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Foreign Affairs

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2018年10月24日 (水)

中曽根康弘。

中曽根康弘は、昭和天皇の弟だった。
35歳まで「何をやっていたかわからない人物」であるとされ、兄貴の前で「3日間、戦った」ことから、兄貴に認められ、昭和天皇がやりたかった仕事はすべて「中曽根康弘がやった」ことにされた。
中曽根康弘の兄貴(昭和天皇)は今でもご存命である。
ベビーブームの世代に「英雄」が必要であったことや、昭和天皇自らが源氏物語の作者として多くの企業に「女シリーズ」を売りつけ、宗教団体や企業と結びついていて資産があったことが背景にある。
私の父は、一介の医者であったが、東京では石原慎太郎として知られている。
なぜ、公職選挙法が本来想定していないこのようなことが起きるのであろうか?
背景には「フィロ」(哲学)がある。
「ソフィア」(知性を愛する)というのは男が射精をするのに必要な口説き文句を言うが、フィロというのはこのような「表舞台の現実をこのような体制で組み立てる」ことを言い、お金が必要であるのは事実である。
私の祖母・遊佐道子も一生懸命、音楽作品を作り、私の父を石原慎太郎として世に送り出したが、資金力では昭和天皇の源氏物語にはかなわなかった。
「人間が一生涯に学習できることは限られている」
このことから、ごくわずかの「仕掛け人」だけが資金力を背景に時代の英雄を作り出している。
しかも、「官僚に"柔らかさ"を提供できる」人物が富を得ている。
官僚組織そのものが、「事務次官」になるために掃除会社を経営していて「入札に詳しい」などの経歴を持った人物が事務次官になっていて、事務レベル協議などとてもではないが事務次官には務まらない現状もある。
「哲学者」
代表的な四名はプラトン・アリストテレス・アクィナス・カントであろうが、詩を好み、男女の共同生活を好み、いじめを経験し、異性と話すことをお金に変える、このことに精通していたのが昭和天皇であり、私の祖父母だったものと思われる。
「お金の裏付けさえ送ってくれたらどのような映像でも地図でも描いてみせる」
これが「フィロ」であって、労働とは常に精神史的文脈を持ったものなのだ。
この「お金の金額によって永田町勢力地図をメディアが作り上げる」ということはアレキサンダー大王が広めたものであり、やり方そのものはインドにまで知られるようになり、日本に伝わっている。
日蓮あたりが持ち込んだものかもしれない。
エアー〜サラダデイズ 酒井法子。

中曽根康弘の正体を明かすと、私の母方の祖父の小野百之助である。
京都大学医学部の腹部外科出身の外科医だった。
娘の登始子(私の実母)は髪が長く、小野百之助は国学の立場に立っていることが分かる。
一方、私の父は漢学(儒学)の立場に立っている。
小野百之助(中曽根康弘)と私の父は、本来、生涯にわたる盟友であったが、国学の立場から中曽根康弘は私の父に「本居宣長」を贈っている。
伊藤仁斎と荻生徂徠の和解の印として作られた「不動明王」をアクィナス復権の報を受けた尾道の上野重治(平山郁夫)は、広島生変図として描いている。
小野光太郎復活せり、この知らせに中曽根康弘と石原慎太郎の国学と漢学の和解のために平山郁夫は持ち出したのだ。




遊佐道子(私の父方の祖母)は、非行に走った私の姉を「浅香唯」としてデビューさせている。
そもそも、私の母方の祖母小野元(はじめ)が、両親に「田畑の質」として売られたことに大審院判事の三島中洲が「借金を踏み倒しても良い」という芸娼妓契約事件判決を下してのご縁で、小野元(はじめ)が、自分に自信がなかったことから「親にされたことを娘にもしてしまう」ということになった。
細かい芸名は伏せるが、私の母に自信がなかった時期に必ず浅香唯は活動を活発化させている。
1987年に私はホテルでの面接など厳しい難関を乗り越えて留学を決めている。
1990年には東京大学文科一類に合格している。
母に自信のあるときに浅香唯(私の実姉)は活動が下降線を迎えているのだ。

【おニャン子クラブの伝統であったABCの順番を確定させソクラテスを真理であるとした曲】
浅香唯 C-girl.

私の妹は倉木麻衣として活動している。
たとえば高見山という外国人力士のスポンサーがニクソンであり、しかし高見山はそのことを知らないという具合に「どこにどのような応援団がいるか分からない」というのが芸能人であるが、遊佐道子の「幻の恋人」が西田幾多郎であり「善の研究」も遊佐道子が書いていることから、遊佐ネットワークは全員、私の応援に回り、倉木麻衣は「テレビに出るお金がない」という状態に陥っている。
母がそのことにどれほど不満を抱いていたかは想像に難くない。

【私は痛くてセックスができない体であるが、恋心は芽生える。でも深い仲にはならない。巨乳であるためにレズビアンのパートナーもいない。それが私の秘密】
倉木麻衣 Secret of my heart.

小野重五郎(石原慎太郎)は、広島の耕三寺で中学時代を過ごし、風呂や書斎のある大きな屋敷で勉強して、日比谷高校に合格している。
広島の耕三寺館長の釈孝三さんは「言えないこともある」としているが、浄土真宗とは石原慎太郎という「王子」が女の子と話して回って論文を書くことで国の税収を豊かにするという教えであり、現在は「お母さんに感謝しなさい」ということを教えているようだ。


エバレットは「線形代数」と呼ばれる「予測できない波のメカニズムのぶつかり合い」を示したが、オペレーションと言っても、角度が異なるエネルギーを同一線上に乗せるとは表現できても、その「角度の違い」だけでなく、いろんなものが「波」となってしまうために向き合っているオペレーションの「効果」は「やってみなければわからない」と指摘している。
ミッドウェー海戦の何がいけなかったのか?
それは議論ではない。
国内の様々なイベントを評論し、源氏物語を書き、お金を集める、その作業に「何がいけなかったのか?」という問いかけは的外れだ。
できる限りのことをやったら「ぶつかり合う波」は「やってみなければ分からない」ものなのだ。
昭和天皇が「ソルボンヌ」の限界を感じることは当然あったであろうし、「英語づかい」のアクィナスに期待したのは事実であろう。
アクィナスは、高校一年生の時に留学を決めたが、小論文で「中曽根も二階堂も留学している。俺も留学させろ」と殴り書きをして帰ってきた。
窓の外に見える皇居まで小論文が届くとは夢にも思わなかった。
いずれにせよ昭和天皇の頭にあったのは「翻訳と文明批評と波の大きさをどのように生み出すのか?」ということであり、比叡山延暦寺(天台宗)は、「教義は特にない。神聖な場所に顔を出すように」と教えている。
波を生み出すためには「決意」が必要であるとも言われる。
特定の女をヒロインに祭り上げることが必要であるとも言われる。
今年のワールドカップを振り返ってみると、紀州のドンファン事件では見事にヒロインが踊ってくれたが、西郷どんではヒロインへの強烈な愛着は生まれたのか?AKB総選挙でヒロインたちの真実を正確に描き切れたのか?(貧乳レズビアンなど)の反省点は出すことは可能だ。
しかし、ベルギー戦の敗北(決勝トーナメント)も「やってみなければわからない」ものであるし、勉強の度合いも全ての司令官が発展途上なのである。
世界の「戦争ポテンシャル」がワールドカップでは表面化するが、その時に「ヒロイン」が男たちにどれほど祝福され、女たちのレズビアン志向にどれだけ吐き気をもたらすのかなどは全く予測できない。
最近のワイドショーネタをどれほど「決意」をもって解釈するかが問われる。
女たちは「巨乳ヒロイン」など望んではいない。
これらのことが「ご時世にマッチした」文明批評と翻訳からかなり偶然に頼った「波」を生み出さざるを得ないのだ。
「ミスワールドという女がいる」
それが担保?
このような高度な学習を紀州のドンファンはもたらした。
「デフォルトを引き起こしたら、どの女にいくら払ったかがか全て保証人にバレる」
それが保証の問題点?
いろんな学習を人々にもたらしながらヒロインを踊らせた。
巨乳ヒロインへの女たちの吐き気との戦いであり、それはもはや「予測できない波のメカニズムのぶつかり合い」なのだ。
今となってはAKB総選挙の「貧乳レズビアン」をもっと煽っておけばよかったとも思うが、男たちのど真ん中でヒロインが踊るとは限らない。
多くの国々が世界でしのぎを削っているが、「アメリカ合衆国へのアクセス」だけはどの国も死活問題とみなしている。
発展段階が進むと、スタンフォード大学も「論点探し」に苦労すると思うが、囲碁でも「視野が狭い人の方が強い」とも言われるように、「博識な人は多くのものを見落とす」という可能性は指摘していい。
平成の天皇はどこから来たの?と思うだろうが、私の父方の祖父・小野鉄之助(昭和天皇)が可愛がった佐田の山である。
佐田の山の妻・美智子の弟の英遠が鉄之助の三女・杏子と結婚した縁で、天皇となっている。
佐田の山。

1987年にアクィナス(小野光太郎)はアメリカに留学しているが、その時に、野口英世記念館の"Mikoto"と福沢諭吉記念館の"Junko"と出会っている。
留学メンバーのムードメーカーのような女性たちだった。

山崎闇斎は、髪の短い女(陰)と髪の長い女(陽)という区別をしてみても、髪の長い女でも貧乳ならばレズビアンであるとし「陰陽五行説」と呼ばれた。
また、セックスができる女はいい香水をつけているとし、これを「気」と呼んだ。
新井白石は「いい匂いのする女など九州にしかいない」としている。
このことは皇統の威信を大いに傷つけた。
長崎は今日も雨だった。

ナオビノミタマとは、髪が長くていい匂いがする女を育てる学問であったが、クズバナ、タマクシゲなどを貢いでもらえる立場にあった。
藤田東湖や会沢正志斎は、日本国が中国よりも優れている理由として、セックスができない高貴な女と、遊女のような女が共存していることを指摘し、のちにロマン主義文学が「髪の長い、いい匂いのする女」をセールスに出した。
重要な視点は「男に愛される女」が男女の比率で等しく存在している状態が一番、経済力にまさっていることを意味し、髪の長い短いだけではなく「胸」まで含めて「五行」とされていることだ。
本人に「幻の恋人」はいるのか?「自分で自分を口説く夢を見るのか?」などから貧乳の女でも「女になれる」かどうかが決まるのだ。
赤木元(中曽根蔦子)は貧乳であったし、私の母も貧乳であったが、「育て方」を間違ってはならないと考えたのが国学である。

小野百之助(中曽根康弘)の長男の晃嗣は、菜食主義者として知られ、家畜がどれほどの穀物を無駄に消費しているのか?水を消費しているのか?そして最後にどんな残酷な殺され方をしているのか?を語った。
酒はよく飲んだが、とにかく菜食主義だった。
長女の匡代が横浜に遊びに来た時にマクドナルドのハンバーガーでアレルギーを引き起こしている。
三女の薫はなんともなかった。
肉を食べるのは間違いなのか?という議論は「肉を生産するのは間違いなのか?」という議論と直結する。
しかも「政治活動」となってしまうのだ。
野菜シスターズ AKB48。

アレルギーというものは「自分以外みな罪人」という発想から生まれるが、中曽根康弘は子や孫たちに囲まれたものの「痛風食」を食べることを強要されている。
肉を食う男は「自分よりも劣った命」を想定している。
とにかく小野晃嗣の前では「戦い」の話はしてはならないのだ。
これが中曽根弘文の正体である。
痛風で肉が食えない、このことから「自分よりも劣った命を想定する」「戦う」ことを否定するようになっていた。
アボガドじゃねーし。

魚は苦痛を感じないということから魚は食べてもいいが、実際は痛風食であった。
しかし、他人に痛みを与えてまで何かを成し遂げようとは思っていなかった。
とにかく、食生活の違いから、中曽根弘文とアクィナスは反りが合わなかった。
中曽根蔦子(赤木元)とも「とんかつ定食」を京都で食べている。
肉を食う家には上がれない、これが中曽根弘文(小野晃嗣)の政治力の限界であった。
「女と肉が食える」
それだけでモテることが分かっていたため、食べ物をめぐる喧嘩ばかりしていた。

ドゴールはサルトルの弟子だったが、バスティーユ刑務所の女たちが「ドゴール」という名前さえ出しておけば、身の安全が保障されるために、女たちの「僕たち」に名を連ねることで影響力を増した。
ドゴールは、フランスのレジスタンスに参加したり、イギリスに逃げたりしている。
しかし、女たちがもし「友達ではなく恋人」(セックスした)と判断したら、多くの女たちの「僕たち」に名を連ねることはなかっただろう。
浜崎あゆみ SEASONS

「僕たち」と呼んで女が仲間に含めた男とは何者なのだろうか?
「女に詳しい男よ?」
みんなが顔を知っている男で、「今の問題」を解決する力量を持っている男。
ドゴールほどバスティーユの「多くの問題」と向き合った男はいなかった。
そのため、どの女も問題が起きるたびにドゴールの名前を出した。
友達と恋人の一線を越えることはなかった。
三浦理恵子 グッバイフレンズ

医者と患者の間に「友情」が芽生えたら、患者の病気が医者にうつる。
そのため、医者と患者は友人ではない。
しかし、ドゴールは患者の友人であり続けた。
同じところが痛むのが友情だと悟った。
ルサンチマンを持って「うわー!本物だ」といってバカにしてみても感染症は治らなかった。
それほど、ドゴールは患者を愛したのだ。
酒井法子 All right

患者の病気を「真空管」で飲みこんでいるようだった。
ソクラテスの「産婆術」は、まるで子供を産んだからアレルギーが治ったという女の息子のように、女たちの病気をうつされ、そしてそれを真空管の中に閉じ込める作業だった。
どのようにうつされた病気を「真空管に閉じ込めるか?」
それは、「いろんなものを食べたり飲んだりする」しかなかった。
自分で「彼女たちの病気はこんな感じか」と思ったらいろんな飲み物を飲んでいた。
腰痛でも、禿げでも「うつされる」ため、いろんなものを常に飲んでいたのがソクラテスだった。
元有名人たちの「友人」となり、人生トータルで見れば割に合うことが「病気を共有する」ことであり、常に飲み物を飲むことだったのだ。
「辛気臭い連中だ」と思われていた元有名人の友人となるためには「真空管」が必要だ。
そのようにして、論文を書き、いじめの話を得意とし、元有名人の相談に乗った。
ドゴールは、ひたすら医学鑑定書を書き続けた。
患者たちの友人として、免許制のもとでは医学部を出ていなかったために、「9割の確信が得られる民間人」として、裁判上の鑑定人の立場に身を置いたのだ。
その信頼感は絶大なものがあり、女たちが「情を通じた」などとデタラメばかり言っていたので、ひたすら正確なメッセージを発信し続けた。
しかし、娘たちの中には「母以外の女を愛している」という感情が根強かったようだ。
女たちの噂話から家庭が崩壊する鑑定人がいたため、現在では「どんな鑑定を下したのか」を明らかにしていいという具合に制度は変わった。
「鑑定書を読ませてくれ」という人が大勢出たのは事実だ。
「公表していいのかいけないのか?」だけでも「鑑定人」たちが「腕比べをしてやろう」というメッセージとなった。
鑑定人が「9割の確信」をもたらせてくれるかどうかはこの制度の運用にかかっている。
かつては、古畑種基のように「冤罪による絶版」を引き起こした人もいる(「法医学の話」岩波書店)。
どうしても「司法の場」に専門知識が必要だったために、鑑定人の「腕比べ」をできる仕組みが必要だった。
「秘密秘密」を重視する民事訴訟法がこの部分では心を開いたのだ。
ドゴールは「彼女たちは私の母のように病気をうつしてきた友人であり、知性を愛して突進してくるのだ。決して深い仲ではない」と鑑定の問題点を指摘している。
「女たちの噂になったら大統領になれる」と考えたドゴールが、文系の男として医学を学び、鑑定人の道を選んだことが、現在の日本国の民事訴訟法でも参考にされている。
本来、医師免許がなくても信頼の置ける人物が鑑定人となって政治力を高めていたのだ。
「9割の確信」を心証と呼ぶのであればそのように政治家が考えるのも当然だった。
「文系外国語通」としては、英語が堪能であれば国内の専門医顔負けの力量を身につけるのは目に見えていた。
しかし、鑑定の対象となって命を救われた女の「想い」の盲目さだけは想定外だった。
ルネッサンスカトリックの到来であったし、タルムードの到来だった。
「文系外国語通」に人生の道筋が出来上がったのだ。
愛の炎 田中れいな

病気とは「食うか食われるか」「生きるか死ぬか」の問題である。
そこに「光」が差し込んだだけでも、女たちは「歓喜のあまり仲間たちに話して回る」ものだ。
この時に「女たちも本当は知性を愛していた」ことをドゴールは悟った。
周りの女の中には「目を伏せて」通り過ぎる女もいた。
どの女も知性の中には「半分だけ純粋」だったのだ。
二分の一の神話 中森明菜

「知識」というものは、必ずしも「訴えかければいい」というものではない。
自分が何を考えて、どんな鑑定を下したのかを明らかにしなければならないのだ。
妻への義務を果たすカトリックの世界で「知識のルネッサンス」が引き起こされた。
奔放な男ならばそもそもが、鑑定の問題意識を政治の世界で共有することはなかっただろう。
鑑定人が、女の「知性への情熱」に追いつめられ、家庭崩壊するのであれば、「家庭を守れない禿げた鑑定人」として、力量があればあるほど、その力量が疑われることになる。
1989年にアウディの社長が「鑑定人としては信用できない」と言われ、「AT車の暴走」などという奇妙な噂をアウディという車に語られた。
免許のない「文系外国語通」としてのドゴールは、すべての「女たちの物語」を回想(リコール)して、鑑定と政治家の関係を明確にした。
今では、「一回目の車検を通らない車」を「リコール」と呼んでいるが、本来は、アウディの社長が「女たちの物語」を「回想」(リコール)したことに端を発する。
女たちは「病気の世界に光が欲しかった」とも言われた。
病気の治し方についてだけは正確に覚えていたからだ。
「医者がどれほどお給料をもらっているか知っている?」
女たちは「お金」の意味を正確に理解していた。
いろんな医者を渡り歩き、いろんな専門医を見てきた挙句に「鑑定人」と出会ったのだ。
自分がどれほどの金持ちになったかも女は知っていた。
「体で理解しているのは私よ?」
男の方から知識で歩み寄り、女の方から「経験」で歩み寄った挙句の「富」であった。
どの医者より自分が優れているのかも女は詳しかった。
あとはお金の話は自分の経験談となる。
男が女を愛する気持ちを利用するのが経済だとするのであれば、学問もおのずから「モテる方法」「女の子にいいアドバイスができるようになるテキスト」を選ぶようになる。
キルケゴールが「いい先生」として選別した哲学者たちから目を背けようとする政治家はいない。
金を持っているか、貧しいかはおのずと「異性を愛する気持ちがあるのか?」で区別されるようになる。
女の子と接していると、どうしても「治めなければならない」場面というのはある。
そのような時に「読んだ話」を使わない男はいない。
資本構造を利用し、攻撃的に企業を買収する経営者がいても、日常の「女の子との接し方」を知らなければ金持ちにはなれないのだ。
裸一貫で「どれほど女性たちの支持を得ている男なのか?」が試されるのであり、「俺でもできる」という企業経営とは異なり、「女性にモテる」というのはその人の知性の特権だ。
SPEED DEEP BLUE & TRUTH

男女が共存していて、そこに「治める」という男の役割があるとする。
なぜ、企業経営が成り立つのか?
男の人望はおのずから明らかではないか?
あるいは年収もおのずから明らかではないか?
カメラマンがコンピューターの使い方を女の子に説明しても、それは「いいアドバイス」「治める」ためのツールに過ぎない。
人間関係から収入というものを見ているのであって、写真のセールスよりもそれは大事なことなのだ。
車の試乗は大事な仕事だ。
車のセールスよりも「人間関係の構築」が収入につながるからだ。
「車」「写真」どのようなメリットを持っているかは人それぞれだが、人間関係を重視しない社会人はいない。
「お会計」でぼったくって喜んでいるうちは、独立など到底かなわぬ夢だろう。
「全人類は平等だ」「女は高く売れる」
この二つを踏まえなければ収入は増えない。
アダム・スミスが「社会の歯車になれ」と言っただろう。
人ごみ雑踏にまぎれなければ男女が共存する場に身をおけないのだ。
書斎だけで執筆して金儲けなどできるわけがない。
プロセス的憲法観はそのようにして成り立っている。
一方、実体的憲法観と言うのも確実に存在する。
カップルとしてどのようなことを信じたらいいのか?どのようにしたら優しくなれるのか?
を、書斎人として探求するものを実体的憲法観と呼ぶ。
しかし、そのためには「私の本を読めば弁護士になれる」という発想が必要になる。
普通の社会人ならばプロセス的憲法観に立つのは当然だろう。
トマス・クーンは「恋わずらいこそが成績を伸ばし、いかなる病気も治す」と割り切っていた。
キーワードは「優しい男」だったのだ。
私は知恵の輪 うしろゆびさされ組

しかし、これもプロセス的憲法観の立場だろう。
日常の社会生活において起きることであり、毎日、出勤していれば健康であるという社会人はたくさんいる。
それでも、クーンは「恋わずらいこそが成績を伸ばし、いかなる病気も治す」とした1962年には「科学革命」と呼ばれている。
好きな男性家庭教師が付いたから成績が伸びたとか、奥さんがいて満足に恋もできないから病弱だとか、いろんな指摘が可能である。
悪いことがひとつあったら、人間はいいことを三つ欲しがる、自分が気分がいいと相手は気分が悪い、などの話題や、大勢の男女が大騒ぎするからいじめないでください、などの相談に乗れるほどの器が必要になってくるのが「恋わずらい」である。
とにかく、殺伐とした家庭は病に満ちている。
病人はとにかく「惚れっぽい」のも事実だ。
奥さんがいて満足に恋もできないのならば、昔のアイドルのPVになら奥さんも怒らないだろう。
目標を持った男は、はたして「優しく」なれるのだろうか?
方法論上の迷いがないこと、同じ方法を続けられること、将来の見通しが明るいこと、方法がよりシンプルであること、などが女の子に優しくなるためには必要だ。
ガリレオが「それでも私は動いている」と発言し、心の動きは誰にも止められないとした時に、カトリックは激怒している。
望遠鏡を考えるほどの天才なら浮気をしてもいいのだろうか?
松田聖子 スター

そのことから、カトリック教会も「偶像崇拝の容認」へと舵を切った。
「恋心を忘れた人間は病気になる」
アインシュタインが考えた物理学は、アブラハムという「重力より重い命」、ゲームセットの直前の「光より速くなる瞬間」を想定したものであり、
偶像崇拝の世界を非常に豊かなものにした。
軽い命は「敗北」を認めようとせずに、しかも、ゲームセットを平気で引き伸ばしにしたのだ。
メジャースポーツの世界で「マトリックスのスローモーション」は語られているのだ。
マトリックス 銃弾をよける

恋心は病気を癒す。
男女がメジャースポーツに群がった。
男たちは「贔屓の球団を勝たせよう」と思ったし、女たちは選手に恋心を抱いた。
家族に病んだ人がいる男女も「ゲーム」を楽しんだ。
女がパンツを脱ぐ瞬間と、どの女も同じだということが分かる瞬間に、プランク定数(h)が存在し、hvつまり、プランク定数は速さとかけることにしたのだ。
背中まで45分 沢田研二

プランク定数は6.63×10^-34であるが、このときの興奮に、男の「速さ」が割に合わない時期がある。
「優しくする」
これだけで本来は解けるものであるが、「輝いていたから近寄れなかった」という男も存在する。
CoCo メロディー

このあたりにDNAというものが介入しているものと思われる。
「親父の人生を正当化しなければならない」
どの女も芸能界に憧れている。
男社会の真剣勝負に憧れているのと同じ意味だ。
当然、プランク定数にかける「速さ」が速すぎる男というのは存在する。
恋わずらいをすれば健康にいいという問題からメジャースポーツを作った時に「輝いている男」が生まれるようになった。
「DeNAベイスターズとかいうのならば関わらないでください」という女もいる。
そのようにして「偶像崇拝」というものはメジャースポーツも含めて容認されたが、カトリックが「鑑定の問題点」を明らかにしたのだろう。
偶像よりも実像の方を愛した方が影響力をもてるのではないか?
偶像は「いい燃料」にはなる。
しかし、実像の方が勝っていると考えているのがカトリックだ。




画家〜高橋朋子。

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