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2019年1月 4日 (金)

農林水産。

【有名人や金持ちが凡人として振舞う。これがすなわち農業である】(韓非子)
髙樹沙耶 大麻女優の農業

現在、耕作放棄地が「農地の三分の一」存在する。
有名人や金持ちが凡人として振舞う、という原点が忘れ去られたのだ。
処女たちは「初体験は有名人がいい」と考えていたが、その「有名人・金持ち」はみんな農業をやっていた。
おもひでぽろぽろ

それはもはや「司馬遷と司馬談以来の伝統」となっていた。
スターに憧れた昔の私が向かうべき場所は農業だと悟ったのは27歳になってからだった。

農業を強化するのは、中国戦国時代に各国が争ったものであり、その中でも「漢」がこれを巧みに成立させたため、中国は統一された。
処女がヤマギシズムに通ったりするのは日本でも同じであるが、司馬談は「有名人はあまりには秘密主義で、処女を独占しようとしている」と批判した。
これが「農業とはなにか?」という議論である。
わざと「田舎者」という概念を作り、処女と関係を持つものが多かったのだ。
漢の時代に精通していなければ、このことはいまだに「農業の秘密」とされたであろう。
そもそも「秦の始皇帝」が「韓非子しか読んでいないのか?」という人物だったため、農業政策の成功は「漢」が国家統治として引き受けることにした。
「申子」という人物が紀元前4世紀に「韓」という国を作って以来、その「農業」の研究は深まった。
慎子、管仲などの論客はいたが、いずれにせよ「農業」が分かったために呂氏春秋は終わったのだ。
おもひでぽろぽろ The rose

そもそも、春秋という時代そのものが「春は出会いの季節」「秋は別れの季節」としているため、当然、「農業の探求を行った時代」であった。
「有名人や金持ちと処女のマッチング」は農家が行っていたのだ。
サマーラバー大作戦

「百姓は生かさず殺さず」などというのは現代の精神医学の現場のことであり、倒幕運動にもつながりかねないものである。
「お父さんが羊を盗んだ」という議論から息子の「舜」は中国の神となったが、孔子も墨子も老子も「農業こそが中国を統一するだろう」と見ていた大人であった。
舜をスターダムに押し上げて、女たちが歌で歌い、舜を農業に従事させる、そのような大規模な計画が練られていたのだ。
王子様と雪の夜 タンポポ

芸能界や財界と強い結びつきをもつ「農業」と「処女」の関係を深く理解することを「農業政策」と呼ぶ。
そもそも「季節」を全面的に押し出すのは農業しかないのだ。
季節だけ変わる Melody

日本の文学者(三島由紀夫)も「生命の連続性」という言葉は知っていたが、それが、中国の農業政策からくるものだということまでは理解していなかっただろう。
「変化に強い支持基盤」が農家にはあったのだ。
季節ごとに出会いと別れがあるなどというのは誰が決めたのだろうか?
それは農業の論理ではないか。
サラリーマン世帯では「ハロウィンで出会って、一月の大統領選の空の月を二人で見る」ことを目指していたではないか?
農業の論理が芸能界を席巻したのだ。
風立ちぬ 松田聖子

しかし、横浜では「鶴見川の氾濫」にそなえて、水をすべて農地に誘導することにしている。
サラリーマン世帯の「わがまま」をここに感じるし、元芸能人として、あるいは障害者としての農業従事者は、農林水産省や農地委員会とは「家族のような関係でなければならない」ことを学習した。
「士農工商」というものがもし現代にも生きているとするのであれば、
政治家(士)には、「農」の論理を「工商」よりも理解してもらいたかったし、そうでなければ「富国強兵」とは言えなかったのだ。
軍務につくのは「士」であるからだ。
農業の論理には芸能界は常に敏感である。
「士」も、農作物の実り以上にそれを資金源にしてきたはずだ。
サヨナラのかわりに 酒井法子

統治者は「農業の論理」を最大限に富につなげたし、「工商」のようなサラリーマン世帯も「愛民」「利民」と呼ばれるように芸能界の作品を愛した。
中国の歴史で毛沢東ほど「法家」「韓非子」を嫌った男はいなかった。
しかし、「士農工商」は、日本国においても1980年代1990年代に存続を決めている。
季節を感じさせるニュースは毎日報じられているし、歌謡曲も多く作られている。
すべて「農」の論理を受け入れたものだ。
大都会である東京が芸能界に都市の存続を委ねているのは明らかであるし、卒業、夏休みの終わりという「社会契約論」のみならず、春の出会い、秋の別れを歌謡曲にしている以上、農作物の実り以上のデリバティブを「農業」は国にもたらしていることになる。
「百姓は生かさず殺さず」
それは、江戸幕府が「芸能界のスター」を差別するために行った政策である。
しかし、芸能界のスターは「星が太陽の30倍輝いた」=「神」であり、農家では「神」=「祖先崇拝」の対象となった。
都会の失業者を吸収する力がもはや今の日本国の農業にはない。
耕作放棄地は日本国の農地の三分の一である。
「神」の力が弱まったからであるとしか言いようのない現象が見られる。
酒井法子 涙が止まらない

季節を歌った詩を愛する、芸能界に日本国の存続を委ねる、髪の長い女を愛する、そのような基本的な国策が「倒幕運動」において練られてきた。
なにしろ、農業従事者が国において9割もいた時代の話だ。
女の子たちと自由に話そうよと言うのがマルクス主義だとするのならば、それは「ライン工」を論じた講座派ではなく、農業を論じた労農派であろう。
ribbon サイレントサマー

万葉集で「季節」を詠い、源氏物語で「源氏の君」が女たちにモテる、そのような倒幕運動、革命の嵐が吹き荒れたのだ。
それが「国学」であった。
「鉄」により中学生・高校生にまで金を行き渡らせて、恋愛世代を下げようとした講座派と、季節を詠い、源氏の君をそのような空気に泳がせた労農派は、必ずしもその対立は抜き差しならぬものではなく、「産業」=「男らしさを語り合う論壇」(宗教)、「女心を定義する論題」(政治)が政教分離が一体となって、「鉄」をコントロールするのか、民心をつかむ活動をするのかの違いに過ぎないものと思われる。
本居宣長も会沢正志斎も、このような「倒幕のプログラム」は練ったが、福沢諭吉(明治天皇)が、自分の祖先を「神武天皇」「アマテラス」にまでつなげてしまうことは想定していなかった。
「神」というのは、江戸時代の芸能人のことではなかったのか?
つまり、平田篤胤のことではなかったのか?
しかし、ここで、福沢諭吉は「万世一系の確立」を行ったのだ。
江戸時代の百姓(芸能人)が農家の祖先であり神である、それも、万葉集や源氏物語に基づくものでなければならない、そう考えた論客が多かったが、明治天皇はそれを「平安時代から続いている」とし、江戸時代に京都で人気を誇った源氏の君である平田篤胤の存在をもみ消した。
ナビが壊れた王子様 松浦亜弥

それでも「有名人や金持ちが凡人として生きる」ことが農業であるという基本は天皇家は言い伝えとして記憶に残していたのだ。
第二次世界大戦で終戦を迎え、日本国の「神道」は存続の危機に立たされた。
しかし、柳田國男が積極的に「農家に入っていく」というフィールドワークを行い、折口信夫が文献学でこれを支えた。
百姓には源氏の君が多い、あるいは、金持ちが多いということを膨大な書物に残し、神道は存続を決めた。
あくまでも、万葉集と源氏物語に基づくものである。
松浦亜弥 From that sky

武田信玄などが「側女を用意せい」といって処女を用意させる場面などが知られているが、これも、戦国大名が「芸能人」「神」としての百姓であり、処女が「有名人・金持ち」目当てで、農家を訪れたとしか考えられないことである。

農業の「宗教的側面」を指摘したい。
人間は、出世して贅沢すると「糖尿病」「痛風」になる。
糖尿病は「靴下をはかない」ことからなるし、通風は「白い女とセックスした」からなる。
しかし、異性と関わる以上、「食べ物」が必ず関係している。
これらの「成人病」に罹ると、みんな「肉を禁止される」のである。
糖尿病に罹ると「体重の5%」落とさなければならない。
ブッダは「肉を食べると、糖尿病や痛風患者から恨まれる」ことを指摘している。
かなり全体主義を志向したものが「菜食主義」なのである。
聖徳太子がなぜ「仏教の父」と呼ばれるようになったかというと「カルマの法則」と「本正話(ほんじょうわ)」について語ったからだ。本正話とは
「ブッダが生まれ変わる前の話」という意味だ。この話を聖徳太子は行っている。
本正話について書いておきたい。
ヒマラヤボーイが悪魔の掌の上に落ちて、マハーサットバ王子が飢えた虎の上に落ちて、両者が似たような姿勢をしていて仏陀として生まれたという話なのだ。
手塚治虫 ブッダ

人間は「目的」を持つと病気になる。
目的を持たなければ一番健康であるが、目的を持つなというのも酷な話だ。
「外で異性を語り合う」
これが精神医学の到達点である。
それならば、犬やイルカやクジラは「人間の友達」であろうが、それ以外の動物は「目的を持っていない」「食べていい」ということになるのであろうか。
動物は「外で異性と語り合う」ための言葉を持たない。
そのため「目的を持っていない」動物こそが健康であるといえる。
人間にも健康をもたらすであろう。
目的を持っていない家畜を、側で寄り添うように育てる人間は同じく「健康」である。
家畜に名前をつけない、愛情を持たない、という二つを条件に、農場の男は健康になる。
それならば、「野菜などの作物を育てる」のはもっと健康的ではないだろうか?
ここに、精神医学が関心を寄せた。
「目的を持たずに生きても富を生み出せる生活」が見出せたのだ。
漁業にも同様のことが指摘できるが、糖尿病患者や痛風患者は「殺した」ということに恨みを持ち続けるだろう。
とにかく「タンパク質」とは「ゆずりたくない人間」が必要としているものであることは肋間神経痛からも明らかであるが、
菜食主義になると「譲る」ということを覚える。
「国民全員が菜食主義ならば交通事故すら起きない」とも言われる。
「いつ、誰が、何を、どのように」取るか?
というのが政治であるとするのならば、政治家は肉を食べなければその才能は発揮されない。
家畜は、餌や水を大量消費し、糞尿を垂れ流すという「肉への批判」は、野菜などの作物を育ててみれば的外れであることが分かる。
野菜などの作物も、育ててみると「多くのものを無駄に消費している」のである。
世の中は「譲り合い」だけでは成り立っていない。
すべての組織が「政治的に」行われている。
このことから、ブッダのような「世捨て人」でなければ「野菜しか食べない」という生活は想定できない。
糖尿病や痛風患者は治療するしかない。
「男らしさ」(宗教)や「女心」(政治)といった産業も、肉がなければ成り立たないのだ。
第一次産業に配慮しながら、第三次産業は成立している(士農工商)。
ポップカルチャーは常に季節を歌い、テレビ局は気象予報を流している。
秋の貝殻 クレア

ユダヤイスラムにおける「豚肉の禁止」は、「悪夢を見るから」行われている。
マヌ法典における「玉ねぎの禁止」も同じ理屈だ。
「交通事故のない社会」という菜食主義は、肉を食べる人への憎しみに変ってはならない。
芸能界で「神」とされたことがあり、処女が「初体験のお相手に」と考えるような男が敵を作らないように「野菜しか食べない」という方向性が現在の菜食主義のあり方となっている。
高橋由美子 ときめき

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