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Foreign Affairs

  • CFR: フォーリンアフェアーズ英語版

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2019年3月

2019年3月28日 (木)

コマーシャル。

私もいろいろと研究してきたが、「お前のおかげで夜も眠れない」と言われることがある。
そこで「真理って何?」という問題を少し掘り下げたい。
まず、とことん研究したら「日本中の男女が愛し合う」ということと、「女が激しくあえぐ」(デフレ)ということが指摘できる。
また、社会の階層化が進み「クビにしたい上司がいなくなる」のならば低金利時代となる。
結局、これらを踏まえて、真理というものは、あんがい妥協しながら成り立っているものなのかもしれない。
まず、「寝る前に見ると夜、よく眠れる」のであれば真理に近い。
CMというものは「真理とはこのあたりにあるのかな?」というコンセプトのもとに成り立っている。
新垣結衣 十六茶CMメイキング

感度が良さそうであること、男を興奮させること、あたりに「真理」を見出すしかない。
デューイも、痩せていて、髪が長くて、胸があって、子供を産んでいない「女」が感度が良くて、人を癒すとしている。
男たちがなにを欲しているのかを理解する、これは、哲学という「女を口説く学問」と同じであり、また、女たちが欝になったり吐き気がしないということまで踏まえるのならば。
「プラグマティズムの結論はCMにしかない」ことになる。
人を興奮させる学問(記号論)の答えはCMにあるし、仕事の疲れも癒され、女を買うお金も節約できる、「おちんちんのおもむくままに」研究する哲学の結論はCMだったとジェームズも考え始めていた。
端的に「美しい女」を用いることもあるし、「女たちにモテる男」を使う場合もある。
しかし、常に「二人の女にひとりの男」(アイデア)を用いてCMというものは作られる。
葉月里緒奈とイチローが「一人の女」を標的にした時代もあった。
葉月里緒奈 スリムビューティーハウスCM

「二人の女にひとりの男」という構図(アイデア)は、常にCM作りで理解しておかなければならない。
「女のセクシャルポーズ」すら、恋人たちが楽しめるものであるし、「二人の女にひとりの男」という構図は男の健全性をアピールするものでもあった。
男には「健康」「富」「強さ」が求められたため、モノを売りやすかったのだ。
瀬能あづさ I miss you.

結局、「ひとりの健全な男」こそが「真実」であったのかもしれない。
健全な男は「働ける」ことを意味した。
働ける男を大量生産するのがCMだったのだろう。
「興奮させるってそういうことだろ?」
記号論の大家であるパースとジェームスはそう語った。
女にも「分かるように」「命令する」のがCMだったからだ。
知識は「真実」であった。
しかし、彼氏が正しくても間違っていても「信頼できる男」がCMに出ていれば安心した。
デューイは「CMってものは、女に命令を出すものなんだ」と1941年に語っている。
「二人の女にひとりの男」(アイデア)モデルではなく、「プロポーズ型」と呼ばれるCMが登場した。
そのまま、「イエスキリスト」をCMに出して、彼氏からのプロポーズを待ったのだ。
宇宙人ジョーンズ CM

「CMってものは、女に命令を出すものなんだ」ということが分かったため、大自然を利用した「女心型」も出揃った。
これで、「アイデア」「イエスキリスト」「女心」の三つのパターンができた。
サントリー天然水 宇多田ヒカル

「アイデア」「イエスキリスト」「女心」の三つの型が構築されたCMであるが、「CMってものは、女に命令を出すもの」であるということを踏まえ、「命令」は真剣勝負であり、しかも、自信に満ちていなければならないということを踏まえて「景表法」などができた。
1990年代には「誰もが知っている音楽」をBGMに「団結を求める」「コンサート型」が生まれた。
団結というものも「女たちに命令を出すもの」であることが分かってきたからである。
十六茶 新垣結衣 CM

「団結」というものは主婦層の話だろうとも考えられるが、「できれば可愛い女の子がいい」と主婦層は考えており、「アイデア」「イエスキリスト」「女心」に比べれば「コンサート」というものは、標的にする世代が若干上がることになった。
また、「団結」を背景に「女に命令を出す」ことから、CMクイーンの「イメージ」が重視されるようになった。
1990年代中頃に、CMとは「セックス真剣勝負」であるとも言われるようになっている。
「イエスキリストを笑わせてみよう」という具合に、「見る側」の視点が変わったのがネオプラグマティズムである。
愛してジャスティス ribbon

また、視聴者が「風邪を引いている」などの「便利な摩擦」(コンビニエントフリクション)が、CM作りに有効であることが分かり、感冒薬などがCMをリードした時期もある。
風邪薬 CM

効き目が明確ではない風邪薬などは「女に命令を出す」という基本を踏まえながらも、「便利な摩擦」を用いて、彼女に彼氏の面倒を見ることを想起させた。
ribbon 好きと言える気持ち

「女に命令を出す」というCMの基本を踏まえて、「特効薬はない」とされる風邪に対して「理想の私」を提示したのだ。
「女はセックスしているときはいつも本気」という心理を利用して「女に命令を出す」
のがCMとなった。
「そのためには何が足りないのか?」
このあたりは、ジャパネットたかたなどが多くデータを持っていそうだ。
チャールズ・サンダース・パースは、「哲学のことは何も分からないけど、記号論だけはライフワークとして研究した」としている。
記号論というのは「人を興奮させる研究」という意味であるが、CMに活用されるのは必然であった。
「女に命令を出す」というCMの基本を踏まえて、なぜ、「女(アイドル・偶像)」はこのような奇抜な動きをするのか?どのような文化が形成されているのか?
どのように予算を調達するのか?
などがCMの研究テーマとなった。
当然、フロイトファシズムの前には「女」というものは丸裸であったし、冷戦に入ってからは、共産圏は男女が非常に奔放にやらかしているらしいとして、西側でもCMの存在意義が問われた。
松浦亜弥 プリッツCM

1970年代に、CMの世界に「ニュープラグマティスト」と呼ばれる連中が参入してきた。
スポンサーさまに頼まれると、そのCMを基盤に、作り手は「口説き文句」を周囲に売りつけ、資金集めを行った。
電通というのは「スポンサーを探してくる仕事」であるとされているが、15秒や30秒のCMを成立させることで、多くの人脈や資金を集める方法を学ぶのだ。
それは、キリスト教と共産主義の融合でもあったし、「イエスキリストってのは暗かった」というラテンアメリカの哲学を参照したものでもあった。
「男のつらい人生」を知っていたスカンジナビアや、中国も参考に「イエスキリスト」を描いた。
「女に命令を出す」のは、苦労を知っている男だったのかもしれない。
マキシム コーヒー CM

リチャード・ローティは、「世相を映す鏡」としてイエスキリストを見つけてくることにした。
「女で地獄を見るってどういう意味っすか?」
これを知らないのならば、イエスキリストではないだろう。
「男らしさを語り合う論壇」を宗教と呼ぶのであれば、ニュープラグマティストにはもはや「二人の女にひとりの男」(アイデア)という発想も、「女心」(大自然)という発想もなかった。
世相を映す鏡としてひたすら「イエスキリスト」を探求したのだ。
「この男を見ると彼氏まで輝いて見える」
そういう意味では「概念」(コンセプト・人気)と関わるアプローチだった。
マキシム コーヒー CM

女たちが「老いた男の貫禄」にどれだけ歓声を浴びせるかは、男には分かりづらいものがある。
しかし、それが「宗教」なのだ。
「どれほど速かったか?」「どれほど逆らったか?」
そのような男が「歯を見せる」だけで良かったのだ。
なにしろ、そのような男は「ギャラ」なんてケチなことは言わなかった。
むしろ、「人脈」を大事にしてお金を集めてきてくれるのだ。
彼の左や右、前に立つ男はいるだろうか?
「いない」
これが宗教だった。
変な舎弟も連れていなかったのだ。
「普通の女にはありえない男」
そのような男がCMに出てくるだけで「女に命令を出す」こともできたし、彼氏を見る目も変わった。
「二人の男にひとりの女」(モード)ではなかった。
画面の向こうの人は遠いところにいるイエスキリストだったからだ。
いつもCMに出ている男だな、と思われるだろうが、とにかく「金集めがうまい」のがイエスキリストだったので、CMに起用したら必ず企業に貢献してくれる。
イエスキリストがもし現代にいるのであれば大金持ちだろう。
ましてや、優秀な哲学者だろう。
周囲は「ディレクターはコイツを連れてきたかっただけだろう」と皮肉られた。
少なくとも「芸能人」としての実態はなかった。
テレビに出ている「男」に恋心を抱いた女は、彼氏を振り向いた。
「女に命令を出す」
しかし、その「女の心」は誰にも分からないものだった。
開高健 サントリー CM

現在、世界のCMは、「その企業の顧問」=「哲学者」=「経済学者」を起用したほうが好ましいという方向に向かっているし、かなり「宗教化」が進んでいる。
可愛らしい女の子に癒されることもあるだろう、二人の女にひとりの男という構図にいまだ魅力はあるだろう。
しかし、フロイトファシズムを経験したのちには、みんなが「貫禄のある男」を振り向いたのだ。
CM作りが「イエスキリスト」を語るようになると、「それならば女の仕事ね」と言って、
ジェーン・アダムズや、エミリー・バルク、エラ・カボット、マリー・カルキンス、エルシー・クラップ、アンナ・ジュリア・コッパー、アリス・デューイ、マリー・フォレットなどの「女たち」が、「私たちの方が男に詳しい」と言ってプラグマティズムの世界になだれ込んできた。
イエスキリストからの「電話」を真っ先に受けるのは彼女たちだったし、それを上席のものに通すかどうかの判断も彼女たちがやっていたのだ。
哲学は「女を口説く」学問だったし、経済学は「男が女を愛する気持ちを利用する」学問だった。
彼女たちは「人々がなにを欲しているのか?」に敏感だったし、フェミニズム第一の波が「ブルジョアと結婚したい」というものであるのならば、フェミニズム第二の波は「私たちも仕事がしたい」というものであった。
「イエスキリスト=男を語るのが仕事ならば私たちにもできる」というのがプラグマティズムの果たした役割であった。
男を語るのが仕事であるのならば、少女マンガの読書歴まで生かされるため「ユートピア」と呼ばれた。
松田聖子 赤いスイートピー

女たちの「プラグマティズム」=「CM作り」の仕事は、シカゴ学派を柱として行われ、「女に詳しいイエスキリスト」という男のモデルの値踏みは、女がシカゴ大学で磨くものであるとされた。
ジェーン・アダムズは、姪に「男とよく話してみることね。出世するかどうか分かるわよ」と語っている。
イエスキリストの「むかし歩んだ道」すら理解している女はあんがい少なかったし、それを見抜く女の力量はまさに「仕事」としか言いようがなかったのだ。
片想いの終わりに 亀井絵里

リチャード・ローティは、尾崎豊や、最近では竹原ピストルのような「時代に迷っている男」(スターリニスト=ゲイカルチャー)の排除を行った。
それは価値相対主義の排除であり、開かれた絶対主義、つまり、女にとっての絶対の存在を認め、学んでいく男こそがイエスキリストであるとし、一日中ボケッとしている男を排除することを意味した。
「ゲイは万年平社員である」ことを見抜ける女は少なかった。
そのあたりを、プリンストン大学やバージニア大学で研究した。
アウトロー気取りの連中は組織では王道でも「処女がセックスさせてくれなくなる」などの問題があり、処女が群れに一人いるだけで居場所をなくしてしまうのだ。
このことは、アウトロー気取りの連中は高校で教育を受けていないことを意味し、出世も頭打ちであることを示している。
「組織では王道」でも、「彼、学歴がなかったから」と言われる連中なのだ。
開かれた絶対主義の下では「アウトロー気取り」も排除の対象となった。
プラグマティズム=CM作りの世界がアウトロー気取りの男を嫌ったのだ。
学ぼうという気持ちがない、文字が読めない男はCMの世界では致命傷とみなされた。
矢沢永吉 CM

「アウトロー気取りの男」は組織の王道である。
つまり、出世するのに手っ取り早いのだ。
しかし、処女が組織に存在する時に「あの娘は落とせないの?」と批判されるだろう。
そのため「アウトロー気取りの男」も、イエスキリスト=哲学者=経済学者ではないため、CMには起用できない。
処女は「強くて優しい男」が好みだったのだ。
「伸びしろのない男にはついていけない」という思いもあったのだろう。
大言壮語を吹きまくってそれでも「保守」のつもり?処女たちはそう思っていた。
本当の「保守」は処女にもモテるおじいさんなのだろう。
河合その子 Please tell me Mr.朱。

シドニー・フックは「デューイの犬」と呼ばれ、現在の自由民主党の傘下にあるマルクス主義者(新左翼)を作り上げた。
フックも、CMの研究を行っており、失恋の研究から「男は賢いほうがいい、女は美しいほうがいい」ということも明らかになっており、「賢い男が美しい女を使ってCMを撮影する」のがいちばん好ましいと考えた。
マルクス主義が「反キリスト」といわれる理由はこのあたりにある。
葵わかな CM

「賢い男と美しい女」つまり、「失恋を知らないものたち」によって、非常に明るいCMが作られた。
「二人の女にひとりの男」(アイデア)という図式には当然なるわけであるし、「女に命令を出す」というCM作りの基本は押さえていたが、シドニー・フックはあくまでも「現場の都合」を考えており、「失恋を知らないものたち」が作るCMというものを模索したのだ。
聖母マリア崇拝はマルクス主義にならざるを得ない。
そのため、東大生でも「オタク」は差別される宿命にあった。
マルクス主義は「資本主義の矛盾」つまり「俺が男らしいという議論は堂々巡りをする」ということを踏まえて、単純に「失恋を知らないものたち」によってCMを作ることにした。
CMは「明るいほうがいい」ということであるのならば、現場の都合を考えたほうがいいと判断したのだ。
「レーニンの教会法」が「聖母マリア崇拝」であり、東大生の中にはこれを嫌うものもいたのだ。
上戸彩 CM

ソビエトの真似をしたナチスの国家社会主義、つまり、マンハッタン造成計画および、外国国家併合が、必ずしも景気の回復にはつながらないことも明らかになった。
ニューディール政策は失敗だったのだ。
新左翼であるシドニー・フックは、スターリンの「ゲイカルチャー」「価値相対主義」を激しく非難し、レーニン主義、つまり「聖母マリア崇拝」への回帰を求めた。
聖母マリア崇拝=レーニン主義に、サンタクロースを結び付けようとしたトロツキーの方が、スターリンのゲイカルチャーよりも恐れられていた。
CoCo 冬の微粒子

トロツキーにはレーニンの教会法を継承するだけの「夢」があった。
しかし、スターリンの「粗暴な側面」つまり「ゲイである」ことが権力闘争で勝ってしまったのだ。
しかし、トロツキーは裁判で「ソビエトの権威になんら悪影響を及ぼしていない」として無罪になっている。
CMを理解するためには「世界革命」を試みたソビエト連邦の権力闘争を理解しなければならないのだ。
ケンタッキーフライドチキン CM

レーニンの夢を継承しようとしたトロツキーに勝ったスターリンの人気も、
女子中学生から若者から幅広いものがあったことは、しかし、認めざるを得ないだろう。
ゲイというものはあんがい「言っていること」は人気があるのだ。
尾崎豊 シェリー

CMというものを語るのならば、「聖母マリア」「クリスマス」などは当然、話題には上る。
しかし、ジョゼフ・マッカーシーは「芸能人一家」「ゲイ」など「出世の見込みのない共産主義者」を排除しようとしたのだ。
マッカーシズムの嵐を支えたのは、当然「イエスキリスト」だった。
シドニー・フックは、「自由民主党の犬」「新左翼」として、ソビエトと向き合ってきたし、CM作りに生かしたのだ。
CM作りにおいて、アメリカフェミニズムは、フロイトファシズムを参照している。
いじめ集団と「いじめられる側」の心や、女と男の違い、目的手段論(私にはスタートだったの、あなたにはゴールでも)などが参照された。
なにも言えなくて夏 J-walk

男女の「生き生きとした実体験」が求められており、アカデミズムの側としては、女たちの経験談をひたすら受け止めるしかなかった。
目的手段論を理解しない男女は実体験としては存在しなかった。
「最初はマメだったのに、本当に手に入れたらそんなんじゃなくなるのかな」
Eriko with crunch 冷たくしないで

目的手段論の周辺には、ヘーゲルやキルケゴール、マルクス、ニーチェ、アドルノ、アルチュセール、ベンジャミン、ドゥルーズ、フーコー、フロイト、ガダマー、ハイデガー、フッサール、ラカン、マルキュース、メルロ・ポンティ、サルトル、デリダ、ハーバーマスなど「ほぼ全員が」集まったのだ。
それほど、「男女の違い」を端的に表現しているのが「目的手段論」だった。
目的手段論こそが、「手の届かない女」「聖母マリア」を生み出していたし、このあたりはレーニン主義ともいえるものではあった。
アカデミズムの側は「天皇は手段とすれば値段がつき、目的とすれば権威がつく」(長谷部泰男)としており、そのカントの真の意図を図りかねていたが、日常の男女の生き生きとした経験談の方がアカデミズムよりもそのことに詳しかったのだ。
目的手段論ほど「女性の局部」の意味を明確に理解した理論はなかった。
CoCo メロディー

目的手段論がある限り「聖母マリア」崇拝はなくならない現状がある。
映画評論家のフォックス・ケラーも「ヒロインをみんなで最後まで追いかけ続ける」ことをシネマと呼んでおり、「聖母マリア」をCMに用いるのか、「イエスキリスト」を用いるのかはかなり根の深い対立となっていた。
イエスキリストは、企業の顧問=哲学者=経済学者であろうが、なにしろCMという企業のイメージは明らかに「女」を起用した方が爽やかさがある。
フェミニズム第二の波(私たちも仕事をしたい)は、「男らしさを語り合うのならば私たちの方が得意」としており、「イエスキリスト」をCMに起用しようというムーブメントとなるが、形而上学(失恋の研究)は「男は賢い方がいい、女は美しい方がいい」としていたし、これに、目的手段論も加わり、「CMクイーン」というものが生まれたのだ。
現在も、「男」「女」がCMに共存している現状がある。
時間と空間をより広く使うのであれば「手の届かない女」を風呂に入れた方がいいという考えも当然あった。
中村アン CM

 

なにしろ、CMは、武器や医療、自動車、電子機器の調達に用いるものであったため、その議論は決して避けては通れないものであった。
「受験サイボーグはCM特集を見なければ夜、よく眠れないらしい」という論点も「聖母マリア」をCMに起用することに味方した。
スターに「アンチ」はつきものだが、「心」を見出してはならないという意味である。
「育てる」などというあまいものではない。
AKB48 アンチ

「聖母マリア」「イエスキリスト」という具合に男女が共存しているCMの世界であるが、「女に命令を出す」という観点から、「イエスキリストは女の感度を高める」という指摘をウィリアム・ジェームズは行っている。
木村拓哉 TBC CM

このように、多くの研究者が「プラグマティズム」「記号論」を背景に議論したのがCMの世界であり、その世界をあまく見る芸能人はまったくいないといっていい。
デューイは、自由民主党の立場であったが、シドニー・フックは「自由民主党傘下の新左翼」であった。
ともに、レッセフェール(神の見えざる手)を信じており、神とは「天皇」のことを指している。
男女が共存し、女性も等しく政治参加をする「民主主義」を愛し、さらには「キリスト教」=セックス崇拝を基盤としている。
そこで、デューイは「子供たちにCMを見せて評論させるのがいちばんいい性教育である」と考えていた。
リベラル国家における「神」とは天皇のことであったし、民主主義というものは「多数派の意思を探る」ものであった。
しかし、CMというものは「多数派形成を行う」というものであったため、「神の見えざる手」によって、「モノを売る」だけにとどまらない「人脈作り、資金集め」に用いられた。
CMとは「民主主義芸術」であり、多数派形成を行い、しかも「お金を集め、人脈を作る」という意味では「勝負事」に活用するのは必然であった。
モバゲー CM

人々の「民意」はかなり歪曲されているものだ。
CMによって「多数派形成」されてしまうのだ。
しかも、CMは「女に命令を出す」ものである。
「女心の形成」にすら介入してしまうという側面がある。
モバゲー CM

人気のある人にはみんな興味がある。
しかも、CMに対しては多くの人が「同調行動」をとってしまうのだ。
まるで、人気のある人とともに「参加したい」という意欲を基盤にしているようだ。
「今から思えば」CM効果だったのかな?と思うことが民主主義社会でよく起きた。
モバゲー CM

 

いずれにせよ、人間の半数は女であるのに、民主主義社会で「女に命令する」ことをコンセプトとしたCMというものが、どのように「体制の安定」につながるかは理解しなければならないし、一方で「盗人」のように勝負を盗んでしまうことも指摘されているが、プラグマティズムや記号論にも「限界」があった歴史を踏まえると、CMのコンセプトはともかく、「実践」におのずと限界があるとされ、周囲は楽観論に落ち着いた現状がある。
横浜DeNAベイスターズが勝ち続けるようであれば「プラグマティズムが怖かった」ということになるだろうが、果たしてどうなるかは明らかではない。
モバゲー CM

 

ヨシュア・ロイスは「音楽でCM作りのコツは分かるんだ」としている。
ヨシュア記は、モーゼ五書の次に「金儲けの秘訣」として記されている。
「ふたりの女にひとりの男」
「イエスキリスト」
「女心=大自然」
「コンサート」
などの「型」がCMにはあるが、モーゼ五書が否定した「イエスキリスト」をBGMを背景にCM作りに利用した。
舞祭組

 

「ふたりの女にひとりの男」というモデルも「女心=大自然」も「コンサート」も音楽作品を念頭においてCM作りをするというのがヨシュア記の趣旨だろう。
幾多郎

 

「女はいつも鼻歌を歌ってる」とし、「女は声で文字を読んでいる」ということをも見越して、「適切な選曲」を行わせようと考えたのだ。
「セックスする時はいつも本気」ということの背景には「自分が破滅する」ということがあり、「ふたりの女にひとりの男」「イエスキリスト」「女心=大自然」「コンサート」なども、男の想像をはるかに上回る「曲数」を持っているとされている。
ナウシカ

 

父から息子に伝える「音楽作品」はほとんどないが、「母から娘へ」伝える音楽作品は存在するとされ、ヨシュア記は、「イエスキリスト」の存在を認めている。
セックス崇拝がキリスト教だとするのであれば、当然、女にとってセックスは自分の破滅であり、「セックス」と露骨に表現してはならず、なにか「幻」のように表現しなければならない。
そのための「曲数」が膨大な数になるのである。
女にとって大事だったのは「セックスは仕事」と悟られないことであった。
「売春婦は神さまに怒られる」という思いはどの女にもあった。
男が「うちの妻は売春婦なのだろうか?」と思うような「歌」は歌ってはならず、芸術に昇華しなければならない。
「イエスキリスト」=「少年」=「メシア」というのはこのようにして生まれた。
残酷な天使のテーゼ

浜崎あゆみ M

山口百恵 ロックンロールウィドウ</p

松田聖子 赤いスイートピー

こんな感じで女性たちは歌っていた。
みんな「イエスキリスト」=「少年」=「メシア」を歌っているんだよ。 ヨシュア記から士師記までひたすら「女の夜の作法」が書いてあり、息子は「三男」として養子に出した。
アブラハム宗教の誕生である。
CM作りにおいて、女が歌う「曲数」は膨大な数に上るとしたが、「サビは知ってるヒットソングが回る回る、永遠に終わらなくなる」というのが正確な表現のようだ。
渡辺満里奈 レイニーカインドオブラブ

ヨシュア記においても、紹介されている「詩」はわずかに二篇である。

ヨシュア記/ 06章 26節

「この町エリコを再建しようとする者は/主の呪いを受ける。基礎を据えたときに
長子を失い/城門を建てたときに末子を失う。」
大泉逸郎 孫

 

ヨシュア記/ 10章 12-13節

「日よとどまれギブオンの上に/月よとどまれアヤロンの谷に。」
日はとどまり/月は動きをやめた/民が敵を打ち破るまで。
本木雅弘 東へ西へ

 

デューイは、「そもそもなぜ高視聴率が欲しいのか?」と聞かれ、「それはダーウィンだね」と答えている。
つまりは、「医学に関する情報を発信したい」と考えたのだ。
「風邪」なんてものは、三千ページの医学書のわずか「20行」にしか書かれていない。
玄関の取っ手に青酸カリを塗ることは、誰にも止められないし、「情け」とは家族の学問であったため、家庭内で、食べ物に毒物を混入されることも誰にも止められない。
つまりは、「家族のメンバーとして受け入れることが困難」と考えられた者が風邪を引いていたのだ。
「愛されていない者」は、愛を必要としていたために痩せていた。
「Food or Love」という問題は、両親との関係も考えると男にもいえる話であり、愛を必要としている者は、食べる量も少なく、怒りを感じながらテレビを見ていた。
信頼している人に裏切られても成績は伸びない(自己欺瞞)し、自分と世界がかけ離れていなければ(自己疎外)成績を伸ばす動機はない。
テレビとは、自分と家族・世界の妥協のために見るものであった。
「自分と世界がかけ離れてる?」「信頼している人に裏切られた?」
大学というのは「人気」の研究をするところなんだよ。
勉強が苦手ならば、よくテレビを見てごらん。
「ふたりの女にひとりの男」「イエスキリスト」「女心=大自然」「コンサート=主婦層の団結」にせよ、テレビには学問の目的が描かれている。
テレビの世界では「フラッシュを焚かれる」というのは「罰」だった。
「社会のメンバーとして受け入れるのが困難」な者すらテレビで「フラッシュを焚かれて」いるではないか。
テレビを見て「たくさん食べる」、これが医学の基本なのだ。
ダーウィンは「息子が父より背が高い」こと以外に「進化」は望んでいなかった。
「食べられない」「眠れない」人は世の中に確実に存在したのだ。
「CMは女に命令を出すものだ」としたが、実際は「男女を問わず、人間の痛み」に訴えかけていた。
「風邪を引かなくて勃起できれば男じゃないか」というのがテレビの答えでもあった。
藤本美貴 大切

 

テレビを見て「意味が分からない」ことがあるのならば、それは「論点」と呼ばれるし、法学部の「論点表」など、何の役にも立たない。
仕事をしたくないから「専門用語」を覚えるのが職業というものなのだ。
仕事をしたいのならば、テレビを見て「論点」を見つけていくしかない。
「ミスワールドという女がいる」=「俺の方がお前よりモテる」=「担保」とか、「お父さんが連帯保証人になって財産がない」=「保証人になると債務者の女性関係が全部分かる」=「連帯保証と保証はスピードの違いに過ぎない」
などという具合に、論点を潰していくしかない。
ようするに、「専門用語」は、大企業にはまったく通用しないことを知るのだ。
芸能人は「省庁横断」「企業横断」をする存在だ。
仕事に生かさない手はないだろう。
CoCo 優しさに帰れない

 

私は司法試験を受けた結果、結局、「東大に入った時点で”大人”だったんだな」ということが分かったし、大学に入っても「夢が見たい」と思うのは「聖書と哲学の融合」のためであったことも分かった。
適当にモテて、病気にもならず、就職して何十億円も任される、これがいちばん賢い生き方だったのだろう。
ようするに「デカくて、勃起すれば」男なのだ。
片想いの終わりに 亀井絵里

ジョージ・サンタヤーナは、詩人であり哲学者だったが、「CMってのは、男が勉強する上で必要な癒しがある」としていた。
私も、東大受験時代は酒井法子さんのCDを目の前においていたが、それは「勉強がどれほど苦痛だったか」を物語っている。
「女に命令を出す」のがCMだとするのならば、「男の痛みに命令を出す」のと同じ意味だ。
実際は、酒井法子は親戚の「重子」(しげこ)であり、受験が終わった時に、家に遊びに来ている。
「このドラマのつづきはどうなるのかな?」とか「彼氏に電話する」とかバカなことばかり言っていたが、心ある「叔母」からの私への「卒業旅行」のつもりだったのだろう。
ribbon 卒業旅行

私はこの時に、東大文一に合格しており、美智子皇后すら「自分が果たせなかった夢を孫が果たした」と、昭和天皇の言葉を引用し、私を絶賛していた。
「アイドルが心の支え」というのは受験生にはよくある話であろうが、この「心理」をCMが活用したのだ。
サンタヤーナは「勉強家」としてこのことを熟知しており、ハーバードの教授を何度も「リタイヤしたい」と言っても引き止められたし、ヨーロッパに移住してからもハーバードから「特別なオフィス」を用意されて連れ戻されている。
それほど、「アイドルが心の支え」ということを熟知し、CMを作ったサンタヤーナはハーバードからも、学生・生徒からも必要とされていたのだ。
サンタヤーナは「動物の忠誠心」と「女の人生」という二つの論文において、「CMとは女に命令するものだ」ということを、苦痛を感じている「男」にも活用し、男でも「サビは知っているヒットソングが、回る回る永遠に終わらなくなる」ということが起きるようにした。
まるで「ドリーマー」のように、歌にとりつかれる男がいた。
ゴルギアスというものは、歌謡曲に哲学的解説を加えるものであるが、そもそも、「ドリーマー」で苦痛に満ちた男でなければそれは困難であり、東大文学部の林助教(女性)に「やってみろ」と言っても無理なのである。
デカルトは「街で会った女の子」と話をして「内省」(マスターベーション)することを想定していたが、サンタヤーナは、CMを用いて「とにかく机の前に座れ」と言って「動物の忠誠心」を人間にも活用して、勉強させたのだ。
ハーバードがこのような論客を放っておくはずはなかった。
酒井法子 オールライト

室内音楽は、ハイドン、ベートーベン、バルトーク、ストラビンスキーと83人の弟子によって完成されていたし、詩人も大勢いた。
CMであろうが「4分間のパフォーマンス」だろうが意味は変わらなかった。
「女に命令を出す」というCMが、音楽作品によって「苦痛を感じている男に命令を出す」という具合に発展したのだ。
アイドルを実際に「追っかける」オタクとは異なる、アイドル(偶像)の根強い支持層が生まれた。
コートダジュールで逢いましょう 高橋由美子

東大生は国家一種試験にも司法試験にも「合格しやすい」のである。
つまりは、このような「やり方」を常識として持っているからであり、さも、それが「当たり前」のようになっている。
このあたりは、「常勝思考」という大川隆法の本でも触れられてはいない。
当たり前のように「勝てる」時期があるのは事実なのだ。
しかも、大学に入ったら「人気の研究」に研究テーマは移っていく。
その時に、自分の「経験」が大きく生かされることになる。
しかも、心の支えだったアイドルが「東大に受かった男のように有名になりたかったから」という理由でアイドルをやっていたことが後から明らかになり、ヨハネの黙示録とも呼ばれ、「私の歌の意味を教えてください」というのはケンブリッジ大学で教えている。
のちのちに、素晴らしい人脈を形成していくことになる。
青いスタスィオン 河合その子

このような経験をした「長男」は、叔父や弟による「いじめ」にも「おばあさん崇拝」「祖先崇拝」を求める必要はないわけである。
すくなくとも、叔父や弟に「祈り」を求めるマネタリストではない。
おのずから、マネタリストにこだわるかどうか、あるいはヨハネの黙示録を支持するかの立場の違いが生じるのだ。

 

デューイが、東大生=長男のために、「閨閥を形成させよう」として、「女の嘘」まで詩にした時は、広く世論の支持を得るためにやっているのかと思って衝撃的だった。
ribbon 哀しい方の嘘

 

「商売女は嘘つきだ」なんてことは東大生が知るわけがないからね。
マルクス主義者ぐらいしか知らないことだったが、これが分かれば事務次官と変わらなかった。
本命彼に対しては、他の女と喧嘩したくないために「嫌い」「狙ってないよ?」というのが女だった。
ポルノが掲載されている雑誌で嘘の情報を女が流すダダイズムも、処女とのセックスを活用したシュールレアリスムもデューイは芸術にした。
エルグレコやセザンヌ、ルノアール、マティスも参考にしている。
高橋由美子 ときめき

とくに、ルノアールは「多くの未開民族」をモチーフにしたため「印象派」と名づけるほかはなく、デリダは「世界がひとつになるためにはどうしたらいいのか」という宿題を与えられている。
エレジーズ 印象派ルノアールのように

デリダは「世界を愛でひとつにする」ことの答えをセックスに求め、セックスとは「その女の子供の気持ちを味わうものだ」とし、「どう?私の子供の気持ち」という台詞を女に言わせている。
しかし、デリダは911テロを目の当たりにしたのだ。
ルノアールから落第点を押される形になった。
デューイにとって、芸術とは、サンタヤーナと同じく「勉強することで自分が女子から歓声を浴びたり、世界が広がるのが分かればいい」というものであり、しかし、「心の支え」とするにとどまらず、メッセージ性を持たせたのだ。
いずれにせよ、「女に命令を出す」ことをコンセプトにしたCMが、「苦痛に満ちた男」にまで影響を与えることが分かったため、CMだけにとどまらず、PVというものも生まれたし、レオ・トルストイのように、放送作家から始めて本格的な小説を書き始める作家もいたのだ。
「女に命令を出す」というCMも、「苦痛に満ちた女」というのが仮に存在するとするのであれば、当然、「イエスキリスト」を「心の支え」として用いるわけであるが、「イエスキリスト」の特徴として「孤立していない」ということが指摘できる。
ゴッホは孤立から抜け出す年齢になってからようやく「自画像」を描いている。
しかし、男にとって「女はエネルギー」であり、女にとって「男は力」であることを考えると、「苦痛に耐える力量」が男の方が強いことになる。
メソジストの立場に立ち、男女が同じ人数だけキャンパスにいるようにするのであれば、女にとってはかなり受験というものは簡単なものになる。
しかし、東大は少なくともメソジストではなかったし、女に対しても容赦のないものだった。
星野源 CMにせよPVにせよ、「心の支え」と位置づけるのであれば「印象派」というジャンル分けをせざるを得ない。 「見るだけで力・エネルギーが湧いてくる」「解説はいらない」のであれば印象派だ。 しかし、それでも「ふたりの女にひとりの男」「イエスキリスト」「女心=大自然」「コンサート」などのジャンル分けは可能である。 だが、15秒や30秒で「視聴者に力・エネルギーを与える」のならば印象派なのだ。

2019年3月27日 (水)

マネタリスト。

まずは、私の小説をご一読願いたい。

ペテロの葬列

父と、イエス、聖霊(叔父や弟)などの「いじめ」の構造を明らかにし、その非効率性を指摘し続ける経済政策を「マネタリスト」と呼ぶ。
それはカトリック社会で発揮されるものであり、「女ならばいくらでもいる」というリベラルな社会ではマネタリストの力は限定的にならざるを得ない。
スペインのサラマンカ学派が、このマネタリストの研究を進めた。
身内でどんな「いじめの構造があるのか?」をひたすら解明したのだ。
おばあちゃんが死んでから、「いじめ」が広く展開された。
ドミニコ会修道院とスペイン王室がこのことを痛感したのだ。
「宗教が経済政策になる」
マネタリストはそのように考えた。
イグナチウス・ロヨラが考えたものだ。
ドミニコ会修道院から、国王の娘の「婿」をとろうと考えたことから、マネタリストが生まれた。
本能のおもむくままに行動していたら、いろんなものが「効率が悪い」ことが分かり、経済政策として「祈り」を求めたのがカトリック社会だった。
ぺラジアン(修道僧)とカルヴァン派アイドルの結婚がなければこのようなことは分からなかった。
ルターが「アイドル」(偶像)というものを作らなければ、カトリックの側もマネタリストの研究ができなかったのだ。
いじめをやめるというのは「歴史の法廷に立つ覚悟」とも「隣人愛」とも呼ばれた。
あくまでも経済政策であり、警察まで必要がなくなるものではないのが「隣人愛」というものであった。
いじめをやる側にも「聖母マリア学が広く浸透していた」という言い訳のようなものは確かにあった。
しかし、もし「いじめ」が真理であるとするのであれば、それに逆らうこと、より制御された人間になることが富につながると考えたのだ。
「人間というものは教育を受けることが可能なのだろうか?」という問題でもあった。
誰もが必ずしもトマス・アクィナスのようにモテるわけではなかった。
しかし、「他人に親切にする」ことならば誰もができるではないか?
このことから「経済新世界」というものが見えてきたのだ。
「モノを売る人」は買う人に対して親切だろう。
しかし、マネタリストは常に「モノを売っていた」から豊かだったのだ。
トマス・アクィナスは「いじめの構造」を明らかにし、自分を救ってくれたアイドルについても触れているが、それを「経済学」(マネタリズム)にまで高めたのはサラマンカ学派だったのだ。
カトリックに豊かさが約束されたのである。 1930年代に「猫の手も借りたい」アメリカ合衆国のジェームズ・ブラウン・スコットによってこの研究は現代のものとなっている。

2019年3月17日 (日)

通信。

鉄が「恋愛の世代を下げ」、自動車がそれに逆らい「18歳以上」としたのに対し、通信は「より筋肉質な文章」がもてはやされるようになった。
私は「ヨハネの黙示録」によって、女たちが遠ざかったため、より「男性社会」を志向した学問をやっている。
27歳になって、ホリフィールドの「5 children out of 9 was born out of wedlock」という文章をインターネットで読んで「9人のうち5人が妻以外の女性に産ませた子供」と翻訳したり、ボブアラムがこの「ホリフィールド対レノックス・ルイス第一戦」の直後に「post the score in each round」と語ったのを「各ラウンド終了時に採点を公表する」と翻訳したりしたため、一度は女コミュニティーでその存在が抹殺された私が、ふたたび脚光を浴びたのだ。
それは、「男社会の学問」「筋肉質な文章」から来るものであり、女たちは「こういう男性は子供に優しそう」と考えたようだ。
通信とは「筋肉質な文章」が天下を取るものであり、それは実際の「フィジカルトレーニング」も存在したし、ヨハネの黙示録によって「病んで」しまっても、「人生は一度きり」という側面がありそのうち病気も治ってしまうことを指摘するものだった。
CoCo 乙女のリハーサル

それでも、「婚外子」の問題は、姉の存在がなければ分からなかったし、「ボクシングにおける深刻な問題」である「オープンスコアリングシステム」もボクシング経験がなければ分からなかった。
その後、私はふたたび法律の基礎研究に戻っていったが、父が「グループホームを経営したい」と言っていた時に「潰れることはないが政府が数を制限しようとしている」という
見解を法律雑誌から引用するなどする以外に、周囲に貢献するような研究はしていない。
ドォーキンは「実存主義者が女子高生を相手にするなんて無理無理」と語っている。
私はひたすら法律のレポートを書き、まるでパリサイ人の論理に帰っていくような道のりをたどっている。
私が、42歳になってから、「女は、夫が子供に興味を持ってくれるのかな?家庭に縛られるのではないかな?
ということから追い詰められていく」と論文に書いてあるのを読み、中森明菜の禁区を聞いたのが私の「ゴルギアス」「プラトン」の世界と接した初めての経験だった。
中森明菜 禁区

私の「実存主義」の立場は行為無価値論と呼ばれ、最高裁も支持している。
しかし、歳をとるにつれ「文章が軟らかくなって」いる。
村上春樹さんにも早い時期から「もっと噛み砕いて」と指摘されていたが、そもそもが軟派な村上さんとの決着は「ガーナー対バー」によってもつけられていない。
要するに、行為無価値論・実存主義は「タイヤがはげていく」のを待っているのだ。
いずれにせよ、タイヤがはげないと「女子高生にも分かる」文章はかけないし、そうかと言って、早熟な村上春樹さんのように結果無価値論の立場に立つと「伸び悩む」ことにもなりかねない。
硬いタイヤをがっちり持っていないとはげようがないのだ。
「みんなが生き残りたいと思っている」こと。
「見れば分かる」こと。
「私有財産制の保障」をすること。
「セックスしたら金を払う」こと。
「平和的におこなう」こと。
「射精の気持ちよさはどの女も変らない」こと。
「どの女も値段は同じ」であること。
これらを理解しなければ、毎日電話ばかりしている政治家の「活動実態」は分からないだろう。
こわれかけたピアノ 高井麻巳子

動物の研究をしていると、「オスらしさ」「メスらしさ」を持っていて、それを記憶している生き物が「つがい」となっているようだ。
しかも、動物なりの「恋愛論」が存在する。
さらに、「母と子の宝石」というものも観測される。
「つがい」を作る生き物は、学習や記憶、交尾での感じ方、決断力に勝っている。


プレーリーハタネズミ。

言葉を持たなくても「オスらしさ」「メスらしさ」と記憶、子供が可愛い、学習能力、記憶力、決断力、交尾で感じること、恋愛論があれば「つがい」と言うものはできる。



皇帝ペンギン。

まあ、いじめられた男女からカップルになっていくものだ。
いじめられたものにしか「心」はない。
心が「私有財産」=「セックス」を作るのは事実だ。
精子が出る男には「心」がある。
女は長話を聞いてもらえるし、男は女を口説けるのが人間というものだ。
動物の論理を知ることは、人間のコミュニケーション(通信)の研究をも意味する。
「オスらしさ」「メスらしさ」と記憶、子供が可愛い、学習能力、記憶力、決断力、交尾で感じること、恋愛論のどれかの知覚能力を欠いただけでも「つがい」というものは成立しない。
しかし、「人間」はすべてを兼ね備えているではないか。
Wink 結婚しようね。

「つがい」が成立する動物には宗教が存在する。
さらには「ピラミッド型」の身分制社会が存在する。
身分制社会が存在すれば、どんな職場でも作れる。
つまり「戦うこと」ができるのだ。
種が「戦うこと」には常に人気がつきまとう。
そのために身分制社会が成立し、宗教が成立し、つがいができるのだ。
戦う必要のない「種」は、添い遂げるパートナーと存在を必要としていない。
ダーウィンは、「学んだ個体が選ばれる」としていた(ナチュラルセレクション)。
モーガンも、トップレベルの個体と、低レベルの個体の「意識レベル」があまりにも違うことを指摘している。
「通信」とは他の個体の行動原理を変えさせるために行うものだ。
鷲が現れたらどの種も逃げるだろう。
周囲への「警告」に端を発するのが通信(コミュニケーション)である。
警告は最も意味のある通信である。
しかし、チョムスキーは人間の通信を「鳥のさえずり」のように豊かなものだとしている。
シルバーリングに口づけを Melody.

いずれにせよ「身分制社会」「宗教」さらに「学んだ個体が群れのボスになること」がなければその種は戦えない。
「学歴も人種である」とする結果の平等も、「常にアメリカに対してオープンである」とする機会の平等もそのような意味では「戦える国」を標榜している。


また、通信に関しては「女」に関する一般論を嫌う人はいないとされ、垂加神道は広く支持を集めた。
人生の半分を「痛み止め」を飲んで過ごす人もいて、老化が早まる。
「女心を知る」ということは「痛みを知る」ということでもあり、垂加神道は老化の防止にきわめていい効果がある。
「老化」というものは「タバコ」「教育」「日焼け」「ダイエット」「運動」「暴力」などから引き起こされるが、要するに「他者に感化される」ことが老化の原因だ。
手をこまめに洗うなどの習慣はあんがい重要なのだ。
「痛みを知る」=「女心を知る」ということも老化の防止に重要な意味を持つ。
「肝臓を出たり入ったりする血液の量」が減ることが老化の原因であるとも端的に表現され、うつ病になるほど薬を飲むのは好ましいことではない。
いずれにせよ、本ブログの解説とともに音楽作品を聞くことは「老化の防止」にいい影響があると思われる。
トラブルに巻き込まれて命を落とすのであれば「老化」を論じてもまったく意味がないだろう。
車のバッテリーが上がった時に、ネットで「ジャンプスタート」の方法を調べて実践できれば「素敵!」と言われるだろう。

あるいは「医学」に関する情報も人気がある。

いずれにせよ「通信がつながる」ということはこれらのすべての「情報」を伝えられることを意味するのだ。
これらの「通信」が、ビジネスや雇用、医学、セキュリティ、輸送、エンターテイメントなどのあり方を変えたのは事実であった。
それにとどまらず、家族のあり方や、コミュニティ、対人関係、教育のあり方、出世とは何か?などのあり方も変えた。
コンテンツの「質」が上がらないと、通信という仕組みそのものへの投資を行うためのファイナンスが困難になる。
法学部や医学部ではない連中すら、「ネットで調べたこと」を根拠に、通信で「小鳥のように」さえずるがごとく話しをした。
そもそも、元気はつらつとスポーツが楽しめるのであれば、医学の知識も女心の知識も必要ないであろう。
しかし、若さは永遠ではない。
1940年代に「第二次産業革命」つまり「オートマ時代」が引き起こされている。
現在の「第四次産業革命」とは「論文を企業に提出して株式を有利発行してもらう」時代のことを意味するが、論文を企業に提出し、「オートマ車」に乗ることは産業そのものが望んでいることだ。
論文そのものが、アメリカのNetTalkで全米の女たちの考えを聞いて成り立っていたし、オートマ車はコンピューター制御されている。
また、このことから、権力そのものが「メールや電話」「インターネットを用いて仕上げた論文」から作られるようになっているのだ。
ネットワークの向こう側に「健康に悩む人」「女心が知りたい人」が大勢群がったため、いちばん効率のいい研究手法となった。


2019年3月15日 (金)

そもそも「統計」とは何か?

統計というものは「すべての人にクリスマスプレゼントを贈る」ために取るものだ。
政策を打ち出したら、その有効性が知りたいと思うのはすべての政治家に言える。
そこで「サンプルスペース」に、「ターゲットシステム」にもとづいた調査をするのだ。
政治家は「小説」「芸能界」を用いて、有効なメッセージを発信しようとするが、サンプルスペースやターゲットシステムは、たとえば、ミルク入りの紅茶かそうでない紅茶かをご婦人が「二分の一」の確立で、想像して用意していても、実際の好き嫌いは「二分の一の五乗」つまり「3%」しか的中しない。
つまり、「ミルク入りかそうでないのか」は、前もって聞いておかなければならない。
しかし、政治の有効性を確かめるためには、「小説」「芸能界」の有効性をサンプルスペースやターゲットシステムを用いて拾っていくしかない。
政治家は、現状としては「すべての人にクリスマスプレゼントは届いているのか?」はタクシー運転手のご機嫌などを見ていくしかない。
CoCo 冬の微粒子

「俺の知っているとおりにやったらうまく行くはずなんだけどなあ」と考えても、5%ぐらいの人の心にしか響いていないこともある。
一方、タクシー運転手の「季節はずれの」機嫌のよさに出くわしたりもする。
これが「統計」の世界なのだ。
「運転手が機嫌が悪いから効いていないのかと思った」ということもあるし、「今日は風もなく暖かいですね」と運転手に言われることもある。
統計として明らかになった時には「誰がやったか」も明らかになっておらず、奪い合いになるのがオチだろう。
しかし、「これで良かったんだな」と思う一部の政治家が統計の世界には存在する。
「このやり方でクリスマスプレゼントをみんなに送り届けるんだ」と考えるに至るまで3ヶ月以上待たなければならない。
だいたい、3ヶ月で予想が的中するのであれば、因果関係も明確であるし、「政界のキーパーソン」も決まるといっていい。
「経済学のテキストの書き換え」も行われる。
官僚はわざと「サンプルスペース」や「ターゲットシステム」をキーパーソンに都合の悪いように設定している。
「みんなにクリスマスプレゼントを届けるまで認めない」という思いがあるのだろう。
そのため、統計の取り方にそもそも不正などない。
治める側としては「効いていないのかと思った」ということから、徐々に自信が確信に変わる世界なのである。
「国民が愛し合うように誘導したかった」という私の哲学も、「愛は狂気を含む」「女が病んでしまう」ことを知るまでに時間がかかった。
日経平均株価も思うようには上がらなかった。
夕方6時以降に「女が値段を釣り上げようとしている」現象は、日経先物で観測したが、なにもかも思い通りに行く「統計」の取り方はやはり「分からない」のである。
3兆円流れてきたら「過熱感がある」とされる日経平均株価も、簡単に敵対的勢力にかく乱されてしまった。
「偏差値のない世界」では、タクシー運転手と話す以外に統計のとり方はないのかもしれない。
官僚は「時の権力者に都合のいい統計の取り方」などするわけがないことだけは知っておいてもらいたい。
ribbon Virgin snow.

横浜DeNAベイスターズだけを勝たせるファイナンスのやり方が、2017年に日本シリーズ進出を決めたが、2018年にはワールドカップがあった。
「教養番組なんて視聴率5%だよ?」
という問題も、4年に一度メジャーになるチャンスがある。
Σとかエントロピー(log)なんて忘れたから、サンプルスペースやターゲットシステムなんて分からないのが政治家だ。
基幹統計から民間に任せる統計まですべてが「職を与える」問題に過ぎず、いいデータが出てきたら、「指導の誤り」が指摘されるまで職にしがみつくのが政治家なのかもしれない。

社会人としてはあんがい「グレー」の世界に生きていても、メジャースポーツは「白黒」つけなければならない。
そこで、1980年代から1990年代に「女心」が歌謡曲で明らかにされた。
しかし、「息子」の問題となると、「父の好きな女など興味がない」という現象を引き起こすであろうし、「叩き甲斐のある」息子と、そうでない息子が存在することになる。
私も「垂加神道」を書いたが、誰も「二番煎じ」など作ろうとは考えていないことは想定外だった。
そのようなことも含めて、息子に何が伝わるのか?勝負事に強い男になるのか?は明らかではない。
「男の子」というものは財産である。
しかし、どこまで「女心」に詳しいのか?「よりシンプルな女性像」ですら理解しようとしないのか?は、父と息子の関係もあり非常に困難な問題である。
「父親の知らないことが知りたい」と思う息子がいるとするのであれば、「女の単純さ」すら理解できないだろう。
あるいは、私が書いた「垂加神道」も、現在の山崎闇斎のように「奇妙で難解な書物」として、1980年代1990年代の音楽作品とともに燃やされるのかもしれない。
「女の単純さ」を描いたら、「焚書」は覚悟しなければならないし、「神・男の完全性を議論すると爽快感がある」というプラトンの原点にすら「賛否両論」であることを知らないといけない。
松田聖子 赤いスイートピー

「息子」たちにとって「父を受け入れる」かどうかは「イエスかノー」の問題に過ぎない。
しかし、クリエイターという名のクリエイターは全員、垂加神道に「ノー」と言っただろう。
息子だって同じ気持ちであるのは明らかだった。
東京は1913年に「神道を発明」し、2013年にそのコンテンツを充実させた。
しかし、今後の見通しは明らかではない。
勝負事が好きなのは国民全員だ。
「息子を叩け」「滅私奉公せよ」と要求するのは明らかである。
しかし、なにしろ「人類が経験したことのない世界」を我々は見たし、東京の今後はアインシュタインの「量子論」の予測にしたがって「息子の個性を叩きのめす」方向を見ている。
今度は「統計」というものが「息子が父にイエスという」かどうかという出し方をしてくるだろう。
「ノー」と言えば悲観論を流し、「イエス」と言えば楽観論を流す。
息子の「マインド」を、うまく調整するために「統計」の出し方も変わってくる。
父の「実績」と、息子への「世襲」とはそのようなものだった。
「父」は確かに横浜DeNAベイスターズに、2017年に「三位からの下克上」を果たさせ、戦争ポテンシャルの強さを見せ付けた。
しかし、2018年のワールドカップでは決勝トーナメント進出を果たすにとどまっている。
予選リーグのポーランド戦では、「フェアプレーポイント」に泣きつき、残り五分で中国やバチカンにまで振り向いている。
この「父の限界」を、息子および統計は知らなければならない。
あの時、父の力はほぼマックスに等しかったのだ。
文鮮明がいた韓国にもかなわないことをあの時、悟っていたのだ。
私に「ファイナンス一任」がなされた結果、指導者として「世界の現実」を知ったのだ。
アメリカ合衆国も「日本国はもはや”大きな野心”がもてない国」と考えている。
この「父」の現実も踏まえて、「息子と統計」を見ていかなければならない。
世界と「激突」した「父」の感想はよく理解しなければならないだろう。
「ロシアの”白い女”さえいなければ」という後日談も確かにある。
「白い女」に足腰をダメにされる日本人の「痛風」は、ベルギー戦で二点リードしてから露呈した。
「ファイナンス力世界一」と自負するのは簡単であるが、大法螺を吹くのならば「世界と激突」してからにしてくれ。
メジャースポーツを、そして垂加神道を愛せないのであれば、統計で何を言われるかは分からない。
国民の「心の風景」は世界一かもしれないが。
赤い靴のバレリーナ

あの時のワールドカップでは「フランスとクロアチア」という「色の白い男たち」に勝利の女神は微笑んでいた。
世界は確実に「戦争ポテンシャル」のデータを取ったのだ。
またどんなデータが出てくるかは分からないだろう。
「女の白い胸」の誘惑に誰もが耐えられるわけではない。
日本人女の「美白」も進んでいるため、今後の世界の動向は分からない。
札束で尻を叩いても走れない男たちがいたことだけは忘れてはならない。

2019年3月10日 (日)

ヨハネの黙示録。

モーゼは40日間水を断った。
つまり、大学で女を断ったという意味である。
背景には「父と息子の関係」(神は死んだ)があったし、両親の関係を安定させる行為だった。
また、「若さを無駄にする」(存在と時間)ことが背景にあった。
週末に(コンサートで)女の子に会えるというのはキルケゴールが考えたものであり、コンサートとは教会の礼拝のようなものだった。
大学に入ったら、もはや「メディア一年生」であり、そこにはもう高校時代のような「女子たちの声援」もなかった。
「人気とは何か?」を研究するために、「ヨハネの黙示録」(実存主義芸術)は存在した。
大学に入ったら彼女を作っていいんだよ?
それらの制止を振り切ってモーゼは40日間水を断ったのだ。
CoCo 夢だけ見てる

ヨハネの黙示録の秘密とは、大学生の男の「思考力を下げる」ことにあった。
実際に、CoCoの羽田と三浦は、現役時代は処女を守り通したとされる。
大人たちの、大それた計画に殉じていたのだろう。
20代後半以降にトップスピードに乗せるために行っていた作業だった。
思考力が下がる「ヨハネの黙示録」の効果は、一度開放されてしまえば「思考力が上がる」というところにあった。
CoCo 夏空のDreamer.

のちの大企業の社長や、閣僚級の男たちを「同じ会場に集める」ことがヨハネの黙示録の目的であった。
思考力の下がった東大生男は、中学時代の同窓会にまで「階級を」下げ、それでいて「認め合う」ことを知った。
これは、オックスフォードなどが「中学校の同窓会が作ったもの」とされる理由であり、ヨハネの黙示録にしたがったものだ。
思考力が下がっているうちにやるべきことをやっておき、復活を待った。
ヨハネの黙示録とは「超人」(ニーチェ)を生み出すための書物であり、
女の子目当てにふらふらと宗教や左翼に埋もれていくのとはわけが違った。
CoCo ちいさな一歩で

ヨハネの黙示録は、20世紀に入ってマルセルやメルロ・ポンティによって書かれたものだ。
「母親が美しいこと」「アイドルも母親に紹介できるほど美しいこと」などが条件となるが、思考力の下がった東大生に「発想が急進的過ぎる」として女が寄り付かなくなる効果も認められた。
期待可能性(セックスする可能性)があることは周囲の女たちの方が詳しかった。
しかし、ヨハネの黙示録の信者は周囲の女たちにも見向きもしなかった。
CoCo Live version.

アーティストの代表格はカミュであり、経典は「シシファスの神話」であった。
また、ドストエフスキーやカフカなどの作家もヨハネの黙示録の支持者だった。
しかし、サルトルもフロイトも「ニューメディア」と呼ばれた「映画」としてこの真実を伝えることは行っていない。
CoCoにせよ、今のmiwaにせよ、「教えたいこと」は、アルバムの他の曲で教えている。
それ以外は、大学の情報で勉強するしかない。
CoCo 冬の微粒子

ホッブスは「典型的な王子さま」と呼ばれたが、「人生は、孤独で貧しく、汚く、残虐で短い」と語り、他の女子たちは「王子さまになるってどんな気持ちなのかしら?」と考えた。
ホッブスは、ひどい咳に悩まされても、熱がなかったら「深刻なものではない」として、「自分は学んでいる」として親指を立てて見せた。
王子さまが急激に伸びる時になぜか咳が止まらなくなった。
咳のおかげで惨めな気持ちになったために上の格言を残しているが、実際は「何の問題もない」という治療法まで知っていたのだ。
急激に加速する時期があることそのものに女子たちは憧れた。
CoCo ささやかな誘惑

パスカルは「人間は考える葦である」として、「もはや学ぶことに痛みを感じない」としたが、ホッブスは、「下痢をしているうちはまだあまい、即位が近づくと咳が止まらないんだ」として、自分に「学んでいるうちは問題ない」というメッセージを送り続けた。
責任のある立場に身を置くという意味では、ホッブスは「そのとき歴史が動いた」というほどのストレスに晒されたため、「ポイントゼロ」が近づくにつれ、自分が「光の速さ」に限りなく近づくのを感じた。
これが「王子さま」の経験であり、誰も「心の風景」を推し量ることはできず、咳だけが止まらなかった。
恋する速度が違うという女子の経験談もある。
CoCo なぜ?

王子さまと教室をともにしたことのある女子はみんな「いい思い出」に変えていた。
なんだか遠くに行ってしまったようでもあり、とにかく「周囲のビリヤードボール」を跳ね飛ばして生きていた人だったとしか覚えていなかった。
CoCo 思い出がいっぱい

咳が止まらなくなったことは何度かあったが、即位の前ほどひどかったことはなかったよ。
ホッブスはその経験談を笑って語った。
「ポイントゼロ」を経験した者にしか分からないものだった。
権力闘争を経験し、責任のある立場に身を置いたものがどれほど女子たちの感情の的になったかは想像に難くない。
ギリシャ神話の女の子たちとも言われた。
CoCo 春・ミルキーウェイ

ロバート・ボイルは、ホッブスに「お前に憧れてどれほどの女の子が芸能界デビューしたと思っているのか?」と語ったが、ホッブスは「彼女たちの方が大人になるのが早かったね。音楽作品は今でも仕事に使っている」と答えた。
女に対して野心があったら、そもそも「王子さま」ではなかっただろう。
ホッブスが光に近い速さで学んでいた時に、昔のクラスの女子たちは「昔の教室」を思い出していた。
ノスタルジーというものは「自分が止まった時」に引き起こされる感情であった。
CoCo さよならから始まる物語

とにかくあの時は無我夢中だったけど、咳が止まらなくても、熱がなければ問題ないと言うしかない。
眠れなくても、体調が悪くても、それは「自分の心の風景」が劇的に変わっていく瞬間だったのだろう、とホッブスは語った。
責任ある立場にいる男の肉声として知られた。
アリストテレスも「皇位継承は男を作るよ」と語っている。
まあ、東大入試でも、自民党総裁選でもそれは同じであろう。
「ビシッ」と着地を決めるのが重要であり、真似できない連中のおかげで咳が止まらなかった。
責任を負わない連中のおかげで咳が止まらなかったが、それがなければ着地は決まらなかっただろう。
似たようなおちんちんをしていても「男」になれるかなれないかは、「咳をしたかどうか」だった。
とにかく、教室の彼は遠くに行ってしまった。
CoCo さよなら

とにかく、女の子は「王子さま」との恋をあきらめて、凡庸な男のおちんちんで我慢しなければならなかった。
選ばれる男かそうでない男かの違いがあった。
王子さまのことは「キムジョンウン」(ハンプティダンプティ)と悪口は言ったけどね。
何の矛盾もなく「勝負を決める」「白黒つける」という男の営みは、女の子にとっては「八月の少年」のように思われた。
CoCo ひまわり

瀬能あづささん(CoCo)と、私は、道を一本隔てた通りに住んでいた(名もなき道)。
私が東大文Ⅰに合格するまでは本当に名もなき道だった。
あづささんのお母さんである信子さんに、私は高校時代に「あづさは女子校だから」という理由で家庭教師になることを依頼されている。
しかし、当時、東大生を輩出する資金力も人脈も実力もなかった横浜市立南高校から東大に受かった時に、信子さんに「あづさとお付き合いしてほしい」と依頼されたが断っている。
それ以来、信子さんは「CoCoの指導者」となっている。
レバレーションというのを「ヨハネの黙示録」と呼ぶ。
ただの「家庭教師の生徒」だったが、別れと呪いと殺しが付きまとうのが「東大」だった。
オックスフォードには「よくあった話」なのだろう。
U2 Bad

とにかく、私も48歳になろうとしており、横浜市教育委員会とつるんで、日銀から60億円6ヶ月ローンを引き出したり、資産管理会社を横浜市教育委員会の下に作るという仕事はしたが、春のセンバツでも横浜市立南高校は県大会ベスト8だったし、東大合格者も8名だった。
60億円使っても、野球では桐蔭学園や横浜高校には敵わないし、東大合格者数も聖光学院には遠く及ばない。
そんな中で、29年前に私は東大文一という利権に食い込んでいるのだ。


この「実存主義」は、サルトルとボーボワール、メルロ・ポンティ、カミュなどが作ったものであるが、19世紀のニーチェやキルケゴールに影響されている。
実存主義を支持する作家にドストエフスキー、イプセン、カフカ、ジーン・ジェネット、アンドレ・ジード、ゴルキーなどがいた。
1940年代から1950年代にかけて流行している。
「いじめをやる人間には心はない」とも言われ、人をいじめる側の人間がむしろ「私だって人間ですから」と言っていた。
ハイデッガーが「若さを無駄にする我々」と存在と時間において語り、世界は常に君に対してオープンだとした。
Mr.Children Tomorrow never knows.

ニーチェの「神は死んだ」は、祈りを知らぬ父に虐げられる息子を描いていたし、キルケゴールは人混みと「女の子に会える」週末の教会を用意していた。
アブラハムの筋肉質な文章を読んで、女子たちは「子供に優しそう」と考えていた。
カラマーゾフの兄弟のイワンは「神は死んだのでなんでも許されている」と語っている。
この「イワンの発言」はニヒリズムと呼ばれ、実存主義芸術はCoCoのみにとどまらずribbonにまで発展した。
松野有里巳は私の従姉妹である。
もはや大学に入ったら偏差値は出なかった。
いくら勉強しても自分の位置はわからない、このことからニヒリズムは生まれている。
図書館には無責任に膨大な法律書が置いてあった。
「神は死んだのでなんでも許される」
女から結婚を迫られて断ることすらできた。
まるで「CoCoの夢もの」への拒絶反応のようにも思われた。
ribbon サイレントサマー。

図書館の法律書に人生の答えなどないよ、とでも言いたかったのだろう。
司法試験に受かりたかったらこの作品の意味をよく考えてごらん?
CoCoに人生を煽られ、ribbonで遊佐道子からの問いかけに答える形となった。
写真集も飛ぶように売れた。
実存主義にかぶれた男が、「女を振り向く」のを待っていた女もいた。
ribbon virgin snow.

「将来へのぼんやりとした不安」がribbonファンに共通していた。
「人生たったこれだけ」
実存主義にかぶれた男が20代後半に思考力を高めたら、むしろ「好きな女を選べ」と言われるため、ここからはカントの口説き文句が必要となる世界だ。
女は男をコミュニティから離さないためにセックスをするのだ。
ribbon レディラブ。

自分と世界がとんでもなくかけ離れていた(自己疎外)という意味では実存主義者もマルクス主義も同じだった。
しかし「すべてはキャンパスにあった」ということができるのが実存主義者だった。
高校時代の「恋」の世界を乗り越えたらキャンパスにはこのような壮大な風景が用意されていた。
セックスとは「その女の子供の気持ちが味わいたいからするものだ」としたデリダや、映画を見ている観客はなぜ皆、同じリアクションを取るのだろうなどと考えたドゥルーズ、刑務所に入った時に経験した電気ショックから常に「見張られている」という感情を持ってほしい、再犯を犯さないで欲しいとしたフーコーなどの高度な学問はこのようなインテリのためにあり、中卒や高卒に分かるものではなかった。
そのような男とセックスするときの女はいつも本気だった。
ribbon 愛してジャステイス。

サルトルにとって、ヘーゲルやマルクスを読むようになったのは戦後になってからだった。
イケメンを論じたヘーゲルや、女の子たちと自由に話そうとしたマルクスに「存在と無」においてはまったく触れられていない。
時間を「無」にして努力した時期も「賢くなりたい」とは思った。
しかし、図書館には容赦なくべらぼうで難解な本があったのだ。
「今は俺は世界とは和解できない」
そんな時期を存在と無において示したのだ。
少しづつ実績(物自体)を作っていかなければならないメディア一年生から大学時代は始まっていた。
高校を卒業したのならばどの男の子も「男」になっていた。
大学を出て司法試験浪人をしていても「社会人」には劣等感しかなかった。
周りの女たちは「セックスする期待可能性」を知っていたが、もはやサルトルの「無」の世界には女たちなどいなかった。
「国の学問」をやらなければ国の限界はわからない。
ましてや「誰も知らないことを明らかにすることが儲かる秘訣」であるということの真の意図もわからない。
国家社会主義からいつしか女の子たちは遠ざかっていった。
サルトルは、神聖ローマ帝国の時代のドイツの音楽を好んで聴いていた。
「無」に過ぎなかった昔の俺、に恋をしていたアイドルたちが確実にいたことをのちに悟り、それはヘーゲルやマルクスを読んでからわかったことだった。
ribbon 太陽に火をつけて。

なにも禁止されていなかったことになぜ気がつかなかったのか?
CoCoが実存主義を煽り、ribbonが「何のために勉強するのか?」を示し続けていた。
法律書なんて要するに「ribbonの意味」を延々と解説していただけだった。
ミシェル・フーコーは「19世紀にあなたにふさわしい小説がなかったのだろう」とサルトルに詫びた。
世紀末にはいつも本屋から大事な本が消えていた。
サルトルも世紀末の産物だったのだろう。
ribbon 世紀末の天使。

ボーボワールも、国の学問とか国の限界とか難解な法律書とか言っているけど、「ribbon」がわからないのならば学問ではないだろうとしていた。
セカッドセックス(女性)を差別し、排除して高尚な学問らしきものを構築した連中が図書館に意味のない「本」を山積みにしていたのだ。
プラトン以来の音楽作品を「低俗なもの」とした学者たちがそもそも「人気がない」存在であり、「裁く」「裁かれる」とは要するに痴話喧嘩のことだということも見失わせていた。
最高裁まで争う事件は「株価算定基準」「タックスヘイブンの問題」「説明義務違反・適合義務違反」など一部の論点に過ぎなくなっていた。
なんのための「体系書」なのかが明らかではない法律書は今でも多い。
学者ならば「ribbon」の意味ぐらい明確に書き記すべきではないであろうか?
なぜ、彼は私とセックスしたがったのかしら?痩せたほほが目当てだったのかしら?まじまじと女は鏡を見た。
ribbon Be my diamond.
戦前は、高等文官試験ぐらいしかなかったものが、ボーボワールの「彼女はそこにいた」という小説以降、東京大学運動会や司法試験などが作られるようになった。
東京大学運動会は、ヨハネの黙示録にしたがった独特の集団であり「体育会」とは明確に区別されたのだ。
「彼女はそこにいた」という小説において、フランソワはザビエルを殺している。

高校時代の女の子を「振った」男が、夢を持つ場所が東京大学運動会や司法試験となった。

かつての司法試験の合格者の平均年齢は29歳であるとされ、まさに、20代前半は「思考力を下げていた」ことが明らかになっている。

現在の「ロースクール」は、実存主義の「思考力を下げる時期」を嫌ったものだった。

「減速」を嫌うということは「加速」の存在を否定するものだ。

「ビッグマネー」が法曹界から消えたのは明らかだった。

CoCo 君の歌、僕の歌

 

「神は死んだのだからすべてのことが許されている」

イワンはそう語ったが、はたして「若者に何が許されているのか?」が問われなければならない。

イワンは「大審問官」という小説を描いて見せたが、「キリストはまだ降臨していない」ということを書いている。

「女にとって彼氏は神さま」

そんなことすら知らないのが若者だった。

酒井法子 涙が止まらない

庭師のような階級が楽しむものがセックスだった。

上流階級に「美女」はいなかった。

射精する男がどれほど「女々しい」だろうか。

朝、起きたらさっさと性欲を処理する男の子が成績がよかったし、上流階級となって行った。

高橋由美子 だけどI Love You.

日本国は、東京大学運動会の「パワハラ撲滅」と、司法試験の「ロースクール時代」を選択することで、サルトルとは「お別れ会」をやることにした。

もっともワイルドだった男たちは今の時代には合わないと考えたのだろう。

「死~DEATH」

人生が終わった時に人は「死んだ」と言える。しかし、いつ「人生が終わった」かは明らかではない。

周囲の人々には自分なりの「利害関係」がある。

その「利害関係」のあり方次第では「世界を敵に回す」人もいるのだ。

死んだ後の「出来事の評論家」もいる。

誰に得になって誰に損になるのかを語る論客がいるのだ。

「人の死は一部の人にしか損にならない」

死が目前に迫った人は「一部の人にしか損にならない」ということはよく理解しておくべきだろう。

HAL1.01に、人間の記憶を保存することにしたが、多くの人がHAL1.01の消滅を願った。

「死とはお互い様の”発展的解消”なのだろうか?」

しかし、時には「すべての繁栄が止まる」ことがあるだろう。

「種の絶滅」と認定される「死」も存在するのだ。

人が死んだ瞬間「ストーリ」は動き出し、その人の命の意味を人々に問いかける。

「私の命の意味」を知っている人がいちばん可愛い。

沢田知可子 会いたい

「命」は常に再生産されている。

できれば「悪いところ」を修理したいとすら思われる。

「よくしばかれたな」というところからストーリは始まるとされる。

いじめられた人間にしか「心」は育たない。

「心」を失うことは他の人間に大きな損失をもたらすのは明らかだろう。

なにしろ「心」は大勢の人たちの「養分」だったからだ。

いじめが「真理」であるのであれば「養分」は肉体の破壊とは別の生き方をするだろう。

「みんながよく噂しているから生きているのか死んでいるのか分からない」

これが「いじめられた人の心」「養分」というものだ。

メチャクチャに手術した後に「人間ってのは死なないものだよ」と証言した東大の外科医もいる。

心配機能の停止、脳死とは異なる論理が「死」には存在するのだ。

「代わりになる人がいない」という女性の意見は確実に存在する。

それでも「部分的なもの」に過ぎないとされる。

償い さだまさし

 

人間は「死にたくないから歴史に名を残したがる」とされる。

また、死んで「人生を愛していなかったのか」と批判される人もいる。

多くの「いいこと」をキャンセルすることを意味するからである。

我々の時代に「いいこと」ってそんなに少ないのかねと言われるのだ。

また、死が身近に迫った人には「幸せ」を与えたいと周囲が考えるのも事実だ。

結婚した男女を「左右対称」のように周囲が見ているのも確かである。

「夫が英語ができるのに急にわからなくなった」ということもあるだろう。

喜びを思い切り口から吸い込んでから死ぬので苦しくはない人もいる。

キーパーソンが死んで「この暗号は壊滅的です」というのがいちばん困るのだ。

哲学が完成するということは「死がエンターテイメントになる」ということを意味する。

まあ、お洒落をしている人間が死のうとは考えていないことは分かる。

トイレの神様 植村花菜

私の、著作物(版権)第一号は東大合格体験記であった。

しかし、そこには家族のことも瀬能あづささんのことも記されてはいなかった。

「すべて自分がやったこと」と表現したのは「ブルジョアのもっとも率直な男」の書くものであった。

中堅校である横浜市立南高校出身であることから「いじめ」の存在に沈黙していることはみんな知っていた。

しかし、「信じていた人に裏切られる」(自己欺瞞)こともなかったし、自分と世界はかけ離れていた(自己疎外)。

自己欺瞞がなかったことと、うまく自己疎外を利用したこと、これが合格体験記に端的に表現されていたが、ようするに「すべて自分がやったこと」と書かれていたのだ。

いじめの存在に関しては「それは関係ない」と表現されていた。

「信じていた人に裏切られた」経験は受験に強烈な悪影響を与えるし、「自分と世界が共存していた」のでは上達するためのモチベーションもない。

自己欺瞞がなかったことと自己疎外があったこと、そもそも「いじめ」をやる奴らを信用していなかったこと、などから、暴力的な「力」が発揮されたものと思われる。

生徒の「勉強」とはこのようにして成り立っていた。

「男の序列」は天皇から首相、大臣、そして先生まで一貫して成立していた。

このような「東大生」の人気は群を抜いていた。

自己欺瞞がないことと自己疎外があることに「教科書」を与えればいいだけだったからだ。

受験が終わってから細川政権ができたことも幸運だった。

「そろそろ優しくなった方がいい」「もういいのにね」

周囲の女子たちの願いはこれだけだった。

CoCo やさしさの法則。

東大に入った後に「信じていた人に裏切られる」とはどういうことかを知ったし、「自分と世界の距離」は確実に縮んでいた。

父が息子を潰そうとしている(神は死んだ)ということに鈍かったし、そういう「原理」を学ぶのは遅ければ遅いほどいい。

25歳までは「知らない方がいい」のが「神は死んだ」ということだった。

父は「祖父と孫の板ばさみ」になることも嫌っていたし、25歳以降は「息子の父親越え」にももはや協力しない。

しかし、ニーチェの言っていることを「真理である」と悟るのは経験が必要であり、机上の理論だけであってはならない。

ヤスパースは、本人が実存主義(ヨハネの黙示録)にしたがって、医学エリートの道を歩んでいる。

「恐怖を感じた時に人間は沈黙を守れない」とし、「誰かを好きになると独り言が増える」などということを明らかにしている。

渡辺満里奈 八月最初の水曜日

マックス・ウェーバーの「戦う民主主義」も、人間の半数は女性であることを踏まえ、カントの「口説き文句の研究」を政治フォーラムに開放するものであった。

ハイデガーは「若さを無駄にする時期が男にはある」とし、ユダヤ人女性と結婚したが、ナチスに入党してしまった。

ハイデガーに裏切られたヤスパースは「デカルトの恋の研究でもしてみようかな」と考え始めていた。

「若さを無駄にする」と言っても、キルケゴールが選別した論客の本を読めばいいだけだったのだ。

1945年4月1日にはアメリカ軍が「ヤスパースを救うために」ドイツに入った。

アメリカ軍は「ヤスパースの医学」に興味があったためにドイツを攻略したのだ。

アデナウアー政権(1949年~1963年)の間、ヤスパースは精神医学の研究に没頭できた。

ヤスパースは、「男に抱かれる女」は、土方の兄ちゃんが道路に穴を掘っているようにしか見えないよね、とし、ゴッホの「穴を掘る人」や、スタインベックの研究を行った。

さらに、そもそも「恋」というのがサイコパスの原因なのだろうかと考え始めていた。

コンサートのチケットを買うような「何かに命令されたような使命感」は「恋」以外に理由が見つからなかった。

恋の研究をするのであれば「人間の感性」にまで遡らなければ分からない。

「カントやニーチェが言っていたことを誰にでも分かるように話せば」みんな俺に恋するのかな?

これがヤスパースがアメリカ合衆国に期待された理由でもあった。

いずれにせよ、ヤスパースは、イエスキリストや天草四郎時貞が「海の上を歩いた」という物語を、「セックスの途中で体位を変えた」ということだろうとし、ゴッホやスタインベックの小説から、「女たちにはこう見える」ということを明らかにしたのだ。

 

レオ・シュトラウスは、メルブルク大学に入学して、かつて自分が振った女の子とそのお母さんに「王子さまのように生きなさい」と命じられたがごとくホッブスの研究に没頭した。

アイドル(偶像)に詳しい法律家というのは、「密教世界」をいずれ構築する宿命にある。

ボクシング部の監督のマイモナイド(吉森氏)は、ナンバーワンが完全に屍になるまで前に出なかったため、アマチュアボクシング会の会長にまでなっているが、シュトラウスの出世だけは想定外だった。

ヨハネの黙示録は、キリスト教社会と哲学をつなぐ橋渡しの役割を果たした。

偶像崇拝に詳しい法律家というものがそもそもキリスト教社会では珍しかったのだ。

「イエス様は実在したと思いますか?」と聞かれて、

「それはヒトラーだ」と答えられるかどうかは自らの政治経験に頼っている。

瀬能あづささんにのちに再会した私は、「なにか元気になれる言葉を教えてください」と言われ「うぬぼれだって薬だよ」と言ったら「うわー」と言っていた。

彼女にとって昔の作品になど何の価値もなかった。

 

 

では、ヨハネの黙示録が、キリスト教社会と哲学の橋渡しをしたのならば、
現代の「哲学者」は、ソクラテスやイエスキリストとどのような関係なのだろうか?
ケインズが「お金とは値段が数えられて、女が買えて、どの女にも通用するものだ」
としたのは20世紀であろう。
ケインズ以降に、イエスキリストのような「モテる」男が登場したのならば
どれほどの金持ちになるのかは想像を絶するものだ。
ましてや、多くの美女を失恋させてきたのだ。
哲学は現代でも確実に「進化」を続けている。
昔の、ソクラテスやイエスキリストと比較されるレベルにまで水準は高い。
ましてや、インターネット時代になり、多くの女たちと「言論実験」をして耐久力を
高めた言葉が多く残されている。
サッディーヤ(佐田の山・平成天皇)が、娘の婿に「完璧」を要求したのならば、そこで当然、「お相手」とヨハネの黙示録は結びつかざるを得ない。
サッディーヤは、指導の誤りや疑いの目に常に晒されていたために、ヨハネの黙示録を用いて、娘の「お相手探し」をやったのだ。
女たちにとっての「男らしさ」と、ヨハネの黙示録の「男らしさ」はまったく異なるものだ。
サッディーヤは「女たちの根強い支持」だけに関心があったため、
アイドル(偶像)たちが熱烈に支持する「ヨハネの黙示録の男らしさ」にしたがわざるを得ず、当然、三男=養子のアブラハム宗教とヨハネの黙示録は結びつかざるを得ない。
聖書では「他の男とは異なる」「なにか光をまとった」イエスキリストだったが、アイドルたちの支持を得た男だったため、一般人女たちがそのように感じたのだろう。
若い時期の「ヨハネの黙示録に描かれた男」は、「今は恋愛などしている場合ではない」と公言していた。
ヨハネの黙示録が、キリスト教と哲学の橋渡しをすることを最後に志向したため、聖書をいちから読んでいる人たちには「まったくついていけない」「結末から読まされる」思いで哲学を読んでいた。
サッディーヤも「男の序列は女たちが決める」ということは理解していたため、権勢を誇る女たちが「自分たちも人気商売」ということの見極めが困難であったが、それでも、神道の「アブラハム宗教化」は着実に進行した。
フランツ・ローゼンヴァイクは、「実は哲学者というのはみんな三男なんだよね」として、ユダヤキリスト教社会に、「哲学者の強さ」を語った。
世界の哲学者の「持ちつ持たれつ」を明らかにしたのだ。
ローゼンヴァイクは「顔で選んだヘーゲルですらあのレベルに到達したんだぜ?」と語っている。
1796年のドイツにはヘーゲルしかいない、とも言われた。
2019年の日本国には誰がいるだろうか?
世界の哲学者の「持ちつ持たれつ」をより体現し、真摯に世界と共有しようとしている人物が必要とされた。
哲学の世界ではヘーゲルしかいなくても、音楽シーンにはシェリングなどがいた。
しかし、いかんせん、難しいのは哲学だった。
有名なサッディーヤの娘が真剣に恋をする男は哲学者だった。
なにしろ、哲学は外国語であり「難しかった」のである。
石をパンに変えよというしかなかった。
日ユ同祖論も、日本の神道が「三男の養子」を認めるのを待った。
東大法学部に入る力があるのであれば、あとは環境が整えばいいだけだ。
ノーベル賞委員会も動き出した。
かつては「長屋王」なんてのもいた。
人々の「フェティシズム」を確実にとらえる感性も求められたし、それは「USA」にしかなかったことも「三男」はよく理解していた。
そもそも、垂加神道のように「これが女よ!」というものが確立していれば、ヨハネの黙示録にしたがった「王子さま」は、マスターベーションができたし、それは垂加神道のクリエーションと、彼女を振った「贖い」を意味していた。
ヨハネの黙示録が「新しい感じ方」を提示したのであり、それは聖書の「オナン」も想定していないことであった。
ユダヤ人にとってキャンパスライフというものはそれほど意味のあるものであったし、イスラエルにも「ヘブライ大学」というものがある。
マックス・シェラーは、マルクス主義にかぶれなければこれほど多くの詩は残せなかっただろう。
私は1971年生まれであり、瀬能あづささんは1973年生まれであった。
1960年から1973年までの生まれの世代を「ジェネレーションX」と呼び、受験戦争が過熱し、東大合格者に「憧れて、芸能界デビューする」女の子が存在することをも意味した。
シェラーはいろんな「家庭教師」の教えを受けたが、フッサールは大物過ぎた。
シェラーが育てた男の中にはコンラート・アデナウアーなどがいた。
しかし、何しろタバコを一日に三箱から四箱吸ったために外国などへは行けなくなっていた。
東大法学部の堅物であった私がいつ「カント」を口にするようになるのかを信子さんは待っていたようだ。
カントは「女を口説く」言葉を研究したが、新カント派は「アイドル(偶像)たちが話題にする男」を作ろうとしたのだ。
アイドルたちは「一般人男性」と「同じ芸能界の男性」を明確に区別していたし、新カント派の方がカント派よりも「影響力があり難しい」道を選択していたことになる。
「病んでもなおパワフル」でなければ「同じ芸能界の男性」とは言えなかったのだ。
女として「美しさを評価され」「選ばれた」経験がアイドルにはあった。
しかも、「病んでしまう」経験も「同じ芸能界の男性」を志向する理由であった。
アイドル(偶像)にとって、自分の局部に集めた「愛の数」が違うという思いがある。
「天使の羽」とも呼ばれた。
瀬能あづさ作詞。
孤独だった自分が「全体」の中に溶けていくような感覚でもあった。
「全体」が常に考えることは「子供を愛そう」ということである。
「あなた」と「私」ではなく「我々」という発想を自分が作り上げたのだ。
客席で共同体を作り、「いつも聞いている音楽作品」を同じピッチで聞く。
それはまさに「集合人間」と表現することが可能だった。
共同体を愛することができるのがコンサートだった。
かつての家庭教師の教え子がステージの上で歌っているのを私は客席で聞いていたし、私をめぐって「あっちゃん」の家に探りの電話を入れてきた羽田恵理香さんは、握手会で思い切り手を握ってきた。
東大法学部は、建物も古いし、講義は退屈だ。
しかし、真面目に大学で勉強していれば「才能が向かうのは国しかない」ことを悟るし、多くの有名な女たちが自分を奪い合っていたことをのちに悟るのだ。
例年よりも暑い夏のあとは、85%の確立で雪の多い冬になる。
大事なのは「そのような人生経験をした」ということであり、気象予報士の言うことと同じ意味合いを持つ。
ムハンマドは少なくともそのように預言を行っているし、クリシュナはそれを人々に語った。
人生経験をパートナーと重ねるというのは「神を信じる」営みであった。
気象予報士の側が主導権を取り戻したこともあるが、暑くてのた打ち回った「人生経験」の側も反撃を試みた。
80%的中するのならば「自信を持った神」と言っていいし、68%以下ならば「無神論者」の妻を持つことになる。
48%以下ならば妻に愛想をつかされ、20%より「言っていることがデタラメな」男はいない。
20%ならば誰もが司法試験の短答式試験を受けられるだろう。
「なぜ、東大に入ったのにわざわざ司法試験を受けたの?」
背景には、ヨハネの黙示録があったし、司法試験だけでなく東京大学運動会もそのような趣旨から作られ、予算を調達している。
男社会の「いじめ」の背景には「処女/非処女論争」があるが、男はひたすらクーラーを使わない男の方が「神」に近い人生経験を持つことになる。
体で感じたこと、読んだことが「神」を作るのだ。
ハイスクールとキャンパスは「私と汝」というぐらい、キャンパスは「わけのわからない」研究を行っていた。
「汝」と呼ばれるキャンパスの男は「私とこれ」というぐらい周囲の女子たちを見下していた。
この構図を理解しなければ、第一次世界大戦の時の「学生運動」は理解できないだろう。
つまりは、すべての人間関係の呪縛から解き放たれるための「シオニズム」である。
「私と汝」「私とこれ」あるいは、父と息子の関係(神は死んだ)、あるいは「冬でも海に遊びに来る学生さんたち」などを理解しなければ、イスラエルは、世界をまたにかけて家庭内の「呪縛」を世界に解き放つことはできなかったのだ。
フロイトのファシズムと、マルクスの共産主義は、男女がもっと自由に語り合おうという空気を作ったが、だんだん「女が病んでいく」のが分かった。
病んだ「女」は、ヨハネの黙示録にしたがって生きている男の家の前をうろついたりしたのだ。
CoCoはポニーキャニオンに在籍していたが、その後を受けてMelodyがスターランドからポニーキャニオンに移籍している。
なぜ、信子さんにそれほどの力があったかというと、夫が小林亜星だったからである。
ヨハネの黙示録は、「経験すること」「勝負に勝つこと」「生きていること」「人々に語ること」を最終的な目的にしている。
聖書と哲学の橋渡しをする男として、そのようなことが期待されたのだ。
エルサレムの「ヘブライ大学」はそのような役割が期待された。
しかし、今となっては東京大学の合格者の氏名が公表されることはないし、ジェネレーションXというものは過去のものとなっている。
ヨハネの黙示録は、「お金のかかった子供」=アッラーを作るにはこれしかないのかな?ということをガザーリも考えていた。
ガザーリの時代であるのならば、バグダッドにとって「イスファハンの大学」が念頭に置かれていた。
実際に、私がMelodyの望月まゆとバスティーユ刑務所で会ったときにも、彼女は「マリナ・イスマイール」と名乗っている。
小林亜星の導きのもとに、「小野君」にいかにお金をかけるか?が問われ、破天荒の街から出た英雄に「お金をかける」ことが「アッラー」を生み出す秘訣だと考えていたのだ。
1180年から1190年まではトレドの大学がこの役割を果たしたし、13世紀にはマラガの大学がこの役割を果たした。
「ラテン語に詳しくなるため」
このようなことが行われたのだ。

 

ムハンマドの「預言」とは、ヨハネの黙示録に示してあるとおりであるが、「病気をよく理解している大人」がいなければ成り立たない。
ジェネレーションXが、野心むき出しで向かってきた「戦い」に勝つとはこのようなものであり、スンニ派が「ギャンブルを好む」伝統もここからきている。
男女が共存している街で「この人だけ輝いている」というイエスキリストは間違いなくヨハネの黙示録にしたがっていたし、外国語が堪能だった。
「あなたはいずれ歴史の法廷に立たなければならないのよ?」
死後裁かれるのは有名人だけだった。
宗教を確立し、人生を送り、知性を愛し、子孫を残し、子孫に恋愛を保証する、これができないのならば有名にはならないほうがいいし、そもそも、宗教界には過去も現在も未来もなかった。
「今、生きている人間を使う」
このような発想がなければ宗教は書けない。
「明日から本気出す」という発想は宗教界では通用しなかったし、今日、文章を書いている人を使わなければ宗教にはならないのだ。

 

そもそも、知識というものの蓄積には「時間」という概念がなかった。
今日、分かっていないのならば明日も分からないだろう。
「どういうやり方をしているんだ?」
「法学教室です」「ジュリストです」「スタンフォード哲学百科事典です」
このように答えるたびに、その媒体は「いちばん熱心な読者のために」記事を書いた。
いちばん熱心な読者として「書き手」にも知られることが必要だった。
サッディーヤは世論に弱いらしいという分析のもとに、いろんな人脈が動き始めた。
遊佐道子・小野元・小林亜星などの思惑のもとにこの曲は作られている。
「神はいつも同じことをしているな」
このような感想しか周囲は言えなかった。
要するに周囲は「凡人」だったのだ。
大学ってそんなに大事な場所なのだろうか?
挿入に対して「天真爛漫」な女性が一部に存在する。
まず、「お母さんが大好き」なことと「太っていること」の二つの要因が挙げられる。
思春期に「お母さんが嫌いになる」ことを「約束」と呼び、自然に痩せてしまい、性感帯が膣に移る。
母子家庭で、現在絶好調、そんな女が「約束」を守れないのだろう。
あるいは、ナルシシズムも「感じなくなる」理由である。
派手な結婚式程度のナルシシズムでも「感じなくなる危険」は存在するのだ。
パルメニデスは「プラトンの詩」の蓄積を紀元前5世紀に行い、「大学とはこのようなことを教える場所である」ということを明らかにしている。

 

 

パルメニデスは、この「動画」で論文が書けないのであれば、大学の存在理由はないとしている。
ローマ帝国はこの問題を、キャッスルメア・デラ・ブルカによって「すべての女に言えること」として紀元前1世紀に国を作った。
カリオストロの城として知られている。

 

1960年代に、パルメニデスは「アポロオイリオ」(癒しのアポロ)としてカルト的人気を誇った。
6世紀には「アカデメイアって面白いことを教えてもらえるらしいね」と噂になっていたが、「大学」としてヨーロッパ各地に成立したのは「イスラム圏の若者が越境を望んだ」からであり、12世紀ごろだ。

 

「研究」が「金とセックスにつながる」とされたのはヨーロッパにおいてであり、現代では、ハーバードやスタンフォードなどのアメリカの大学でも共有されている。
「つまらない講義には金は払わない」というあたりはさすがアメリカという側面がある。
「感じない女」をどうするか?から研究を始めてみよう。
パルメニデスはそのように語った。
子供を産んだ女、太った独身女などである。
あるいは、貧乳の女、髪の短い女、中国では「陰陽五行説」と語られてきた問題である。
太陽から月、星、地球をつなぐのが「万物の創造主」の仕事であると割り切っていたのだ。
天文学を語るのであれば「天文学的数字のお金」が必要になってくる。
「数学でいろんなことが予測できる」ということが明らかになったのが1960年代であったため、「感じない女をなくす」学問が、天文学・万物の創造主と結びついた。
エンペドクレスにせよアナクサゴラス、デモクリトス、ルイシップスにせよ、よく女たちと話をしていた。
しかし、女たちとよく話をした哲学者たちの書物を、「読むことができる宗教家」として、ヨハネの黙示録は「聖書と哲学の橋渡し」を行ったし、強烈な一神教は
のちにイエスキリストが体現している。
プラトンは「国家」において、男女の共存こそが国のあるべき姿であるとしていたし、アリストテレスは、教室や職場に至るまで、男女が共存する仕組みを作った。
女たちは「神・男の完全性」を語り合った。

 

 

東大閥とヨハネの黙示録は密接に結びついていて、たんなる「日本でいちばん優秀な大学」と表現されるにとどまらず、芸能界との結びつきを指摘しなければならない。
この「学閥」に忠実であることは、信頼をも生み出していた。
この「東大閥の真実」を明らかにしたのはアブラハム宗教の側であり、昔の「小説東大法学部」などといったものでは一切触れられていない。
「男は女を愛するものだ」
しかし、この「東大閥」はこの心理を巧みに利用して「男が男を愛する」世界を構築した。
この、神道の「アブラハム宗教化」がなされてから、「銀行マンが肩で風を切って歩けるようになった」とも言われている。
日本でも、お年寄りなどは「女性芸能人の顔」を思い浮かべながら、東大生と接していた。
「処女だったあの娘」
それを考えると、東大生は明らかに「裁く側」の人間だった。
東大生は、東京大学運動会やサークルで、その過酷な日々のストレスを癒すこともできた。
合格してもらう「紙袋」の中にはサークルのチラシがすべて入っているのだ。
カルヴァン派(AKBグループ)は、ヨハネの黙示録と「固い契約」を結んでいる。
「東大なんてこの程度か?」と思うような言動もあるかもしれないが、少なくとも「女にも分かるように話をさせる」(ワラント)ことだけは教えなければならない。
カルヴァン派(AKBグループ)は「神と恋人」を演じることにして、東大生が卑屈に自分と握手しに来ることを楽しんだ。
私は、学生時代に羽田恵理香さんと握手をしている。
「アイドルなんて興味ねえよ」という男たちとはうまく共存していた。
しかし、東大生がこのように考えると、成績が「オール優」にはならないだろう。
どのような成績だろうが、自分のキャリアを総括できるのならば「オール優」なのだ。
就職にせよ、政治活動にせよ、それで成り立っているのだ。
デジタル化時代を迎え、実物とはまるで別の顔でテレビに出れる時代になった。
どの女の子にも親切にするものだよ。
東大生はこのような境遇に恵まれ「余裕が違う」のである。
とにかく、よく勉強して「他人にいいアドバイスをする」ことを心がけなければならない。
自身の経歴を口にはしなかった「エリートの象徴」であるトマス・アクィナスも、叔父や弟からのいじめ経験だけでなく、このような「自分の人生の意味」をも神学大全でまとめ切っている。
主観=女、客観=男、ということの意味すら閣僚も知らない時代なのだ。
「行為」=セックスだとすると、大塚仁は、「行為とは主観と客観の統合体である」などと難しく書いているだろう。
時代そのものが発展途上にあることも忘れてはならない。
アイドルに憧れを抱く周囲の男(オーソドックス)もいれば、興味がないというアンオーソドックスもいる。
また、男の中には自分自身が有名になり、失意の中にいる無神論者もいる。
アンオーソドックスや無神論者に「学閥」と言っても意味がないだろう。
アンオーソドックスは趣味の問題であろうし、無神論者はとにかく「勃たない」という特徴がある。
無神論者は目がうつろであることから判断できる。
アンオーソドックスは「メガネをしていない」などの一定の特徴は指摘できる。
いずれにせよ、私は24歳の時に、田舎の教習所に合宿に行ったが、持田真樹までついてきたため、周囲から一目置かれたのだ。
リチャード・フィッツラルフは、今でいう小林亜星であろうが、セックスに税金を課すとしたアウグスティヌスの恩恵を受け、しかも、セックスが「神聖なもの」とされたことから、「友達と恋人の境界線」をセックスであるとし、この作品を作っている。
グッバイフレンズという言葉の「女にとっての意味」をよく理解していたのだ。

2019年3月 7日 (木)

社会。

社会科学(社会科)を勉強していると、政治とは「いつ、誰が、何を、どのように」取るかが問題となるため、「あいつがやった、こいつがやった」などの「歴史上の人物」だけを学ばされ、「どのように」がまったく学べないことがある。
これは、一生懸命勉強しても「賃金が上がらない」ことにつながる問題だ。「どのように?」それは「女たちにモテる」ということだろう。
雇用の問題や、犯罪率の増加などを引き起こしかねないのが「どのように?」を明らかにしない社会科学の問題点となる。
女たちにモテれば企業も雇ってくれるし、犯罪を犯すものもいなくなるのだ。

女は勉強ができない。珊瑚の話題でもして男の勉強を邪魔してやろうかしら。
これが私の恋。
青い珊瑚礁 松田聖子

「算数」と「数学」では「メディアの数」と「女たちの声援」が数学の方が桁違いに多い。
社会科も日本史や世界史を勉強するであろうが、「歴史上の人物の名前」を覚えて何かいいことがあっただろうか?
女たちにとっては「珊瑚礁」を愛することの方が重要であることを大学では学ぶべきだ。
政局など学んでも意味がない。
「政局」「最後の審判」の予想すらくつがえしてしまうのが「歌謡曲を明確に理解する」ことであった。
マックス・ウェーバーも、カール・ポパーもワトキンスも「誰々がやった」などという教え方はしていない。
「なぜ、私の恋が珊瑚礁に向かったのか?」
を明らかにすることが、モテることにつながり、そのような情報を拡散させることを「社会学」と呼んだだろう。
会社などの組織があり、そこに資金が投げ込まれ、誰に分配するかを決める、さらには、文化を豊かにする、そして、組織が信じていたことをうまく誘導する、組織のメンバーを広く社会で生きていける人物にするなどの分析が「政局を読む」ことであり、それは「あー私の恋は」「それってあなたたちのテーマソングなんですか?」というようなことから始まる。
「誰々がやった」ということよりも、彼の「世界の広さ」「資金力」を知って欲しいというのが社会学であった。
ダークハイムは「誰々がやった」にこだわったが、1980年代からコムテやヘーゲル、マルクスの研究が進み、「イケメンだった」「女と話すのがうまかった」などの視点が重視されるようになった。
「大迫半端ないって」と言われるストライカーも「女と話すのがうまい」からチームに溶け込めるのだ。
メディアも相変わらず「誰々がやった」にこだわっていた。
チームに溶け込むのみならず、組織論を成立させてゴールを決めることの困難さは、もはや、国際Aマッチであるのならば、我々の想像を絶する力量が求められる。
司令塔がボールを支配すると、6人が「パスをよこせ」と声を出す。
誰にパスをやるかは「お金」「女と話すのがうまい」「組織に貢献した」などの要素が存在するとしか思えない。
それだけでなく、「あくまでもサッカーがうまくなければならない」のであるから、「誰々がやった」としか報じようがないし、それでいて「社会学」は別の見方をしなければならないのだ。

「神・男・聖霊」の完全性を議論すると爽快感がある。
赤いスイートピー 松田聖子

王子さまが「口説き文句」を考えるのだけど、それを「教育」という形で、どの男の子も「王子さま」にしてしまうのだ。
そうでなければ、女の子たちがそのような「社会」と契約を結ぼうとは考えないだろう。
酒井法子 涙が止まらない

鉄は「口説き文句」の世代を下げ、自動車やAKBはそれに反発し、通信も低年齢化を進めた。
しかし、国際Aマッチでの「ゴールの難しさ」を知るにつけ、7千円や8千円という「組織、男、ルール」が崩壊した状態で女子が社会参加するのは好ましくない。
なにしろ、「そもそも試合に弱くなる」からである。
政府は日経平均株価の下落と、女の子の安易な社会参加には「ノー」と言っている。
女の子たちは「孤立」をしたくなかった。
ブレナンとブキャナンは1985年に「機は熟した」として女の子たちに社会参加を求めている。
お先に失礼 おニャン子クラブ

ジョン・ロールズが「結婚と恋愛は違うスポーツ」という理論を確立したことから、1985年はロールズにとってはハイライトとも言われた。
恋愛している「私」と、結婚する「私」は異なるとされ、私と私と私という表現もなされた。
松浦亜弥 私と私と私

日本代表が決勝トーナメントに進出するためには日経平均株価の高値での推移が必要になってくる。
しかし、日本国は、「私と私と私」という体制を確立し、結婚と恋愛は違うスポーツという立場をとった。
日経平均株価の高値での推移という「国全体の豊かさ」よりも、財政の充実という公的資金の充実を目指したのだ。
インディゴブルーラブ

しかし、平成の時代にはもはや、皇室に「王子さま」はいなくなっていた。
「恋ばな」を教えてくれる先生がいなかったのだ。
そこで、小泉政権は「公的資金の政策的縮小」(郵政民営化)という政策を打ったが、日経平均株価も上がらず、「お上」は遁走してしまった。
小泉政権は「劇場型政治」を標榜する以外にその存続は約束されなかった。
「いざなぎ越え」という戦後最長の好景気は、「そのシステムの失敗」によって「かげろう景気」とも呼ばれた。
国民にお金はあった。
しかし、国全体の豊かさを示す日経平均株価や、国民が愛し合った証である税収にはつながらなかったのだ。
本来、男が「チョキしが出さない」と言ったら、女は「グーとパーしかだせない」と言って勝ったり負けたりを繰り返すものだ。
しかし、そこまでの激しい愛の世界はなかった。
恋のやじろべえ タンポポ

「みんなが生き残りたいと思っている」世界で、女子の側が簡単に「告る」という現象も見られた。
女の値段がここまで値崩れしていたのかと思った。
「私と私と私」「恋愛と結婚は違うスポーツ」が想定していたのは、「恋ばな」を教えてくれる王子さまの存在だった。
こわれかけたピアノ

ワールドカップの「ゴール」、オリンピックの「金メダル」は、選手の「口説き文句の論文」や「資金力」の賜物である。
会社などの組織があり、そこに資金が投げ込まれ、誰に分配するかを決める、さらには、文化を豊かにする、そして、組織が信じていたことをうまく誘導する、組織のメンバーを広く社会で生きていける人物にするなどの営みが功を奏してようやく手にできるものだ。
「皇室の王子さま」が何か発言してくれないと、決して手にすることのできないものなのだ。

人間は、言っていることそのものが「周囲に影響された」ものである。
しかし、研究生活に身を置くと、非常にノイズが少なく、「読んだものを話し」「演じていればいい」世界がある。
それでも、研究資金の出所に発言は大きく影響される。
DNA型鑑定は、「6番目の遺伝子で行う」ことになっているが、学習院大学の教授で「父と息子はDNA型鑑定で区別ができない」と論文に書いた人もいた。
また、三笠宮殿下の「Y遺伝子理論」も「父から息子に根性が伝わる」としたものであり、アメリカは「それはありえない」と証明するのに「実際に息子が大きくなるまで」20年間待った。
それほど、その人の発言は「資金の出所」「交友関係」というノイズに大きく晒されているのだ。
哲学は「真理である」と確定すれば、それは永遠である。
そのため、スタンフォードやハーバード、イェールなどには「ノイズの少ない男」が入学している。
「読んで」「大物たちと渡り合う」のがこれらの大学の卒業生なのだ。
「哲学は永遠」
それさえ理解すれば、この世界には「進歩」しか存在しない。
アメリカ合衆国は1940年代1950年代から、1996年まで、この「読んで」「大物たちと渡り合う」という「哲学者の行進」が展開された。
1977年のバーンズ、1982年のシェイピン、1983年のコリンズもこの方法を支持し、続けることにしたのだ。
ニューメキシコ州ロスアラモスでオッペンハイマーによってマンハッタン計画が練られた。
実際は、核開発というよりは、「お金の集め方」の研究に多くの時間が割かれたため、その「お金」は「ヒトゲノム計画」に引き継がれた。
今のアメリカの最新の医学書を読める人は、その世界が「人の体がまるで小説のように」明らかにされていることを知るだろう。
健康談義で盛り上がれない年寄りはいない。
「免許制」にもマスコミが存在するため、一定程度努力する人はいた。
免許を取ろう 高橋由美子

1988年にデビッド・ハルが、「哲学者が丸くなった」と指摘した。
スタンフォード大学などの一流大学の左傾化を指摘したのだ。
「A型男は真のエリートではない」とも言われた。
1991年にデボラ・マヨーや、レイチェル・ホランダーなどが、農業の品種改良などの分野でも「採算に合わない」ことはない、とし、哲学(口説き文句)の資金力を高く評価している。
コスト・ベネフィット論がここで消滅し、モデル理論と呼ばれる資金集めが主流となったのだ。
セット理論とは「カップルの発信力を高める」研究であるが、日本国でそれが歌謡曲として浸透しているかは明らかではない。
西野カナ ダーリン

日本国においては「愛は狂気をともなうもの」という認識が強く、セット理論は確立していないのではないか?
いずれにせよ、アメリカの銀行が「丸く」なったのは1980年代から1990年代にかけてである。
「愛は狂気をともなうもの」
という論点さえ克服すればコスト・ベネフィットは問題にしなくて済むようになるということは明確になったのだ。
松田聖子 天国のキッス

「愛は狂気をともなうもの」
これを芸術に昇華させることを「ホットバイアス」と呼んだ。
セット理論がコスト・ベネフィット論を凌いだのはアメリカ合衆国が初めてであり、日本国では「ホットバイアス」がどのようにかけられているかは研究が必要だ。
松田聖子 抱いて

セット理論における「ホットバイアス」について。
「愛は狂気をともなう」ということを芸術に昇華するセット理論。

少年のようにもっと素直なら。
フェアリーデイズ 穴井夕子

童話。
せつない童話 こんぺいとう

過去形に変えてみたいだけ。
トゥデイズガール 小泉今日子

サヨナラの未来系。ハレー彗星。
遅い流星 新田恵利

このような研究をしていると「神は笑わない」「神は祈らない」ということの意味がセット理論の登場によって確立したことが分かる。
狂気のともなう愛には笑えないし、お金に困っていないから祈らないのだろう。

雨に濡れた夜の歩道。
CoCo 優しさに帰れない

いちばん売れた曲。
病んで行く彼女。
米津玄師 lemon

カントは、彼の社会学・政治学において、「ホットバイアス」を知っている男たちがいるのであれば、女たちの社会参加・社会契約はおのずとなされるであろうと考えた。
カントは結婚という制度に反対したのではなかった。
ホットバイアスの存在、そして愛には狂気がともなうということを問題にしたのであり、それが社会の共有財産となり、ファイナンスにつながるのであれば問題はないと考えた。
セット理論は探求してみれば相当な「深さ」を見せることが明らかになり、彼女をまじまじと見つめて「社会の多数派ってなんだろうな」と考えることが重要だとした。
「お金の教え」「治めることの教え」がセット理論にはあり、男性陣営・女性陣営の双方から「ホットバイアス」の表現がなされた。
カップルは孤立しがちだったし、その理由は「ホットバイアス」にあった。
彼女のことがよく分かるようになるまで別れるなとも主張され、ひとりの女と向き合う男にこと富が約束された。
法の支配に根ざしたものがセット理論であり、セックスすると彼女は壊れていく。
そこに発信力を求めることが重要だった。
いつも顔を合わせているパートナーにこそ「お金」はあった。
世界を敵に回さないことが重要だったし、セット理論および、それにしたがった音楽作品はもはやコストベネフィット論を過去の産物としたのだ。

寂しくて泣いていた。
観月ありさ He's gone

カップルは仲間が多い方がいい、お金があった方がいい、このことを踏まえるとセット理論は強い議論だったし、深さもあった。
「表現が曖昧すぎるではないか」とも言われたが、自由とはそのようなものだった。
特定の法則のようなものはなく「狂気」のようなものだけがあった。
カントは、セット理論の表現者として「女性・子供」を排除したのであり、結婚というものを否定したり、女性差別をしたわけではなかった。
女の子たちは、このような愛の世界に「社会契約」を結ぶだけでよかったのだ。
どんな美女でも口説き落とせるという「悟り」の研究も、男女が同じ影響力を持つという民主主義も、最後に向き合ったのは「愛の狂気」であり、「悟りの時代は終わった」とも言われた。
コスト・ベネフィット論を過去のものとしたセット理論に軍が興味を示さないわけがなかった。
カントは自分のファイナンス力を誇るように「常備軍」を否定しなかった。
「永久平和のために」においては、どのカップルも同じ問題を抱え、それが政府レベルにまで共有され、ファイナンスに用いられる仕組みを描いた。
カントは、セット理論を深めていくにつれ、「それでは結婚とは女を所有することだね」と考えるようになっていたし、セックスするために口説いたはずなのにそれなりの距離感に落ち着くことにも気が付いていた。
しかし、カントは革命家ではなかった。
あくまでも、ファイナンスを重視していたのであり、結婚というものの「難しさ」の魅力にとりつかれていた。
フランス革命とは、ラファイエット将軍の「幼児教育こそが主婦層の支持につながる」という発想が、ルイ16世の「セックスの作法の研究」に勝ったという話であるが、セックス崇拝と、それにともなう税収も限界を見るようになると、カップルの「怒り、哀しみ」の方に担税力は軸足を移した。
人間は「怒っても」税金がかけられる。

本気で喧嘩した。
ribbon Stay with me

二人でいれば何でも乗り越えていける、という議論は、セット理論が成立したからこそ言える話であり、セット理論の「お金の教え」の影響が強いとされている。

中国においては、この「愛は狂気をともなう」「セット理論」が、800年ごろに新・儒学の立場から「要するにモテればいいんだろう」という科挙のあり方もあいまって、その理解力が問われた。
このテーマは「天命」とすら呼ばれたのだ。
孔子は、天命の問題において「女嫌い」を示したが、孟子は女に対してもっと寛大だった。
古くは、周王朝において「主導権」(場)争いのためにその理解力が問われた。
戦国時代においては、「民心をとらえる学問」とされた。
「愛は狂気をともなう」「女が病んでくる」この問題を、道教の側も詩にした。

おしゃべりな私。
Love train 松浦亜弥

墨子は、この問題を「天命」と呼ぶのであれば「天子さま」は当然、このことを熟知していなければならないだろうとした。
孔子は「女に食べ物を与えよ、国は武器を装備するだろう」と語っており、「愛に狂気がともなう」という「天命」を理解することは、のちの「セット理論」と同様、国に富をもたらすと考えた。
「狂気というのはとどのつまり人殺しだ」として、食べ物と武器を交換することにしたのだ。
男女は快楽を求めている。少数の指導者層や君子は「芝生を綺麗にし、風を吹かせる」こと以外に女を病気から開放する手段はない。
孔子にとって、快適な環境を女に保障することで、税収を得ようという議論が「天命」であった。
天命さえ理解すれば、「犯罪を犯したら処女がセックスさせてくれなくなる」というのが「法」であることもおのずと分かるようになる。
しかし、墨子はこのような「芝生と風」の議論には同意しなかった。
道教の「詩」の充実に、より魅力を感じたのだろう。
道教の側は、荘子が露骨な詩を作ってぼろ儲けした。
法家の韓非子はこの問題に関しては「常識をわきまえろ」と男に「法」を求めた。
rebecca Trouble of Love.

この「天命」に関する議論が出尽くしてから、中国は「王朝」の時代を迎えた。
秦でも漢でも、隋・唐でも、君子は同じ問題と向き合っていた。
「愛には狂気がともなう」「女が病んでしまう」
議論が出尽くしているのならば、どれかの学派に習うしかないだろう。
無道と呼ばれる道教の立場のように、何もしないで詩を作るだけの連中も有力だった。
宋の時代になって新・儒学が確立すると、それ以降は、明にせよ清にせよ、皇帝の力は尋常ではなくなっていたため、「グローバルに考えよ、ローカルに対処せよ」と呼ばれて、カントの議論がどの道、シルクロードを通じて持ち込まれたようだ。
新・儒学の立場が「心の病のアフターケアは教育水準次第」と考えて、女子にも教育を与えたのは事実である。
しかし、女子に教育を与えた結果、派閥というものが女社会に生まれたとされる。
「愛は狂気をともなう」「女が病んでしまう」
という問題は、女社会に派閥をもたらした。
また、男ほど教育のない中途半端な女たちの派閥に「空手形」が蔓延した。
散々、「君子の天命」として扱ってきた問題が、ロシア革命以降、中国に「民主化」「女性の政治参加」が求められたため、マルクスが一気にクローズアップされた。
新・儒学も「モテればいい」と割り切っていたため、女性の政治参加が現実のものとなるとマルクス主義者になるものが多かった。

「理科・自然科学」
理科とは、「勉強の法」であり、法(男らしさ)が女を作る。
重力や運動の三原則、理想気体、需要と供給の関係などの勉強が理科であるが、理科の得意な男の子を見て、女の子は「女らしくなる」のだ。
波は地球が宇宙の中心ではないから起きるとか、アインシュタインの「慣性の相対性」(一般相対論)がこすれあう男女を意味するとか、「遠く離れたものの時間の同時性」(特殊相対論)が「電話に出なければ浮気を疑う」ということを意味するとか、「女のカン」と呼ばれているものが、CIAと比較されることは「すでに男が明らかにしている」ことを認めることでもあり、理科の勉強ができる男の子の存在によって女らしくなったことを意味する。
サマーラバー大作戦

遠く離れていても時間を同じくしていることから、勉強をする男は、女の子が綺麗になる年頃になっても「優しくない」という問題が存在する。
目標を持っている男の子は優しくないのだ(パズル)。
私は知恵の輪

金は標高一マイル以内でしか見つからない、ウランも標高一マイル以内でしか見つからない、などの「黄金領域」が存在することは男が見つけた。
果実のなる木は輸出をするために男が育てるものであるが、「黄金領域」を知ることは果実のなる木を見つけることを意味する。
男の子はいずれ働かなければならない。
そのために、「2対2でも割り切れない」ということが起きる。
避暑地の森の天使たち

男の考え方の「シンプルさ、強さ、バランスのよさ」がどれほど人気があるだろうか?「シンプルさ」には金がかからない。
しかし、大事なのは「全国レベルで戦うこと」であろう。
教室には「54通りの男女のカップルの可能性」があった。
しかし、果実のなる木は「国の問題」「全国レベルの問題」と関わっていた。
制服 松田聖子

「あの人、今頃どうしているかな?」という特殊相対論や、セックスをするという一般相対論という大人の世界に女たちは入っていった。
こちらが毎秒一メートルの動きを止めても、周りは確実に前に進んでいる。遅くても確実にみんなが歩いている。
立ち止まった時に、昔のクラスメートを思い出すこともあるだろう。
荒井由美 卒業写真

「変って行くのがイヤだ」という男もそもそもいた。
長淵剛 勇次

全米の千マイルの広さの中にも「本物の黄金」は限られていた。
だったら「逢いたい人」に会うためにガソリンが必要になってくるだろう。
いずれにせよ「理科・自然科学」とは、果実のなる木を作る男のための学問であり、大工という「技術に満ちた男」のための学問でもあった。
なぜ、男が果実のなる木を作る、つまり、ガソリン・黄金・ウランの研究をするのかは、妊娠させた妻を養っていくためであった。
しかし、確実にこの「教室」を卒業した女の子は「女らしく」なって行った。
「女子高生」というものを作ったのは1977年から1980年にかけてのドゥオーキンであるが、それはもはや「社会現象」と呼ばれた。
ニクソンショック以降、女子高生が「恋愛マーケット」に参入してきたのだ。
結婚と恋愛は違うスポーツという理論をロールズが確立したのは1985年である。
理論よりも先に、「女子高生」たちは存在したのだ。
1980年から1985年までの間、理論は完全に宙に浮いたままだったことが分かる。
セーラー服を脱がさないで おニャン子クラブ

大人たちは大学で「人気」の研究をしていたはずだ。
「女子高生」のクリエイターだったドゥオーキンはハーバードロースクールに招かれた。
理科が得意だった男も、「セールスにかけられた女子高生」の握手会に参加する始末だった。
オタクのエリートも「自分が女子高生を育てた」ということを忘れていたかのように振舞った。
これが、ドゥオーキンの大きな業績だった。
CoCo ちいさな一歩で

カントは数学者であった。中国で言う「天命」つまり「愛には狂気がともなう」「女が病んでしまう」という問題を、本来、文系の人間が探求する問題であるとし、それでいて、カントは理系の人間として「女子高生に情念系を歌わせる」「男がクリエイトしなければならない」と考えていたものと思われる。
カントは結婚を否定もしていないし、女性差別もしていなかった。
「女子高生に情念系を歌わせたかっただけ」
ということがこのような誤解を生んだのだろう。
秋色協奏曲 東京パフォーマンスドール

中国が台湾を落とすための「窓はあんがい狭い」と言われているが、たとえば、ドゥオーキンが1977年から1980年にかけて「女子高生」をセールスに出し、1985年にロールズが「結婚と恋愛は違うスポーツ」という理論を確立している。
「おニャン子クラブ」に用意されていた「窓」も狭かったし、活動期間は二年で終わっている。
歴史を作るとはこのようなことなのかもしれない。
カルメン’77 ピンクレディー

アメリカの「対中政策三本柱」は、
1、金融。
2、クリーンエネルギー。
3、アメリカ高等教育。
だとされている。
アメリカにおいて高等教育を受けた日本人に、融資を行い、そのような人が「先生」(阿久悠・秋元康など)と呼ばれている可能性は否定できない。
その代わり、原子力発電の普及に否定的な人はいなかったはずだ。
忌野清志郎 なに言ってんだ

それでは、中国が狙うべき「狭い窓」とはどのようなものであろうか?
あえて語りたい。

エンタの神様。

旧約聖書、新約聖書、マルクス主義、ユダヤ教の奥義。


【壮大なテーマ】

2019年3月 1日 (金)

勤労統計不正疑惑について。

根本厚生労働大臣が、「仕事をする上での上司への報告」などの不徹底を指摘しているが、とにかく、仕事というものは「何が成功で何が失敗かが明らかではない」まま一日が終わる。
しかし、「彼女との恋」はその日のうちに最大化するのだ。
何が成功で何が失敗か明らかではない仕事を、「彼女との完璧な夜」に持ち込みたくない、そのために「書面に残らない」「口頭で済ませる」問題が生じてくる。
私も、今だから言えるが、妻に「光太郎さんの背中を見て生きて行きたい」と言われたことがあるが、書面に残そうなどとは考えていなかったし、実際に残していない。
すべては、「何が成功で何が失敗か明らかではない毎日の仕事」が存在し、それでいて、「彼女との関係」はその日のうちに「完璧に」終わることから来るものだ。
Boa Is This Love.

この問題は「人工知能に果たして仕事ができるのか?」という問題でもある。
「仕事はすべてが荒削りではないか?」
それでも、彼女との夜は完璧に終わるのだ。
ましてや、大臣に報告する重要な案件は「今日の彼女との夜」の重大テーマなのだ。
チェルシーホテルのコーヒーハウス 松田聖子

大臣は「心の風景」を広く知られているが、官僚はそうではない。
官僚は「アフターファイブの彼女の攻略法」をその日のうちに作り上げるが、なにしろ、「心の風景」は広く知られていないし、「カン」で大臣に報告している部分があるため、記録には残せないのだ。
人工知能は「ウィキペディア」を報告してくるだけであるが、官僚も「アメリカ合衆国」など想定はしていない。
どんな「鉄砲玉」がアメリカから飛んでくるかは分かっていない。
そのため、記録には残さないのだ。
官僚は「今夜の彼女攻略法」を最大限に重視するために、「鉄砲玉を逃れる」対処法を取る。
それはつまり、「人工知能に徹する」ということである。
杏里 Last Love

そのような「お役所の都合」を踏まえて、人工知能としての「官僚答弁」は生まれている。
首相や大臣は「人工知能の優等生」でなければ、官僚たちの「アフターファイブ」を約束できない。
マクダーモット&ドイル(1980)、マッカーシー(1980)、ロイター(1980)などが、このような「官僚答弁」の総括を行い、だいたいこの頃に、その正当性が確立したものと思われる。
あるいは、ミンスキーは1974年にこのような指摘を行っている。
「誰がやっても同じ」
世の中の女たちが首相や大臣のことをこのように語るようになった。
しかし、「心の風景」が支持されてそのような地位にいることも知らなければならない。
女たちは、そのような「官僚答弁」を「自分たちの問題」として引き受けなければならないのだ。
ドイルは1979年に「官僚的発想」(TMS)というものを構築している。
「すべてのメンバーにアフターファイブを保障する」
「一歩たりとも間違えてはならない」
これは時に「官僚臭の抜けない傲慢さ」とも言われた。
すべて「TMS」に感化されたものなのだ。
首相や大臣の「官僚答弁棒読み」は、官僚組織のメンバーだけでなく、国民全員が愛し合うために行われている。
つまりは「税収の最大化」を目指している。

保守というのは「貞淑な彼女」を背景にする強烈な政治力を基盤とするが、官僚も出世する者は保守が多い。
「誰にも言えない秘密を抱える」
これが保守のモデルとなる。
rebecca when a woman loves a man.

バスティーユ襲撃(フランス映画)も、彼氏と彼女の「秘密」だけが、外の男と刑務所の中の女をつないでいた。
「美しい女ならば誰でもいい」というリベラルの発想はフランス革命における「殻に閉じこもったカップル」をなくそうというムーブメントだった。
とにかく「保守はカップルという殻に閉じこもっている」という特徴と、政治的パワフルさを持っている。
偏差値男が大人になって稼ぐお金はかなり高額になる。
そのため、ひとりの女に費やすお金の金額も違う。
当然、「すれ違う女」とは異なる扱いを、彼女は受けることになる。
藤本美貴 銀色の永遠

ジャコバンは「フランス革命など二度と起こしてはならない」として、かなり「性に奔放」であることが、バスティーユ刑務所の安全を守ると考えていた。
「リベラル」「女は美しければいい」「カップルが秘密を抱え込まない」ことを標榜したのだ。
しかし、ネルソン・マンデラや、シラー、ゲーテなどの詩人が「保守論壇」を守り続けた。
ニーチェの「父と息子の関係」(神は死んだ)も、フロイトの「女心の研究」も、ひとりの女を大事にする方向を見ていた。
「キョロキョロしていたのでは学習能力が落ちる」ブラッドレーもボサンケットも「保守」を支持していた。
Melody You are only my love.

「女の真実」を描いたフロイトはファシズムとも言われたし、カトリックの完成でもあった。
「論文がエロ本に見える」という保守派の猛者は、とにかく強かったし、女に恵まれていた。
しかし、アダム・スミスは「日経平均株価で女を買う」男の存在を指摘したし、保守とリベラルは「フランス革命を境に」共存していくことになった。
保守派の男も、学習能力が高く、保守の側がリベラルに常に心を開いていたのだ。
保守とリベラルが共存している。
しかも、保守派が強さを見せる。
さらには、保守が常にリベラルに心を開いている。
この時に「神の見えざる手」が見えたのだ。
みんなが「人生が楽しい」と言えるだけの「自由」と、「世の中を動かしている”オヤジ”」が登場したのだ。
なにしろ、とんでもない「堅物」が柔らかさを見せるようになったのだ。
労働者とともに道端で寝る官僚や、おばあさんをあやす病院長など、保守が「柔らかさ」を見せるようになった。
マルクスは、バスティーユ刑務所を買収して見せる「フランス革命型」の「持てる側」に対抗する形で、プロレタリア革命を目指した。
一部の保守エリートの資金力とは異なる形で、「自由恋愛」「いろんな女の子と話せる」「団結」などを志向し始めたのだ。
神の見えざる手が保守エリートに頼りきっている。
一組のカップルに国を牛耳られることに反発する形となった。
「計画」という用語が、リベラル層によって乱発された理由も「神の見えざる手がない」ことに起因するものである。

1980年という年は官僚にとっては大きな年だった。
グレートバリアリーフの鮭の研究から、種の保存という発想が取り上げられ、「より官僚的な」男こそが、「カップルの多様性」の中から、女たちが「望むもの」となっていたのだ。
女は「子供さえ産めれば」他に何もできなくてもいいとされ、官僚的な男を女たちが「より種の保存に好ましい」と考えるようになっていた。
私も、妻と交際していたときは「六法全書」とあだ名されていたが、それがはたして愛情を意味していたかはともかく、「種の保存」という観点からはもっとも「好ましい」と考えられていたものと思われる。
すべては、1980年という年を迎えてから起きた発想だった。
松田聖子 ハートをロック

男は大勢いる。
それならば「偏差値Boyね」と女たちが考えたのだ。
「東大生なら誰でも乗せる女がいる」
これはつまり、いつまでも「受験の時の知識」を覚えている東大生のことを意味し、国家一種試験の教養試験でそのまま出題されている。
官僚になる女性も、官僚以外「ジャンクDNAである」と考えており、かなり「実力主義的な」パートナー選びをするようになる。
女性官僚の息子は、ある意味「特別な」訓練を受けたりもするのだ。
私の友人の左翼活動家・本田寅一さんも、両親が厚生労働官僚であり、中学生の頃から、小遣いを月30万円ももらうというべらぼうな方だった。
官僚は「すべての隣人が私を受け入れてくれる」と考えている。
なにしろ「妻以外の女に興味がないのだから当然だ」と考えていたのだ。
出世する「ランキング」は、仕事への本気度が十段階で「2」「8」「6」10」の順番だった。
「希望に燃えるほどバカらしい」側面は指摘しなければならない。
官僚社会のこのような現状を理解しなければ「頭が真っ白になる」こともあるだろう。
政治の側は、実力「10」の者がトップにいると考えたら、足元をすくわれることにもなる。
「遊び人風情」「ただ生きているだけ」の男が入省した時から幹部候補と目される。
つまり、首相の意を汲んで「専門用語を使って」駆け引きができる者はいないと考えた方がいい。
池田勇人首相は、最低の扱いを受けて大蔵省を退官し、「復職の意思がある」と聞いた同僚に動揺が走ったとされる。
本気度「10」の人を、早々に追い出しておいて、復職させるというのはかなり高度な政治意思を背景にしているとしか想定できない。
なぜこのようなことが起きるのだろうか。
理由は「企画を練る仕事」だからであると答えることは可能だ。
自分から企画を練るのではなく「国家統治全般を見通す」力量を持った男を「狙う」のならば、司法試験組の苦労人でも見つけるしかない。
赤いスイートピー 松田聖子

オーストリア・ハンガリー帝国の皇帝、オットー・ノイラーが「官僚とは皇帝を補佐するもの」という路線を断念して「事典」を作っている。
哲学者サークルと女たちには困らなかったからだ。
ハプスブルグ家とはこのようなものだった。
実際は、オランダに住んでいたが「事典を所持している」ことから、「皇帝として必要」と考えられたのだろう。
事典の出所は「バルカン半島」にあった。
そのために、「バルカンはヨーロッパの火薬庫」と呼ばれた。
私も、サンフランシスコのスタンフォード大学に何かあったら軍事行動を起こすだろう。
ノイラーは「昨日見た夢」の続きが見たければ「女にも分かる話をしなければならない」
と考えていた。
ソクラテスは女に詳しい。
プラトンは歌をたくさん作った。
アリストテレスは男女が共存できる社会を作った。
「バルカン半島」を失うことは、カント以外の世界史すべてを失うことを意味した。
竹内まりや 駅

「皇帝は強烈に”モテ”なければならない」
そのために、事典を必要としたのであり、オランダに住んでいようがニューヨークに住んでいようが、皇帝は皇帝だった。
「やる気のあるやつは追い出される」という官僚組織を率いるためには、「モテる」ことを証明しなければならなかった。
プラトン(音楽作品)を失うのは致命傷だったし、ソクラテスのようにモテなければならなかった。
また、アリストテレスのように「男女が常に共存している環境づくり」を望んでいた。
「バルカン」を叩かれたことからヨーロッパ全土に戦争を起こした男としてノイラーは知られた。
晩年は、カントやマルクスを研究していたようだ。
「皇帝は強烈に”モテ”なければならない」
しかし、オーストリア・ハンガリー帝国はすでにそこにはなかった。

官僚について述べさせてもらったが、韓国の徴用工事件やレーダー照射事件などが、
現在、日本を怒らせている。
そこで、韓国について語りたい。
韓国の憲法は「結果の平等と均衡の取れた発展」を標榜している。
「結果の平等」というものは、フランス革命を絶対的に受け入れるものであり、学歴のある者は保守派、そうでない者はリベラル派となるものである。
学歴のない者で保守派であるのならば「財閥二世」などとなるであろう。
いずれにせよ、韓流ドラマは「財閥二世」「王族」が「ヒロインと純愛をする」ものであり、結果の平等と「保守・リベラル」の軸を踏まえるのであれば、徹底した学歴社会において、「彼女を奪い返すためにバスティーユ襲撃をした」というフランス革命を理想とするものだ。
私の調査したところでは、ナチスの「国家社会主義」「上海倶楽部」と同様に、「バスティーユ襲撃」も「新約聖書キリスト教」と呼ばれているようだ。
つまりは、財閥と若者が「癒着」して、王室刑務所に資金を流し込むという構図が「結果の平等」とされている。
資金力のない者も「同じ扱いをする」というのが結果の平等であるとするのであれば、学歴のない者は「リベラル」「自由恋愛」「女の美しさを愛する」ということを意味し、学歴のある者は「官僚的」にならざるを得ない。
「財閥二世」「王族」が「資金を流し込む」という新約聖書キリスト教は「西早稲田」の教科書であり、韓流ドラマこそが新約聖書キリスト教なのである。
サムソンの意思が国の意思になってしまうとも言われ、「財閥の富」がモノを言うようになるのだ。
韓国ドラマ トキメキ注意報(長いです)

韓国ドラマ・トキメキ注意報においては、病院長は患者を診て、論文をサムソンに提出して、株式を有利発行してもらい大富豪になっているだろう。
学歴社会とはこのようなものであり、「芸能人は処女」を標榜した西田幾多郎も踏まえると、「保守派」「純愛」のモデルとなるのは明らかである。
学歴社会の勝者がどのような暮らしぶりをしているのか?を示すことは格差社会の不満を解消するものである。
自分の子供(将来世代)に対してこの世界は常にオープンである、そのことを示している。
将来世代に対して常にオープンであることと、そのことに対する「だまし討ち」をやってはならないことなどが指摘できる。
徴用工事件、従軍慰安婦事件、レーダー照射事件もそのあたりから見直す必要がある。
「人気があるほうが勝つ」というメディアの世界において、韓国ドラマの影響力を知らないといけないし、その「夢」が、保守・リベラルを問わず「将来世代」の夢であることを理解する必要がある。
本来、日米においては「機会の平等」と呼ばれ、人種に関係なく、教育の機会が与えられ、K-12と呼ばれる「高卒」に、より高度な教育や研究の環境を与えることが想定されていたが、韓国においては「K-12以降」が「人種」となってしまうことが「結果の平等」を意味した。
やりたい仕事をし、快適な環境で、家族サービスが充実した職場に身を置くことが「人種」なのか、それとも「機会の平等」なのかはかなりイデオロギー的なものである。
13回目の季節 新田恵利

少なくとも、アメリカ合衆国は「K-12以降の大卒アリーナ」には人口の10%以下しか開放していない。
貧困層は「公立高校」に通って、このアリーナを目指したのだ。
「恋愛裁判官は人口の10%」
これが、アメリカにおいて「法学部卒はみんな弁護士」と呼ばれることの実態であった。
ブラウン対ボードオブエデュケーションは「公立高校における人種差別」を違憲とした。
最貧困層が通うための公立高校には42%の黒人がいて、白人は8%だった。
「学歴は人種」という結果の平等とは異なる、人種概念がアメリカにはあったのだ。
韓国において「高学歴者の出生の秘密」が問われるのは、「学歴は人種」という発想があるからであろう。
もちろん、「学歴は人種」と呼ばれる韓国においては、受験をめぐる「悪意」に満ちていることは認めなければならない。
「恋愛裁判が苦手な者」「虚弱体質の者」は教室から排除される宿命にある。
結局、「学歴は人種」という韓国の立場と、日米の「機会の平等」は、「K-12以降」に進路を決めるための「部活動などの障害物」を公認するかどうかの違いだと思われる。
部活動に所属しないで東京大学に進学する者はいなかったし、それが韓国の「結果の平等」との違いだと思われる。
アメリカ合衆国においては、人口の10%が「私立高校」に進学しており、ハーバードやイェール、スタンフォードなどへの進学の「夢」を持てるものは限られている。
そのため「教育水準は家族に由来する」とも言われた。
しかし、韓国の「結果の平等」は、出生の秘密が問題とされるほどの生い立ちを持ったものが高学歴という「人種」を形成することになる。
このあたりに「韓流ドラマ」のヒントがありそうだ。
しかし、ソウル大学にせよ東京大学にせよ、「身体障害者」には固く門を閉ざしている。
そのあたりは、日本国の「平等権」に「結果の平等」が含まれざるを得ない側面がある。
「学歴は人種」これが「結果の平等」だからである。
我々は常に「多数派」に身を寄せながら生きている。
「学歴は人種」というのであれば、「結果の平等」は、「財閥」を形成することにつながるし、「均衡の取れた発展」という韓国憲法のもうひとつの側面も「財閥」を認めることになる。
アメリカの行政学。

三浦市議会議員選挙〜溝川幸二。

マルキュースは、フランクフルトスクールのメンバーだったが、第三帝国の統治下でアメリカに逃れた。
多くの仲間が終戦後、ドイツに戻ったが、彼はアメリカにとどまった。
1960年代に「新左翼のグル」と目されたが、その後はポストモダニズム(面白いことをやろうとする連中)や、ロールズのフリーセックス理論、そして、アドルノの「資本主義社会はテレビだけ見てればいい」という思想に圧倒されていった。
彼の少年時代は常に体育館にあった。
その後、「資本主義と帝国主義のダイナミズム」の研究を始めた。
マルクス主義の「女の共有」にも影響された。
お父さんが出版社を経営しており、彼にアパートを買い与えた。
「存在と時間」を読んでは若さを無駄にしていた。
ナチスのもとでは教授になれねえよ。
そう思いながらコロンビア大学に出入りしていた。
戦後、マルクス主義の美学などの論文を書き、資本主義社会における「女の抑圧」について探求した。
芸術家が理想を描くときは現実とのギャップに悩んでいることを知った。
このギャップこそが社会を変えるんだろうと考えた。
フリーセックスを求めるグループの支配なんて出来ないよ。
そこで彼は「急進的な女性主義」に走った。
女性芸術が革命を起こすと信じていた。
ブルジョア社会だから一夫一婦制なんだろう。
女を美しく描きたかったんだ。
「親父の言うことなんか聞いてられるか」
労働者階級の芸術が革命をもたらすんだ。
傑作というのは平凡だよ、それでも力を持っているんだ。
1960年代に女がフリーセックスを求め始めた。
知的な女はみんな革命を望んでいた。
労働者階級、二児の母、アメリカ中西部の生まれ、そういう女が彼を支持した。
みんな心に何かを抱え込んでいたからだ。
「若さを無駄にする」これがマルクス主義の温床だった。
20世紀に入って「マルクス主義革命は起きないのではないか?」と言われ始めた。
ソビエトは全体主義に過ぎなかった。
マルクス主義の連中は「考え方を間違ったのかなあ」と思い始めた。
自然革命論は失敗だった、行動主義だと第二インターナショナルも考え始めていた。日々上達するなんてバカげていた。 
高度な産業化が進んだ国ほど若さを無駄にする連中が多かった。
女の共有と若さを無駄にすること、これが新左翼の特徴だ。
自分と世界がかけ離れることが大事だった。
物象化論(女のフェティシズム)ってなんだろうな?
マルキュースはとうとうこの答えにたどり着いた。
サインは上昇思考だったが、コサインは続いていく日常を見ていた。
コサインには、人種や女性差別に道溢れていた。
資本主義のもとで隠れた傷を負っていた者たちがいたのだ。
白昼夢は、何かを省略していたし、確かなものではあったけど、間違っていることが多かった。
マルキュースは、ホルクハイマーと出会い、下ネタの話し方を学んだことから、若さを無駄にするという一次元の世界から決別した。
空想からの脱却だった。
女らしさが急進化して、経済状態が悪ければ【革命・女の共有】は成立すると考えた。
己と現実がかけ離れていて結婚なんてバカげていると考えることを意味する。
男が結婚を愛するかどうかに革命は頼ってしまったのだ。
男は労働をして、女は体を売る、これがマルクス主義だった。
資本主義はここで崩壊するのだ。
カントの「女の体」、ヘーゲルの「顔」の研究から、革命の材料はそろい始めていた。
しかも、ペルシャの抑圧された女性たちを見ると解放してやりたくなった。
産業化が進むと、金持ちが女を買うだろ(矛盾)。
だから労働者に女を開放し、共有させたかったんだ。
女が金持ちからお金をもらい、若い男に貢ぐトリクルダウンは、一定程度、有効だとされた。
資本主義においては労働者は子供を作ることを勧められた。
これも社会の慣習があるんだろうね。
性の経験で太ったり、お金があるからお洒落をしたりするのも文化だった。
マルクス主義なんてものは「若気の至り」で済めばいいんだ。
若い女とのセックスなんて夢で見るだけにしておけ。
生きるための本能や死への本能がそのような夢を見せることがある。
マルクス主義の夢というのは実は動物的なものなんだよ。
自分の夢は分かるけど、子育てとか色々あるだろ。
よっぽど人生が苦痛に満ちているんだろ。
中嶋美智代 「恥ずかしい夢」


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1989年に西側諸国がとうとうマルクス主義の意味を理解した。
家族による統制がとれないことや、文化は多様であるべきこと、ユダヤ教の「罪のない手」などの研究を深めたのだ。
国境線確定の問題となった。




相手の弱さにつけこむことを「搾取」という。しかし、チェスで相手の弱さにつけ込むことは搾取とは言わないだろう。
人が集まれば搾取は生じるよ?
しかし、低賃金や、発展途上国の女での医学実験はもはや構造に基づくものだろう?
このことを搾取と言っているんだ。
「ゲームならルールを作ろう」
労働者こそが男らしいとした資本論から搾取が生じていた。
女を最悪な状態にして立ち去る行為が男らしいか?
「被害者が孤立したのだろうか」というあたりで見ていくしかない。
産業革命以前は、搾取という言葉の意味は明確ではなかったのだ。
通貨を考えたアリストテレスまで遡ることは可能だし、セックスの研究をしたアクィナスも議論することが可能である。
しかし、アクィナスは女の子に「なぜ体を売ってはいけないのか?」を教えられなかった。
最悪な状態になって男たちが立ち去る風景が想像できなかったんだろう。
ジョン・ロックは「彼はどんな値段でマーケットに出ているの?」という観点を指摘した。
ダンケルクから撤退するのにも男たちは「自分の値段」を考えながらやっていたのだ。
教会の側はひたすら男たちの価値を高めようと教え続けた。
搾取の歴史は哲学の歴史ほど古くからあるものだ。
しかし、女が雇用の現場に出てきたからこそ低賃金やセックスの時に男の値段を計るようになっている。
女の局部の価値まで変わったからね。
政治以前の金と暴力だったんだ。
不動産の賃貸もそれで生まれた。
テナントでビジネスをやるようになっていた。
「セックスは美しいものよ?」と言った方が女が儲かった。
モノポリーには限界があるんだ。金持ちになってそんなにストイックな男はいなかったからね。
男らしい労働者に体を売る女という図式はマルクスが描いた。
社会は偽物だよと思った労働者が女を買ったのだ。
社会の歯車になった男ほどモテたんだよね。
抑圧された男女が愛し合うのは自然の成り行きだった。
子供ができちゃうよね。
子供にも同じ人生を歩ませたかった。
労働者は男らしいんだ。
欲望のままに生きるのが幸せだと信じていたんだ。
機械や建築、女には詳しかったよ。
セックスに喜びを感じたのも労働者だった。
熟練工のおちんちんの方が未熟練工のおちんちんよりも気持ちが良かった。
子供に同じ道を歩ませていいのかな?あたりが問題だろうね。
抑圧的な政府ってこんな現象を引き起こすんだ。

何が問題だと思う?女の子はブルジョアと結婚したいと思っているんだ。
フェアではないよね。
医者や弁護士にはなれねえからなあ。
公立高校の進路指導では可能性を残しているんだけどね。
仕事によっては労働者は気楽に働いているよ。
おっぱいも触らしてくれない女もいるけどね。
奴隷がやりたい放題セックスして世界を敵にするのは主人にとっては都合が良かった。
奴隷扱いされると「バケツ一杯の水に百万円払いたい」などと言い出すんだよ。
強要ってそんなもんだよ。
子供の話題で団結できるのが労働者の妻だよ。
「正しく扱ってよね」
搾取が悪だとは言い切れない現状があるね。

不公正さがともなうのは事実だよ。
子供の頃からつるむ相手が変わってくるんだからね。
10代の少年が5歳の子供と10セント、25セントを交換するように、両親は臨床心理士に金を払っている。
知らないということを利用して搾取しているのだ。
2対1のいじめが搾取かどうかはギリギリの判断になるが、騙しが横行するよね。
女の子が売春をやっても交友関係が変わってくるよ。
セックスの上手い下手でお金も変わってくる。
新しいテレビセットを買ったから75ドルで古いテレビを売るのと、引っ越したから75ドルでテレビを買うのとでは「与えたものよりも得たものの方が大きい」これが正解なのだ。
このことを「社会の子供」と呼ぶのだ。
よりリッチになりたければ中古品だね。
水なんてものは必要な人には本当に高く売れるんだ。
水は場合によっては99%ぼったくることが可能なのだ。
普天間かおり 祈り。

結婚生活を維持するために必要なものもかなりのぼったくりが可能だ。
貧困層のグループAと、金持ちのグループBの間でこのようはビジネスが行われている。
肉体労働者と普通の労働者ならば、肉体の強いものが女を独占するだろう。
法律がなければ普通の労働者は扱いが悪くなる。
法律によってエリートというものは生まれている。
世の中の階段は背広組のためにあるのかもしれない。
体が強い方がいいというのは本来の姿なのだ。
しかし、暴力と女を独占した男は不動産のオーナーになれないだろう。
肉体的強さを持った男が弱い男に対して優位に立つのも搾取と言える。
しかし、その結果、土地を失うという意味では鍛えた努力はフェアではない結論になるのだ。
お給料はこのようにして背広組に優位に働いた。
エアコンを楽しむのも背広組なんだ。

家族というものも「浮気」を憎んでいるものだ。
背広組もそのためにメカニックの勉強はしないといけないね。
結果的には肉体が貧弱なものは女に憎まれたよ。
どの肉体に高い値段をつければいいのかという問題は「学問的災害」と呼ばれた。
問題は「1人では強くなれない」ということだ。必ず仲間がいる。
人との交流には敵はいないだろ。
背広組にリーズナブルな値段で労働を提供してやるよ。
仕事ってのは力なんだよね。
肉体労働者と背広組の間の賃金の調整を「ベーシックインカム」と呼ぶ。
虚業と呼ばれるスウィートショップもそれでメシを食っているんだ。
女さえ雇えば仕事なんていくらでもある。
代理母なんて仕事もあるくらいだ。
相対性理論 恋は百年戦争。

1960年代には「労働の汗の臭い」は魅力的だったが、1970年代にはその力を失った。
アルチュセールは1990年代までその魅力を描き続けた。
1950年代には「スターリニスト」と罵られていたのにね。
アイドルで射精することを、「死=神」としていたが、肉体労働者はそれを嘲笑っていた。
ひたすら人の名前を覚える人が核兵器を作っただろ。
1947年のソビエトの核開発で、世界のキリスト教は自らの終わりを悟った。
世界が破滅する可能性がある、これだけで人々は学ばなくなった。
これがスターリンの狙いだったのだ。
人々は顔の美しさにこだわるようになった。
「顔ばっか語ってんじゃねーよ、ヤングヘーゲリアン」
女は男の勇敢さを真似したいんだぜ?
核兵器を知らなかっただけでマルクスもヘーゲルも哲学の王の座を奪われてしまった。
世界に終わりが来る、それだけで人々は顔について語り合ったが、やがて1953年ごろから「肉体労働をしよう」というムーヴメントに変わった。
可愛い女の子がいたからだろう。
1955年には毛沢東がこれを主張し始めた。
1961年まで自国の可愛い女の子を外国にアピールする活動がしきりに行われた。
1961年から1966年まで人々は人類の破滅に怯えながら必死で働いた。
女たちはマンガの目に星をつけてみせた。
巨人の星。
やがて、美女、女心、歴史学などが金になることがわかった。
フルシチョフのシークレットスピーチは、学歴のないことを誇ったために、フランスでも共産主義がウケた。
目標を持つってなんだろうな?さっさと働いた方がいいのにな、というのがヤングマルクスの立場だった。
エリートが女目当てに勉強しているらしいな。ぶっ飛ばしたろか。
やっぱり垂加神道はエリートがやるものだったよ。
しかし、実際に経験していたのは肉体労働者だったのだ。
フロイトとマルクスがいなければ歌謡曲はこんなに豊かにはならなかっただろうね。
美しい女がいることから肉体労働者が動き始めたのだ。
マルクス、レーニン、毛沢東ほど肉体労働者の味方をした論客はいなかった。
しかし、頭のいい連中は肉体労働者のユーモアや失業の理由、片思いなどを理解するようになっていた。
「やっぱ、頭のいいやつには敵わねえな」
精神医学かい?
ガリレオが天国を見ようとして望遠鏡を空に向けて以来の知識を持ってやがる。
クーンは数学ですでに恋愛を解いていた。
クーンが解いた世界。

そのようにして1970年代には背広組が幅をきかすようになったのだ。
アルチュセールは、学問は学問、経験した方が面白い、と割り切って創作活動を続けた。
肉体労働者がいなければ証明できないだろう。
子供を産むために女が2人の男を天秤にかける様子は経験した方が楽しいんだ。
構造が分かったらあとは肉体派に任せておけよ。
女なんてものはインテリよりも肉体派と対等なんだよ。
1978年までには恋愛論は肉体労働者の証言により真理であると確定している。
1980年代には肉体労働者というもの自体がアングラ化してしまった。
まあ、結婚を大事にしない連中が多かったからだろう。



【延々とつづく】

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