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Foreign Affairs

  • CFR: フォーリンアフェアーズ英語版

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2019年3月28日 (木)

コマーシャル。

私もいろいろと研究してきたが、「お前のおかげで夜も眠れない」と言われることがある。
そこで「真理って何?」という問題を少し掘り下げたい。
まず、とことん研究したら「日本中の男女が愛し合う」ということと、「女が激しくあえぐ」(デフレ)ということが指摘できる。
また、社会の階層化が進み「クビにしたい上司がいなくなる」のならば低金利時代となる。
結局、これらを踏まえて、真理というものは、あんがい妥協しながら成り立っているものなのかもしれない。
まず、「寝る前に見ると夜、よく眠れる」のであれば真理に近い。
CMというものは「真理とはこのあたりにあるのかな?」というコンセプトのもとに成り立っている。
新垣結衣 十六茶CMメイキング

感度が良さそうであること、男を興奮させること、あたりに「真理」を見出すしかない。
デューイも、痩せていて、髪が長くて、胸があって、子供を産んでいない「女」が感度が良くて、人を癒すとしている。
男たちがなにを欲しているのかを理解する、これは、哲学という「女を口説く学問」と同じであり、また、女たちが欝になったり吐き気がしないということまで踏まえるのならば。
「プラグマティズムの結論はCMにしかない」ことになる。
人を興奮させる学問(記号論)の答えはCMにあるし、仕事の疲れも癒され、女を買うお金も節約できる、「おちんちんのおもむくままに」研究する哲学の結論はCMだったとジェームズも考え始めていた。
端的に「美しい女」を用いることもあるし、「女たちにモテる男」を使う場合もある。
しかし、常に「二人の女にひとりの男」(アイデア)を用いてCMというものは作られる。
葉月里緒奈とイチローが「一人の女」を標的にした時代もあった。
葉月里緒奈 スリムビューティーハウスCM

「二人の女にひとりの男」という構図(アイデア)は、常にCM作りで理解しておかなければならない。
「女のセクシャルポーズ」すら、恋人たちが楽しめるものであるし、「二人の女にひとりの男」という構図は男の健全性をアピールするものでもあった。
男には「健康」「富」「強さ」が求められたため、モノを売りやすかったのだ。
瀬能あづさ I miss you.

結局、「ひとりの健全な男」こそが「真実」であったのかもしれない。
健全な男は「働ける」ことを意味した。
働ける男を大量生産するのがCMだったのだろう。
「興奮させるってそういうことだろ?」
記号論の大家であるパースとジェームスはそう語った。
女にも「分かるように」「命令する」のがCMだったからだ。
知識は「真実」であった。
しかし、彼氏が正しくても間違っていても「信頼できる男」がCMに出ていれば安心した。
デューイは「CMってものは、女に命令を出すものなんだ」と1941年に語っている。
「二人の女にひとりの男」(アイデア)モデルではなく、「プロポーズ型」と呼ばれるCMが登場した。
そのまま、「イエスキリスト」をCMに出して、彼氏からのプロポーズを待ったのだ。
宇宙人ジョーンズ CM

「CMってものは、女に命令を出すものなんだ」ということが分かったため、大自然を利用した「女心型」も出揃った。
これで、「アイデア」「イエスキリスト」「女心」の三つのパターンができた。
サントリー天然水 宇多田ヒカル

「アイデア」「イエスキリスト」「女心」の三つの型が構築されたCMであるが、「CMってものは、女に命令を出すもの」であるということを踏まえ、「命令」は真剣勝負であり、しかも、自信に満ちていなければならないということを踏まえて「景表法」などができた。
1990年代には「誰もが知っている音楽」をBGMに「団結を求める」「コンサート型」が生まれた。
団結というものも「女たちに命令を出すもの」であることが分かってきたからである。
十六茶 新垣結衣 CM

「団結」というものは主婦層の話だろうとも考えられるが、「できれば可愛い女の子がいい」と主婦層は考えており、「アイデア」「イエスキリスト」「女心」に比べれば「コンサート」というものは、標的にする世代が若干上がることになった。
また、「団結」を背景に「女に命令を出す」ことから、CMクイーンの「イメージ」が重視されるようになった。
1990年代中頃に、CMとは「セックス真剣勝負」であるとも言われるようになっている。
「イエスキリストを笑わせてみよう」という具合に、「見る側」の視点が変わったのがネオプラグマティズムである。
愛してジャスティス ribbon

また、視聴者が「風邪を引いている」などの「便利な摩擦」(コンビニエントフリクション)が、CM作りに有効であることが分かり、感冒薬などがCMをリードした時期もある。
風邪薬 CM

効き目が明確ではない風邪薬などは「女に命令を出す」という基本を踏まえながらも、「便利な摩擦」を用いて、彼女に彼氏の面倒を見ることを想起させた。
ribbon 好きと言える気持ち

「女に命令を出す」というCMの基本を踏まえて、「特効薬はない」とされる風邪に対して「理想の私」を提示したのだ。
「女はセックスしているときはいつも本気」という心理を利用して「女に命令を出す」
のがCMとなった。
「そのためには何が足りないのか?」
このあたりは、ジャパネットたかたなどが多くデータを持っていそうだ。
チャールズ・サンダース・パースは、「哲学のことは何も分からないけど、記号論だけはライフワークとして研究した」としている。
記号論というのは「人を興奮させる研究」という意味であるが、CMに活用されるのは必然であった。
「女に命令を出す」というCMの基本を踏まえて、なぜ、「女(アイドル・偶像)」はこのような奇抜な動きをするのか?どのような文化が形成されているのか?
どのように予算を調達するのか?
などがCMの研究テーマとなった。
当然、フロイトファシズムの前には「女」というものは丸裸であったし、冷戦に入ってからは、共産圏は男女が非常に奔放にやらかしているらしいとして、西側でもCMの存在意義が問われた。
松浦亜弥 プリッツCM

1970年代に、CMの世界に「ニュープラグマティスト」と呼ばれる連中が参入してきた。
スポンサーさまに頼まれると、そのCMを基盤に、作り手は「口説き文句」を周囲に売りつけ、資金集めを行った。
電通というのは「スポンサーを探してくる仕事」であるとされているが、15秒や30秒のCMを成立させることで、多くの人脈や資金を集める方法を学ぶのだ。
それは、キリスト教と共産主義の融合でもあったし、「イエスキリストってのは暗かった」というラテンアメリカの哲学を参照したものでもあった。
「男のつらい人生」を知っていたスカンジナビアや、中国も参考に「イエスキリスト」を描いた。
「女に命令を出す」のは、苦労を知っている男だったのかもしれない。
マキシム コーヒー CM

リチャード・ローティは、「世相を映す鏡」としてイエスキリストを見つけてくることにした。
「女で地獄を見るってどういう意味っすか?」
これを知らないのならば、イエスキリストではないだろう。
「男らしさを語り合う論壇」を宗教と呼ぶのであれば、ニュープラグマティストにはもはや「二人の女にひとりの男」(アイデア)という発想も、「女心」(大自然)という発想もなかった。
世相を映す鏡としてひたすら「イエスキリスト」を探求したのだ。
「この男を見ると彼氏まで輝いて見える」
そういう意味では「概念」(コンセプト・人気)と関わるアプローチだった。
マキシム コーヒー CM

女たちが「老いた男の貫禄」にどれだけ歓声を浴びせるかは、男には分かりづらいものがある。
しかし、それが「宗教」なのだ。
「どれほど速かったか?」「どれほど逆らったか?」
そのような男が「歯を見せる」だけで良かったのだ。
なにしろ、そのような男は「ギャラ」なんてケチなことは言わなかった。
むしろ、「人脈」を大事にしてお金を集めてきてくれるのだ。
彼の左や右、前に立つ男はいるだろうか?
「いない」
これが宗教だった。
変な舎弟も連れていなかったのだ。
「普通の女にはありえない男」
そのような男がCMに出てくるだけで「女に命令を出す」こともできたし、彼氏を見る目も変わった。
「二人の男にひとりの女」(モード)ではなかった。
画面の向こうの人は遠いところにいるイエスキリストだったからだ。
いつもCMに出ている男だな、と思われるだろうが、とにかく「金集めがうまい」のがイエスキリストだったので、CMに起用したら必ず企業に貢献してくれる。
イエスキリストがもし現代にいるのであれば大金持ちだろう。
ましてや、優秀な哲学者だろう。
周囲は「ディレクターはコイツを連れてきたかっただけだろう」と皮肉られた。
少なくとも「芸能人」としての実態はなかった。
テレビに出ている「男」に恋心を抱いた女は、彼氏を振り向いた。
「女に命令を出す」
しかし、その「女の心」は誰にも分からないものだった。
開高健 サントリー CM

現在、世界のCMは、「その企業の顧問」=「哲学者」=「経済学者」を起用したほうが好ましいという方向に向かっているし、かなり「宗教化」が進んでいる。
可愛らしい女の子に癒されることもあるだろう、二人の女にひとりの男という構図にいまだ魅力はあるだろう。
しかし、フロイトファシズムを経験したのちには、みんなが「貫禄のある男」を振り向いたのだ。
CM作りが「イエスキリスト」を語るようになると、「それならば女の仕事ね」と言って、
ジェーン・アダムズや、エミリー・バルク、エラ・カボット、マリー・カルキンス、エルシー・クラップ、アンナ・ジュリア・コッパー、アリス・デューイ、マリー・フォレットなどの「女たち」が、「私たちの方が男に詳しい」と言ってプラグマティズムの世界になだれ込んできた。
イエスキリストからの「電話」を真っ先に受けるのは彼女たちだったし、それを上席のものに通すかどうかの判断も彼女たちがやっていたのだ。
哲学は「女を口説く」学問だったし、経済学は「男が女を愛する気持ちを利用する」学問だった。
彼女たちは「人々がなにを欲しているのか?」に敏感だったし、フェミニズム第一の波が「ブルジョアと結婚したい」というものであるのならば、フェミニズム第二の波は「私たちも仕事がしたい」というものであった。
「イエスキリスト=男を語るのが仕事ならば私たちにもできる」というのがプラグマティズムの果たした役割であった。
男を語るのが仕事であるのならば、少女マンガの読書歴まで生かされるため「ユートピア」と呼ばれた。
松田聖子 赤いスイートピー

女たちの「プラグマティズム」=「CM作り」の仕事は、シカゴ学派を柱として行われ、「女に詳しいイエスキリスト」という男のモデルの値踏みは、女がシカゴ大学で磨くものであるとされた。
ジェーン・アダムズは、姪に「男とよく話してみることね。出世するかどうか分かるわよ」と語っている。
イエスキリストの「むかし歩んだ道」すら理解している女はあんがい少なかったし、それを見抜く女の力量はまさに「仕事」としか言いようがなかったのだ。
片想いの終わりに 亀井絵里

リチャード・ローティは、尾崎豊や、最近では竹原ピストルのような「時代に迷っている男」(スターリニスト=ゲイカルチャー)の排除を行った。
それは価値相対主義の排除であり、開かれた絶対主義、つまり、女にとっての絶対の存在を認め、学んでいく男こそがイエスキリストであるとし、一日中ボケッとしている男を排除することを意味した。
「ゲイは万年平社員である」ことを見抜ける女は少なかった。
そのあたりを、プリンストン大学やバージニア大学で研究した。
アウトロー気取りの連中は組織では王道でも「処女がセックスさせてくれなくなる」などの問題があり、処女が群れに一人いるだけで居場所をなくしてしまうのだ。
このことは、アウトロー気取りの連中は高校で教育を受けていないことを意味し、出世も頭打ちであることを示している。
「組織では王道」でも、「彼、学歴がなかったから」と言われる連中なのだ。
開かれた絶対主義の下では「アウトロー気取り」も排除の対象となった。
プラグマティズム=CM作りの世界がアウトロー気取りの男を嫌ったのだ。
学ぼうという気持ちがない、文字が読めない男はCMの世界では致命傷とみなされた。
矢沢永吉 CM

「アウトロー気取りの男」は組織の王道である。
つまり、出世するのに手っ取り早いのだ。
しかし、処女が組織に存在する時に「あの娘は落とせないの?」と批判されるだろう。
そのため「アウトロー気取りの男」も、イエスキリスト=哲学者=経済学者ではないため、CMには起用できない。
処女は「強くて優しい男」が好みだったのだ。
「伸びしろのない男にはついていけない」という思いもあったのだろう。
大言壮語を吹きまくってそれでも「保守」のつもり?処女たちはそう思っていた。
本当の「保守」は処女にもモテるおじいさんなのだろう。
河合その子 Please tell me Mr.朱。

シドニー・フックは「デューイの犬」と呼ばれ、現在の自由民主党の傘下にあるマルクス主義者(新左翼)を作り上げた。
フックも、CMの研究を行っており、失恋の研究から「男は賢いほうがいい、女は美しいほうがいい」ということも明らかになっており、「賢い男が美しい女を使ってCMを撮影する」のがいちばん好ましいと考えた。
マルクス主義が「反キリスト」といわれる理由はこのあたりにある。
葵わかな CM

「賢い男と美しい女」つまり、「失恋を知らないものたち」によって、非常に明るいCMが作られた。
「二人の女にひとりの男」(アイデア)という図式には当然なるわけであるし、「女に命令を出す」というCM作りの基本は押さえていたが、シドニー・フックはあくまでも「現場の都合」を考えており、「失恋を知らないものたち」が作るCMというものを模索したのだ。
聖母マリア崇拝はマルクス主義にならざるを得ない。
そのため、東大生でも「オタク」は差別される宿命にあった。
マルクス主義は「資本主義の矛盾」つまり「俺が男らしいという議論は堂々巡りをする」ということを踏まえて、単純に「失恋を知らないものたち」によってCMを作ることにした。
CMは「明るいほうがいい」ということであるのならば、現場の都合を考えたほうがいいと判断したのだ。
「レーニンの教会法」が「聖母マリア崇拝」であり、東大生の中にはこれを嫌うものもいたのだ。
上戸彩 CM

ソビエトの真似をしたナチスの国家社会主義、つまり、マンハッタン造成計画および、外国国家併合が、必ずしも景気の回復にはつながらないことも明らかになった。
ニューディール政策は失敗だったのだ。
新左翼であるシドニー・フックは、スターリンの「ゲイカルチャー」「価値相対主義」を激しく非難し、レーニン主義、つまり「聖母マリア崇拝」への回帰を求めた。
聖母マリア崇拝=レーニン主義に、サンタクロースを結び付けようとしたトロツキーの方が、スターリンのゲイカルチャーよりも恐れられていた。
CoCo 冬の微粒子

トロツキーにはレーニンの教会法を継承するだけの「夢」があった。
しかし、スターリンの「粗暴な側面」つまり「ゲイである」ことが権力闘争で勝ってしまったのだ。
しかし、トロツキーは裁判で「ソビエトの権威になんら悪影響を及ぼしていない」として無罪になっている。
CMを理解するためには「世界革命」を試みたソビエト連邦の権力闘争を理解しなければならないのだ。
ケンタッキーフライドチキン CM

レーニンの夢を継承しようとしたトロツキーに勝ったスターリンの人気も、
女子中学生から若者から幅広いものがあったことは、しかし、認めざるを得ないだろう。
ゲイというものはあんがい「言っていること」は人気があるのだ。
尾崎豊 シェリー

CMというものを語るのならば、「聖母マリア」「クリスマス」などは当然、話題には上る。
しかし、ジョゼフ・マッカーシーは「芸能人一家」「ゲイ」など「出世の見込みのない共産主義者」を排除しようとしたのだ。
マッカーシズムの嵐を支えたのは、当然「イエスキリスト」だった。
シドニー・フックは、「自由民主党の犬」「新左翼」として、ソビエトと向き合ってきたし、CM作りに生かしたのだ。
CM作りにおいて、アメリカフェミニズムは、フロイトファシズムを参照している。
いじめ集団と「いじめられる側」の心や、女と男の違い、目的手段論(私にはスタートだったの、あなたにはゴールでも)などが参照された。
なにも言えなくて夏 J-walk

男女の「生き生きとした実体験」が求められており、アカデミズムの側としては、女たちの経験談をひたすら受け止めるしかなかった。
目的手段論を理解しない男女は実体験としては存在しなかった。
「最初はマメだったのに、本当に手に入れたらそんなんじゃなくなるのかな」
Eriko with crunch 冷たくしないで

目的手段論の周辺には、ヘーゲルやキルケゴール、マルクス、ニーチェ、アドルノ、アルチュセール、ベンジャミン、ドゥルーズ、フーコー、フロイト、ガダマー、ハイデガー、フッサール、ラカン、マルキュース、メルロ・ポンティ、サルトル、デリダ、ハーバーマスなど「ほぼ全員が」集まったのだ。
それほど、「男女の違い」を端的に表現しているのが「目的手段論」だった。
目的手段論こそが、「手の届かない女」「聖母マリア」を生み出していたし、このあたりはレーニン主義ともいえるものではあった。
アカデミズムの側は「天皇は手段とすれば値段がつき、目的とすれば権威がつく」(長谷部泰男)としており、そのカントの真の意図を図りかねていたが、日常の男女の生き生きとした経験談の方がアカデミズムよりもそのことに詳しかったのだ。
目的手段論ほど「女性の局部」の意味を明確に理解した理論はなかった。
CoCo メロディー

目的手段論がある限り「聖母マリア」崇拝はなくならない現状がある。
映画評論家のフォックス・ケラーも「ヒロインをみんなで最後まで追いかけ続ける」ことをシネマと呼んでおり、「聖母マリア」をCMに用いるのか、「イエスキリスト」を用いるのかはかなり根の深い対立となっていた。
イエスキリストは、企業の顧問=哲学者=経済学者であろうが、なにしろCMという企業のイメージは明らかに「女」を起用した方が爽やかさがある。
フェミニズム第二の波(私たちも仕事をしたい)は、「男らしさを語り合うのならば私たちの方が得意」としており、「イエスキリスト」をCMに起用しようというムーブメントとなるが、形而上学(失恋の研究)は「男は賢い方がいい、女は美しい方がいい」としていたし、これに、目的手段論も加わり、「CMクイーン」というものが生まれたのだ。
現在も、「男」「女」がCMに共存している現状がある。
時間と空間をより広く使うのであれば「手の届かない女」を風呂に入れた方がいいという考えも当然あった。
中村アン CM

 

なにしろ、CMは、武器や医療、自動車、電子機器の調達に用いるものであったため、その議論は決して避けては通れないものであった。
「受験サイボーグはCM特集を見なければ夜、よく眠れないらしい」という論点も「聖母マリア」をCMに起用することに味方した。
スターに「アンチ」はつきものだが、「心」を見出してはならないという意味である。
「育てる」などというあまいものではない。
AKB48 アンチ

「聖母マリア」「イエスキリスト」という具合に男女が共存しているCMの世界であるが、「女に命令を出す」という観点から、「イエスキリストは女の感度を高める」という指摘をウィリアム・ジェームズは行っている。
木村拓哉 TBC CM

このように、多くの研究者が「プラグマティズム」「記号論」を背景に議論したのがCMの世界であり、その世界をあまく見る芸能人はまったくいないといっていい。
デューイは、自由民主党の立場であったが、シドニー・フックは「自由民主党傘下の新左翼」であった。
ともに、レッセフェール(神の見えざる手)を信じており、神とは「天皇」のことを指している。
男女が共存し、女性も等しく政治参加をする「民主主義」を愛し、さらには「キリスト教」=セックス崇拝を基盤としている。
そこで、デューイは「子供たちにCMを見せて評論させるのがいちばんいい性教育である」と考えていた。
リベラル国家における「神」とは天皇のことであったし、民主主義というものは「多数派の意思を探る」ものであった。
しかし、CMというものは「多数派形成を行う」というものであったため、「神の見えざる手」によって、「モノを売る」だけにとどまらない「人脈作り、資金集め」に用いられた。
CMとは「民主主義芸術」であり、多数派形成を行い、しかも「お金を集め、人脈を作る」という意味では「勝負事」に活用するのは必然であった。
モバゲー CM

人々の「民意」はかなり歪曲されているものだ。
CMによって「多数派形成」されてしまうのだ。
しかも、CMは「女に命令を出す」ものである。
「女心の形成」にすら介入してしまうという側面がある。
モバゲー CM

人気のある人にはみんな興味がある。
しかも、CMに対しては多くの人が「同調行動」をとってしまうのだ。
まるで、人気のある人とともに「参加したい」という意欲を基盤にしているようだ。
「今から思えば」CM効果だったのかな?と思うことが民主主義社会でよく起きた。
モバゲー CM

 

いずれにせよ、人間の半数は女であるのに、民主主義社会で「女に命令する」ことをコンセプトとしたCMというものが、どのように「体制の安定」につながるかは理解しなければならないし、一方で「盗人」のように勝負を盗んでしまうことも指摘されているが、プラグマティズムや記号論にも「限界」があった歴史を踏まえると、CMのコンセプトはともかく、「実践」におのずと限界があるとされ、周囲は楽観論に落ち着いた現状がある。
横浜DeNAベイスターズが勝ち続けるようであれば「プラグマティズムが怖かった」ということになるだろうが、果たしてどうなるかは明らかではない。
モバゲー CM

 

ヨシュア・ロイスは「音楽でCM作りのコツは分かるんだ」としている。
ヨシュア記は、モーゼ五書の次に「金儲けの秘訣」として記されている。
「ふたりの女にひとりの男」
「イエスキリスト」
「女心=大自然」
「コンサート」
などの「型」がCMにはあるが、モーゼ五書が否定した「イエスキリスト」をBGMを背景にCM作りに利用した。
舞祭組

 

「ふたりの女にひとりの男」というモデルも「女心=大自然」も「コンサート」も音楽作品を念頭においてCM作りをするというのがヨシュア記の趣旨だろう。
幾多郎

 

「女はいつも鼻歌を歌ってる」とし、「女は声で文字を読んでいる」ということをも見越して、「適切な選曲」を行わせようと考えたのだ。
「セックスする時はいつも本気」ということの背景には「自分が破滅する」ということがあり、「ふたりの女にひとりの男」「イエスキリスト」「女心=大自然」「コンサート」なども、男の想像をはるかに上回る「曲数」を持っているとされている。
ナウシカ

 

父から息子に伝える「音楽作品」はほとんどないが、「母から娘へ」伝える音楽作品は存在するとされ、ヨシュア記は、「イエスキリスト」の存在を認めている。
セックス崇拝がキリスト教だとするのであれば、当然、女にとってセックスは自分の破滅であり、「セックス」と露骨に表現してはならず、なにか「幻」のように表現しなければならない。
そのための「曲数」が膨大な数になるのである。
女にとって大事だったのは「セックスは仕事」と悟られないことであった。
「売春婦は神さまに怒られる」という思いはどの女にもあった。
男が「うちの妻は売春婦なのだろうか?」と思うような「歌」は歌ってはならず、芸術に昇華しなければならない。
「イエスキリスト」=「少年」=「メシア」というのはこのようにして生まれた。
残酷な天使のテーゼ

浜崎あゆみ M

山口百恵 ロックンロールウィドウ</p

松田聖子 赤いスイートピー

こんな感じで女性たちは歌っていた。
みんな「イエスキリスト」=「少年」=「メシア」を歌っているんだよ。 ヨシュア記から士師記までひたすら「女の夜の作法」が書いてあり、息子は「三男」として養子に出した。
アブラハム宗教の誕生である。
CM作りにおいて、女が歌う「曲数」は膨大な数に上るとしたが、「サビは知ってるヒットソングが回る回る、永遠に終わらなくなる」というのが正確な表現のようだ。
渡辺満里奈 レイニーカインドオブラブ

ヨシュア記においても、紹介されている「詩」はわずかに二篇である。

ヨシュア記/ 06章 26節

「この町エリコを再建しようとする者は/主の呪いを受ける。基礎を据えたときに
長子を失い/城門を建てたときに末子を失う。」
大泉逸郎 孫

 

ヨシュア記/ 10章 12-13節

「日よとどまれギブオンの上に/月よとどまれアヤロンの谷に。」
日はとどまり/月は動きをやめた/民が敵を打ち破るまで。
本木雅弘 東へ西へ

 

デューイは、「そもそもなぜ高視聴率が欲しいのか?」と聞かれ、「それはダーウィンだね」と答えている。
つまりは、「医学に関する情報を発信したい」と考えたのだ。
「風邪」なんてものは、三千ページの医学書のわずか「20行」にしか書かれていない。
玄関の取っ手に青酸カリを塗ることは、誰にも止められないし、「情け」とは家族の学問であったため、家庭内で、食べ物に毒物を混入されることも誰にも止められない。
つまりは、「家族のメンバーとして受け入れることが困難」と考えられた者が風邪を引いていたのだ。
「愛されていない者」は、愛を必要としていたために痩せていた。
「Food or Love」という問題は、両親との関係も考えると男にもいえる話であり、愛を必要としている者は、食べる量も少なく、怒りを感じながらテレビを見ていた。
信頼している人に裏切られても成績は伸びない(自己欺瞞)し、自分と世界がかけ離れていなければ(自己疎外)成績を伸ばす動機はない。
テレビとは、自分と家族・世界の妥協のために見るものであった。
「自分と世界がかけ離れてる?」「信頼している人に裏切られた?」
大学というのは「人気」の研究をするところなんだよ。
勉強が苦手ならば、よくテレビを見てごらん。
「ふたりの女にひとりの男」「イエスキリスト」「女心=大自然」「コンサート=主婦層の団結」にせよ、テレビには学問の目的が描かれている。
テレビの世界では「フラッシュを焚かれる」というのは「罰」だった。
「社会のメンバーとして受け入れるのが困難」な者すらテレビで「フラッシュを焚かれて」いるではないか。
テレビを見て「たくさん食べる」、これが医学の基本なのだ。
ダーウィンは「息子が父より背が高い」こと以外に「進化」は望んでいなかった。
「食べられない」「眠れない」人は世の中に確実に存在したのだ。
「CMは女に命令を出すものだ」としたが、実際は「男女を問わず、人間の痛み」に訴えかけていた。
「風邪を引かなくて勃起できれば男じゃないか」というのがテレビの答えでもあった。
藤本美貴 大切

 

テレビを見て「意味が分からない」ことがあるのならば、それは「論点」と呼ばれるし、法学部の「論点表」など、何の役にも立たない。
仕事をしたくないから「専門用語」を覚えるのが職業というものなのだ。
仕事をしたいのならば、テレビを見て「論点」を見つけていくしかない。
「ミスワールドという女がいる」=「俺の方がお前よりモテる」=「担保」とか、「お父さんが連帯保証人になって財産がない」=「保証人になると債務者の女性関係が全部分かる」=「連帯保証と保証はスピードの違いに過ぎない」
などという具合に、論点を潰していくしかない。
ようするに、「専門用語」は、大企業にはまったく通用しないことを知るのだ。
芸能人は「省庁横断」「企業横断」をする存在だ。
仕事に生かさない手はないだろう。
CoCo 優しさに帰れない

 

私は司法試験を受けた結果、結局、「東大に入った時点で”大人”だったんだな」ということが分かったし、大学に入っても「夢が見たい」と思うのは「聖書と哲学の融合」のためであったことも分かった。
適当にモテて、病気にもならず、就職して何十億円も任される、これがいちばん賢い生き方だったのだろう。
ようするに「デカくて、勃起すれば」男なのだ。
片想いの終わりに 亀井絵里

ジョージ・サンタヤーナは、詩人であり哲学者だったが、「CMってのは、男が勉強する上で必要な癒しがある」としていた。
私も、東大受験時代は酒井法子さんのCDを目の前においていたが、それは「勉強がどれほど苦痛だったか」を物語っている。
「女に命令を出す」のがCMだとするのならば、「男の痛みに命令を出す」のと同じ意味だ。
実際は、酒井法子は親戚の「重子」(しげこ)であり、受験が終わった時に、家に遊びに来ている。
「このドラマのつづきはどうなるのかな?」とか「彼氏に電話する」とかバカなことばかり言っていたが、心ある「叔母」からの私への「卒業旅行」のつもりだったのだろう。
ribbon 卒業旅行

私はこの時に、東大文一に合格しており、美智子皇后すら「自分が果たせなかった夢を孫が果たした」と、昭和天皇の言葉を引用し、私を絶賛していた。
「アイドルが心の支え」というのは受験生にはよくある話であろうが、この「心理」をCMが活用したのだ。
サンタヤーナは「勉強家」としてこのことを熟知しており、ハーバードの教授を何度も「リタイヤしたい」と言っても引き止められたし、ヨーロッパに移住してからもハーバードから「特別なオフィス」を用意されて連れ戻されている。
それほど、「アイドルが心の支え」ということを熟知し、CMを作ったサンタヤーナはハーバードからも、学生・生徒からも必要とされていたのだ。
サンタヤーナは「動物の忠誠心」と「女の人生」という二つの論文において、「CMとは女に命令するものだ」ということを、苦痛を感じている「男」にも活用し、男でも「サビは知っているヒットソングが、回る回る永遠に終わらなくなる」ということが起きるようにした。
まるで「ドリーマー」のように、歌にとりつかれる男がいた。
ゴルギアスというものは、歌謡曲に哲学的解説を加えるものであるが、そもそも、「ドリーマー」で苦痛に満ちた男でなければそれは困難であり、東大文学部の林助教(女性)に「やってみろ」と言っても無理なのである。
デカルトは「街で会った女の子」と話をして「内省」(マスターベーション)することを想定していたが、サンタヤーナは、CMを用いて「とにかく机の前に座れ」と言って「動物の忠誠心」を人間にも活用して、勉強させたのだ。
ハーバードがこのような論客を放っておくはずはなかった。
酒井法子 オールライト

室内音楽は、ハイドン、ベートーベン、バルトーク、ストラビンスキーと83人の弟子によって完成されていたし、詩人も大勢いた。
CMであろうが「4分間のパフォーマンス」だろうが意味は変わらなかった。
「女に命令を出す」というCMが、音楽作品によって「苦痛を感じている男に命令を出す」という具合に発展したのだ。
アイドルを実際に「追っかける」オタクとは異なる、アイドル(偶像)の根強い支持層が生まれた。
コートダジュールで逢いましょう 高橋由美子

東大生は国家一種試験にも司法試験にも「合格しやすい」のである。
つまりは、このような「やり方」を常識として持っているからであり、さも、それが「当たり前」のようになっている。
このあたりは、「常勝思考」という大川隆法の本でも触れられてはいない。
当たり前のように「勝てる」時期があるのは事実なのだ。
しかも、大学に入ったら「人気の研究」に研究テーマは移っていく。
その時に、自分の「経験」が大きく生かされることになる。
しかも、心の支えだったアイドルが「東大に受かった男のように有名になりたかったから」という理由でアイドルをやっていたことが後から明らかになり、ヨハネの黙示録とも呼ばれ、「私の歌の意味を教えてください」というのはケンブリッジ大学で教えている。
のちのちに、素晴らしい人脈を形成していくことになる。
青いスタスィオン 河合その子

このような経験をした「長男」は、叔父や弟による「いじめ」にも「おばあさん崇拝」「祖先崇拝」を求める必要はないわけである。
すくなくとも、叔父や弟に「祈り」を求めるマネタリストではない。
おのずから、マネタリストにこだわるかどうか、あるいはヨハネの黙示録を支持するかの立場の違いが生じるのだ。

 

デューイが、東大生=長男のために、「閨閥を形成させよう」として、「女の嘘」まで詩にした時は、広く世論の支持を得るためにやっているのかと思って衝撃的だった。
ribbon 哀しい方の嘘

 

「商売女は嘘つきだ」なんてことは東大生が知るわけがないからね。
マルクス主義者ぐらいしか知らないことだったが、これが分かれば事務次官と変わらなかった。
本命彼に対しては、他の女と喧嘩したくないために「嫌い」「狙ってないよ?」というのが女だった。
ポルノが掲載されている雑誌で嘘の情報を女が流すダダイズムも、処女とのセックスを活用したシュールレアリスムもデューイは芸術にした。
エルグレコやセザンヌ、ルノアール、マティスも参考にしている。
高橋由美子 ときめき

とくに、ルノアールは「多くの未開民族」をモチーフにしたため「印象派」と名づけるほかはなく、デリダは「世界がひとつになるためにはどうしたらいいのか」という宿題を与えられている。
エレジーズ 印象派ルノアールのように

デリダは「世界を愛でひとつにする」ことの答えをセックスに求め、セックスとは「その女の子供の気持ちを味わうものだ」とし、「どう?私の子供の気持ち」という台詞を女に言わせている。
しかし、デリダは911テロを目の当たりにしたのだ。
ルノアールから落第点を押される形になった。
デューイにとって、芸術とは、サンタヤーナと同じく「勉強することで自分が女子から歓声を浴びたり、世界が広がるのが分かればいい」というものであり、しかし、「心の支え」とするにとどまらず、メッセージ性を持たせたのだ。
いずれにせよ、「女に命令を出す」ことをコンセプトにしたCMが、「苦痛に満ちた男」にまで影響を与えることが分かったため、CMだけにとどまらず、PVというものも生まれたし、レオ・トルストイのように、放送作家から始めて本格的な小説を書き始める作家もいたのだ。
「女に命令を出す」というCMも、「苦痛に満ちた女」というのが仮に存在するとするのであれば、当然、「イエスキリスト」を「心の支え」として用いるわけであるが、「イエスキリスト」の特徴として「孤立していない」ということが指摘できる。
ゴッホは孤立から抜け出す年齢になってからようやく「自画像」を描いている。
しかし、男にとって「女はエネルギー」であり、女にとって「男は力」であることを考えると、「苦痛に耐える力量」が男の方が強いことになる。
メソジストの立場に立ち、男女が同じ人数だけキャンパスにいるようにするのであれば、女にとってはかなり受験というものは簡単なものになる。
しかし、東大は少なくともメソジストではなかったし、女に対しても容赦のないものだった。
星野源 CMにせよPVにせよ、「心の支え」と位置づけるのであれば「印象派」というジャンル分けをせざるを得ない。 「見るだけで力・エネルギーが湧いてくる」「解説はいらない」のであれば印象派だ。 しかし、それでも「ふたりの女にひとりの男」「イエスキリスト」「女心=大自然」「コンサート」などのジャンル分けは可能である。 だが、15秒や30秒で「視聴者に力・エネルギーを与える」のならば印象派なのだ。

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