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Foreign Affairs

  • CFR: フォーリンアフェアーズ英語版

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2019年4月 2日 (火)

易経~変化の時代に向けて。

太陽系は人類が生まれる前からあった。
その太陽系に「運命が決められている」と考えたのが中国の「易経」である。
水金地火木土天冥海
これに「男」「女」「どちらでもない(性倒錯)」
の八卦つまり、八卦には「三つの三角形がある」とし、さらに、疑い(疑)、非難できないこと(無糾)、悲劇(凶)、非難(糾)、後悔(悔)、悲しむ(憐)、恐怖(憂)、心配する(患)の八つがあり、八つの天体と八つの感情を合わせると六十四卦となるのだ。
疑・無糾・凶・糾・悔・憐・憂・患の周りにも「男」「女」「どちらでもない」の三つのトライアングルがあり、あとは、水金地火木土天冥海の解釈に放り投げたのが易経である。
惑星の解釈は多くの論客に委ねるとして、陽というものが「巨乳」「髪が長い」「子供を産んでいない」という三つからなり、「飛んでいる龍」「傲慢な龍」「隠れた龍」の三つの男のパターンが想定された。
「傲慢な龍」の周りには後悔(悔)が多く、易者に見てもらうことで「飛んでいる龍」になれるという具合に、「祈りさえすれば運気が開ける」という側面はどの男にも言えた。
八つの天体は「六星占術」のように密教化することは必ずしも否定されていない。
六星占術は「六つの龍」に影響されたものと考えられ、「巨乳」「髪が長い」「子供を産んでいない」という女の事情と、「飛んでいる龍」「傲慢な龍」「隠れた龍」の三つの男の事情があるものと思われる。
いずれにせよ、「易者に見てもらおう」という謙虚な男には「運気」しか約束されておらず、何か言われたら「ビビッておけばいい」とされている。
星座占いで瞳を閉じて おニャン子クラブ

さらに、山(根)・火(力)・水(看)・嵐(争)の四つを相談者を観察し、判断した上で「金・木・水・火・地」に区別する。
山のように動じていないか、火のように力が入っていないか、水のように落ち着いているか、嵐のようにすさんでいるかを判断して「惑星」というものに区別していく。
しかし、「惑星」を指摘されるだけで、みんな「水のように落ち着いてしまう」効果を狙って生年月日で「惑星」を決めてしまうのもひとつの考えだろう。
そのあとに「説話」を聞かせて人生を説く、ここからが「易者」の腕の見せ所だ。
「傲慢な龍」は震え上がらせ「隠れた龍」は褒めてお金をもらい、飛んでいる龍には真剣に相談に乗る。
決して「飛んでいる龍」に嫉妬してペットにしない力量が「易者」には求められている。

漢王朝は「永遠の王朝」を目指していた。
「飛んでいる龍にはどんどん飛んでもらおう」
つまり、「易者」とはプロデューサーであり、医者であり、哲学者・経済学者だったのだ。
「傲慢な龍」を諫め、「隠れた龍」を発掘する。
「巨乳・貧乳」「髪が長い・短い」「子供を産んでいる・産んでいない」などの違いが女にはあったが、男は「調子がいい」「傲慢」「隠れている」の三つしかない。
あとは「動じていないか」「力が入っているか」「そもそも退屈で落ち着いているのか」「すさんでいるのか」の四つを見て、「惑星」を与えるしかない。
これが「永遠の王朝」である漢王朝が考えた「易経」である。
プロデューサーとしての力量・医者・哲学者・経済学者としての力量は「シルクロードまかせ」なのだから、みんな「敦煌」で勉強せざるを得ない。

幸せというものは、あんがいストイックなものであり、「セックスされる存在としての”女”の言葉が聞ける」と言うようなところにある。
女性コテはそのような意味では、「発言そのものが人を幸せにしている」という側面がある。
しかし、女は「自分は間違っていない」と考えており、「その空間を支配したい」とも考えているため、女性同士の喧嘩が始まる。
ストイックであることにも多少の税金はかかるし、セックスとそれにともなう「欲望」にも税金はかかる。
さらには「男の一覧表」を女が持っていても税金がかかる。
「男を比べる」というのはあんがい税金が高い。
ribbon ポイズンの退屈

「男を比べる」(モード)というのは財務省は喜ぶだろうが、恋愛の世界では「禁じ手」に近い。
そこに、べらぼうな税金が発生するのだ。
ストイックに「女の声」に癒されても、セックスしても、男を比べても税金はかかる。
「アッシー」「メッシー」「ゲッシー」とか言っていると税収が増え、また「大きな政府」の時代の到来を予感させるし、コンビニ前でたむろしている若者が警察に封じ込まれる。
何に税金を課そうが基本的には自由であり、怠け者が休日に休んで体力を回復させることにも税金を課すことは可能である。
プライベートに介入しないようにしながら、人々の「欲望」に税金を課している。
しかし、「男を比べる」というのは致命的な税収効果が見込まれるだろう。
「男女の川」に税金を課すのは基本なのだ。
ribbon 真夏のフェミニスト

しかし、ゲイやレズビアンにまで税金を課すことは想定していない節がある。
人々の「幸せ」の公約数的見解に税金を課すのが税制というものだからである。
「兜あわせ」など日本国政府は「幸せ」とは認識していない。
働き、幸せになり、税金を払うのだ。
教育を受け、働き、税金を払い、教育するという見解を聞いたことがあるが、教育というものが「男の子は男になり、女の子は女になる」ものであることを理解した上で、文部科学省が「国家教育権説」に立脚していることから「国のお金に頼らないで欲しい」というメッセージが含まれていることを理解しなければならない。
「ユーダイモニズム」「ビーティテュード」つまり「皮オナニー」に税金はかからない。
これは「エリート優遇政策」とも言われ、キリスト教社会の伝統なのだ。
税制をうまく「幸せのおすそ分け」に仕組んでいかなければならない。
ribbon 愛してジャスティス

信じていた人に裏切られた時に人は「怒る」ものだ。
この、社会の「歯車のズレ」にも税金はかかる。
個人の「怒り」を社会がシステムとして共有しようというものであり、政策判断の誤りからも税金をいただくことにしたのだ。
どのみち、人々の「幸せの探求」の旅路に力を与えるものである。
人々が「怒ったら」下級行政組織は「行政需要」として拾っている。
社会は確実に「怒りをなくす」方向を目指しており、「怒りにも税金を払っている」という納税者意識は必要となってくるだろう。
企画立案とは「人々の怒り」への対応となっており、「誰を信じ、誰に裏切られたのか?」の論点を埋めていく作業だ。
東京大学に入って、病んでしまった私が、就職活動ができなかったことにより社会の最下層に落ちたことへの怒りは私もかつて持っていた。
しかし、「ヨハネの黙示録」つまり、都会に出た私についてきたアイドルたちがいたということから「和解」している。
つまり、私の「怒り」は「根拠がなかった」ことになり、当然、行政需要には反映されない。
日本国の「哲学ブレーン」がどこまで奥深く、社会の「怒り」を大所高所から俯瞰するかが問われる。
イエスキリストやブッダみたいな「ストイシズム」ってカッコいいよね、と女子たちが考えるのならば当然、税金は課される。
しかし、ストイックにも理由があるのだ。
「ユーダイモニズム」「ビーティテュード」が理由である。
そのあたりは、「君主制」というものを考えながら、リベラルな君主なのか保守的な君主なのかの政策判断となる。
真面目な君主がいると、受験生も「女子たちの声援」を受けながら親が非課税で済む。
私が、平成の初期に「東大生」をやっていた頃は、「そろそろ時間切れね」などと言われたものである。
どうしても「怒り」がおさまらないのならば、周囲に「女の子」がいるかどうか見回してみるしかない。
女性でも、「怒り」がおさまらないのならば、周囲の「男」を見回すしかない。
いちばんの「怒り」は「浮気をされた」ことだろうが、それは「壊れていく人間」(イエスの磔)への恐怖心をなくすしかない。
つまりは、宗教(男らしさを語り合う論壇)の側の「医学崇拝」へと委ねられた問題である。
高橋由美子 三年過ぎた頃には

「満足のハードル」を下げれば怒りがおさまるのであれば、政府の企画立案は動かない。
「壊れていく妻が怖かったから浮気した」という問題も宗教界に委ねている。
それほど、日本国の「哲学ブレーン」は、宗教界・政界に多くのものを委ねているし、オープンである。
平成の中頃から、日本国の君主制は「保守化」に向かった。
私も、「ストイックさ」が高く評価された時期があった。
松浦亜弥 S君

男女の存在を想定し、さらには「幸せのハードル」という概念を想定し、さらには「君主制」というものをも想定しながら、あるいは「永田町」も想定しながら税制というものは作られている。
女子の声援を受けながら肩で風を切って歩いている受験生が嫌いという男もいるだろう。
君主制の支持率もおのずと落ち着くところに落ち着くものだ。
あの「ストイックな男」が丸くなった?
フロイトとの出会いがあった。カントとも出会った。
いつまでも、ストイックなままでは、なかなか「大人」とは言い切れないものがある。
その代わり、「晩成型」の人気は謳歌できた。
なぜ、カップルは「男の側から」「愛してたって言わないで」と女に言われることがあるのか?
妻のことを考え、他の女と、さらにその「ライバル女」のことを考えたら何がおきるかが分かった。
カップルには「二人の」「敵の女」がいる。
男と浮気する「女」と、もうこのカップルは見放そうと考える「ライバル女」である。
私と妻は、なぜか宮沢りえさんに守られる形となった。
交友関係がそのように仕組んでいたのだ。
松田聖子 瞳はダイアモンド

イエスキリストやブッダは、「幸せのハードル」のコントロールと、コマーシャル(テレビ)との付き合い方をうまく調整していた。
いちばんいい指導者と言えば、ソクラテス、プラトン、アリストテレス、アクィナス、カントの系譜なのは明らかではないか?
そのまま論文で読んだ。
カントには石川健治も団藤重光も逆らえなかったことを知ったからだ。
法治主義とは六法全書のことだろう。
しかし、法の支配というのはそもそも哲学全般に人間社会が支配されていることを言う。
多くの人間の感情にさらされていると、法の支配を有無を言わさず体験せざるを得ない。
ひたすら「法の支配」を論文を読みながら体感した。
芸能界に近づきすぎて危なくなかったか?
性倒錯(法律の留保)に詳しくなったよ。
ゲイやレズビアンなど性的少数派が芸能界を志していたのだ。
そのことに詳しくなったら危なくはない。
のちの世にテキストも残してある。
足をゆっくり揺するのがゲイであるとか、貧乳・髪が短いなどがレズビアンであるなど詳しくなったらみんな興味を持った。
ブータン国王のワンチェクなんて、オックスフォードで学んだことを生かして、GNH(国内総幸福)なんて概念まで作っているんだ。
自分がブッダだと思っているんだろう。
小さい国だけど、国内の「オックスフォード化」をしようとしているのならば、私の、日本国の「スタンフォード化」とやっていることは同じなのだ。大事なのはコンテンツなんだよ。
ribbon それは言わない約束

そういえば、「暴君ネロ」って何を知っていた人?と思うだろう。
やっぱり「男同士ならば女の話をしなければダメだな」と考えた人だ。
ソクラテス以来の伝統であり、プラトンが詩をつくり、アリストテレスが「男女の共存した社会」を作り、シニクス、シレナイクスという論客を経て、エピクロスは「だったら男女の関係をムチャクチャに経験して体験談を書こう」と考えたのだ。
「暴君ネロ」そのものは、エピクロスを読んで知っていただけのエリートなのだ。
「まだ、何も知らない時代」
エピクロスはギリシャ哲学の総括を行っている。
哲学の側がとことんムチャクチャやってみないと、哲学者がナメられるだけだ。
エピクロスはレイプもした。
女ってのは「脳が祝福か呪いにアクセスしてセックスしている」とし、呪いにアクセスさせたらレイプではないとも語った。
神への失望があるかどうかがレイプの判断基準となる。
ここでも「信用していた人に裏切られた」という「怒り」が女にあるかどうかが問われた。
CoCo ミスロンリー

男が男を崇拝するという「神」というものも、神が「セックスは最高だぜ」と言ってくれないのであれば成立しないものだ。
しかも、紳士的で「処女にモテる」のであれば、条件は満たされる。
「性倒錯」(法律の留保)も理解したうえで「何が相手にとって気持ちがいいのか?」をその場で探ることができる、これが「暴君ネロ」の才能だった。
「女はパートナーがいても”幻の恋人”がいる」
分からないと「手に入れたとたん男が冷たくなる」ことになりかねない。
冷たくしないで

「暴君ネロ」は、人々に「名誉ある男女の出会い」を語ったのだ。
即位にまつわる「いじめの克服法」はトマス・アクィナス(マネタリズム)なり、「都会の大学の登場」を待たなければならなかった。
とにかく、「暴君ネロ」は、「男同士ならば女について語らなければならない」とした人物であり、皇帝でありながら「生きているって最高だ」と言った人なのだ。
トマス・アクィナスの登場を待たなければ、家庭崩壊をせずに皇帝になった人はいなかっただろう。
なにしろ、父・叔父・弟にまで「女の話」を持ち出さなければならなかったのだ。
そもそも、ソクラテスが「男同士ならば女の話をしないと成り立たない」としていたが、プラトンは「音楽作品」を多く作った。
そのプラトンに「男女の共存」を明確に打ち出させたのがソクラテスであり、社会そのものを「男女が共存したものにしよう」と考えたのはアリストテレスだ。
男女の共存と言っても、そもそも「女の子が生まれるのはポリスにとっては障害者が生まれるのと同じ」と考える文化から叩きなおさなければならず、男女の出生率にまで介入したのだ。
つまり「幸福」「幸せ」というものの祖先がアリストテレスだったのだ。
女性を見るたびに「アリストテレスは21世紀を見ているんだな」と考えた方がいい。
あなたがアリストテレスだからだ。
その上で「男同士が仲良くなる方法」つまり「道徳」という学問が成立した。
さらに、シニクスは「酒」というものを考えた。
男が仲良くなる方法はこれだけでもはるかに発展したのだ。
シレナイクスは、男は「老人」になってもモテたいものだとし、介護の現場に女性を持ち込んだ。
「老人」の研究をしたのはシレナイクスが最初で最後かもしれない。
エピクロスは、すでに述べたとおりだが、とにかく「男女の究極のムチャクチャって何だろう」ということを明らかにした。
それ以来、哲学の世界はストア派(ストイック)が主流になってしまった。
どの男も傷つきたくはなかったからだろう。
「暴君ネロ」はこのような学習環境に身を置いており、家庭も失い、皇帝として生きた。
父も母も兄弟姉妹もいる君主という構図を作ったトマス・アクィナスは「セイント」と呼ばれるべくして呼ばれたのだろう。
昔の「女たち」も、孤独な皇帝という構図はローマ帝国で最後にして欲しいと考えた。
ribbon do you remember me?

易経というものは、「傲慢な龍」をビビらせて謙虚にするものであったが、漢王朝が考えたものである。
「巨乳・貧乳」「髪が長い・短い」「子供を産んでいる・産んでいない」女と共存していくのが男である以上、男はどんなに絶好調でも謙虚でなければならない。
イスラム圏においては、アルファラビが「天体の秩序と人間の幸福は連動している」として、コスミックオーダーというものを考えている。
これも「宇宙のことを考えると人間というものはあまりにも小さい」ということを意味し、より「大きな気持ちで」「局地戦をやらない」ことが「アラーの器」であるとしたものだろう。
CoCo 星の上で

勉強の才能さえあれば「アラー」になれるのだ。
周囲はみんなヒステリーというものを持っている。
勉強以外のほかの物事は「譲る」というのがアラーの宇宙論である。
それが「東大合格」という「勉強テロ」の基本だ。
アラーが毎日毎日、論文を読んでいる限り「終末思想」というものは生まれない。
終末思想が煽られるたびに「毎日論文を読んでいる男」をみんなが振り向くのだ。
勉強以外のものは譲る、これがアラーの宇宙論なのだ。
どの国も「ワールドカップ」「オリンピック」という「試練の時」というのは必ずある。
みんな「小さなもの」を奪い合っている。
しかし、国の「試練の時」にどうしても振り向いてしまう「アラー」がいるのだ。
勉強以外のものは譲れ、論文なんてものは無尽蔵にある。つまり、金なんてものは無限にあるのだ。
ribbon ハートだけがユニバース

デカルトは、「恋」の研究をした人物であるため、君主については多くを語っていない。
しかし、プラトンも想定していなかった「詩」がアクィナスとローマカトリックによって作られた。
「愛の言葉さえ囁けない真面目な人」
この構図は、アクィナスがそのように生き、皇帝になることでローマカトリックと共有したものであり、デカルトも「帝王学」と見なしていた。
姉が「お父さんにお風呂でエッチなことをされた」ことから、男の子は学校でいじめられ、「いじめに慣れた」ということを「仁」と呼び、その「苦しんだ時期」を「徳」と呼ぶ。
他のクラスメートが「恋」を経験する時期に「苦しんでいた」のである。
他の女子と「セックスする可能性」はもちろんあった(期待可能性)。
しかし、それはデカルトの専門ではなく、ローマカトリックの問題であった。
あるいは「台湾」というカトリックチャイナの問題かもしれない。
酒井法子 恋と愛のニュアンス

清朝末期に、「このような不幸な男の子は出してはならない」とされて「一人っ子政策」が採用されたため、「帝王学」「仁」「徳」などを台湾が持っていってしまった。
「台湾問題の解決は平和的なものでなければならない」という日米の見解は「解決は不可能だろう」という考えのもとに作られている。
中華人民共和国が「武力行使を否定していない」とする理由もここにある。
中華人民共和国は、文化大革命の失敗の後、ヨーロッパに心を閉ざした。
台湾は、ヨーロッパに関しては「80年にわたる蓄積」を持っているとされ、中国に「法律の作り方」を教えている。
しかし、「愛の言葉さえ囁けない真面目な人」「あなただけ恋を追い越していく」などの「ポップカルチャー」の研究を台湾は行っており、中国が南シナ海へと進出した結果見えたのが「台湾」であったことを考えると、資金面で台湾も負けてはおらず、中国による「台湾への先制攻撃」があったのならばアメリカのみならず日本も巻き込まれざるを得ない。
その時に、「愛の言葉も囁けない真面目な人」という男性像がどこまで支持を集めるかで「どっち派」かが決まるだろう。
松田聖子 赤いスイートピー

デカルトは「街で会った女の子と話しをする」「マスターベーションをする」(内省)ことが税収効果を上げると考えており、「帝王学」などには興味ないようであった。
姉が「処女/非処女論争」から排除されたことにより、親が「夫婦の安定を支えるのはあなただけなのよ?」と考えて男の性に厳しかったことから、帝王学は生まれている。
男も、女との関係を「不確実性の時代」と呼んでいて、簡単には女とは関わらなかった。
「男同士では女の話をしなければ仲良くなれない」
このことからも、男は「叔父や弟」にいじめられる宿命にあった。
「勉強さえできればアラーになれる」
しかし、いつしか勉強も「研究」と名を変えていた。
人気商売をやり始めたらもはや「研究」である。
私が、「LOVE」という論文を読み始めたのは30代中頃だったであろうか。
松田聖子 ハートをロック

ライプニッツは、神聖ローマ帝国を滅ぼすために「英語をもっともいい言語・素直な言語にしよう」と考えていた。
日本国においても、「英語ができる」男というのは、「お前は合格だ!」ということになり、私も、東大文一に合格した時には、「帝王学のすべてが出揃った」とみなされた。
「幸福」「幸せ」について語るのであれば「功利主義」に触れなければならないだろう。
功利主義とはとにかく「カッコをつける」という意味であり、弁護士になったり医者になったりして背広や白衣を着て「カッコをつける」ことを言う。
昔の弁護士なんて「30分5千円」などの報酬を得ていたが、「15分で席を立つ」客が多く、それでも生活には困らなかった。
医者でも「分からない」というので患者が怒ると「イライラしますか?」と言って精神安定剤を処方したりしていたのだ。
あとは「その弁護士や医者をめぐる男らしさの論壇」(宗教)のフォーラムが開かれていて、なにしろ人々は「悪い噂」からその人のイメージを固めていくものだから、仕事として成立したのだ。
まだ、アメリカ合衆国が見えていない時期の話である。
私は、「頭を打った人にはサリンを投与しろ」という英語の記述を読んだことがあるが、医者である父に話したら「サリンというのは英語で塩水という意味だ。サリンだけは勘弁してくれ」と言われた。
しかし、よくよく考えたら、父は「点滴なんてポカリスエットだよ」とも言っていたのだ。
サリンというのはつまり「塩水・ポカリスエット」のことであり、実際に、目の前で転倒して頭を打った人がいるのならば、私はためらうことなく自動販売機でスポーツドリンクを購入して飲ませるだろう。
スポーツドリンクを飲んでみれば分かるが、とにかく「布団が大好き」になりよく眠れる。
つまり、頭を打ったら「眠るしかない」ことも分かる。
昔は、ボクサーの赤井英和が、試合中に脳内出血を引き起こし、開頭手術を受け医者は「脳が腫れてきたら死ぬと思った」と語っていたが、なぜ、「点滴をして眠らせる」だけで済むことを医者は知らなかったのだろうか。
私が通院している病院の副看護部長ですら、頭を殴られたおじいさんに「眠らせるしかない」と達観していたのだ。
「功利主義」「カッコつけ」は時代の産物であり、中には職人芸のように「サリン」を使用していた老境の医者もいたであろう。
誰もがキャリアの最初は「搾取」か「功利主義」を経験する。
酒井法子 カタチから入ろう

今はかなり結果無価値論的になってきており、女々しい長話を適当に聞きながら、「ズバッ」と真理を語るやり方が主流になってきている。
いずれにせよ、アメリカ合衆国を知らないと何もできない。
ハンチントン病になって「踊っている」某有名タレントに、英語の医学書を読んで「男になりたいと思ったことはありますか?」と聞いたら「一度だけ」と答えて、それ以降、「まったく踊らなく」なったのだ。
はたして、「45歳あたりで死亡する。子供に遺伝する可能性は5割」と平気で語る日本の医学はどこまで本当なのだろうか?
私が、ハンチントン病の患者に「男になりたいと思ったことはありますか?」と聞いたのは世間話扱いであり、報酬などもらっていない。
痛みと快楽の「主人」である功利主義者にとって「仕事」というものは必ずしも楽しいものではない。
キャリアの最初は「搾取」から始めた人の方がよほど「職人芸」を身につける可能性がある。
「カッコつけ」の人たちの「学会」がなければ何も発展しないだろうとも言われる。
私も、ブログの版権を「使わせてくれ」と主治医に言われて契約書に署名している。
功利主義者と、私のような「ただのオヤジ」は、そのようにして共存しているのだ。
医者や職員に頭を下げられながら「患者」をやって経験を積んでいる。
世の中には「政治家」「宗教家」などという都合のいい職業もあるだろう。
中には、有名女性議員が、「親指の腱を切らなければならなくなった」という世間話を聞いて「炭水化物しかとっていないからですよ」とメールを出したりもした。
今となっては「医学書」もまるで小説のように英語で書かれている時代だ。
しかも、検索機能もある。
そのようにして「感じてもらう」しかないだろう。
功利主義者の「学会」とも共存していかなければならないが、その辺は「主治医が契約書に署名を求めてきたら」政治家・宗教家として一人前だと割り切るほかはない。
「政治家」「宗教家」と「弁護士」「医者」が「学会を通じてつながっている」ことを私も確認しており、人生のキャリアの最初は搾取だという「政治家」「宗教家」とただのカッコつけである「弁護士」「医者」の功利主義はどのような関係にあるだろうか?
それは、「功利主義者の方がサークルを多く持っている」ということに尽きる。
免許を持っているもの同士の交流の場がまったく異なるのだ。
その「サークル」と「契約書」があれば、政治家・宗教家も非常に役に立つ。
しかし、アメリカ合衆国を知らないのであれば「向いていないんじゃないか?」と言うしかない現状もあるのだ。
「政治家」「宗教家」について語らせてもらったが、この両者は「弁護士」「医者」のように免許で区別されているわけではない。
自由恋愛をする(リベラル)なのが「政治家」であり、堅物なのが「宗教家」だと区別される。
政治(女心を定義する世界)と言えば集まらない金も、宗教(男らしさを語り合う論壇)と言えば集まる、と言われるように、紅白歌合戦で常に白組が勝つような区別の方法をJSミルは考えている。
宗教(男らしさを語り合う論壇)といっても、実際は仕事があり、免許制の埒外に置かれた存在として「アカデミズム(学会)への貢献」を行っていかなければならない。
たとえば、可愛らしいアイドルが、病院で「歯が出てきた」という症状を引き起こしたのを見たことがある。
アイドルとしては、写真を修整しなければ致命傷とも言えるものであったが、医学書には「いろんな飲み物を飲んだほうがいい」と書かれていた。
しかし、そのアイドルは「大量のカルピス」を飲んで「歯が出てきた」のを治してしまった。
カルピスだけを飲んでも「いろんな飲み物を飲む」うちに入るのかと思った。
そうなると「耳が悪い人」も「いろんな飲み物を飲めばいい」(ペーハーを変える)とされているので、耳にとってカルピスは非常に有効であることが分かる。
このような論文を書くのが宗教家の仕事であり、政治(女心の定義をする世界)にも私は大きく関与しているが、自由恋愛はしておらず、「宗教家」と言われることになる。
電話でね 高橋愛

「政治家」「宗教家」と言っても、自由恋愛をするかそうでないかで区別するしかない。
仕事は似たり寄ったりでも、イエスキリストやブッダの伝統を踏まえると「堅物」が宗教家であり、そのあたりに、政治と言えば集まらない金も宗教と言えば集まる根拠を見出すしかない。
人々は「自分のことにしか興味がない」とも言われ、そのような世界で「与えることを知る」ことが必要だ。
ジョージ・サンタヤーナは「学生時代の友人が死に、姉が結婚し、父親に認めてもらいたかった」から「与えることを知った」とされている。
要するに、女性に「あなたは女として最高の存在だ」ということを語るわけであるが、経験豊富な女性に「どっか連れてってくださいよ」と言われて、いきなり「ラブホテル」などとは考えないことが重要だ。
海でも山でもいいが、公園などで「赤い花と木」を見せて「これが男性なんだよね」と語るなど、「政治家」「宗教家」としての腕の見せ所は多くある。
高橋由美子 晴れのち曇りのち晴れ

免許を持っている弁護士や医者でも、免許のない政治家、宗教家でも、「労働者や農業従事者に奉仕する存在」であることは忘れてはならない。
「政治談議」をやっても彼らは怒るだけだろう。
政治家・宗教家の本来の仕事は「女心の定義をする世界」「男らしさを語り合う論壇」に存在する。
免許制の「アカデミズム・学会」にうまく貢献しながら、労働者や農業従事者と関わっていくしかない。
「天下」なんてものは、膨大な数の「労働者や農業従事者」(ご主人)と関わっているうちに「主」という概念ができ、「天国」という概念が作られるだけに過ぎない。
自由恋愛をしない「宗教家」と、自由恋愛をする「政治家」では、「女性への好奇心」の度合いが異なってくる。
宗教家の方が政治家よりもはるかに「女性」に好奇心があるのだ。
このあたりも「お金」の問題と関係がありそうだ。
「女性と話しをするのが好き」というエネルギーの問題だろう。
あとは「女心」を語ろうが「医学・健康相談」について語ろうが基本的には自由だ。
私も、病院では「光太郎さんは安全パイだから」とスタッフが女性患者に言っているため、政治家ではなく「宗教家」と位置づけられることになる。
しかし、私の噂を聞いた女の子たちに「恋の話をしてください」と言われても、実際は「読んだこと」を語るしかない。
あるいは、音楽作品の解釈論で学んだことも多い。
政治家にもし「強み」があるとするのであれば、恋愛論を「当事者として」経験したことがあるというあたりだろう。
私も、恋愛論に関しては、論文を読んだり、音楽作品の解釈をしながら話しているため、「大人たち」と向き合う時は内心ヒヤヒヤすることがある。
このあたりに政治家は「強さ」を見せるであろうことは指摘していい。
自由民主主義社会というものは、免許と学会のある弁護士や医者、そして政治家、宗教家、さらに労働者や農業従事者などで成り立っているのだ。
頂点には「学会」があるし、法律の世界には最高裁がある。
最高裁でも、専門家に「あなただけが知っているんでしょう?」という適合義務を指摘し、「説明義務違反・適合義務違反は不法行為を構成する」という具合に論点がまとまってきている。
このような「社会のあり方」と自分の役割を見つけることが重要だろう。

ハーバート・スペンサーは、ダーウィンの「勉強によって優劣を決める」(ナチュラルセレクション)という発想を排し、時代の統治者が最も好む人物(適者生存)という発想を考えた。
時代の統治者に「肉声」がなければ生じない発想であり、平成の時代に「松下政経塾」というものほどナンセンスなものはなかった。
統治者に「肉声」がなく、とにかく「統治者の意に染まる」ということが想定できないのであれば、適者生存ということはありえないのである。
国家一種試験の行政職ではいまだに「丸山真男」「丸山システム」について聞かれている。
国家レベルの試験においては「適者生存」というものが「統治者の意に染まる」ことであることが共有されてきたが、松下政経塾においては「すべてが見失われて」いたのだ。
「勉強によって優劣を決める」のでないのならば、「統治者の意に染まる」(適者生存)以外に判断基準はない。
rebecca bottom line

なにしろ、アブラハムは「死のブロック」を勝ち上がったのだ。
勉強というよりは「研究」になるであろうが、「言っていること」を覚えれば周囲を女の子たちが取り巻くのは当然ではないか?
これが「適者生存」「統治者の意に染まる」という意味であった。
ダーウィンは「勉強ができて、父親よりも背の高い男」を進化と考えたが、スペンサーは「統治者の意に染まる」ことを進化と考えていた。
みんな「自由」だった。
しかし、女の子たちが取り巻く「男」がいた。
キャンパスもあったし、モテることそのものが「行政職」の試験となっていた。
「誰に言ったらこの人を外せますか?」と言われたら「いちばんモテる男」と言うしかないだろう。
幸福の源は「男女の共存」にある。
しかも、みんな「自由」だった。
それでも、「統治者」は芸能界で「あんた有名だよ?」と言われていたのだ。
酒井法子 今夜もニュースホリック

「政治家」として自由恋愛をしようが、「宗教家」としてストイックに生きようが各自の自由だった。
しかし、適者生存が確立していると、女の子たちが取り巻いて「幸福の絶頂」の中で国家一種試験に合格し、同級生ですら「おめでとうございます」と頭を下げた。
平成の時代にも「丸山真男」は使われ続けてきた。
しかし、はたして「女の子たちが取り巻く」男が行政職に合格していたのかは今となっては明らかではない。
「誰に言ったらこの人を外せますか?」という女の問いかけに答えるのが「行政」ではなかったのか。
東京大学では、本郷の「落第横丁」で飲む男が伝統的に出世してきた。
「モテる男のことを”優秀”と呼ぶ」
このような発想は平成には消えてなくなっていた。
医学部の「白衣」に法学部の私服組が劣等感を感じたこともある。
しかし、それでは「政治家」「宗教家」が務まらないではないか?
功利主義の世界に「適者生存」「統治者の意に染まる」という発想を持ち込んだのがスペンサーだった。
「死のブロック」を制した君主はモテたため、真似をする男が多く、「国と人々はつながっている」という構図ができた。
仲間が多いというのも「家庭内」ではお金だとも言われる。
酒井法子 風邪

ジェレミー・ベンサムは「コートオブキングズベンチ」オックスフォードに所属し、「統治者の意に染まる」ということを学習した。
ロシアのポテムキン王子や、キャサリン女王に会う機会にも恵まれ、統治者の意に染まる男というのは「ノーメンクレイチャー」と呼ばれる特権階級であることを痛感している。
また、貿易においても、旅の恥はかき捨て、とばかりに外国の女性にモテることが重要だとされた。
また、統治者の意に染まるということを裁判官も行っていたため、「裁判官が法律を作る」というイギリスの伝統が始まった。
法律というのは確かにある。
しかし、「判例重視」「裁判官が法律を作る」というのは功利主義の結論であったし、君主ならばこう言うだろうな、という君主の肉声が知られていたから成り立ったものだ。
渡辺美奈代 ちょっとフォーリンラブ

マキャベリは君主論において「国王になったら引退して後進の指導にあたれ」と言ったが、功利主義の世界においては「君主の肉声」が必要であるとされ、スペンサーは「適者生存に必要」と考えていたが、ベンサムは「ノーメンクレイチャーを生み出すのに必要」と考えていた。
いずれにせよ、功利主義とは「繁栄の神学」であったし、信者は政府の要職を占めた。
そもそも、イギリス王室と、英国国教会が「繁栄の神学」を採用していたのだ。
統治者の肉声と言っても「国王」だけならば「人格的統治者とは疑わしいもの」という評価を受けざるを得ない。
そのため、肉声が広く知られた政治家も「ステーツマン」と呼ばれて、国王を助けた。
あるいは、ステーツマンとは「議席を占める宗教家」を意味したのだろう。
いずれにせよ、「最大多数の最大幸福」とはノーメンクレイチャーの存在があったため議論された問題だった。
ひたすら「肉声」を発信し続けることは、王位継承の際に「ローマ帝国のときのように」霊的に高い位置にいるものが処刑されないためには重要なことであったし、それでいて、「三男」=アブラハムのように「死のブロック」で生き残るためには重要なことであっ。
官僚が「国王のコピーである」ことは「繁栄の神学」と呼ばれたし、裁判官が「国王と同じ判断をする」ことは「判例法」「英米法」をかたち作った。
DAPUMP USA

功利主義というものは、とにかく国内を「明るく」させる効果があったし、イギリスや日本国のような島国では有効だった。
後継者に悩む国王がいた場合にのみ「官僚とは国王を補佐するもの」という立論が成り立った。
モテない人間が犯罪を犯したり、貧しくなったりしていたため、裁く側と裁かれる側、施す側と施される側が明確だった。
なによりも、彼女を奪い返すために行ったバスティーユ(パノプティコン刑務所)買収のおかげで、パノプティコン刑務所の「アメリカ化」が進んだとされる。
フランス映画である。
死刑台のエレベーター

天皇主権というものは、男たちから「真似してみたけどうまくいかねーじゃねーかよ!」という具合にかなり厳しい「チェック」を受ける。
また、新聞などでの「人生相談」を受けたことから、中日や読売の野球チームを「私たちの息子」と考える主婦層もいるだろう。
しかし、英米法か大陸法かの違いは「英国王室」の存在が非常に重要な意味を持ち、「最大多数の最大幸福」「最小不幸社会」というものは「君主の肉声」がなければ存在できないことが明らかになっている。

 

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