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Foreign Affairs

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2019年4月

2019年4月30日 (火)

仏教再考。

日蓮宗においてはブッダの弟子に「弥勒」「菩薩」「弥勒菩薩」の三名がいたとされています。
弥勒というのは、コミュニティに溶け込んだ創価学会員・床屋さんだと思われます。
アニメ「犬夜叉」「ナルト」にも弥勒というキャラクターが登場します。
いわば、私の周辺では「熊谷さん」という方だったかもしれません。
菩薩というのは、サクヤムニとも呼ばれ、朝鮮人の元芸能人女性で「先生」と呼ばれ、阿弥陀に説教する存在です。
私の周辺では「貝和さん」というおばさんでしょう。
弥勒菩薩というのは日本で広く信仰を集めていて、阿弥陀ともよばれ、私の周辺では「お母さん」だったものと思われます。
浄土(きれいな国)というのは「朝鮮人のいない国」という意味でして、弥勒菩薩(お母さん)の息子である王子が「中国・アメリカ・ヨーロッパの学問」に目を向け、しかも女性たちに話して回ることで、朝鮮人である蘇我氏を滅亡させるという中大兄皇子の大化の改新というのは行われています。
今となっては貝和さんも地域の一員となって、暮らしていますが、それはそれとして、時には「深刻な問題が生じたこともあった」として日本国は教訓にしなければなりません。
弥勒も菩薩も、「弥勒菩薩の富」が目的で動いていますが、それを巧みに利用しながら、弥勒菩薩の息子は「世界に目を向ける」「女性たちの支持を得る」ということだけで、弥勒と菩薩の思惑を一掃することができます。
カントやデカルトなど弥勒も菩薩も「知るわけがない」からです。
時には「深刻な問題が生じたこともあった」という過去の話なので、今さら問題にしようとは思いませんが、日本人にとってはまだ終わった話ではありません。
仏教の教え(浄土・きれいな国)という意味においては、ヨーロッパやアメリカ・中国に若者が接する機会が持てる非常にいい教えが浄土宗・浄土真宗・天台宗でして、これはこれで私も学ばせていただきました。
私が「アメリカ」と言えば貝和さんが小さくなるというゲームの存在は指摘していいと思います。
今となっては犬を引き取ってもらうなど良くしてくださいますが、時には深刻な問題が生じたこともあったとして記憶に残しておきたいと考えています。
これが、天台宗・浄土宗・浄土真宗なのです。

 

「禅について」
禅というものは、禅を組むとちんちんに意識が集中することから「女たちの名簿」を頭に浮かべ、目を閉じる(Not Two)ことから始め、みんなが心地よいおちんちんのあり方に関して思考をめぐらせ、論点整理を終わらせる(Not One)営みである。
臨済宗においては公案が示され、発心・源泉・難答・向上というプロセスを経るが、おちんちんのあり方に関して思考をめぐらせ、「女たちの名簿」を頭に浮かべるという点においては曹洞宗と変わりはない。
本覚が得られば、それが涅槃であり、苦のない世界である。
曹洞宗においては「死角」をなくす営みであるとされた。
浄土というものは「弥勒菩薩の息子が外国に関して学べば、菩薩が悲鳴を上げる」というものであったが、禅においては「女たちの名簿」とおちんちんの関係を論点整理できればいいという発想だった。
そこには、「お城に住みたい」などというファンタジーという発想もなくなるし、より現実を見据えた「男と女の関係」が浮き彫りになるという効果があった。
「おちんちんと女の名簿」だけでいかなる論点も解決できるという考えだった。
これに気付くことを「突然の悟り」と呼んだ。
禅をやるためには「適度のダイエットと運動が必要」とされている。
そして、呼吸を数える「数息感」というものを行う。
これをマスターすることは、水に浮かんだ巨大なボールに乗るほど難しいとされ、禅を組んでいる者に対して周囲は「自分たちの分析が行われているのか」と考えた。
「おちんちんと女の名簿」を瞑想するほど恐れられるものはなかった。
周囲に「禅の真の意図」を告げることも「公案」と呼ばれた。
無とか視とかいろいろ言われたが、周囲が自分たちの「おちんちんと女の名簿」を瞑想されることを恐れて噂しあったものだった。
一度に二人の女を相手にするほど男のソーセージはタフではなかった。
その割り切りのよさと現実への洞察力で禅は卓越していた。

 

アメリカで「アポロ計画」というのがあり、月面着陸したと言っては、別の島で映像を撮影したことがあるが、目的は「インドの支配」にあった。
「人間の顔にはいろんな可能性があっていいのではないか?」
これがインドを支配するためには必要な発想だったからだ。
そこで、ブッダの「インドにおける仏教」の話に入れるわけである。
ブッダは「私をなくせ」と言ったが、「みんながみんな俳優である」という意味であった。
そうでなければ「個性的な顔」はすぐに癲癇などの病気になってしまうからだ。
日本人の仏教、「日本とはきれいな国」「禅」とは異なる事情がインドにはあった。
私たちの望むものは

「みんながみんな俳優である」という発想は、インド人の「個性的な顔」に由来し、テキストは「パーリ法」であった。
そのパーリ法において、「俳優」になる方法が明らかにされていたが、
その中に「私のもの」という発想を取り上げてしまい、政府のものとする考えが組み込まれていた。
これを理解しなければ「仏教」というものは理解できないだろう。
パーリ法の時代には、「鏡」の普及が遅れたために、みんならい病のような顔をしていたものと思われる。
「それでも教会法が必要」
これが原始仏教だった。
「私をなくせ」というパーリ法の中に「私のものという発想をなくせ」と書いてあった。
化ケモノ青年

「私をなくせ」というパーリ法の教えは「みんな俳優になればいい」という教えであるが、「私のものという発想をなくせ」というのはお金の問題であり、政府・宗教界の問題であった。
しかし、「私のもの」という発想をなくしたら、人々の心は「勢いのゲーム」という側面を有するに至った。
「ブッダの顔は車輪である」
人間つらいときはつらそうな顔をするものだ、そんなことすら長時間の法事で我慢させた。
パーリ法にしたがって「みんな俳優になればいい」と教えたら、ようやく「顔」というものが出来上がってきた。
鏡のない時代のことだ。
その後、「感情」が芽生えた。
そのあとに「好みのタイプ」が生まれた。
さらに「演じきることが抜群にうまい」者の中から指導者が生まれた。
インド人が「男らしさを語り合う論壇」(宗教)と「女心の定義」(政治)そして、「男が女を愛する気持ちを利用する学問」(経済学)を理解するのには時間がかかった。
私の顔 タンポポ

「鏡が人間の顔を美しくした」
しかし、鏡のなかった時代のこのような原始仏教は、現代人がスランプなどに陥った時には、必ず「心の故郷」として役に立った。
思想だけで顔を作り、感情を作り、好みのタイプを作り、指導者を作ったのだ。

「私をなくせ」といういパーリ法の教えや、「私のものという発想をなくせ」という発想は、殺生を禁じ、肉を食べることを禁止するに至ったため、仏教徒は強烈ないじめに直面することとなった。
「原始仏教を踏襲したのならば、今の時代を生きることは困難なのではないか?」
しかし、我々の祖先が「顔」を作り、感情を芽生えさせ、好みのタイプを生み出し、指導者まで作った原始仏教の教えは「今の時代を生きる上でなんらかの参考になるのではないか?」と考えられるの至り、いじめられても、そこに「多数派工作」の余地を見出すことが可能であった。
みんなが「らい病」のような顔をしていた時代の教えが、今を生きるうえでの救いとなった。
地獄、色界、畜生界などが想定されたが「私は生きる」という動機になった。
強欲さ、憎しみ、希望は苦しみの源泉であった。
しかし、鏡のない時代に「顔」を作った教えが「美男美女」を生み出さないはずがなかった。
教えは「哲学者としては倒錯している」と言われ、いじめられたが、「美男美女」だけは人気があった。
テラワーダ、マハーヤーナ、バジルヤーナという三つの流派に分かれて、テラワーダは南伝仏教となり、マハーヤーナが中国や日本に伝わった。
子供は13歳から18歳までは「顔」にしか興味がなかった。
いくら「教え」にいじめがともなっても、「美男美女」にまったく文句のない年頃というものはあった。
「創価学会の女の子はお姫様みたいだね」
無宗教だった頃の私は率直にそう思った。
「美男美女」こそが「伝説からの教え」(カルマ)を受けたものたちであった。
このようにして、仏教は「芸能界」へと活路を見出すことになったのだ。

唯識宗、天台宗、浄土宗、華厳宗などに「教え」は分かれていったが「美男美女を生み出す方法の違い」があった。
禅というものは、おちんちんに意識を集中させ、「女の名簿」を思い出すことを言うが、これらの宗派がなくては成立しないものだ。
「気を吐く」ためにも、心の平穏(本覚)を得るためにも必要なものだった。
法華経(ロータススートラ)にとどまらず、ヴィマラキーティスートラ、ニルヴァーナスートラ、フラワーオーナメントスートラ、ランカーヴァタラースートラなどいろんな経典があった。
「美男美女」に、歌を作るのが専門である道教が無関心であるわけがなかった。
作詞作曲をやる道教が仏教と結びつくのは必然だった(自然・道)。
美しい男女と交流を持ちたいという真如という教えも生まれた。
社会生活を営みながら、無宗教で、学校や会社の女の子を想像して禅を組むのとはことなる宗教が生まれたのだ。
田中れいな 愛の炎

ダルマカーティ(ダルマ)は6世紀のインドの人物であるが、ナーランダ大学に入った
秀才で、ハンサムだった。
しかし、ナーランダ大学に入ったことが彼を傲慢にさせていたし、視野も狭かった。
ダルマカーティがディグナーガという先生を見つけたことが彼の人生を変えた。
「女らしさの探求は金になる」
とにかく仏教は「私のもの」という発想を排除していたため、女らしさの探求は金になった。
研究すれば金になるのだから、ディグナーガ・ダルマカーティ学派というものは、ダルマが「プロとしての研究者の道」を歩んだことから作られた。
ヨーガというものを考え、骨盤矯正には別のアプローチが必要であっても、普通の腰痛にはヨーガは明らかに有効であった。
なによりも、ヨーガはセクシャルポーズを多用していたため、見ていて飽きなかった。
女の子が男にモノやお金をねだる、ここに資金の流れを見出した。
この「資金の流れ」を見て、よりマクロレベルの見地から「女らしさ」の探求をすれば、邪魔者は、まるでハンマーで打たれた陶器のように消えてなくなると考えたのだ。
日本国の浄土(きれいな国)という発想が「外国の情報に接し、女の子たちに話して回る」ことから実現すると考えられたのに対し、ダルマは「女らしさ」の探求さえしていれば「敵はハンマーで打ち砕かれる」と考えたのだ。
セクシーヨーガ

セックスを想定し、セックスを知っている男に対して、「女らしさ」をアピールし、その弟子はナガールジュナやマッディーヤマカへと拡大していった。
美男美女を作ったあとは、「女らしさの探求」へと仏教の世界は進んだ。
始めに「女」を作ってから「男」を作るというのは世界史の定石だと思われる。
鎮護国家などと日本で言われたのとあまり時間の開きはなかった。
日本国においては「女を作ったあとに男を作る」という政治手法のことを言ったが、この「男女の世界」に「十二の苦の連鎖」(十二縁起)が存在するだろうなどと議論され、その「苦」ほど音楽作品へと発展し、美男美女が歌って踊った。
SPEED Deep blue & truth

キリスト教はどうか分からないが、仏教はとにかく「インド人の個性的な顔」をまず最初に問題にし、それを解決することから教義が作られている。
「みんな俳優になればいい」として、らい病のような顔でも生きていけるようにしたことから、「顔」というものが作られていき、感情が芽生え、好みのタイプが生まれ、指導者が生まれた。
さて、「美男美女」を作るのが、「第一のバスケット」だとすると、「女らしさを生み出す」のが「第二のバスケット」である。
そこで、「美男美女を生み出し、女らしさを作り出す」ことができる力量を持った人物は「予言が可能となる」という「第三のバスケット」がアブヒダルマによって作られた。
この、アブヒダルマ(ダルマ神学)こそが、デカルトの「恋」の研究や、カントの「口説き文句」の研究に影響を与えている。
「仲間が多い」「何かやってくれそう」という理由から女の子は男の子に恋をし、また、カントは女の子に優しかった。
それらの条件がそろったら「俺は東大に合格する」「総理大臣を目指す」などの予言が可能となった。
仕事の大小の規模はあったが、予言というものは「美男美女を作る」「女らしさを作る」という二つのバスケットを埋めてからなされるものである。
Melody 運命’95

「美男美女を作る」「女らしさを生み出す」
こののちに、「高貴な真実を見つける」「心を満たそうとする」「もだえ苦しむ」「第六感を働かせる」「自分だけ目覚めている」などの道を経て「十二縁起」と呼ばれる音楽作品が生まれる。
音楽作品こそが税金の源であり、予言を可能にする力を持ったものだった。
現代においても「レコード会社と交流のない政治家はいない」と言われる。
自分の悲しみを地球の奥底に沈め、最後の審判を恐れなくさせたのは間違いなく音楽作品の登場があったからだ。
「2月革命」「3月革命」「「8月革命」「10月革命」「11月革命」などは20世紀になって行われたものだ。
夏休みは終わらない おニャン子クラブ

「痛み」
それは多くの男女が共感できるものであり、ナガールジュナはその数は「82種類」とまで明確にした偉大な人物であった。
髪の長い女・髪の短い女・巨乳・貧乳・子供を産んでいる・産んでいない、そして「すべての女」という意味においては陰陽五行説に似ていた。
「チッタ」と呼ばれ、キリスト教においては「バイブル」と呼ばれている。
この愛がバイブル 三浦理恵子

「男に対しては頭がぐるんぐるん」
それは「傷つきたくなかった」から生まれた発想である。
痛みを知っているから、そうでなければ知恵はつかない。
音楽作品を聞きながら、「美男美女」「女らしさ」そして「十二縁起」を感じるだけでもいろんなことが分かる。
CoCo 冬の微粒子

十二縁起は女にとって深刻な問題であった。
この「女の世界」が嫌いという男に女の子は失望感を味わったし、レイプされるのと同じような意味を持った。
痛みから自由になれることはないだろう。
しかし、女の子の痛みを決して嫌いになってはならない。
このことをサーンタラクシタは国の統合のために主張している。
おニャン子クラブ メリークリスマスフォーユー

サーンタラクシタは、ナーランダ大学(東京大学)に合格するエリートを「右翼的な存在」とし、多くの女たちが夢を見てあとをついてくる現象を批判した。
女たちまで夢を見るから「アッシー、メッシー、ゲッシー」などといって卑屈になるんだろうと考えたのだ。
それはまるで、東大閥による「一夫多妻制」に見えたため、真理としては学閥の否定を仏教の側が行った(中道)。
ribbon ポイズンの退屈

学歴は必要だ。情報が違う、人脈が違う。
しかし、女たちだけでなく男たちまでが「あいつは俺が育てた」と言い始めるのが学歴というものであった。
勉強(プラクティ)しなければ「仏の道」が分からないのは事実だった。
しかし、「女たち」がいれば、同じ数だけ「男たち」がいた。
禅で「女の名簿」を想像すると爽快感があるだろう。
しかし、「男たち」の存在を理解することも必要になってくる。
サーンタラクシタの「中道」を理解しなければ、創価学会が「東大」をどう思っているのかが理解できないだろう。
とにかく、難攻不落の要塞が東京大学だったのだ。
トリクルダウンには三種類ある。
皇室が「家族の問題」を庶民に広め、その解決法を明らかにすること。
女が金持ちからお金をもらい、若者に貢ぐこと。
東大生が口説き文句を中道の連中に教えること。
この三つのトリクルダウンが起きるのは事実なのだ。
皇室・金持ち・東大の三つの要素がトリクルダウンに付きまとっている。
市民は三つの方向に「お悩み相談」ができることになった。
中道とはこのような生き方を意味したし、いろんな人に教えてもらいながら、一夫一婦制を維持しようとするものだ。
サーンタラクシタが、三つの方向からのトリクルダウンを中道にもたらしたことは、サンタクロースとトロツキーに言われるほど影響力を持った。
チベット由来のものであるといえる。
Melody You are only my love.

皇室・金持ち・東大から「中道」へとトリクルダウンを引き起こすのが、仏教の目指した境地であったが、その阻害要因として在日朝鮮人や部落民の存在が指摘できる。
皇室・金持ち・東大の三つが「在日朝鮮人や部落民に苦しめられ続けた」のであれば、「トリクルダウンは起きないのではないか?」という予想がなされる。
在日朝鮮人や部落民は「家庭の問題は一向に解決せず、若者にお金を貢ぐ女もなく、口説き文句も東大生が教えてくれない」という問題が生じるのだ。
在日朝鮮人や部落民が「皇室・金持ち・東大」を苦しませ続けたことが理由であり、その問題は根の深いものとなっている。
医者は警察の「在日朝鮮人や部落民への差別」はそのようなことが背景にある。
在日朝鮮人や部落民は「鏡を見る」という習慣で日本人に劣り、決して美しくはない。
美しければそもそも差別もなければ、皇室・金持ち・東大を苦しませ続けたりなどしないだろう。
在日朝鮮人はともかく、部落民には「下水が整備されていない」という問題がある。
つまり、「鏡を見る習慣」が一部分欠落している。
在日朝鮮人は、地震が起きたら虐殺されるというトラウマを持っている。
地震というものは「天皇による人心コントロールが機能しなくなったとき」に引き起こされる。
天皇への背信行為が在日朝鮮人によってなされるからこそこのようなことが起きるのだ。
答えは、「仏教の側」に求めるしかないし、浄土(きれいな国)とは「朝鮮人のいない国、部落民のいない国)というのが本来の趣旨であっても、西本願寺は少なくとも、部落民、在日朝鮮人の「顔面偏差値」の向上のために活動している。
Twice Fancy

天台というのは「空の下のプラットフォーム」という意味であり、ヘーゲルやマルクスと結びついた。
「空の下のプラットフォーム」で、権力者が面白いことをやるという意味であり、あくまでも仏教であることから「美男美女」を作ったあとに「女らしさ」を作り上げ、さらに「予言」を行うという基本は踏まえていた。
どんな「面白いこと」かは、オリンピックなどいろいろあるだろうし、お金と時間と競争が背景になければ「面白いこと」を「予言」することは困難である。
ヘーゲルは「イケメン」の研究をおそらく仏教から学んだであろうし、マルクスは「人間は労働している限りにおいて死なない」とし、中国に労働が根付いた。
「美男美女」を作って「女らしさ」を生み出せば「予言が可能になる」
その資金の裏づけを中国人民の労働に求めたのだ。
男にモノや金をねだる女に「資金の流れ」を見出し、オリンピックレベルにまで上げていくのだ。
しかも、お金、時間、競争という三つこそが「いじめが生じる理由」であることから天台宗の教義は練られて行った。
長い時間を経てオリンピック選手は結果を出すが、その結果を待つまでのさまざまな理論が組まれている。
音楽作品のモデルにしたり、お金をあげたり、認めてあげたり、時には「王子さま」と呼んだりした。
いじめを耐える方法はいろいろあるが、音楽を聴いたり、銀行口座を見たり、いろいろあるだろう。
負け犬は「生きるのを諦める」とまで言われた(生滅四諦)。
勝つ予定の者は夢中になると言われ無生四諦と呼ばれた。
選手としては、勝っても負けても「生きているうちに入らない」(不生生)と呼ばれ、あくまでも「資金メカニズム」を「美男美女」を作る「女らしさ」を生み出す「予言」をするという権力者の存在が「面白い」とされたのが天台宗である。
中国の女優

 

選手として、そしてのちに財界人として「天台宗」が分かっている人物。
李寧。「女らしさ」をセールスにかけたことには触れられていない

いずれにせよ、天台宗に造詣の深い「いちばんいい指導者」(円教)に教えてもらわなければ国際舞台には立てないのだ。

女の「82種類の痛み」とは何だろう?こちらが聞きたい。

女の「82種類の痛み」とは何だろう?こちらが聞きたい2

女の「82種類の痛み」とは何だろう?こちらが聞きたい3

 
日本国においては「空海」の存在が大きい。
佐伯氏の出身で、姉がいたため、儒学の才能に満ち溢れていたが、仏教の顔の研究、女らしさの研究、そして予言をすることと、道教の「歌」に回帰して行った。
三行指帰においてそのことが記されており、三つの「道」に迷っていたが、平安時代に入ってから虚空蔵求問持の法において「儒学から仏教への転向」を明らかにしている。
24歳から31歳までは、自身の出身の四国においてかつて自分をいじめた連中に「仏教」を説いて回っている。
この時に、文字曼荼羅を所持していて、音楽作品を歌ったことは明らかである。
音楽作品は「マハーヴァイロカーナスートラ」(大日経)と呼ばれた。
804年に唐の長安に留学している。
自分が知っていた大日経の元ネタを長安で見つけている(ヴァジュラセカラスートラ)。
806年に九州に戻り、請来目録を書いている。
平城天皇の退位と嵯峨天皇の即位と同時に京都に入っている(809年)。
高尾山寺で823年まで新天皇を支えている。
かつて四国で歌った歌や文字曼荼羅が「中国で充実度を増した」のは明らかであった。
一緒に曼荼羅を見ながらお経を唱えるだけで「霊的に感化(いじめる気が失せる)」されるのだ。
垂加神道版(文字曼荼羅)。

「美男美女」を作り、「女らしさ」を生み出し、「予言」をするという仏教の基本がここにあるが、このやり方は2017年の横浜DeNAベイスターズ日本シリーズ進出によって、その「真言宗の真の意図」は明らかにされていなかったが、やり方としてはすでに使い果たされている。
空海は「ヨーガ」も取り入れたセクシャルポーズを女に踊らせている。
奈良時代にすでにあったではないかと言われたが、空海は「当時はレゾンデートルであり、真の真言宗の意図は伝わっていなかった」としている。
三部書を著し、「美男美女」を作り、「女らしさ」を生み出し、「予言」をするという
仏教の本来の姿を、ナガールジュナのような「女の痛みは82種類」という表現とは異なる形で、より「女らしさ」をアピールした。
しかし、なにしろ複雑なのが女心であり、それでいて、「男より単純」だった。
「美男美女」「女らしさ」「予言」の三つを理解していたことから「ダルマ」を知っていたとされる。

空海にとっては、サクヤムニは「芸能界に進出した朝鮮人女」としてではなく、「美女」であったし「女らしさ」をアピールする存在であった。
また、大日仏陀は「イケメンピエロ」としてサクヤムニを盛り立てる存在であった。
男は、勃たなければ(発心)、法を知ろうとはしなかった。
阿弥陀は空海の母であった。
阿弥陀の「先生」を名乗るサクヤムニは鬱陶しかった。
それでも「長安」にはサクヤムニも逆らえなかった。
鎌倉仏教の「浄土」(きれいな国)の時代ほど朝鮮半島は邪魔な存在ではなかったのだろう。
千手観音から始まる曲です

文字曼荼羅を見ながらお経を聞くという密教世界を広めようとする(発心説法)と、ライバルは目を背けた(発心苦境)その理由は文字曼荼羅の威力を知っていたからであり、無理強いしてはならないことも悟った。
佐伯氏の頃のいじめ体験から、「いじめられた経験」「大日仏陀」「ダルマ」を「三密」と呼んだ。
空海にとって「空」(くう)とは「みんな仲良く」という意味であった。
メルロ・ポンティやドゥルーズは「なぜみんなひとつになれるんだ?」と語り合ったし、アラブイスラムやマイスター・エッカルトなどは、「大日仏陀」の一神教を主張し、「女らしさ」よりも大日仏陀を崇めるべきであるとしている。

ブッダ(ゴータマ)は、釈迦(サーキャ)族に生まれ、王室の生まれであったことからハンサムだったものと思われる。
釈迦族は、ヴェーダやウパニシャッド哲学を有しており、「美男美女」が育つ環境にあったのだろう。
苦のない世界を「涅槃」と呼び、涅槃にたどり着く方法を探究した。
あるいは、輪廻転生というものを考え、「生まれ変わりたい」と思う人間を、「人生が充実していないからである」として、カルマ(伝説からの教え)を説くことによって輪廻転生から人間を追い出す方法を探究した。
「私」を否定するのは「みんな俳優のように演じれば美男美女になる」と考えたからであり、「私のもの」という発想を否定したのは、教団の資金源とするという都合があった。
「仏」というとさも高尚なものに思われるかもしれないが、人間は思春期(特に13歳~18歳)に「顔がすべて」という時期を過ごすことから、仏教の存在意義は認められる。
ブッダの死後、彼が語ったことはパーリ語、中国語、サンスクリット語になっている。
「苦とは何か考えてごらん?」
明るい音楽作品しか聞かないものは言葉が不自由だ。
暗い音楽作品を愛する者は言葉が豊かであり、「美男美女」である。
「生・老・病・死」と言っても、すべての原因は「顔」にあった。
「欲しがるな。背が高くてハンサムならば手に入らないものなどない」
他人に嘘の情報を教えてレポートを落第にさせたりする者の醜い顔を知っていた。
顔がハンサムならば、親が栄養を十分に与えて背が高くなる。
それだけで世の中の女子たちの憧れとなれるのだ。
ハンサムな顔とは「豊富な言語能力」からくるものであり、人間の「苦しみ」に興味を持つことから出来上がるものだ。
アニソンで盛り上がっている醜い連中を尻目に、暗い歌を歌う男こそが「涅槃」に近かった。
Madonna borderline

「美男美女」の生み出し方を探求し、「女らしさ」をセールスにかけて「予言」をするという仏教にあって、ゴータマは「背が高くなる方法」を明らかにしたという意味で傑出している。
「嘘」をついたり「他人を蹴落としたり」する人間は「小男」になるとしたのだ。
さて、「背が高くなる方法」をブッダは明らかにした。
しかし、「嘘」をついたり「他人を蹴落としたり」する人間が背が小さくなると言うことは、男は「背が高いほうがいい」ということは言えても、女の場合は「背が小さいほうが人生をよく知っている」「可愛らしい」という形で表現された。
マッディーヤマカは「言葉でこれらを表現することはできない」として、「5分間のパフォーマンス」で「人生をよく知っている女」をセールスにかけることにしたのだ。
CoCo ささやかな誘惑

背が低くて、人生をよく知っている女は「ガンダーラ」(カンダラカーティ)と呼ばれた。
人を蹴落とすことを知っていて、嘘をつくことも知っていた。
背の低い女は、背の高い男を見ると「どのように?」までは分からないが、司令塔としていじめる力をもっていた。
体を売っていた可能性も指摘できる。
背の高い男にとって「どのように?」が分からないのだからそうとしか言えないだろう。
いずれにせよ、ヨーガを学習し、セクシャルポーズをオンエアすることによって影響力を高めるのが背の低い、可愛らしい女というものだ。
ゴダイゴ ガンダーラ

西田幾多郎(遊佐道子)は、西谷啓治や田辺元とともに「京都学派」を形成した。
東京は完全に西欧化されたが、京都には仏教などが根強く残った。
つまり、「顔の作り方」「背の高さの生み出し方」の研究が残ったのだ。
西田幾多郎の娘が皇后美智子であり、石原慎太郎であり、林芙美子であり加茂さくらである。
孫が、私、小野光太郎であり、志村けんであり、松田聖子であり、酒井法子であり、松野有里巳であり、浅香唯であり、倉木麻衣である。
なぜ、「子供の頃みんな美男美女なのか?」
こたえは「禅」にあった。
西田幾多郎は「日本の美女図鑑」のコレクターであり、いつも美女を眺めて禅を組んでいたのだ。
美女図鑑を眺めて、「ああ、すっきりした」と言って禅を終えると、美男美女が生まれる。
田辺元や西谷啓治の系譜のアイドルは存じないが、どこかにいただろう。
1970年代に、日米安全保障条約の下で、藤田や竹田、戸坂や三木などの論客はでたが、それらの系譜のアイドルも私は存じない。
大橋や服部という系譜もある。
日本の芸能界はこのどこかの人物から出ているものと思われる。
私は、西田幾多郎(遊佐道子)の系譜しか個人的な面識はない。
とにかく、「日本の美少女コレクター」であり、禅を組んで美女を思い浮かべ、爽快感を味わうという営みから生まれたものだ。
「花の命は短くて」という側面があるのが禅だった。
酒井法子 夢冒険

西田幾多郎(遊佐道子)は、学業が困難を極めて「若さを無駄にする」時期に、「美女図鑑」を収集することを薦めている。
Bomb!を私は集めていた。
美女の悪口を言わず、己のすべてを委ねる、これが禅であった。
自分が気分がよければいいだけなのだ。
「有即無」とも呼ばれた。
美男美女が生まれるという「西田教授」の考えは、信者も多かったが、やがて世の中は「美男美女への悪口」に満ち溢れていった。
インド・中国・日本というラインを守ったのが「日本的美女」の図鑑であったし、今、日本国は「京都学派第三世代」が芸能界に大勢いる段階である。
この、日本的な「美男美女」の存在そのものが朝鮮半島の排除(浄土:きれいな国)を作るものと考えたのだ。
少年時代 井上陽水

中国においては、禅(女の名簿を想像しながら座禅を組む営み)は、別の発展を見せた。
娘が、学校を出て「変っていく」ところに「道」を見出し、娘が明るければ母は暗い(陽)、娘が暗ければ母は明るい(陰)という、母と娘の「陰陽」が指摘されたのだ。
母と娘で喜びを分かち合うと思ったらそれは親子というものを知らないとされた。
サードパーティの必要性も指摘できる。
卒業写真 荒井由美

母との関係から妥協して、社会人になって、OLさんをやっているのを「陰」と表現する音楽作品もある。
女が「変わる」というのは常に母親との関係が念頭にある。
「陰」を指摘されるから「いいかげんにして」と言っているのだ。
rebecca bottom line.

「美少女生まれないかな」と思って禅を組んだお母さんだったのに、いざ、生まれ、育ってみると、女の子は「キレイになる」(陽)のにも頭を使う。
松田聖子 赤い靴のバレリーナ

キレイになる方法(道)は、常に、母親との関係を考えなければならず、結婚して母親の軍門にくだり、髪を切ってしまう女性もいる。
天才的に可愛い子がボーイスタイルで売る、それもお母さんとの兼ね合いがあるし、どっちのキャラに進むかもお母さんのご機嫌を伺わなければならない。
それが「陰陽」というものである。
女子かしまし物語

文帝と武帝の時代を経て、妻が美しいと「文武両道」が必要になってくることが分かり、天命として知られるようになった。
適当にブサイクでなければ体力が持たないのだ。
お金があること(義)、女たちにモテること(礼)などの要素がなければ、皇帝になるためには乱闘騒ぎを経験しなければならなかった。
女がキレイになる方法(道)というものは、時には男の出世を妨げるものだ。
時間というのは「有る」か「無い」かのどちらかだ(有無)。
体を鍛える時間、学問に励む時間の両方を含む。
できるだけ可愛い彼女と付き合いたいと思って、文武を鍛えるが、若いうちだけだ。
若いうちに文武を鍛え、ブサイクな女を選択したら皇帝になれる。
それが天命というものであり、女の道に男が関与しなければならないことからそのような展開をたどる。
ブサイクな女が「可愛い女の子が欲しい」と考えることから「禅」というものは生まれ、遊佐道子(香淳皇后)も決して美しくは無かったことから「西田幾多郎」として禅に励み、日本国の芸能人の祖先となっている。
浅香唯 セシル

母親が「禅」を知っていて、美男美女として生まれても、歳をとったら親に似てくる(自然)。
しかし、若い頃の美しさは、男の子の場合は「文武」両道に関わってくる。
女の子の場合は「陰陽」と関わってくる。
男の子に「文武」に励む時間を与えることを「無為」と呼ぶ。
Mr.children Tomorrow never knows.

 

思い切り稼いで(義)、思い切りモテて(礼)、ブサイクと結婚する(天命)。
そして、妻は「禅」を理解し、可愛い女の子、ハンサムな男の子を産む。
これらの仕組みに詳しかったのが西田幾多郎(遊佐道子)だったのだ。

天命を理解している男は、周囲に人が群がる(感応)。
人気のある人は「縁起がいい」とも言われた。
音楽作品を愛したのが天台宗であり、禅に詳しかったのが華厳宗であり、女らしさをヨーガから研究したのが唯識宗であり、この「三論」には優劣はない。
皇帝というのはどの世界にもいるが、いわば「社長さん」を育てる学問を「道学」と呼んだのだ。

ローマ帝国では「五賢帝時代」というのがあったし、日本では、明治・大正・昭和・平成・令和と続いたわけであるが、ローマ帝国においても現代の日本国においても「五代限界説」というのがある。
その「六代目」の人生を「サパン」と呼び、もし、令和の次があるとするのならば、
サパンの研究が必要になってくる。
サパンとはまるで、アメリカが現代の「ジャパン」の研究をしたようなものである。
サパン(六代目)は、ビスマルク(小野光右衛門)・小野達郎(野口英世)・小野鉄之助(昭和天皇)・佐田の山(平成天皇)、そして令和天皇の次を受けて、「令和天皇にできなかったこと」つまり「詩を作ること」「ギターを弾くこと」「祖先研究を深めること」「自分を伝説にすること」そして、それらを踏まえたうえで「女性たちが自分に夢を託すこと」を研究することになる。
それは、チャパチョキセンゲ(グーチョキパー)のように完成された学問だった。
サパンは早熟で、勉強は苦手だったが、背が高く、顔が令和天皇に似ていたため、「カッコつけて伝説になる」方法を選んだのだ。
つまり、「ギタリスト」「ミュージシャン」であった。
「伝説からの教え(カルマ)は大観衆が教えてくれるだろう」
太陽のkomachi engel

最高の指導者についてもらっていたため、決して、夜郎自大ではなく「時代の寵児」として、「カルトシアター」で公演したあとに、「令和天皇に似た」息子の姿を女性たちは「コンサートの帰り道で」考え、「天皇制の永遠」を誓った。
CoCo 優しさに帰れない

女性たちは、令和天皇の息子の「修行時代」に頭を下げ、その特権的生まれに頭を下げ、最後に「セックス崇拝」に頭を下げた(三跪)。
チベットで「サパン」がいなければ、ダライラマも14世までは存続しなかっただろう。
釈迦族の知恵とも呼ばれている。
令和の時代に天皇は「グル」として扱われることになるが、それに対する「反対勢力」を、息子は味方につけることになった。
チベットが「五代限界説」を突破した理由はここにあるし、日本でもそれは果たされることになる。
「国内最高の先生って誰?」
みんなが悟れる大乗仏教の誕生だった。
「五代限界説の突破」と「大乗仏教の誕生」は天理とも呼ばれた。
インドのあらゆる王朝は限界を突破できなかった。
しかし、チベットだけは特別だった。

宗教体験とは、男に関するもの、であり、多くの女たちを騒がせたことがあるものに対する感情であり、時には抱かれ、時には「男が男を先生と呼び」時には、理想と現実のギャップを感じるものである。
同じ空の下に同じ花を咲かせる。
部落民にお金は無い。しかし、熱狂的な声援を送ることはできる。

部落民特有の幼児体験・原体験を秋篠宮は持っていた。
そのために、部落民女性は熱狂的な声援を送ったのだ。
令和天皇は、秋篠宮のことを「部落民」とともに記憶に残していた。
「病んでいる者たちが幻を見ていた」
禿げていて老境にある男に「宗教」を見出していた。
「幼児体験・原体験」だけはどうしょうもねえな。
酒井法子 あなたに天使が見える時

釈迦族の何が偉大なのか?
「五代限界説」を打ち破ってチベットで存続したからである。
なぜチベットなのか?
それは、モンゴル帝国が13世紀にインド中国を支配したからである。
「美男美女」を作る、「女らしさ」をクリエイトする、「予言をする」という仏教は16世紀にはダライラマ5世がおり、息子を「ミュージシャン」にすることで王朝の限界を打ち破った。
チベット仏教は「勝負事の基本」を知っている連中であることをアイデンティティとしている。
世界の仏教界のみならず、政界、メジャースポーツの世界がチベットを「特別」とする理由はここにある。

「美男美女」が「女らしさ」をクリエイトし、「予言をする」という営みはいつしか「シャングリラ」と呼ばれる宗教・ビジネス・政治・法律・経済の基本となっていた。
シャングリラの夏 河合その子

「美男美女」「女らしさ」「予言」はそれぞれが「らんま三分の一」と呼ばれた。
東京大学とかハーバード大学とかあるけど「らんま三分の一」を理解しているアーティストの方が格が上であるとされている。

日本国で「金集め」をする上では「無常」「変わり続けること」への感性を磨かなければならない。
高井麻巳子 約束

その上で「もの」(おちんちん)への「あわれ」(同情)つまり「もののあわれ」を持たなければならない。
CoCo メロディー

「無常」は吉田兼好の徒然草に表現され、もののあわれは源氏物語や平家物語に表現されている。
しかし、この二曲を吟味できれば十分だろう。
紫式部も小津安二郎も、この二曲から入門編と位置づけられる。
桜を見る感性はここから来るからである。
吉田兼好の徒然草は、月の下での夜桜見物に「無常」「もののあわれ」のふたつを凝縮させた。
千利休は、美女とのお茶を「禅」をするうえで必要なものとし、可愛い女の子を喫茶店に誘うことがどれほど「子供を美しくするか」を論じた。
モテないお父さんと言うのも子供の顔に悪影響を与えた。
ワビというものは「枯れてもモテる」「腐っても鯛」を意味した。
河合その子 Please tell me Mr.朱

谷崎潤一郎は「旧家の厠(かわや)」に日本の美を見出している。
これがトイレか、金持ってんな。
それが旧家の厠であった。
歳をとってもモテる(ワビ)があるからこそ、歳をとって金がある(サビ)ことが表現された。
さらに、幽玄というものは「女性の局部」を神秘化させることから金儲けをすることを言う。
雪舟の風景画や、芸道(弓道・柔道・書道・華道・茶道)などの「道」は、「女目当てに」「遠回りをしながら」磨くものであった。
後藤真希 愛ってどんな×××

さらに、イキというものは、旧くは芸者遊びをする学生さんのことを言ったが、今はコンクリートの会場でコンサートを見る若者のことを言った。
ステージの上の女が「キレ」(処女を失うこと)を歌っただけで熱狂した。
高橋由美子 ときめき

小津安二郎に「東京物語」という映画があるが、「日本の美」だけで都会作りをするとあのような風景になる。
資金力の限界を示しており、デカルト(恋の研究)・カント(口説き文句の研究)が必要であるという判断がなされたからこそ今の「東京」があるのだ。
しかし、日本国が独自に作り上げた風景が東京物語にはある。
東京物語 映画 二時間以上の作品です メジャーな学問がなければ日本はこんなに暗い。 ハーバードやスタンフォードがなければ、この風景は今でも残っていただろう。 中卒や高卒だけの国ではない。 東大が西欧化を進めたから今の東京がある。

2019年4月21日 (日)

カトリックについて。

「初めての男って忘れられないらしいね」
しかし、女には「幻の恋人」がいて、マスターベーションも覚える。
「一人上手の癖も覚えた」
それは、イエスさまを想像することだった。
「死への崇拝」「知識への崇拝」を行うキリスト教において、イエスさまを想像して「すべての女が初体験をする」(マスターベーションをする・罪)
ここに、男の「主権」、バチカンの「主権」は存在するのだ。
「初めての男」としての「メッセージが常に的確であること」
ここに、デフォルトを起こさないための秘訣がある。
ribbon さよなら

イエスさまの肉体と、「教会がイエスさまである」という二つのイエスが生まれた。
「初めての男って忘れられないらしいね」
本当に初めてのセックスをした時に、「これならばすでに知っていたこと」と女たちは考え、「初体験の相手はイエスさまだった」と考えるようになっていた。
世界レベルで「イエスさまの肉体」は教会にあったし、世界レベルの頭脳をもっていた。
共産党や独裁者が「初体験の相手は私だったはずだ」と「なりすまし」を試みたにすぎない。
この人の言うことを聞こう、それを「主権」と呼んだ。
外国国家に対して独立していること、国内で「有効なメッセージ」を出せること。
そして「領土を画定できること」
一人上手を重ねるごとに、「領土を画定する力」は高まっていった。
処女は「近代に発見されたもの」に過ぎない。
共産主義は植民地からの独立のために用いられたに過ぎない。
友達と恋人の境界線はセックスにある。
「心は知ってなければイエスさまも独立もありえない」
三浦理恵子 グッバイフレンズ

スペインの国王であるチャールズ五世が「カスティリャ・アラゴン・オランダ」を支配し、神聖ローマ帝国は「チャールズ五世がイエスだよね」という認識のもとに対外的独立性・対内的自律性・領土の画定を行った。
初体験の相手がどの女も「チャールズ五世」を想像したマスターベーションだったし、バチカンよりも優れた統治能力をもっていた。

バチカンとの距離感によって、ウェストファリア条約が結ばれ、神聖ローマ帝国は「ドイツ」となった。
ドイツにおいてイエスキリストとは「チャールズ五世」のことだった。
日本国で、「初めて快楽を味わったのは伝教大師だったかしら」という女がいてもおかしくはない。
バチカンにとっては「カトリック国」とは、「自分たちのメッセージを聞いてくれる国」という意味であり、イエスキリストよりも偉大な男が「王」としているのならば、カトリック国とは名乗らなかった。

イエスキリストとチャールズ五世が30年戦争を引き起こした原因であったが、300年間は「それよりも偉大な王」はいなかった。
植民地の独立運動が起きてから、マルクス主義や独裁者が登場したのだ。
すべて「初めての男って忘れられないらしいね」という女の心理を利用していた。

マキャベリは「君主とは思春期の女の子たちに快楽を与える存在」としていたし、「有効なメッセージを国全体に与える存在」でもあるとしていた。
ルターは、「ローマカトリックはもはや信用できない」として、アイドルをセールスに出しまくった。
「女心」を語ることことが政治であるとし、単なる「初めての男」に過ぎないイエスキリストに対し、「政治」の有効性を主張したのだ。
女たちにはイエスキリストの「愛」を見失う瞬間があった。
CoCo 優しさに帰れない

「初体験の相手は?」「イエスキリスト!」といえば怒る男はいなかった。
しかも、バチカンが有効なメッセージさえ出してくれれば、世界は安泰だった。
しかし、神聖ローマ帝国は登場したし、植民地主義政策は確実に取られた。

ホッブスは、リヴァイアサンにおいて「王子はどのような生き方をすべきか」を明らかにしていた。
「国家統治に対して有効なメッセージを出さなければならない」カール・シュミットはヒトラーに「それはあなたですよ」と言ったため、学者生命はヒトラーとともに終わった。
1948年にヨーロッパは「お金はイエスキリストや独裁者だけのためにあるのではない」としている。
この時に、学歴社会というものは想定された。
ユーゴスラビア、ボスニア、コソボ、ソマリア、ルワンダ、ハイチ、カンボジア、リベリアなどで「独裁者の地位をめぐる紛争」が起きた。
2003年にアメリカ合衆国はイラクを攻撃している。
「初めての男って忘れられないらしいね」
しかし、そのメッセージに国際社会としてどうしても介入しなければならないことがあった。
一方で、ヨーロッパ統合の動きもあった。
わりと穏健な指導者であったイノセント10世あたりが「イエスキリスト」と想定された。
日本国にも「天皇」がいる。
しかし、NHKを利用して気象をコントロールしたり、タイムマシーンを利用して「国民の命を預かる」必要があった。
「人間は死なない」という発想は、カトリックも否定していないし、しかし、「女たちにできるだけ多くの快楽」を与えなければ、「今がすべて」という勝負事にも弱い君主となった。
「初めての男って忘れられないらしいね」
ジャック・マリテイン(1882年~1973年)は、トマス神学にしたがって、「王位継承の際に」こころない「叔父や弟」にいじめられた経験のあるものを「王」とし、その非効率性を「マネタリズム」という形で経済政策に生かせる才能のある者を、「イエスキリスト」であるとしている。
なにしろ、女たちの「今がすべて」を、勝負事の「今がすべて」に変えていかなければならなかった。
CoCo お願いHold Me Tight

ベルグソンは「人間とはどうしてもひとつにならないものだ」と語っているが、こころない叔父や弟を前にベルグソンを読んでため息をつくという経験は、「イエスキリスト」になるためにはどうしても必要なことだった。
そのような「トマス神学」を知っている男にカントは「口説き文句」「女心」を放り込んだのである。
まず、勉強ができなければならなかった。
それを踏まえて、こころない叔父や弟、さらには友人たちの物語を克明につづらなければならなかった。
「神学大全」というのはそのような文献のことを言うが、さも高尚な書籍であるかのように考えている渡部昇一などは「低学歴」の疑いが晴れない。
男って何?長男と結婚するってどういうこと?
それは女たちにとっては宗教であった。
男に関する何か普遍的なものがあるとするのならば、それは神学大全にあった。
世論は次男の味方だとされるが、そのことに次男が潰されてしまうこともあった。
長男としては、勉強しなければならない、ということと、音楽作品を愛さなければならないということが指摘でき、それさえあれば、「次男など弱いだけ」ということも言える。
アメリカ合衆国はプロテスタントの少子化に悩んでいるのであり、カトリックは相変わらず子だくさんだ。
トマス神学は、東西冷戦時代に、中央ヨーロッパだけでなく東ヨーロッパにまで知られるに至った。
なにしろ「子だくさんの家庭の真実」だったからである。
初体験は「イエスキリスト」
しかし、こころない叔父や弟、友人などの人生を克明に記したトマス・アクィナスの神学大全は、イエスキリストを処刑から救った。
ローマ帝国と神聖ローマ帝国の違いは、霊的に高い位置にいるものへの処刑があるかないかの違いに過ぎない。
ラテンアメリカも子だくさんだったために、トマス神学が知られるようになった。
こころない叔父や弟・友人たちの物語だ。
しかし、ヒスパニックアメリカの支配下にはあったものの、「初体験はイエスキリスト」とさえ言っておけば、あんがい、コロンビアなどはリベラルな国としてカトリック国が成立している。
レベッカ プライベートヒロイン
女たちを「イエスキリスト」の名によって自由にしたことから、アルゼンチンやチリ、メキシコにまでカトリックは広まった。
もともとはコロンビアの宗教だった。
「処女であること」「浮気をしないこと」
そんなものが国家統治として機能すべき宗教であるはずがないだろう。
「初体験はイエスキリスト」
「教会はイエスさまの肉体」
「教会の指導者はどんな導きを国に与えるのだろう」
これがカトリックの正体である。
「神学新聞」と呼ばれる新聞やパンフレットが配布され、日本では本ブログであると考えてもらうしかない。
ヒスパニック・ポルトガルアメリカは、フランスからの侵略を受けたため、ポルトガルは、「帝国の拠点」をポルトガル本国ではなくブラジルに移してしまった。
「女は処女のまま結婚しなければならない」というカトリックの教えがかつてあったことは認めなければならない。
しかし、「初体験はイエスキリスト」という発想は、フランス革命を引き起こしてしまった。
女に詳しい「パワフルチャーチ」(強い教会)が国家統治に介入した。
マルクス主義はこの役割に取って代わろうと考えただけだった。
「ラテンのノリ」というものはここから生まれているし、カトリック国でも自由な雰囲気が蔓延した。
河合その子 不思議バカンス

1812年に「女の子の初体験の相手はイエスキリスト」と憲法で条文化した国が「カトリック国」となり、比較憲法学でもそのように知られている。
女子中学生の強烈な性欲はよく知られているが、彼女たちの「今がすべて」を勝負事の「今がすべて」に変えていかなければならない。
ルソーの教育学は、女子中学生・女子高生の「性欲」を勝負事に持ち込むことに成功した。
しかも、イエスキリストの肉体である「教会」の言うことを女たちはよく聞いた。
だが、「夫の政治的強さ」でリベラルは斜陽に向かうことになった。
どの道、カトリックは純潔と言おうが、「初体験はイエスキリスト」と言おうが、男の強さという意味では、同じ意味であることも次第に明らかになってきたのだ。
マルクス主義と同様に、カトリックというものも「歴史の審判」を仰がなければならないだろう。
横浜DeNAベイスターズはどうなるのであろうか。

20世紀後半に、カトリックの世界に衝撃が引き起こされた。
「初体験はイエスキリスト」というのはレトリックに過ぎず、女は本当に純潔を守るべきだという主張がチリの軍事独裁政権によって展開され、多くの男たちの支持を集めた。
また、軍事独裁政権はユダヤ教の「人間は死なない」という発想をこの戦いに持ち込み、南米は「スパニッシュアイ」と呼ばれる混乱が起きたのだ。
マドンナ スパニッシュアイ

1973年の9月1日以来16年半に及ぶピノチェトの軍事独裁政権が成立し、そののちのアジェンデも暗殺され、1980年に憲法ができた。
「すべての家庭はローマ帝国の王室のようでなければならない」
軍事政権や政治の混乱ののちに「お父さん」たちは強烈にこれを支持した。
国生さゆり キスした跡はのこさないで

しかし、カトリックの伝統は「ローマ帝国の王室は滅びていく宿命にある」という所にあり、「親がコントロールできない娘」こそが「美しい娘」であった。
結局、「初体験はイエスさま」と言おうが、「純潔」と言おうが「美しい娘」と言おうが、「女」という存在は歓迎すべきものだった。
必要なのは「国全体を見通した神の計画」である。
国づくりに「イエスキリスト」が関与しているのは事実であり、それは「男らしい」営みであった。
国力の最大化のために「初体験はイエスさま」「純潔」「美しい娘」を生み出したのだ。
親がコントロールできない美しい娘というのも巨大ビジネスだった。
ロスチャイルドがカトリックの支持基盤になろうが、ロックフェラーが「美しい娘」を背景にしようが、どの道「イエスさま」の影響力だけは免れることはできない。
新田恵利 遅い流星

世界で一番の有名人である「イエスさま」は国を作り、女を作り、家庭を作った。
どんなに苦痛に満ちた人生も「国を作るエネルギー」には必ずしもつながらない。
イエスの苦しみは「ヴェロニカ」という絵画で表情が表現されている。
十字架のイエスのことである。
エジプト王朝を滅ぼしたイスラエルの王、死なないユダヤ人、イエスキリスト、いくら死ななくても「国を作った、女を作った、家庭を作った」のであるから、その表情に笑顔などない。

この際だから、「世界を旅した気分」を味わってもらおう。

フランツ・ファノンは、フランス人であったが、アフリカのマルチニクに拠点を設け、アフリカの「脱植民地化」運動に身を投じている。
1953年にアルジェリアに移住した。
ビルダ・ジョインヴィル病院の精神科医となったのだ。
自身は「黒い体に白い顔」を自称しており、「黒い肌」という本を著している。
アフリカ人は「黒い肌」をいかにお金に変えるかが「脱植民地化」の基本となった。
人民解放戦線(FLN)をアルジェリアに作り、ガーナとも連携した。
「黒い体に白い顔」を自称したのは弱冠27歳の時だった。
黒い肌の歴史は「奴隷の歴史」「抑圧の歴史」だった。
アメリカ合衆国で、ファノンの動きに反発する形で「黒人差別」がなされた。
サルトルやメルロ・ポンティは何を言っただろうか?
「男についてくるかたちで女の子が芸能界デビューをしている」と語っていた。
黒人の「黒い肌」は、自分たちの思考力を下げていたのは事実だった。
しかし、「計算が得意だった」とされる。
1970年代に、NBA、NFL、MLB、プロボクシングが視野に入った。
「思考力は低いが計算が得意」
このことから、ヨーロッパによるアフリカの植民地化は「偉大なる白人のエラー」と呼ばれた。
黒人によるカリブ海やアメリカ合衆国進出が始まったのだ。
アメリカ合衆国の黒人は「もと奴隷」「もともと住んでいた連中」ではなかった。
アフリカとヨーロッパの関係(植民地)を何とかするために見えたのが「アメリカ合衆国」だった。
アメリカ合衆国としては「お前らの問題じゃないか」という思いがあり、差別がなされた。
しかし、人民解放戦線は、エルモウジハードという新聞を作って「黒人のメジャースポーツでの活躍」を報じた。
アメリカ合衆国では、「黒人とはヨーロッパ少数派である」という認識だったのだ。
東西冷戦に対しては「中立」の立場を表明した。
黒人という「ヨーロッパ少数派」は、「メジャースポーツこそが黒人の女の子にも夢を見せる」とし、「思考力は低いが計算が得意」ということを存分に利用して、まるで「地球レベルで」ヨーロッパ・アフリカ・アメリカ合衆国の三大陸の注目を浴びながらスポーツに励んだ。
メジャースポーツは、黒人にとって「パワーコントロールの夢」となっていた。
アメリカ合衆国で活躍すると、人民解放戦線が新聞に書きたてて、ヨーロッパが悲鳴を上げる。
ドゴールがそうだっただろう。
アフリカという国々はそのような発想で「脱植民地化」を図ったのだ。
酒井法子 男のコになりたい

サッカーの北沢豪さんが、アフリカの子供たちに「願い事はあるか?」と聞いたら、子供たちは「長生きがしたい」と答えている。
これは、「死が身近にある」というよりも「そもそも死なない」というユダヤイスラムの影響かと思われる。
アフリカは、現在、ケニアだけが「平和の孤島」と呼ばれており、それ以外の国はかなり混乱している。
植民地からの独立を果たしたが、この背景には、宗教(男らしさを語り合う論壇)や政治(女心の定義)といった「産業」がもたらされたことがある。
オルカプロジェクトと呼ばれる、国民の教育水準を高めるプロジェクトも成功した。
しかし、アメリカ合衆国においては「スラム街」(ゲットー)に住むことを余儀なくされ、ヨーロッパでは依然として少数派だった。
オルカプロジェクトは、メジャースポーツのみならず、ブラックミュージック、黒人アートの世界にまで、黒人の「夢」を膨らませた。
ばいばいどくおぶざべい

黒人は、アメリカ合衆国とヨーロッパ、そしてアフリカという三大陸に注目される存在であり、「戦うために生まれた」ということをアイデンティティーに「文化」を売り込んだ。
マイケルジャクソン ビートイット

マリ、ガーナ、エジプトには図書館があり、エジプトは、イスラム国として「中東地域の一部の鍵を握る」とされ、アフリカではなく「中東」とアメリカやヨーロッパにみなされている。
アメリカ、カナダ、イギリス、フランス、ドイツにおいては「黒人にも高等教育の機会を与えよう」という動きが起きた。
アメリカ合衆国のゲットーと言っても、日本における横浜の中華街みたいなものであろうが、メジャースポーツや、ブラックミュージック、黒人アートの「三大陸における」成功を受けて、黒人に「オックスフォード」という資産がもたらされたのだ。
1600年から1860年までは確かに、「アフリカは植民地」だとされていた。
日本の「江戸時代」とまったく同じ時期だった。
1860年から1915年は、アメリカの南北戦争から第一次世界大戦までであるが、アメリカが「黒人を敵に回したくない」時期だった。
アメリカ南部に「奴隷州」があったのは事実だった。
しかし、日本国が「鎖国」を解いた途端、黒人たちが「奴隷解放運動」を始めたのだ。
黒人の歴史と日本人の歴史が不思議な連動を行っていることが分かる。
アメリカ人にとって、日本人の肌は「黒人と同じ」に見えたのだろう。
本来、アメリカ南部の奴隷たちは「日本とのパワーの連動」というゲームをやっていた。
その後、「三大陸に注目されるメジャースポーツのゲーム」が始まっているが、現在でも、日本国と黒人の「パワーの連動」ゲームがどこまで有効であるのかは見極めが必要になってくるだろう。
日本国は、東アジアでは「ひとり」になることはあっても、世界が見ている国であることには違いはなかった。

ここで考えてもらいたいのが、はたして「オックスフォード、ハーバード、スタンフォード」が必ずしも日本人に対してオープンではないと言うことだ。
日本国も国際社会で「なんらかのゲーム」を仕掛けなければ、アメリカ高等教育が、日本に心を開くことはない。
現時点では、「東京大学の一部の優秀な学生はスタンフォード哲学百科事典を読んで」というメッセージが来ている段階だ。
アメリカ合衆国が、対中政策三本柱として「金融」「クリーンエネルギー」「アメリカ高等教育」の三つを挙げているが、アメリカ高等教育の「破壊力」は私が実践しているだけであり、周囲を見渡してもそのような人は日本にはいない。

たとえば、中国人民日報でも「イチロー」(鈴木一朗)に関しては、「戦後の日本人十傑」あるいは「平成というとこの人」あるいは、「引退した」などの記事はヒットするが、イチローのメジャーにおける活躍ぶりは必ずしも報じられていない。
日本人が「メジャーで」活躍することを必ずしも中国は歓迎していないのだ。
本田圭介が「基金を創設した」などの記事はあるが、実際の「プレー」にはまったく触れていない。
これを、「中国人ではないから興味がない」と見るのか、それとも、日本人がメジャーで活躍すると、中国が悲鳴を上げるだろう、と見るかは、外交ゲームであり、「どのようなゲームを仕掛けるか」という政治の側の力量に委ねられている。

中国の外交筋の女性に聞いてみたところ、「野球と言われても意味が分からなくて」という言葉が返ってきた。
「子供の頃、似たような遊びはするんですけど、それ以上の活躍の場がない」とも言っていた。
日本のスポーツ選手の「メジャー進出」に対しては、中国人は「意味が分からない」というのが率直な感想であり、
中国人と同じ土俵で「メジャー進出」の競争を仕掛ける状況にはない。
ただし、中国人と付き合う上で「人民日報を読んだところ」という言葉は必ず用いなければならない。
そうでなければ信用されない。
アフリカの研究の続きであるが、二つの勢力による紛争があった場合、最後に、「軍事法廷」が開かれる。
この軍事法廷は「女からの間違い電話」であることがある。
今回、私が中国外交筋に「日本人のメジャー挑戦をどう思うか?」と電話したら、最初に、男から無言電話がかかってきて、その後、非通知で女から「電話するように言われたんですけど」という電話がかかってきた。
中国というのはこのような「軍事法廷」を知り尽くした「大人の国」なのかと思った。
いずれにせよ、私は中国と「軍事法廷」もののやり取りを行っていたのだ。
女からの間違い電話は「今、バッティングがありましたよ」という中国側からのメッセージであった。
一方で、「あなたの情報や考え方は正確性を持っている」という外交儀礼でもあった。
中国側としては「私たち政府を信用して欲しい」という考えから、このような「国際法」にしたがっている。
逆に、外交筋が相手の電話に「効いた」時に、男に無言電話をかけさせ、そのあと非通知で女に「間違い電話」をかけさせていたのだ。
また、非通知の女も「この番号にかけろと言われたんですけど」と言っていたが、「英霊を記録に残しました」という明白な脅しでもあった。
いずれにせよ、軍事法廷とは「女の電話の記録」をたどって調査がなされ、女の住所録・電話帳だけが頼りなのだ。
国際法にしたがって、軍事法廷を開くということは、ユーゴスラビアにせよルワンダにせよ「女の電話の記録」をたどっている。
最初の男の電話番号は番号通知の表示が出ているが、恐くてかけなおそうとも思わない。
アフリカのような紛争の多い地域では「常識」とされていることが、日本人が下手を打ったらやけどすることにもなりかねない。
カンボジアの首相のフンセンは、このような「国際法」にまったく無知だったとされる。
中国側としては「長期的に見た」戦争の火種を見つけたというメッセージだった。
日本人が「メジャー挑戦をする」
それを日本のサンケイスポーツが書き立てる。
それは、戦争を意味した。
この中国の「国際法への理解度」を理解する力量が重要である。
なにしろ、「軍事法廷」を開く時に真っ先に私の名前が出てくるからである。
ゲーリング、リッペントロップ、シュトライヒャー、ヘス、スペアはそのように「女の電話の記録」をたどった結果、ニュルンベルク裁判所で13回の法廷に出頭している。
大使館などの外交ルートの「女の電話帳」をたどればいいだけだから簡単だ。
ヘンリー・モーゲンソージュニアは、戦犯の即刻の処刑と、ナチス産業基盤の破壊を主張したが、ヘンリー・スティムソンが「国際法の生成過程に利用した方がいい」として、裁判の続行を押し通した。
「罰は復讐ではない。いろいろ検証した結果、どうしても許せなくなる時は来る」
スターリンやチャーチルも「外交とは何か?」を知りたかったために静観していた。
「勝者が敗者を裁くのはおかしい?」
我々は今後の世界の外交のルール作りをしただけである。
ニュルンベルク裁判が成功したため、1946年の春には「東京裁判もやろう」ということになった。
しかし、東京裁判の時にはすでに東西冷戦が始まっていたので、
「誰もこれ以上学ぼうとはしなかった」とされる。
いずれにせよ、冷戦後のユーゴスラビア、ルワンダの軍事裁判までこの「外交ルール」は動くことはなかった。
ICCというのが今はできているが、日本国も多額の拠出を行っている。
カラジッチやムラジッチの逮捕は、このような「女の電話の記録」からなされたし、最終的には、ミロシェビッチは失脚している。
ウガンダやコンゴ、中央アフリカ共和国などで、今後、このルールを用いなければならないだろう。
スーダンのオマール・アルバシルがこの「女の電話の記録」に残っているかも不透明だ。
1998年の「ローマ議定書」にはこれらのことが書かれているのだ。
「ローマ議定書を知らないのならば外交に口を挟むな」というメッセージにもなった。
軍事法廷は「勝者のジュースなのか?」
少なくとも「公正」ではあった。
「ナチスの頃にはなかった”脅し”のルールだ」とも言われた。
戦争を未然に防ぐことが可能となったのだ。
あるいは「国の指導者層にこの”外交儀礼”を行っておけば十分である」という指摘もある。
このように、メディアの洪水の中で、女の電話帳から丹念に事案を拾っていく力量は、アルゼンチン、チリ、エルサルバドルで1980年代から1990年代にかけて行われたが、その力量はジョゼフ・フーシュ個人の力に依存していた。
南アフリカの和解のための委員会(TRC)で磨いたものだ。
多くの「戦争犯罪」を裁いたが、裁いたあとは「忘れることが大事」とも言われた。
なにしろ、我々はすでに「戦争を未然に防ぐ力量」を持つにいたり、過去の教訓などというものは必要なかったからである。
女性大使館員の電話帳に「戦犯」の記録が全部残るために、「盗みたい情報」というのはどうしても大使館に存在することになる。
なんらかの「戦術」を盗みたいわけではない。そんなものはフォーリンアフェアーズでも読んでおけばいい。

1920年代に、三人の黒人がパリに留学してきた。
マルチニクからセザールが、ギアナからダマが、セネガルからセンガーが来た。
アフリカ人ゲットーに住み、有色人種プチブル(高卒)を憎んでいた。
パリで彼らは「キリスト教」と出会った。
「恋」である。
恋というものは「自分にしか分からない」「安全な営みである」という二つと、「記憶に頼らない」「心の底から直接感じる」という二つの直接性があるということ。
さらに、女が男に恋をする時は「仲間が多い」「何かやってくれそう」という要素が加わるため、女のほうが男よりも先に「恋」に気がつくとされている。
それを踏まえたうえで「いろんな人にかく乱される宿命にある」ものなのだ。
「恋」というものが「ヨーロッパ中世を終わらせた」とされている。
当然、「お金」の問題からだろうと思われる。
「恋」を語れなければ近代という社会は開かれなかった。
「アイデア」というのは「二人の女にひとりの男」という構図だが、「モード」というのは「二人の男にひとりの女」という構図が想定されている。
男-女-男-女という無限の連鎖からいろんな「恋」の作品は生まれるのだ。
鉄・拳銃・羅針盤が「大航海時代を作った」とされているが、鉄の研究をしてみると「中学生・高校生にまでお小遣いが行き渡った」のだ。
高校生くらいならば「アイスクリーム」程度でも女の子がついてくる。
このことを「快楽とお金の交換」入門編として「マーケットエコノミー」と呼ぶ。
大学生になると「国のお金」が入ってくるため(就活など)、これが「マーケットソサエティ」に変わる。
デカルトは、大航海時代ののちに「恋」の探求をまとめ上げ、ビッグマネーを生み出すことで、近代社会を作ったのだ。
「黒いこと、黄色いこと」
これが恋に値するのだろうか。
映画 憎しみ

人間は労働している限り死なないとしたマルクス主義が、フランスにはあった。
セザールはフランス共産党に入り、ソビエトに忠誠を尽くした。
「恋」「マルクス主義」「人間は死なない」「労働」
これらと出会ったダマは「黒いオルフェ」という作品を作った。
黒いオルフェ

これで黒人社会に化粧品や建築技術がもたらされる。
これでガスや電気がもたらされる。
船にも飛行機にも乗れる。
これが、黒人社会に「恋」「マルクス主義」「人間は死なない」「労働」をもたらしたことの意味であった。
世界のゲームとはそのようなものだった。
「知的な黒人」を描きたかったんだよ。

センガーはセネガルで1946年に、ダマはギアナで1948年に入閣している。
セザールは「民族自決」という用語を黒人社会にもたらした。
「恋」
それは知的な営みであった。
デカルトからは大きく遅れたが、黒人社会に豊かさがもたらされたのだ。
瀬能あづさ 秋

アフリカはいずれ「6つの自治区」をもった「アフリカ合衆国」になると見られている。
ダマ(バスコダガマ)が、アフリカ全体を見渡したのであり、「恋」というのは「希望の港」と呼ばれた。
三浦理恵子 希望の港

ヒラリー・クリントン国務大臣は、「戦争にお金を使わせるぐらいならば携帯電話をばらまいて女にお金を使わせた方がいい」
「港湾はアフリカの富の1%にすぎない。港湾を整備して海岸線を豊かにした方がいい」と語った。
ヒラリーはアフリカの「恋」「憎しみ」「黒いオルフェ」を知り尽くしていたのだろう。

アフリカの神話に「同じ職場の異なる部署同士でバケツを奪い合い、バケツを勝ち取った者は女たちの奪い合いになる」というものがある(バケツ神話)。
Wink 愛が止まらない

さて、バケツとは「ソクラテスの叡智」ではなかったか?
ソクラテスの叡智がバケツの中に入っていて、それは他のバケツにそのまま流し込むことはできない。
丹念に読んで「学習」しなければならないのだ。
ソクラテスの叡智への憧れを「ソフィア」と呼ぶ。
バケツへの憧れを持つ者には「彼女」ができた。
彼女と「奥さん」はどう違うのだろうか。
法律婚をしていない、子供がいない、以外に区別はできない。
いずれにせよ、彼女は彼氏に「夢中」だった。
そのため、いくらでも「ソクラテスの叡智」を話して聞かせることができた。
「オルカプロジェクト」(アフリカ人の民度を上げる計画)は、彼女を作らせることから始まった。
これがアフリカの「バケツ神話」である。
松浦亜弥 Love Train

同じ職場の異なる部署同士で「バケツを奪い合う」という行為はアフリカの神話であり、
日本のお役所でこれが行われても決して「くだらない」とは言い切れないものがある。
先生(オゴッテメリ)はいつも同じことを言って生徒に「口説き文句」を教える必要があった。
日本でも「おごる」と言われるように、目上の者が目下の者に「教える」ことをオゴッテメリと呼んだ。
彼女を作ること、彼女が夢中になること、男が「バケツ」を愛すること。
そして「スワヒリ語を学習すること」がオルカプロジェクトの正体である。
君がいるだけで

黒人が、「アメリカ合衆国におけるメジャースポーツで活躍すれば、ヨーロッパが悲鳴を上げる」というゲームに気が付いたのは、フランツ・ファノンが初めてだろう。
日本国でも横浜DeNAベイスターズが球団創設70周年を祝ったが、かなりの「偶然」からゲームというものは見つけていかなければならない。
アメリカ合衆国としては、どんな「メジャースポーツのスター」になろうが、人生の最初は働いてもらわなければならないし、そもそも、メジャースポーツのスターになりたいという夢を見る前にも、大西洋で「奴隷貿易」というものは行われていた。
日本国の明治維新がまず最初に見えた。
金にならねえな、それが奴隷たちの感想であり、スコット対スタンフォードにおいて、ドレッド・スコットが「スタンフォードで勉強させろ」と言ったのは1856年のことだった。
「夢を持っている奴は奴隷だ」
それは日本でも同じことがいえるだろう。
そのことに寛大でいられるかどうかが、奴隷州と自由州の分岐点だった。
アフリカで「夢」とは「グレボ」と呼ばれたが、日本では「あいつの心には"ダム"がある」などというように差別された。
同じ日本人同士ですらそうなのであるから、「肌の色の違い」が結びつくとそれは抜き差しならぬ問題となった。
目的を持ったのならば通院歴もあったであろう。
このような状態で、アメリカ合衆国は「偉大な国家」を作らなければならなかった。
「心にダムのある黒い男からは金を搾り取るしかない」
黒人たちは「勉強を分かりやすく都合よく捻じ曲げよう」と考えた。
大陸横断鉄道は俺たちの祖先の血でできている。
そのように、歴史を自分たちに都合のいいように書き記した。
瀬能あづさ ふたつにひとつ

アフリカには多くの「独裁者」がいたが、肉声は聞こえてこなかった。
しかし、日本の令和天皇が「一匹狼の呪いと憎しみに満ちた人生が、今となっては楽しかった」と語ったことが、アメリカ合衆国に衝撃を与えた。
「君に黒人たちの姿を見るんだよ」
夢を語り、周囲から仲間作りやコミュニティーとの調和を求められ、差別されてきたが、「30年たって」「楽しかった」と言ってくれたのだ。
これがアフリカの独裁者の姿とオーバーラップした。
アフリカ合衆国の大統領がどのような存在なのかもだいたい想像がついた。
「よくも楽しかったと言えたね。もう許すけど」
ribbon Be my diamond

倫理という言葉を川端康成は「幸福の関心」と翻訳していたが、私は「いじめられた経験」と解釈している。
「幸福の関心と道徳は始原において一致すべきものである」(川端康成)。
しかし、私は「いじめられた経験と、多数派工作・仲間作りは30年たった後に分かるようになるものである」と解釈したい。
勉強は勉強であるが、社会を常に素材にしている。
一匹狼として社会に心を閉ざしていても、いつかは心を開くときが来る。
勉強は黄金よりも意味のあるものだ。
国家統治に興味があるのならば、法学教室やジュリストを読むのもいいだろう。
「金にならない嫌われ者」が「金になる人気者」に変わるときが来るのだ。
女は早い時期から「女ネットワーク」を構築している。
しかし、必ずしも国家統治の知識があるわけではない。
国家統治の勉強をした結果、女ネットワークに目を向けるのであれば才能が開花するだろう。
若いうちから女に媚を売っているようでは、何ひとつ得るものはない。
デレとデディクト、ソフトタイプとハードタイプが存在するため、「女に合わせる」と国家統治の学問は理解できない。
いじめられた経験(倫理)と、多数派工作・仲間作り(道徳)は結局、「同じ意味」と言っても過言ではない。
嫌われ者と「悪」は明らかに異なる。
嫌われ者には「正直さ、寛大さ、情熱」があったではないか。
凡人とは何か異なるものだっただろう。
しかし、道徳(多数派工作・仲間作り)から人生のキャリアをはじめることも人生を楽にするだろう。
硬派を気取って「女子の名簿」をまったく覚えないと、とんでもない損をするのが社会というものだ。
私も、中学校運営主体までは「地元」だったため、女子の顔と名前は覚えていたが、高校になって「学区」にまで地域が広がると、とても覚えきれなかった。
ましてや、大学となると「分かるわけがない」ということになる。
このあたりは才能とか教育とかいろんな要素のあるものだ。
Melody 唇がふれあえば

アフリカは「6つの自治区」をともなうアフリカ合衆国になると言ったが、アカンとヨルバの対立だけはどうしょうもないだろう。
倫理(いじめられること)と道徳(多数派工作・仲間作り)などの文化がまったく異なるのだ。
一匹狼型の指導者が好まれるのか、若いうちから協調性のある者が好まれるかが違う。
農業が発達していて、人にモノをあげるのが常識となっているヨルバに対して、アカンは「一匹狼の勉強」に大きく国家統治が依存している。
川端康成は伊豆の踊り子で「こんなことなさってはいけません」という描写でお金をあげようとした学生さんのことを記しているが、賄賂に関しては普通に「あかん、あかん」と日本人は言うだろう。
いざとなったら必要になるのはアカンの指導者であるが、普段はヨルバと生活をともにするのがアフリカ人である。
しかし、アカンとヨルバが「仲がいい」かどうかは困難な問題である。
お互いの「生き方」が異なるのだ。
アカンとヨルバの対立は、学歴にも根ざしたものであり、また、ヨルバは地域住民の根強い支持があるし、アカンも老成してくると「国全体」の支持を得るようになる。
地方自治に強いヨルバと、国家統治に強いアカンの対立だけはどうしょうもない。
しかし、「事件」がおきると強いのがアカンであった。
仲間の多いヨルバの中に、「肝臓ガンになった」という人がいた場合、「自分は血筋で最高の人間だと思ってはいないか?それでもなお隣の芝生は青く見えないか?さらには、おばあちゃんを崇拝していないのではないか?」という問いかけを行い、肝臓ガンすら治してしまう力量を持っているのがアカンであった。
アカンの中には「おばあちゃんに可愛がられた者」が多い。
私の祖母が作詞した曲です。
酒井法子 エアー~サラダデイズ

Dr.コトーのように、アカンとヨルバの「和解」をテーマにしたマンガもある。
アカンとヨルバの「和解」がなければ、なんら将来の展望が開けず、「昼間でも家で勉強してていいですよ」とヨルバがアカンを認めることはない。
私も、マンションの組合幹部の健康相談に乗るなどしているため、家での「作家活動」が黙認されたり、いつでも買い物や散歩に出ることができるのだ。
アメリカ合衆国、カナダ、オーストラリアが「ひきこもり対策」にアフリカの研究を用いた。
「社会が自分をどう思っているのかが分からない。自分は豆になってしまった。あなたは豆ではなく立派な人間だといくら説得しても、それでは外のハトやヒヨドリは私が豆ではないことを知っているのでしょうか?」などと臨床心理士は語り合ったが、先進国は「アフリカの研究」からアプローチしたのだ。
アカンという生き方に関しては私の神道指令を参考にしてもらうしかない。

アフリカでは「アカンとヨルバの対立」があったが、日本の政党は二つ以上ある。
しかし、本来社会が有している「根の深い」対立を理解しているのかは明らかではない。
安倍晋三の「しばき隊」はほとんどがひきこもり(アカン)であるとされる。
アカンの中から幹部候補生を出すという意味においては自由民主党のカラーはある。
しかし、公明党はヨルバであろう。
政府与党だけでアカンとヨルバが共存しているのだ。
ヨルバによる「アカン包囲網」がアパルトヘイトレジームであった。
そもそも、現代の日本が「アパルトヘイトレジーム」ではないかとも言われる。
しかし、それを解放していく神道の側の営みは確実に存在する。
この「アパルトヘイトレジーム」に「労働・革命・宗教」が持ち込まれなければ、公園はいつまでたっても閑散としたままだろう。
1999年にアムネスティは「歩きタバコをしていてもアカンを処刑していた」クメールルージュの記憶を「歴史から削除するように」としている。
アムネスティの頭には「日本国のアメリカ化」以外に頭になかった。
「犠牲者」とカウントするにはあまりにも残酷すぎたのだ。
エドモンド・ツツは、「アパルトヘイトとは何か?」を明らかにし、政治フォーラムを形成したため、英雄気取りで街を歩いた。
アフリカは「国際法の生成過程」も作ったし、「政治フォーラムの生成過程」も作ったことになる。
We are the world

創価学会は「貴女は誰を愛したのか?」「誰が貴女を苦しめたのか?」「どんな男が外で暴力を振るったのか?」「誰が命令を出したのか?」「どこに埋葬されたのか?」「誰が政治を否定したのか?」を問いかけ、麻原彰晃を批判した。
チリやグアテマラ、チャドでも同じことが起きていたため、日本国は「グローバル」レベルでアパルトヘイトレジームに巻き込まれていたのだ。
我々は「外で」「自由になったら」すべてを許さなければならない。
世界レベルで起きたことが日本国に波及しただけだ。
アウグスティヌス(354年~430年)の時代から、アフリカには「アカンとヨルバの対立」はあったとされ、アウグスティヌスはアフリカ北部で、ローマと行ったり来たりしながら、「セックス崇拝」という文化を音楽とともにアフリカに広めようとした。
黒人音楽はスワヒリ語なので日本人が聴いても何を歌っているかは分からないが、日本の歌謡曲同様、プラトンの影響がなければ「音楽」とは言えないわけである。
「人間は死なない」ということを強烈なバックボーンにするイスラム教と、音楽を愛するキリスト教は、たとえば、ナイジェリアでも激しい勢力争いを現在でも行っている。
イスラムは「ボコハラーム」のように、ヘルメットもしないでオートバイを乗り回したりして、ヨルバと結びついたし、キリスト教はアカンと結びついた。
アフリカは争いが多かったため、「人間は死なない」というイスラム教や、ユダヤキリストは根付きやすかったが、ローマ帝国は「アフリカ人は動物ではない」というメッセージを出すにとどまり、あれほど隆盛を誇ったローマ帝国でも、アフリカにおいては「国境線」を引かざるを得ず、アフリカ全土は掌握していない。
国民が愛し合った方が税収が上がるとしたアウグスティヌスであったが、アフリカにおいてはアカンとヨルバの対立というものをどのように「愛し合う方向に向かせるか?」という困難な問題と直面し、現在の日本のように「鉄道、デパート、住宅地、スタジアム、球団」などといった仕組みを構築しなければ、なかなかアフリカは掌握しきれないだろう。
アウグスティヌスの時代のローマ帝国においては、「アフリカへの拡大は困難」とされたのだ。
ボブ・ディラン 聖アウグスティヌス

アカンとヨルバの対立が、キリスト教とイスラム教の対立になったのがナイジェリアであったが、「人種」の対立となると根の深い問題になる。
韓国においては「学歴も人種である」という結果の平等が広く知られているが、日本国においては、少なくとも「学歴は人種」とまでは言われていない。
アフリカの黒人や、アジアの黄色人種、ネイティブアメリカンのレッドスキン、ノルディックやアルペン、地中海にまでこれらの「書斎人型」(アカン)と「地域連帯型」(ヨルバ)の対立は知られていたが、アカンとヨルバが「同じ肌の色」をしているのであれば、そんなにシビアな対立にはならないのではないか?とも言われた。
「肌の色の違い」「人種(学歴)の違い」となった時にその対立は抜き差しならぬものとなるのだ。
しかし、同じ肌の色をしていても、人間にとって「人種」を作るという営みは人気があったのだ。
「自分とは人種が違う」として口もきかないということそのものに人気があった。
社会進化論においては、アカンとヨルバの対立は「社会の発展のために必要なもの」とされ、同じ肌の色をしたもの同士がわざわざ「人種」というものを作っていた。
ヨルバの「豊かさ」と、アカンの「貧しさ」も対立の背景にはあった。
「親に決められたものは7%しかない」として、アカンとヨルバの垣根を越えていく者もいた。
一方、自分のアイデンティティはアイリッシュ(アイルランド人)であるとして、カトリックを標榜する人もいる。
北アイルランドでは、カトリックと英国国教会が似たような対立をしている。
アカンとヨルバの対立、そして、アパルトヘイトレジームを理解すると世界が見えてくるという側面がある。
アカン哲学というものがあるが、いわば自由民主党であり、なぜ、地域共同体に根ざしたヨルバ(公明党)をはるかにしのぐ勢力を日本で有しているかというと、アカンの方が「勃つ」のである。
ヨルバには「勃たない」男が多かった。
マーガレット・サッチャーは、ザンビア大統領のカウンダについて「アパルトヘイトレジーム」の基本のすべてを理解していたため、「真実の人」とカウンダに賞賛されていた。
アフリカを理解することは本国においても政治力を高める。
同じアカンとしての自由度も高まる。
アカン哲学というものは、昔から存在する「アカンとヨルバの対立」に、カント(口説き文句)を合流させたものである。
地域に根ざしたヨルバが「何かたくらんでるんじゃないだろうな」(オンイェニパ)とアカンは考えるだろうが、ヨルバの男はそもそも「勃たない」ために弱かったのだ。
まるで子供たちのように群れていると、子供たちのように「勃たなく」なる。
また、流産した時に49日をやることは「私たちも人間です」という意思表示であるが、アカン哲学はこれを否定している。
しきたりに詳しいのはヨルバの方だった。
床屋などには公明党は食い込みやすくても、サラリーマンや学者、官僚に公明党が食い込むのは難しい。
子供たちの間にも「クラスの輪に溶け込む者」と「そうでない者」がいるが、ヨルバとアカンの対立が存在することになる。
子孫繁栄と、高学歴の保障、結婚の保障はアカンにしかなされていない。
ヨルバはのちに平気で「バツ2」とか言い始めるが、ようするに「勃たない」のである。
人間は、勃たなければ「橋を作る、道普請をする、公共の場をキレイに掃除する」などの営みができない。
ヨルバはアカンのフリーライダーだとも言われた。
シジュラー(進次郎・次男)は、ヨルバの勃たないフリーライダーなのだ。
小泉進次郎に自民党は向いていない。
クラスの輪の中心にいて、エリートでもなく、今でもコミュニティー型のヨルバの立場にいるため、「橋を作る、道普請をする、公共の場をキレイに掃除する」だけの資金力がないのだ。
公明党の支持がなければ夢が見れない現状がある。
沖縄の珊瑚やジュゴンはヨルバのものである。
抑圧を受け、団結し、痛みを感じる者への夢が「環境」なのだ。
「環境を敵に回すことほど怖いことはない」(小泉純一郎)。
アカンとヨルバが共存している政府与党においては、環境保全は至上命題である。
しかし、アカンにとっては「沖縄でスキューバダイビングした」などと語る女の存在は勉強・研究の邪魔でしかない。
しかし、「家族サービス」はいやおうなしに行わなければならない。
休みの日でも仕事がしたい。
しかし、家族サービスをしなければ、自由に外に出たり、しきたりにしたがった対人関係の構築が困難になる。
ヨルバは「勃たない」けど、女たちの人生とともに歩んでいる。
1980年代から1990年代にかけて「女たちの支持と政治生命を共にする」というディープエコロジーが考えられた。
ヨルバのたどり着く最後の道とも言われ、アカンには到底理解できない「仕事の難しさ」が生じた。
アカンは性欲があるため、簡単に辺野古沖に米軍基地を作る資金力はあった。
しかし、ヨルバがこれに反対したら完全に仕事は止まってしまう。
普天間基地の辺野古沖移設は、政治家に「アカンとしての異常性欲」でもない限り困難だろう。
胸を大きく開けた女たち、男でもシャツの胸を開けている者は抑圧を受けている。
そのような「抑圧」を相手にすることが「環境」を相手にすることだ。
そのような、「抑圧」の問題を、基本から研究していかないと、普天間基地移設は実現しないだろう。
社会の抑圧が解消されるのならば、辺野古沖移設は大歓迎であるが、それがなくして「移設」は実現不可能だ。
黒人社会の、アカンは全米の製薬会社に進出したが、メジャースポーツで夢を見たいという連中はかなりコミュニティーに溶け込んだヨルバから出ていた。
アカン哲学の「ヨルバ憎し」が、マジック・ジョンソンのHIV陽性という形で表現された。
ヨルバによるアカンへのいじめは、まさに、「アパルトヘイトレジーム」に根ざしたものであり、マジック・ジョンソンもその影響を受けざるを得なかった。
マジック・ジョンソン本人は、「アパルトヘイトレジーム解消」のための広告塔として現在でも、ロサンゼルス・ドジャースの共同オーナーを努めるなど、「むしろ得をした」という側面がある。
しかし、セックスできない人間は「自然な笑顔」が作れないとされ、アイドルの中にも「面白くもないのに笑えない」などとへんな言い訳をする者がいる。
「自然な笑顔」が作れないということは、お金から排除されることを意味するが、マジック・ジョンソンは「アパルトヘイトレジーム解消」という活動の理由があった。
ヨルバの出身で、アカンに報復され、しかし、彼のプレーはアカンを魅了したのだろう。
「黒人社会とは何か?」をマジック・ジョンソンから学ばなければならなかった。
彼の「HIV陽性」の認定はダボス会議にまで上げられて決まったものだ。
マジック・ジョンソン

アカンとヨルバの対立は、「そもそも貧しさから生まれた」とし、ジュリアは「パブリックフォーラムの開放」を主張した。
日本国においても、アパルトヘイトレジームは「貧しい学生と主婦の問題に過ぎない」という指摘も可能だ。
ジュリアは「私も高等教育が受けたかっただけ」としている。
そこで、アカンとヨルバの対立は「部落民対女性」の対立となっていた。
アカンを、まるで「豚」のように扱わなければなかなか「ひきこもり」にはなってくれない。
そのため、エリートのアカンに「あなたは豚よ」と貧しい主婦は言ったのだ。
アメリカには広く白人社会が存在したため、アカンとヨルバの「対立の理由」は明らかになった。
日本国でも「Fラン」といってもあんがい難しい大学は存在し、貧しい主婦層が「あなたは豚よ」といっているに等しい現状がある。
「マサイクラブ」というものが黒人社会に存在し、アパルトヘイトレジーム解消のために動いている。
「彼女さえいれば、また、彼女さえ口説ければ」社会人としては即戦力であるという考えがあったのだ。
貧しい主婦層のヨルバに対して、エリートのアカンが怒りを持っている。
すべて、「あなたは豚よ」という「いつか破綻する発言」が原因に過ぎない。
日本国においては、社会の一側面に過ぎないとされる。
酒井法子 軽い気持ちのジュリア

さて、貧しい国には「アカンとヨルバの対立」は必ず存在する。
日本国は「知的労働者以外の入国を認めない」(平成22年法務省見解)としている。
つまり、アカン以外に入国を認めていない。
アメリカ合衆国は、カナダからの入国には何の条件もつけておらず、カナダそのものが貧しい国ではないことから問題は生じていなかった。
しかし、メキシコからの移民は同じではない。
何の条件もつけないと「アカンとヨルバの対立」がそのままアメリカ合衆国に持ち込まれることになる。
「安い労働力」と安易に期待していると、とんでもないトラブルのもとを引き受けさせられるのだ。
ヨルバによるアカン潰し、そして、アカンによるヨルバへの報復などトラブルのもとは尽きない。
しかし、カナダやスウェーデンは「なんらかの形で国に貢献できる者」という条件を移民に対してつけている。
9・11テロはこのような「トラブル」が表面化したものだ。
「アパルトヘイトレジーム」はそれほど憎悪の対象であった。
「社会はもっとオープンである」ということと「白黒はっきりさせるスポーツの世界」の存在はきわめて重要だ。
また、国境をオープンにするということは「性への寛大さ」が必要となってくる。
そうでなければ「病人」を国が受け入れることになりかねない。
「難民」というのはほとんどがアカンであったため大して問題にはなっていない。
ゲストワーカーには「アメリカ人ですら口説いていいんですよ」というメッセージが必要だった。
ケニアのトップアスリートを「リクルート」する形での移民も存在するが、アメリカ合衆国にはもはや才能は十分にあるということを自覚する必要がある。
日本国はいまだ外国人選手に頼らざるを得ない現状がある。
外国人に頼っているうちは「医学」「看護学」でも遅れていることを意味する。
不法滞在者の場合は「入国しているうちは人生を無駄にする」ということを踏まえ、「子供には別の扱いをする」という考慮が必要になってくる。
「なぜ白人女性は別の人種と結婚したがらないのだろうか?」
それは差別を受けるのが嫌だからである。
メジャースポーツのトップアスリートでもアカンとヨルバという対立は抱えている。
トラブルや差別を避けたいというのならばそれはそれで一理あるだろう。
「世界政府」というものは古典的には、一人の君主のもとに世界が統治されることを意味したが、戦争や貧困、大量破壊兵器が作られ、「政府の階層化」は困難であることが分かった。
ハリー・トルーマンは、「平和な世界、戦争のない世界は素晴らしい」という詩をもとに
国連を作ったが、少なくとも、各人の「譲れないもの」にまで介入することはできないことが分かった。
私も、横浜DeNAベイスターズを勝たせようと努力はしたが、12球団をとってみてもそれぞれのチームのファンが「運命を共にする」のがプロ野球チームであった。
おかげで、私のブログは「横浜のもの」から「日本のもの」に格上げされたが、それが「世界のもの」になることは可能なのだろうか?
私のブログは「アカン」のためのものであり、ヨルバがいる限り世界政府は困難である。
これは冷静に見ておかなければならない。
勉強するアカンと、コミュニティーを重視するヨルバの内戦状態になるだけだろう。
世界の距離はインターネットで近くなった。
しかし、アカンとヨルバの対立を知らなければ「世界の現実」を知らないことになる。
マルクスは、人類の歴史は闘争の歴史であるが、それは「国同士」ではなくアカンとヨルバの戦いであったとしている。
会社を作ってみればそれは自ずから経験で明らかになる。
オーナーの富が根こそぎ部下たちに奪われてきた歴史なのだ。
オーナーは選挙には出れるだろうが、富にはあずかれない。
世界最高の権威になろうとするのならば極貧生活だけが待っているだろう。
それが、アカンとヨルバの対立であり、時にはヨルバは「犯罪を犯さなければ生きていけない」存在となっていた。
しかし、世界最高の権威にはもはや彼らを罰するだけのお金が残っていなかった。
この姿はまるで、布をまとっただけのイエスキリストだった。
世界の王に限りなく近いのがドナルド・トランプだとするのならば、彼のプライベートは限りなく貧しく、プライベートを人には見せようとはしなかった。
私も、トランプにプライベートであった時に「トランプ大統領ですか?」と聞いたらそれを否定し、激怒していた。
世界の王になるほど、部下たちに金を持っていかれ、極貧生活を余儀なくされる、しかも、そんなプライベートを人に知られたくない、それが世界の王だった。
それでも「世界政府」は必要なのだろうか。
世界最高の叡智が極貧生活に陥り、メディアの悪意によって心を病んでいる。
「世界政府」の残骸であるトランプ氏はもはやユニークさも失い、怒りっぽくなっていた。
いったい、世界政府を樹立して何がしたかったのだろうと思った。
これからも、何か他国に脅威を与える発言をするたびに、「男からの無言電話」と「非通知の女からの電話」で脅されるというICCルールが続くものと思われる。
誰もが世界の指導者になれるという混乱がある。
トランプ大統領の末路を見ていると、政治家には「失言辞職」か「固い辞職」しかないような気がする。
失言辞職はのちの世に何も残らず、固い辞職は「物事の考え方」「あの人ならどうする?」というものが残る。
「あの人ならどうする?」というのは世界に影響を与える発想だ。
よく「坂本龍馬」などと言われるが、私は個人的にはそのような人物は想定していない。
宵の明星がまるで火星に「夜の主役」を取って代わられるようなものだ。
宵の明星は「可能性の道」に大きな影響を与える。
これが、人生の末路がどんなものであろうと「固い辞職」にはともなう。
松浦亜弥 可能性の道

バラク・オバマにとって、その「可能性の道」はヘスペルスによって開かれた。
かなりの古典になってくる。
「不安感が隠し切れねえぞ」というキャラは古典にはいないと言っていい。
クリプケが「古典になるには危うすぎるキャラがいる」ことを指摘している。
ラッセルは「現代にまで人気があるのであればいいのではないか」としたが、国家全体を預かる立場というものはある。
ドナルド・トランプがどの古典にしたがっていたのかはのちに明らかになるものと思われる。
月のない夜に、宵の明星は時代を謳歌したに過ぎない。
しかし、それでもなお時代を超えて愛読されることには変わりはない。
過去と未来の狭間の「あなた」なのだ。
昨日も明日も「こんな人」ということが分からなければ仲間も増えないだろう。
あなたが読んでいて楽しい小説、それをみんなが愛するだけなのだ。
それだけで「夢」が叶ってしまう。
異なる時代を生きているのだから、キャラが被ることもない。
なにしろ「アメリカ大統領」の椅子はひとつだけなのだ。
一人娘だけが頼りならば「リア王」になればいい。
後継者を探しているのならば「リチャード二世」になればいい。
後継者になりたいのならば「リチャード三世」になればいい。
女らしく生きたければ「マクベス」になればいい。
そのへんは「舞台」を愛する人の心理だろう。
昨日も明日も「こんな人」ということさえ分かればいいからだ。
関係国が「人物像」を知る機会のない人ならば国の指導者にはなれない。
人物像が分かっていれば、プロレスの世界も関与してくるようになる。
偉い人だと分かっていてもいじってしまうのがプロレスというものなのだ。
鳥居みゆき

悲しみを地球の奥底に沈め、最後の審判が恐くなくなったのは音楽のおかげだ。
ペネロペ・マッキー(ペネロペ)をテレサ・ロバートソンは参考にしたが、テレサ・ロバートソンって誰?と思うだろう。
小説の真似をして気分がいいのは事実であるが、誰もが大統領になれるわけではない。
あるいは、ドナルド・トランプは、私と会って「最も会いたくない人」だと思ったのかもしれない。
すべては、「どんなキャラでも処刑はしない」というイタリアルネッサンスの賜物だ。
「ペトラルカが殺されないのならば誰も殺されないよ」
これがイタリアルネッサンスの始まりだった。
それから、宵の明星と火星の「可能性の道」は開かれた。

なぜ、「固い辞職」の話しをしたかというと、アカンとヨルバの「相互のお付き合い」の可能性が「昨日も明日もこんな人」という予測さえなされれば可能なのではないかと思われたからだ。
一本の映画では心もとないが、それも間違いではない。
ましてや、長編小説を愛することができるのならば、それは「アカンとヨルバの交流」に非常に有意義なものであると思われる。
イタリアルネッサンス、つまり「ペトラルカが殺されないのならば誰も殺されないよ」という現象は、このような方法すら模索する方向性を見出した。
おニャン子クラブ セーラー服を脱がさないで

イスラム(日本国が作ったタイムマシーンによる日本人の子孫)が、アラブを征服したのは7世紀のことだ。
日本では大化の改新があり、朝鮮半島をパワーブローカーとしていた蘇我氏が滅ぼされ、中大兄皇子によって「中国」が選択されている。
ウマヤド・カリファテが「アラブを征服した」と記録に残っているが、聖徳太子とどのような関係にあるかは明らかではない。
聖徳太子は「2000年は安泰」とされた教育制度を日本に持ち込んだ人物である。
アルファラビは10世紀に「クラスは男女同数」となるように仕組んだ。
コンサートを楽しむスンニ派と、ギャンブルに興じるシーア派の区別もなされた。
初めてのロックコンサート

フェアなゲームがなされないと、その地域は「砂漠」になる。
「人間は死なない」
これがいちばんフェアではない。
アフリカや中東が砂漠化する原因である。
モテなくて犯罪を犯しても「その場で殺さない」
これがデュープロセス(フェアプレー)であるが、かなりの反則が横行していたようだ。なにしろ、「人間は死なない」からである。
地獄に行くほど重い罪を人間は犯せないとも言われるが、死刑になったら死ぬのもフェアプレーである。
仏教の「地獄」という概念も、人間は死なないと公言するイスラムに対抗する形で作られたものと見られる。
「200歳の鳥」に対して、仏教は答えなければならなかった。
ラジとかクーナジー(宮内庁)もタイムマシーンを謳歌したようだ。
イブンハルドゥーンは世界史でも知られている。
ハルドゥーンは、マラガで活躍した。
フラメンコを考えた人物である可能性も否定できない。
イスラムというものを考えると、とにかく「学問をやらない」「大学に行かない」ということが指摘できる。
つまり、ヨルバなのだ。
アカンになることを極端に嫌い、共同体で生きている。
日本でも、横浜スタジアムに行くぶんには「ひきこもり」など関係ない。
アカン哲学に真っ向から反発するかたちでスンニ派はコンサートを楽しんだが、シーア派は「ギャンブル」と言っても「資金メカニズムを仕組んでゲームを楽しむ」ということを指しているものと思われる。
東京大学の学問なんて役に立たなかったよ、という私の感想を受けてのことだと思われる。
あるいは、イスラムの中でもアカンがシーア派で、ヨルバがスンニ派であるという指摘は可能だ。
東京大学よりもスタンフォード大学の方が世界ランキングがはるかに上?
だったら高校まで通えば十分だよ。
どんな仕事をしていたかはあまり明確ではないが「歴史の整理」をやっていたとされる。
日本国には「日本IBM」という企業があり、この企業が何を考えるかによっていろんなことが決まる。

帝国主義と植民地主義の違いは明確ではないが、植民地というのがラテン語の「コロヌス」(農場)であることから、農場を求めた拡大主義のことを植民地主義というものと考えられている。
いずれにせよ、他国に「政治的力」を及ぼすことから、アカンとヨルバの違いぐらい理解しておいてくれ、といわれるのがオチなのが本来の姿であろう。
しかし、このことを「理解してしまった」のならば話は別だ。
レーニンが、ソビエトが広大な国土をもっていたからか「反帝国主義」の立場に立っていたことは知られている。
古くは、1130年の第一次十字軍によるキリスト教からイスラム教への攻撃があり、「死にたくないキリスト教徒」はユダヤ教に改宗してイスラエルを作っている。
また、アメリカ大陸も植民地であった。
アメリカ、オーストラリア、アフリカの一部、そしてアジアの「女心」をコントロールしなければならないというのが「植民地主義」である。
北アメリカ、オーストラリア、ニュージーランド、アルジェリア、ブラジルのコントロールまでは植民地主義と呼ばれていた。
しかし、アメリカ合衆国がフィリピンとプエルトリコを支配した時に、世界は変わったのだ。
エリザベス女王は昔から、イギリス連邦を「大英帝国」と呼んでいたが、世界が「アカンとヨルバを理解したのならば」「帝国である」と自称し始めたのだ。
アメリカによるフィリピンとプエルトリコの支配以降、「軍事オプション」なしで他国を支配することは困難となっていた。
植民地主義の時代から「経済的搾取」は行われていた。
「軍事オプション」がともなうのが常識となってから帝国主義と呼ばれたのであり、レーニンが「搾取である」ことを重く見たのは誤解といわれても仕方がないことであった。
スペインによるアメリカ大陸への侵略は「文明化」という理屈があり、「キリスト教を広める」というものでもあった。
19世紀のイギリスが「文明化」を考えたのではない。
また、第一次十字軍は「死なないイスラム」からキリスト教を守るという防衛の目的があった。
スペインによるアメリカ大陸侵略は、トマス神学を背景に、イノセント4世が「王位継承を受けても死ななくて済む」という喜びを表現していたともされる。
しかし、スペインによる「新大陸発見」から200年で25万人のスペイン人の数が1万5千人にまで減っていて、「もはやスペインのものではない」と言われ始めた。
そこで、男らしさって何だろう(法律)というものが整備され始めた。
女たちが語り合う「男らしさ」のことを「宗教」と言うのであれば、権力で定めるのを法律と呼んだ。
デレではなくデディクト、これが法律だと言える。
デレ

18世紀に、カントは「口説き文句を知らないのならば野蛮だ」としていたし、アダム・スミスは「社会の歯車にならない者は野蛮だ」としていた。
この、「女を口説けるサラリーマン」こそが「文化的生活」を意味した。
すると、目の前に広大な大地が見えたのだ。
これが、植民地主義のきっかけだった。
また、ディデロットは「土地の利用の仕方がなっていない」としていた。
フランスやイギリスは「行くしかない」状況にあった。
しかし、マルクスやミルは、「アカンとヨルバの理解不足」から来る「問題点」をひとつひとつ洗い出していた。
東インド会社など問題だらけだったのだ。
帝国主義段階に入ったのはアメリカ合衆国によるフィリピンとプエルトリコへの侵略だったし、アカンとヨルバの問題への「理解不足」を指摘し、「我々は帝国主義ではない」としたのがマルクス・レーニン主義だった。
黒人の側からの「反撃」がどのようになされたかはすでに述べたとおりである。
「大日本帝国」
それは、世界史の「謎」だと位置づけられる。

「緊急避難」
一隻の船が沈み、海には一枚の板しかなかった。二人がつかまると沈んでしまうので一人を蹴落とす行為は緊急避難として違法性が阻却される。

それでいいのだろうか?
これも「アカンとヨルバの対立」に根ざしたものだ。
医師国家試験を目指していた凡田大造の妹が、田畑の質に売られることになった。
当然、処女も失うだろう。
凡田は妹を見送り、その日の夜、顕微鏡を見ていた。
野口清作は「まだ見ているんですか?」というが、凡田は「みえない」と言って大泣きしていた。
「医師国家試験に受からなければならない」
野口清作は「オラも勉強します」と言って教科書を手に取る(マンガ:Dr.NOGUCHI)。
カルネアデスは「一枚の板」をアカンとヨルバが奪い合うことを「緊急避難」と呼んでいたのであり、ヨルバからのいじめに「怒り」を感じて「勉強に励む」ことを緊急避難であるとしていた。
コミュニティーの調和を求めるヨルバにはなんら罪はない。
しかし、アカンとヨルバの間に「妹の処女」という一枚の板が提示されることはあった。
これは、私の祖母・小野(旧姓赤木)元(はじめ)と、兄の赤木制二のことだと思われる。

「コンピューターによるいじめ」
人生の否定、健康の否定、幸福の否定、勃つことの否定、知識の否定、自由の否定、安全の否定、機会の否定。
これがコンピューターによる「いじめ」の最先端である。
タイミングを見計らって「えっ?」と言うだけでこれは可能である。
人生、健康、幸福、勃つかどうか、知識、自由、安全、機会に関する情報を聞き出して、「えっ?」と全否定する。
1940年に、コンピューターと通信線を結ぶことが可能であることを明らかにしたウィエナーによって、このことは想定されていた。
「論証」「論破」ではなかった。
とにかく「お前、女にモテないだろ」というところを狙った。
女にモテる奴は、「ネット上で」「人格崩壊」させることは無理だった。
モテないことを隠して、ネット弁慶を演じている奴しか狙えなかった。
インターネットは、アカン(孤高のエリート)にカントを広めるのに有効だった。
一日中インターネットをやっている人間を潰すことと、社会に出ることを求める効果が認められたため、「インターネット」は世界で認知されたのだ。
人生、健康、幸福、勃つかどうか、知識、自由、安全、機会に関する情報をよく聞いた上で、「えっ?」と全否定することが大事だった。
このような「インターネットによるいじめ」が横行しても、私のブログの読者が増えるだけなのでまったく問題はない。
また、「たった一人を潰す」ことを目的とするため、はたしてそれが自分のためになるのかは明らかではない。
また、「情報源」を全否定することの有効性も知られている。
1980年代は、「たった一人を潰す」ことに世界が熱中した。
1990年代には「だったらモテるためのテキストでも読むか」といってブログが活用された。
1995年は「モテるための情報が国境を越えた」とされる年である。
ヨルバは「アカン潰し」のためならコンピューターも使った。
しかし、1995年を期に「モテるようになるためのテキスト」がブログで拡散して人気を博した。
瀬能あづさ 永遠に友達

「えっ?」では分からないだろうから具体例を考えました。
人生の否定「彼女を得るのも大変だ」
健康の否定「五体満足に生まれるのも大変だ」
幸福の否定「悪いことがあったらスリーポイント欲しいね」
勃つかどうかの否定「プロ野球じゃ戦力外だな」
知識の否定「読んで覚えて書いて覚えて」
自由の否定「世界はそんなに狭くないよ」
安全の否定「コンビニ前に夜中にチンピラがいるな」
機会の否定「学歴も人種だよ」

フレデリック・ダグラスは、このような「ネットでの悪態のつき方」を、インターネット時代が来る前に、いろんな意味で知っており、「アカンこそが奴隷なのではないか?」として、ヨルバの側からアカンの側に「社会参加」の誘いをかけた。
これが「奴隷制廃止運動」であった。
「黒人の中に殻に閉じこもっているやつがいるから、自由州とはいえないんだ」とした。
「南部の空気はうまいな」
なぜならば、知的な人間が家にひきこもっているからである。
「集まらないと宗教が作れない」という意味合いもあったようだ。
白人の「主人」との関係を対等なものにするためにも、ひきこもりはよくなかった。
「主人」といっても「お客さまは神さまです」というような存在だったかもしれない。
農場でこき使われる肉体労働者というイメージから脱却し、より基本に立ち返って「奴隷」であってはならない、キリスト教を信じなければならないという運動が引き起こされた。

詩篇68:31「高貴な者はエジプトから来た」

エジプトとはもはやアジアやアフリカのことであり、アカンを「高貴な者」と呼び、キリスト教社会に参加するように呼びかけた。
この詩篇の該当箇所こそが欽定訳聖書の「奴隷解放運動」を意味している。
「アパルトヘイトレジーム」からの脱却はそのままお金につながった。
勉強したいという欲求は「当然のもの」であった。
ひきこもらなければ勉強はできなかった。
しかし、「ヨルバに潰されるのと、社会に一定程度参加するのとどちらがいい?」と言われた。
私は、東大文一に「一年八ヶ月の」勉強で受かっているが、親は入学式を欠席している。
いろんな意味で「一定程度の社会参加」がともなわなかったことが理由である。
あらゆる罵声をウォークマンのサウンドでかき消したのだ。
学校に行かない、社会参加しないということは「周囲からの暴力」にさらされることを意味する。
「周囲からの暴力」に自尊心が悲鳴を上げていた。
それはまるで「孤立した主婦」の悲鳴と同じだった。
孤立した主婦は、助けを求めるために、4~5人程度でつるんで、つかの間の自由を味わった。
夜中に町内をつるんで歩いたり、誰かを尾行したり、学校の先生を接待したり、周囲から見れば「アホか」と思うようなことをやっていたが、とにかく「自尊心が悲鳴を上げていた」のである。

「歴史」の人気は、人間の「性的感度」に強烈な影響を与える。
その人が持っている「マンガ」であったり、「変化」に強くなることであったり、事件にまつわる「女たちの役割」であったり、現在、達成したい目的があったりする場合に歴史を紐解くのだ。
「力とは何か?」「選択とは何か?」「現在自分が置かれている環境はすでにあったもの」なのか。
本来、「勉強」するものであったはずの歴史が、「力」「選択」「環境への適応」を引き起こしてくれるのだ。
緊急避難に関する記述で記した「凡田大造」というのは、私の祖先の赤木制二であり、妹が、祖母の小野元(凡田さゆり)である。
個人の行動や社会の構造、時代と地域、文明化の度合い、人々の後悔、それらへの「神聖な介入」をすること。
それらが、モテることにつながり、組織を向き合う上で都合がよく、自分の方向性も決める。己の見識が問われるものでもあり、現代に生かされる。
出来事や時代背景に人気を与え、「何が起きたのか?」「どんな環境だったのか?」を、多くの歴史家の文章を読んで感覚を磨き、自分のご先祖様の発掘をする作業は楽しいものであった。
野口英世に関する歴史が非常に役に立った。
野口英世は私の曽祖父だったからである。
スペインでのファシズムの台頭や、オスマントルコの崩壊、リーマンショックなどにご先祖さまはなんらかの形でかかわっている。
アカンとヨルバの対立は当然理解しなければならないが、スペインでのファシズムの台頭はアカンによる緊急避難という側面が強く、オスマントルコは崩壊し、リーマンショックでは女の「貞操」への信頼が大きく揺らいだことを意味した。
赤木制二は、スペインで「フランコ」と呼ばれている。
なぜ、1870年にプロイセンの軍はフランス軍に勝ったのか?
どのように、1948年の大統領選挙でトルーマンはデューイに勝ったのか?
このあたりに、「ご先祖さま」をうまく位置づけなければならない。
人間の「強い意思」が表現されたのはこのあたりであろう。
アウンサンスーチーはなぜ、ミャンマーの独裁者に弾圧されたのか?
第二次世界大戦ののちになぜ人種差別が行われたのか?
すべては、アカンとヨルバという対立を見なければ分からない。
「何が、なぜ、どのように」
このような見方をしながら、系図をたどり、本を読み、両親に話を聞いてみる姿勢が重要になってくる。
すべて、あなたが「女を口説く才能」があればの話である。
自分が社交性がないのに祖先のルーツをたどっても意味がないという側面がある。
純潔の娘たちに囲まれたローマ帝国の王室はなぜ滅び行く宿命にあったのか。
そして、なぜ「フロイトファシズム」が隆盛を極めたのか。
アカンの人間は戦わなければならない理由がある。
中国は大陸の国である。
しかし、日本は「ご先祖さま」を通じて世界展開をしている。
「王朝」とさえ言えばいい国なのだ。
「村」をより大きなものにするという発想は日本人特有のものだ。
フランコの力を背景に、妹の元(はじめ)は、中曽根康弘と結婚したり、Winkをセールスに出したりしていた。
Wink 涙をみせないで

「ご先祖さまの探求」「歴史」は、己の力を最大化させる。
祖先の歴史は一定の方向性を持っているのだ。
「顔が生き写しだ」から始まって、時代背景は違えども、方向性を持って生きる宿命にある。
文化から文化へ、新時代から新時代へ。
この人の子孫であるということも「さもありなん」というのでなければ、祖先というのは本来語るべきものではない。
しかし、老境にさしかかって、自分の人生を省みる上では、ご先祖さまってどういう人?というものに興味を持つのはまったく問題がない。
私の4代祖先の小野光右衛門はビスマルクである。
ナポレオン三世になぜプロイセンが勝ったのか。
あるいは、スペインファシズム、トルーマンがなぜデューイに大統領選挙で勝ったのか。
リーマンショックなどを見ながら、「ご先祖さまを世界に位置づける」のが日本国の「王朝」のあり方であり、中国とはそもそも発想が異なる。
歴史とは「発見」されるものである。
私が、ビスマルクの玄孫であるとか、フランコの妹の孫であるとかも、「業績を残し」「女の子を口説く」哲学の歴史を踏まえて「発見」されるものなのだ。
明治天皇=福沢諭吉=ビスマルクでなければ日露戦争には勝てないだろうな、などは、実際にワールドカップの司令塔をやったりしてみないとわからない。
また、フランコについては、緊急避難という議論の常識をくつがえしたり、アカンとして生き、ヨルバの攻撃に「自尊心が悲鳴を上げた」経験がなければ、「フロイトファシズム」の発見に、JPOPを利用しようなどとは考えない。
この祖先にしてこの孫ありということを証明しないと、歴史は「発見」されないものだ。
そもそも、歴史とは、大英帝国やフランス、イギリス、ベルギーで必要とされたものだ。
アジアやアフリカ、南アメリカで「興味のあるヨーロッパ人」を見つけて欲しかったのだ。
そうでなければ、横文字を読もうとは思わないのが植民地の人間だった。
そして、「世界の複雑性」を知ってもらいたかった。
小野光右衛門がビスマルク?赤木制二がフランコ?
あの人が?
周囲の人の率直な反応はそうであった。
しかし、世界の指導者はそうは考えていなかった。
芸能界の現実を知らなければそのような「歴史への嗅覚」は身につかない。
大日本帝国は、中国北部(満州)に「高貴な末裔」を集めたのだ。
勉強や研究さえやっていれば、かならず「いいバック」はついてくるのが歴史学というものだ。
それほど、歴史というものは「眠っている」ものであるし、活躍すれば「目を覚ます」のが歴史というものなのである。
学の実らない時期は、体調が悪い。
社交性もなく、閉鎖的な空間で食生活を送っているために、WHOが介入できない食生活を営まざるを得ず、朝鮮人は日本人のこの部分を狙ってくる。
「一ヶ月に一回風邪を引く」などという人はそのような「学の実らない」時期にいることになる。
WHOは、日本人の食生活に介入したがっている。
できれば、閉鎖的空間で過ごすアカンに、ヨルバから攻撃されないようにしたいと思っているのだ。
しかし、「一ヶ月に一回風邪を引く」のならば、アカンとしての自分を見直さなければならない。
一週間や二週間寝込むぐらいならば、より社交性を持ったほうがいい。
人の健康は社会の関心事である。
「あいつの食べ物に毒を盛ってやった」という朝鮮人や、「特殊技術で腰にダメージを与えてやった」という出雲大社のように、周囲が喝采を浴びせるような「健康にまつわるいじめ」は確実に存在する。
しかし、それはあくまでも「女仕事」である。
よく、OLさんが、上司のお茶に雑巾を絞って入れると言われるが、上司は、それを承知でお茶を飲まなければならない。
職場では紳士であれという儀式のようなものだ。
あるいは、社交性のある上司ならば、OLさんも「あの人に何かあったら大変だ」といって、お茶に毒を入れるのをやめるだろう。
いくらキャリアが長くても「ずっと課長補佐」という人は確実にいる。
健康上の問題なのだ。
哲学を知り、興味を持って女性たちに話しかけていると必ず出世する。
女性たちは、朝鮮人や出雲大社を憎むようになるだろう。
そうならないためには、朝鮮人や出雲大社は、社交性のない人間を選ばなければならなくなる。
「健康面でのいじめは人気がある」という側面は確実に存在する。
健康でいたければ女性たちと話そう。
それが健康運や金運につながるからである。
WHOは「公(おおやけ)」というものを、その国の中にとどまらず、世界レベルまで広げた。
「あいつの食べ物に毒を盛ってやった」「特殊技術で腰にダメージを与えてやった」という朝鮮人や出雲大社のような存在を「世界レベルで有名にした」のだ。
出雲大社の千家国麿氏は夜勤の警備員をやっているが、なぜ、「自分たちに人気がなくなった」ことに気が付かないのだろうか?
荘厳な社を有している自分たちの「判断の誤り」を修正できないのであろうか?
アカンとヨルバの「抜き差しならない対立」「アパルトヘイトレジーム」が存在するから「健康に関するいじめ」は人気があったのだろう。
いじめられたアカンには世に出て行くためのチャンスは山ほど用意されている。
そのため、WHOは「公」というものを世界レベルのものとしたのだ。
人間の半数は女性である。
民主主義がマジョリティディシジョン(多数決)だとするのならば、女と話さないほうがバカを見ることになる。
そこに、「女仕事」としての「健康に関するいじめ」が入り込む余地がある。
民主主義の生成過程がアカンとヨルバの間に存在するのだ。
食べ物はWHOルールにしたがっていたほうがいい。
しかし、親戚の女の子たちにモテるお正月の宴会や、おじいさんが家に来た時などには「父」が「食べ物に毒を混ぜる」という女々しい側面を見せるし、閉鎖病棟にいても、ふくよかなヘルーパーさんに「痩せている子が好み」と言ったり、暴れん坊を撃退して「女の子たちの英雄」になったりすると、看護師ですら、「食べ物に毒を混ぜる」ということを行っている。
「健康に関するいじめ」が人気があるうちはこのようなことはおさまらないのだ。
アカンとヨルバの対立に根ざしたものであり、ヨルバが喝采を浴びせるのならばヨルバは「笑いながら」「自慢しながら」」健康に関するいじめをやってくるだろう。
フレンチレストランで「お皿の交換」は禁じ手だ。
「ここはニューヨークではない」という意思表示なのだろう。
國府田マリ子 愛のcrazyエプロン

CDCもFDAも、男に「女性たちに哲学を語ってくれ」という要求を行っている。
それができるのならば、「健康に関するいじめ」はなくなるのだ。
出雲大社が私に「外にすら出て欲しくない」として「特殊技術を用いた腰への攻撃」を行ってくることからもこれは明らかである。
「人気があるうちはやる」「女々しい仕事」なのだ。
テレビで鳥インフルエンザ(H5N1)が流行しているとか、アフリカでも「エボラ熱」の存在が指摘されるたびに、女性たちは喜んで「健康に関するいじめ」をやってくる。
セックスは男女問わず「嫉妬の対象」である。
モテるようになっても「異性とのコミュニケーション」だけは忘れてはならない。
女ならば常識として「健康に関するいじめ」の存在は知っているからである。
「人は働いている限り死なない」とするマルクス主義は、本来、「人生に飽きない限り死なない」とするユダヤ教を、ユダヤ人家庭出身のマルクスがイデオロギーとして引き込んだものだ。
貧困層の女性は、就職をする。
しかし、「東大生とのお食事会」などという主婦層のランチの楽しみを標榜するゼブラ(あるいは創価学会)の方が「主婦というものをより理解している」とされた。
外国国家にODAを送って、各国政府の官僚や大企業の息子(アカン)が「缶コーヒーやアイスクリーム」を多数派(ヨルバ)におごったら、女の子までついてきてしまう。
そのような、ODAの「賄賂」の現状と「自分たちの子育て」に詳しいのは皇室よりも、創価学会だろう。
しかし、中小企業に「就職」した女は「人は働いている限り死なない」というマルクス主義に共鳴した。
階級と仕事は「アカンとヨルバ」という軸で斬っていかなければならない。
ゼブラや創価学会に属する階級の娘は「英語ダメだあ」で済んだが、
貧困層にとってはそんな悠長なことは言ってられなかった。
マルクス主義の女にとって「願い」とは「出産」のことであったが、ゼブラや創価学会の女にとっては「子育て」こそが願いだった。
真冬の観覧車

エンゲルスは、家族の起源と、セックスという私有財産、そして国の関係を論じた。
マルクス主義女と公明党女の間に「願いは出産か子育てか?」の対立が生じた。
日本は豊かな国だったため、「子育て」派が勝ち、公明党は政府与党に入った。
「男」(肉体派)の資本主義(体が資本)が冷戦に勝利すると、ベーシックインカムも円滑に推進され、肉体派も豊かになった。
肉体を競い合う者は男の多数派(ヨルバ)だった。
インテリがアカンとなったのだ。
女たちは、「ベーシックインカムが成立して所得が同じならば肉体派がいい」と言った。
ここにも、ゼブラや創価学会とマルクス主義の対立が複雑に生じた。
「激しいセックス」
それは女たちの憧れだった。
あるいは、ベーシックインカムが成立したため生まれた「けっこう金を持っている肉体派」と結婚したがる女を「社会主義フェミニスト」と呼び、それでも、職業柄、インテリと住み分けていたとされる。
「男」(肉体派)、資本主義(体が資本)を語るのならば、マルクス主義女・社会主義フェミニスト女が多数派(ヨルバ)だった。
肉体を競い合わない男はいないという観点からも、肉体派はヨルバであり、インテリはアカンだった。
女はそれにしたがっていた。
そこから、インテリの妻・ゼブラ・創価学会が「暗躍」を始めたのだ。
女に「アカン」はいないのよ?
それがゼブラや創価学会のエネルギーとなっていた。
DVの原因は、セックスのし過ぎによる女のノイローゼである。
夫に罪はない。
しかし、「子供にも罪はない」
このことから、ゼブラ・創価学会は、激しくマルクス主義・社会主義フェミニストを批判した。
高橋由美子 ぼくをぶたないで

また、中・上流階級の女は「純潔」を主張したりもした。
「純潔アイドル女」は家事も子育ても「お手伝いさん任せ」にしたがった。
「セックスしてお金も払わず、家事子育てを任せるってどういうこと?」
フェミニズム第二の波の誕生だった。
「やれやれ」
夫は土日の家族サービスに向かった。
アカンの男は「子供の成長」すら観察していた。
ヨルバの男は「詳しいことは分からない」としていた。
インテリ男(アカン)の妻は、夫の子育て論すら学習してゼブラや創価学会のエネルギーとしていた。
マルクス主義・社会主義フェミニスト女は、夫にぶたれただけで政治活動にのめりこんで行った。
インテリ男(アカン)は「子供の気持ちを味わうというセックスって何かな?」と子供を眺めていた。
しかし、女たちの多数派工作は容赦なかった。
「女にアカンなんていないのよ?子供たちの気持ちもよくわかっているわ?」としてゼブラや創価学会がマルクス主義・社会主義フェミニスト女とぶつかった。
自民・公明・立憲民主・国民民主・社民・共産などが「誰が最もうまく論点を整理したか?」を争った。
「男の肉体」が好きな女と、インテリ男の「心」が好きな女がとにかく混乱したのだ。
女にアカン(少数派)などないという考えが背景にあった。
そこで、政治コミュニティーにお金が流れ込んできた。
とにかく、政治が「仕事」として成り立ったからである。
「誰だ?肉体労働者に金なんてやったのは?(ベーシックインカム)」が事の発端だった。
男の肉体を愛した社会主義フェミニストは「人の心」を知っている精神科医を崇めていたため、精神科ビジネスにまで政治マネーが波及した。
社会主義フェミニストはお金があったために、「人の心」の探求が発展した。
「マルクス・フロイトが出揃った!」
女たちは、社会主義フェミニストのおかげで発展した「エンターテイメントビジネス」を楽しみ始めたのだ。
「本来の女の争いなんてどうでもいいの。面白い政治家に投票するわ」
これがポストモダニズムとなった。
本来、女にアカン(少数派)など存在しないはずだった。
しかし、メディアは縦横無尽に「女たちの心」を操った。
「個性」(アカン)
そんな言葉すら女たちの心を支配したのだ。
自由民主党の時代の到来だった。
ブラウアーは、「質と量」と探求する哲学を学び、人生の余生は「歌の世界の英雄」として、「量」を探求するだけの数学者として生きた。
酒井法子 秘密のガーデン

数学と言っても、論理学に近く、私自身は「論理学は読み飛ばすに限る」と考えていた「ロジック」の世界を「ちょっと読んでみようか」と考えたものと思われる。
「女の子を口説くのがうまいおじいさん」として、数学に没頭し、その数学の可能性は多くの分野に及んだ。
お金がなければ計算したところで、宇宙にもいけなければ建築物も立たない。
タンポポ 王子様と雪の夜

数学は東大入試で散々やったし、センター試験は物理を選択していた。
教科書もいまだに持っているが、「論理学」の難しさだけは理解していた。
あとは、女の子を口説く言葉を考えて「お金を集める」ことが仕事となっていた。
アカンではあったが、数学者としては土木・建築など何でもできたのでヨルバと和解するのに十分すぎる余生となった。
時代は彼の哲学者としての経歴に敬意を払い、歌のモチーフにしていた。
松浦亜弥 ナビが壊れた王子様

グローバル化とは、政治(女心の定義)、経済(男が女を愛する気持ちを利用するもの)、そして、それらと「宗教」(男らしさを語り合う論壇)などを交えた文化の「世界レベルにおけるトレンド争い」が行われることを意味する。
初期リベラル(高校生文化)の性欲の方が、大人のリベラル社会よりも強いため、高校生文化が大人たちに影響を与えている。
そのため、グローバル化は、「世界の高校生文化」の争いにまでその起源を見出さなければならない。
高校生に分かる話をしないと、グローバル化の世界をリードすることはできない。
松浦亜弥 笑顔に涙

トルコかポーランドかハンガリーかアメリカか、この四つの国の指導者が「高校生文化」をリードするのがうまい。
高校生は、大人よりも「戦っている」のである。
その文化を顧みることを知っている世界の指導者は限られている。
それほど、グローバル化をリードする「柔らかい」指導者は少ない。
エルドアンとかトランプなどに限られているのだ。
どの国の指導者も、国家統治に関する「大言壮語」を政治だと考えている。
そのため、グローバル化をリードするのはトルコかポーランドかハンガリーかアメリカに限られているのだ。
1970年代に西側諸国で「国の指導者の発言をクラスで語ったらモテた」という経験が重視されていた。
1839年に、ナポレオンの記録をイギリスのジャーナリストが書いたが、
「高校生の支持を得たために、パリからドイツ、そして北海を見た」と記されていた。
1848年にマルクスは、大卒(ブルジョアジー)は、住みたいところに住み、関わりたい人と関わってるとし、大学進学の夢を高校生文化に持ち込んだ。
マルクスは「革命」というものが高校生文化に依存してしまっていることを悟った。
「まだ、選挙権もない年頃」を狙う政治家もいなかったし、それが「グローバル化の秘密」だと知っている者もいなかった。
「市民になるため」「戦っている」世代を狙わなければ、世界の文化トレンドを支配することはできなかったが、一方で、政治家にとっては「票にならない」仕事でもあった。
そのため、かなり安定した政治基盤のある政治家でなければグローバル化のリーダーになることはできなかった。
松浦亜弥 女子高生の主張

高校生にももちろん、アカン(少数派)とヨルバ(多数派)の違いがあった。
しかも、大企業や官僚の息子、大学教授の娘などは少数派だった。
しかし、毎日学校に行っていたし、そのような意味では、高校生ほど有意義な政治フォーラムはなかったのだ。
「大人の事情」を知らない高校生が、リビングルームで世界規模のイベントの勝敗を決めていた。
お金はなかっただろうが、グローバル化というものはそういうものだった。
インターネットで「国の指導者」の発言を読んで、教室で話したらモテた。
そんなことがグローバル化の基本であったし、東京の高校の話題がブリティッシュコロンビアと同時進行していた。
政府首脳は数週間外国に滞在しなければできないことが、高校生は同時進行で行えた。
「票にならない」グローバル化に興味を持てるかどうかが問われた。
Melody シルバーリングに口づけを

そうとう勉強しなければ人間というものは丸くはならない。
ナポレオンやマルクスが19世紀に知っていたことを、現代では世界の指導者がほとんど知らないのだ。
国の指導者の発言を小論文に書いたら90点取れるのか35点しか取れないのかの違いは国の指導者の力量に大きく影響を与えた。
高校生の「裏切られた感」は、大学入試を通じて大人たちにも伝わる。
外交アリーナは、常に「グローバルな影響力のある指導者」に関心を持っている。
地球が暑いのは「オゾン層の破壊」と言ったほうが高校生には分かりやすい。
たとえそのような現象が存在しなくても、「オゾン層の破壊」について話し合うと言えばグローバルな活動が保障された。
ribbon ゆるせない

「革命」というものもそもそもが「高校生が望んだもの」だとマルクスは見抜いていた。
大人たちは「革命とは何か?」を定義しきれなかった。
マルクスは「人間は労働している限り死なない」と言ったが、これが「大人の側」からの答えだったし、レーニンは「フロイトファシズム」を用いた。
スターリンは「相対主義」を用いたし、トロツキーは「サンタクロース」を用いた。
CoCo 冬の微粒子

高校時代に「スタンフォード大学と普通に接していた」。
これがエリートかどうかを決める重要な指標となっていたのだ。
小泉今日子 アフロピア 歌詞

 

さて、ブッダには「弥勒」と「菩薩」と「弥勒菩薩」の三人の弟子がいたが、弥勒(熊谷さん)と菩薩(貝和さん)の関係は微妙なものであった。
自分が、ブッダの母である弥勒菩薩(登始子)の財産を横取りしてやろうと考えた菩薩に対して、弥勒は「女に少数派などない」と弥勒菩薩に訴えた存在であった。
ブッダは、菩薩を憎んだ。
しかし、弥勒菩薩にとっては「少数派」だった自分を救ってくれた存在であった。
弥勒と菩薩の関係は、弥勒の方が「創価学会」というバックを持っていたことにある。
しかし、ブッダ(ゴータマ・私)は、弥勒菩薩という存在を、弥勒と菩薩を巧みに利用しながら導かなければならなかった。
弥勒はアニメ「犬夜叉」や「ナルト」で知られており、しかし、菩薩は「ボディサットバ」という意味であり、女たちの「夢」を戦争に用いた人物だ。
日本に広く広まったのは「弥勒菩薩」であり、武田鉄矢の「母に捧げるバラード」がヒットする温床になった。
海援隊 母に捧げるバラード

日本人ならば、「朝鮮人の菩薩」の排除のために、息子は「王子」にならなければならなかったし、弥勒をうまく活用しなければならかった。
それが「きれいな国」(浄土)というものであり、このことをどの日本人も悟れる(大乗)ものだとされた。
日本と言う国が「きれいな国」であるためには、ヨーロッパやアメリカ、中国に対して常に心を開いていなければならないし、女性たちとの交流を断ってはならない。
朝鮮人は汚い、しかし、菩薩であるということが問題を難しくさせている。
「いつもアメリカやヨーロッパ、中国に対して卑屈」であることから、朝鮮人と関わると「王子は外国に詳しくなる」とされている。
王子さま次第、どこまで「アメリカ合衆国、ヨーロッパ、中国を学ぶか」次第というのが仏教の教えなのだろう。
朝鮮系の芸能人(サクヤムニ・菩薩)が、阿弥陀(弥勒菩薩)に教えを説くことから、弥勒菩薩の息子の人生は始まっている。

アフリカの植民地独立運動は、アメリカ合衆国のメジャースポーツで黒人が活躍する様をアルジェリアなどがエルモウジハードという新聞に書き立てることでヨーロッパに悲鳴をあげさせてきました。
ド・ゴールは少なくとも悲鳴をあげています。
そこで私は4月22日(月)に、中国大使館に電話して「日本人のメジャー挑戦をどう思うか?」という趣旨の話をしました。
ド・ゴール同様に中国も悲鳴をあげるかと思ったからです。
ところが、反応は全く異なるものでした。
「横浜DeNAベイスターズの連敗」が始まったのです。
もはや、仏教の「美男美女」の作り方、「女らしさのクリエイト」そして「予言」という3つからなる「らんま三分の一」も通用しません。
そもそも、中華人民共和国の「国家の富」を日本の市民球団あるいは企業同士の争いに持ち込むこと自体、「反則」とも言えますが、とにかく横浜DeNAベイスターズは勝てなくなったのです。
このメッセージを、横浜DeNAベイスターズファンおよびサンケイスポーツに伝えたかったのです。

まあ、インターネットというのはペンタゴンのシークレットケーブルネットワークであり、ビスマルク(小野光右衛門)が、ドイツ中産階級に「政治を知ってもらおう」という夢を持っていたことが実現したものだ。
イギリスは「海底ケーブル」などというものは想定していなかった。
ロシアも最近、ペンタゴンに対抗できるインターネットを模索している。
今のシステムだと「アメリカ有利」にことが進む。
中国テクノロジージャイアントが「5G」というものを考えた。
私はペンタゴンのシステムにしたがって知性を養わざるを得ず、中国の5Gとも縁がない。
今日は中国の5Gにやられた。
しかし、ペンタゴンの力も一定程度、見せつけることができたし、これが私の国際関係論(男がどのように知性を育むのか)なのだ。

もし、中国語ができる「5Gスパイ」が日本に登場するなら、おそらく私よりも強いだろうが、私もいずれは5Gスパイをやらなければならない。
どう、時代に適応するかが大事であるし、モバゲーとしても5Gスパイの育て方は研究しなければならないと思う。

中国の5Gスパイは、1919年の五四運動にまで遡らなければならない。
ベルサイユ条約(第一次世界大戦)に参加し、「イギリス・フランスと対等である」と主張したのだ。
この時、アメリカ合衆国は、中国を「家の中の友人すら裏切る連中」と位置付けている。
虐げられた子供達ばかりが多く、中国全土に「勉強熱」が広まっていた。
「中国を救え」
世界に運動は広まった。
中国共産党の誕生だ。
「新しい波、新しい人生、革新、新しい社会」
世界が自分の人生の不満の解消を北京大学に託した。
1966年に毛沢東が「ニュープロレタリア文化大革命」を引き起こしている。
「子供の頃の記憶を忘れるな」
これは、今の日本の部落民と似ていた。
天安門事件で江沢民は「世界が中国を見限った」のを悟った。
「北京大学への世界の期待感など消えて無くなった」
虐げられた子供たちももはやいなかった。
5Gスパイが、日本のプロ野球選手に勝手に景品を贈っている?
世界は「豊かになった中国人」のために団結しようなどとはもはや思っていなかった。
100年経って中国は自らの国の行方を見失ったのだ。

CIAは、911テロを「自らの組織の大惨敗」と位置づけ、ロシアの「女ネットワーク」を知り尽くしたKGBを参考に、USIAを立ち上げた。
KGBによるウィキリークスにもオバマ政権およびヒラリー・クリントンは翻弄された。
ロシアとアメリカは「情報冷戦」時代に突入したため、スタンフォード大学は「オープンインテリジェンス」を標榜し、「ペンタゴンの優等生になりたい人はなって」と言って高度な学術論文を世界に公表した。
ウクライナのSA11が、マレーシア航空17便を撃墜した時に、スタンフォード大学の世界化は確定した(2014年)。
AIを利用したInQtellが、資金集めの方法を世界に広め、それはそのまま横浜DeNAベイスターズに利用された。
ダン・コーツは、「情報によって自滅しないように」と言って5Gスパイの限界を指摘している。

チンパンジーは、98%が人間の遺伝子と同じであるが、「愛国心」の研究に役に立つ。
「一匹で食事を食べている自分に気がつく」
この時に、谷から他の谷に攻撃を仕掛け、他の孤独なチンパンジーが「4匹仲間がいると」勝てる。
これが人間でいう「愛国心」の起源だ。
勝てさえすればいいと言って非常に偏見に満ちたイデオロギーを持ってしまうとされる。
昨日の彼らは今日の我々、とも言われる。
一人で食事を食べていることに気がついた人間に、いかに横浜ファンになってもらうかが大事なのであり、横浜DeNAベイスターズにはなんら「偏見に満ちたイデオロギー」はない。
改革なのか革命なのかが問われるが、今の横浜DeNAベイスターズが優勝することは「革命」に近い。
「一人でランチを食べている男」に、どのような健全なイデオロギーを与えるかというのも日本愛国主義と共に歩む横浜DeNAベイスターズの球団フロントの仕事なのだ。

横浜BoyStyle

2019年4月18日 (木)

道徳(多数派工作)。

人間は「死なない」ためには、人生の意味や仲間を作る必要がある。
そのための研究が「道徳」(多数派工作)の研究だ。


道徳とは、「仲間作りの方法」という意味であるが、まず最初に議論しなければならないのが「一匹狼」であろう。
女の話を否定したことから、仲間作りの「知識」を見失い、セックスと彼女から遠ざかり、真実を見失い、それでいて「女たちが常に彼の話題をする」ものである。
新田恵利 Only Lonly Boy


常に「新しい知識を学習する」のにもっとも適した発想であり、みんなが「ああなりたい」と思っていた。
私たちは奴隷なのかな?自爆テロは生きる目的を見失った者がやるのだろう。児童虐待は女のノイローゼが原因だ。
一匹狼は「トラブルから無縁である」ことから生まれる立場だ。
勉強をしたければ孤独を知ることだ。
学んだ人間はみなそう思っていたため、道徳(仲間作りの方法)の研究の出発点として、道徳の世界の「スター」となったのが「一匹狼」である。
レベッカ Lonly buttefly


日常生活というものを否定し、カップルというものに目を背け、とことん勉強したら、答えは「愛」にあったことに気が付く。
愛を知らなければ「何も知らなかった」ことに気が付くのだ。
名門の家庭に生まれた者は、一匹狼から学校生活を始めなければならない。
他の男を見下すことから、成績は当然良くなる。
女の子は「彼の人生を邪魔してはいけない」と考えるか、「メチャクチャにしてやりたい」と考えるかのどちらかだ。
CoCo メロディー


何しろ仲間が本当にいないため、みんなが共有している情報に疎く、仏教の「肉を食うな」という言葉にすら影響されてしまう。
彼女がいないため、親も「この子にはお金は必要ない」と考え、身なりも貧しい。
Complex Rambling Man


エリートも行き着く先は「恋ばなの勉強」である。
しかし、中学高校時代は「なぜ面倒な人付き合いをしなければならないんだ?」と考えていた。
強烈な目的意識があったし、勝負の世界に身を置いていたため、敗者を見下す宿命にあった。
得てして「学問体系」を構築する宿命にある男は、中学高校、時には大学においても「一匹狼」であった。
いろんな「いじめ」に直面したが、痛みを知っている分、のちに多くの政策をゆだねられることになる。
ヒトラーの言葉に感化されやすく、「死への崇拝」「知識への崇拝」を持つようになる。
「頭がいいとモテる」
異性とのトラブルで孤立するよりも、何かを得た方がいいという考え方である。
東大は合格するだろうが、その後の人生の複雑さを考えると、大学に入った時点で「発想の切り替え」が必要になってくるだろう。
うしろゆびさされ組


しかし、男の子も「男」にならなければならないし、女の子も「女」にならなければならないのが教育というものだ。
教室で、「男の子たちにとって何が気持ちいいのか?」と言われたら「女の子」と答えるしかない。
目の前に人間がいたら、とにかく「どけなければ」ならない。
そのために、利用できるのは「女の子」しかない。
若い頃は「力でねじ伏せる」ことができるだろうが、大人になったらそうはいかないことを悟る。
暴力的ではなく、ソフトな形で「クラスに溶け込む」ためには「女の子」をうまく利用しなければならない。
私は、高校二年生に進学するときの名簿を見て、このことを知らなかっただけで絶望的になった。
CoCo 君の歌、僕の歌


「クラスの女子の名前ぐらい覚えておけよ」
これが最後に教訓となった。
仲間作りのための強力な武器だからだ。
もし、カップルが出来上がったら、おのずとクラスの輪から離れていくだろう。
そこで、「教室残留」を決め、勉強ができるのだ。
教室を脱落するのはいいことではない。
しかし、「女の子の話」もできずに、暴力に訴えるしかないのも好ましいことではない。
「勉強も最終的には”恋ばな”の研究になる」
それも踏まえて、恋ばなの「複雑なフォーメーション」に詳しければ、勉強も簡単になる。
恋ばなの「複雑なフォーメーション」は、多数派工作(道徳)の「真剣勝負」とも言われた。
「武闘派」になるよりも簡単な方法はある。
とにかく、クラスの女子に「口説き文句が得意」であることが知られていなければならない。
人間が「死なない」のならば、教室のスリルほど楽しいものはない。
クラスの女の子は「おちんちんがないない」と思った時に、言葉の感覚が鈍るとされている。
それでも「長話」は聞かなければならない。
さよなら失恋ピエロくん


「世界からいじめられる」方向に働く作用を「いじめから世界へ」という方向に変えていかなければならない。
知識というのはそれだけの力を持っている。
今がすべて、と言えるときはマスターベーションかセックスしかない。
それ以外は、日常が続いていく。
しかし、試合やテストは「今がすべて」だろう。
つまり、マスターベーションやセックスが集約される瞬間なのだ。
CoCo お願いHold me tight


成績が優秀ならば、女の子たちは「お金」の存在を嗅ぎ付ける。
ガス代電気代がなければそもそもいい成績は取れないからだ。
男たちの「嫉妬」もそこから生まれる。
成績は「おちんちん」へと翻訳され、「どの女が目当てなんだ?」と周囲から思われる。
カップルが成立すれば教室から足が遠のくし、「問題を起こす」とは「二人の男」「二人の女」が喧嘩することを言う。
男同士ならば殴られるし、どの事件でも「二人の女」が登場する。
事件があるたびに「自分の方がいい女なのに」といって論点が見えなくなるのだ。
ribbon 真夏のフェミニスト


処女は、成績(お金)に敏感であるし、それでいて「優しい男」が好きなのだ。
喧嘩に勝つと「処女」が人生を台無しにしてやろう、と考えて寄ってくる。
大事なことは「常に教室にいる」ということであり、喧嘩はしないほうがいい。
私は知恵の輪 うしろゆびさされ組


今がすべて、という試合やテストはマスターベーションやセックスの蓄積の結果であり、それに勝つと「おちんちんをどの女に向けるつもりだ?」という議論になり、「いつ、誰が、何を、どのように」取るかという戦争論となる。
「どのように」は「今がすべて」の瞬間に証明してしまったため、ここで「どの女をとるか」を明確にしなければならない。
東大に合格したければ、親がカステラを配ったり、本人が缶コーヒーを周囲におごるしかない。
「金持ちしか東大にいけない」「本と鉛筆だけの世界ではない」理由はここにある。
男子校ならば、女の問題で揉めたりはしないだろうが、いい成績をとるとケツの穴を狙われるので、どのみち東京大学に受かるのは大変なのだ。
道徳(多数派工作)の学問を間違えると、世界が灰色に見えてくる。
中学や高校にも「産業」はある。
産業、つまり「政治」(女心を定義する世界)と「宗教」(男らしさを語り合う論壇)はあるのだ。
社会はあまりにも複雑すぎる。
それを、いかに「女の単純さ」に論点を集めていくかが問われる。
このあたりの「技」に「道徳」という学問の秘訣がある。
垂加神道というものはそのために存在する。
「今がすべて」という瞬間に強くなるためにそのような作業が必要になってくるのだ。
あとの「応用編」は各自で読んでもらうしかない。
勝負に弱いと人生に飽きる(死ぬ)ということは覚えておいたほうがいい。
「あなたは女として最高の存在である」という言葉と缶コーヒーを知らなかっただけで「事件」というものは最高裁まで行ってしまうものだ。
政府が「命令」を出さなければ動かない世界で「知識」というものは、認められるのに十分すぎるものである。
みんな「仕事ができる」「勉強ができる」と思いたがっている。
そこで、「みんなのおちんちんが快適なように」物事を運んでいかなければならない。
お金に勃たない男はいないのだ。
しかし、なにしろ「当事者」でなければ分からないことが多く、一般論として垂加神道という単純さに出来事を収斂させていったり、「あなたは女として最高の存在という言葉」「缶コーヒー」がなかったために最高裁まで行ってしまった事件が多いということしか語ることはできない。
当事者しか分からないことは多くても、一方で、「理論ファシズム」を引き起こすことは可能である。
「一神教は間違いだ」というほど男の数は多くても、事件を経験し、多くの事案から「なにがこの事件を最高裁まで行かせたのか?」をまとめきることは理論ファシズムである。
社会で孤独感を感じたのならばそのこと自体が敗北だ。
多くの企業や地方自治体が、庶民からお金を横領しているが、「あなたのようなエリートの息子は缶コーヒーがなければ孤立する」という指摘をしなければ横領行為を有効な方向に導くことはできない。
日本国の各国へのODAもそのような意味では「裏切り」に直面しているのだろう。
酒井法子 涙が止まらない


テレビでのオンエアなどは致命的な孤立をそれぞれのグループの当事者に引き起こすが、テレビのオンエアも「タイムマシーン」と同じぐらいの影響力で「人々の夢」に介入していることになる。
さて、道徳とは「多数派工作」「仲間作り」の研究であるとしたが、政治の世界には「数の力」というものがあるだろう。
証拠開示を求めたら「なんだそんなことも知らないのか」と思われたり、「あなただけが知っているんでしょう?」という適合義務があったりするが、ようするに「あなたは女として最高の存在」という言葉が足りなかったり、「缶コーヒー」が足りなかったりするという側面が強い。
また、「女の単純さ」に論点を絞り切れなかったりすることが問題となっている。
私も、児童虐待は、夫の病気ではなく、セックスしすぎた女のノイローゼが原因とし、音楽作品を紹介したことがある。
ぼくをぶたないで 高橋由美子


あるいは、勤労統計不正疑惑において、仕事とは何が成功で何が失敗かは明らかではないが、彼女との関係はアフターファイブにおいて「失敗」はないとし、どうしても記録に残せない、言葉にできない、上司に報告できないことがあるとし、「女の単純さ」に収斂させたことがある。
BoA Is This Love


これらも、「数の力」「数の論理」に頼っている側面がある。
しかし、これらの事案すら「あなたは女として最高の存在」というひとことや、「缶コーヒー」の問題ではないだろうか、とも思う。
だが、この解決法そのものも「女の単純さ」でまとめきっているのは事実だ。
世の中の事件という事件をこれらでまとめきれるのであれば、それはそれでいいだろうと思われる。
女性が何を欲しているのか、で収斂して行くのはこのあたりではないだろうか。
酒井法子 天使の館


児童虐待は良くない、などの議論を「それは女のノイローゼが原因」などというように「女の単純さ」に議論を収斂させていったら、あとはテレビのオンエアなどで「多数派工作」するしかない。
セックスは私有財産である。
その「セックス」をめぐる論壇は多くあり、なかには「別の見方」をする人もいるだろうが、「生きる」「死なない」というのは仲間がいてこそではないだろうか。
「女のことをよく勉強する人って好き?」というあたりに仲間作りの基本はあるのだろう。
女たちは「好き、嫌い、色、匂い、怖い、避ける、誰々に似ている」しか興味のないものだ。
全体主義なんてものはありえないのではないだろうか。
「児童虐待は女のノイローゼが原因」という男がオンエアされても、どの女も反論しようとはしない。
「好き、嫌い、色、匂い、怖い、避ける、誰々に似ている」という論壇に放り込まれるだけだ。
男たちも、その議論を踏まえて、女の長話を聞いたり、女を口説いたりする。
お金になるのかならないのか、気持ちいいのか気持ちよくないのかしか軸はない。
「本当にあなたノイローゼだよ」と言ったら気分がいいしお金になる。
松田聖子 マラケッシュ


痛みを共有するだけでは意味がないことが多い。
勉強に人気がある理由は「児童虐待は悪いことだ」という共通認識に表現される。
男だけの社会においては不可能なことが多い。
東大ボクシング部にいて「私がなぜボクシングに専念できるのか」という論文を10億円で売ったシュガー・レイ・レナードに勝つことは不可能だった。
勉強しなければお金にならないし、お金がなければ厳しいトレーニングに耐えることもできない。
ファニタ夫人が敬虔なカトリックだったという議論を知らないといけなかったし、ジャービスは足長おじさんになってレナードの影響を受けた。
ハーンズだって「人間は娯楽があれば死なない。自分が勝ち続ける限りにおいて」というユダヤ金融資本や共和党と結びつきデトロイトスタイルで立ち向かった。
どちらが勝つかという予測も、これらの「バック」まで見なければ分からず、中には「自分たちのイデオロギー」と密接に結びついていた連中もいた。
両者の陣営が充実しきっている場合に、勝敗を決しなければならないこともあった。
これをやらなければ「無党派層」が放置されたままとなってしまう。
「無党派層を取り込んでいかなければならない」というのはプロモーターの仕事だった。
負けたら明日はないというような日本のプロボクシングとは異なり、あくまでも政治活動として試合をしていた。
このような「試合」=「政治活動」という発想を持ったのはナチスだった。
レナード対ハーンズ ダイジェスト


ボクシングにおける「有効なクリーンヒット」とは刑法の問題だった(パニッシュメント)。
お金をくれないのならば走らない、というプロ意識のなせる技だったのだろう。
GDPが2兆円動く試合など日本では想定されてはいない。
応援している選手(球団)が負けたら借金を返さなければならなくなる、という問題も生じた。
なぜなら「仲間の多さ」で敗北したからである。
東大に受かった私に、かつての少年野球のチームメイトは「こんにちは」と挨拶した。
私の影響を受けて多くの女の子が芸能界デビューしたのだ。
多数派工作(道徳)とは「生きるって楽しいぜ」という学問でもあった。
CoCo 夢だけ見てる


反米も新米もどちらも人気があるだろうが、「愛する人がいるのならば長生きしたい」と考えるのは当然だと思われる。
しかし、「友達に裏切られた」「愛した人が去っていった」などの理由ですら人は「死にたい」と考えてしまう。
ケースバイケースだ。
作家としては、常に感性を研ぎ澄ませながら文章を書くことしかできない。
時には「死への崇拝」「知識への崇拝」(キリスト教)に回帰していく人もいる。
「生きる」ということはあんがい難しいという側面もある。
サラリーマンとして生き、豊かなシルバーライフを満喫したらポックリ逝きたいというニーズはあんがい強い。
そのへんは「チョコレートが好きな人は長生きする」と言うようなデータも出ている。
いずれにせよ、イエスキリストは大工の息子であり、人々の共感を得ながら、お金を集め、近所の家を修理した。
ときには昼食をともにした。
音楽作品を利用するというのは「感情」的すぎないだろうかとも言われた。
しかし、大人たちが、一曲作るのに500万円以上投じていたため、「利用しない手はない」という結論に至った。
金のかかった音楽作品ならば、じっくり聞いてみる必要がある。
医者はそのような作業をやっていないのだ。
早い段階から、看護師は私に「ドクターのライセンスはありますか?」と聞いてきた。
松浦亜弥 チョコレート魂


すべての「現場」に問題はあった。
しかし、それを「女の単純さ」に論点を集約させる必要があった。
なぜならば、すべての問題は「お金で解決することができる」からである。
交通事故を起こしても「保険で解決します」と言った。
同じ意味だ。
いろんな「責任者」はいたし、いろんな事件はあったが「保険で解決します」という形で、「女の単純さ」に解決を委ねることがある。
保険会社はそのような存在だったのだ。
シュトローソンが、「女の研究」を保険会社の仕事とし、その資金力で事件を解決してしまおうと考えたのだ。


色の白い女とセックスしたら肉が食えなくなる(痛風)。
この通風患者同士の多数派工作も存在する。
有機野菜とか、動物を殺すことへの批判などを行うのだ。
何事においても譲り合い、それが「キリスト教である」と信じていた。
実際は、「死への崇拝」を行っていただけである。
家庭菜園などを営んでいたが、反ユダヤの色彩が強く、「死なないユダヤ人」「勝負事」を極端に嫌った。
酒井法子 夢冒険


痛風患者は、「聖者」に見えるだろう。
そのような人が多いと物事が治まりやすい。
しかし、プロ野球のペナントレースは否応なしにやってくる。
勝負に弱いのがキリスト教なのではない。
しかし、「色の白い美しい女」を妻とした痛風患者の書いた文章は眠るのにちょうどいい。
ユダヤイスラムは「眠れさえすればいい」という側面がある。
「食べて眠れば健康」
「貸したものは帰ってこない」と子供の頃、悟らなかったか?
多数派工作(道徳)こそがすべてなのだ。
通常の人間は医者や弁護士ではない。
「今後お世話になるつもりはない」と思ったら金なんてそもそも払わないのだ。
あなたと知り合えてよかった、と思われるのは「痛風患者」ではなく「勝負師」である。
横浜DeNAベイスターズは「貸した金が戻ってくる」存在でありたい。
「ユダヤ人は死なない」ということから始まった、哲学(女を口説く学問)や、キリスト教(死への崇拝・知識への崇拝)であるが、とにかく「食べて眠らなければ」ならない。
人に裏切られるうちはナメられてるよね。
「この国で二度と夢が見られなくなる」
それが道徳の目指すものだ。
妻もいれば娘もいる人もいるだろう。
貸した金を返さないのは犯罪だ、そう思える人もいればそうでない人もいる。
伝教大師を待ち受け画面につかったら運気が上がった?当然ではないか。
星座占いで瞳を閉じて


貸した金が戻ってこないと「安く買って高く売る」というビジネスが成立しないのだ。
ポートフォリオの最適化はナメられているうちは成立しない。
サラリーマンでも「宗教家」「政治家」をうまく活用していかなければならないだろう。
自分の「運気」の向上のためにプロ野球チームを用いることにしたのは横浜DeNAベイスターズが初めてだろう。
土建会社やテレビ局など、多くの企業が関心を寄せている球団なのだ。
友人に裏切られない秘訣はあんがいそのようなところにある。
「目上の」リック・フレアーがサミングを繰り返して最後にぶざまに負けるのを見るのも楽しいだろう。
そういう意味では、どの球団にもファンがいていい。
リック・フレアー


「お金を盗むのは良くない」ということから多数派工作・仲間作り(道徳)という学問が始まっていることは理解してもらえたと思う。
しかし、世の中には「神も仏もあったもんか」ということが多い。
横浜DeNAベイスターズが負けても怒ってはならない。
他の球団のファンが「貸した金を返してもらえる」だけだからだ。
アメリカ合衆国は全米規模でそのようなメジャー球団を持っているのだ。
かつては、大洋ファンが「横浜大洋銀行」などと皮肉られていた。
私は、あえて横浜DeNAベイスターズの名前を挙げているが、「索敵」として他球団のファンにマークされていたり、ソフトバンクのコンテンツあるいは、楽天の第四世代スマートフォンに活用されても文句は言えない。
読者が、私のブログを読んで、何を感じるかまではコントロールはできないのだ。
読売新聞や、明治神宮まではコントロールできない。
主婦層の支持を得て、「この球団の選手は私たちの息子」という構造主義や、それを外国国家にまで波及させる「脱構築」の存在を私は今まで明らかにしてきたが、作家としては「できるだけ多くの人に読んでもらいたい」ということから、株式会社DeNAとは特別に契約は結んでおらず、「強者が負けるのが見たい」という「多数派工作」「仲間作り」(道徳)に打たれ始めている。
人間は人生に意味を見出せる限り死なないというユダヤ金融資本は「セト」と呼ばれ、「労働している限り死なない」としたマルクス主義は「アカ」と呼ばれ、資本主義社会は「死への崇拝」「知識崇拝」を行ってきた。
フランスカトリックは「相続」というものを「自分の存在を後世に残すもの」としてきたが、日本の民法学者は「なぜ相続という制度があるのか”分からない”」と率直に認め、人間というものは「死なない」というユダヤ教の存在を「理解できないもの」としている。
1990年代に、インターネットが登場したため、世界は「道徳」をかなり実験的な世界に開放した。
「アリストテレスは人々の誤解があったから21世紀を見た」と言われている。
その「真の意図」が世界に伝わりきらなかったから「今でも生きている」という意味なのだろうか。
アリストテレスは「男女が社会に共存する仕組み」を構築した人物である。
我々は「男女が共存するのが当たり前」だと思っているのだろうか。それとも、クラスの「女子の名簿」もろくに覚えない男子高校生の存在を指しているのだろうか。
とにかく、「共同体の女子の名簿」を覚えないためにいじめられる男は確実に存在する。
また、イスラム圏であるエジプトでは「妹と結婚する」という文化がある。
このことは、フロイトが「職業保障されている農家などでよくあること」とトーテムアンドタブーで語っているが、「そもそも死なない」のならばイスラム圏にそのような文化があってもおかしくはない。
そもそも「死なない」というイスラムという文化も誤解されてきたのではないか。
ショッキングな形ではなく、よりソフトな形で世界の文化の多様性を拡散させていく必要がある。
そのためには「その国で勝ち続ける論客」を世界は選択しなければならないだろう。
カルト認定されたり、差別されている人を利用したのでは「世界の多様性」が正確には伝わらない。
いくら人間が「死にたくない」と言ったところで、女たちの「死への崇拝」「知識への崇拝」(キリスト教)は80年後には「真理」と確定するだろう。
沢田知可子 会いたい


あるいは、世界が、いちばん真摯に真理を探求し続けた「アメリカ合衆国」にハンドルを握らせることに同意するかもしれない。
世界の「人類学」はかなり実験的なものであり、たいした葛藤もなく「世界」が見れるようになったのはこの20~30年の話である。
娘が「婚前交渉」したため首をさらしものにしたエジプト人の気持ちが分かるだろうか。
今は好奇心を持って「世界の論理」を見ることができるかもしれないが、飽きたらどうするつもりだろうか。
イスラエルが「死なない」文化を持っていたため、外国語を勉強する時間が十分にあり、世界にインテリジェンスを持っているのは事実である。
しかし、老いさらばえた日本人が「諜報」を仕事とすることは可能なのであろうか。
ユダヤ人やマルクス主義者がかなり全体主義的に動いたのは事実である。
しかし、今の日本国の現状を見る限り「アンチ」も相当数いると思われる。
熱しやすく冷めやすい日本人は「不老長寿」物語にすら、いずれ冷めるだろう。
USA DAPUMP


また、「人間は死なない」のならば、勉強なんてやめてしまおうよ、と考える者たちもいた。
イギリス国教会がこのような考えをまとめ、勉強なんてのはニュートン物理学(プリンキピア)さえ分かればいいとするものだった。
あくまでも、勉強する男の子がモテたのであり、しかし、勉強するのをやめた男の子は「周囲を助けるために」興味深い行動をとった。
東大生に向かって「他人を蹴落として生きている奴だ」と言ったが、勉強しなくていいという発想に共感する者も多かった。
勉強しなければ「磔」になることも「眠れなくなる」こともない。
工業高校で関数電卓などを使ったりしていたが、人生の視野はあんがい広かった。
「気持ちいいこと」に敏感で、鉄筋屋などをやり、ポケットの財布に27万円入れている人もいた。
「バイクがなければ人生はんぶんだね」などと言っていたが、東大生にはなかなか理解できない連中だろう。
勉強しない奴ほど「神の命令」に詳しかった。
奴隷になりやすかったが、視野が広かったため、奴隷解放運動にも勝った。
「磔になったイエスキリスト」もそのような連中との交友関係の方が多かったのだ。
人間は死なない、とした以上、「勉強しないものの論理」も理解しておく必要がある。
パソコンに詳しい、車に詳しいなど、あんがい話しを聞いてみるだけの価値はある。
私も一緒に酒を飲むのはそういう連中だけだった。
もっとも、王位継承の問題が持ち上がったら、率先して「いじめ」を仕掛けてくるので、関わって後悔したこともある。
一国の君主になれる連中ではなかったのだ。
椎名へきる 風が吹く丘


稟議書は「エリート」「エリートではないけど仲間が多い」連中の間を通すものだ。
いろんな「論理」を知らないと通らない。
人間が「死後の世界の罰」を恐れなくなったらどうなるであろうか?
年寄りはひたすら若い連中をいじめ、無知で恥知らずだった。
将来を嘱望された人間を潰して回るため、生命保険会社が「長生きは損失である」と考えるのは、国全体にとっての問題だった。
ボーンヘッドをやらかしても失脚もしなかった。
70歳を過ぎたら懲役刑も裁量的なものとなる。
中年世代にとって「死なねえかな」という年寄りがいるのは事実なのだ。
国力を高めるのならば「死への崇拝」「知識への崇拝」(キリスト教)が必要になってくるときもある。
エリートは「老害」の実態を公の場で語ることができる。
国を「誤った方向へ」導いた年寄りを大勢知っている。
溺れる者は藁をもつかむと言われるが、実際は「女性たちの支持」を固めたため、年寄りは「うーん、うーん」と唸っていた。
エリートは「低学歴」「老害」と常に接している。
エリートが「女たちの支持」を固めたら、「乗っ取る」「俺でもできる」と言い始めるのが低学歴だ。
もっとも、パソコンはすべての人に対してオープンであるため、「自分は一軍では通用しない」ことをみんなが知っているのだ。
「口だけ番長」に害はないだろう。
一球投げただけで「ダメだこりゃ」というのが分かるのがインターネットの世界なのだ。
エリート以外、「誰を信じていいのか分からずに」潰されている。
SNSで殻に閉じこもってクダを巻いているのが「口だけ番長」だ。
メジャーで通用しないのは誰よりも分かっている。
「これじゃ、ワールドカップを任せられねえよ」と政府首脳から罵声を浴びるだけだ。
NFLのラインマンは冷静に距離を測っている。
人生の「距離」も正確に出されている。
CoCo 夏空のDreamer


女たちは「抑圧」されている。
家事子育てを任され、セックスされる存在として生きるのだ。
女という「単純さ」とまで呼ばれ、しかも、宗教(男らしさを語り合う論壇)を委ねられている。
女たちが「磔になって死んだイエスが男らしい」という「死への崇拝」「知識への崇拝」を持っているのならば、ユダヤ教(人間は死なない)という立場は宗教としては弱さを見せることになる。
さらには、「知識への崇拝」すらない「コンサート」(スンニ派)「ギャンブル」(シーア派)
に興じるだけが人生だとするイスラムは「人間ではない」ように映るだろう。
河合その子 避暑地のアンニュイ


そのように言わないと、女たちの支持が集まらないのだ。
犯したという言葉が「セックスした」という意味であるのか、より広義に「抑圧した」という意味なのかは明らかではない。
女のからだは「欲望の主人」である。
男が勃つだけでも、女はパートにまで出てくれるのだ。
女は「おちんちんがないない」から始まって「言葉の感覚」が鈍り、それでいて「自分のおとぎ話」を持っているためヒステリーを起こしやすい。
言葉の感覚が鈍ることから、出来事に言葉がついていかず、「スローモーション」になることがある。
中森明菜 スローモーション


女は「出来事」を語るのが得意だ。
男はその背景にいる「女」の存在に敏感である。
富める者から貧しき者へとお金というものは流れてくる。
より「心豊かな」貧しき者へとお金は流れるのだ。
一方で、「母・息子」関係へのお金の流れの存在も指摘できる。
どれほど「心豊か」であるか、どれほど「愛すべき息子」であるかという二つが資金の流れを決めるのだ。
「今がすべて」という瞬間(試験や試合など)は、マスターベーションやセックスの数が決めている。
「今がすべて」ではない、「昨日・今日・明日」の世界には日常がある。
結果を出す男の周りに女の子たちは「自分が欲望の主人でありたい」と考えて集まる。
横浜市民を「死」から自由にした途端、横浜DeNAベイスターズは連敗を始めた。
また、日経平均株価は女の需要が高まり跳ね上がった。
「死」から自由になることは、マスターベーションやセックスの「結果」を出すのに弱く、それでいて、男女が愛し合う方向に向かせた。
広瀬香美 ロマンスの神様


女たちは、「おちんちんがないない」「言葉の感覚が鈍る」ことから、「群れでしか生きていけない」という女を生み出した。
自分たちの欲望を「群れ」で圧縮していろんなことを学習していたのだ。
しかし、有名人の発言など、多くの人たちの感情にさらされていてうまく「圧縮」されている言葉は男女を問わず存在する。
引きこもり生活が長いと「彼のメンタルは果たして信用できるのだろうか?」ということになりかねない。
また、女たちは「群れに圧縮された言葉と道」を進まざるを得ず、女であるからこそ「死」に向かっていたのだ。
女の一生が最終的には「死」に向かった以上、愛したパートナーはそれよりも先に死ななければならなかった。
ここにも「女たちが男の死を崇拝する」理由があった。
高齢者に「趣味は読書」という人は多い。
「道」を周囲に委ねるだけならば「死」だけが待っているだろう。
ユダヤイスラムの話をするのならば「女たちのこのような現状」と向き合わなければならない。

瀬能あづさ 永遠に友達


イスラムでは、女はヴェールをまとっている。
家父長制にしたがい、保守的な考え方であり、メイクをして表を歩くほどリベラルではなかった。
ブリリアントホワイトの方が、女が「別の家庭に」移れる可能性がある。
どの女もかつては「テニスでオリンピックを」目指したことがあった。
しかし、自分の家庭に落ち着いているのだ。
女が「愛される資格を失った」
それが、ヴェールであり、イスラムが「死なない」理由なのだろうか。
女がメイクをして歩いている方が、経済力は強くなる。
しかし、イスラムは「死なない」ことを選択したのだ。
工藤静香 ブリリアントホワイト


レイプの完全撲滅こそが、男の長生きの秘訣だった。
純潔の妻がレイプされたら死人が出る。
また、妻が「家族やコミュニティーの神」を見失ったら男は長生きできない。
そのような基本から「生きていく楽しみ」を「200歳までは」維持しようと思ったのだ。
CoCo ミスロンリー


あとは、イスラムは「タイムマシーン」にすべてを委ねている。
インフラさえ整えて、「もういいです、死なせてください」というようなことを防ぐ。
自爆テロや、ユダヤ虐殺、共産主義社会の粛清などの正体は「謎」というほかはないが、だいたい察してもらいたい。
とにかく「死なない」連中なのだ。

2019年4月17日 (水)

共産主義について。

カール・マルクス(1818年~1883年)は、近代というものを作った人物であり、デカルトが中世を終わらせたのと同様に、経済(男が女を愛する気持ちを利用する世界)あるいは政治(女心を定義する世界)を確立し、多数派工作や、史的唯物論(ユダヤイスラムを排除し、注目に値する人物だけを歴史に残すもの)を作った。
女の「出産能力」の向上や、女一人が男二人を比べること、子供たち(剰余価値)の搾取などを指摘し、「人間は死なない」というユダヤイスラムに対して、「生きていることの喜び」「歴史に名を残すとはどういうことか」などを明らかにし、それは「資本主義」と呼ばれた。
史的唯物論とは、歴史上の人物に「死んだ年」を刻印するものであった。
瀬能あづさ ふたつにひとつ


マルクスの理論は「男がいかなる女も口説き落とせる」(悟る)ことはできるのかなという「ユダヤクエスチョン」から生まれている。
若者は「自分と世界がかけ離れている」(自己疎外)ものである。
しかし、とにかく「就職する」ということの必要性を訴えた。
イケメン(ヤングヘーゲリアン)で、彼女がいて、そして音楽作品を楽しむ、それが近代ではないかとしたのだ。
女を買う(交換価値)お金である日経平均株価を出しているうちは、日本人も「ユダヤイスラム」と距離を置いている。
「200歳の鳥」は女を買うために2万円を払ったりはしなかった。
日本の生命保険会社も「長生きは損失である」とし、ユダヤイスラムを批判している。
中卒や高卒の「マルクス主義者」が、東大生(ユダヤ人)に説教するものだから嫌われ者が多かった。
マルクス主義者は、宗教(男らしさを語り合う論壇)で東大生にかなわないため、宗教を否定している。
東大生でもないのにキャンパスをうろついて、東大生(ユダヤ人)に説教する構図が出来上がっていたし、しかも、それが「プロレタリア革命」「階級格差をなくす」ことを意味したため、宗教の拒絶がキリスト教社会からも批判された。
男らしさを語り合う論壇(宗教)を拒否する卑怯者に映るような生き方に見えた。
バンバン いちご白書をもう一度


1960年代に、マルクス主義は「世界レベルで」議論された。
しかし、1970年代に「東大生には有名女性芸能人がついてくる」という現象の方が重視され、大学受験の方が大事であるという認識が広まり、中卒・高卒よりも「大卒」の方が社会の戦力になると考えられた。
しかし、中卒・高卒は「出世の道が閉ざされた」ことから、マルクス主義というものは「団結」を背景に存続を決めた。
中卒・高卒で「外国語が堪能」「指導の誤りのない」人間などいるわけがない。
マルクス主義の世界に「モーゼ」「アブラハム」などという用語が出てこない理由である。
しかし、そういう人間に限って「王室・皇室」に近づいてくるものだ。
専門知識がないという意味では東大生のお世話になりながら、東大生の足を引っ張る面倒な連中だった。
ましてや「スタンフォード大学」など理解できるはずもなかった。
尾崎豊 シェリー


マルクス主義者は「そもそも歴史の審判を仰ぐ生き方をするつもりはない」という心構えが組織で重宝された。
しかし、「宗教」を語る資格はなかった。
徳川幕府は、神社の宮司たちに「政治的権能を奪うために」白い服を着せてしまった。
「低学歴」が哲学の真似事をしていろいろ翻訳したが、東大生はそのような「低学歴」が書いた本を読まされるという逆転現象がおきたために、哲学が誤解されることとなった(矛盾)。
しかし、中卒・高卒・Fランは社会の花形であり、このプロレタリア独裁は一方で、強い魅力をもっていたため支持者が多かった。
偉大な王子様に向かって「お前には分からない」などと傲慢なことをいう連中だったので、王子様に嫌われたし、歴史の審判を仰ぐ立場にはなかった。
他人を「利用する」ことを「搾取」と呼ぶ。
プロレタリア革命は、デタラメな翻訳で学者を混乱させたり、王子様を中卒・高卒・Fランがいじめたりすることを指している。
このことは「一時的な」ものに過ぎず、「歴史が評価する」のはあくまでも王子様であった。
カトリックはとにかく「プロレタリアート」を歴史から抹殺することを志向した。
「教会法」を教えるだけ無駄だという考えがあったのだろう。
産業革命が生まれた。産業、つまり「政治」「宗教」の世界に革命がおきたのだ。
政治(女心を定義する世界)、宗教(男らしさを語り合う論壇)が、カントのように「口説き文句を考える」論客や、ニーチェのように「父と息子の永遠の繰り返し(永劫回帰)」を論ずる論客が現れたのだ。
このことから、中卒・高卒・Fランの連中も「労働」をすれば男らしいという発想に切り替えがなされた。
産業がなければ、歴史の審判を仰げる「労働者」は生まれなかったし、いつまでも「王室・皇室」にたかる低学歴が蔓延するだけだ。
王室・皇室にたかる低学歴のことを「部落民」と呼んだ。
宮内庁職員のことを「部落民」と呼ぶのだ。
部落民は王室・皇室にたかったため、英国の国王の中には部落民に「V」(バガボンド)という焼き印を胸に入れた人もいた。
産業革命、つまり「政治」「宗教」革命がなければ、彼らは一生を王室や皇室にたかることで人生を終えたであろう。
たかり行為を諫めるためにマンガも作った。
バガボンド


王室や皇室にたかる部落民は「市民」として受け入れることは困難であったし、「労働」の実態があるのならば、肉体労働者は背広組みと給料で足並みを揃えることが可能であった(ベーシックインカム)。
長時間労働や狭い部屋はマルクスも論じていたが「産業」の充実が解決する問題だった。
自己疎外(自分と世界がかけ離れること)は社会の病気である。
夜中に歌を歌ったりする男女がそれを表現している。
近隣住民に騒音を撒き散らすのも社会の病気だ。
神を信じられなくなる思春期の女の子特有の症状を、青年期の男にまで「男性化」させなければならない。
「難しい教科書」がなければ自己疎外はおきない。
自己疎外をうまく観察しながら「教科書」を作らなければならないのだ。
これは、ブルジョア(高学歴者)の仕事であり、プロレタリア独裁のもとにおいては「自己疎外の解消はそもそも困難」なのである。
ここで、近隣住民の騒音トラブルを受けて、ブルジョア(大卒)、プチブル(高卒)、プロレタリアート(中卒)という区別が生じた。
台湾では、公害の相談窓口でほとんどが「近隣住民の騒音トラブル」が寄せられるため、いまだブルジョアによる統治が安定していないものと思われる。
どの国も、プロレタリア独裁など、今となっては望んでいない。
ヒトラーは、ユダヤ人、心の弱い女性、マルクス主義者、ローマ人ジプシーなどを差別したが、マルクスは「共産主義国家に自己疎外など存在しない」としている。
つまり、マルクス主義も「人間は死なない」ということをタイムマシーンを利用して標榜したことを意味する。
しかし、マルクス主義のアイデンティティは「労働」ではなかったのか?
王室や皇室にたかり、Web2.0を利用し、「存在と時間は私たちのアイデンティティだからね」と言って、スタープラチナとハイデッガーの「存在と時間」つまり「若さを無駄にする時期が人間にはある」という議論を混同するような働かない輩を認めないのがマルクス主義だったはずだ。
労働という「精神史的文脈」に位置づけられるものから排除されたら、おのずと「死期」は定まるものと思われる。
イデオロギーとはそのようなものだった。
「天皇制反対」というのは、天皇の富に群がるプロレタリアートやプチブルが大勢いることを批判したものだ。
そもそも、マルクス主義というものが「近隣住民の騒音トラブル」をなくすためのイデオロギーであった。
マルクス自身がユダヤ人の家庭に生まれたこともあり、政府の所得再分配でも「人間は死なない」ということでも何でも利用した。
しかし、「労働者である」という縛りを「人間は死なない」ということにかけたのだ。
そうでなければ、所得の再分配も、女の子を口説くこともできない。
「死なない労働者」
これが革命の原動力であった。
イケメンで女の子が好きなヘーゲル左派の支持を強烈に集めた。
日本国においては1967年の統一地方選挙で「日本の豊かなシルバーライフ」という資本主義社会が体制選択で勝った。
酒井法子 おじいちゃんis watching TV.


マルクスは、近所で夜中までバカ騒ぎしているガキどもを黙らせたかっただけだった。
労働というものを知ってもらいたかったし、女の子を口説いてもらいたかった。
死なないで「女の子を口説く言葉を考えるのがうまくなる」ことを悟りと呼んだ。
比叡山延暦寺の最澄(伝教大師)はどれほど老けているだろうか?
お仕えする者も大変だろう。
私が伝教大師を殺しに行ったら、手塚治虫の「火の鳥」の百鬼夜行のようになりかねない。
伝教大師(最澄)も、私の「1200年後の姿」で浄土院というお堂でご存命である。
一度はお参りしたいものだ。

千日回峰行 延暦寺


また、アメリカ合衆国も、共和党は「死なない」ということを強烈にアピールしているという意味では共産党と変わらないとされる。
労働と生きることが結びついたのがドイツの1848年である。
マルキュースは、比叡山延暦寺の伝教大師(最澄)をお参りすることで、女の子が「なにこれ、お母さんよりも面白い!」と言って「急激に女らしくなる」ことを狙った。
当然、お父さんからお金をもらうことを意味した。
令和天皇は「山法師」を、プロレタリアートやプチブルを抑え込むのに利用した。
女の子たちは「浄土院に1200年後の小野がいるの?ちょーウケるんだけど」と言って可愛くなっていたのだ。
レーニンも「女神」を語ったが、レーニン廟という似たようなものを作っている。
マルクスは、イスラムがユダヤ教に与えた「死なない」という発想を、「人生に飽きるのならば労働とともに生きよう」とした人物である。
それを、マルキュースは「女の子を可愛くさせる」ために用いた。
令和天皇は「低学歴が翻訳した日本語」(矛盾)に目もくれずに英語の論文を読んでいた。
「労働者としては死なない命」(マルクス主義)と、女の子らしさ(フロイト)がここで出揃ったのだ。
タイムマシーンのおかげで、このように「死という概念」が混乱したが、一方、アメリカの最先端医学を知っていたから、という側面も指摘できる。
戦場で木っ端微塵になってどのように「死なない」のかは今後の研究課題なのだ。
労働と、産業つまり「政治と宗教」が「死なない」ことと結びついたのがマルクス主義であった。
しかし、「死への崇拝」「知識への崇拝」を持っているキリスト教とは相反するイデオロギーであったことは認めざるを得ない。
キリスト教社会においては、「失脚」というものが存在した。
女の子への「口説き文句」の取引を行うのがキリスト教社会であったが、マルクスは「労働すればお金がもらえるだろう」と考えていた。
西側と東側は冷戦状態に突入した。
日経平均株価は、「口説き文句がどれほど高く売れるか」「女子高生の供給をどれだけ封じ込めることができるか」「どれほど企業の利益を最大化させるか」などの要素がある。
「労働しているときは死なない」ということを標榜するマルクス主義の国にはそのような「変動する相場」は必要ない。
なにしろ、所得の再分配を完璧に行っているからである。
しかし、「女のからだ(商品)」へのフェティシズムの研究が深められた。
比叡山延暦寺などの「お寺」はみんな「女のからだ(商品)」を美しくさせるためにあった。
高橋由美子 バスルームでキャッチホン


「労働と死なないこと」を標榜したソビエト連邦と、「死への崇拝」「知識への崇拝」を標榜したナチスドイツと、両者に理解力を持つニューディールアメリカは戦前の三大スーパーパワーだった。
世の中には「男と女」がいるが、体制というものはこれほど多様なものだったのだ。
この三大スーパーパワーが、世界のいろいろな国と「体制交換」を行っていた。
もし、法律(男らしさ)が、政治(女にモテる連中)の側から作られ、執行可能であるものだとするのであれば、イデオロギーというものは「女二人が奪い合う」政治(女心の定義)のことを言う。
二人の女がひとりの男を奪い合うのならば、そこにイデオロギーがあるのだ。
愛が止まらない Wink


法律も「二人の女」の登場によってイデオロギーとなるし、より生き生きとしたものになる。
かつては、「ホモ」「両刀遣い」「家柄を論じる男」は出世しないとされ、反共労務管理というものが存在したが、現在は「労働しているのならば死なない」という発想にマルクス主義が形を変えたため、企業としては排除する理由がない。
「二人の女が奪い合うのがイデオロギー」だとしたが、もしそれらの女が「歴戦のツワモノ」だとしたら、法律よりもはるかに強いものがイデオロギーであることになる。
別の表現をするのならば「面白いのがイデオロギー」ということも可能である。
中国共産党による虐殺


シュタイナーは、タイムマシーンについて触れており、イスラムの影響はユダヤ教を通じて、マルクスに持ち込まれたことを明確にし、人類が「マルクス主義革命の唯一のチャンス」に成功し、そして最終的に崩壊したことに関して、「人間同士でどうしても譲り合えないことがあって、タイムマシーンで何でもできるわけではなかった」としている。
瀬能あづさ 永遠に友達


タイムマシーンを運営する側としては、「言葉が明確な者」を選ぶしかないと考えたのだ。
何の意思もない人間に介入するつもりはなかった。
なによりも、勤勉で「女たちに愛される」人物像が見えた時に「介入」していた。
意志の強さはいろんなものを見れば分かった。
特に、「若い時期の勝負時」を見ていたようだ。
「教わらなければ何も分からない時期」に勝負に強いと期待感がもてたのだろう。
勉強への意欲と、宗教意識を見た。
特に、近代社会は、「無限の家庭の再生産」が行われていたため、みんな人を見る目が養われていた。
酒井法子 ダイヤモンドブルー


あとは、失恋したくない、という男の心理を利用すればいいだけだったので可愛いものだった。
「誰よりも賢くなりたい」と思えば失恋しなくて済んだのだ。
勉強が嫌いならばそれは無理だよね。
男は大勢いるのに「負け犬」を作らなければならないのだから、一定程度「公正」でなければならない。
選ばれた男は「宗教の暴君」みたいなものだ。
しかし、社会への貢献がともなわないのであれば「選ばれる」理由はない。
周囲のメンタルや人生まで分かっているのだ。
一方、シュタイナーは、マルクス主義の「計画性」は否定している。
また、男にも「男の好み」があるとしている。
何万人もの人が見ている前で、「分からない。立場が変わってしまった」という男が出てくるのだ。
1960年代から1970年代にかけて「ほんのワンプレー」に介入すればいいことが分かり、男たちが「神さま」の存在を信じ始めた。
シュタイナーは「国の問題ではなく個人の問題なんだ」と胸を張った。
SPEED Deep Blue & Truth


ジョージ・ルーカクスは、1919年の革命や1956年のハンガリー動乱までを生きたが、貧困との戦いを行った。
スターリンが貧しい生い立ちで可愛く思えたのだろう。
ユダヤ人として1885年に生まれたが、所詮、スターリンといえども世界史を俯瞰している哲学者に可愛がられなければ夢が見れなかった。
最終的には「お天道様はお見通し」程度の介入しかしていないのかなと思われた。
エレナ・グラベンコというロシア女と結婚し、しかし、哲学者としてはハンガリーのベラクンとともに失脚している。
結局、昔の哲学者は「タイムマシーン」というものを直接見たことはなく、「資金メカニズムを組んで全体像を俯瞰する」とイメージしていたようだ。
ルーカクスは「貧富の格差の解消」を目的としていたために、消されなかったようだ。
1930年からはコミンテルンの中枢に身をおいている。
河合その子 ジョバンニの囁き


ルーカクスは「全体主義音楽って何だろう?」と考えた結果、「それはゲイによって作られたものである」としたが、フルシチョフの「豚追い」発言(シークレットスピーチ)に敗北した。
飽きられるのも早かった。
フルシチョフは「俺はお前らがソルボンヌやオックスフォード、ハーバードにいたころ豚を追っていた」とし、「女好き」を告白していた。
竹原ピストル よー、そこの若いの


2024年に日本IBMがタイムマシーンを開発する前も、おそらくそのあとも、哲学者は「資金メカニズムを仕組んで物事を見守る」ことしかできないだろう。
あまり、タイムマシーンの完成にはこだわらないほうがいい。
また、お金といっても「高いほうから低いほうにしか流れない」ということも理解する必要がある。
「心豊かな貧しき者」
これがタイムマシーンとマルクス主義の階級闘争の秘密だった。
マルクスが「死なないユダヤ人出身」だったからこそ成り立った発想だろう。
それを踏まえたうえで、物象化論(女たちのフェティシズムの研究)というものがマルクス主義の主流となっている。
そのうえで、「男同士で真似しあっているものがある」ということも明らかにしている。
全体主義的に動かすことが大事なんだとした。
レーニンの「女神崇拝」が必ずしも許せたわけではなかった。
しかし、女神崇拝にせよ、男崇拝にせよ「全体主義にも流れがある」としている。
文章を書きながら、プロスポーツや政局を見ていくしかないだろうと考えられている。
布袋


余談であるが、ルーカクスは「芸術作品に興味を持たないこと」を「ディフェティシゼーション」と呼んでおり、日本では宮本顕治の「敗北の文学」として知られている。

2019年4月14日 (日)

ユダヤ一神教。

「マーケットエコノミー」(高校生の色恋沙汰)とは無縁で、「マーケットソサエティ」(国から資金が来る世界)に入った「彼女がまだいない男」は、女の子たちからカルト的人気を誇った。
これが、ユダヤ教(男らしさを語り合う論壇の起源)である。
ゲルショム・ショーレム(1897年~1982年)は、この世界のリーダー的存在である。
印刷屋の息子として豊かな家庭に生まれ、クリスマスも祝う家庭であった。
ゲルショムの兄はドイツ愛国主義民族戦線に属し、弟は共産党に属した。
父は、ゲルショムに100マルクを送り、兄弟同士仲良くするように諭した。
第一次世界大戦では「サイコパスである」という理由で、兵役を免れ、ベルリン大学に入学している。
ヘブライ語を勉強し、エルサレムのヘブライ大学とも親交を温めた。
ベルリン大学に入学したら、どんな女の子が「私も夢が見たい」と言って芸能界デビューするのか(カバリズム)という研究の資料を集め、いわば、東京大学の歌謡曲研究会みたいなもののリーダーをベルリン大学で務めている。
ユダヤ人(東大生)にはいろんな有名な女の影がちらついた(神秘主義)。
有名な女が歌っている音楽作品を「カバラ」と呼んだ。
Mr,Children Tommorow never knows


有名な女の影がちらつく「彼女のいない男」(神秘主義)をめぐって、一気に女たちの言論は開花した(神秘主義思想)。
「エコノミーマーケットと関わらなかったこと」「顔がハンサムだったこと」から、「もっと余裕を持って生きた方がいい」として、安息日運動(サバタリアンムーブメント)を起こした。
ハスダイ・クレスカスは、12世紀に「神秘主義をまとった男が本当に童貞なのか?」を「心を読む」ことで行い、皇帝選びをした。
ユダヤ教は「皇帝の歴史」でもあったのだ。
1492年に、スペインが「新大陸発見」を行ったのが「ユダヤ金融」が有効に機能した最初の事例である。
彼女のいない男(神秘主義)にまとわりつく音楽作品(カバラ)が「女心」を知るのに非常に有意義だったのだ。
それは「皇帝の歴史」だったため「歴史哲学」と呼ばれた。
人間社会の「最初の法律」は、日曜日を休みにしようというものだった。
それが可能ならば、いかなる法律も作れる。
いわば、「東大閥の権威」を見せつけるものが「安息日」だったのだ。
三浦理恵子 日曜はダメよ


ユングのエラノス会議にも出席している。
有名芸能人女の影がちらつく男(神秘主義)こそが、法律家の力量であったため、東大生は司法試験に受かりやすくなっていた。
ヘブライ語聖書による「メシア信仰」も広まった。
権威がほころびを見せ始めるたびに、その影響力は強まった。
なんのために「内田貴や山口厚を読んでいるんだ?もっといい教科書はあるだろう」
このような、「女の子に通用しない話」が幅を利かせていた時代は確実に存在した。
少なくとも、有名芸能人女は、そのような「旧体制」を「大卒とは思えない」とバカにした。
なにしろ、週末の女たちの話題になることが年俸を決めたのだ。
1963年から1997年まで「ジュダイカ」と呼ばれる雑誌が出版されている。
有名芸能人女の影がちらつく男(神秘)と音楽作品(カバラ)はこのようにして結びついた。
若者の文学(タルムード)と文化(ミドラッシュ)を愛するかどうかが「ユダヤ人かそうでないか」の違いだった。
カバラにおいては率直に「原罪」について歌われていた。
ribbon 愛してジャスティス


カントが「口説き文句」を考えることこそが哲学であるとした時に、有名芸能人女と東大生は「信者と神の関係」(新カント派)となった。
中年以降になって直接交流することが可能になったからである。
ベルリン大学卒、ヘブライ大学卒ということそのものが「若者への理解力」をもち、「若者にとっての一神教の神」を意味したため、「歳をとってもユダヤ人」というのは存在したのだ。
「神の名は?」
1972年に「神・男の完全性」を議論することが広まった。
「25歳」という衆議院選挙の被選挙権は「カントを学ぶ時間」を考慮して設定されていたが、カントが日本国で本当に理解されていたかは明らかではない。
多くの音楽作品をちりばめた文学作品(カバリスト文学)も存在した。
「赤レンガ」というのもヘブライ語聖書で語られていることである。
ここで、ジェントリーから自由になりたいというシオニズムも生まれた。
資金が潤沢にあったからだろう。
有名芸能人女の影がちらつく男(神秘主義)と、音楽作品(カバラ)は当然、比叡山延暦寺が配布している「文字曼荼羅」や垂加神道のように「密教」と結びつく宿命にある。
周囲の男女は、東大生が書いた「密教」を聞いているだけで「霊的に感化」された。
「霊的に感化」とは「もう、いじめるのやめようよ」という意味である。
イスラエルとパレスティナの双方が密教を支持しており、1967年の停戦合意は「いちばんいいバランス」と呼ばれた。
しかし、イスラエルの女たちは「メシア」を待望しており、オバマ政権の「1967年の停戦合意と、イスラエルの実効支配地域および
パレスティナの嘆きの壁の適切な交換」を主張した時に、女たちの「宗教」(男らしさを語り合う論壇)は終わった感が漂った。
「このままじゃ年が明けちゃうよ?」と争いを望んでいたのは女たちだったのだ。
松田聖子 赤いスイートピー


パレスティナ紛争とは、「どちらかが絶滅するまでやらなければ解決できない」問題となった。


イスラムは、タイムマシーンが2024年に完成することを受けて、日本人が祖先となって作られた文化圏である。
本当の祖先は「令和天皇」であり、最初から「アブラハム宗教化」していたのだ。
アルキンディ(796年~866年)のように、遠い昔までさかのぼった日本人もいたが、詩をこよなく愛し、「眠れるための本」をたくさん書いた。
眠りこそが「受験」=ギャンブルをアイデンティティとしたシーア派に必要なものであり、「睡眠トレーナー」がいちばんアラーにふさわしかった。
アルラジ(850年~925年)は、勉強や研究さえ成功するのであれば、わざとらしい「いじめ」なんてくだらないということを証明した(ヘトロドクス)ためにアラーとなった。
スポーツビジネスをやっているのに、「腰におもりをつける」などということを「宗教」と呼んでいる出雲大社など低学歴の愚か者であった。
アルラジは、出雲大社の権威を骨抜きにしたために悪名高いが、國學院や皇學館などの「低学歴」に職を与え、それでいて、「自分の家柄などの探求」などをやっていた宗教家をあざ笑ったことから評判が悪い。
本当に、ヨーロッパの大学への「越境」を考えたのは、「純粋なブレスレン」ことイクーワン・アルサファであり、スペインのコルドバに居を構え、日本国の1949年と、スペインの1250年~1270年を行ったり来たりした。
日本IBMの存在がなければ「イスラム」というのは存在しないことになり、現在は、何をやっているか分からない会社となった日本IBMも、このような大それた計画を現在持っているのだ。
アルファラビ(870年~950年)も、1200年~1400年の間を行ったりきたりしている。
とにかく「時代が飛ぶ」ことから、イスラムって何?という認識が日本国にも広まっている。
「令和天皇の子孫で、タイムマシーンを自在に操った連中」であり、日本IBMとつるんで、「空白地帯」である地域をうろついた連中がイスラムなのだ。
2024年以降の日本の芸能界を予言するような営みが「イスラムを語ること」である。
なにしろ「心を病んだために田舎でゆっくり眠りたい」という連中が多かった。
また、「無人島に行きたい」という女たちのニーズにも答えた。
ヨーロッパの大学(ユダヤ人)に強烈な影響をイスラムは与えているが、「それは現在の日本と日本IBMのタイムマシーン」が原因である。
国際条約で、現在の日本と昔のイスラムの行き来を許可された地域は限られており、「乾いた地図」と呼ばれている。
乾いた地図 河合その子


イスラエルとパレスティナが妥協できない理由は「日本」にあったし、令和天皇は人生の最後に「メッカで死んでいる」ため、メッカに向かってみんなが祈ったし、死んだら「メッカに頭を向けて」埋葬した。


スンニ派は令和天皇がこよなく愛した「コンサート」でみんなが盛り上がる宗教だった。
ステージの上にいる人は「心を病む」ため、イスラム社会は「田舎の風景」しかなかった。
時代を越え、場所を越え、「令和天皇の帝国」はイスラムというものを生み出していた。
令和天皇にタイムマシーンを教わったアヴェロス(イブンルシュド)は現在の安倍晋三であり、ジャニーズ帝国をイスラムに構築した。
ヨーロッパに多く大学ができたが、現在の日本がイスラムとしてヨーロッパユダヤに影響を与えたのであり、イスラムは「時間を越え、場所を越え」独自の文化を楽しんでいた。
ユダヤ教の「モーゼ」というものも、令和天皇の生き方をイスラムがヨーロッパに強烈にアピールしたから作られた人物像である。
イスラムによる、バーミヤンの石窟の破壊は、町のカルトおばさん(仏)への復讐として行われたものである。
アブナー・ブルゴスは、「ユダヤ教からキリスト教への改宗」を探求した人物である。
有名女性芸能人の影がちらつく男(神秘主義)も、音楽作品(カバラ)も、男にとってどうでもよくなる時が来る。
そんな時に「ユダヤ教からキリスト教への改宗」を勧めたのだ。
修道僧アブナーにとって、間違ったメシアが大勢いたなという感想しか残っていなかった。
アブナー・ブルゴスは、間違ったメシアを次々と「磔」にするという夢物語をキリスト教の根拠としたのだ。
モーゼは偉大だった。
しかし、料理の感想すら「うんともすんとも」言わない亭主を次々と女たちは「磔」にしたのだ。
主人は最高のイエス、それがキリスト教だった。


ハスダイ・クレスカスは、ユダヤ教の立場から、「ヨーロッパにモーゼを」と言ってピコデラミランドラの「心」を読んだが、ピコはテトラグラマトンという言葉を、美しかったお姉さんが子供の頃叫びながら踊っていたのを見て「トラウマ」となっていた。
ピコは「ラテン語の達人」であったが、現在のアメリカ合衆国の医学の知識も、日本のような「靴下を履く」文化もなかったため31歳で糖尿病で死亡してしまった。
ハスダイはピコデラミランドラのためにエジプトにピラミッドを作っている。
ピラミッドは「乾いた地図」の汚点、黒歴史として残されたのだ。
ハスダイは「ユダヤ教からキリスト教への改宗?夫を磔にするなんて想定できない」とし、ピコの命への賛歌を送る形でキリスト教を批判した。
しかし、毎日の家事洗濯に奉仕する女たちの支持がキリスト教には根強く、また、孤立からも開放してくれるため、どうやら「キリスト教が真理」と確定したようだ。
「結婚するときはモーゼになるって誓ったよね?」女たちは夫を責めた。
どれほど多くの男がそれで禿げたであろうか。
酒井法子 幸福なんてほしくないわ


ユダヤイスラムが「タイムマシーン」を保有したため、「死の概念」が大きく混乱してきた。
死んだと思った人が別の時代に現れたというだけにとどまらず、そもそも、「死」というものの存在が混乱してきたのだ。
豊かさが保障されるかはともかく、イスラム社会は「巨大宗教」となったのだ。
「死なない」
このことが明らかになってから、みんなメッカに向かって祈った。
「死という概念の混乱」を引き起こしたユダヤイスラム教に対して、ヒトラーは「ピューリタン革命以来の」ユダヤ虐殺を行っている。
「死という名の宗教」がキリスト教であった。
イスラムには大学はない。
行く必要も勉強する必要もない。
ナーランダー大学も破壊した。
「死のない世界を信じますか?」
かつては鼻で笑ったのがモーゼだった。
アメリカユダヤ社会がエホバの証人に吹き込んでいたのだ。
「死への崇拝」は「知識への崇拝」であった。


ヨゼフ・アルボ(1380年~1444年)は、ユダヤ人が死ななくなった。それも令和天皇のおかげである、とし、カトリック教会に「死なないのならば民族浄化するしかない」といわれたのを目撃した。
このことから、「生きるうえでのなんらかのルールが必要」と考えた。
「死なないのならば民族浄化するしかない」と思われるのは当然であり、すべて「乾いた地図」が焦点になった。
人間が「死なない」のならば「性欲がなくなる、笑わなくなる」ことを意味したため、「果たして女の子って必要なのかな?」という議論に発展した。
女性差別と急進的思想はイスラムの特徴であったため、当然、議論しなければならなかった。
カトリックの三位一体、つまり、父と子と聖霊(おじ・弟)という「いじめの構造」があるといっても、邪魔ならば消してしまえばいいという発想そのものが「何も生み出さない」とされた。
実存主義(東大に入ったら自分についてきた女性芸能人がいる)という世界においては「一度きりの命」というものが重視された。
宗教が「男らしさを語り合う論壇」であり、政治が「女心を定義する世界」であり、宗教と政治が「産業」を構築している以上、邪魔ならば消してしまおうという発想はかなり国力を弱くするとされた。
あくまでも、国際社会の一員として国家というものは存在しているからだ。
「褒美と罰」という発想を失ってはならず、その「褒美」とは女の子にモテるという意味であり「罰」とは処女にモテなくなるという意味であるとされる。
恋するフォーチュンクッキー


モーゼへの尊敬の気持ちを常に表現しろ、というのが「永遠の命」の対価とみなされた。
また、音楽を愛さなければ簡単に勃たなくなるとも言われ、「死生観の違う国」に住んだのならば、その国の死生観にしたがって埋葬されろといわれた。


日本国では「土葬」が許可されているのは北海道の一部と、長野の寺と、神戸の一部だとされている。


ジュダー・アブラバネル(1465年~1521年)は、「死なない人間を笑わせるのは大変だ」と考えた。
笑いとは性欲からくるものであったからだ。
アブラバネルが「コンテク派」というものを考えたのだ。
「愛の言葉をささやくのが哲学」というのはアブラバネルが考えたものであり、のちにキリスト教社会のカントに影響を与えている。
笑顔がない、クリスマスのときめきもない、命が安っぽく見える、それがユダヤイスラムであり、普通の日本人ならば「かかわりたくないタイプ」だっただろう。
イエローモンキー JAM


「退屈な時間だけが与えられたんだ。戦うしかないじゃないか」
キリスト教社会においては「死ぬこと」「喜怒哀楽」そのものが発明だった(アダムとエヴァ)。
イスラムにおいては「女の美しさ」がなければ、男は何も学ばなかった。
女たちは顔をヴェールで隠してしまった。
「乾いた地図」によってユダヤとイスラムは結びついたが、現代の日本ほど「豊かさ、人間らしさ」が爆発的に広まったことはなかったし、世界第三位の経済大国には到底かなわなかったのがイスラムの連中だった。
ユダヤはキリスト教からヒューマニズム(人間らしさ)を学ぶことで金融資本をため込んだ。
コンサート(スンニ派)かギャンブル(シーア派)しか楽しめなかった。
しかし、「令和天皇からいただいた命」があったためにメッカに向かって祈った。
外国語だけは真面目に勉強しようという発想は生まれた。
また、「生きるとは何か?」ということをギリシャ哲学から学んだ。
しかし、基本的には「よく眠ること」が重視されたのだ。
そのために、退屈な本をよく読んだ。
モーゼのようにコンサートを愛し、スポーツを愛さなければ「生きている意味」が見出せず、両者を利用した「予言」が王室のメンバーになる条件となった。
王室ができれば、当然、いじめも生じる。
「生きていることを感じたい」
そのようにユダヤイスラムは考えた。
サミュエル・イブン・ティボン(1120年~1190年)は、歳をとっても「男女の共存」をみんなが望んでいるとした。
そもそも、なぜティボンに生まれた年と死んだ年が論文に記載されているかは明らかではない。
「死なないのがユダヤ人・イズラム」だと考えていたが、モハメド・アリは亡くなられている。
このあたりは研究が必要だ。
「200歳の鳥」という言葉が論文に出てきたが、そもそも「200年生きれば人生に飽きる」ということは指摘していい。
また、キリスト教が「知識崇拝」「死への崇拝」であるということも指摘できる。
ユダヤ教・イスラム教に対して「メメントモリ」(死を忘れるな)と語られているが、年寄りに「タイムマシーンが2024年に作られるため、死という概念が不明確になった」というとお金を出し惜しむ人はいないだろう。
これが「ユダヤ金融資本」の先駆けだと思われる。
いずれにせよ、ヨーロッパ中世に「ティボン王朝」というのが作られており、「昇天に関する論文」を書いている。
人間は死なないといっても、タイムマシーンが存在するから「死」という概念が不明確になっただけであり、「死んだはずの人が明日現れる」という側面が指摘できる。
しかも、かなりの「若さ」を持って現れるのだ。
サミュエルは、ティボン王朝の中でも優秀な論客だった。
誰もが子供の頃「時間貯金箱が欲しい」と考えたことがあるだろうが、そのような「時期」を活用して「200歳の鳥」を実現させようとしているのだろう。
誰もが若い頃、プロスポーツ選手になれるわけではないが、どの男の子も「ジャニーズ」にはなれたであろう。
アヴェロスはそのことを最大限に活用した。
イブン・ティボンは「歳をとったら誰もが外国語が堪能になる」程度の影響にとどめようと考えた。
外国語が堪能なのであれば「200歳までは生きてみようかな?」と思えるのが人間というものだった。
それで、日本人がなぜか「イスラムでアラビア語を」話しているのだ。
創世記28:12-13「立ち止まれ。地に足をつけ、天を仰ぎ見よ。天国への階段が用意されている。イサクの父であるアブラハムが天に立っているだろう」
エレミヤ書9:22-23 「賢くて豊かな老人の亡骸を見よ。知恵も力も誇らなかった謙虚な男を」
ソロモンの歌5:2「眠っていた時間に外国語を勉強する夢を見た」
タイムマシーンをフル稼働させれば「人生の若さを無駄にした時期」だけでなく「眠っていた時間」まで使うという意思表示をユダヤ教は行った。
フランツ・ローゼンヴァイクは、第一次世界大戦の「西部戦線」の屍の山を作って、「死ぬのが怖いか?」「全員ユダヤ教徒なんだ」とし、世界を震え上がらせた。
「知性」に憧れるのならば「死への崇拝」を持ったほうがいいが、このような「屍の山」をまったく恐れないユダヤ人に世界が影響を受けたのだ。
日本でも、第一次世界大戦の時に「成金」になった連中はこのことをよく理解していた一部のインテリだった。
ユダヤ人は「45歳まで生きれば200年生きたのと同じ」経験をのちに人生を行ったりきたりしながら行うことができた。
しかし、「家庭」という制約は受けるだろう。
三島由紀夫は「生命の連続性」「英霊の声」などと表現している。
世界中を旅した若い時期を経験できるのだろう。
酒井法子 男のコになりたい


死んだら「悔い改めよ」「時間貯金箱を存分に使わせよう」
ローゼンヴァイクが博士号をとった2年後に第一次世界大戦が勃発したのだ。
ユダヤ人たちはまるで遊び気分で「カッコいい死に方」を演じていた。
ローゼンヴァイクの「スター」という新聞はそのことを書き立てていた。
ヨハネの黙示録は死んだら「お前はユダヤ人か?イエスかノーで答えよ」という問いかけがなされることを書いているのだ。
イエスキリストは「ユダヤ人」として死ぬことを選択した。
ローゼンヴァイクが、第一次世界大戦ののちALSに罹ったことも研究を深めるのに役に立った。
我々がすでに感じていることは「時代を彩る名曲」の詩の翻訳だけは天才的だということだけであるが。
しかし、ローゼンヴァイクが病院で会った人全員が「元芸能人」だったことは事実である。
アヴィセブロンは、荒廃した時代に「音楽という癒し」を与えるのがネオプラトニズムであったはずだとし、会う人全員に「癒される歌」を歌わせたほうがいい、と考えた。
これが「令和天皇」の青春だったのだろう。
それらの音楽作品はすでに垂加神道として伊勢神宮に祀った。
すべて、ユダヤ金融資本が背景にあった。
「自分以外わが師」とはよく言ったもので、お世話になった人全員を「音楽の先生」にしたのだ。
「治めることが好きな人」
それだけがこの若者が選ばれた理由だった。
現在の、「御皇室」が12世紀あたりにさかのぼって「バラ戦争」などを経て各国王室を作ったのだ。
ユダヤ・イスラム・ネオプラトニズムが「音楽シーン」を作ったのであり、背景には日本国の国民の「1500兆円の金融資産」があった。
死んだ後にも「夢の続きが見たい」「そもそも200歳まで死にたくない」という年寄りがこのような「夢」を見たのだ。
カバラ(音楽作品)だけは五分で終わるので「ギュッと」経験が凝縮されていた。
「愛して、生き抜いて」
これがユダヤ教となった。
キリスト教徒は「音楽を適当に聴きながら、知性を愛し、スポーツでも楽しみながら80歳か90歳で死ぬよ」と言った。
人生に「目的」があるキリスト教徒は、むしろ「潔い」とされ、お金が集まった。
「命の泉」って何だろう?
強い意志であった。
弱い意志をもち、目的もなければ「ユダヤ人」にならざるを得ない。
アブラハム・イブン・エズラ(令和天皇)は、「女神」を垂加神道として表現した。
1093年にテュデラという場所で生まれ、21世紀の現代まで生きているため「ヤーヴェ」と呼ばれた。
私は1971年生まれであるが、なぜ私がこの役割を担っているのかは明らかではない。
アブラハム・イブン・エズラは「死んだ年」が明らかではなく、しかし「47歳の時にひどい目に遭った」とされている。
つまり、アブラハムとして生きていると、どの時代の「スポークスマン」も同じことを言うと考えたのだろう。
創世記1:2「天と地だけがあった」
女のいない世界を生き、そこで「女神」を見つけたのだと思われる。
伝道の書7:9「多くの本があったが人の心だけが面白かった」
詩篇104:30「いじめられた時に心の中で何かが目覚めた」
ヨブ記26:3「いじめをやる人間が醜く見えた」
出エジプト記20:1「そこで神の言葉を何でも話そうと思った」
アブラハムにとっては「証拠をみせて」という音楽作品が若い頃に強い影響を与えられたとされる。
工藤静香 証拠をみせて


キリスト教と根強いつながりを見せたユダヤ教は、「知性を愛する」「笑う」「死への崇拝」を持っているキリスト教と、「死なない」「目的を持たないで生きる」イスラム教の双方から批判された。
歴史に名が残った「ユダヤ教哲学者」に「死んだ年」の記録が残っていることも、「歴史に名を残すため」という側面があるものと思われる。
万物の創造主が人間を作ったとされるはずであったのに、女たちは「私たちが男をクリエイトした」などという不誠実さと盲目さがあったと指摘されている。
ジュダー・ハレビは、聖書や修道院文学、文法などは「そもそも死なない人間にしか生み出せない」とした。
「キリスト教の軍隊とイスラム教の軍隊の間で我々は、どちらかへの改宗を迫られて消え行くのみ」というユダヤ教の詩が知られている。
また、若い頃に「カライテ」(空手)をやっていなければ、左腕が上がらなくなれば認知症になるし、右腕を鍛えていなければパーキンソン病になるなどの指摘がなされている。
1130年に「第一次十字軍遠征」がキリスト教の側から行われ、「お前ら死なないんだってな」と言って、イスラエルの地にのみ「ユダヤキリストは住むべきだ」とされた。
第一次十字軍遠征の時に「イスラエル」という概念ができたのであり、「死への崇拝」を持ったヨーロッパはもはや繁栄が約束されていた。
「死なない」といっても指導者には「失脚」というものがあっただろう。
「神を喜ばす」というのは「貧しき者への施し」を意味しているが、「死への崇拝」から繁栄が約束されたキリスト教の側から、イスラム教の側への施しはほとんど想定できない。
ユダヤ教だけが「神を喜ばす」という発想をもっていた。
なにしろ「死なない」わりには「失脚」というものが王にはあったからである。
キリスト教とイスラム教を戦わせろ。ユダヤ人だけが増えていくだろう。
これが、ユダヤの王が常に「施し」として考えていたことである。
現在の、レバノンのようなキリスト教国家を理解する上では必要な発想である。
だいたい、勃たなくなってファイナンス力が落ち、「予言」する力が衰えたら「200歳の鳥」は人生に飽きて死ぬことになる。
ローゼンヴァイクの「スター」は、日本のカミカゼ、レバノンのヒズボラ、インドのタミルの虎などのような「死に方」を書きたてた。
「予言」というのは、資金集めがうまいことと勃起することを意味し、それができなくなるのならば「人生に意味が見出せなくなる」のがユダヤ教というものだった。
コンサートを楽しんだり(スンニ派)、ギャンブルをやったりする(シーア派)のとは異なる文化がユダヤ教にはあった。
令和天皇の「天気のコントロール」「プロ野球に関与する」「人間は死なない」などの研究は、ユダヤ人に強烈な影響を与え、「予言」が当たらなくなったら死のうかな、という具合に文化が形成されていった。
これは「だいたい200歳ぐらいだろう」とされており、アブラハム(イスラエルの祖先)が果たして「失脚」というものを経験するのかはいまだ明らかではない。
アブラハムはシナイ山に拠点を設け、研究に没頭したが、最終的には「メッカで死んだ」とされている。


時代は変わるが、1480年ごろにイタリアのヴェニスにエリヤ・デルメディゴという人物がいた。
「殺してはならない。ただし一ポンドの肉を除く」という判決ほど「ユダヤ人憎し」の感情を表現した判決は存在せず、ユダヤ人であることを恥じる女が大勢でた。
「人は死なない」という発想をイタリアに持ち込んだのがデルメディゴであり、しかし、この判決こそが「医療ビジネス」を認め、デルメディゴからカトリック教会がその正統性を守ったとされる。
あんがい、「治療の限界」「頭のおかしい医者が多い」日本国のような国が、食生活が豊かで、長寿社会であり、世界第三位の経済大国である現状もある。
「どうしても女を愛せなくなる」頃にポックリ行くが理想であるとも考えられる
なにしろ、経済というものが「男が女を愛する気持ちを利用する」ものであり、宗教というものが「男らしさを語り合う」ものであることから、キリスト教国や日本国の方が豊かであるという側面がある。
ユダヤ虐殺


 


 


 


 


 


 


 


 


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2019年4月12日 (金)

ニーズ。

男が、お○んこ、とか言っていると女はどう思うだろうか。
「コントロール可能な簡単な男」と思われるだろう。
簡単さが男に生じていいのだろうか?それは宗教(男らしさを語り合う論壇)の問題ではあるが、基本的に、政治(女心の定義)や、道徳(多数派工作)の議論に属するものだ。
1970年代から1980年代にかけて、机に「太陽」を描く男の子の研究が進んだ。
女は男よりも単純であるというのが私の議論であり、公の場で「お○んこ」とか言っていていいのだろうか?
ステージの上にいる女が「四文字」を叫ばれるのは恐怖であり、ある意味、観客全員が「単純さ」を見せると、乱交パーティーに発展しかねず、叫んだ者は集団リンチに遭うことになる。
私は、Melodyの望月まゆがステージの上で「まゆちゃん、やらせて!」と叫んだ男に表情を変え、開脚部分の踊りを拒否した場面を日大砧キャンパスで見たことがある。
Melody 運命’95


お金のために女はセックスするものよ?
これが「ニーズ」の研究だ。
「処女である」「処女を演じなければならない」
最近24時間以内に女は眠っていたはずである。
女は男の「面倒を見て」いたのだ。
あるいは「幻の恋人」を想像して眠っていたかのどちらかだ。
男は「お○んこ」と言って「単純さ」を示していい時と、大観衆全体に「単純さ」を撒き散らしてはならない時がある。
あるいは、男らしさを語る上で「男はそう単純ではない」ことを示さなければならないとも言われる。
ネット上では「おっぱい」と言われた方が女はよっぽど吐き気がするものだ。
また、「お○んこ」という言葉は禁止はされていないが、男の単純さを示すため、女の「カモ」にされるだけだろう。
「その場を治める」ということは「共同作業」であり「満足の行くもの」でもあり、「それぞれのグループをカタチづくる」ものである。
しかも、「治める」ということは「男の複雑性」のなせる技である。
「お○んこ」とみんなの前で口にする男は、周囲の男にあまえることを意味する。
「治者」になりたいのか「被治者」になりたいのかの選択がなされることになる。
「父」「権威」の発言では少なくともないであろう。
とことん「父」「権威」にあまえようという発想がそこにはある。
テレビには放送コードと言うのがあり、観客や視聴者に「あまえる」ことは禁止されている。
男は「本当にあまえられる人は誰か?」を探して下ネタを発言している。
「信じていた人」「治める側」が「四文字」「下ネタ」を言ってはならないことがある。
あまえられるのが「重たい」からである。
松本人志 放送事故


テレビは「治者」によって運営されるものだ。
これが「放送コード」の起源である。


「単純な男」はいくら勃起しても「略奪愛」の対象にはならない。
正気を保った男がセンターにいないと泣き出す女もいる。
女にとっては、「その場にいる」ということが「きれいな空気と水のため」だからだ。
女は「男の周りを群がる」のも仕事だと考えている。
「その男はどんな女を愛すべきか?」
「適切な教育を与えなければならない男だ」
「対等な男にしか体を触らせない」
「どんな男に子供を産ませようかを考えたい」
などの思惑があって、男を取り巻いている。
そのような「高貴な生活」が男を取り巻くことであり、「追っかけ」をする女の心理なのだ。
視聴者にあまえるのがうまかった最後の人 レイザーラモンHG


レイザーラモンHGの前に、父は子供たちに主導権を奪われ箸の手が止まった。
彼の前には「家族は平等」だったのだ。
「どの人間も老若男女を問わずセックス崇拝者である」
このことを巧みに利用した。
不平等である「家庭」に「平等」がもたらされた瞬間みんなが笑った。
少なくとも、私は「弟や妹の前で」兄貴の権威を形無しにされたのが伊丹十三監督の「エッチなシーン」であった。
しかし、エッチなシーンだけではみんなが困惑するだけだ。
「ハードゲイとは貧しい生い立ち」ということがなければ笑えない。
貧しい生い立ちを「見世物」にしなければみんなが笑わないことが分かった。
放送コードとはそのようなものだった。
ヒロシです


その結果、「医療の必要性がある人を見てみんなが笑っている」ことが明らかになり、そのことがお金に変わるのであれば人間とはこのように平等なものなのかと思った。
「お○んこ」と言い続けた結果、発展途上国でこのようなことが明らかになったのだ。
ユニヴァーサルアクセスは日本国においては達成されている。
しかし、お笑い芸人は「ユニヴァーサルアクセス」の必要性を巧みに利用しなければならない。
長いので適当に見てください 私とピカソ・岡本太郎


国家一種試験の受験生が美術館めぐりをしたなどというエピソードも聞いたことがある。
「通常のセックスからこれほど遠い人がいたのか」
これが笑いの秘密であり、官僚はそのイメージを磨いて「面接」「省庁めぐり」をしたのだ。
先生に媚を売ったり、周囲を蹴落とす男は面白くもなんともなかった。
先生に媚を売ったり、周囲を蹴落としてきた男に最後に必要な素養が「美術」だったのだろう。
私の「音楽作品への異常な執着」もウケたかもしれない。
お笑い芸人は「この人に早く普通のセックスをさせて?」と言われて一発屋芸人になっている。
その目的がユニヴァーサルアクセスによって達成されたら「今年消えそうな芸人」に名を連ねることになる。
将棋の藤井聡太も、今のうちにお金を集めておく必要があるだろう。
可能性としては、そのような「資金」のポテンシャルは韓国の医療保険の規模と同じであるとされている。
これが「セックスユニヴァーサルアクセス」であり、かなりの人気を誇った。
「ヒッチハイク」もこのような心理から成り立っており、ヒッチハイクをしながら「人気の秘訣」を学ぶ者もいる。
そもそも「東京大学」というのが、そのようなユニヴァーサルアクセスを求めた存在なのだ。
東京大学ならば誰もが一度は志す存在だ。
「不健康な学習、不健康な才能」
そこに、税金も投入され、医療の必要性が指摘され、ユニヴァーサルアクセスが求められた。
プロ野球において、我々は「不健康な学習、不健康な才能」を毎日目の当たりにしている。
「死んじゃう前に何とかしてあげて!」
このことをお笑いの世界では「期待感」と呼ぶのだ。
「健康とは何だろうか?」
毎日、通勤しているサラリーマンではないだろうか。
さかなクン


女たちにとっての「機会の平等」と、男にとっての「機会の平等」は異なるものだ。
ここに、韓国の医療保険と同じ規模の「ユニヴァーサルアクセス」の資金が眠っている。


人間の「知識の起源」は、女たちの「ちょーウケるんだけど」と言うところにあることをコンディラックは明らかにした。
学ぶ側もなぜかモテたのでその道が好きになれた。
それは動物の学習過程にも言えることであった。
私は大学受験の頃は、「一番部厚い参考書」をテキストにすることにしていた。
女の子たちにとっては「ありえない」ことだったのだ。
勝負師は「棋盤」「紙」「モニター」など二次元の世界を見ている。
その世界で、「時間だけが過ぎていく」という三次元を経験するのだ。
三次元というのは「青い地球」のことだった。
「経験値」という四次元はあんがい拡散していくものだ。
女の子たちは「結果」「スポーツ紙面」のような二次元しか見ていなかった。
結果を追い求めるか(二次元)、勝負を同じ空間で見守るか(三次元)、人生経験まで考えるか(四次元)の違いがある。
「ちょーウケるんだけど」というのは二次元の問題だった。
女たちは、結果を残した男に「触られたい」と考えたし、それは「KGBの長い腕」とも呼ばれた。
抱きしめられて気が遠くなるのはそのような男だった。
天国のキッス 松田聖子


二次元でうまく結果を出しながら、四次元をいかに苦痛の少ないものにするかが問われた。
「実績のある男」はその人のイメージになった。
ユニヴァーサルアクセスを利用しながら、女たちの声援を浴びて才能を伸ばすのは十代にしかできないことだ。
「十代で人生が決まっていいのか?」
決まるんだよ。
六次元、第六感よりも大きな数字を我々は知らない。
「唯一の失投」と言っても6よりは大きな数字ではない。
6よりも大きな数字には三浦大輔コーチも介入できないのだ。
それは「動物的カン」とも呼ばれた。
カンを磨くために外国から美術品を購入するのは政府レベルの仕事となった。
今までの恋愛遍歴を思い出したり、お笑い番組を動画で見たり、美しい女の子と話しをするのも「カン」を磨くのに役に立った。
風のインビテーション


いずれにせよ、在日朝鮮人は社会保障制度が「準用される」という形をとっているが、日本国内ではユニヴァーサルアクセスは達成された。
しかし、生活保護なども「困窮外国人は想定していない」とされ、あくまでも、日本人女性の「心理」を柱として構築された仕組みなのである。
同じ日本人であるのならば赤の他人ですら思いやることができるのが日本人女性の「セックス崇拝」であった。
ストイックな政治家であるのならば、それは投票行動に結びつきかねず、有権者と政治家は「親子の関係」とも言われた。
政治家が「どの女と寝ようが」という発言を報じられるのはかなりのダメージとなる。
投票行動が社会の団結を志向している、それを小沢一郎は熟知していた。
女たちは自分の「局部」をユニヴァーサルなものにする方向に行動していた。
横浜DeNAベイスターズは「球道」をひたすら追求しなければならなかった。
しかも、球団およびオーナー企業は「女心」に詳しくなければならなかった。
女性ファンは「セックス」を知っていたし、野球に人生の大半を費やした選手たちは「息子」だった。
女が群がれば男たちも寄ってくる。
そのため、横浜DeNAベイスターズの「女性ファン」を増やすのは私のライフワークとなった。
「女心」をどれだけ有名にするかによって、「野球一筋」の選手と、女性ファンのつながりの強度が決まったのだ。
子供たちはボールとバットがあれば野球で遊べたし、子供たちにも野球はいい影響を与える。
子供たちは「結果」(二次元)しか見えないため、チームを救ったヒーローは愛される資格があった。
子育てのため、そして「孤立」を避けるために女たちは球場に足を運んだ。
政府としては、さまざまな地域の主婦層のために、各チームに対して中立的であった。
しかし、政治家は「ファイナンスの腕磨き」のために自分のチームに肩入れせざるを得ない。
また、子供たちにとっては「野球やサッカーさえやっていれば大学を出れる」子供もおり、貧困の解消のためのひとつの試みでもあった。
松田聖子 ロックンルージュ


ラカンも第二次世界大戦の時にイギリスやフランスのために「女心」を探求し、両国の軍に貢献している。
しかし、1950年代から1960年代にかけては「構造主義」つまり「女たちの構造」を明らかにすることによって「私たちの息子」と呼ばれるプロスポーツに介入している。
女心を明らかにすることは「親しみの構造」と呼ばれ、女たちを団結させた。
人生の大半を野球に費やす男に対して、セックスを知っている女たちは「私たちにはそんな生き方は真似できない」とし、ユニヴァーサルアクセスの観点から、球場に足を運んだのだ。
ハートマン、クリス、ラカンという「トロイカ」によって1960年代の「アメリカ大リーグ」は運営されていた。
ラカンは「フロイトに帰れ」と言って、思春期の女の子の「ないない」(去勢)と、女らしくなること、そして素敵な彼氏ができることを問題にした。
さよなら失恋ピエロくん


実は、この「去勢」「ないない」がうまく男の子・女の子の間で成立しないことが「らい病」の原因だとされている。
「鏡のない家庭」に育つとらい病になっていたのだ。
「らい撲滅」こそが、宗教誕生の理由であり、「イエスさま」とさえ言っていれば女の子は女になれた。
「ブサイクな女」は程度の違いではあるが「らい病」の一種だと言っていい。
そこで、「ブサイクな女」と「処女であること」が結びついた。
イエスさま=美女、という図式に対抗してブサイクな女=処女という構図が生まれたのだ。
「鏡のない家庭」がなくなっていたため、美女とブサイクという違いに過ぎなくなっていた。
また、貧困層に美女が多いのも「シンデレラ」などの影響が強く、「女になりたい」=去勢を受け入れるというところから来ている。
ラカンが1980年代にヨーロッパに与えた影響は大きく、美男美女が「鏡」と「文化」=「宗教」によって量産されることになった。
横浜DeNAベイスターズなどの「真剣勝負」の場を見てみるといい。
美男美女しかいないことが分かる。
「鏡を見ないとブサイクになる」「性倒錯を引き起こすとブサイクになる」これらを正確に理解しなければならない。
もっとも、「女形」=オカマ・両刀遣いというニーズが社会には存在することも指摘しておきたい。
好きになったらキリンレモン


アリストテレスは本来、勉強とスポーツができる男の子が「ハンサムだ」としていた。
仲間が多い、何かやってくれそう、これが女の子が男の子に恋をする理由だったからである。
「顔と名前」が一致しなければ恋なんてできないではないか?
結局、顔というものは「生き方」が脳幹に反応して作られるのではないかとされた。
「いじめっこ」「いじめられっこ」は顔で判断がつくとも言われ、情熱を持っている奴をいじめるのは基本である。
「変わり続けている男」をキネシスと言い、顔で判断している。
ポテンシャルが顔に出るために、いじめが生じるが、目的が達成されることがあることからキリスト教が生まれた。
「変化」が顔に出るために、「男らしさを語り合う論壇」(宗教)が誕生したのだ。
瀬能あづさ ふたつにひとつ


「変わろう」としている男はまず眠れなくなる。
女の子は「排卵」するたびに、お父さんと「理想の男」を比べた。


「変わろうとしている男」「仲間が多い、何かやってくれそう」「眠れない男」などが聖書を作った。
退屈なバイブルを読んでいるとよく眠れるのだ。
聖書「だけ」を読んでいる男には何の魅力も感じなかった。
寝る前に読むとよく眠れるという以外に聖書の存在意義がなかったのだ。
いずれにせよ、「スポーツは顔を作るために考えられた」ものである。
フェリックス・トリニダードがカッコいいと言うようなものだ。
Melody 唇がふれあえば


勉強で作った「顔」、スポーツで作った「顔」以外の、「顔の美しさ」は病気の原因となる。
コンプレックスのない「顔」など存在しないからである。
しかも、病気は貧しさの原因となる。
女の子たちは、男があまりにも絶好調だと「目が変、鼻が変」などと電車で噂し、その男を潰そうとする。
周囲もあんがい視野が狭く、「目の前の男」を潰すのに必死になっている。
友人・恋人・親ですら絶好調な男を潰そうとするのだ。
親が男を「兄弟と比較する」のは致命的な病気の原因となる。
本来、「欠損した部分を修復する」ための美容整形がどれほど病気の原因となるであろうか?
「整形した?」と言われる芸能人は、テレビや写真のデジタルイメージの画像処理をやっているに過ぎず、ほとんどの美容整形が失敗しているのだ。
テレビや写真の画像処理技術は素晴しいものがある。
しかし、美容整形には「いいことがなかった」ということが多い。
男の子・女の子から「勉強やスポーツ」を奪ったら、はたして何が「顔の美しさ」を作るのだろうか?
そのあたりは、ブサイクな男や女で「勉強やスポーツができる」から「美男美女」とされている人がいるということ以外に、周囲の男女が病気から自由になる方法はない。
モニタリング吉田沙保里


仕事や家庭、愛すべき人を失ってはならない。
人間というものは男女ともに「女性的な」美しさを語り合う論壇が存在するのだ。
男は「勃てばいい」という割り切りも忘れて「美」というものと向き合ってはならない。
勉強やスポーツができる「男女」ならば「美しさ」にこだわらないでもらいたい。
しかし、今までも「美しさに関する悪口」を聞いて強くなったので、どこかで病気にならざるを得ない。
つんぼで生まれたわけではないからだ。
美容整形の痕跡は「元有名人の証」である。
13歳から18歳までは「美しさがすべて」である年頃なのだ。
有名私立中学が「顔採用」しないのはバカげている側面がある。
18歳以降に、なんらかの成果を出す前に16歳で「医療同意年齢」を迎え、親の同意なしに美容整形できるようになっている。
思考力が下がった、勃起しなくなった、これ以上本が読めない、そうなったら東大合格などありえないだろう。
ましてや、ドラフト指名すらあり得ない。
高校時代に「快楽とお金の取引」(マーケットエコノミー)に巻き込まれたり、そもそも「美しさ」の問題に根負けしたりして、東京大学というものは超難関となっている。
うまく「異性」をサードパーティとして味方にしておかないと何事も成し遂げられなくなるだろう。
松浦亜弥 絶対解ける問題


缶コーヒーや、アイスクリームなどは「賄賂」としてどうしても必要になることがあり、うまく「お小遣い」の金額を決めなければならなくなる。
第二次世界大戦前のライボウィッツは、「マーケットエコノミー」と「顔」の研究を明らかにして、ドイツの「ベルリン大学神話」イスラエルの「ヘブライ大学神話」を生み出した。
日本で言う「東京大学神話」であろう。
「ユダヤ人の誕生」だった。
しかし、社会経験のないこのような「ユダヤ人」「神話」は、ナチスにとって有害でしかなかった。
時代は戦争に向かっていたからだ。
東大生の間で「ユダヤ一神教」が生まれたのであり、日本国においてユダヤ教はまだ「生成過程」にあるといっていい。
アイドルたちが噂する「神」を新カント派は志向したが、一方、良心的カント派は「ユダヤ一神教」を志向した。
しかし、男女同数の新入生を受け入れるメソジストではない東京大学においては、女子大との交流が意味を持つようになった。
男は女の前でしか輝けないものだ。
酒井法子 涙が止まらない


最初に「大学」「偏差値」を設定して、その後に経験から学生を選び、のちに「どうやったら東大生になれるの?」という理論を構築したのがユダヤ教であり、神話であった。
ユダヤ教の教えは「トラー」(モーゼ五書)であったが、「男が禿げない方法」つまり「豊かさを維持して女に裏切られない方法」を記しただけだった。
そこで、タナカー(神の肖像)は決して禿げてはいなかった。
さらに、「女はセックスの前に歌を歌って壊される前のイメージをするように」とか「タバコを吸わずに献金しろ」などの簡単な教えに過ぎない。
なにしろ、東京大学神話を強烈な背景にしていたからだ。
さらに、早い段階で彼女を作らないと「処女果実」から遠ざかるだろうなどと教えていた。
また、「駒場での語学だけは真面目に勉強しろ」(ハラキック)という教えもある。
語学力こそが「男がどこから情報を得るか」という国際関係論だったからだ。
私のような「英語と中国語」をやった道を「すでに誰かが通った道」として避けて通ることを「ノット・リシュマー」と言い、大事にされた。
中国語選択の「リシュマー」も神として尊敬はされた。
いずれにせよ、覇権国家ではない日本国においては「ハラカー」「ハラキック」と呼ばれる「語学の学習」が重視された。
「東京大学神話」が生まれ次第、学生はお金に困らなくなるだろう。
そこで、周囲に「おごってやる」という余裕も生まれた。
大事なのは親の理解力だった。
「シオニズム」というのは、ジェントリーから自由になりたかった、という学生のことを言う。
「語学力による世界ネットワーク構築」がシオニズムの背景にあるのは明らかである。
いまだに「ジャパンモサド」は実現していない。
ハイエクは、ウィーン大学、ロンドン大学、シカゴ大学、フライブルク大学を渡り歩いたが、各国の一流大学であったため、「ユダヤ教が確立したのならば社会に秩序がもたらされるのは明らかではないか」としている。
もちろん、私は東京大学を念頭においている。
しかし、「大衆の反逆」が起きることも指摘している。
東大生なんて「デザイナーベビーだよ」という指摘がなされたのだ。
イエスキリストは、まるでワイルドホースのようだっただろ。
ローリングストーンズ ワイルドホース


一方、「東大閥が確立すれば消費税を値上げしても物価は上がらない」としている。
東京大学神話(ユダヤ教)が存在するだけで、東大生は特権的地位を謳歌でき、それだけの理由で消費税値上げに十分耐えうる社会が実現するとしたのだ。
子供の頃からの努力はなんだったんだろうという気持ちが物価を上げていたからだ。
アメリカ、イギリス、オーストリア、ドイツでそのような現象をハイエクは目撃したのだろう。


さて、クラスの多数派による少数派へのいじめの存在や、高校に存在する「恋愛」あるいは「顔」の問題を明確にしたうえで、ようやく大人の側が「東大に行け」と命令を出すことができるようになる。
そうでなければ、子供たちの間に強烈な葛藤をもたらすことになるのだ。
ドラゴン桜第一話


子供たちだけでなく、大人たちも「いい暮らし」をしたがっている。
高校生のころは、缶コーヒーやアイスクリームで済んだものが、大学生になると「国のお金」が視野に入ってくる。
「愛には狂気がともなう」という問題を考えると(コストベネフィット論)、高校生でそれを「経験したい」というニーズは強く、しかし、東大に入ると「国のお金」と強く関わることになるのだ。
なぜ、命令してまで「女心の定義」(政治)を教えたいのか?
「すべての組織は政治的に動いている」からである。
男は勃たなければ戦力にならない。
上層部は「おちんちんのおもむくまま」に組織を統制したがっている。
人間は、寿命200歳の鳥ではない。若い頃にしかできないことがある。
男の子は「女の子をモノにした瞬間冷たくなる」(目的手段論)の存在など、東大に入ると「分からないことはない」というほど、ユダヤ一神教は強さを見せるのだ。
冷たくしないで


鏡を見る習慣があって、横浜DeNAベイスターズが勝てば、顔に自信が持てた。
顔に自身を持つためにお金も払った。
ファンの中には「この試合、もし勝ったらハロワに行きます」というコメントを書く人もいるが、顔に自信がつくため、彼女ができるチャンスも増える。
彼女さえいれば「いくらでも稼げる」というのが私の持論であり、人生のチャンスは大きく広がる。
そもそも、ハロワというもの自体、国のお金で成り立っており、もはや高校時代の「エコノミーマーケット」という缶コーヒーやアイスクリームで人を買収していた世界ではなく、現金が動く世界になっているのだ(ソーシャルマーケット)。
忘れてはならないのは、子供が東大に合格したら高いワインやキャビア、速い車などが「親のもの」となることである。
あとは「君主の肉声に詳しい者」もいれば、美しい男女もいる世界だ。

2019年4月11日 (木)

組織論。

政府や、家族、その国の言語、学閥、病院、企業、法曹界などが、「子宝」=世襲を必要としている。
官僚の息子、医者の息子、社長の息子、弁護士の息子などであろう。
そのため、「嫁とり」という問題も生じる。
大事な地位にいる人や、オフィスを持っている人は、息子の恋愛に介入せざるを得ない。
学校や店、警察署、郵便局などから「嫁」を調達したのだ。
「二代目のお坊ちゃんは男らしくないのではないか?」
宗教(男らしさを語り合う論壇)は常に問題にし続けてきた。
賃金や人気、重責などが他の男と異なるため、宗教の側は常に「誰々の息子」を聖書でも語り続けてきたのだ。
「親父が言ってた」という話しをどこまで聞いているのかなどが問題にされたのだ。
一流の父親が、素人の息子に「含蓄」を語るのは独特の「伝達メカニズム」である。
他の重役や役員とは異なる「父と子の関係」があったのだ。
英語を教えるかどうかも「父」が判断している。
英語をモノにするかどうかで「世襲」の意味がまったく変わってくるのだ。
「それは常識にはない」という英語力も父の影響である。
特定の「グループ」からは敵視されざるを得ない。
「組織に何が欠けているのか?」は父親がいちばん詳しかったのだ。
キモノビート 松田聖子

「父」の力を借りた以上、息子は「敵対的グループ」を持つことになり、そのため、自分の「グループ」を持たざるを得ない。
「キモノビート」が、敵対的グループを応援するかのように煽ったりもした。
「勃つこと」が勢力拡大のためには必要だった。
父は「息子に与えられた試練」を楽しんでいた。
「組織に何が欠けているのか?」を知り尽くした父が、私に高校時代にアメリカ留学をさせていた。
その代わり、「彼女を作ること」も禁止された。
スターバックスは「ドイツがポーランド侵攻をしたときの経験」を父が息子に伝えて成立した会社である。
酒井法子 平気平気

英語に精通しているということは、右ハンドルか左ハンドルかの違いぐらい女子たちに影響を与えた。
ヒトラーは英語に精通しており、ポーランドをドイツと同じ左ハンドルにした。
女子たちの「左ハンドルへの憧れ」を利用したのだ。
「左ハンドルの車」のセールスがスターバックスの経営の安定を保障した。
アメリカに行きたい、そういう女性が多かったからだろう。
松田聖子 時間旅行

「右ハンドルから左ハンドルへ」の憧れを利用したスターバックスはその分、他の喫茶店に比べてコストは安かった。
その資金源は、政府、他の企業、大学、軍などから調達できたのだ。
アメリカは戦争が必要な国といわれる背景には、スターバックスなどもあんがい関係があった。
「超大国アメリカ」というイメージが必要だった。
政府、他の大企業、大学、軍がスターバックスと契約を結び、それぞれのメンバーを「手形決済」で飲食させていたのだ。
経営基盤が安定した理由はここにある。
そのようなことを踏まえると、「左ハンドル派」「英語に堪能な医者の息子」がなぜ、スターバックスを利用して仲間作りをしないのかは考え直さなければならない問題だ。
そもそも「敵対的グループ」はアメリカが嫌いだったではないか。

そもそも「誰々の息子」という発想は「腐っている」という考えが現在は主流だ。
しかし、勉強やスポーツで強かったのならば認めざるを得ない。
「王子になる条件」とも言われた。
「お父さん、お父さん」と言っても、勉強やスポーツができなければ意味がない。
「敵対的グループ」が存在する以上、戦わなければならないのだ。
「王子」のシンパは少数派だった。
しかも、お金をくれないのならば、「軟弱者」についていこうとは誰も思わなかった。
「腐っている者は少数派だ」とも言われた。
仲間を買収したり、ジャッジを買収しなければ「割に合わない」のが少数派だったのだ。
その代わり、「口座を見ながら自分の勢力を考える」コツは早い時期に身に着けた。
モーニング娘。ミスタームーンライト

腐敗とは「少数派の王子」が、周囲を買収していくことを指している。
「キモノビート」がこの論点を明らかにしたのだ。
「王子」に敵対的グループが存在する以上、買収しなければ割に合わない。
「官僚・政治腐敗」というよりも、「息子の問題」であり、二世議員が多いのであれば日本国もかなり腐敗が進んでいるだろう。
しかし、忘れてはならないのは「王子は強くなければならない」ということなのだ。
ジャッジを買収しないで相手を殴り倒すのが王子というものだ。
郵政民営化(公的資金の政策的縮小)は腐敗を一気になくした。
王子に「強さ」を求めたのだろう。
小泉家の「父と息子」という個人的な事情もあると思われる。
敵対的グループが存在する「王子」の資金力が一気に締め上げられたのだ。
郵政民営化のBGMが「キモノビート」だと言っても過言ではない。
「金をやったらきりがない連中だ」「王子に強くなってもらうしかない」
そのような「父」からのメッセージであり、その代わり「組織に何が足りないのか?」は伝えることにした。

官僚の息子、医者の息子、社長の息子、弁護士の息子も敵対的グループが存在するために、政府、企業、病院、法曹界において「腐敗」が進まざるを得ないのだ。
「御曹司も楽な家業ではない」のである。

二代目が「金を払って仕事をしている」のだ。
三代たてば家も潰れるだろう。
なかには、「賄賂」が足りなかったために「犯罪者一家」と罵られる家もある。
籠池氏家宅捜査

世襲や家族、企業、病院、法曹界がある以上、なかなか「腐敗のないクリーンな国」が好ましいとは言い切れないものがある。
「親が金持ち。いるもんね、ああいうスーパースター」という子供たちの文化も腐敗がなければ成立しない。
郵政民営化は明確な規制緩和である。
「王子」に勉強やスポーツで真剣勝負を求めたのだ。

つまりは、「血統を絶やしたくない」という高貴な理由から、賄賂・腐敗というものは生じるが、そもそも「万世一系」「日本一の旧家」というものは存続するのは不可能に近い。

外国国家に、官房機密費や外交機密費を打ち込む上で、「毛並みのいい男の子へのお小遣いに換えてしまう」という発想が必要になってくる。
国際レベルで、資金の「効果の最大化」をやる上では、「お金の使い道の実態」まで話し合わなければならないのだ。
「仲間が多いとはどのようなことか?」をこのことへの理解力から試される。
「ODAも7割が賄賂として消える」と言われるが、「なぜいけないの?」ということも理解しなければならない。
共産主義国家の方がこのことをよりよく理解していたとされる。
なぜなら、「より、子供の性に寛大」だったからだと思われる。

我々は、国際都市として、外国国家の「国際基盤」を高めることに貢献したいのであり、それは、子供たちへの「安定した世襲制」および「彼女の保障」からもたらされるものだ。
貧しい「いじめっこ」をなくすことが有効であり、しかも、コストはあんがい安い。
「外国国家への送金」を考える上では、そのことをしっかりと話し合わなければならない。
内向きな国家なのか、領土国家なのかを考えなければならず、日本国は常に「領土国家」であり続けたのだ。
ただし、「子供の間の賄賂」に用いた方がいいというメッセージが明確であったかは明らかではない。
「受け取る側の論理」として賄賂として用いられてきたのだ。
国際社会で、日本国は、韓国とヨーロッパを失えば「孤独」だけが待っていた。
しかし、ODAに「メッセージ性」を与えることがうまく機能していなかった側面がある。

「国際人」ほど、このような「子供たちの現状」「毛並みのいい奴はいじめる」という文化を理解している。
外交官自身がそうだからだ。
外交官試験なんてものは昔は「憲法とディベート」だけで合格していた。
「毛並み」がモノを言う理由はここにあったからだ。
ベトナムで「郷に入れば郷にしたがえという論理はもはや通用しない」と日本国は言われたが、不正競争防止法は、「賄賂」という言葉の意味を誤解してはいないだろうか。

外交官の「団結」が最も重要であるし、日蓮がもし「神聖な風」をインド・中国の仏教徒の力によって引き起こしたのだとするのなら、「傑出した外交官」だったと考えざるを得ない。
外務省には「大鳳会」というものも伝統的に存在するではないか。

ただし、「彼女がいる男の子」にどこまで寛大になれるかが問われるだろう。
国家レベルでは上下関係があっても、子供たちにはそのような問題は関係ない。
サッカーの強いチームに頭が上がらないのが子供たちだ。
サッカーは子供たちのものだ。
必ずしも、国力と代表チームの強さは同じではない。
あんがい、「ODAの都合」を考えて、サッカーに投資しているのが国家というものであり、そのことの意味を「領土国家」である日本国はよく理解しなければならない。
勉強の歌 森高千里

一方で、「彼女がいる男の子」というものは必ずしも、王室や皇室となじむものではない。
「国家の指導者が身延山に来て欲しい」と考えるのであれば、この論点と向き合わなければならないだろう。
公明党から出た首相に行ってもらおうということで、創価学会も妥協している。

王子さまは「戦いに強くなければならない」という考えは当然、平成天皇のみならず私も持っている。
「彼女がいる男の子」に寛大になれないのであるのならば、そのような結論になる。
「彼女がいる男の子」の人気と、「勝負に強い男の子」の人気は、子供の世界を二分している。
子供たちにとってはお互いに妥協できないものなのだ。
子供たちのみならず、大人たちへと「多数派工作」が波及しかねないのが子育てというものであり、人気が二分しているのであれば、大人たちも妥協できないものだ。
政治家でも「過去の女」がゾロゾロ出てくる男は婿にふさわしくないと考える者もいる。
「自分を持っている男」ならば過去の女など関係ないじゃないかと考えるのもひとつの考えであるが、いろんな人が「身体検査」を受けるという世界もあるのだ。
男が有名になるためには「過去の女」は弱点だというのは明確だとも言われる。
酒井法子 サンクチュアリ

なかには、日本の天皇ではなく「池田大作さん」に会いにきたという外国首脳もいるが、その辺は「子供たちの人気」も含めて「相容れないものがある」と割り切るほかはない。
なにしろ、美男美女にこだわるのがリベラルというものだ。
「団十郎」のような美男子でなければ「身体検査」に引っかかって終わりなのだ。
世界経済全体を見渡すのであれば、それは皇室の仕事ではなく創価学会だろう。
「歌謡曲の人気」も「彼女がいる男の子」に味方している。
しかし、国をつかさどる上では「妥協できないこと」が君主にはあるのだ。
皇室は必ずしも、「世界人類の平等」は見通してはいない。
皇室は「世界の貧困」をなくすという方向性よりも、国を強くする、ということを考えている。
「条約を結ぶのならば大鳳会にやらせろよ」という想いも君主としてはにじませなければならないこともある。
世界の「女の子」の政治参加・歌謡曲への参加を推進したのは皇室ではなくSGIだろう。
それが「毛並みのいい男の子には敵対的グループがいる」「賄賂が必要になってくる」「彼女ができる」ということから生じた結論であった。
しかし、各国王室とは皇室は仲が良かった。
王室と仲がいいというのは単なる「国際親善」にとどまらず、「勝負師」同士の交友関係であった。
「勝負に強い」ということは、お金の面ではともかく、「恋愛論への理解力」は傑出していなければならない。
しかし、外国国家を民主化するためにはお金が必要なのだ。

急進的思想は女性を常に排除する。
そこで、わが国もODAの使い方を学習したわけである。
一度、お金をもらったら、「資金の引き上げ」も可能なわけだ。
ここに目をつけたのが、それぞれのNGOであるという秘密がある。
気象コントロールにせよ、感染症予防にせよ、金融にせよ、貧困や格差の解消など、多くの論点がODAによってなされてきたのだ。
「恋愛」が広まれば(民主化)、各国が独自でファイナンスが可能になってくる。
自分の足で立てるようになったら、ODAへの感謝の気持ちぐらいあらわしてくれてもいいのではないだろうか。
なにしろ「女の子の口説き方」すら取引されるようになるのだ。
各国政府に税収があれば、各国に存在する「怒り」にも対処できるようになる。
「世界の貧しい子供たちを救わなければならないと思うんですけど」というような左翼の夢は、実際は「それは可能である」と外務省の側が答えるだろう。
日本国の経済(男が女を愛する気持ちを利用する)力は世界のモデルになるに値する。
男社会だけでは「法の支配」は存在できない。
外国に「本」を売りつけるのも自由であるし、作家こそが「国際人」と呼ばれるし、クリスマスに平和を祈ったりすることも可能になる。
各国王室や君主は「本のセールスマン」として勝負事に強くなるし、サッカーだけでなく「戦争のやり方」も学習することが可能になる。
つまり、「民度」が向上するのだ。
日本国もそのリーダーとして、多くの「親日国」とつるむことが可能になる。
その力は現在は、皇室の方が創価学会よりも強いものと思われる。
CoCo 優しさに帰れない

昔から、PKOというものは世界が行ってきたが、日本国は「アジア開発銀行への拠出」などを行ってきたため、PKO不参加でも不満を言う国はなかった。
しかし、世界各国で「資金集めの方法」を指導する力量はなかったのだ。
宗教(男らしさを語り合う論壇)を充実させ、法律(男らしさ)を広めなければならない。
それも「女の子がいてこそ」成り立つものである。
松田聖子 赤いスイートピー

「学校を作ったからノーベル平和賞」というのであれば、これらのことを正確に理解していたことになる。

発展途上国においては、日本国の法律を参考にするよりも「君主が書いた小説」を読んで裁判官を務めるコモンローの方が馴染みやすい。
日本の「法律」よりも、君主が書いた「小説」の方が人気があるのは明らかだからである。
日本の法律は完成度は高いが、「学べば学ぶほど金持ちになれる」ものではない。
そのような意味においても発展途上国にはコモンローがふさわしいのだ。
法律というものは「勉強」するものだ。
プロ意識を持って、学べば学ぶほどお金になるという仕組みを構築しなければならない。

私は、中学の頃、「毛並みがいいだけの少数派」としていじめられたが、一度だけ、多数派の一人をぶん殴っている。
少数派の男に排除された多数派の男は、この瞬間「手がしびれる」とされており、私が「やるのかよ?」と言ったら「やらねえよ」と相手の男の子は答えている。
本来なら、暴力ではなく賄賂で解決すべき問題であったが、暴力で多数派を排除すると「手がしびれる」ということは指摘していい。

そもそも、クラスのマドンナ的存在の女の子も、孤立しやすい。
そこで、毛並みのいい男の子に「左目で三秒見る」という「色目」を用いてくるが、この時に冷たい態度をとったら、クラスのマドンナ的存在の女の子はクラスを総動員する力を持っており、もはや教室に居場所はない。
硬派を気取ればいいというわけではない。優しく接したほうがいい。
「目に何かついてる?」と女の子にいわれたら「ついてない」とそっけなく答えるのではなく、自分の目やにを確かめよう。
missラブ探偵

女の子は、女子高生ともなると「マスターベーションですら頭の中がメチャクチャになっており」(コストベネフィット論以前の問題と呼ぶ)、また、すべての男の子の「所得」を同じにしようとするものだ(ベースライン)。
そのために、クラス全員を動員する力をもっていた。
「賄賂」と言っても「缶コーヒー」程度で気分が良くなるのが子供というものであり、「日常のように供するもの」ならば、そもそも「賄賂」とは刑法上は呼ばないが、「対価性がある」などからあえて「賄賂」と呼ばせてもらった。

ことの発端は「クラスのマドンナ的存在の女の子」を相手にしなかった、ことからいじめというのは生じている。
「あの子がダメならみんなダメじゃない」と周囲の女子たちが考えるため、一気にパレートは移動する。
パレートの移動ほど怖いものはない。
「セックスは最高だぜ」というぐらい柔らかくならないとパレートの移動は元には戻らないだろう。

女子高生でも、恋愛に関してはあまくない。
「ユニオンを組んで快楽とお金を交換しよう」という発想が芽生えるからだ。
高校時代は楽しかったと私は副校長に言われているが、そのような学習を高校レベルでも行うことが可能であることを意味している。
快楽と富の交換(商人の道)は高校時代から教えられている。
男子高校生にとっては「アイスクリームで買える」女子高生を周囲におくことになる。
敦賀気比から東大に行くことは禁止されているのだろうか?そもそも、「必要性を感じない」のだろう。
しかし、二万円ではなく「アイスクリームで」女を買うのであれば、高校時代は「ブラックマーケット」といっても過言ではなく、ブラックマーケットを尻目に塾や予備校に通う行為にはなんら問題はない。
酒井法子 恋と愛のニュアンス

女子高生を愛する男子高校生は「マーケットエコノミー」つまり、アイスクリーム程度で性欲を満たすという効率のいい方法は知っているだろうが、「マーケットソサエティ」つまり、女を買うのは二万円かかるという社会の学問が学習できない。
散々、教室で「織田信長」「豊臣秀吉」などと歴史上の人物を教えていたのに「マーケットソサエティ」つまり「大人の学問」を知る機会が与えられないのである。
そのため、「自由な校風」と呼ばれるマーケットエコノミー型の高校は「マルクスエンゲルス系」と呼ばれた。
マルクス主義は、資本主義に「資金力で」大敗北を喫している。
いいか悪いかはともかく「大学が大人の入り口」という考えに資金力でかなわなかったのだ。
マーケットソサエティにおいては「セックスは私有財産である」とされており、大学にはいると3年次から早速「就活」という「お金の話」が始まる。
この時に「ノンケ」だと略奪愛の対象にもなるとされる。
愛が止まらない Wink

実力主義だと組織の平均年齢は28歳だとされ、しかし、「お上の意思」「高度な政治意思」が存在する場合に平均年齢は38歳になる。
医者の能力も弁護士の能力も持ち合わせた「お上」がいる場合にのみ平均年齢は上がるのだ。
高校時代のマーケットエコノミーでは存在しなかった「税金」など多くの要素がマーケットソサエティには存在する。
産業革命、つまり政治(女心の定義)と宗教(男らしさを語り合う論壇)に革命が起き、女の子はどのように「女」になるか?男がどのような「問題」を解決しなければならないかがより複雑性を増した時に、マーケットソサエティはマルクス主義に勝つ宿命にあったのだ。
東大文三で、一年留年しても銀座のバーに出入りしていた男を知っているが、「就活」=お金の問題をよく理解していたのだろう。
マーケットソサエティには「国のお金」が流れ込んでくる。
高校生にはない発想が生まれるのだ。
WTOルールによって、自分が作ったものが外国にまで届くようにもなる。
「税金」「赤字国債」「国のお金」「WTOルール」「予算」「人事」などを学ぶ機会のないマーケットエコノミー(高校生の論理)ではなかなか出世は難しい現状がある。

 

2019年4月 9日 (火)

目的的行為論。

目的的行為論というのは、「何度も繰り返しているうちにそれが気持ちよくなる」という理論であり、たとえば、外出して「家の鍵を閉め忘れたかな?」と心配になっても、実際は、家を出る時に鍵を閉めることが「気持ちいい」ため、必ず閉めていることなどを言う。
これは、横浜DeNAベイスターズの「ビッグフォー」(宮崎・ソト・筒香・ロペス)が、「慣れ」によって春先の調子はともかく、シーズン全体を見たら必ず「毎年の成績を残す」ことを意味する。
これは、2017年にフルイニング出場を果たした倉本の起用法にも関わる議論であり、また、ラミレス監督が「全幅の信頼を置いているわけではない」という桑原の使い方にも影響する。
あるいは、オープン戦首位打者であった楠本が「自分はまだ明日が約束されている選手ではない」と発言する理由でもある。
なにごとも「場数」を経験しなければならず、模擬テストでいい成績をとると、本番でも必ずいい成績が取れる。
見ている側も「だいたい結果が予測できる」という意味においては「バントのサイン」に博士号が必要とされる理由も「目的的行為論」を理解することが必要になるからである。
秋までのお付き合いとなる横浜DeNAベイスターズを見る上では「慣れ」というものは当然必要である。
見ている側にも「慣れ」(目的的行為論)があるため、球場まで来て他球団のユニホームに着替えてしまうことなどもあり得ない。
広岡達郎氏が「楽天が優勝するためには球団創設から10年かかる」と指摘した背景にもこのような目的的行為論が存在する。
バッターは「リリースポイントを見つめ、ボールのスピンを見る」とされているが、いつもこのようなことをやっていたら目が消耗する。
そのため「スリーボールワンストライクからのストレート」をホームランにすることにした。
変化球が来たら空振りするしかない。
「ボールのスピンを0.2秒で見極めるのは難しい」ということからこのような野球となっている。
バッターも「そもそもストライクしか打てない」というバッティングフォームを作ることで選球眼を身につけている。
打てないものは見送る、これがボールになるのならばいちばんいいのだ。
丸佳浩フォーム

先日、駅前でおばあさん(森昌子)と話していて、旦那が月に10日しか働かない男だと言っていたが、「他の女がちょっかい出すもので一緒になった」と言っていた。
どんなに経験豊富な女性でも「哲学者としての慣れ」があり、ようするに、「出会いが少し遅すぎた」という物語があったのだろうと考えるしかない。
瀬能あづさ I miss you.

なにごとも「いつもの論証パターン」を作る必要がある。
私の「考え方」を理解してもらえるのであれば、すべてを読んでいただく必要はないし、各自の研究に戻ってもらってもかまわない。

この「目的的行為論」は、問題への対処法を「より簡単に」するために用いられる。
問題とは自分に対する「悪意」である。
実際は、問題を「解いて」みて、手元に現金がきた時に「学習」するとされている。
問題を解いて現金を手にしなければ「カッコ」が閉じられないからであり、学習することができない。
渚のカギカッコ

そもそも、プロの世界の「ボール」の前には「素人は動けない」ということを背景に、強いスイングができるのであれば「期待しちゃおうかな」ということになる世界だ。
勝負の前には「女の子と話したり」「お笑い番組を動画で見る」など、気分転換も重要になるだろう。
しかし、「ボールのスピンを見る時間を長くする」ためには「スイングスピードを速める」以外に方法はないことも知る必要がある。

お金というものは「数が数えられる、女が買える、どの女にも通用する」ものであるが、選手は各自の「職場」で、お金を争っている。
当然、「いじめ」の存在は認めなければならないし、「全員が楽しんで野球をやる」ということを「ワンプレー」だけでなく、試合全体、あるいはシーズン全体を見ながら最大化するのが目的的行為論なのだ。
「罰を与えるタイプの監督ではない」緒方監督は広島カープを強くした。
現金が動く世界で、「全員が楽しんで野球をやる」ことが重要であり、早いイニングではビッグイニングを狙っていくため送りバントはないが、それ以降は「慣れ」を見ながら、「結果を非難しない」という姿勢が監督には求められる。
監督=マネージャーと言われる以上、監督としてはそのような「全体像を自分だけが見ている」という姿勢が必要なのだ。

いじめの存在を認める以上、「女の話」のひとつもできない男は周囲との社交性に欠け、全員が楽しんで野球をやる、ためには「野球以外の話ならば何でも聞いて」(長野久義)という姿勢は重要になってくるだろう。

政治力だけで「階層化」されたチームの人間関係も、「真剣勝負」「結果」の前には人間関係の「階層化」がかなり上から潰されてきて平らになってくる。
チームの中には「試合が好き」なもの(政治力のない者)と「試合が嫌い」なもの(政治力だけで生きている者)が存在する。

横浜DeNAベイスターズは「ビジターに強い」とされているが、「大坂の女」「名古屋の女」「広島の女」という具合に、各地に女がいるプロ野球界の伝統と異なり、あんがい「紳士的」なチームであることを意味している。
各地の「女」が「他に男がいるのではないか?」などと考えると、「幸せですか?」と言われることになりかねない。
幸せですか

女と言っても「人数」「認め合うこと」「場所」「時間」が存在し、「女の数がべらぼうに多い」「人として認めない」などということも当然想定されるが、「場所」をビジターでは変えなければならないことと、女の側にも「時間」が与えられることから、「幸せですか」という問題は当然、ビジターに強いチーム、には監督が「教会法」を与えていると思われる。

監督という仕事は「シーズン全体を見通す」「教会法を作る」「結果を非難しない」などの仕事があり、そのような「権力」が与えられる。
それ以外は、ファンと監督の間に「力の差はない」とも言われる。

一方、ホームでの弱さというものは「すべての家庭が改革を望んでいる」ことから、その「教会法」の論点つぶしはビジターゲームよりも難しい、とされ、ラミレス監督も「阪神と横浜スタジアムで戦うことの難しい側面」としている。
私も「教会法」はブログで書いてきたが、「すべての家庭が改革を望んでいる」ことに「難しい側面」があったのだ。

プロ野球選手は、労働組合法上は「労働者」であるが、労働基準法上は「労働者ではない」とされている。
「労働者ではない」存在の選手に、どこまで「教会法」の導きを与えるのか?
このあたりが「すべての家庭が改革を望んでいる」とされるホームゲームにおける「難しい側面」であるということは可能だ。

ゲームも終盤になると「今日は負けでいいんじゃないか?」「絶対勝つぞ!」などの多くの混乱がおき始める。
なにしろ「勝率五割」程度のチームだからだ。
そんな時に「ベンチが送り出すバッター」を作るのも難しい問題だ。
現在は、佐野あたりだろうが、「ネガティブな言葉」に敏感なのが人間である。
試合終盤になると、家族のことを考え始める者もいるし、いろんな言葉が飛び交う。

誰もが「哲学者のように」男らしくて団結した存在ではない。
負ける用意もしておかないと「次の日につながらない」のは事実であり、監督としては「全員が楽しんで野球をやる」ことを、お金の裏づけや、いろんな「教会法」を背景に、推進しなければならないのだ。

横浜DeNAベイスターズは、地元横浜のみならず、東京・大阪・名古屋・広島などに「薬物を盛られないための行きつけのスナック」を持っている。
選手は、球場で「異常なストレスと興奮」にさらされているため、「酒が飲めない人はプロには向いていない」とも言われる。
スナックでは、選手は、過去の実績のみならず、現在の調子、将来性などすべてを武器にして、とにかく「自分の存在意義」をアピールする。
しかし、酔いつぶれてスナックを出たら「家庭」に戻らなければならないのだ。
家庭に戻ったら「一神教」の世界の神として、妻や彼女は選手を扱うことになる。
さっき映像で見た男が家に帰ってくるのだ。
スポーツニュースで、報道される「今日のヒーロー」もいれば、適当に貢献した者もいる。
なかには、まったく活躍できなかった男もいる。
しかし、それが家庭内では「神」なのだ。
家庭に戻ったら、「それでは家族として受け入れられない」と思われてはならず、食事への薬物混入や、タオルを持ってピッチングの練習、庭での素振りなども誰にも介入できない。
どこまで、「家庭内の問題」をシンプルにして「ストレスや興奮」から開放し、次のゲームでも同じように力を発揮させるかが重要だ。
誰もが、「今日のヒーローになった経験」があるからベンチ入りしているのだ。
酒井法子 涙が止まらない

一番の問題は、「神」=男が「常に他の男と比べられている」ということだ。
自分が「変わる」ためには「他の男と比べられなければならない」という側面があるため、選手は常に「変わり」続けなければならない。
しかし、「家庭」の問題と「変らなければならない」という問題が、選手寿命とどう関わっていくのかは各自が考えなければならないとされる。
避暑地の森の天使たち

目的的行為論というものは、「今日のゲーム」と「シーズンの全体像」つまり、部分と全体を見るものだ。
みんな「数が数えられる、女が買える、すべての女に通用する」という「お金」をめぐって、いじめをやったり、技術を競い合っている。
だったら、「いじめ」「技術」はお金という「査定」でコントロール可能だ。
金本は「いじめ」の達人だったから連続試合出場記録を作った。
しかし、「技術」がなければ査定で辛酸を舐めただろう。
また、技術がなければ誰も「アニキ」などとは呼ばなかっただろう。
「いじめ」と「技術」の二つを見ながら、最終的には「戦力外通告」をすることもある。
スイングスピードは速ければ速いほどいい。
しかし、スイングスピードを高める作業をやっていると「いじめられる」のだ。
グラウンドで素振りをしていると必ず「二人の男」がニヤニヤしながら見ている。
そのため、スイングスピードを高める作業は、各自が自宅の庭でやるしかないという側面がある。
それほど「いじめ」と「技術」のバランスをとるのは難しいし、いじめのすべてをなくすために「査定」を用いることはできないのだ。
スイングスピードの向こう側には「女の影」がちらつく世界だ。
グラウンドでは何もできないにひとしい現状がある。
大事なのは「スイングスピードは速ければ速いほどいい」という野球の基本を知ってもらうことと、労働組合法上の「事業所」であるグラウンドではそれを高めることは困難であるということを各選手に知ってもらうことなのだ。

王選手も「畳の上で」スイングスピードを磨いたが、マンツーマンで「スピードの向こう側」を求めると、「厳しすぎてついていけない」という危険もある。
荒川道場

また、「スイングスピードを高める世界」には「八人の敵がいる」とされ、いろんな「アドバイス」を、東西南北(八つの方向)から浴びせてくる。
フォームがどうとか、膝の使い方がどうとか言われると「スイングスピードが一番重要」という基本すら見失ってしまうのだ。
自分なりの「トレーニングのやり方」を理解したら、「お金を周囲に払う」ということも怠ってはならない。

バッターは少なくとも「スピードの向こう側」というものを求めるため、「グラウンド以外では練習しない」ということは致命的なキャリアへの悪影響を与える。
ピッチャーも「速くて正確なストレート」を身につけるのが基本である以上、自宅における「スピードの向こう側」を求めるトレーニングは必要になってくるだろう。
なにしろ、労働基準法上の「労働者」ではないからである。
大谷翔平は「医者の息子」として「お金」に恵まれたが、周囲にお金を払いながらスピードを求めていかなければならない。
グラウンドで「みんなと同じこと」をやっていたのでは、超一流にはなれないし、グラウンドでへたばっている程度の体力ならば「その程度」とあきらめるほかはない。

この「スピードの向こう側」というスポーツの練習を、「すべてグラウンドで」行おうとした外国人監督が昔、広島にいて、「いじめ」と「技術」という二つの軸を理解しようとしなかったため、衣笠は「このままでは我々が潰されてしまう」と発言している。
いじめの存在に無頓着でいる指導者などいないのだ。

結局、野球というものが「男のスポーツ」である以上、「おちんちんのおもむくまま」に「全員が楽しんで野球をやる」という方向にうまく誘導する必要がある。
モーニング娘。セクシーボーイ

「いじめ」と「技術」はそれで成り立っているのだ。
技術論も「スイングスピードが速ければ速いほどいい」「速くて正確なストレートが大事」という具合に「ポエム」にならざるを得ない。
なにしろ「おちんちんのおもむくまま」によりシンプルに誘導しなければならないからである。
また、そこには「フロントがうまくお金を集める」という発想も重要になってくる。
お金とは「数が数えられて、女が買えて、すべての女に通用する」ものであるからだ。
「おちんちんのおもむくまま」に「全員が楽しんで野球をやる」方向に誘導するのであれば、かつて私が「野球理論君」と言われた時の技術論だけではダメだろう。その力の最大化のためには「女性」の存在を研究しなければならないのだ。
極端な話としては「失敗ばかりして勃たなくなった」時に、野球が楽しくなくなり、任意引退ということにもなる。
そのような意味では、中村紀のように「野球をやりたい」というのであれば、獲得してもいいわけである。
「野球がやりたい」という心がなければ、チーム全体をうまい方向に誘導することはそもそも監督として困難だからだ。

結局、お金があるということは、「女を買える」というだけの効果にとどまらず、「悪いことをしない」ということを意味するため、「処女ですら告白してくる」という効果をもたらす。
処女は「犯罪者」をもっとも嫌うため、刑法というものは「処女に嫌われる振る舞い」を基本に作った。
処女にもモテるということが、どれほどベンチを明るくするであろうか。
ベンチが明るいというのは、いろんな意味で「勝つための基本」なのである。
AKB48 恋するフォーチュンクッキー

ベンチにお金が行き渡るというのはフロントの仕事であるが、あんがい「選手も知っているワイドショーネタ」の解釈論に詳しいなどの力量からもたらされるものであり、そのへんは「選手の頃は何でもできると思っているだろうが、引退したらそうではない」(王貞治)という具合に、元名選手すら学歴社会に呑み込まれていく現状もある。

通常、男というのは「金のかかった大切な女」に裏切られると、激怒するか、あるいは「禿げて」しまうものだ。
しかし、プロ野球選手に「禿げ」は少ない。
つまり、「女に裏切られるほど貧しくはない」ということを意味する。
「ごく普通の保守的な男」が多いのが球界の現状だ。
「女を人として認めない」のならば裏切られても禿げないだろうが、熱血指導を受けてきたプロ野球選手にはそのような男はいないと言ってもいい。
女に関しては「保守的な男」と考えた方が球界の分析にいちばん切れ味がいい。
藤本美貴 銀色の永遠

保守的な男が多い分、「おちんちんのおもむくまま」「選手全員が楽しんで野球をやる」という監督やフロントの力量は最大化しやすい。
国民全員が注目しているのだから「先頭打者スリーベースに一億払う」と思うのがファンの心理だろうが、実際は「10万円」などの低いコストで全力を出してくれるのがプロ野球選手だ。
試合が終わった後に、換金性の高い「景品」を山ほど届ければ「おう」と言ってくれるのだ。
また、「歴史の評価を仰がなければならない」「世の中の男の模範とならなければならない」と頼まれもしないのに考える男が多く、なかなか、「遊び人風情のタレント」と仲良くなる関係にはない。

 

2019年4月 6日 (土)

国家の富の最大化。

世界に100億人の人がいるとしよう。
まず、「男女が同じ数だけ」生まれなければ、みんなが幸せになることはない。
このあたりは、気温や文化などから「精子と卵子がぶつかり合う速度」を乱数化しなければならない。
精子と卵子がぶつかる「速度」が速ければ男の子が生まれ、遅ければ女の子が生まれる。
「文化」がコントロール可能なのであれば「気温」もコントロール可能だ。
「女の子が欲しいな」という文化が作られたのならば、お天道様は「だったら気温を高くして男の子を生まれさせてやる」と考えて暑くなる。
つまり「女の子が生まれることへの期待」を高めなければならないのは文化の側であり、気温はその分、「お天道様が見ている」ものである。
男が「暑苦しい」と言われる理由もここにある。
豊かさには「バランス」が必要であり、女ばかりで「パラダイスだ」と思ったら氷河期に突入しかねない。
ミュージックステーションが休みだった翌日の今日は少なくとも暑かった。
「文化」が女を歓迎するのであれば暑くなるだろう。
宗教(男らしさを語り合う論壇)には爽快感がともなうし、「健康な赤ちゃん」が生まれるのであれば、宗教と歩調を合わせるように「多数派工作」が可能になる子供になるだろう。
社会は常に「快適な気温」を求めているが、しかし、宗教(男らしさを語り合う論壇)というものは常に存在する。
どの女性も、病気の時に妊娠しようとは思わないものだ。
「男」「医者」がいなければ妊娠できない。
「垂加神道」「女心を定義する」作業をやってから夏は暑くなった。
「待望の女の子」という文化が、お天道様によって「男の子が生まれろ」と言って暑くなっている。
我々は、「待望の女の子」という文化から「暑い太陽」を経験しているのであり、決して、「中国の石炭」「一帯一路」からくるものではないことを知らなければならない。
夏の暑さは「鉄道網の充実」「テレビでのじゅん散歩の放送」「クーラー」などで調節が可能だ。
私は「垂加神道」「女心の定義」を煽ったが、夏の暑さとの付き合い方の研究は後から始めている。
しかも、「女心」を語ると「欝になる」という女性もいて、二年連続で紅白歌合戦で白組が勝っている。
政治(女心の定義)は夏を暑くさせ、宗教(男らしさを語り合う論壇)は夏を涼しくさせる。
「精子と卵子のぶつかり合う速度」が男の子か女の子かを決め、それは「文化」と「気温」に依存していることを見抜き、さらに「美女の上に雲ができる」「男が雲を雨に変える」ということまで考えて、言論活動を行わなければならない。
高橋由美子 レイニーデイ×3

あくまでも「人間中心主義」のもとで、気象をコントロールし、国家の「富の最大化」をすることは可能であろう。

ハードコアが露骨になると少子化になるということも理解しないといけない。
女の「プラスティック化」は確実に少子化を軽減するだろう。
プラスティックの唇

女性の「局部」を「まんまんちゃんあん」と言って拝むぐらいでなければ少子化は収まらない。
かなり「男にとってはサディスティックな」結論が、少子化問題であり、「歌謡曲」が流行し始めた頃にベビーブームは起きている。
膣をさらして39名の女が伝説になってしまった以上、「まんまんちゃんあん」の方法は別の形で考えなければならない。
「人口六千万人ぐらいがいちばん住みやすい国なのかな」(与謝野馨大臣答弁)というのは、高度な政治意思であるが、「少子化問題」というものを問題にするのならば「露骨なハードコア」「女性の局部が軽んぜられる」という問題であることは知らなければならない。
そこで、我々は「気象のコントロールによる国の富の最大化」と「出生率への介入の方法」を知ったのだ。
私が「垂加神道」「歌謡曲」を明らかにしてから、出生率低下は若干緩和されているが、「露骨なハードコアへの男の子の好奇心」だけは止められなかった。
「お天道様はお見通し」
これを基本に、「太陽」と向き合っていかなければならない。
台湾やアメリカのサーバーを日本人は自由に閲覧できるが、「少子化問題は男の子にとってサディスティックな問題である」ということも知っておかなければならない。
「人口六千万人ぐらいで天気のコントロールだけやろうかな?」というのもひとつの見識ではあるのだ。
男の子の「好奇心」に「課金」したところ、少子化は軽減されただろう。
少子化問題は「台湾とアメリカによるオペレーション」だったことを悟る必要がある。
昔は、大雑把に「尾崎豊が流行るのならば少子化に向かうかな」と考えていた。
「お天道様のコントロール」以外にも「人口減少社会という”変化”そのものが富になる」という二つ目のシナリオがある。
「日本国が100人の村だったら」
ふたたび「帝国」に膨張する可能性があるとして、一度はそのような発想に切り替えるのだ。
本当に「必要な人」がいなくなったら、その地はサマルカンドのような砂漠になるのだ。
しかし、今は「草木が生い茂り、病害虫の温床になっている」状況だろう。
「少子化問題はまだ危険水域にはない」という判断も可能である。
「女なんてどれも同じ」という発想が危険なのであり、しっかりと個性を見たりして「比べる」という発想は必要になってくるだろう。
若いうちだけではあるが。
瀬能あづさ I miss you.

「気象の問題」「少子化の問題」の論点を明確にした上で、国の富や「男が女を愛する気持ちを利用する」(経済学)というものと向き合っていくのが基本であろう。
単純に「美しさ」だけを追いかけていい世界と、「かかったお金が違う」世界が存在する。
藤本美貴 銀色の永遠

「かかったお金が違う」というのは若いうちは分からないだろう。
しかし、お金をかけた人間というのは必ず何かを「跳ね返して」くるものだ。
「自分の子供を産んでくれるだけでありがたい」という側面があり、他に「金をかけた女がいる」のならば「できちゃった」と言われて脂汗を流しかねない。
松田聖子 抱いて

「気象の問題」を明らかにしたのであれば「豊かな社会で愛し合おう」ということになるだろうが、「抱いて」の論点は理解しておかなければならない。
愛し合いたければ「男女は対等である」と憲法に書く必要があるだろうし、実際に書いてある。
「気象の問題」「少子化問題」とは異なる議論として「愛し合いたければ男女は対等」という議論は確実に存在する。
しかし、「気象の問題」をクリアーしてなお「お金目当てでない結婚」というものは存在できるのだろうか?
貧困女は「男の七割のお給料」をもらうという経験をしてからお嫁に行くことになる。
しかし、「できちゃった」という女特有の出来事は「貧困」を帳消しにするほどの意味を持つだろう。
アメリカ合衆国の哲学ブレーンは、「格差の解消」を着実に行ってきた。
すべて、「処女/非処女論争」を巧みに用いて、「できちゃった」を利用したのだ。
アボガトじゃねーし

1995年にパーフィットは、「気象の問題」「少子化問題」をクリアーする方法は分かったし、国を豊かにする方法も分かったけど、「男女は対等」という論点を考えるのであれば、「大富豪」など誰も望んでいないとした。
適当に「金に困っていなければ」何も学ばない連中を率いていたのがアメリカ合衆国だったのだ。

中華人民共和国が、2020年代にGDPで世界一位になるとされているが、「言葉の壁」をクリアーするのがうまかった。
なにしろ、中国語は国連公用語であったし、世界の「言語パレート」はあんがい不平等に動いていた。
女子高生に「勉強するか、恋をするか」の二択しか迫れなかったことも、日本国においては好ましいことではなかった。
君主が弱く、「先生が権力者」というアロー理論も、先生への不信感を募らせた。
およしになってねティーチャー

日本国においては、天皇の「御神影」を先生が隠してしまうことは、窃盗罪ではなく、「不法領得の意思」がないとされ、男性的な、より「先生としての権威を保持するための」ものとされ、無罪とされている。
アロー理論とは「御神影」を先生が隠すことを議論したものであり、「先生」なのか「君主」なのかはのちに議論したい。

ここで、「先生の方が大事」と答えるのであれば、「全人類の平等」を目指したことになる。
個性を知りぬいた「40名の村」の方が重要であるという判例が下ったのだ。
「御神影」など知ったことではないと考える「先生」の存在と、その権威を、私は、女子高生のスカートの短さ(トルソー)で眺めるほかはない。
スカートが短いということは「権力批判」を意味し、アロー理論によると、その「権力」とは先生のことを意味したのだ。

君主としては、「大人が介入する世界ではない」として教室の「先生」の狼藉を笑ってみているしかない。
なにしろ、教室の中の権威を守ろうとしているのだ。
愛の倫理社会 おニャン子クラブ

私が、あくまでも「日経平均は女の値段」と考えて、供給を抑え込もうとし、女子高生に「真面目に小テストを受けてね。19歳になったらシルバーリング(ポルシェ)をあげるよ」というメッセージを出したのも、私にとっては強烈なエネルギーになった。
エジプトの言い伝えらしい。
シルバーリングに口づけを Melody

企画立案は、女子高生の「不平等への怒り」を基盤とし、ひたすら「ユニークに」を心がけた。
本当に、ポルシェやバイクがもらえるかはまだ明らかになっていない。
クリスマスシンデレラ 酒井法子

アロー理論は、「何のルールもなく、本気で選挙をやったら女子高生が当選する」という問題意識から始まっている。
しかし、政治の世界は「知らない者は歓迎していない」として、女子高生を排除し、「先生」の権威を守った。
大人たちも、女子高生を守るために「独裁者」への嫌悪感をあらわにしていた。
女子高生に「彼氏とどこまで行った?」という議論を用意し、男の数の「n」をクラスメートの数に抑え込んだのだ。
組織論における「独裁の嫌悪」とは、街を歩いてみれば分かるが、答えは「女子高生」の存在にあった。
独裁者の存在に「ママは熱くて、パパは冷たい」と言われる。
パパほど「独裁者」を憎んだ者はいなかったし、ママほど「フロイトファシズム」を支持した存在はいなかった。
キスした跡はのこさないで 国生さゆり

男子高校生は、独裁者への好き嫌いがはっきりしていたにとどまる。
なにしろ、肉声を参考にする者と、そうでない者がいたからだろう。

各人は、自分の「投票の以来の経験、フェティシズム、セックス、お金」を持っている。
しかし、テレビでは、「集団的な決断、集団的なフェティシズム、理想のセックス、国民全体の豊かさ」が放送されている。
「個人から集団へ」というのはどのようなプロセスを経るのであろうか?
この国の「定番」になるのは大変だ。
宇宙人ジョーンズ SMAP

なぜ、女子高生の話をしたかというと、「個人から集団へ」と「フェティシズム」が拡散していく上で、「女子高生の影響力」というのはきわめて大きいものがあるからである。
「名も知れぬアマチュアバンドのMDを誰かがみんなに聞かせたらすごく流行った」
松浦亜弥 笑顔に涙

そういう意味では「この国の定番」と言われる「毎日テレビで見る人」というのは「男が選んだ存在」ではない。
アロー理論は「女子高生が選挙に当選するのを防ぐ」ための理論であったが、選挙には当選しなくても「選挙区の候補者を二人か三人」に絞る力量が女子高生にはあったのだ。
「お母さん、お母さん」と言って、政治献金を政治資金管理団体に送らせる力量が女子高生にはあったし、お母さんは娘に嫌われたくなかった。
政治資金管理団体は、お金があればあり次第、候補者を絞らざるを得ない。
この「集団的フェティシズムは女子高生が作る」という理論は、労働組合からのチェックオフを受けている野党の資金力をはるかにしのぐものがある。
「女子高生にも分かる話をする」ということは政治家にとって致命的な重要性を持つ。

この国の「多数決」はお金によってなされている以上、「女子高生+お母さん」の存在はきわめて大きなものがある。
いずれにせよ、「しぶとく生き残る」「いつもテレビで見る人たち」はこのことを理解しているから存在できるのだ。
宇宙人ジョーンズ SMAP

弁護士や医者などの「免許を持った人」は、「政治家」「宗教家」という「女子高生の支持を受けた人」に、人気で圧倒されたし、契約書を結んで情報提供を求めた。
人気商売というのは「女子高生を相手にしている」というのがSMAPの秘密だったし、垂加神道の秘密でもあった。

「気象をコントロールする方法」は分かった。
「少子化問題をコントロールする方法」も分かった。
しかし、実際にコントロールしたければ「女子高生の支持を得ながら」やらなければならない。
夏は暑いほうが国が豊かになると言っても、「暑っ!カフェオレ飲みて」という女子高生の支持がなければ「暑い夏」を自在に操ることはできないだろう。
あるいは、台風撃退法も私は明らかにしているが、「世界に終わりが来てしまえばいいのに」と考える女子高生も存在することを知らなければならない。
「お母さん、お母さん」と言って、銀行のATMの前でお母さんに送金をねだっている女子高生の支持がなければ、「集合的フェティシズム」は実現困難なのだ。

失恋の研究をしていると、「男は賢い方がいい、女は美しい方がいい」とされている。
そうなると「父と娘」はその条件を満たしてしまう。
しかし、「お母さん」が「父親」にはいる。
そのため、クラスメートの男の子に目がいかざるを得ない。
女の子であること、おちんちんがないことへの欝もある。
そのような「女子高生」の気持ちを理解した「平成の名曲」がある。
SPEED STEADY

hiroの「高い声」は、性概念が定着する前に「ペニバン」を使用したことからくる「野太い声」が背景にある。
Erikoにはない「才能」であり、宇多田ヒカルにも研ナオコにも同じ「才能」があった。
頭の左側を強打したことがないことから「滑舌の良さ」も生まれているし、そのあたりの「才能の発掘」はヤクザみたいな連中がやっているとされている。
いずれにせよ、「女子高生の問題」をhiroの才能が歌ったら大ブレイクしたのだ。
SPEED Go Go Heaven

「いい行いには褒美を、悪い行いには罰を与える綿密な尺度を構築する」
これが王朝の力量であり、
褒美とは「モテること」であり、罰とは「モテないこと」であるとするのがいちばんいい。
神社仏閣ってどんな教え?
このことに興味を持つのならば、「ご利益」をしっかりと用意しておかなければ「王朝の力量」が問われることになる。
女子高生(処女)たちの支持があれば夢が見れる。
これは、安室奈美恵だろうがスマップだろうが同じだった。
高橋由美子 おみくじ

この「王朝の力量」が機能しなくなることを「砂漠化する」と言うのだ。
父をいたわらなかった息子の方がいたわった息子よりも多くの財産をもらったり、一生懸命スポーツに打ち込みながら、大会が行われなかったりすることから、「砂漠化」は始まる。
基本的に、「努力する基準がない」ことから砂漠化は始まっており、
「君主の肉声が聞けない」「時代のテキストがない」ことからサマルカンドも砂漠になっている。

基本的には、努力した結果、何かを成し遂げても、周囲に「女たちが群がらなく」なったら、それは「砂漠」であろう。
なにしろ「女の子が生まれないかな」という強烈なメッセージになるため飢饉や旱魃に襲われるためである。
東大に入っても「ろくな教科書がねえな」と思うのであれば、それは王朝の力量と関わる問題であり、砂漠化が進行する前兆であろうと思われる。
東京砂漠

神社仏閣の「教え」を身につければ、一生、女に困らないだろうが、「盗んだお金」で女遊びをするのであれば、「金の切れ目は縁の切れ目」「女の嘘」などと直面して、「盗み」をやる男の心は「砂漠化」するだろう。
これも「王朝の尺度」が構築されていればこそである。
特に「いじめっ子」「ただ生きているだけの人間」は晩年もさびしいものになり、おのずと「王朝の尺度」による裁きを受けていることになる。
才能のあるものが「いじめ」をやるのならば「ゼロ」をかけることになり、才能のないものが「いじめ」をやるのならば「ゼロ」をかけることになり、才能のないものによる「いじめ」はあんがい失うものが少ない。
才能のないものは、「いじめ」をやらなければ「女子高生にモテない」ことになり、いじめをやらなければ割に合わないことになる。
しかし、「才能がない」「いじめをやらなければ割に合わない」存在が、「センター」になるわけはないだろう。
王朝の中で生き、王朝の尺度にしたがって、「罰」を与えられる。
つまりは「悪夢」を見たり、アル中ならば「腎臓、肝臓、糖尿病」などになるなど、人生というものはあんがいフェアなものとなっている。

「弁護士」「医者」と「政治家」「宗教家」の関係はすでに述べたとおりだが、「勉強だけがすべてじゃないからな」と言い訳していた連中が、「王朝の尺度」が構築されたとたん「後悔」を口にし始めた。
宗教家としてストイックに生きるか、無知なものとしてストイックに生きるかが問われた。女子高生の支持がなければ夢が見れない現状があった。
女子高生は、「男は賢い方がいい、女は美しい方がいい」という失恋の研究から「父と娘はこの条件を満たしてしまう」ことと「お母さんがいる」ことから、クラスメートの男子に救いを求めていたが、おちんちんがないことに欝になったり、あるいは、「友達と恋人の境界線はセックスにある」ことや、セックスから愛に変わるのであれば看護師にでもなればいいのにと言われ、「王朝の尺度」を知っている「モテる男」への憧れを抱くようになった。
SPEED My graduation

最初はマメだったのに、手に入れたとたん冷たくなる男(目的手段論)を経験しようが、
とことんセックスしまくってすべてを失うこと(快楽手段論)を経験しようが、天然ガスの富が「女子高生」にもたらされるのならば、いい経験になっただろう。
資源を用いて男の子(男)は勉強し、「政治家」「宗教家」の言っていることを学んでいる。
東大生にかかった「ガス代、電気代」だけでもバカにはならない。
それらの「お金」が、目的手段論に立とうが、快楽手段論に立とうが「女のお金」となるのだ。
目的手段論 快楽手段論 「金のかかった男」かどうかは話せば分かった。
からだ目当てでなく「哲学の腕」を磨くために近づいてくる男がいたら、恐怖を感じ「あなたの言っていることぜんぜん分からないし」と答えた。
しかし、スマホゲームビジネスの世界には「言葉磨き」をしたいという男は確実にいたし、女子高生は「目的手段論」「快楽手段論」のどちらでもない「王朝の尺度」の話を男から電話で聞いてマスターベーションすることが、「ガス代、電気代の節約」となった。
なにしろ「男の話」を聞いただけで、そのデタラメぶりが正解だとわかり、自分の体調が良くなったのだ。
男はモテれば金には困らなかったし、女は「男と話せば」体調が良くなり、ガス代電気代の節約になった。
目的手段論を経験しようが、快楽手段論を経験しようが、スマホさえあれば、女には「お金」があることになったのだ。

「殴れ」「盗め」「約束を破れ」と言っていた連中の周りから「女の子」たちがいつの間にか消えていた。
これが「天気をもコントロールできる」王朝の力量だった。
このことから、「王朝の力量」は、「いじめこそが宗教」と言っていた連中の排除に成功し、「ルール崇拝」を根付かせた。
「隠し通すのがルール?」
平成の時代はそうだったかもしれないが、新時代は「いじめこそが宗教」「オナニーするのに理由はない」という連中を「ガス代電気代」によって排除していくのが「ルール」となった。
安室奈美恵

「殴れ」「盗め」「約束を破れ」と言っていた連中が、「NHKと王朝が天気をコントロールしているらしい」という噂を聞いて「すみませんでした」と言ったのだ。
番組を見て、天気を予想するツワモノが出てくるかはまだ明らかではない。

「王朝の尺度」を知らない男でも、「飢えてはならない」「医療の恩恵にあずからなければならない」「パートナーがいなければならない」とされ、それを「NHKによる天気のコントロール」が握ろうとしている。
男は「自分の力を最小化すれば分かるものがある」とされた。
貴島サリオ 未来の思い出に

なにしろ「夢」がぶつかり合っているのが世の中である。
エル(覇権国家・アメリカ)・ヤーヴェ・エロヒム(覇権国家・アメリカの先生たち)の必要性に気が付くまで、ひたすら「東京大学の勉強」をさせた。
「英語できません」という男も当然いるだろう。
それでも、着実に国内の情報は充実していたし、ベンサムは「ノーメンクレイチャー」を生み出していた。
平等って何?
「腹が減らない」「医者に診てもらえる」「彼女がいる」ということだけだろう。
あとはスマホがあれば成り立つ社会だ。
すべては「NHKが天気のコントロールをすることができるようになった」からである。
「ガス代電気代」さえケチらなければ、どの男だって「勃てばいい」だけだろう。
所得と国の富は明らかに連動している。
NHKによる「所得激増計画」が始まろうとしているのだ。
もう一度、スマホを持っていればいい。男は勃てばいい。という原点に戻ってもらいたい。
下痢をしないこと、健康であること、落ち着いていること、幻の恋人がいること、笑えること、処女にモテること(犯罪を犯さないこと)、テキストがあること、テレビを見ること、女心を知ること。
今となっては、NHKのおかげで「腹が減らない」「医者に診てもらえる」「彼女がいる」という念願がみな叶おうとしているのだ。
ゆっくりと生きていけばいいのだ。

マーサ(アクィナスの留学時代の先生)は、「アメリカの農業の秘密がバレたわね」と30年以上後になって語った。
「変化」すらお金になる時代なのだ。
ましてや「天気のコントロール」がどれだけのビッグマネーになるかは分からない。
日本テレビすら「私たちができることではない」と言っていた。
「女の子が生まれればいいのに」=「暑くなる」
「男の子が生まれればいいのに」=「寒くなる」
「女がテレビに出ている」=「涼しくなる」
「男がテレビに出ている」=「暑苦しい」
「美女の上に雲ができる」「男が雲を通過すると雨が降る」
これだけ覚えておけばいいのだ。
アメリカ人は雲の上からスカイダイビングでもやったのだろうか?
ようやく「友達ができる」人もいるだろう。
なにしろ「腹が減らない」「医者に診てもらえる」「彼女がいる」のだ。
「台風は来ません!」
これが「繁栄の神学」の正体だったのだ。
NHKも、「天気のコントロールが可能」であることを理解したら、受信料無料どころか、受像機まで配り始めるんじゃないか?
こんなことを明らかにしたんだから、もっと、小野光太郎という人物を顧みようよ。
みんなが考え始めた。

「世の中に”貧しい人”っていないんだよ?」
しかも、人々の「幸せ」と「怒り」に税金を課しているのだ。
あとは「自分を持っている人」になるだけだよね。
シャカリキになることはない。
酒井法子 サンクチュアリ

NHKが天気をコントロールすることができるようになると、家にせよその他のものにせよ、「国の財産か自分の財産か分からない」ものに囲まれるようになるけど、所得と国の富が少なくとも「同じ意味」ではないのだから仕方がない。
「恋の過激派」型の女はお金を持っているだろうが、「貧しいものがいない」社会というのはみんな「自分を持っている」ものだ。
日本の農家もいずれは「アメリカの農場のように」「妻と80分に一度顔を合わせる」カトリック化するんじゃないか?
「腹が減らない」「医者に診てもらえる」「彼女がいる」という社会においては「保険」というものも、かなり「高度な理論化」がなされるだろう。
この三つのうちどれかを失ったときのために保険というものはあったからだ。
あとは「女の子が生まれればいいのに」「男の子が生まれればいいのに」という問題は「女たちのフェティシズム」に強烈に依存しなければならないため、このあたりの研究は必要になってくるだろう。

女たちはすぐに「団結」するため、天気のコントロールをするためには「女のフェティシズム」を狙った方がいい。
しかし、女は「女よりも男にキスしたい」と考えているため、「男の子生まれないかな」=「気温が下がる」というコントロール以外に、いちばん都合のいい「コントロールの方法」はないのではないだろうか?
「男が女を愛する気持ちを利用する経済学」がインターネットで幅を利かせているため、「気温を下げる方法」だけ分かればいいという発想は当然成り立つ。
なぜ、「女の団結」がいちばん拡散力があって、「男の子生まれないかな」しか、有効なフェティシズムが見つからなかったかというと、「気持ちいい」という記憶が何よりも優先されるからである。
ribbon 愛してジャスティス

アーヴィン・フィッシャーと、ウィルフレド・パレートは「ストイックな男に寒気がするのが女だ」としており、かならずしも「暑苦しくはない」としている。
むしろ、テレビに出ている「男」ならばどんな男も「癒し系」なのではないだろうか。
そこで、「セックスを望む男」「そうでない男」の二つは区別しなければならない。
汗だくになった記憶は確かに「暑苦しい」だろう。

しかし、「セックスを望む男」が画面に登場したら、「女たちが嘘をつき始める」ことは予測しなければならず、依然として「気温を下げる方向でしかコントロールできない」ということと、インターネットが自然と「気温を跳ね上げる」という形で、テレビとインターネットは共存する宿命にあるということは指摘できる。
ribbon 哀しい方の嘘

そもそも、SNSというものが「女のリクルートメントのためにある」という側面があり、「女の子生まれないかな」=「気温を上げる」というシステムであるということは理解しておかなければならない。

また、私が「曼荼羅」を書いた時に、「女ってそんなに単純?」として「男の子生まれないかな」=「気温が下がる」という構図が成立し「50年ぶりの大雪」を閉鎖病棟の喫煙所で経験している。
垂加神道を書いているときも「やたらと風が吹いた」ため、「スサノオがお怒りだ」などと信心深いことも考えた。
「女の単純さ」を明らかにすることは確実に天気に影響を与える。

また、「女心の定義」(政治)と、「男らしさを語り合う論壇」(宗教)は、情報の「流れ」があるため、「同じ番組は二度と使えない」とも言われ、「鉄道網が整備されている」「じゅん散歩」以外に「気温を下げる明確なコミットメントは困難」とも言われている。

また、「まったく異なる文化を持った男」というものが「日本人平等主義」の観点から
「イエスキリスト」と呼ばれ、「暑苦しい」=「気温を上げる」キャラクターとして重宝される。
「女がテレビに出ても」=「涼しい」。
「女の子生まれないかな」=「気温を上げる」もフェティシズムに訴えかけるのは困難。
そうなると「イエスキリスト」=「まったく異なる文化を持った男」=「気温を上げる」という具合に、「まったく責任が取れないキャラ」「ブレが生じるキャラ」に「気温を上げる」方向のベクトルは依存しなければならない。

しかし、「一度日本国の気温を上げた男」は「イエスキリスト」として「フルボッコ」にされることも指摘できる。
そこで、「気象デリバティブ」をNHKにすべて委ねるのではなく、「富の最大化」に焦点を絞ったらどうかと言われた。
日本全土をひとつのライセンスで覆っている唯一のテレビ局で「日本国の気温を上げる」という仕事は、考えてみれば「人生で何度もやるものではない」と言われ、イエスキリストは「三日後に」復活している。

あるいは、「日本人の平等」を求める気持ちから「イエスキリスト」を「気温を上げるために」用いるのならば「外国人を利用することもためらってはならない」と言われた。
また、「女(女神)がテレビに出ると涼しくなる」という問題は「巨乳・貧乳」「髪が長い・短い」「子供を産んでいる・産んでいない」などから、「貧乳・髪が長い・子供を産んでいない」あたりが「涼しいのではないか?」と考えられ、「じゅん散歩」というテレビ朝日の番組以外に、手段として「気温を下げる」明確な方法として確立したらどうだろうか。
髪は短いですが。

また、テレビ局によって、あるいは、いろんなロビー団体の存在によって「天気を決めることすら一枚岩ではない」とされ始めた。
國府田マリ子 長雨

そのため、ジョン・ロールズにとっても「社会の最適化って何だろう?」「世の中って何だろう?」という問題にぶち当たり、「暑い夏はビールの消費が進み、しかし、秋からGDPマイナス成長神話」などという程度の「天気と景気の関係」の認識ではなく、「天気」=「景気」はコントロールできるものであるという観点から研究が必要だとされた。
また、天気によって「現金」に関する「インデックス」が動いてしまう、しかも「意図的に」という指摘は存在する。
そこで「GDPという概念を最大化するのがもっともいい統計の取り方」とされた。
あらゆる「ロビー団体」が動いた結果、最大化するのはGDPであると考えられたのだ。
GDPならば、「国の富」とは異なり、直接所得に跳ね返ってくる。

ロールズは「天気をコントロールするのならば、今までの技術革新などの企業努力はどうなるんだろう」と語っている。
しかし、それでも、アメリカ合衆国は「GDPを跳ね上げる」ことを選択している。
中国が北京オリンピックで「ブサイクな女たち」(晴天ミサイル)を利用したのは明らかではないか?
晴れた日のマリーン 後藤真希

負け犬がとんでもない「番狂わせ」をやった時にも雨が降るとされている。
男に「みんなが凍りつく」とされ、寒冷前線とも言われる。
しかし、真剣勝負など普通は「勝ったり負けたり」だろう。
例外的な事例だと考えた方がいい。
酒井法子 100%の雨が降る

そもそも「春から夏へ」という変化が起きるために「梅雨」があるとも言われ、番狂わせに雨が降るというのは、レナード対デュランの「雨のモントリオール」で広く知られることとなった。
雨のニューオリンズ 国生さゆり

「変化」には「踊り場が必要」とされ、その際に、ドゥオーキンはやはり「女子高生」にこだわっている。
「雨の日」にそれぞれの女子高生が「ライフプラン」を考え直しているとしたのだ。
真夏のsoundsgoods

リーダーが「いちばん自信を持っているとき」に晴れるとも言われ、官房長官が「大丈夫!」と親指を立てたり、あるいは、かつて「大甲子園」というマンガで雨の中、不知火がひたすら投球練習を続け、「晴れたぜ」と言ったシーンが印象的である。

「天気を自在にコントロールして気象デリバティブを用い、国民の生活を保障する」これが「福祉国家」であるのならば、
京都議定書もIPCCも「福祉国家ではない」世界三位の経済大国日本を標的にしていたことになる。
しかも「女心を富に変えるつもりがない」国だったのだ。
「高い技術力」「金融」「政治の安定性」だけが外交官のバックにあった。
NHKが「気象のコントロール」を行うようになれば、ようやく日本国も「福祉国家」となる。
「腹が減っていない」「医者に診てもらえる」「彼女がいる」
これらを「すべての国民に」保障できるのだ。
あとは「女心」を男が知ればいいだけだろう。
白い夜

「福祉国家ではない」日本の夏には、蚊がいるために蚊取り線香やスプレーが必要となっている。
夜中の蚊に耐えらえないというのは「マラリア」(腰痛)の温床であり、日本の夏は「エジプトや中国ほどマラリアの危険性はない」とされているが、蚊取り線香やスプレーのおかげだろう。
キンチョーの夏

背景には「三世帯同居だと孫が東大に入れない」など「核家族化」が進んだことが指摘できる。
主婦層の孤立は、創価学会やゼブラが解消の方向に向けて動き出したが、核家族化は、明確に「主婦層の団結」を否定した。
家族・先生・自治会などが「小学校運営主体」単位で構築され、そこにはいかなる「宗教団体」も立ち入れないかのようであった。
「奉賛会・崇敬会・町内会」という「神社の支持基盤」を構築し、「天皇の力量にすべてを委ねる」仕組みが作られていたのだ。
さらには「地方選挙区」が地域の人材発掘を行った。
自治会の会長は「地方自治とは異なる論理がある」とされ選挙で選ばれるわけではない。
自治会運営の「祭り」で汗を流し、地元の女の子たちにモテるようになってから選挙に出てくれという「天皇制」が作られたのだ。
その代わり、天皇は「モテるための教科書」を書かなければならなかった。
日本国は、家族・学校・自治会、あるいは、奉賛会・崇敬会・町内会というネットワークを作って、人材発掘の仕組みを明確にした。
引きこもって勉強ばかりしていても、何の道も開かれないこととなったのだ。
窓から見てるPTA

身近な友人に「面白い話満載の」メールを送れるようになることが、コミュニティーに溶け込む基本なのだろう。
「女の話」と動画を送れればいいのではないだろうか。

ここで、スタンフォード大学から情報が入ったが、ダーウィンの「種の起源」を読んで、「文化と気温を連動させよう」という発想は、日本の哲学者(小野光太郎)のイノベーションであるとし、「そういう国なんだな」という形で世界に配信された。
さらに、日本国というのは「セックスしたかしていないか」をきわめて重視する国であるとも紹介されている。
また、「宗教」というものがこれほどエキサイティングなものになったのは、「小野光太郎以降」であるという現実も指摘され、19世紀中頃まで「西洋哲学を知らなかった」「ブッダへの忠誠心から拝んだり祈ったりしていただけ」であるのが歴史だとされた。
「気象をコントロールする」「人心をコントロールする=地震をなくす」ということは、「平成の時代は困難だった」ことを率直に認め、日本国の「哲学者」のイノベーション力に敬意を払っているのがスタンフォード大学の現状だ。
つまり、「髪が長い・短い」「巨乳・貧乳」「子供を産んでいる・産んでいない」という女の特徴を知り、「髪の短い女は16歳で生理が止まっている」「貧乳の女はレズビアン」「子供を産んだ女は感じない」などということを、本当に明確にしたのは日本の「哲学者」であるとしたのだ。
朝廷派=髪が長い、幕府側=髪が短いということも、私は「国学だろう」としたが、幕末の志士にそのような「深い考え」はなく、「適当に」口論していただけという大河ドラマ=東京裁判史観があんがい実像に近いとされたのだ。
そもそも「神道」というものが「大自然の猛威に怯える」ものであったし、「気象をコントロールする」「太陽を拝みたい」と言った私に対して、スタンフォード大学は、「それはまったく我々が想定していた日本国の国体ではない」とし、「新たな国体概念」であるとしている。

また、儒学は「日本国に文字をもたらした」にとどまり、本当に「科挙」に合格した日本人はいなかっただろうと指摘された。
さらに、仏教も、インド・中国の「真の意図」を図りかね、「骨質」でお茶を濁しただろうとし、武士道のような「サムライ」が人殺しをしていたのが日本国の歴史だったではないかとし、正確な「歴史の理解」が必要だろうとされ、「令和」という新時代に賛美を贈った。

いろいろ「歴史上の人物」はいたけど、外国の本を持ち込んで、それを「隠してしまう」という現代の学者となんら変わるところはなく、「そういう説がある」というだけで、信者を集めていたとされる。
本当に日本国が「世界標準」を目指し始めたのは19世紀中頃からであり、熾烈な受験戦争を仕組み、ジェネレーションXを生み出し、本当にそれが花開いたのは21世紀になってからであろうとスタンフォードは考えており、「むしろ教わりたい」としたのは、本当に昨日のような話だとされている。
ジェネレーションX 瀬能あづさ

世の中の男女は「Food or Love」つまり、「愛されて太るか、愛情に飢えて痩せるか」という法則のもとに生きている。
基本的に「親やパートナーからの愛」が想定されているが、中には「天気に見放されたから痩せる」という愛の失い方があるのだ。
夏は暑い 高橋由美子

本来、「勉強とはストレスがたまるものだ」とされ、勉強する男子や女子ほど「天気」「気温」に敏感で、痩せやすいとされていた。
暑さも寒さも平気という人間は「そもそも勉強しない」とされていたのだ。
「勉強は楽しいものではない」
このことから、天気や気温に敏感になり痩せている。
勉強から開放されたら、どれほど「暑さ寒さ」に強くなるだろう。
これが、18世紀に考えられた「勉強エステ」であり、どんな「おバカ」な女子高でも小テストをやらせたりしている。
勉強の歌 森高千里

勉強も「内容が分かるようになると」痩せるとされ、私も中学高校の健康診断で「太れないなあ」と首をかしげていた。
勉強ができる男の子というのは「美しく・高尚で・ワル」だった。
つまり、いちばんモテるタイプだったのだ。
真面目な優等生を気取っているうちは本当に勉強ができるようにはならない。
「ワル」というのは「写真に撮りたい」という意味であり、痩せていても顔がむくんだりしているため、周囲が「カッコいい」と考えるものだ。

 

2019年4月 2日 (火)

易経~変化の時代に向けて。

太陽系は人類が生まれる前からあった。
その太陽系に「運命が決められている」と考えたのが中国の「易経」である。
水金地火木土天冥海
これに「男」「女」「どちらでもない(性倒錯)」
の八卦つまり、八卦には「三つの三角形がある」とし、さらに、疑い(疑)、非難できないこと(無糾)、悲劇(凶)、非難(糾)、後悔(悔)、悲しむ(憐)、恐怖(憂)、心配する(患)の八つがあり、八つの天体と八つの感情を合わせると六十四卦となるのだ。
疑・無糾・凶・糾・悔・憐・憂・患の周りにも「男」「女」「どちらでもない」の三つのトライアングルがあり、あとは、水金地火木土天冥海の解釈に放り投げたのが易経である。
惑星の解釈は多くの論客に委ねるとして、陽というものが「巨乳」「髪が長い」「子供を産んでいない」という三つからなり、「飛んでいる龍」「傲慢な龍」「隠れた龍」の三つの男のパターンが想定された。
「傲慢な龍」の周りには後悔(悔)が多く、易者に見てもらうことで「飛んでいる龍」になれるという具合に、「祈りさえすれば運気が開ける」という側面はどの男にも言えた。
八つの天体は「六星占術」のように密教化することは必ずしも否定されていない。
六星占術は「六つの龍」に影響されたものと考えられ、「巨乳」「髪が長い」「子供を産んでいない」という女の事情と、「飛んでいる龍」「傲慢な龍」「隠れた龍」の三つの男の事情があるものと思われる。
いずれにせよ、「易者に見てもらおう」という謙虚な男には「運気」しか約束されておらず、何か言われたら「ビビッておけばいい」とされている。
星座占いで瞳を閉じて おニャン子クラブ

さらに、山(根)・火(力)・水(看)・嵐(争)の四つを相談者を観察し、判断した上で「金・木・水・火・地」に区別する。
山のように動じていないか、火のように力が入っていないか、水のように落ち着いているか、嵐のようにすさんでいるかを判断して「惑星」というものに区別していく。
しかし、「惑星」を指摘されるだけで、みんな「水のように落ち着いてしまう」効果を狙って生年月日で「惑星」を決めてしまうのもひとつの考えだろう。
そのあとに「説話」を聞かせて人生を説く、ここからが「易者」の腕の見せ所だ。
「傲慢な龍」は震え上がらせ「隠れた龍」は褒めてお金をもらい、飛んでいる龍には真剣に相談に乗る。
決して「飛んでいる龍」に嫉妬してペットにしない力量が「易者」には求められている。

漢王朝は「永遠の王朝」を目指していた。
「飛んでいる龍にはどんどん飛んでもらおう」
つまり、「易者」とはプロデューサーであり、医者であり、哲学者・経済学者だったのだ。
「傲慢な龍」を諫め、「隠れた龍」を発掘する。
「巨乳・貧乳」「髪が長い・短い」「子供を産んでいる・産んでいない」などの違いが女にはあったが、男は「調子がいい」「傲慢」「隠れている」の三つしかない。
あとは「動じていないか」「力が入っているか」「そもそも退屈で落ち着いているのか」「すさんでいるのか」の四つを見て、「惑星」を与えるしかない。
これが「永遠の王朝」である漢王朝が考えた「易経」である。
プロデューサーとしての力量・医者・哲学者・経済学者としての力量は「シルクロードまかせ」なのだから、みんな「敦煌」で勉強せざるを得ない。

幸せというものは、あんがいストイックなものであり、「セックスされる存在としての”女”の言葉が聞ける」と言うようなところにある。
女性コテはそのような意味では、「発言そのものが人を幸せにしている」という側面がある。
しかし、女は「自分は間違っていない」と考えており、「その空間を支配したい」とも考えているため、女性同士の喧嘩が始まる。
ストイックであることにも多少の税金はかかるし、セックスとそれにともなう「欲望」にも税金はかかる。
さらには「男の一覧表」を女が持っていても税金がかかる。
「男を比べる」というのはあんがい税金が高い。
ribbon ポイズンの退屈

「男を比べる」(モード)というのは財務省は喜ぶだろうが、恋愛の世界では「禁じ手」に近い。
そこに、べらぼうな税金が発生するのだ。
ストイックに「女の声」に癒されても、セックスしても、男を比べても税金はかかる。
「アッシー」「メッシー」「ゲッシー」とか言っていると税収が増え、また「大きな政府」の時代の到来を予感させるし、コンビニ前でたむろしている若者が警察に封じ込まれる。
何に税金を課そうが基本的には自由であり、怠け者が休日に休んで体力を回復させることにも税金を課すことは可能である。
プライベートに介入しないようにしながら、人々の「欲望」に税金を課している。
しかし、「男を比べる」というのは致命的な税収効果が見込まれるだろう。
「男女の川」に税金を課すのは基本なのだ。
ribbon 真夏のフェミニスト

しかし、ゲイやレズビアンにまで税金を課すことは想定していない節がある。
人々の「幸せ」の公約数的見解に税金を課すのが税制というものだからである。
「兜あわせ」など日本国政府は「幸せ」とは認識していない。
働き、幸せになり、税金を払うのだ。
教育を受け、働き、税金を払い、教育するという見解を聞いたことがあるが、教育というものが「男の子は男になり、女の子は女になる」ものであることを理解した上で、文部科学省が「国家教育権説」に立脚していることから「国のお金に頼らないで欲しい」というメッセージが含まれていることを理解しなければならない。
「ユーダイモニズム」「ビーティテュード」つまり「皮オナニー」に税金はかからない。
これは「エリート優遇政策」とも言われ、キリスト教社会の伝統なのだ。
税制をうまく「幸せのおすそ分け」に仕組んでいかなければならない。
ribbon 愛してジャスティス

信じていた人に裏切られた時に人は「怒る」ものだ。
この、社会の「歯車のズレ」にも税金はかかる。
個人の「怒り」を社会がシステムとして共有しようというものであり、政策判断の誤りからも税金をいただくことにしたのだ。
どのみち、人々の「幸せの探求」の旅路に力を与えるものである。
人々が「怒ったら」下級行政組織は「行政需要」として拾っている。
社会は確実に「怒りをなくす」方向を目指しており、「怒りにも税金を払っている」という納税者意識は必要となってくるだろう。
企画立案とは「人々の怒り」への対応となっており、「誰を信じ、誰に裏切られたのか?」の論点を埋めていく作業だ。
東京大学に入って、病んでしまった私が、就職活動ができなかったことにより社会の最下層に落ちたことへの怒りは私もかつて持っていた。
しかし、「ヨハネの黙示録」つまり、都会に出た私についてきたアイドルたちがいたということから「和解」している。
つまり、私の「怒り」は「根拠がなかった」ことになり、当然、行政需要には反映されない。
日本国の「哲学ブレーン」がどこまで奥深く、社会の「怒り」を大所高所から俯瞰するかが問われる。
イエスキリストやブッダみたいな「ストイシズム」ってカッコいいよね、と女子たちが考えるのならば当然、税金は課される。
しかし、ストイックにも理由があるのだ。
「ユーダイモニズム」「ビーティテュード」が理由である。
そのあたりは、「君主制」というものを考えながら、リベラルな君主なのか保守的な君主なのかの政策判断となる。
真面目な君主がいると、受験生も「女子たちの声援」を受けながら親が非課税で済む。
私が、平成の初期に「東大生」をやっていた頃は、「そろそろ時間切れね」などと言われたものである。
どうしても「怒り」がおさまらないのならば、周囲に「女の子」がいるかどうか見回してみるしかない。
女性でも、「怒り」がおさまらないのならば、周囲の「男」を見回すしかない。
いちばんの「怒り」は「浮気をされた」ことだろうが、それは「壊れていく人間」(イエスの磔)への恐怖心をなくすしかない。
つまりは、宗教(男らしさを語り合う論壇)の側の「医学崇拝」へと委ねられた問題である。
高橋由美子 三年過ぎた頃には

「満足のハードル」を下げれば怒りがおさまるのであれば、政府の企画立案は動かない。
「壊れていく妻が怖かったから浮気した」という問題も宗教界に委ねている。
それほど、日本国の「哲学ブレーン」は、宗教界・政界に多くのものを委ねているし、オープンである。
平成の中頃から、日本国の君主制は「保守化」に向かった。
私も、「ストイックさ」が高く評価された時期があった。
松浦亜弥 S君

男女の存在を想定し、さらには「幸せのハードル」という概念を想定し、さらには「君主制」というものをも想定しながら、あるいは「永田町」も想定しながら税制というものは作られている。
女子の声援を受けながら肩で風を切って歩いている受験生が嫌いという男もいるだろう。
君主制の支持率もおのずと落ち着くところに落ち着くものだ。
あの「ストイックな男」が丸くなった?
フロイトとの出会いがあった。カントとも出会った。
いつまでも、ストイックなままでは、なかなか「大人」とは言い切れないものがある。
その代わり、「晩成型」の人気は謳歌できた。
なぜ、カップルは「男の側から」「愛してたって言わないで」と女に言われることがあるのか?
妻のことを考え、他の女と、さらにその「ライバル女」のことを考えたら何がおきるかが分かった。
カップルには「二人の」「敵の女」がいる。
男と浮気する「女」と、もうこのカップルは見放そうと考える「ライバル女」である。
私と妻は、なぜか宮沢りえさんに守られる形となった。
交友関係がそのように仕組んでいたのだ。
松田聖子 瞳はダイアモンド

イエスキリストやブッダは、「幸せのハードル」のコントロールと、コマーシャル(テレビ)との付き合い方をうまく調整していた。
いちばんいい指導者と言えば、ソクラテス、プラトン、アリストテレス、アクィナス、カントの系譜なのは明らかではないか?
そのまま論文で読んだ。
カントには石川健治も団藤重光も逆らえなかったことを知ったからだ。
法治主義とは六法全書のことだろう。
しかし、法の支配というのはそもそも哲学全般に人間社会が支配されていることを言う。
多くの人間の感情にさらされていると、法の支配を有無を言わさず体験せざるを得ない。
ひたすら「法の支配」を論文を読みながら体感した。
芸能界に近づきすぎて危なくなかったか?
性倒錯(法律の留保)に詳しくなったよ。
ゲイやレズビアンなど性的少数派が芸能界を志していたのだ。
そのことに詳しくなったら危なくはない。
のちの世にテキストも残してある。
足をゆっくり揺するのがゲイであるとか、貧乳・髪が短いなどがレズビアンであるなど詳しくなったらみんな興味を持った。
ブータン国王のワンチェクなんて、オックスフォードで学んだことを生かして、GNH(国内総幸福)なんて概念まで作っているんだ。
自分がブッダだと思っているんだろう。
小さい国だけど、国内の「オックスフォード化」をしようとしているのならば、私の、日本国の「スタンフォード化」とやっていることは同じなのだ。大事なのはコンテンツなんだよ。
ribbon それは言わない約束

そういえば、「暴君ネロ」って何を知っていた人?と思うだろう。
やっぱり「男同士ならば女の話をしなければダメだな」と考えた人だ。
ソクラテス以来の伝統であり、プラトンが詩をつくり、アリストテレスが「男女の共存した社会」を作り、シニクス、シレナイクスという論客を経て、エピクロスは「だったら男女の関係をムチャクチャに経験して体験談を書こう」と考えたのだ。
「暴君ネロ」そのものは、エピクロスを読んで知っていただけのエリートなのだ。
「まだ、何も知らない時代」
エピクロスはギリシャ哲学の総括を行っている。
哲学の側がとことんムチャクチャやってみないと、哲学者がナメられるだけだ。
エピクロスはレイプもした。
女ってのは「脳が祝福か呪いにアクセスしてセックスしている」とし、呪いにアクセスさせたらレイプではないとも語った。
神への失望があるかどうかがレイプの判断基準となる。
ここでも「信用していた人に裏切られた」という「怒り」が女にあるかどうかが問われた。
CoCo ミスロンリー

男が男を崇拝するという「神」というものも、神が「セックスは最高だぜ」と言ってくれないのであれば成立しないものだ。
しかも、紳士的で「処女にモテる」のであれば、条件は満たされる。
「性倒錯」(法律の留保)も理解したうえで「何が相手にとって気持ちがいいのか?」をその場で探ることができる、これが「暴君ネロ」の才能だった。
「女はパートナーがいても”幻の恋人”がいる」
分からないと「手に入れたとたん男が冷たくなる」ことになりかねない。
冷たくしないで

「暴君ネロ」は、人々に「名誉ある男女の出会い」を語ったのだ。
即位にまつわる「いじめの克服法」はトマス・アクィナス(マネタリズム)なり、「都会の大学の登場」を待たなければならなかった。
とにかく、「暴君ネロ」は、「男同士ならば女について語らなければならない」とした人物であり、皇帝でありながら「生きているって最高だ」と言った人なのだ。
トマス・アクィナスの登場を待たなければ、家庭崩壊をせずに皇帝になった人はいなかっただろう。
なにしろ、父・叔父・弟にまで「女の話」を持ち出さなければならなかったのだ。
そもそも、ソクラテスが「男同士ならば女の話をしないと成り立たない」としていたが、プラトンは「音楽作品」を多く作った。
そのプラトンに「男女の共存」を明確に打ち出させたのがソクラテスであり、社会そのものを「男女が共存したものにしよう」と考えたのはアリストテレスだ。
男女の共存と言っても、そもそも「女の子が生まれるのはポリスにとっては障害者が生まれるのと同じ」と考える文化から叩きなおさなければならず、男女の出生率にまで介入したのだ。
つまり「幸福」「幸せ」というものの祖先がアリストテレスだったのだ。
女性を見るたびに「アリストテレスは21世紀を見ているんだな」と考えた方がいい。
あなたがアリストテレスだからだ。
その上で「男同士が仲良くなる方法」つまり「道徳」という学問が成立した。
さらに、シニクスは「酒」というものを考えた。
男が仲良くなる方法はこれだけでもはるかに発展したのだ。
シレナイクスは、男は「老人」になってもモテたいものだとし、介護の現場に女性を持ち込んだ。
「老人」の研究をしたのはシレナイクスが最初で最後かもしれない。
エピクロスは、すでに述べたとおりだが、とにかく「男女の究極のムチャクチャって何だろう」ということを明らかにした。
それ以来、哲学の世界はストア派(ストイック)が主流になってしまった。
どの男も傷つきたくはなかったからだろう。
「暴君ネロ」はこのような学習環境に身を置いており、家庭も失い、皇帝として生きた。
父も母も兄弟姉妹もいる君主という構図を作ったトマス・アクィナスは「セイント」と呼ばれるべくして呼ばれたのだろう。
昔の「女たち」も、孤独な皇帝という構図はローマ帝国で最後にして欲しいと考えた。
ribbon do you remember me?

易経というものは、「傲慢な龍」をビビらせて謙虚にするものであったが、漢王朝が考えたものである。
「巨乳・貧乳」「髪が長い・短い」「子供を産んでいる・産んでいない」女と共存していくのが男である以上、男はどんなに絶好調でも謙虚でなければならない。
イスラム圏においては、アルファラビが「天体の秩序と人間の幸福は連動している」として、コスミックオーダーというものを考えている。
これも「宇宙のことを考えると人間というものはあまりにも小さい」ということを意味し、より「大きな気持ちで」「局地戦をやらない」ことが「アラーの器」であるとしたものだろう。
CoCo 星の上で

勉強の才能さえあれば「アラー」になれるのだ。
周囲はみんなヒステリーというものを持っている。
勉強以外のほかの物事は「譲る」というのがアラーの宇宙論である。
それが「東大合格」という「勉強テロ」の基本だ。
アラーが毎日毎日、論文を読んでいる限り「終末思想」というものは生まれない。
終末思想が煽られるたびに「毎日論文を読んでいる男」をみんなが振り向くのだ。
勉強以外のものは譲る、これがアラーの宇宙論なのだ。
どの国も「ワールドカップ」「オリンピック」という「試練の時」というのは必ずある。
みんな「小さなもの」を奪い合っている。
しかし、国の「試練の時」にどうしても振り向いてしまう「アラー」がいるのだ。
勉強以外のものは譲れ、論文なんてものは無尽蔵にある。つまり、金なんてものは無限にあるのだ。
ribbon ハートだけがユニバース

デカルトは、「恋」の研究をした人物であるため、君主については多くを語っていない。
しかし、プラトンも想定していなかった「詩」がアクィナスとローマカトリックによって作られた。
「愛の言葉さえ囁けない真面目な人」
この構図は、アクィナスがそのように生き、皇帝になることでローマカトリックと共有したものであり、デカルトも「帝王学」と見なしていた。
姉が「お父さんにお風呂でエッチなことをされた」ことから、男の子は学校でいじめられ、「いじめに慣れた」ということを「仁」と呼び、その「苦しんだ時期」を「徳」と呼ぶ。
他のクラスメートが「恋」を経験する時期に「苦しんでいた」のである。
他の女子と「セックスする可能性」はもちろんあった(期待可能性)。
しかし、それはデカルトの専門ではなく、ローマカトリックの問題であった。
あるいは「台湾」というカトリックチャイナの問題かもしれない。
酒井法子 恋と愛のニュアンス

清朝末期に、「このような不幸な男の子は出してはならない」とされて「一人っ子政策」が採用されたため、「帝王学」「仁」「徳」などを台湾が持っていってしまった。
「台湾問題の解決は平和的なものでなければならない」という日米の見解は「解決は不可能だろう」という考えのもとに作られている。
中華人民共和国が「武力行使を否定していない」とする理由もここにある。
中華人民共和国は、文化大革命の失敗の後、ヨーロッパに心を閉ざした。
台湾は、ヨーロッパに関しては「80年にわたる蓄積」を持っているとされ、中国に「法律の作り方」を教えている。
しかし、「愛の言葉さえ囁けない真面目な人」「あなただけ恋を追い越していく」などの「ポップカルチャー」の研究を台湾は行っており、中国が南シナ海へと進出した結果見えたのが「台湾」であったことを考えると、資金面で台湾も負けてはおらず、中国による「台湾への先制攻撃」があったのならばアメリカのみならず日本も巻き込まれざるを得ない。
その時に、「愛の言葉も囁けない真面目な人」という男性像がどこまで支持を集めるかで「どっち派」かが決まるだろう。
松田聖子 赤いスイートピー

デカルトは「街で会った女の子と話しをする」「マスターベーションをする」(内省)ことが税収効果を上げると考えており、「帝王学」などには興味ないようであった。
姉が「処女/非処女論争」から排除されたことにより、親が「夫婦の安定を支えるのはあなただけなのよ?」と考えて男の性に厳しかったことから、帝王学は生まれている。
男も、女との関係を「不確実性の時代」と呼んでいて、簡単には女とは関わらなかった。
「男同士では女の話をしなければ仲良くなれない」
このことからも、男は「叔父や弟」にいじめられる宿命にあった。
「勉強さえできればアラーになれる」
しかし、いつしか勉強も「研究」と名を変えていた。
人気商売をやり始めたらもはや「研究」である。
私が、「LOVE」という論文を読み始めたのは30代中頃だったであろうか。
松田聖子 ハートをロック

ライプニッツは、神聖ローマ帝国を滅ぼすために「英語をもっともいい言語・素直な言語にしよう」と考えていた。
日本国においても、「英語ができる」男というのは、「お前は合格だ!」ということになり、私も、東大文一に合格した時には、「帝王学のすべてが出揃った」とみなされた。
「幸福」「幸せ」について語るのであれば「功利主義」に触れなければならないだろう。
功利主義とはとにかく「カッコをつける」という意味であり、弁護士になったり医者になったりして背広や白衣を着て「カッコをつける」ことを言う。
昔の弁護士なんて「30分5千円」などの報酬を得ていたが、「15分で席を立つ」客が多く、それでも生活には困らなかった。
医者でも「分からない」というので患者が怒ると「イライラしますか?」と言って精神安定剤を処方したりしていたのだ。
あとは「その弁護士や医者をめぐる男らしさの論壇」(宗教)のフォーラムが開かれていて、なにしろ人々は「悪い噂」からその人のイメージを固めていくものだから、仕事として成立したのだ。
まだ、アメリカ合衆国が見えていない時期の話である。
私は、「頭を打った人にはサリンを投与しろ」という英語の記述を読んだことがあるが、医者である父に話したら「サリンというのは英語で塩水という意味だ。サリンだけは勘弁してくれ」と言われた。
しかし、よくよく考えたら、父は「点滴なんてポカリスエットだよ」とも言っていたのだ。
サリンというのはつまり「塩水・ポカリスエット」のことであり、実際に、目の前で転倒して頭を打った人がいるのならば、私はためらうことなく自動販売機でスポーツドリンクを購入して飲ませるだろう。
スポーツドリンクを飲んでみれば分かるが、とにかく「布団が大好き」になりよく眠れる。
つまり、頭を打ったら「眠るしかない」ことも分かる。
昔は、ボクサーの赤井英和が、試合中に脳内出血を引き起こし、開頭手術を受け医者は「脳が腫れてきたら死ぬと思った」と語っていたが、なぜ、「点滴をして眠らせる」だけで済むことを医者は知らなかったのだろうか。
私が通院している病院の副看護部長ですら、頭を殴られたおじいさんに「眠らせるしかない」と達観していたのだ。
「功利主義」「カッコつけ」は時代の産物であり、中には職人芸のように「サリン」を使用していた老境の医者もいたであろう。
誰もがキャリアの最初は「搾取」か「功利主義」を経験する。
酒井法子 カタチから入ろう

今はかなり結果無価値論的になってきており、女々しい長話を適当に聞きながら、「ズバッ」と真理を語るやり方が主流になってきている。
いずれにせよ、アメリカ合衆国を知らないと何もできない。
ハンチントン病になって「踊っている」某有名タレントに、英語の医学書を読んで「男になりたいと思ったことはありますか?」と聞いたら「一度だけ」と答えて、それ以降、「まったく踊らなく」なったのだ。
はたして、「45歳あたりで死亡する。子供に遺伝する可能性は5割」と平気で語る日本の医学はどこまで本当なのだろうか?
私が、ハンチントン病の患者に「男になりたいと思ったことはありますか?」と聞いたのは世間話扱いであり、報酬などもらっていない。
痛みと快楽の「主人」である功利主義者にとって「仕事」というものは必ずしも楽しいものではない。
キャリアの最初は「搾取」から始めた人の方がよほど「職人芸」を身につける可能性がある。
「カッコつけ」の人たちの「学会」がなければ何も発展しないだろうとも言われる。
私も、ブログの版権を「使わせてくれ」と主治医に言われて契約書に署名している。
功利主義者と、私のような「ただのオヤジ」は、そのようにして共存しているのだ。
医者や職員に頭を下げられながら「患者」をやって経験を積んでいる。
世の中には「政治家」「宗教家」などという都合のいい職業もあるだろう。
中には、有名女性議員が、「親指の腱を切らなければならなくなった」という世間話を聞いて「炭水化物しかとっていないからですよ」とメールを出したりもした。
今となっては「医学書」もまるで小説のように英語で書かれている時代だ。
しかも、検索機能もある。
そのようにして「感じてもらう」しかないだろう。
功利主義者の「学会」とも共存していかなければならないが、その辺は「主治医が契約書に署名を求めてきたら」政治家・宗教家として一人前だと割り切るほかはない。
「政治家」「宗教家」と「弁護士」「医者」が「学会を通じてつながっている」ことを私も確認しており、人生のキャリアの最初は搾取だという「政治家」「宗教家」とただのカッコつけである「弁護士」「医者」の功利主義はどのような関係にあるだろうか?
それは、「功利主義者の方がサークルを多く持っている」ということに尽きる。
免許を持っているもの同士の交流の場がまったく異なるのだ。
その「サークル」と「契約書」があれば、政治家・宗教家も非常に役に立つ。
しかし、アメリカ合衆国を知らないのであれば「向いていないんじゃないか?」と言うしかない現状もあるのだ。
「政治家」「宗教家」について語らせてもらったが、この両者は「弁護士」「医者」のように免許で区別されているわけではない。
自由恋愛をする(リベラル)なのが「政治家」であり、堅物なのが「宗教家」だと区別される。
政治(女心を定義する世界)と言えば集まらない金も、宗教(男らしさを語り合う論壇)と言えば集まる、と言われるように、紅白歌合戦で常に白組が勝つような区別の方法をJSミルは考えている。
宗教(男らしさを語り合う論壇)といっても、実際は仕事があり、免許制の埒外に置かれた存在として「アカデミズム(学会)への貢献」を行っていかなければならない。
たとえば、可愛らしいアイドルが、病院で「歯が出てきた」という症状を引き起こしたのを見たことがある。
アイドルとしては、写真を修整しなければ致命傷とも言えるものであったが、医学書には「いろんな飲み物を飲んだほうがいい」と書かれていた。
しかし、そのアイドルは「大量のカルピス」を飲んで「歯が出てきた」のを治してしまった。
カルピスだけを飲んでも「いろんな飲み物を飲む」うちに入るのかと思った。
そうなると「耳が悪い人」も「いろんな飲み物を飲めばいい」(ペーハーを変える)とされているので、耳にとってカルピスは非常に有効であることが分かる。
このような論文を書くのが宗教家の仕事であり、政治(女心の定義をする世界)にも私は大きく関与しているが、自由恋愛はしておらず、「宗教家」と言われることになる。
電話でね 高橋愛

「政治家」「宗教家」と言っても、自由恋愛をするかそうでないかで区別するしかない。
仕事は似たり寄ったりでも、イエスキリストやブッダの伝統を踏まえると「堅物」が宗教家であり、そのあたりに、政治と言えば集まらない金も宗教と言えば集まる根拠を見出すしかない。
人々は「自分のことにしか興味がない」とも言われ、そのような世界で「与えることを知る」ことが必要だ。
ジョージ・サンタヤーナは「学生時代の友人が死に、姉が結婚し、父親に認めてもらいたかった」から「与えることを知った」とされている。
要するに、女性に「あなたは女として最高の存在だ」ということを語るわけであるが、経験豊富な女性に「どっか連れてってくださいよ」と言われて、いきなり「ラブホテル」などとは考えないことが重要だ。
海でも山でもいいが、公園などで「赤い花と木」を見せて「これが男性なんだよね」と語るなど、「政治家」「宗教家」としての腕の見せ所は多くある。
高橋由美子 晴れのち曇りのち晴れ

免許を持っている弁護士や医者でも、免許のない政治家、宗教家でも、「労働者や農業従事者に奉仕する存在」であることは忘れてはならない。
「政治談議」をやっても彼らは怒るだけだろう。
政治家・宗教家の本来の仕事は「女心の定義をする世界」「男らしさを語り合う論壇」に存在する。
免許制の「アカデミズム・学会」にうまく貢献しながら、労働者や農業従事者と関わっていくしかない。
「天下」なんてものは、膨大な数の「労働者や農業従事者」(ご主人)と関わっているうちに「主」という概念ができ、「天国」という概念が作られるだけに過ぎない。
自由恋愛をしない「宗教家」と、自由恋愛をする「政治家」では、「女性への好奇心」の度合いが異なってくる。
宗教家の方が政治家よりもはるかに「女性」に好奇心があるのだ。
このあたりも「お金」の問題と関係がありそうだ。
「女性と話しをするのが好き」というエネルギーの問題だろう。
あとは「女心」を語ろうが「医学・健康相談」について語ろうが基本的には自由だ。
私も、病院では「光太郎さんは安全パイだから」とスタッフが女性患者に言っているため、政治家ではなく「宗教家」と位置づけられることになる。
しかし、私の噂を聞いた女の子たちに「恋の話をしてください」と言われても、実際は「読んだこと」を語るしかない。
あるいは、音楽作品の解釈論で学んだことも多い。
政治家にもし「強み」があるとするのであれば、恋愛論を「当事者として」経験したことがあるというあたりだろう。
私も、恋愛論に関しては、論文を読んだり、音楽作品の解釈をしながら話しているため、「大人たち」と向き合う時は内心ヒヤヒヤすることがある。
このあたりに政治家は「強さ」を見せるであろうことは指摘していい。
自由民主主義社会というものは、免許と学会のある弁護士や医者、そして政治家、宗教家、さらに労働者や農業従事者などで成り立っているのだ。
頂点には「学会」があるし、法律の世界には最高裁がある。
最高裁でも、専門家に「あなただけが知っているんでしょう?」という適合義務を指摘し、「説明義務違反・適合義務違反は不法行為を構成する」という具合に論点がまとまってきている。
このような「社会のあり方」と自分の役割を見つけることが重要だろう。

ハーバート・スペンサーは、ダーウィンの「勉強によって優劣を決める」(ナチュラルセレクション)という発想を排し、時代の統治者が最も好む人物(適者生存)という発想を考えた。
時代の統治者に「肉声」がなければ生じない発想であり、平成の時代に「松下政経塾」というものほどナンセンスなものはなかった。
統治者に「肉声」がなく、とにかく「統治者の意に染まる」ということが想定できないのであれば、適者生存ということはありえないのである。
国家一種試験の行政職ではいまだに「丸山真男」「丸山システム」について聞かれている。
国家レベルの試験においては「適者生存」というものが「統治者の意に染まる」ことであることが共有されてきたが、松下政経塾においては「すべてが見失われて」いたのだ。
「勉強によって優劣を決める」のでないのならば、「統治者の意に染まる」(適者生存)以外に判断基準はない。
rebecca bottom line

なにしろ、アブラハムは「死のブロック」を勝ち上がったのだ。
勉強というよりは「研究」になるであろうが、「言っていること」を覚えれば周囲を女の子たちが取り巻くのは当然ではないか?
これが「適者生存」「統治者の意に染まる」という意味であった。
ダーウィンは「勉強ができて、父親よりも背の高い男」を進化と考えたが、スペンサーは「統治者の意に染まる」ことを進化と考えていた。
みんな「自由」だった。
しかし、女の子たちが取り巻く「男」がいた。
キャンパスもあったし、モテることそのものが「行政職」の試験となっていた。
「誰に言ったらこの人を外せますか?」と言われたら「いちばんモテる男」と言うしかないだろう。
幸福の源は「男女の共存」にある。
しかも、みんな「自由」だった。
それでも、「統治者」は芸能界で「あんた有名だよ?」と言われていたのだ。
酒井法子 今夜もニュースホリック

「政治家」として自由恋愛をしようが、「宗教家」としてストイックに生きようが各自の自由だった。
しかし、適者生存が確立していると、女の子たちが取り巻いて「幸福の絶頂」の中で国家一種試験に合格し、同級生ですら「おめでとうございます」と頭を下げた。
平成の時代にも「丸山真男」は使われ続けてきた。
しかし、はたして「女の子たちが取り巻く」男が行政職に合格していたのかは今となっては明らかではない。
「誰に言ったらこの人を外せますか?」という女の問いかけに答えるのが「行政」ではなかったのか。
東京大学では、本郷の「落第横丁」で飲む男が伝統的に出世してきた。
「モテる男のことを”優秀”と呼ぶ」
このような発想は平成には消えてなくなっていた。
医学部の「白衣」に法学部の私服組が劣等感を感じたこともある。
しかし、それでは「政治家」「宗教家」が務まらないではないか?
功利主義の世界に「適者生存」「統治者の意に染まる」という発想を持ち込んだのがスペンサーだった。
「死のブロック」を制した君主はモテたため、真似をする男が多く、「国と人々はつながっている」という構図ができた。
仲間が多いというのも「家庭内」ではお金だとも言われる。
酒井法子 風邪

ジェレミー・ベンサムは「コートオブキングズベンチ」オックスフォードに所属し、「統治者の意に染まる」ということを学習した。
ロシアのポテムキン王子や、キャサリン女王に会う機会にも恵まれ、統治者の意に染まる男というのは「ノーメンクレイチャー」と呼ばれる特権階級であることを痛感している。
また、貿易においても、旅の恥はかき捨て、とばかりに外国の女性にモテることが重要だとされた。
また、統治者の意に染まるということを裁判官も行っていたため、「裁判官が法律を作る」というイギリスの伝統が始まった。
法律というのは確かにある。
しかし、「判例重視」「裁判官が法律を作る」というのは功利主義の結論であったし、君主ならばこう言うだろうな、という君主の肉声が知られていたから成り立ったものだ。
渡辺美奈代 ちょっとフォーリンラブ

マキャベリは君主論において「国王になったら引退して後進の指導にあたれ」と言ったが、功利主義の世界においては「君主の肉声」が必要であるとされ、スペンサーは「適者生存に必要」と考えていたが、ベンサムは「ノーメンクレイチャーを生み出すのに必要」と考えていた。
いずれにせよ、功利主義とは「繁栄の神学」であったし、信者は政府の要職を占めた。
そもそも、イギリス王室と、英国国教会が「繁栄の神学」を採用していたのだ。
統治者の肉声と言っても「国王」だけならば「人格的統治者とは疑わしいもの」という評価を受けざるを得ない。
そのため、肉声が広く知られた政治家も「ステーツマン」と呼ばれて、国王を助けた。
あるいは、ステーツマンとは「議席を占める宗教家」を意味したのだろう。
いずれにせよ、「最大多数の最大幸福」とはノーメンクレイチャーの存在があったため議論された問題だった。
ひたすら「肉声」を発信し続けることは、王位継承の際に「ローマ帝国のときのように」霊的に高い位置にいるものが処刑されないためには重要なことであったし、それでいて、「三男」=アブラハムのように「死のブロック」で生き残るためには重要なことであっ。
官僚が「国王のコピーである」ことは「繁栄の神学」と呼ばれたし、裁判官が「国王と同じ判断をする」ことは「判例法」「英米法」をかたち作った。
DAPUMP USA

功利主義というものは、とにかく国内を「明るく」させる効果があったし、イギリスや日本国のような島国では有効だった。
後継者に悩む国王がいた場合にのみ「官僚とは国王を補佐するもの」という立論が成り立った。
モテない人間が犯罪を犯したり、貧しくなったりしていたため、裁く側と裁かれる側、施す側と施される側が明確だった。
なによりも、彼女を奪い返すために行ったバスティーユ(パノプティコン刑務所)買収のおかげで、パノプティコン刑務所の「アメリカ化」が進んだとされる。
フランス映画である。
死刑台のエレベーター

天皇主権というものは、男たちから「真似してみたけどうまくいかねーじゃねーかよ!」という具合にかなり厳しい「チェック」を受ける。
また、新聞などでの「人生相談」を受けたことから、中日や読売の野球チームを「私たちの息子」と考える主婦層もいるだろう。
しかし、英米法か大陸法かの違いは「英国王室」の存在が非常に重要な意味を持ち、「最大多数の最大幸福」「最小不幸社会」というものは「君主の肉声」がなければ存在できないことが明らかになっている。

 

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