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Foreign Affairs

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2018年10月

2018年10月27日 (土)

株式の有利発行について。

「株とは取引するものだ」と思っている人は多いだろう。
しかし、その業界に貢献し、人生経験を論文にして企業に提出することによって「有利発行」というものを行ってくれることがある。
会社のお金で無償で株式が割り当てられるのだ。
そこで、本来ならば「論文」が念頭に置かれているが、メディア論を理解してほしい。
その人物の「心の風景」を番記者をつけることによって知りたがっているのはテレビ朝日系列のテレビ局である。
テレビ朝日が「0」と「1」のデジタルの世界で勝手に仕事というものを作り出し、「靖国神社はA級戦犯を合祀していないのにしている」と言ったり、「普天間基地は移設の予定がないのに移設する」と言ったり、人の仕事を勝手に作り出しているのだ。
しかし、ここにも、特定の人物が「その地域の女性たちを愛しており」「男の子よりも女の子が好きで」「他の男を排除するだけの力がある」とされるからテレビ朝日はその人物のデジタルイメージを使って「仕事」をさせているのだ。
それならば、地上波の影響力は計り知れず、しっかりとテレビ朝日をチェックしておくことで株式の有利発行を行ってもらえるのではないであろうか。
入閣すると嬉しい、選挙が盤石だ、それもすべて法定職務権限を背景にテレビ局が「その業界と関わる女性たちを愛する」人物として関連銘柄を割り当てているからであろう。
なにかの職務権限と言うよりは「予算編成における影響力」や「地上波の影響力」と言った方がいいだろう。
アダム・スミスは「社会の歯車になれ」「水は無料だ」とこのことを表現している。
私も浄土真宗の教えにしたがい、女子会に参加しては論文を書き、8度目には真剣に念仏を唱える(唱えざるを得ない)という他力本願を経験したことがあるが、浄土真宗は本来、国全体の税収を増やすのが仕事だ。
浄土真宗のやり方はカール・マルクスが言っていたこととなんら変わりはない。
国全体の税収を増やすのならば、関連銘柄と言うよりは「社交性」次第で多くの企業から株式の有利発行を得ることができるであろう。
ヒューマニズムとは「人間が瞬間に表現するもの」であるが、音楽作品の解釈を掘り下げていかなければならない。
政策を作るのは、圧力団体、ロビー団体、集票マシン、政党、そして新聞だ。
テレビ局は、政治家を「完璧な紳士」として描くだろう。
普段は下ネタばかり言っていればいい。
「面白いやつだ」と思われれば、勝手に選挙に当選したことにさせられる。
とにかく、詩を愛し、男女の共存を知り、いじめられ、女心をお金に変えるという発想を持つことが必要だ。
これさえ分かっていれば、圧力団体、ロビー団体、集票マシン、政党、新聞がその人物を「完璧な紳士」として表舞台に出してくれる。
どの企業も「将来」を知りたがっている。
しかもそれは「女性たちの支持」に大きく頼っている。
このことから「女性たちに人気のある人物」に企業の将来を保証してもらいたがっているのだ。
秋の貝殻 Qlair.

私も多くの企業に論文を提出してきたが、圧力団体、ロビー団体、集票マシン、政党、新聞のような利害調整を巻き込んだものとは必ずしも言えず、かなり荒っぽい論文になっていると思う。
地上波のテレビではこれらが完璧に咀嚼されている。
1930年代から1940年代にかけて、このような「よく練られた政策を紳士が発言する」ということが新聞で行われるようになっている。
株式も整備されてきたのだ。
このようにして「政策通の表の人物」と「恋バナに詳しい実像」は区別されてきた。
政治家になりたいのならば、やれオルグだの天下国家だの言っていないで「恋愛論」を勉強しなければならない。
外国国家にまで影響力を与えないように、周辺国は高い関税を課している。
日本人女性は関税があるから外国の政治家に熱狂することはない。
「恋バナ」が得意な実像が伝わることはないのだ。
私も、父の石原慎太郎が昼間、何をやっているかは知らないが、昼間の電話は禁止されている。
おそらく「恋バナ」を周囲に話しているからだろう。
自分にしか分からない「恋愛論」を知っているのならば、「表の紳士」の発言は実像の人物に属するとカール・ポパーも考えていた。
パーティーは人を搾取するものだ。壁の花も生まれるし、セックスも行われる。
パーティーでは人物像は伝わらない。
パーティーのお誘いをよこす政治家志望男がいるのならば落選確実だ。
「表で知られている紳士」と「恋バナに詳しい実像」というセテリスパリバスと呼ばれる政治の仕組みは「政界のハードコア」とも呼ばれる。
実像が色々なところに電話して「肉声」を聞かせるのもいい効果がある。
率直さも試されるし、電話で無視されても喜んで批判に耳を傾ける姿勢が必要だ。
1980年代から1990年代にかけて「政治家からの電話」が多用された。
とにかく「勝負事」に強くなければ指導者は務まらないのだ。
2008年のリーマンショックでは「この問題は民に委ねるしかないな」と言って民主党が支持を集めた。
1人の王子に勝負事を委ねるのか、民に委ねるのかは問題ごとに異なる。
王子は「世の中の探求者」ではない。圧力団体、ロビー団体、集票マシン、政党、新聞が作り上げるものであり、王子の実像は「恋バナ」を女の子に話して回るだけだ。
「女の子に優しくするだけでお前はモテるんだ」と男に言うのが仕事でもある。
私は知恵の輪 うしろゆびさされ組。

周囲の男女にパートナーを与え、パートナーがいるだけで生活していけるようにすることを福祉と呼ぶ。
女が「ビビビ」ときたらカップルになれるようにすることを効率性と呼ぶ。
パートナーがいるだけで十分食べていけるようになるのであれば、おのずと効率性も生まれる。
健康であれば「彼氏のいない女などいない」ということは当然、考えなければならない。
雇用の問題でもあるし、指導者の力量でもある。
こわれかけたピアノ 高井麻巳子。

2018年10月25日 (木)

大本教。

大本教というのは、大正天皇(和辻哲郎・野口英世)が作った、非常に明るい宗教でした。
大正天皇(野口英世)は、医者として、平日は患者を診て、週末には教会で女の子たちと話をするというキルケゴールに影響を受けています。
野口英世は、哲学の世界では「和辻哲郎」として知られ、会津藩出身の「父」との関係を「神は死んだ」として、ニーチェにも影響を受けています。
昭和の時代に入ると、大正天皇グループは「権力批判」を行うために「終末思想」を撒き散らしています。
終末思想・天変地異とは「権力批判」でありまして、大本事件という弾圧を受けています。
しかし、そろそろ「本当は明るかった大本教」を大正デモクラシーとともに思い出してみようではありませんか。

【神は死んだ!】

また、和辻哲郎は、西田幾多郎や田辺元の同意を得て、「日本国は海に浮いた泡」であるとし、沖ノ鳥島をはじめ、多くの「南の島」を領有するに至っています。
尖閣諸島も例外ではありません。
そこからもたらされたのは「世界第六位」の海洋管轄権を持った日本国でありました。
大正天皇が志向したのは「海の男」であり、そのためには、西田や田辺の同意が必要でした。
また、大正天皇(和辻哲郎)は、新渡戸稲造とともに「バイロンの詩」を研究し、「神は死んだ」を強烈にアピールし、海洋管轄権に「資金面での責任」を取ろうとしたのです。
complex

また、大正天皇(和辻哲郎)は、夏目漱石とも親しく、「人生の絶望」を夏目漱石が描くことを、会津藩出身の父との関係から提案し、ひたすら「神は死んだ」(父が息子を罰する)ことから資金集めを行っています。
父が息子を認めるなんてことはありえない。
しかし、それでも「息子」には救いがなければならない。
このことから、若者・海の男として、「神は死んだ」を描き続けたのだ。
complex

1920年には東京大学で、1922年には法政大学で、1922~23年には慶応大学で、1922年~24年には津田塾大学で「神は死んだ」というニーチェの言葉の真の意図を説いて回りました。
華々しい都会に出てきて、故郷の親が仕送りもしてくれない。
そのような若者たちが、「バイロンの詩」を歌うことで資金集めをするように仕組んだのだ。
「風土」「気候と文化」という著作はタイトルは古臭いですが、このようなエキサイティングな著作でした。
complex

1919年には「古寺巡礼」を書き、1920年には「日本古代文化」を書き、「古事記と日本紀」を書き、1935年には「僧・道元」を書いています。1925年には「キリスト教の文化史的意義」を書き、1927年には「原始仏教の人生哲学」を書いています。
大正天皇(和辻哲郎・野口英世)が、仏教に回帰していった背景には「娘ができた」ということが指摘できます。
娘の恋愛事情をメッセージとして聞くことから、「禅」というものは成り立っており、永作博美の「Here and Now」というアルバムにそのことが端的に表現されています。
永作博美 信じさせてください

「風土」というのは「風と地球」という意味であるが、ヨーロッパの学問が日本国にどのように受け入れられるのかを研究したものだ。
「土壌から海まで」を含む概念であり、大正天皇(和辻哲郎)は「海の男」という立場を堅持した。
1927年から1928年にかけて、和辻は「読むだけ」ではなく、実際にヨーロッパを旅している。
この時に「偶像細工」(アイドルの復権)という著作を著し、アイドル崇拝を日本に引き込んでいる。
「万葉集」というものも和辻が書いたものであるとされ、昔には想定できなかった「姫」というものが百人一首に登場する。
また、「倫理」というものも「倫」というものを「仲間」であるとし、「理」というものを「女の体」であるとしている。
また、日本人の本質は「空」であり、他者に寛大であれば「何も知らない」でいいとしたし、キスをしたのかしていないのかを論ずること自体が「キスである」ともしている。
キスした跡は残さないで 国生さゆり

1960年に和辻(大正天皇)は没しているが、1980年代に「哲学の危機」を迎えている。
哲学なんて知らなくても生きていける時代が到来したのだ。
1950年に「鎖国」という徳川時代の研究を明らかにしているが、1980年代にふたたび日本国が「鎖国」の状態に陥ったのだ。
日本人の本質は「空」である、このことから鎖国はもたらされた。
和辻哲郎は、読者を失い(最初の否定)、80年代の「鎖国」を脱することを日本人は待望し始めた(二度目の否定)。
野茂英雄

日本国は、江戸時代の鎖国においては「禅」が主流だった。
娘の「恋愛」にお父さんとしてどのように向き合うのか?これが「禅問答」だったのだ。
天使が胸に降りるとき 永作博美

しかし、儒学が「禅」を圧倒して行き、開国を迎えている。
だが、京都学派は「空」つまり、哲学など知らなくてもいいという1980年代の「鎖国」を経験し、ふたたび「禅の復権」がなされた。
哲学を知らなくてもいいという「空」の世界では、お父さんは娘の動向に右往左往させられたのだ。
永作博美 このままでもう少し

京都学派は、アメリカ合衆国などの西洋を「向こう」と呼んで、「絶対的空」という鎖国の状態に国を陥れた。
「すべては禅のため」でもあった。
恋愛論に疎いということは「娘の性」に翻弄されることを意味する。
恋と微笑みと花 永作博美

日常は仕事をしていて、「有名な名前」(とおり)を持つというのは、仏教だっただろう。
そもそもが、アレキサンダー大王が、インドに持ち込んだ「フィロ」でもあった。
一部の哲学者にファイナンスを委ねて、庶民は「空」の中を生きる。しかも「とおり」をもちながら生きていくことになるのだ。
京都学派は、庶民に「空」を求めて、禅の道を生きさせ、自分たちだけで「仕掛け人」「フィクサー」を努めようと考えた。

和辻哲郎・野口英世・大正天皇などの「とおり」はあっても、現実には「小野達郎」と名乗って医者をやっていた。

21世紀に入って、京都学派の藤田正勝や大橋良介は「我々京都学派が東京のテレビを支配する」と位置づけた。
そうだ京都へ行こう


禅寺で娘の「性」について考える。つまり、禅寺(曹洞宗)のセールスと京都学派の資金力がここで結びついたのであり、京都学派は「娘の性の問題」になやむ「絶対的空」の世界にいるお父さんを資金源としたし、アメリカのメジャースポーツへの憧れそのものも資金源とした。
このことから、京都学派は、日蓮系の「フィロ」とは異なるルートで東京のメディアを支配した。
エアメイル 永作博美

1965年に「大島メモ」というものが公表され、「禅こそが海軍の資金源であった」とされた。
浄土真宗のように、王子が女の子と話して回ることが軍事力を高めるという発想に対して、「哲学のことは何も知らないお父さん」「女の子たちのロマンティックサークル」が海軍力の背景にあったとしたのだ。
永作博美の「Here and Now」に限らず、娘たちが自由恋愛を謳歌する音楽作品を量産し、お父さんが禅を組むことに資金力があったのだ。
逢いにきて 永作博美

この島国(日本国)が西洋とどのように異なるのか?
それは、娘が家で「オーイェー」と言わないところにある。
「向こう」(西洋)が何を考えているかは分からない(絶対的空)が、日本国のお父さんはみんなそう思って禅を組んでいたのだ。
「大島メモ」が、禅の資金力を海軍の軍拡に向けた、とするのならば、21世紀には「戦艦大和」を作ったお金で東京のテレビ局が支配されていることになる。
without you 永作博美

西田幾多郎という人物は、遊佐道子にとっては、勉強が大好きな男が心を病んでしまい、それでも精神論を磨き上げて勉強に立ち向かっていく人物に写っただろう。
それは、遊佐道子が見た「幻の恋人」であり、「善の研究」も遊佐道子が書いた精神論だった。
遊佐道子は西田幾多郎に「23歳まで健康的に生きて幻のように消えた人」と詩をしたためている。
エアー~サラダデイズ

遊佐道子は、その三年後に、自分で自分に「西田からの返事」を書いている。
「私は今のまま悲しみの底に沈んでいたいのです」
悲しみを選んで 瀬能あづさ

西田幾多郎の「善の研究」は、遊佐道子が小野家に残した「家訓」であり、大正天皇=野口英世=和辻哲郎=小野達郎の息子の鉄之助に嫁ぐことになってから、まとめ上げた精神論であった。
近衛文麿を通じて昭和天皇に献上している。
昭和天皇は、アクィナス(小野光太郎)が28歳の時に会っているが、「こいつは本当に西田幾多郎だな」と確信するに至っている。
遊佐道子が、アクィナスを天皇にするために描いた「幻の恋人」が西田幾多郎であって、小野家の家訓であった。
その精神論は、昭和天皇が戦争の時に「周囲や国民にもっとも期待した」ものであったために、アクィナスと昭和天皇の面接はあっという間に終わった。
クリスタルアイズ 瀬能あづさ

空海は17歳から18歳まで長岡京の大学に属していたが、儒学に嫌気がさしてドロップアウトしている。
その後に曼荼羅と触れる機会があり、20代の時はずっと四国にいた。
31歳の時に唐の長安に国費での留学が許されたために、インド仏教と接している。
インドと接することはアレキサンダー大王と接することを意味し、お金さえ平安京に送ればどんな政界地図も評論家やメディアが描いてくれるという「フィロ」を日本に持ち込んだことになる。
「本体」「曼荼羅」「耶蘇」を「三密」と呼び、芸能界や政界においてはこの三つが常にメディアを彩っていた。
人々の心を感化させることを「即身成仏」と呼んだ。
「相」というのは自分がどのような姿でメディアに映るかを意味した。
発心説法とは「人を励ます」という意味であり、「ギャーテーギャーテーシャラソーギャーテー」というような意味で、愛の世界の深さはない。
CoCo 夢だけ見てる。



100%デッドコピーは延暦寺までご連絡ください。
曼荼羅

曼荼羅の深い世界を知りたくて唐まで来た空海であるが、そこでお金の使い道として建築学を学んだり、人々の「相」を記録するために木彫りの彫刻を学んだりした。
それらの世界はすべて1980年代以降に日本国の歌謡曲に表現されており、私も垂加神道として述べてきたが、デリダやメルロ=ポンティ、ドゥルーズなどの最新の哲学者の言っていることになんら引けを取ることはなかった。

さて、バイロンの詩が「理想の男」を描いていて、ヨハネとは日本国においては「西田幾多郎である」とされているが、バイロン自身は西田幾多郎ではなく「ヨハネ」を描いていた。
しかし、万葉集や百人一首を彩る男たちはバイロンが描いたのである。
松田聖子 夏の扉。
ヨハネというのは「詩の男のモデル」である。
男を詩のモチーフにする分には女たちも吐き気がしない。
ヨハネの黙示録を書いたヨハネ・フィリポノスは、エルメスの息子として生まれ、アテネやアレキサンドリアで哲学を教わり、「ABC」つまり、キス・胸・セックスの順番を学習した。
男女共学を経験し、530年に哲学の世界を引退してからは、師であるアンモニウスの後も継がず「男らしさを語り合う論壇」を「宗教」とし、宗教の世界に身をおいた。
実際は、詩の世界のヒーローとはアブラハムでもイエスでもない。
しかし、最後の晩餐で師匠のアンモニウス(イエス)が語ったことに身近に接したことから、「イエス様、イエス様」という爽快感を女たちに与え、自身は常に「イエスの教えにいちばん詳しい男」として、「ヨハネ様」ではなく「イエス様」と呼ばれることを好み、女子たちの歓声を浴びる立場に身を置いた。
ダンシングカフェ 松田聖子

ヨハネ・フィリピノスの本職は「文法家」であった。
言語の文法を熱心に研究し、のちにエラスムスが、「文法家さえいれば、女たちの失恋空間を利用して言語が自在に生み出せる」とした基盤となる研究だ。
現在でも、外国語を勉強するためには「文法」から入るが、それらの知識はギリシャ語やギリシャ文学の研究から生まれたものである。
「頭が良くなければ文法は分からないのは事実だよ」
そのようにして、女の子たちとの「ABC」を学習プロセスに組み込んだ。
100回のKISS 松浦亜弥

しかも、女の子たちが「男である自分のことを歌う」こともいい学習効果が得られることが分かった。
のちのルターやエラスムスのように「外国語を生み出して、女性たちが共存できる楽園を作る」ことまでは6世紀には想定されていなかった。
「光よあれ」と神が6日目に言ったときに「女たちは動物ではなくなった」とされ、男たちの間にいじめが生まれるようになった。
どんな「外国語通」も「文の構造」を考えたことがあった。
しかも、異国に憧れる女の子たちの声援があった。
「文法を学ぶためには、女の子たちが詩を歌い、男らしさを語り合い、ABCをさせてくれないと無理だ」
そのように、ヨハネは考えていた。
デカルトも「恋」というものを、「外国語の文法を男が学習するために使おう」と考えた。
のちの時代にフッサールが「人間の心とは文法からできているのではない」としているが、実際は、「意思」「可能」「強い意思」「受け身(受動態)」など、
「人間の心と似ている」「世界の生い立ちが分かる」のが文法であった。
ユダヤ教は、エル(覇権国家)・ヤーヴェ・エロヒム(覇権国家の先生たち)の三位一体を想定していたが、イエスは「文法という世界の生い立ちを考えた父」「学ぶ男」「人間社会」を三位一体と考えていた。
「四つだ」というのは「女には文法は学べない」という意味であった。
東方教会においては、故郷からお金を引き出すために、このイエスの三位一体をまとめて「知性」=「聖霊」としている。
いずれにせよ、「セックスをする前に学んでおくべきことがあるのではないか?」というのがプラトニズムであり、学業が壊滅したらキリスト教異端の謗りは免れない。
チョコレート魂 松浦亜弥

2018年10月24日 (水)

中曽根康弘。

中曽根康弘は、昭和天皇の弟だった。
35歳まで「何をやっていたかわからない人物」であるとされ、兄貴の前で「3日間、戦った」ことから、兄貴に認められ、昭和天皇がやりたかった仕事はすべて「中曽根康弘がやった」ことにされた。
中曽根康弘の兄貴(昭和天皇)は今でもご存命である。
ベビーブームの世代に「英雄」が必要であったことや、昭和天皇自らが源氏物語の作者として多くの企業に「女シリーズ」を売りつけ、宗教団体や企業と結びついていて資産があったことが背景にある。
私の父は、一介の医者であったが、東京では石原慎太郎として知られている。
なぜ、公職選挙法が本来想定していないこのようなことが起きるのであろうか?
背景には「フィロ」(哲学)がある。
「ソフィア」(知性を愛する)というのは男が射精をするのに必要な口説き文句を言うが、フィロというのはこのような「表舞台の現実をこのような体制で組み立てる」ことを言い、お金が必要であるのは事実である。
私の祖母・遊佐道子も一生懸命、音楽作品を作り、私の父を石原慎太郎として世に送り出したが、資金力では昭和天皇の源氏物語にはかなわなかった。
「人間が一生涯に学習できることは限られている」
このことから、ごくわずかの「仕掛け人」だけが資金力を背景に時代の英雄を作り出している。
しかも、「官僚に"柔らかさ"を提供できる」人物が富を得ている。
官僚組織そのものが、「事務次官」になるために掃除会社を経営していて「入札に詳しい」などの経歴を持った人物が事務次官になっていて、事務レベル協議などとてもではないが事務次官には務まらない現状もある。
「哲学者」
代表的な四名はプラトン・アリストテレス・アクィナス・カントであろうが、詩を好み、男女の共同生活を好み、いじめを経験し、異性と話すことをお金に変える、このことに精通していたのが昭和天皇であり、私の祖父母だったものと思われる。
「お金の裏付けさえ送ってくれたらどのような映像でも地図でも描いてみせる」
これが「フィロ」であって、労働とは常に精神史的文脈を持ったものなのだ。
この「お金の金額によって永田町勢力地図をメディアが作り上げる」ということはアレキサンダー大王が広めたものであり、やり方そのものはインドにまで知られるようになり、日本に伝わっている。
日蓮あたりが持ち込んだものかもしれない。
エアー〜サラダデイズ 酒井法子。

中曽根康弘の正体を明かすと、私の母方の祖父の小野百之助である。
京都大学医学部の腹部外科出身の外科医だった。
娘の登始子(私の実母)は髪が長く、小野百之助は国学の立場に立っていることが分かる。
一方、私の父は漢学(儒学)の立場に立っている。
小野百之助(中曽根康弘)と私の父は、本来、生涯にわたる盟友であったが、国学の立場から中曽根康弘は私の父に「本居宣長」を贈っている。
伊藤仁斎と荻生徂徠の和解の印として作られた「不動明王」をアクィナス復権の報を受けた尾道の上野重治(平山郁夫)は、広島生変図として描いている。
小野光太郎復活せり、この知らせに中曽根康弘と石原慎太郎の国学と漢学の和解のために平山郁夫は持ち出したのだ。




遊佐道子(私の父方の祖母)は、非行に走った私の姉を「浅香唯」としてデビューさせている。
そもそも、私の母方の祖母小野元(はじめ)が、両親に「田畑の質」として売られたことに大審院判事の三島中洲が「借金を踏み倒しても良い」という芸娼妓契約事件判決を下してのご縁で、小野元(はじめ)が、自分に自信がなかったことから「親にされたことを娘にもしてしまう」ということになった。
細かい芸名は伏せるが、私の母に自信がなかった時期に必ず浅香唯は活動を活発化させている。
1987年に私はホテルでの面接など厳しい難関を乗り越えて留学を決めている。
1990年には東京大学文科一類に合格している。
母に自信のあるときに浅香唯(私の実姉)は活動が下降線を迎えているのだ。

【おニャン子クラブの伝統であったABCの順番を確定させソクラテスを真理であるとした曲】
浅香唯 C-girl.

私の妹は倉木麻衣として活動している。
たとえば高見山という外国人力士のスポンサーがニクソンであり、しかし高見山はそのことを知らないという具合に「どこにどのような応援団がいるか分からない」というのが芸能人であるが、遊佐道子の「幻の恋人」が西田幾多郎であり「善の研究」も遊佐道子が書いていることから、遊佐ネットワークは全員、私の応援に回り、倉木麻衣は「テレビに出るお金がない」という状態に陥っている。
母がそのことにどれほど不満を抱いていたかは想像に難くない。

【私は痛くてセックスができない体であるが、恋心は芽生える。でも深い仲にはならない。巨乳であるためにレズビアンのパートナーもいない。それが私の秘密】
倉木麻衣 Secret of my heart.

小野重五郎(石原慎太郎)は、広島の耕三寺で中学時代を過ごし、風呂や書斎のある大きな屋敷で勉強して、日比谷高校に合格している。
広島の耕三寺館長の釈孝三さんは「言えないこともある」としているが、浄土真宗とは石原慎太郎という「王子」が女の子と話して回って論文を書くことで国の税収を豊かにするという教えであり、現在は「お母さんに感謝しなさい」ということを教えているようだ。


エバレットは「線形代数」と呼ばれる「予測できない波のメカニズムのぶつかり合い」を示したが、オペレーションと言っても、角度が異なるエネルギーを同一線上に乗せるとは表現できても、その「角度の違い」だけでなく、いろんなものが「波」となってしまうために向き合っているオペレーションの「効果」は「やってみなければわからない」と指摘している。
ミッドウェー海戦の何がいけなかったのか?
それは議論ではない。
国内の様々なイベントを評論し、源氏物語を書き、お金を集める、その作業に「何がいけなかったのか?」という問いかけは的外れだ。
できる限りのことをやったら「ぶつかり合う波」は「やってみなければ分からない」ものなのだ。
昭和天皇が「ソルボンヌ」の限界を感じることは当然あったであろうし、「英語づかい」のアクィナスに期待したのは事実であろう。
アクィナスは、高校一年生の時に留学を決めたが、小論文で「中曽根も二階堂も留学している。俺も留学させろ」と殴り書きをして帰ってきた。
窓の外に見える皇居まで小論文が届くとは夢にも思わなかった。
いずれにせよ昭和天皇の頭にあったのは「翻訳と文明批評と波の大きさをどのように生み出すのか?」ということであり、比叡山延暦寺(天台宗)は、「教義は特にない。神聖な場所に顔を出すように」と教えている。
波を生み出すためには「決意」が必要であるとも言われる。
特定の女をヒロインに祭り上げることが必要であるとも言われる。
今年のワールドカップを振り返ってみると、紀州のドンファン事件では見事にヒロインが踊ってくれたが、西郷どんではヒロインへの強烈な愛着は生まれたのか?AKB総選挙でヒロインたちの真実を正確に描き切れたのか?(貧乳レズビアンなど)の反省点は出すことは可能だ。
しかし、ベルギー戦の敗北(決勝トーナメント)も「やってみなければわからない」ものであるし、勉強の度合いも全ての司令官が発展途上なのである。
世界の「戦争ポテンシャル」がワールドカップでは表面化するが、その時に「ヒロイン」が男たちにどれほど祝福され、女たちのレズビアン志向にどれだけ吐き気をもたらすのかなどは全く予測できない。
最近のワイドショーネタをどれほど「決意」をもって解釈するかが問われる。
女たちは「巨乳ヒロイン」など望んではいない。
これらのことが「ご時世にマッチした」文明批評と翻訳からかなり偶然に頼った「波」を生み出さざるを得ないのだ。
「ミスワールドという女がいる」
それが担保?
このような高度な学習を紀州のドンファンはもたらした。
「デフォルトを引き起こしたら、どの女にいくら払ったかがか全て保証人にバレる」
それが保証の問題点?
いろんな学習を人々にもたらしながらヒロインを踊らせた。
巨乳ヒロインへの女たちの吐き気との戦いであり、それはもはや「予測できない波のメカニズムのぶつかり合い」なのだ。
今となってはAKB総選挙の「貧乳レズビアン」をもっと煽っておけばよかったとも思うが、男たちのど真ん中でヒロインが踊るとは限らない。
多くの国々が世界でしのぎを削っているが、「アメリカ合衆国へのアクセス」だけはどの国も死活問題とみなしている。
発展段階が進むと、スタンフォード大学も「論点探し」に苦労すると思うが、囲碁でも「視野が狭い人の方が強い」とも言われるように、「博識な人は多くのものを見落とす」という可能性は指摘していい。
平成の天皇はどこから来たの?と思うだろうが、私の父方の祖父・小野鉄之助(昭和天皇)が可愛がった佐田の山である。
佐田の山の妻・美智子の弟の英遠が鉄之助の三女・杏子と結婚した縁で、天皇となっている。
佐田の山。

1987年にアクィナス(小野光太郎)はアメリカに留学しているが、その時に、野口英世記念館の"Mikoto"と福沢諭吉記念館の"Junko"と出会っている。
留学メンバーのムードメーカーのような女性たちだった。

山崎闇斎は、髪の短い女(陰)と髪の長い女(陽)という区別をしてみても、髪の長い女でも貧乳ならばレズビアンであるとし「陰陽五行説」と呼ばれた。
また、セックスができる女はいい香水をつけているとし、これを「気」と呼んだ。
新井白石は「いい匂いのする女など九州にしかいない」としている。
このことは皇統の威信を大いに傷つけた。
長崎は今日も雨だった。

ナオビノミタマとは、髪が長くていい匂いがする女を育てる学問であったが、クズバナ、タマクシゲなどを貢いでもらえる立場にあった。
藤田東湖や会沢正志斎は、日本国が中国よりも優れている理由として、セックスができない高貴な女と、遊女のような女が共存していることを指摘し、のちにロマン主義文学が「髪の長い、いい匂いのする女」をセールスに出した。
重要な視点は「男に愛される女」が男女の比率で等しく存在している状態が一番、経済力にまさっていることを意味し、髪の長い短いだけではなく「胸」まで含めて「五行」とされていることだ。
本人に「幻の恋人」はいるのか?「自分で自分を口説く夢を見るのか?」などから貧乳の女でも「女になれる」かどうかが決まるのだ。
赤木元(中曽根蔦子)は貧乳であったし、私の母も貧乳であったが、「育て方」を間違ってはならないと考えたのが国学である。

小野百之助(中曽根康弘)の長男の晃嗣は、菜食主義者として知られ、家畜がどれほどの穀物を無駄に消費しているのか?水を消費しているのか?そして最後にどんな残酷な殺され方をしているのか?を語った。
酒はよく飲んだが、とにかく菜食主義だった。
長女の匡代が横浜に遊びに来た時にマクドナルドのハンバーガーでアレルギーを引き起こしている。
三女の薫はなんともなかった。
肉を食べるのは間違いなのか?という議論は「肉を生産するのは間違いなのか?」という議論と直結する。
しかも「政治活動」となってしまうのだ。
野菜シスターズ AKB48。

アレルギーというものは「自分以外みな罪人」という発想から生まれるが、中曽根康弘は子や孫たちに囲まれたものの「痛風食」を食べることを強要されている。
肉を食う男は「自分よりも劣った命」を想定している。
とにかく小野晃嗣の前では「戦い」の話はしてはならないのだ。
これが中曽根弘文の正体である。
痛風で肉が食えない、このことから「自分よりも劣った命を想定する」「戦う」ことを否定するようになっていた。
アボガドじゃねーし。

魚は苦痛を感じないということから魚は食べてもいいが、実際は痛風食であった。
しかし、他人に痛みを与えてまで何かを成し遂げようとは思っていなかった。
とにかく、食生活の違いから、中曽根弘文とアクィナスは反りが合わなかった。
中曽根蔦子(赤木元)とも「とんかつ定食」を京都で食べている。
肉を食う家には上がれない、これが中曽根弘文(小野晃嗣)の政治力の限界であった。
「女と肉が食える」
それだけでモテることが分かっていたため、食べ物をめぐる喧嘩ばかりしていた。

ドゴールはサルトルの弟子だったが、バスティーユ刑務所の女たちが「ドゴール」という名前さえ出しておけば、身の安全が保障されるために、女たちの「僕たち」に名を連ねることで影響力を増した。
ドゴールは、フランスのレジスタンスに参加したり、イギリスに逃げたりしている。
しかし、女たちがもし「友達ではなく恋人」(セックスした)と判断したら、多くの女たちの「僕たち」に名を連ねることはなかっただろう。
浜崎あゆみ SEASONS

「僕たち」と呼んで女が仲間に含めた男とは何者なのだろうか?
「女に詳しい男よ?」
みんなが顔を知っている男で、「今の問題」を解決する力量を持っている男。
ドゴールほどバスティーユの「多くの問題」と向き合った男はいなかった。
そのため、どの女も問題が起きるたびにドゴールの名前を出した。
友達と恋人の一線を越えることはなかった。
三浦理恵子 グッバイフレンズ

医者と患者の間に「友情」が芽生えたら、患者の病気が医者にうつる。
そのため、医者と患者は友人ではない。
しかし、ドゴールは患者の友人であり続けた。
同じところが痛むのが友情だと悟った。
ルサンチマンを持って「うわー!本物だ」といってバカにしてみても感染症は治らなかった。
それほど、ドゴールは患者を愛したのだ。
酒井法子 All right

患者の病気を「真空管」で飲みこんでいるようだった。
ソクラテスの「産婆術」は、まるで子供を産んだからアレルギーが治ったという女の息子のように、女たちの病気をうつされ、そしてそれを真空管の中に閉じ込める作業だった。
どのようにうつされた病気を「真空管に閉じ込めるか?」
それは、「いろんなものを食べたり飲んだりする」しかなかった。
自分で「彼女たちの病気はこんな感じか」と思ったらいろんな飲み物を飲んでいた。
腰痛でも、禿げでも「うつされる」ため、いろんなものを常に飲んでいたのがソクラテスだった。
元有名人たちの「友人」となり、人生トータルで見れば割に合うことが「病気を共有する」ことであり、常に飲み物を飲むことだったのだ。
「辛気臭い連中だ」と思われていた元有名人の友人となるためには「真空管」が必要だ。
そのようにして、論文を書き、いじめの話を得意とし、元有名人の相談に乗った。
ドゴールは、ひたすら医学鑑定書を書き続けた。
患者たちの友人として、免許制のもとでは医学部を出ていなかったために、「9割の確信が得られる民間人」として、裁判上の鑑定人の立場に身を置いたのだ。
その信頼感は絶大なものがあり、女たちが「情を通じた」などとデタラメばかり言っていたので、ひたすら正確なメッセージを発信し続けた。
しかし、娘たちの中には「母以外の女を愛している」という感情が根強かったようだ。
女たちの噂話から家庭が崩壊する鑑定人がいたため、現在では「どんな鑑定を下したのか」を明らかにしていいという具合に制度は変わった。
「鑑定書を読ませてくれ」という人が大勢出たのは事実だ。
「公表していいのかいけないのか?」だけでも「鑑定人」たちが「腕比べをしてやろう」というメッセージとなった。
鑑定人が「9割の確信」をもたらせてくれるかどうかはこの制度の運用にかかっている。
かつては、古畑種基のように「冤罪による絶版」を引き起こした人もいる(「法医学の話」岩波書店)。
どうしても「司法の場」に専門知識が必要だったために、鑑定人の「腕比べ」をできる仕組みが必要だった。
「秘密秘密」を重視する民事訴訟法がこの部分では心を開いたのだ。
ドゴールは「彼女たちは私の母のように病気をうつしてきた友人であり、知性を愛して突進してくるのだ。決して深い仲ではない」と鑑定の問題点を指摘している。
「女たちの噂になったら大統領になれる」と考えたドゴールが、文系の男として医学を学び、鑑定人の道を選んだことが、現在の日本国の民事訴訟法でも参考にされている。
本来、医師免許がなくても信頼の置ける人物が鑑定人となって政治力を高めていたのだ。
「9割の確信」を心証と呼ぶのであればそのように政治家が考えるのも当然だった。
「文系外国語通」としては、英語が堪能であれば国内の専門医顔負けの力量を身につけるのは目に見えていた。
しかし、鑑定の対象となって命を救われた女の「想い」の盲目さだけは想定外だった。
ルネッサンスカトリックの到来であったし、タルムードの到来だった。
「文系外国語通」に人生の道筋が出来上がったのだ。
愛の炎 田中れいな

病気とは「食うか食われるか」「生きるか死ぬか」の問題である。
そこに「光」が差し込んだだけでも、女たちは「歓喜のあまり仲間たちに話して回る」ものだ。
この時に「女たちも本当は知性を愛していた」ことをドゴールは悟った。
周りの女の中には「目を伏せて」通り過ぎる女もいた。
どの女も知性の中には「半分だけ純粋」だったのだ。
二分の一の神話 中森明菜

「知識」というものは、必ずしも「訴えかければいい」というものではない。
自分が何を考えて、どんな鑑定を下したのかを明らかにしなければならないのだ。
妻への義務を果たすカトリックの世界で「知識のルネッサンス」が引き起こされた。
奔放な男ならばそもそもが、鑑定の問題意識を政治の世界で共有することはなかっただろう。
鑑定人が、女の「知性への情熱」に追いつめられ、家庭崩壊するのであれば、「家庭を守れない禿げた鑑定人」として、力量があればあるほど、その力量が疑われることになる。
1989年にアウディの社長が「鑑定人としては信用できない」と言われ、「AT車の暴走」などという奇妙な噂をアウディという車に語られた。
免許のない「文系外国語通」としてのドゴールは、すべての「女たちの物語」を回想(リコール)して、鑑定と政治家の関係を明確にした。
今では、「一回目の車検を通らない車」を「リコール」と呼んでいるが、本来は、アウディの社長が「女たちの物語」を「回想」(リコール)したことに端を発する。
女たちは「病気の世界に光が欲しかった」とも言われた。
病気の治し方についてだけは正確に覚えていたからだ。
「医者がどれほどお給料をもらっているか知っている?」
女たちは「お金」の意味を正確に理解していた。
いろんな医者を渡り歩き、いろんな専門医を見てきた挙句に「鑑定人」と出会ったのだ。
自分がどれほどの金持ちになったかも女は知っていた。
「体で理解しているのは私よ?」
男の方から知識で歩み寄り、女の方から「経験」で歩み寄った挙句の「富」であった。
どの医者より自分が優れているのかも女は詳しかった。
あとはお金の話は自分の経験談となる。
男が女を愛する気持ちを利用するのが経済だとするのであれば、学問もおのずから「モテる方法」「女の子にいいアドバイスができるようになるテキスト」を選ぶようになる。
キルケゴールが「いい先生」として選別した哲学者たちから目を背けようとする政治家はいない。
金を持っているか、貧しいかはおのずと「異性を愛する気持ちがあるのか?」で区別されるようになる。
女の子と接していると、どうしても「治めなければならない」場面というのはある。
そのような時に「読んだ話」を使わない男はいない。
資本構造を利用し、攻撃的に企業を買収する経営者がいても、日常の「女の子との接し方」を知らなければ金持ちにはなれないのだ。
裸一貫で「どれほど女性たちの支持を得ている男なのか?」が試されるのであり、「俺でもできる」という企業経営とは異なり、「女性にモテる」というのはその人の知性の特権だ。
SPEED DEEP BLUE & TRUTH

男女が共存していて、そこに「治める」という男の役割があるとする。
なぜ、企業経営が成り立つのか?
男の人望はおのずから明らかではないか?
あるいは年収もおのずから明らかではないか?
カメラマンがコンピューターの使い方を女の子に説明しても、それは「いいアドバイス」「治める」ためのツールに過ぎない。
人間関係から収入というものを見ているのであって、写真のセールスよりもそれは大事なことなのだ。
車の試乗は大事な仕事だ。
車のセールスよりも「人間関係の構築」が収入につながるからだ。
「車」「写真」どのようなメリットを持っているかは人それぞれだが、人間関係を重視しない社会人はいない。
「お会計」でぼったくって喜んでいるうちは、独立など到底かなわぬ夢だろう。
「全人類は平等だ」「女は高く売れる」
この二つを踏まえなければ収入は増えない。
アダム・スミスが「社会の歯車になれ」と言っただろう。
人ごみ雑踏にまぎれなければ男女が共存する場に身をおけないのだ。
書斎だけで執筆して金儲けなどできるわけがない。
プロセス的憲法観はそのようにして成り立っている。
一方、実体的憲法観と言うのも確実に存在する。
カップルとしてどのようなことを信じたらいいのか?どのようにしたら優しくなれるのか?
を、書斎人として探求するものを実体的憲法観と呼ぶ。
しかし、そのためには「私の本を読めば弁護士になれる」という発想が必要になる。
普通の社会人ならばプロセス的憲法観に立つのは当然だろう。
トマス・クーンは「恋わずらいこそが成績を伸ばし、いかなる病気も治す」と割り切っていた。
キーワードは「優しい男」だったのだ。
私は知恵の輪 うしろゆびさされ組

しかし、これもプロセス的憲法観の立場だろう。
日常の社会生活において起きることであり、毎日、出勤していれば健康であるという社会人はたくさんいる。
それでも、クーンは「恋わずらいこそが成績を伸ばし、いかなる病気も治す」とした1962年には「科学革命」と呼ばれている。
好きな男性家庭教師が付いたから成績が伸びたとか、奥さんがいて満足に恋もできないから病弱だとか、いろんな指摘が可能である。
悪いことがひとつあったら、人間はいいことを三つ欲しがる、自分が気分がいいと相手は気分が悪い、などの話題や、大勢の男女が大騒ぎするからいじめないでください、などの相談に乗れるほどの器が必要になってくるのが「恋わずらい」である。
とにかく、殺伐とした家庭は病に満ちている。
病人はとにかく「惚れっぽい」のも事実だ。
奥さんがいて満足に恋もできないのならば、昔のアイドルのPVになら奥さんも怒らないだろう。
目標を持った男は、はたして「優しく」なれるのだろうか?
方法論上の迷いがないこと、同じ方法を続けられること、将来の見通しが明るいこと、方法がよりシンプルであること、などが女の子に優しくなるためには必要だ。
ガリレオが「それでも私は動いている」と発言し、心の動きは誰にも止められないとした時に、カトリックは激怒している。
望遠鏡を考えるほどの天才なら浮気をしてもいいのだろうか?
松田聖子 スター

そのことから、カトリック教会も「偶像崇拝の容認」へと舵を切った。
「恋心を忘れた人間は病気になる」
アインシュタインが考えた物理学は、アブラハムという「重力より重い命」、ゲームセットの直前の「光より速くなる瞬間」を想定したものであり、
偶像崇拝の世界を非常に豊かなものにした。
軽い命は「敗北」を認めようとせずに、しかも、ゲームセットを平気で引き伸ばしにしたのだ。
メジャースポーツの世界で「マトリックスのスローモーション」は語られているのだ。
マトリックス 銃弾をよける

恋心は病気を癒す。
男女がメジャースポーツに群がった。
男たちは「贔屓の球団を勝たせよう」と思ったし、女たちは選手に恋心を抱いた。
家族に病んだ人がいる男女も「ゲーム」を楽しんだ。
女がパンツを脱ぐ瞬間と、どの女も同じだということが分かる瞬間に、プランク定数(h)が存在し、hvつまり、プランク定数は速さとかけることにしたのだ。
背中まで45分 沢田研二

プランク定数は6.63×10^-34であるが、このときの興奮に、男の「速さ」が割に合わない時期がある。
「優しくする」
これだけで本来は解けるものであるが、「輝いていたから近寄れなかった」という男も存在する。
CoCo メロディー

このあたりにDNAというものが介入しているものと思われる。
「親父の人生を正当化しなければならない」
どの女も芸能界に憧れている。
男社会の真剣勝負に憧れているのと同じ意味だ。
当然、プランク定数にかける「速さ」が速すぎる男というのは存在する。
恋わずらいをすれば健康にいいという問題からメジャースポーツを作った時に「輝いている男」が生まれるようになった。
「DeNAベイスターズとかいうのならば関わらないでください」という女もいる。
そのようにして「偶像崇拝」というものはメジャースポーツも含めて容認されたが、カトリックが「鑑定の問題点」を明らかにしたのだろう。
偶像よりも実像の方を愛した方が影響力をもてるのではないか?
偶像は「いい燃料」にはなる。
しかし、実像の方が勝っていると考えているのがカトリックだ。




画家〜高橋朋子。

2018年10月22日 (月)

ハロウィンについて。

ハロウィンというのはアメリカ大統領選挙と関わった概念でね。
2016年のアメリカ大統領選挙でヒラリー・クリントンが負けるかは、前の年のハロウィンには分からなかったのだ。
「男の子に彼女を与える」「女の子に彼氏を与える」これが政治だとすると、前の年のハロウィンは巨大政治ショーとなる。
ハロウィンナイト

カップルが「信じているもの」というものがある。
ハロウィンで誕生したカップルが「翌年1月までに別れなければ」という条件が大統領候補には課されることになにならざるを得ない。
クリスマスでは時間が短すぎる。
そのためにハロウィンというものは生まれたのだ。
アメリカのすべての教会建築が「1月の月と凍った森」が見れるように作られている。
自分の「信者」をいかに増やすか?
世界はすべてアメリカ大統領のために動いているのだ。

子供たちは各家庭を訪問して「トリック・オア・トリート」と言って回る。
大人たちは、パートナーとともに「子供に施し」を与えるだけの「雇用と健康」がなければならない。
ハロウィンからアメリカ大統領選挙までの「2ヶ月間」は、どの候補者も真剣に雇用の問題と医学の問題に向き合うのだ。
大人たちは、「1月までに別れない」ために、雇用と健康の問題を大統領から聞こうとしたし、子供たちは容赦なく「トリック・オア・トリート」と言って、大人たちを煽った。
仕事をサボって渋谷のスクランブル交差点に出ても、雇用と健康の問題はアメリカ大統領に任せておけばいい。
どの企業も「ボッタクリ」をやっている。
女の失恋ソングは売れているのか?
セールスが伸びないのであれば、「女の失恋とともに泣くつもりはない」のではないか?
これが「雇用の問題」である。
小田急デパートのエレベーターガールの問題とも言われ、女の失恋ソングがビッグマネーにならないのであれば、企業はボッタクリを止めるべきだとされる。
優しさに帰れない

1960年代から1980年代にかけて、「女の失恋ソング」が売れまくった。
この時に、「女の失恋ソングがビッグマネーを生み出すのであれば、株主利益最大化論を支持せざるを得ない。ステークホルダー論を取るわけには行かない」という議論がなされた。
今でも、東京大学は株主利益最大化論を教えている。
つまり、「女の失恋ソングのセールスはいまだ健在」と考えているのだ。
このマーケットの資金が空になるまで、企業のボッタクリは治まらないし、雇用も保障されるだろう。
国全体の富のあり方を全体的に眺める力量が「雇用」の問題なのである。
「女の失恋ソングの生み出す富」と絡むことができなくなったのならば、企業のボッタクリは止めろという氏神も出てくる。

現在は、「女の失恋ソングが生み出すビッグマネーに付くべきなのか?それとも、企業のボッタクリを止めさせる時期なのか?」
このことへの「嗅覚」を的中させるのがハロウィンから1月にかけてであり、毎年毎年、大統領候補には「訓練する期間」が与えられている。
二つの「マネー」を天秤にかけなければならないのが「雇用の問題」であり、それを理解し、芸能界にも精通していなければならないのだ。
松田聖子 風立ちぬ

庶民からしてみれば、車を銀行に止めて「口座にお金があるかどうか?」の問題に過ぎない。
なにしろ、キリスト教国においては、労働というものは「アットホームな雰囲気で、飲みながら、異性と話す」だけなのだ。
あとは、大統領の嗅覚次第だ。
「女の失恋ソングの生み出すマネー」に付くか「企業のボッタクリを止めさせる」かを高度な政治意思の立場から眺めなければならないのだ。
今の、東京大学は「企業の社会的責任」「CSR」と真剣に取り組んでいる。
刑事罰まで検討する動きもある。
しかし、「女の失恋ソングが売れているうちは、クライアントもお金があるのだろう」という企業が多く、今、ボッタクリを止めさせたら失業率は12%とも言われる。
「女の失恋ソングマネー」を縮めていかなければならないし、この「お金の循環」の回転を止めなければ、企業はクライアントからお金をボッタクリ続けるだろう。
株主利益最大化論とは「会社外の異性とは恋愛しない」という意味でもあり、ステークホルダー論とは「会社外のクライアントともセックスする」という意味であるが、すべて、「身内だけでクライアントを笑いものにしていいのか?」という問題意識からくる。
大きな「お金の循環」を見ていかなければならないし、「会社外の異性をどう思っているのか?」という指標も見ていかなければならない。
私が関わっている病院では、スタッフと患者のセックスは「98%ない」とされている。
インフレ退治(感じなくなる女をなくす)のが自由民主主義政党の仕事であり、とにかく「王子さま」として口説き文句を考えなければならない。
社会民主主義政党は、「雇用問題」を専門にしていて、「女の失恋ソングのセールスと企業のボッタクリ」に詳しい。
政治(女心の定義)というのはだいたいこんな感じでやるんだよ。

革命というのはつまりは「どの女の子たちとも仲良く話そうよ」というのをマルクスは最終的に目指している。
キリスト教の「アットホームな雰囲気で、飲み物を飲みながら、異性と話す」というのが仕事であるというのとなんら違いはない。
女の子たちは「男らしさ」を「父と息子の関係(神は死んだ)」などから語り合い、男たちは「女心の定義」を女の子たちに話して回る。
それを「産業」と呼んだのだ。
それでも、政治学は練れてくるし、宗教マネーも膨れ上がる。
産業というものがまだ日本に根付いていないという意味では、マルクスの目指した境地には至っていないし、共産党が「八時間働いて楽に暮らせる社会」というのは「産業」というものをよく練り直さなければならない。
「働くってこんなに簡単なことなんだよ」ということをよく大人たちも理解しなければならないのだ。

アブラハム・イブン・エズラは、マルクスが「商品」=「女の体」としたように、そもそも「お金」というものは、「宝石」を買うためにあるものだとし、玉ぐし(アマテラスの髪飾り)のためにお金というものは払うものだとした。
ヘブライ語聖書においても、ラテン語聖書においてもその考えは一貫しており、ヘブライ語においてはAHYHをうまく使いこなすのがYHWYであるとされた。
「A」とは数字の始まりであり、「H」というのは「5」を意味し、「W」というのは「6」を意味し、「Y」というのは「10」を意味する。
AHYHとは「1」「5」「10」「5」を意味し、YHWYとは「10」「5」「6」「10」を意味する。
女神と、アブラハムの「数字のボリューム」の違いとはこのような感覚がするものだ。
数字があまりにも少ない女神に対して髪飾り(宝石)を贈ることをビジネスと呼んだ。
「女は、好きなことしか知識にしない」というのはこの数字の力を見れば分かる。
少女時代 Gee

創世記18:21 男女の共存の中に仕事が見つかる。

歴史を紐解いたら賢くなれる気がするだろう。
しかし、男女の共存の中でみんな仕事をしていたのだ。
男が常に女に「宝石」を贈ることで成立していた。
teacher teacher AKB48

伝道の書7:9 怒る男は常に損をするだろう。

怒らずに「常に宝石を女に贈り続ける」のが男の人生なんだよ。

テロリズムというのは「雇用の問題」(女の失恋ソング)と密接に関わっている。
古くはジャコバンなどが「高貴な人間の殺害」から新体制をスタートさせて、体制保障のためにテロリズムを用いていたが、1880年から1890年のフランスやスペインでもこのことは確認されている。
ナチズムやボルシェヴィキなども、警察力の強化に都合がいいとしてテロリズムを利用した。
しかし、日本国へのアメリカ合衆国からの空襲が、日本国に「情念系」「女の失恋ソング」を定着させる理由となったものと考えられている。
911テロでは、日本国の首相(小泉純一郎)までもが、「テロと戦う」と発言し、「女の失恋ソングの側に立つ」ことを表明している。
つまり、企業のボッタクリ(CSR・企業の社会的責任)の問題は2001年に急激に力をつけた問題だったのだ。
ファイトテロリズム 小泉首相

911テロは「無差別にいつどこで行われるか分からない」テロの有効性を示した。
高貴な身分の者の暗殺よりも庶民は「自分たちのもの」として引き受けることが分かったのだ。
人々が複雑に頭を使ったのは「自分たちの問題」であり、どこかで地震が起きても耐震工事を行ったりした。
NEWSな未来 CoCo

テロリズムは間違っている。なぜならば、その対象となった人物の周辺の「お金の流れ」が止まってしまうからであり、相当程度の混乱が引き起こされる。
いろんな人が、特定の「生きている人」を念頭に生活を成立させている。
そのことがいろんな意味で混乱する。
そのために、テロリズムは間違っている。
しかし、無差別テロなどは「女たちが失恋ソングや情念系を共有する」機会となり、雇用の問題と密接に関わるのだ。
「これでauのボッタクリが横行するんだろうな」とため息をつくしかないのがテロのニュースなのだ。

2018年10月20日 (土)

男は女のどこを見ているであろうか。

「女」と「女性」の違いは、仕事を一緒にしたとか、テレビで見たとかの理由からアナボリックというものが生じ、「女性」になるとされる。
それでは、「女」と「女らしさ」はどう違うだろうか?
アウグスティヌスは「女らしさというものは狙うと危険なものだ」としたが、アクィナスは「それは可能性の世界だね」としている。
カントは「ようするに、定言命令とはそのようなものを探求したわけだ」としている。
サルトルは「男の自由は奪われるだろうね」としている。
マルキドサドは、そのような概念を探求して道を間違えたとされる。
【痩せた頬は女らしいとされている】
ribbon Be My Diamond

「女らしさ」は「触らなければ分からない」と言われ、痩せた頬を彼氏に触られることから「女らしさ」がここに表現されているとするのであればかなりの上級者であろう。
彼女の頬を触る習慣のある男であるのならば、「痩せた頬」でマスターベーションすることもできるであろう。
「いちばん女らしい子」
というのは何を基準に言っているのであろうか。
「痩せた頬」「みんなが写真で抜ける」「女の頬を触る習慣のあった男たちがいる」
このことから生まれた表現なのだろうか?
いずれにせよ、「実践理性の定言命令」とはこのことをひたすら探求したのだ。
望月まゆ ノックミー~あなたを越えたい

あるいは、「キスをする時の習慣」から「痩せた頬」が女らしいと判断する男もいて、
写真家も、被写体の女も、そのことをよく理解しているのだろうとされる。
「痩せた頬」の次に「女らしさ」を挙げるとすると「ピュアな瞳」「じっと見つめる目」であろう。
杏里 Sweet Emotion

キスやセックスをする時に「見つめ合わない」カップルはいないとされ、そのことから「ピュアな瞳」も「抜ける」「女らしい」とされたのだ。
アウグスティヌスも、アクィナスも、プラトンも、カントも「ピュアな瞳」だけはダメだねと言っていた。
まるで、幼子の頃に「母にじっと見つめられた」経験からどの哲学者も逃れられないかのようだった。
母親に紹介できるような女を男は「好み」と言っているのであれば、「男を見つめる」というのは女の基本だったのだ。
河合その子 パラディラタンの夜

フェラチオは決して「女の性的欲望」は満たさない。
お金目当てなのだ。
電話で「ちんちん舐めたい」と言われても、それは「お金目当て」「仲間に引きとどめておく」のが女の目的であり、決して「性的欲望」からくるものではない。
大勢の女にモテる、特定の女に思われている、特定の女に触った、女とすれ違った、などが、男がマスターベーションをする理由であるが、女は「おしっこをする喜び」だけでマスターベーションができる。
「ちんちん舐めたい」と言って「おしっこする音」を女が電話で聞かせるのであれば、そこには「性的欲望」があるといえる。
男は「美しい女が見たい」といって映画を見るが、女は「セックスした男の思い出」を探すために映画を見る。
なんにも言わずにI Love You

女は、好きな男がこよなく愛した映画のヒロインになりきろうと思った。
胸のサイズから何から合わせたのだ。
「アジアの女には罪はない」とも言われた。
女は上半身で、男は下半身だとも言われる。
男が上半身でロバート・デニーロの真似をしても「ゲイ」とは言わない。
しかし、男が上半身で「女優」の真似をしたら「ゲイ」である。
女が下半身でロバート・デニーロの真似をしたら「レズビアン」である。
女が下半身で「女優」の真似をしても「レズビアン」とは言わない。

分かりやすく言おう。
「女になりたい」という男がいたのならば、まず「上半身」を女にするだろう。
「下半身」まで変えるのであれば、下半身まで「女」であり続けるだろう。
「男のコになりたい」という女がいたのであれば、まず「下半身」を変えるだろう(ペニバン)。
「上半身」がそもそも「男のよう」なのではないか?(レズビアン)

【本物のレズビアンは乳がない】

「痩せた頬」「ピュアな瞳」は少なくとも「男のもの」ではないのだ。
トーマス・ハーンズ

「上半身が」「女になりたいほど華奢である」これがゲイの秘密だ。
「上半身が」「男になりたいほど貧乳である」これがレズビアンの秘密だ。
要するに「セックスの失敗」を経験しているのだ。
これらを誤魔化すために、マッチョな男やセクシーな女をイベントに連れてくるしかないだろ。
どの世界にも「多数派工作」というものはあるのだ。
広い肩幅は男の特権

私は若い女の子に「恋の話をしてください」と言われて「歌のモデルのようなカップルならば一生食べるのには困らないよ」と答えたことがあるが、
要するに「ゲイになりたいほど上半身が華奢な男」「レズビアンになりたいほど貧乳な女」であっても、強烈な義務感を持って「異性」と向き合わなければならないという意味である。
松田聖子 赤いスイートピー

アウグスティヌスは、「告白」において、「皮オナニー」を告白している。
つまり、「包茎である」ことのコンプレックスから、知性を発達させて、貧乳レズ女が興味がある「哲学」で意気投合するのを待ったのだ。
自分の身体的コンプレックスから「知性」を求め始めるのは貧乳女に良くあることであり、貧乳ならばまだいいが、小さなおちんちんがついた女もインターネットを徘徊していた。
そのような女が「知性」で意気投合できるパートナーを求めていたのだ。
「女の園」AKB48入部の条件。

バスター・キートンも、チャーリー・チャップリンもドイツ系の包茎であったが、
とにかく「ユニークさ」を競い合った。
彼女が欲しかったんだろう。
しかし、カントは「海に行けばそんなことはどうでも良くなるよ」としている。
貧乳すらどうでも良くなるとしたのだ。

アクィナスが東大文一に合格した時に、祖母の遊佐道子が大慌てで曲を作った。
「あなたは世界で最底辺の人間なのよ」
そのようなメッセージを「白」に託した。
多くのきらびやかな色がある中で、アクィナス自身もそのように学習した。
「自分は世界で最底辺の人間だ」
遊佐は「駒場でだけ。語学を真面目にやればいいだけ」と考えていたようだ。
酒井法子 ホワイトガール

語学さえやっておけば、弟の相澤会長がこよなく愛した「ペロポネソス戦争」も分かるようになる。
世界の最底辺の人間を「オタク」と呼ぶのであれば、オタクになって欲しかったのだろう。
しかし、語学を勉強するのは義務だと遊佐は考えていた。
法学部なんてつまらん。
人々の心のつかみ方は私の方が詳しい、遊佐はアクィナスにそのように言いたかったのだ。
人々の心をつかまなければ、東大法学部には何もできまい。
アクィナスの父を「石原慎太郎」と呼んで、大都会に売り込んだ遊佐道子は、認知症になっても、心身ともに鞭打って戦ったし、アクィナスを導くことを生きがいとしていた。
ディオドロス・クロノスは、遊佐道子の意を汲んで、アクィナスに多くの音楽作品を聞かせることにした。
アクィナスは、部屋で法律学を勉強していたが、音楽作品を愛した。
クロノスチェンジ(転職)とは、ファイナンスを身につけたものが行うものであり、版権などほとんどない音楽作品を聞きまくらなければ、クロノスチェンジはできない。
今は、国の限界を知りなさい、いずれ、いくらでもクロノスチェンジができるようになる、そのように、遊佐はアクィナスに「年の功」を見せ付けた。
CoCo 夏空のDreamer


【つづく】

2018年10月 7日 (日)

教育。

日本国においては教育とは「価値」を伝えるものだとされている。
価値とは「女性の局部」のことであり、これを簡単に伝えたのではなにも伸びないこともわかっている。
勉強やスポーツ、情報、人間社会でなされる「宣言」や、男をセックスから遠ざけてやろうといういじめ、そして自分が持たなければならない「影響力」、そして「女心を知ること」(政治)、そして女はより美しく、男はより賢くあらねばならないという形而上学、いじめを受けたものとして発する「言葉の重さ」などが「価値を伝える」ことにまとわりつく。
わけのわからない文法を黒板に書くだけでも「女性の局部」に少しでも近づけてやろうという教師の教えがある。
それがそんなに簡単なのであれば「低学歴」と呼ばれればいい。
教育とは「お◯んこ」を用いて行うものなのだ。
ノーベル賞を六つ取るというようなアメリカ高等教育は、ほんらい日本では想定されていないものである。
CoCo メロディー。

ポルノの誕生や、SNSの発展により、「お◯んこ」(価値)の伝え方は劇的に変わった。
第二次世界大戦の民族の存続はすでに決着がついた問題となり、東京大学も入学者の数が減ったというよりも「勉強に競技性がなくなった」のである。
「知ることの条件」という論文が1965年に発表されているが、「女と教えること」という論文も1973年に発表されている。
1961年には「言葉と教育の人気」という論文がある。
いずれにせよ、「女子」と教育は切っても切れないものであり、「英語を覚える必要性を感じない人」は確実にいる。
自身のアイデンティティを模索するなどバカげているとも言える。
「私を目指そうなどとは思わないでください。責任は取れません」
「私のテニスは少なくとも日本のものではありません」
大坂なおみ記者会見。

インストラクターならば、当然、「異性との出会いのために教えている」ということは明確にしなければならない。
女子に人気があれば教育はやりやすくなる。
しかし、1970年代にすでに「ペテロ」となるような男は大量に生まれた。
アメリカ高等教育の最高傑作がトマス・アクィナスであり、特別教育、宗教教育の優等生とはこのように生まれるものなのである。
教育は図書館でも美術館でも博物館でも家庭内でも可能である(女と接する機会がある)、スクーリング(教える)というのは全く異なるものである。
知識の蓄積とはどの世界においても必要なものである。
1971年のロールズの「正義論」(セックス論)は、身分制社会の消滅と、学歴社会の到来について記したものだ。
高貴な身分が学がないということは想定できないという「教育学」の方向性を明確にした。
また、教室から他の人を追い出そうという動きは、長い目で見たものでは決してなく、目の前の異性を見ながら行なっているものだとした。
しかし、「仕事」と関連する知識はすべて教育によってなされるものであろう。
そこで、「王室」つまり子供の頃から脚光を浴びる男児の消滅を予測したのがロールズだった。
多数派工作のためには教育が必要である。
しかも、物事を「治める」ためには知識が必要である。
「異性を目当てにさせる教育」とスクーリングは明確に区別しなければならない。
正確に理解しないと学級崩壊が引き起こされるのだ。
「象牙の塔」はスクーリングを重視しすぎてはいないだろうか?
もはや、教育ではなく「研究」となったらどのような発想が必要なのであろうか?
それは「セックス目当て」ではなく「恋愛戦争」の渦中に身を置くことだろう。
ribbon さよなら。


王子様(聖徳太子)と話をし、彼の心を知ると、アリストテレスという先生がいたり、女心をお金に変えるカントを知っていたりして、「俺でも夢が見れる」と思うことがある。
このことを「イマジネーション」と呼ぶ。
高橋由美子 イマジネーション

王子の心を知ると「セックスが気持ちいい」ということから、イマジネーションは用いられる。
聖徳太子は「女性」を美しく描かなければならない。
ナポレオンは「王子の心はつまらん」という周囲の声に応じて、女性をヒロインとした映画を多用した。
このことは、ケンドール・ウォルトンやフォックス・ケラーに影響を与え、映画というものそのものがナポレオンによって作られた。
ジュリエットは常にロミオの隣にいたし、女性の動画がなければ「王子の心」はどんなに知的でもつまらなかった。
女性に囲まれていなければ、王子ではないとも言われる。
知識を得たら、女性と対話しなければならないことがこのことから分かった。
王子の心を読み、王子はアリストテレスから教わったが、学ぶだけではつまらない。
女性と対話しなければ周囲は「つまらん、つまらん」と駄々をこねたのだ。
女は「パートナーがいても知識や力を生み出すために他の男の声を聞きたがっている」
このことから、デザイアーというものは生じている。
深い仲になってしまうと、元彼がリベンジポルノをばら撒くのだ。
王子と話したり、彼の本を読んだら「他の男を失恋させたい」と思うものなのだ。
こらえ性のない「大人」たちが「つまらん、つまらん」というのだから、ストイックな王子様(聖徳太子)も、いくら忍耐力が傑出していても、学んだら女性に話さなければいつか心を病むだろう。
中森明菜 デザイアー

中国には儒教、仏教、道教の三つの教えがあるが、老子という人物が紀元前6世紀に実在したかは明らかではない。
しかし、老子が「最高の女神」とされているという意味ではアマテラスと同じ位置付けであり、勉強(自然)と変な行動を起こさないこと(無道)をその核心部分の教えとしている。
司馬遷の史記に老子に関する記述がある。
道とは「恋愛遍歴」のことであり、美徳とは「治める方法」のことである。
周の時代に流行した。
いわば、「女性ボーカルの音楽作品を聴きながら勉強する」というスタイルを確立したのだ。
昭和の時代にアクィナスが実践していたことを、「成功事例」として中国が「紀元前6世紀の人物」としている可能性は否定できない。
道的清(ドテチン)とも言われる学習方法だった。
アットホームな雰囲気でコーヒーを飲んでウォークマンを聞いていたのがアクィナスであったが、聖徳太子は「敵地で飲まずに異性のことも考えない」という「教室」を考えている。
老子と聖徳太子は「イエスキリストの両極端な後継者」であるとも言える。
隋の時代に道的清と呼ばれる音楽作品がすべて皇帝に捧げられた。
現在でも香港、台湾、朝鮮、日本でも有名な学習方法であるとされている。
7世紀にサンスクリット語に翻訳され、18世紀にイギリスに紹介されている。
アクィナスが聴いていた音楽作品は、神聖ローマ帝国が作った音楽作品を日本国がパクったものであるため、ハイドン・ベートーベン・バルトーク・ストラビンスキーの偉大さを痛感せざるを得ない。
クラシック音楽が作れる力量があるのであればポップカルチャーを作れる。
これらの世界を、自然と無道の世界に持ち込んだのが道教である。
中華人民共和国が真剣に「ドテチンとは何か?」を研究したのは1990年代だったので、果たして古典を見たのか日本国を見たのかは不明である。
【世の中でトマス以外に信用できる人はいないのだ】
ribbon 太陽の行方。

1990年代後半に、法輪功が「本当に成績が上がるんです」として大騒ぎになっている。
日本の皇室はこの法輪功のムーブメントを静観した。
【これを弾圧するのならば中国はお終いだな】
そのように考えたのだ。
日本国のポップカルチャーを中国が「勉強の成績に直結されたのでは困る」とした時点で、国運は自ずから明らかだったのだろう。
老子は「男は1000人いる」としてすべてヨハネのことを歌った。
劉備玄徳も「千人の男の人生を知ればだいたい分かるだろう」とし、「子供に皇帝など務まるわけがない」(投降主義)というポリシーを持つに至った。
アップル社が「ポケットに千曲」と煽っていた時期も中国は法輪功の問題からアップル社とは距離を置いていた。
北朝鮮には日本国のインターネットは筒抜けだった。
「我々は中国とともに沈むつもりはない」と勤勉な北朝鮮の人々は考え始めたのだ。
「無」とは「恋愛の道を極めたかったら音楽作品から入りなよ」という意味である。
そして「怒っている女を見てみなよ」といった。
トマスに裏切られた女が怒っていたのだ。
「思想」とは「根性と社交性」のことであり、「無道」から入らないとなかなか身につかないものだった。
思想は「異性を愛する気持ち」を強烈に推進した。
「あいつはいじめていい奴」という倫理学的麻痺をアクィナスは周囲にもたらしたが、それをも克服していったのだ。
自然(勉強)、無道(音楽作品から恋愛の道に入る)、思想(社交性を持つ、異性を愛する)ことはこのような勉強エリートを生み出した。
酒井法子 リアル。

デカルトは、オランダの戦争に参加して、ナッソー将軍のもとで兵士を務めたが、処女でなければ結婚できないとしたナッソー将軍が、スピノラ将軍に負けるのを目の当たりにした。
ブレダの開城。

「恋」というものを考えて「恋愛と結婚は違うスポーツ」という考え方がスピノラ将軍に勝利をもたらしていたことを悟った。
ガリレオは「自分の自画像」を描いて「それでも地球は動いている」とし、自分の自画像がある好き勝手に動いていることをコペルニクスから学びローマ法王を怒らせている。
ガリレオは「恋愛と結婚は違うスポーツ」ということを主張してローマ法王を怒らせていたのだ。
デカルトは、ガリレオとは距離を置き、内省(マスターベーション)というものを考えた。
女たちにマスターベーションの意味を説き、処女であることの重要性を語った。
友達の彼氏を奪いたいという気持ちとセックスは異なるものだ。
ニュートンは「男の加速度」を見ていた。
加速度は「1」と「2」と「3」しかなかったが、ギアが「3」に入っている男への情熱を重視した。
パッションとは「ギアが3に入っている男への情熱」を意味したし、恋に惑わされている男はとにかくギアが上がらなかった。
週末に教会に来る男たちを見て、女たちは「結婚を真剣に考える男」を探した。
ガリレオが「俺ってイケメンじゃね?」といって自画像を描き、地動説を唱えたが、カトリックの受け入れるところとはならず、「恋」というものはカトリックの世界ではセックスには至らなかった。
ガリレオはローマ法王にひどく怒られたが、デカルトは「カトリック国としてのフランスの地位」を高めた。
恋愛と結婚は違うスポーツという考えを否定し、ナッソー将軍が敗北した戦争でナッソー将軍の「処女が軍人と結婚すべきだ」としたことをフランスに持ち帰り、恋愛は幾何学の問題であり、自分の世界を狭くする、とし、代数学(結婚の世界・H)の世界を豊かなものにした。
浜崎あゆみ インデペンデント。

皇室の男児が処女と結婚しないのは許せないという考えはデカルトが考えたイデオロギーであり、ガリレオの示した「恋愛と結婚は違うスポーツ」「それでも自分は動いている」という発想をカトリックとともに批判することによってヨーロッパ中世は終わりを告げた。
デカルトが示した「恋」という概念は、女のマーケットを確実に「世代を若返らせる効果」を持ち、処女の発見とともに、ポップカルチャーに多大な影響を与えた。
恋するフォーチュンクッキー。

もし、「進化論」というものがあるとするのならば、父親の「勉強セレクション」がかなり高度に行われなければならないし、「恋をするとギアが上がらない」とか、大学入試の半年前まではみんなが盲目であると悟った、などの「合格体験記」を父親が熟知していなければならない。
息子が「25歳」になるまでは、父親も息子が自分を越えていくことを応援できる。
しかし、それ以降は「同じセックスサークル」に属するためにもはや潰そうとするだろう。
「勉強」「試験」というものが整備されたのは1950年代のことだ。
若者は「セックスしたいから」勉強した。
親の言うこともよく聞いた。
顔が似ている、それだけの理由で親は息子に「勉強の方法」を教えた。
逆に、息子の快進撃に親が「態度をがらりと変える」のも教育ではあった。
周囲の人間関係も「東京大学合格の見通し」に態度を変えたし、このときに男の子は「恋よりも大事なもの」を見つけた。
恋と愛のニュアンス 酒井法子

1976年にドゥオーキンは、「わがまま遺伝子」というものを見つけていた。
「国家統治に責任を負う者」
とされた親には特有のDNAがあることを知ったのだ。
楊貴妃(老子)は、お風呂で父にエッチなことをされたために、「国家統治に責任を負う者」としての立場を否定され、非行に走った。
弟の舜は、「自分以外の人間はみんな罪人」という意識が抜けず、子供の頃はアレルギーがひどかった。
アブラハム(昭和天皇)は、マリアとヨゼフの間に生まれたイエスキリストの誕生を祝福した。
DNAという概念ではなかった。
出産時の「祝福」を受けたことから、おのずと顔も似てきたり、勉強セレクション(進化論)に勝ち上がっていくたびに顔が昭和天皇に似てきた。
「文化が顔を作る」という側面はRNAに特有のものであり、わがまま遺伝子次第では、偏差値文化に浸ることで顔がアブラハムとアクィナスは似てきたのだ。
今でも、東京大学にはアクィナスにそっくりの若者が大勢いる。
「さだまさし研究会」の男はさだまさしのような顔をしているし、アクィナス研究会の男はアクィナスのような顔をしている。
すべて、「文化に影響を受けるRNA」が仕組んでいることなのだ。
偏差値BOY うしろゆびさされ組

ジャスティス・リプシウスは、「女性ボーカルを聞きながら勉強する」という道教の立場をカルヴァン派の大学で学び、カトリックの世界に持ち帰っている。
マキャベリが描いた「王子」が、「警察記録に残らない」それでいて「ユニークな研究をする」ためには、道教のような発想が必要であったし、
「アットホームな空気で飲む、異性と話す、異性の話題をする」というキリスト教の奥義は道教でも一定程度実現できたし、何時間勉強しても飽きなかった。
しかし、リプシウスは「敵地で飲まない、異性と話さない」という「教室」(仏教)とのうまい共存を行わなければならないと考えた。
キリスト教と仏教をうまく共存させる必要があった。
先生と生徒は「君と僕」の関係ではなかった。
teacher teacher AKB48

出エジプト記3:2 モーゼは茂みの中に光を見た。
出エジプト記14:19 イスラエルの地に火の柱が見えた。
使徒2:3 使徒の舌を燃やしてしまえ。

この三つの聖句は、昼間はしっかりと「敵地で飲まずに異性のことも考えない」 しかし、夜は「アットホームな空気で、飲んで、異性と話す」というメリハリのついた生活を志向したものである。
仕事中にアフターファイブのことを考えることはある。
しかし、アフターファイブの話は誰もしてはならない。
そもそもが、キリスト教の奥義である「晩餐」と、仏教の「教室」「職場」は共存を目指していたのだ。
イエスキリストは、旧約聖書をよく理解し、「晩餐」を重視するスタイルをとったために、磔にされたのだろう。
しかし、仏教の側からも、竜樹などは「エルサレムを尊敬しろ」と語られている。
中には、マエケンのように「火の柱の世界」「茂みの中の光」「使徒の舌」の三つによって歌舞伎町で殺される者もいた。
ブルーライトヨコハマ

墨子という人物は「有名人とのディナーは最高だ」と考えた人物だ。
「辮」というものはお洒落を意味し、「是」というのはお金を意味し、「非」というのは「この曲知ってる」ということを意味した。
「法」とは「ヨハネの男らしさ」を意味した。
「是非」という言葉は「知っている曲にお金を払う」という意味であることになる。
最後に目指したのは「天」であり、有名人と話ができる立場になり「金融に影響を与える」ということである。
「中」というのは「彼女たちと話が合う」という意味であり、「法」「中」「是非」「辮」などの用語が墨子の思想の中枢に出てくる。
元有名人女と話をして「論文を書く」ことを「天志」と呼び、金融ビッグバンとは中国の墨子に由来するものだ。
日本の花伝書では「仕手」と「脇」という具合にメインとサブは分けられているが、中国では「大取」「小取」という具合に分けられている。
松田聖子 ディナーショー

「義」とは「仲間・義務・お金」を意味したし、「利」とは「利益」というものを意味した。
「仁」というものは「親切さ」と意味したし、「愛」とは「面倒を見ること」を意味した。
まあ、言葉の定義だけを語っても意味がないだろう。
墨子も「言葉の定義」は明らかにしたけれど、どのように「金融ビッグバン」が起きるのかは、「経」つまり、ヨーロッパやアメリカ合衆国の「哲学」「宗教」に丸投げしている。
「灌」とは「二つの選択肢があった」ということを意味し、「三角関係」の存在を指摘しているが、墨子から何かを学べるのかというとかなり疑わしい。
「有名人とディナーを共にするのは楽しい」から始まって、芸能人とのその後の人生のお付き合いを探求した人だろう。
Jokeにもならない恋 三浦理恵子

「狂学」した男は芸能人と同じという待遇を得て、墨子は福沢諭吉やアクィナスにファイナンスのやり方を示した。
なにしろ、中国、北京大学は現段階では「コンテンツはアメリカ・イギリスに丸投げ」している。
日本の東京大学は精緻な法律学を構築しているが、中華人民共和国はそうではない。
日本の法律学の精緻な体系に対して、中国は「役人は哲学を学ぶものだ。しかし、コンテンツはシルクロードから来るものだ」という立場を取っている。
中国は「一帯一路」という政策によって、「我々はアラブやイスラエルと話しができる」というメッセージを日本国に送ってきたが、失敗している。
「我々が石炭を焚くから太陽が暑くなる」というメッセージに対して、私が「台風撃退法」を明らかにし、ステーションカバリッジ、つまり、鉄道網が整備されていないから暑苦しい、ということを明らかにしたところ、アフリカに「友人」を探しに行っている。

ハーバート・フェイグルは、結局、「何時間いても飽きない居場所こそが職場である」とし、教室にせよ、職場にせよ、自宅にせよ「そのような居場所を見つけたものが論文を書き、スポーツビジネスに介入する」としている。
男友達

時計を見ながら仕事をするのならば「やらないのと同じ」と考えたのだ。
子供に勉強の楽しさを伝えたいのであれば「職業人」でなければならない。
ラッセルは実存主義の立場から「物自体」(自分のプロフェッショナルレコード)は、「ようするに職場が居心地が良かったんだ」としてその本性を現した。
そこで問題にしなければならないのが、やはり「いじめ」の存在である。
いじめほど「簡単な仕事」はなかったし、何の知識も得られない。
宵の明星はダサい男を意味したが一晩中輝く、明けの明星はお洒落だったがすぐに消え去る。
ダサい男がイエスキリストであり、プロフェッショナルレコードを残す存在だった。床屋も若者に「イエスキリストのような髪型」を提供したが、なぜ、わざと「だらしない」
髪型にするのかというと「カタチから入る」「プロフェッショナルレコードを残す」「一晩中輝く」をコンセプトにしていたからである。
「腰パン」などもはっきり言ってダサかったが、イエスキリストの真似をしているのだ。
1950年代以降、整備されてきた「偏差値社会」において、「そういう奴が成績が良かった」ということをみんなが真似した。
ようするに「自分の居場所が居心地がいい」 これ以外に成績を伸ばす方法はなかった。

イエスキリストの「道教」「超勉強法」が本当に花開いたのは2010年代であった。
ポルノに出たことのある女も、顔まで修正するというロールズのおかげで一般市民に戻れるようになっていて、イエスの前では女らしく振る舞うようになった。
女の「過去の栄光」を知る男たちにとってそれはかなりラディカルなものであり、「元アイドルと話をする」というのが勉強の到達点なのかなと思った。
イエスキリストの前では母のマリアも、MI6からの情報に耳を傾けていて「ご婦人」と呼ばれるほど女らしかった。
今となってはマリアとヨゼフに「性的関係」があったのかも分からないほど、マリアは変わってしまった。
それが「トマス(MI6からの情報)に耳を傾けるイエスキリストの母の現状」だった。
母の人生を「その構造から解き明かす」ことをミシェル・フーコーは脱構造主義と呼んだが、トマスからの情報がなかった頃は「誰を信じていいのか分からずに変なおばさんを先生と呼んでいた」という現状ものちのメディア論から明らかになっている。
いずれにせよイエスキリストは、トマスの言葉に耳を傾け、喫茶店を経営している母・マリアに富をもたらさなければ「生贄」にされていたであろう。
マグダラのマリアは、社交的な女ではなかったためにイエスにとっては「特別な女」となっている。
特別な女(マグダラのマリア)は内向的な方がいい、しかし、他の身内の女は母も含めて社交的な方がいい、そのような相対性がイエスにはあり、その活動を保障した。
ハンナ・アーレントは「性転換手術」を受け、その「ヘンタイ」ぶりからイエスキリストの思想を深めた。
いずれにせよ「思想」とは「社交性と異性を愛する」ことからもたらされるものであり、一点だけを目指す世界では忘れ去られがちなものだった。
「良心」とは「思想が内面化したもの」であり、妻が貞淑であること(マグダラのマリア)によって、いろんな人を裏切らないことを言う。
タイガー・ウッズの名場面。

アルゼンチン・メキシコ・ブラジルなどの「ラテンアメリカ」の国、日本でいうとブラジル系移民は、「本国の経済状態が良くないからブラジルに帰らない」と言われるが、実際は「母のポルノが顔に修正が施されていないから帰らない」という意味である。
母が「無人島に行きたい」と言ってニューカマーとして日本に来たのだ。
南米の国は「最後の晩餐」ではワインではなく「コーヒー」を飲むものだとし、コーヒーのセールスによってブエノスアイレス大学法学部を作った。
AGMは、アルゼンチンにおけるコーヒーのセールスを「法律」と結びつけ、アルゼンチンを発信源とする大企業となった。
大手保険会社も、もとは南米のコーヒー店だったのだ。
メキシコはUNAM(メキシコ国立自治大学)と呼ばれる宝石ビジネスを、コーヒー店から始めている。
イギリスやアメリカに進出し、「宝石商も昔はコーヒー店だった」ことを示した。
ブラジルもコーヒー店が有名だが、ケネディ暗殺を企画したりしている。
南米のコーヒー店というものはもちろん世界に知られているが、当然、その「資金力」が世界に与える影響力も見ていかなければならない。
ブラジルは「カント」を知らない、女心をお金に変えていないという分析を以前、私も行なったが、「アットホームな雰囲気でコーヒーを飲みながら異性と話す」という基本は抑えていたのだ。
アルゼンチンとチリは「大西洋側と太平洋側」で国境線を分けたが、「ワインが飲めない人もコーヒーは飲める」ということを基本とし、「喫茶店の話題」の研究を行った。
もっぱらサッカーの話題だったであろうか?
誰もが昔はサッカーを楽しみ、今では見る側に回っている、そのような人たちが喫茶店でサッカーの話をしたのだ。
しかも、コーヒーの消費量がサッカーの勝敗に影響を与えていたのだ。
謎の宇宙人ジョーンズ。AGMの正体。


イエスキリストが統合失調症であった、という指摘はある意味真理であった。
無表情にギリシャ哲学を読む、しかも、学が実らない時期は誰しもが統合失調症である。
しかし、今では東大文一に合格しても、教養学部哲学科に進学する人がいるご時勢だ。
あるいは、就職活動の幅を広げて、見聞を広める機会も増えている。
法学部離れを防ぐ役割も果たすだろう。
律法というのはパリサイ人が作ったものであり、「アットホームな環境で、飲みながら、異性と話す」という「正解」をイエスが見つけてから、パリサイ人が「就職した方がいいのではないか?」「アットホームな環境で、飲んで、異性と話す」というキリスト教の到達点をトマスが囁いた以上、カント以降、「悟り」(口説き落とせない女などいない)という探求が進むのは当然ではないか?とされた。
たとえ「アットホームな雰囲気で、飲んで、異性と話す」と何時間でも過ぎ去るというのが真理であっても、律法学者の側から「容認できない」という声が出るのは当然だった。
律法学者の中には「勃たなくなるのが問題である」とする者もいた。
精神医学を熟知し、LGBTを熟知していたイエスキリストは勃たなくなることはなかった。
おカマの存在にビックリしたり、性転換手術をした人に驚くうちは勃たなくなる男はいた。
教育を受けたのならば「お給料」をもらうのは当然だと考える人もいた。
「女は美しいほうがいい、男は賢いほうがいい」というのが形而上学の結論だとするのならば、「アットホームな雰囲気で、飲んで、異性と語り合う」あるいは「音楽を聞きながら勉強する」というのは正解のように思われた。
そこで起きた律法学者のムーブメントが「社会化」というものであった。
社会化といっても、現代においては「知っていることがあるのならば公表してくれ」という意味で用いられている。
大学ノートに自分だけ隠し持っていて社会活動していたのであれば、まちがいなく磔にされていたであろう。
自分の両親をも「社会」に組み入れていかなければならない。
ラピエールは1934年に「高校中退で東大に入るやつがいる」とし、それを「中国的なもの」とし、反中・親米の立場を明らかにしている。
朝鮮学校などは、日本の大学への「接続」は行っておらず、中国の立場を踏襲している。
日本の学生は「典型的な男」がいるね。
これがアメリカ合衆国の受け止め方だった。
忍耐強く、命令にしたがい、グループに溶け込み、敵味方を区別したのだ。
アメリカ合衆国でそれを実践したのであれば、日本に帰ったらすべてが簡単だろう。
アメリカのハイスクールが常識だと思うか?
どのアメリカ人もついて来れない厳しい世界だったのだ。
しかし、その世界にすら「溶け込んで」「当たり前」だと思うのが日本人だった。
1990年にジェームズ・コールマンが「日本のアクィナスの発見」を行っている。
あとはアクィナスに「天国と地獄の逆転」を見せるだけだった。
楽に大学に入ったり、中卒だったりする連中を「上」に持ってくるだけだったのだ。
それをアクィナスが「当然だ」と考えるのを待った。
厳しい修練を耐えたアクィナスに「楽して恋愛する奴の方が上」と思わせるのがアメリカ合衆国の対中戦略となったのだ。
アメリカ合衆国にも、当然、「律法学者」はいた。
人を育てる研究なんだよ。
酒井法子 秘密のガーデン

アメリカ合衆国の律法学者は、子供の「動物としての能力」を見た。
そのあとで「学力」を見た。
最後に「感受性」を見た。
「大胆」で「復讐が好き」ならばなおさらいい。
そうでなければ「男だけの世界」でどのように人を選ぶつもりだ?
ジェイソン・アレキサンダーは「男をカネから遠ざけるのに苦労した」と語っている。
適当に金持ちになって潰れていく連中もいたからだ。
「恋愛を知っている奴」を尊敬する癖がついていたので、適当に競争相手をでっち上げるのにも苦労した。
パリサイ人は、「ユダヤ人」というわけではなかっただろう。
普通に、イエスキリストを育てようと試行錯誤していた連中だった。

「エロティカ」と「エロティック」はどう違うのだろうか?
マドンナの「エロティカ」は、裸を示し、「ヌード」は見せなかった。
マドンナ レイン

エロティックというのは「女の体とセックス」を結びつけたものだった。
エロティックとポルノグラフィーも異なるものだ。
ポルノグラフィーは、エロティカであり、露骨にセックスを表現し、セールスを見るものだった。
イエスの「磔」がサディズム・マゾヒズムという「エロティック」なものなのだ。
女たちの「愛と情熱」を「ひとりの男」に集中させるのがエロティックであり、「祈り」も同様の意味を持った。
マドンナ ライク・ア・プレイヤー

1960年代の「セックスの失敗」を知っている世代が、イエスキリストを「愛と情熱」によって「磔」にした。
「セックスの失敗」が、ひとりの男を「祈りの対象」にした。
一組のカップルのセックスを描くのではないんだ。
エロティカは「一組のカップルのセックス」を描いてセールスを見たが、エロティックは大勢の女たちに訴えかけた。
「セックスの失敗」から生じた「祈り」がそこにはあった。
「エロティカ」は若すぎるんだよ。
セックスの失敗と祈りが「エロティック」には込められているんだ。
日本では「透かし春画」とイエスキリストは呼ばれていた。
セックスに飽き飽きした女たちが「磔」に祈ったのだ。
マゾヒズムなど存在しなかった。
アクィナスは「アメリカ合衆国の厳しい修練」を律法学者に教わっていただけだった。
日本の素人男には想像はつかないんじゃないかな。
サディズムは「大勢の女たち」に存在した。
イエスは「カントの学問」を楽しんでいたし、「磔」にされることを快くは思っていなかった。
学問を楽しめない男が「大勢の女たちに磔にされる」ことに憧れていたマゾヒズムを持っていたのだ。
「すべての女を口説き落とせる」というカントの「悟り」を知ってしまえば、大勢の女たちからの「セックスの失敗」と「祈り」というサディズムだけがあり、マゾヒズムなどない。
素人男から見れば、東大に入ることすら「甘美なる経験」であった。
大勢の女たちの「セックスの失敗」による「祈り」の対象にすることが仕事だった。
知世の歌



ベラスケス 鏡のビーナス。



ゴヤ 裸のマハ。


ゾラは、「絵画の世界でも一流はイエスキリストなんだ。自分を愛した女たちを絵にしたんだよ」と語った。
天才であることは苦しく、しかし、周囲から見れば「甘美なるもの」なのだ。
「エロティカ」と「エロティック」の違いがここに表現されている。
絵画の天才が「自分を愛した女たち」をモチーフにすることを「エロティックアート」と呼んだのだ。
ティティアン ウルヴィーノのヴィーナス

抜けない女の絵(ハイブロー)と、抜ける女の動画(ローブロー)はこのようにして区別される。
天才がいるかどうかなのだ。
マルキド・サドが「ハイブロー」を完全に誤解した。
暴力、レイプ、強要、残酷さを「サディズム」だと信じ込んだのだ。
実際は、1500年~1800年の間に残された「ハイブロー」を参考にしたのだ。
女たちの「天才への愛と情熱」「セックスの失敗」「祈り」は「俺の世界で苦しめ」という問題ではなかったのだ。
しかし、「嘔吐した女の動画」は確実に生まれた。
これで「抜ける」男がいるのだとすると、ハイブローはとんでもない副作用をポルノグラフィー(エロティカ)の世界に持ち込んだことになる。
男たちは「抜けねえな」「愛し合えないな」と思いながら、かつての絵画の天才が描いた作品の「謎」と向き合っていたのだ。
IEKI吐くまで

1986年にバタイユが「1500年~1800年に実在した絵画の天才の話なんだよ」ということを明らかにするまで、サディズム・マゾヒズムは誤解されてきた。
マゾヒズムは「素人男が憧れるもの」である。
イエスキリストにマゾヒズムはなかった。
サディズムは周囲の女たちの「セックスの失敗」と「祈り」から生まれたとしたのだ。

ゴータマは、「狂学」を行いすぎたために精神病院送りになったが、そこには妖怪のような女たちがたくさんいて名前を覚える気にもなれなかった。
彼女たちがテレビの世界では「美女」として知られていることを理解するまでに時間がかかった。
元「美女」たちとの「物語」を作っていこうと考えたのは初診から20年も経過してからである。
ゴータマにとって、勉強しすぎて破滅するのは当たり前のようなものであったが、芸能人たちは「休みにきている」としか思っていなかった。
周囲のメンバーはテレビ局などでも「顔なじみ」のメンバーだったし、彼・彼女の世界に本当にアカデミズムを持ち込むためにはゴータマにも研究する時間が必要であった。差別や偏見というものが「有名だから」生じるものであることを理解するのにも時間がかかった。
ゴータマ自身が「東京大学」という栄光を持っていたが、とにかく周囲が「障害」というものを理解せずに家庭内で最下位に位置付けたために、自分の破滅を悟っていたが、精神病院にはトップアスリートや芸能人しかいなかった。
みんなの憧れである人物が「休みにきている」ことを理解したら、ゴータマはカントが「女の向こうに神が存在する」としたことに対して、なぜ新カント派が「美女たちが神を作るんだよ」としたことの意味を悟った。
精神病院の女たちの病気を見て回るだけで「神」と世の中全体が考えるとしたのが新カント派だったのだ。
優しさに帰れない CoCo.

プロクルスの神学とは、男は学べば学ぶほど「ひとつ」の方向性を目指すというものであり、その「ひとつ」がヨハネであり、イエスであり、トマスが耳元で囁いたことである。

A:B B:C
B:A C:B
B:C A:B
C:B B:A
セーラー服を脱がさないで おニャン子クラブ。

この図面においてはA(キス)とC(セックス)が対角線となっており、B(胸)が円を描いている。
キスより先にできること カントリーガールズ。

円形を描いている「胸」を活用することで、ABCという順番はどうにでも前後を入れ替えることができる。
C:B B:Aという順番すら模索されているのだ。
その辺はやっぱり「顔」だろう。
ソクラテスが強烈にABCを推進したのだ。(どこまで行った?)。
ディオティマスやアガトンなどいろんな哲学者はいたが「好き」とABCの順番を明確にしたからソクラテスは歴史に名が残った。
プラトンも詩をそのように作ったのだ。
キスした跡は残さないで 国生さゆり。

神は「ひとり」でなければならない。
ソクラテスはABCの順番を明確にすることで「ひとりの神」の存在を明らかにした。
赤いスイートピー 松田聖子。

ABCという順番は、文化にまで広く浸透し、これにしたがって交際を始めたカップルは常に「時代からエネルギーを与えられる」ことになる。
神は自分の「考え」のコピーとして世界を作った。
中には「キスとセックス」を同じ意味であるとする芸術もある。
ソクラテスが構築した文化への「参加」と「解釈」からこのようなことが語られたのだ。
trouble of love rebecca .

このような「学のある」者からの接吻は特別なものだった。
「生きること」「バイタリティ」そして「知性」が必要である。
父と子、聖霊が、東方教会では「生きること」「バイタリティ」「知性」の三つだとされた。
このことは「父」「イエス」「おじや弟」のトライアングルによるいじめを想定したカトリックや、「エル(覇権国家)」「ヤーヴェ」「エロヒム(覇権国家の先生たち)」を想定したユダヤ教と異なり、「故郷から都会に出てくる男」に最も必要なものだったのだ。
人間と飲み物と椅子と異性がこのようなバイタリティや知性を生み出すと考えられた。
「生きること」はバイタリティや知性に影響を与え、「バイタリティ」は知性に影響を与えた。
これはヤコブ(毎日新聞)の考え方であり、産経新聞は「勃起と勉強、女の癒し」を三位一体としているという認識の違いがある。

神はどのような計画を男女に仕組んだのか?
アリストテレスはどのような計画を男女に仕組んだのか?
そして、男女たちはどう思っているのか?
ABCの順番を知らない男はモノトーンボーイだった。
モノトーンボーイ rebecca

ビザンチン帝国では、ABCの順番を学ぶだけで、巨大なビジネスを展開できたため、コンスタンチノープルにはそのことを学ぶために、男たちは大都会を夢見た。
抱きしめてくれても、作法を知らない男の腕から逃げた。
青いスタスィオン 河合その子

初期ビザンチンは330年から730年までであるが、730年から1453年までをギリシャ哲学の研究に費やしている。ソクラテスを正確に理解したのは、この「ビザンチン帝国」であり、
しかし、「ギリシャ哲学とは何か?」を理解するうえではコンスタンチノープルを避けては通れない現状がある。
オリンポス山に「歌」を祀っていくホメーロスは依然として中等教育の中核をなしたが、近代西洋に「ABC」が浸透することはなかった。
だが、日本国への影響だけは無視することはできない。
ホメーロスの詩の「理想の男」と同時に「女の子の心構え」として広く知られるようになった。
渚の「」 うしろゆびさされ組

女子たちの団結のためには、ビザンチン帝国が復刻したギリシャ哲学はもっとも都合がよかったし、ギリシャ哲学のもっとも優秀な生徒が日本国であった。
第一次ビザンチンルネッサンスはこのようにして起きたし、巨大な音楽産業が生まれた。
多くのプリンセスが影響を受けただけでなく、12世紀のニケーアでも、ラテン教会とはそのことを話し合ったのだ。
ビッグマネーと文化に関する話し合いだった。
バナナの涙 うしろゆびさされ組

「キスから先に進めない」「お楽しみはまだ」などという女の子の作法を相手にする男は「器が小さい」とも言われた。
恋と愛のニュアンス 酒井法子

女の子の「キス」と、イエスキリストの「接吻」はこの「器の違い」から説明されたし、それは、ドクトリン(宣言)から始まって、ドグマ(教義)として採用するかは宗派が分かれた。
ミカエル8世が、この議論をリードしている。
大天使ミカエルにせよ、マイケルにせよ、マイクにせよ「女の子のキス」「イエスの接吻」の議論の専門家だった。

スピノザは、女の子にとっての「言論の自由」とは、男が現れるための「必要性と可能性」であるとし、しかし、八百の神が成立するためには「お父さんとのお風呂」がなければならず、お父さんとのお風呂があるために男の子の間に「いじめ」が生じ、彼氏が現れるためには「必要性と可能性」はいつしか「必要性と偶然性」に変わっていった。
可能性は、男の子の間の熾烈ないじめによって偶然性になっていたのだ。
お父さんとお風呂に入るということは、「可能性」を「偶然性」にまで遠ざける行為だった。
アイスクリームを食べさせてくれないとセックスさせないという女の子もいた。
彼氏はお父さんよりも「若さ」があったために、アイスクリーム程度で済んだのだ。
彼氏を作る「必要性」はもちろんあった。
しかし、それが「可能性」をともなうのか「偶然性」をともなうのかは「お父さんとのお風呂」次第だった。
欧米では簡単に娘に彼氏ができるように、お風呂ではなくシャワーを用いた。
運命95 Melody

日本国には「お父さんとのお風呂」が女の子にはあった。
第二次世界大戦においては、「彼女を作るってこんなに簡単なんだ」と連合国側が日本国に再三アピールした。
女の子は「男の子のおちんちんがお父さんと変わらなくなったら」「ウェルカム」だったのだ。
高橋由美子 ウェルカム

女の子は、鏡で「自分がセックスに耐えられる体になったのかどうか?」だけ見ていればよかった(PSR)。
男の子たちは「いじめ」だけでなく、やがて勉強やスポーツを始めた。
「必要性と偶然性」それが日本国が採用した文化であり、少女マンガという巨大ビジネスも誕生した。
男の子が「遠く」ないと少女マンガを読む必要すらなかった。
「お父さんとのお風呂」という「大人の男の答え」を知っているかどうかの違いだったのだ。
日本国が「必要性と可能性」という、女の子が簡単に彼氏を見つけることができるシャワーの文化を採用せずに、「必要性と偶然性」という「お風呂の文化」を採用したことは、男の子の間の「勉強とスポーツ」を確実に強化した。
男のレベルは「2~22」(Ip2~Ip22)まで幅が広がったのだ。
2歳児から成年までと区別することは可能である。
Ip16で「15の夜」を経験し、Ip22で就職し、Ip28で社会の戦力として大仕事を成し遂げる。
男の人生は常に「女の裸」とともにあった。
バスルームでキャッチホン 高橋由美子

男にとって「ファーストパス」(初体験)が若ければ若いほど「有限の自分」と向き合わなければならない。
それでも、同世代の「女の体」はやがて朽ちていくのであるから、どこかで「有限の自分」と妥協しなければならない。
Ip28(28歳)の時に、男は「仕事が分かった」と言うだろう(セカンドパス)。
その時まで彼女がいないのであれば、どこからか「お見合い」の話が出てくる。
男たちが「賢さ」を競い合って、他の男を失恋させたとしても、「若い女の体」を知らないという指摘を受けなければならないという意味では、日本の男の子は、「15歳ぐらいでファーストパス」を経験して、厚い信仰心を持ったほうがいいとも言われる。
愛の倫理社会 おニャン子クラブ

女の言葉に、別の見方から返事を返す。
これが哲学の基本である。
ピタゴラスは「読んで話していること」を聞きたがっている女の存在を知った。
女は「経験で」話していたし、男は「読んで」話していた。
「男のコになりたい」これは女にとって「攻め」であった。
男のコになりたい 酒井法子

しかし、「読んで話している男」には到底かなわない哲学体系が構築されていた。
女は一時間も話したら、泣いて「受け」に回った。
愛してジャスティス ribbon

ピタゴラスが問題にしたのは、このような「体系」が構築された時に、
「精子」というものが生まれたということなのだ。
それまでは人間の「子孫」というものがどのように作られていたかは明らかではない。
とにかく、人口はごくわずかであったであろうことがギリシャの時代には考えられる。
哲学の構築と「女の攻めと受け」がなければ、「精子」というものは生まれなかったし、「魂が抜ける」という経験も男にはなかった。
哲学によって口説き落とさなければ「精子」は出ないのが男だった。
ピタゴラスは、子供が「豚肉が好き」「動物の心臓や子宮まで食べる」ことに注目した。
子供は「カツ丼」「トンカツ」が好きだから精子が出るんだろう。
あるいは「アネモネ」を食べる子供の習慣も、少年に「精子」というものをもたらしていた。
アネモネの記憶 河合その子

哲学を知らない子供でも「豚肉」「アネモネ」「心臓や子宮」を食べるだけで精子が出るようになる。
豚に真珠を与えることなかれ、まるで下腹部から湧き上がってくるようにムラムラとくるのだ。
しかし、哲学を知らないで「豚肉」を食べると、「魂が抜けた」後に女を捨てるようになるだろう。
冷たくしないで Eriko with crunch

ルクレティウスは「恋人たちのボートを多く集めた都市が戦争に勝つ」ということを確立した人物だ。
ホメーロスを読んでも、プルタークを読んでも「どれだけ多くの船(ボート)を集めたか?」戦争の勝敗を決めている。
モーニング娘。 ザピース

男が女を愛する気持ちを利用するのが経済であるとするのならば、カップルが乗った「ボート」を集めることは資金力を意味し、古典ではシップ(船)とされているものが、実際は「ボート」であることが分かる。
エピクロスは、娘のクラリスがトロヤに誘拐されたアテネのアポロンが、どれほど「恋愛」を理解し、アテネを「カップルの観光スポット」にすることによって戦いを有利に進めるかが大事だった。
あるいは、「新しい恋ばなを見つけたよ」として、アテネの海をボートで満たすのがアポロンの仕事であったし、
いずれにせよ、船とは「お金」という意味であった。
トロヤのアガメムノンも、トロヤの海を船で満たそうとしている。
酒井法子 もうすぐの予感

ソクラテスは「ABC」の順番を確立した人物であるが、船のことは船乗りに聞けとして、「知らないことを知らないとなす、これすなわち知るなり」としている。
つまり、「船」(お金)を生み出す、恋ばなを知る学問が哲学であるとしたのだ。
空母というのは、航空機を搭載できるが、ようするに「恋人たち」が現場を見に来るのが戦争であり、「爆撃」などというものは本来想定されていない。
「パワースポット」にいかに「恋人たち」を集めるかが問われるのだ。
私は多くの「船」(お金)を私の自宅周辺に集めることに成功している。
ジコチューでいこう 乃木坂46

自分の家や街に女の子たちが集まったり、パワースポットとみなすことを、「アガメムノンやアポロンが船を集めた」と表現したのであり、それはそのまま「資金力」と見なされた。
選挙に出ようとする若者が、自分の街を「観光の名所にしよう」と演説することから普通に学習していることが「資金力は挑戦者の資格」という意味であり、また、「恋ばなをどれだけ多く見つけるか」「女の子たちの憧れの土地にするか」がそのまま政治家の勝負の明暗を分けたのだ。
ジャーバージャ AKB48

政治の世界は常に「政治資金収支報告書」と対話している。
敵対的な船か、味方の船かは自分で判断するしかない。

"MAX"
マックスで知られているのは、ウェーバーとシェラーであろう。
ウェーバーは「戦う民主主義」を考えて、人間の半数は女性であるとし、女性たちの支持が、"MAX"を生み出すと考えた人物だ。
一方、シェラーは、それをより深める形で、「現象学」という「女性たちを美しくする学問」を構築し、歯医者や美容院などを作るに至った。
男は賢いほうがいい、女は美しいほうがいい、というのが形而上学の結論であったが、現象学は「女の美しさ」を探求したのだ。
それらの資金がなければ、"MAX"は生まれないし、解説者すらため息をつく資金力だった。
大谷翔平 165キロ

シェラーは、"MAX"を生み出す上で、「女の問題」もカトリックの立場に立つことで、男が努力を積み上げる土台を提供したし、処女の女たちに囲まれることで、球速はどんどん増して行った。
「現象学」と「カトリック」がうまく混ざり合うことから"MAX"は生まれていたのであり、若さがなせる技でもあった。
フッサールは、この"MAX"という記録が「短命である」ことも理解していたが、歯医者・美容院・美容整形外科の資金力と、カトリック女が生み出した「方法論」は、いろんな意味で参考になる。
女遊びをやっている普通の解説者は「なぜ165キロなのか?」と首をかしげた。
"MAX"を生み出すためには「価値個人主義」というものも必要だった。
高校時代に「女」があまりにも遠かったという記憶が必要だったのだ。
それでいて、情報源を間違ってはならないほどのお金が必要だった。
カントは「女心をお金に変える」という方法を取っていたが、現象学は「女たちを美しくすることをお金に変える」という立場を取っていた。
日本でまだカントが知られていない時期に「現象学」が先行した。
「美しい処女たちがあまりにも遠い」
これが球速を高める方法であったし、より速くより速くとは反復練習以外になかった。
疲れ果てても、自分が安心して暮らせるだけの環境はあったし、お金もあった。
「美しい処女たち」が遠ければいいのだ。
「女心をお金に変える」というカントの立場は、なかなか息子には分かってもらえない仕事だ。
しかし、歯医者・美容院・美容整形外科ならば理解は簡単だろう。
そのようにして、現象学とカトリックは結びついて"MAX"を生み出したのだ。
「速さ」は必ずしも愛されるとは限らない。憎まれることもあるのだ。
しかし、その「憎しみ」も、アイスクリームをおごってやる金があれば解消できた。
「速すぎる」「金をくれないのならば追い出すからな」
周囲はそう思っていた。
その資金の出所は、カントではなく現象学だったのだ。
翔平は自分の球速のためだけに、父親に金をせびった。
サラリーマンには出せないお金は、歯医者・美容院・美容整形外科医にしかなかった。
父親が金を出したのならば、自分が何をすればいいのかが分かった。
「速さは愛されることもあれば憎まれることもある」
憎しみはお金で解決するしかない。
「速さ」に女たちが熱狂しても、決して手は出さないほうがいいことも分かっていた。
しかし、美しいカトリック女には恵まれていた。
人間は「集団生活」を送る生き物だ。
その中で「速さ」を磨くためには、現象学とカトリックが必要だったのだ。
理論だけではどうにもならない「速さ」

「速さ」は集団生活を乱す。
周囲は「ふざけるな!向こうでやれ!」というだけだ。
親が「速さ」の意味を理解していなければならないし、お金をくれなければならない。
しかし、現象学の立場に立ったシェラーと、カントの立場に立ったウェーバーの違いが親にはあった。
「速い」
それだけで、モテるために、高校や大学の頃から「お金が必要」な連中はいたのだ。
親が、歯医者・美容院・美容整形外科をやっていたら、「美しい女」はたくさん生まれるだろう。
しかも、「速さ」を身につけると、女たちが「奪い合い」をやるだろう。
そのために、"MAX"というものは、「短命」なものであり、決して永続するものではないのだ。
ウェーバーも、同じく「速さ」を探求した人物であるが、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」という著作にあるように、男たちは自分たちを正当化する存在であるし、芸能界の女とうまく話す哲学者がお父さんでなければお金はもらえないだろうと考えたのだ。
シェラーのような「現象学」というシンプルなものではなかった。
「お父さんがモテるのならば、俺も女の子と話したいよ」
息子はそう思った。
そこで、父は「息子を罰した」のだ。
ニーチェは「神は死んだ」と言って父に「祈り」を求めた。
シェラーが求めた「速さ」はあくまでもスポーツの世界の話であったが、ウェーバーは、「偶像崇拝容認」という形で、「学問の世界における速さ」を息子にもたらしたのだ。
なにしろ、偶像崇拝をすると確実に視力は悪くなるのだ。
美女と話ができても、恋愛をする自由はなかった。
学問の世界における「速さ」を求めるのであれば、奥さんは美女であってはならない。
しかし、シェラーが求めた「速さ」よりも、学問の世界における「速さ」の方がよほど危険なものであることをウェーバーは証明した。
「話をした女がいまだに多くの男たちから愛されていた」
これが富の源泉であり、「女たちの向こうに神はいる」としたカントに対して、「アイドルたちが"神"と呼ぶ男は作れるんだ」としたのが新カント派だった。
ウェーバーの考えは知的な"MAX"を求めていたが、「執筆活動」さえしていれば、周囲に金をばら撒かなくてもいいという特徴があった。
「伝統的支配」とは、父親が「土地」を息子に残すことを意味したが、息子はその「土地」で、自由に研究生活を送り、「カリスマ」と呼ばれた(カリスマ的支配)。
しかし、カール・シュミットはなぜ、ウェーバーが"MAX"を探求したのか、それは、シェラーの「球速」に衝撃を受けたからであることを理解していなかった。
カール・シュミットは「カリスマ」のこめつきバッタに過ぎなかった。
「お前の日本語は、英語の匂いがプンプンするんだ」
これがパワーポリティクスであった。
しかし、アメリカ合衆国も、日本シリーズを経験したことがある横浜DeNAベイスターズとワールドシリーズを制覇したことがあるロサンゼルス・ドジャースに衝撃を隠さず、「もはやわが国の永遠の戦い(永劫回帰)」として、最先端哲学は今どこにあるのかを探求している状態である。

"MAX"というと他にはシュタイナーが挙げられる。
シュタイナーは、「女手ひとつで育てられた男」として、母の文化にかぶれ、「芸能界最速デビュー法」を考えた。
つまり、娘が「母一人子一人」の状態が最も芸能界に近いとしたのだ。
のん

芸能界に入りたい!娘が言うといくつかの障害物が存在する。
周囲がその女の「エネルギーを奪い取ってズタボロにする」のだ。
悪口もあればセックスもある。
セックスしてのちのビッグマネーと関与する男がいるのだ。
みんなが「真実の前には奴隷」だった。
このことが「真剣勝負」の起源となっている。
「男社会の真実が知りたい」
これは、どの女の子も憧れる「芸能界」がなければ生まれない発想だった。
カトリックからプロテスタントに「主導権」が移ったとすれば、背景には「芸能界」があり、どの女の子も憧れる世界があったからである。
「男社会の真実が知りたい」
芸能界入りを反対された女の子は、そのような動機から男社会に入っていった。
カトリックの主婦は「そういう生き方もあると思うんですけどね」と言って家庭に入っていった。
家庭に入ることができるかどうかは「そもそも男社会への憧れがない」かどうかであった。
芸能界では「わらってわらって」などと意味のないことを言っていたが、現実はもっと根が深く、「女の子たちが男社会への憧れを抱く」ところにあった。
「六法全書」だの「訴訟」だのいう男はあんがいモテたのだ。
「人間革命」なんてものは「男社会の物語」であっただろう。
「所属が必要だ」と考えた芸能人女は、所属をでっち上げてセックスパートナーと仕事を探していた。
「もっとも障害物が少ない方法」
それは、スカウトマンそのものがセックスパートナーとなり、所属プロダクションをでっち上げて、一緒に仕事をすることだった。
酒井法子 ミーハー

1960年代から1970年代にかけて「シュタイナーの再発見」がサルトルやドゥルーズ
によって行われた。
なぜなら、芸能人女を喰うことによって「男も芸能人になれる」ことが分かったからだ。
「無政府状態」
このような現状が芸能界には付きまとった。
押尾学

ペンキ屋による電磁波攻撃は私も現在、研究中なのですが、「ボー」「ウァンウァン」という音がペンキ屋の方向から聞こえてくるのです。
これは、「塗料」つまり「シンナー」に男の子が病みつきになって成長を止めないように、合法的にペンキ屋が近隣住民に電磁波を撒き散らしているらしいのです。
電磁波によって「シンナーをはがす」とも表現され、あくまでも「男の子の成長」が目的であり、女性たちには「耳鳴り」としか聞こえないかもしれません。
この、「ペンキ屋による電磁波」は、男の子が思考力を下げない、つまり、「目の焦点が常に合うようにする」ためのものであり、男の子によっては「読むこと書くことそのものに中毒になってしまう」とも言われます。
右目から左目まで電磁波を流しているだけだとも指摘されている。
学習というものは当然、いろんな法則を覚えていく作業であり、上達がともなうものだ。
そのため、一定程度、上達したら、「シンナー中毒による読み書き学習法」からは離れるべきではないかとも言われる。
これらの「電磁波とペンキ屋」の関係が明確に定まるようになったのは1868年、つまり、明治維新のときだ。
グスタフマグヌス研究所がこれらの「シンナー」の研究をしなければ、人々は自由に自宅を塗装することもできなかった。
哲学の世界は「失敗から学ぼう」などとは考えていない。
常に「成功から学ぶ」という姿勢を貫いているのだ。
アクィナス(ドクターノオ)の隣の家がペンキ屋だったことや、ペンキ屋の車庫に面した父親の書斎で、わずか三ヶ月の学習で大検に受かったことなどを「なぜだろう?」と後追い的に研究しているのだ。
シンナー中毒になって、体温が上がっても、電磁波によって「目の焦点を合わせる」ことによって「エネルギー保存の法則」が働いたために参考書が読めたのだろうとも言われている。
ベルリン学派は「どんな分厚い参考書も、パチンコをやる感覚だっただろうね」と指摘している。
書斎にはタバコの匂いとシンナーの匂いが程よくブレンドされた「いい匂い」があったし、それにともなう興奮は、電磁波が「目の焦点を定める」役割を果たしていたのだ。

知識には二種類ある。
「ノウハウ」と「ノウザット」である。
自転車に乗れるようになったというのは「ノウハウ」であり、2004年にレッドソックスがワールドシリーズを制覇したというのは「ノウザット」である。
ノウハウは「テクネー」と呼ばれ、上達をともなうものとされたが、ノウザットは「エピステーメー」と呼ばれ、ノウハウの膨大な蓄積からもたらされるものだ。
アクィナスが何かを成し遂げるたびに、スコトゥスが「エピステーメー」(結果)だけ欲しがって、「テクネー」(ノウハウ)をまったく知ろうとしないことを知った。
Madonna I Know it

エピステーメーを証明するたびに、周囲は「俺でもできる」と言っていたが、テクネーの蓄積がエピステーメーを生み出していたため、テクネーとは「仲間を作り、物事を治めながら積み上げていくものだ」ということを周囲はまるで理解していないようだった。
いずれにせよ「自転車に乗れるようになった」「英語が読めるようになった」というテクネーがワールドシリーズ制覇と言うようなエピステーメーにつながるのだ。
アリストテレスは「テクネーを学習するのはお金との相談だね」と語った。
エピステーメーとテクネーは「トップダウン」「ボトムアップ」の関係にあった。
「ノーベル賞を取った」「ワールドシリーズに勝った」などのエピステーメーの背景に膨大な「テクネー」が存在することを理解していないのならば、そもそも「エピステーメー」という「結果」は生まれないのだ。
「テクネー」が見えないのであれば、「ボルトにも勝てる」などと言い出すだろう。
どの業界の「テクネー」も知らないからである。
ボルト 世界新記録

スーパータイガージムに入門しても、みんな雑談しているだけだ。
トレーニングをしようとしたらいじめられる。
そのためには、いろんなものをおごったり、よく話し合ったりしなければならない。
テクネーとはそのようなものの積み重ねであり、エピステーメーは結果だけドンと示されるだけだ。
朝鮮人が「知ってました」とエピステーメーに対して言うのは、ずいぶん勝手だと思うが、英語ではI Knewというのは「不思議ではないね」という意味である。
朝鮮人も独特の訛りがあるのだろう。
親が「知性」を愛さないのならば、どの世界のテクネーも学ぶことはできず、エピステーメーなどもたらされるはずはない。
あるいは、「おばあさんが死んだらすべてのいじめネットワークが動き出す」とも言われる。
藤井聡太 おばあさん

すべてのプロフェッショナルは「知的」な仕事である。
しかし、親が「知性」を否定するのならば、「テクネー」は身につかず、エピステーメーだけを見るようになるだろう。
つまりは「癲癇」になるというわけだろう。

2018年10月 3日 (水)

横浜DeNAベイスターズ2018年回顧録。

そもそも、私が外交やスポーツビジネスを学んだのは、外交問題評議会(CFR)が出版している「フォーリンアフェアーズ」を読むことによってです。
その中でも印象的なアメリカの体験談が「ピョンヤンプレイブック」という記事でした。
プレイブックというのは「スコアブック」という意味ですが、北朝鮮はアメリカの軍艦を拿捕したり、海岸を歩いているアメリカ人を殺したりしてはアメリカを怒らせてきたのです。
それでも北朝鮮はびくともしません。
そこで、オバマ政権は世界地図を良く見てみたのです。
北朝鮮は「ロシア、中国、韓国、日本、アメリカ」のど真ん中に位置していて、「アメリカさえ怒れば、周辺国からお金が放り込まれる」仕組みになっていました。
そこで、オバマ政権は「忍耐強い無視」という政策をとり、北朝鮮に何をされても怒らないことにしたのです。
すると、「北朝鮮の王朝マネーが縮んだのが観測された」のです。
これが、外交やプロスポーツの「ゲーム」の実態だったのです。
「どんなゲームを仕掛けているのかを見抜く」これが外交の基本です。
これを参考に、私は「ブログで哲学を書くと横浜DeNAベイスターズが勝つ」というゲームを構築しました。

昨日今日になって、横浜DeNAベイスターズは、クライマックスシリーズ進出をかけた大事なゲームを迎えましたが、私は昼間に眠らされたのです。
「ここが拠点だ」と見抜いた連中に潰されたのかと思ったのですが、試合が始まってみると、私を眠らせた安倍洋子さんや美智子皇后が「試合に勝ちたい」と言い始めたのです。
そこで分かったのが、彼女たちは「私の部屋でドンちゃん騒ぎをすればDeNAベイスターズが勝つ」と思っていたことなのです。
プロとは何か、それはもちろん、いち打席にかける負担ともらうお金をいかに「割に合うものに」するのかであり、ボールのスピンをにらみ続けると選手生命は確実に縮みます。
ストレートと変化球の違いはバックスピンとトップスピンの違いであり、それをピッチャーがリリースした瞬間に見極めると確実に視力は落ちます。
そこで、「球場にお金を送る」というのがブログの仕事であり、ファイナンスの仕事となります。
しかし、安倍洋子さんにせよ、美智子皇后にせよ「部屋でドンちゃん騒ぎすれば試合に勝てる」と考えていたのです。

三回表のソトの打席で、ソトは、アウトコースのボール球のチェンジアップを、二球続けて空振りし、「ボールのスピンを見ていない」ことが分かりました。
この時に、チーム全体に「お金が降っていない」ことが分かりました。
安倍洋子さんや、美智子皇后に「ゲームとは発見するものだ」ということを理解してもらう必要がありました。

ちなみに、オバマ政権が高らかに「成功体験」として語った「忍耐強い無視」というものが韓国をどれほど怒らせていたかがのちに明らかになっています。

ブログとDeNAベイスターズの勝敗の連動といってもそんなに簡単な話ではありませんでした。
8月の中旬に「プロとしての女の人生」という企画を立ち上げ、
①処女ならばバチカン市国からお金をもらい、
②そうでないのならばフラメンコを覚えて、「そのステップ遅れているわ」と言ってビルバオビスカヤアルヘンタリア銀行からお金をもらい、
松田聖子 ダンシングカフェ
③結婚したならば、コーラスをやって、主婦層の縄張りと新聞の地割を一体化させ朝日新聞からお金をもらう。
という企画を練り、ラミレス監督は「8月が終わったらまったく違う位置にいるだろう」と喜んでいましたが、最終的には順位は最下位のまま変わりませんでした。
外国国家からお金をもらうということの難しさをこのとき悟りました。
日本国がロシアにお金を払ってどれほど疑心暗鬼になったかという研究が足りなかったのです。
日本国も善人ばかりの国ではありません。
しかし、9月に立ち上げた「DeNAゼブラ」だけはクリーンヒットしました。
床屋さんの話題でスレがもちきりになるほど好評な出だしを見せ、その後もどんどん加筆して行き、創価学会の教義なのか神社の教義なのかはいまだに不明確ですが「奪い合い」になりました。
これが、現段階の日本の「論文」の到達点となりました。

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