだ。

ローマ帝国では「五賢帝時代」というのがあったし、日本では、明治・大正・昭和・平成・令和と続いたわけであるが、ローマ帝国においても現代の日本国においても「五代限界説」というのがある。
その「六代目」の人生を「サパン」と呼び、もし、令和の次があるとするのならば、
サパンの研究が必要になってくる。
サパンとはまるで、アメリカが現代の「ジャパン」の研究をしたようなものである。
サパン(六代目)は、ビスマルク(小野光右衛門)・小野達郎(野口英世)・小野鉄之助(昭和天皇)・佐田の山(平成天皇)、そして令和天皇の次を受けて、「令和天皇にできなかったこと」つまり「詩を作ること」「ギターを弾くこと」「祖先研究を深めること」「自分を伝説にすること」そして、それらを踏まえたうえで「女性たちが自分に夢を託すこと」を研究することになる。
それは、チャパチョキセンゲ(グーチョキパー)のように完成された学問だった。
サパンは早熟で、勉強は苦手だったが、背が高く、顔が令和天皇に似ていたため、「カッコつけて伝説になる」方法を選んだのだ。
つまり、「ギタリスト」「ミュージシャン」であった。
「伝説からの教え(カルマ)は大観衆が教えてくれるだろう」
太陽のkomachi engel

最高の指導者についてもらっていたため、決して、夜郎自大ではなく「時代の寵児」として、「カルトシアター」で公演したあとに、「令和天皇に似た」息子の姿を女性たちは「コンサートの帰り道で」考え、「天皇制の永遠」を誓った。
CoCo 優しさに帰れない

女性たちは、令和天皇の息子の「修行時代」に頭を下げ、その特権的生まれに頭を下げ、最後に「セックス崇拝」に頭を下げた(三跪)。
チベットで「サパン」がいなければ、ダライラマも14世までは存続しなかっただろう。
釈迦族の知恵とも呼ばれている。
令和の時代に天皇は「グル」として扱われることになるが、それに対する「反対勢力」を、息子は味方につけることになった。
チベットが「五代限界説」を突破した理由はここにあるし、日本でもそれは果たされることになる。
「国内最高の先生って誰?」
みんなが悟れる大乗仏教の誕生だった。
「五代限界説の突破」と「大乗仏教の誕生」は天理とも呼ばれた。
インドのあらゆる王朝は限界を突破できなかった。
しかし、チベットだけは特別だった。

宗教体験とは、男に関するもの、であり、多くの女たちを騒がせたことがあるものに対する感情であり、時には抱かれ、時には「男が男を先生と呼び」時には、理想と現実のギャップを感じるものである。
同じ空の下に同じ花を咲かせる。
部落民にお金は無い。しかし、熱狂的な声援を送ることはできる。

部落民特有の幼児体験・原体験を秋篠宮は持っていた。
そのために、部落民女性は熱狂的な声援を送ったのだ。
令和天皇は、秋篠宮のことを「部落民」とともに記憶に残していた。
「病んでいる者たちが幻を見ていた」
禿げていて老境にある男に「宗教」を見出していた。
「幼児体験・原体験」だけはどうしょうもねえな。
酒井法子 あなたに天使が見える時

釈迦族の何が偉大なのか?
「五代限界説」を打ち破ってチベットで存続したからである。
なぜチベットなのか?
それは、モンゴル帝国が13世紀にインド中国を支配したからである。
「美男美女」を作る、「女らしさ」をクリエイトする、「予言をする」という仏教は16世紀にはダライラマ5世がおり、息子を「ミュージシャン」にすることで王朝の限界を打ち破った。
チベット仏教は「勝負事の基本」を知っている連中であることをアイデンティティとしている。
世界の仏教界のみならず、政界、メジャースポーツの世界がチベットを「特別」とする理由はここにある。

「美男美女」が「女らしさ」をクリエイトし、「予言をする」という営みはいつしか「シャングリラ」と呼ばれる宗教・ビジネス・政治・法律・経済の基本となっていた。
シャングリラの夏 河合その子

「美男美女」「女らしさ」「予言」はそれぞれが「らんま三分の一」と呼ばれた。
東京大学とかハーバード大学とかあるけど「らんま三分の一」を理解しているアーティストの方が格が上であるとされている。

日本国で「金集め」をする上では「無常」「変わり続けること」への感性を磨かなければならない。
高井麻巳子 約束

その上で「もの」(おちんちん)への「あわれ」(同情)つまり「もののあわれ」を持たなければならない。
CoCo メロディー

「無常」は吉田兼好の徒然草に表現され、もののあわれは源氏物語や平家物語に表現されている。
しかし、この二曲を吟味できれば十分だろう。
紫式部も小津安二郎も、この二曲から入門編と位置づけられる。
桜を見る感性はここから来るからである。
吉田兼好の徒然草は、月の下での夜桜見物に「無常」「もののあわれ」のふたつを凝縮させた。
千利休は、美女とのお茶を「禅」をするうえで必要なものとし、可愛い女の子を喫茶店に誘うことがどれほど「子供を美しくするか」を論じた。
モテないお父さんと言うのも子供の顔に悪影響を与えた。
ワビというものは「枯れてもモテる」「腐っても鯛」を意味した。
河合その子 Please tell me Mr.朱

谷崎潤一郎は「旧家の厠(かわや)」に日本の美を見出している。
これがトイレか、金持ってんな。
それが旧家の厠であった。
歳をとってもモテる(ワビ)があるからこそ、歳をとって金がある(サビ)ことが表現された。
さらに、幽玄というものは「女性の局部」を神秘化させることから金儲けをすることを言う。
雪舟の風景画や、芸道(弓道・柔道・書道・華道・茶道)などの「道」は、「女目当てに」「遠回りをしながら」磨くものであった。
後藤真希 愛ってどんな×××

さらに、イキというものは、旧くは芸者遊びをする学生さんのことを言ったが、今はコンクリートの会場でコンサートを見る若者のことを言った。
ステージの上の女が「キレ」(処女を失うこと)を歌っただけで熱狂した。
高橋由美子 ときめき

小津安二郎に「東京物語」という映画があるが、「日本の美」だけで都会作りをするとあのような風景になる。
資金力の限界を示しており、デカルト(恋の研究)・カント(口説き文句の研究)が必要であるという判断がなされたからこそ今の「東京」があるのだ。
しかし、日本国が独自に作り上げた風景が東京物語にはある。
東京物語 映画 二時間以上の作品です メジャーな学問がなければ日本はこんなに暗い。 ハーバードやスタンフォードがなければ、この風景は今でも残っていただろう。 中卒や高卒だけの国ではない。 東大が西欧化を進めたから今の東京がある。

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