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2018年8月 4日 (土)

文字を読む力。

文字を読むという営みは「美しい経験」である。
そのことによって「異性と出会える」ことがなければ「何を言っているか分からない」と思われ、小論文の成績も悪い。
常に「最短距離」を歩ませてくれる媒体は確実にある。
法学部ならば「法学教室」「ジュリスト」などであろうし、哲学や経済学ならば本ブログであろうか?
勉強したのならば「コンパクトに女の子に話したい」というのが受験生であり、女の子は耳学問に近い。
模試でいいスコアを叩き出すのもいい効果がある。
「僕はもう文字が読めない」というぐらい女の子から優秀な男を遠ざけて「最高の媒体」への嗅覚を磨かせるのは日本や中国の伝統である。
絶対解ける問題。

食べる、歩く、風呂に入るために「最も美しい文章とは何か?」は、その男や、その男が書く文章を取り巻く「女性の数」で決まる。
ドイツのロクシンは「行為」というものを「セックス」だと考えて女子たちを熱狂させたはずだ。
日本の法律家はドイツ語をそのまま「頑なな」文章に翻訳している。
法律の教科書を読むのならば、もっと「女子たちを熱狂させる」文章とも慣れ親しんでおかなければならない。
「文字とは男である」
このことから、神がかった文章を書く男は「神がかって」いなければならない。
いい文章を書きたければ「生き方」まで考えなければならないという指摘は斎藤百合子が世界で知られている研究を行った。
孤独と慣れ親しむ(ワビ)、年寄りの文章をよく読む(サビ)、イキイキと女の子と話をする(イキ)、昔の縁を断つ(キレ)、音楽作品をよく聞く(幽玄)、深刻な歌の意味を探求する(モノノアワレ)、これが理解できないのであれば法律書ほどの「悪書」はないだろう。
ロクシンは「行為」を「セックス」と考えていた。
このことからはるかに遠い議論をする法律書ならば読まないほうがいい。
仕事をしたくないから、お金を払いたくないから「細かいルール」を学ぶ男に富がもたらされる訳がない。
食べる、服を着る、快適な環境で眠ることからもたらされる「文字を読む」という活動は美学なのである。
常に自分を「日本の美」と重ね合わせて磨いていくのが読解力であり、文章力である。
いつも言っていることが「オーラ」という魔法にかけられて人々に衝撃を与える、これが文章力だ。
女性たちを熱狂させ、しかし、本人は極めてストイックに生きる、これが「オーラ」である。
デート注意報 後藤真希。

学生時代に女の子に縁がなくて「僕はもう文字が読めない」といったことのある東大生はある意味、不幸であり、決して美しくはない。
しかし、「名誉教授」とも呼ばれるようになる男はこのような経験をしている。
のちの世代にこのような思いをさせたくないと思うから、言っていることはきわめて優しい。
斎藤百合子が世界で最も「文字の読み方、書き方」に詳しいのであり、「分からない、分からない」と言うのならば「女の子たちの距離感」の違いだと考えるしかない。
「僕はもう文字が読めない」と思った時に大声で歌ったりもした。
最高の本を求めて本屋をうろついたりもした。
このような経験がなければ「最高の指導者」を見つけることはできない。
「読解力・文章力とは女の子との近さである」ということを忘れてはならない。
藤本美貴 大切。

1950年代から1960年代にかけて、アメリカの黒人の間でも「私有財産」(セックス)、「政治」(女心の定義)、「経済」(男が女を愛する)という分野で「文字を読む必要性」が生じた。
それは政治(女心の定義)により生じるお金だけにとどまらず、卒業や夏休み、別れなどの社会契約論や、父と息子のあり方、男らしさへの崇拝(宗教)から生じるお金にも関わるものだった。
「札束というものがどこからくるのか?」
それは「文字」からくるのであるが、シンクタンクのような「異性に近づくことには必ずしもつながらない」文章を書くのであればあまりお金にはならない。
私有財産、政治、経済、社会契約論、宗教などからお金というものはくるものであり、キャッチコピーのように「パンチライン」だけを狙った「言葉づくり」だけでは舌足らずな部分がある。
鬱病患者の精神論がキャッチコピーであり、ニーズは高いであろうが、読者のお金には必ずしもつながらない。
お金、家、医療、雇用に必要なのは「文章」であり、キャッチコピーではない。
マーチン・ルーサー・キング・ジュニアが黒人に「選挙権を与えよ」と言ったのはこのような「言葉」「文章」へのアクセスを求めたのであり、それはそのままお金や家、医療、雇用につながるものだった。
差別の対象となる人は医者にはなれないが、黒人はもはやそうではなかった。
アメリカの「王位継承」である大統領選挙があるたびに「差別される民」は生まれていたし、ランピー族やチカホミニー族を差別から除外することなどが公約の一部となったりもした。
「読むと異性に近づける」
これが政治であり経済であり、私有財産であり、宗教であり、社会契約論だった。
伝統的にはこれらの分野にどれほどの「知恵」を注ぎ込むかが学問の歴史だった。
「民主主義は多数決だ」と単純に思い込んではならない。
「人間の半数は女性である」という意味であるからだ。
民主主義がどれほど「学問」というものの形を変えたであろうか?
そして、民主主義とは「お金の勝負」なのであるから、サラリーマンにはとうてい稼げない「お金」がある職業政治家によって生み出され、マイノリティーがどれほどそのような「機会」を求めたであろうか?
「私たちの政府」とはこのような職業政治家によって形成されて行ったのであり、キムリッカがそれに参加したいのであれば「文字」「文章」の読み書きができなければならない。
夏休みは終わらない おニャン子クラブ。

「私たちの政府」に参加するためにはお金が必要である以上、王位継承の敗者を「文字から遠ざける」のがもっとも都合のいい「罰」だった。
言語に卓越した才能を持ち、「日曜日に魔術を仕掛ける」と噂されたユダヤ人差別とは異なる「差別や怨念」が王位継承にはともなった。
「女の子と楽しく話しができない」
それは社会人としては重傷を負うことを意味した。
大統領選があるたびに、それらの被差別部落はアメリカにおいては救済されてきた。
日本でも皇位継承にそれを託そうというのが被差別部落であったが、「政権交代よりも簡単」と皇位継承が考えられたのは屈辱以外の何物でもない。
「読みたければ読めばいいのに」とは思わないほうがいい。
「下水」を封じられただけで人間は文字が読めなくなるのだ。
アメリカにおいても、黒人はアメリカ南部の「ブラックベルト」と呼ばれる地域に住んでいたので、簡単に下水から排除することができた。
しかし、この問題も「州レベルで」ハリー・ヘイウッドが解消させた。
アメリカの黒人は「全米各地に散らばる」というインクルージョンストラテジーと呼ばれる戦術をとった。
文字や文章が読めなくなった連中が目指すのは「馬並み」のおちんちんであり、勃起した時に根っこを抑えてしまうという訓練ぐらいしか親から教わらなかった。
「馬並み」の男は無口でも女にモテたし、それは種の保存の本能として成立した話だ。
アメリカ大統領選挙で怨念の対象となった連中が「インディアン」というあたかも「アメリカ原住民」のような名称で呼ばれていることにも1968年に法律が作られ、なんらかの対応が求められた。
「原住民の娘とは結婚するな」という言い伝えは政治意識の高い年寄りによって語られていたものだ。
しかし、キムリッカ族は1995年になっても、この問題と向き合っていた。
サンタ・クララという国民的アイドルが生まれ、この問題は大きな争点になった。
男は「文盲」でも「女の子の魅力」は変わらないではないか?という問題だった。
女の子は「ガラの悪い男たち」に囲まれて育ったと語られた。
しかし、サンタ・クララはソフィアの進学科に行きたかったし、キャビンアテンダントになりたかったと語っている。
権力闘争で怨念が生まれている、このことを利用するものは「社会的暴君」とも呼ばれた。
タンポポ 恋をしちゃいました。

選挙権を与えれば、政治家から「口説かれる」のは明らかではないか?
しかし、選挙人名簿から50%の部落民が排除されていた。
このサウスカロライナ対カツェンバッハの問題は2006年になっても解決しなかった。
シェルビーカウンティ対ホルダー(2013年)は、日本国の皇位継承で問題意識を世界に発信させた方が良いのではないか?とロバート判事は発言している。
選挙権とは異なる「エネルギー」は日本にしかなかったし、「圧力に屈する」という形で社会的暴君を抑え込む可能性が日本の皇位継承で見られたのだ。
ブルース・アッカーマンがある「アメリカ大統領選挙っていう最悪な制度だな」と語った真意はここにあった。
オバマが黒人初の大統領になったが、1970年から徐々に時代を進めていこうという考えを「ベースライン」と呼んだ。
オバマ大統領が誕生した時に我々が見た「達成感」がベースラインというものを作ったのだ。
人間は錯誤に陥るから犯罪を犯すということもベースラインから明らかになった。
また、アメリカは「異なる人種同士の結婚」を同性婚という「もっと酷いもの」を認めることでむしろ先手を打った。
「部落の女は美しい」ということを巧みに利用したものだった。
同性婚というのは「女同士」「男同士」でなされる結婚のことであるが、「生産的でない」ものでは決してなく、「里親」として子供を受け入れる温床となっている。
パートナーを「ナンバーワンパーソン」であるとしてなされるのが結婚というものであるが、女同士の結婚はセックスが「お腹をさするだけ」というように「男とセックスできない女」にとって極めて都合のいいものだった。
結婚という仕組みが「チャイルドプロテクション」(子供を守る)のためにもっとも都合のいい仕組みであったが、「父親らしさ」を女が演じるよりも「母親らしさ」を男が演じたほうがよりリアリテイがあると言われ、しかも「男の方が所得が高い」ということから「ゲイ同士の結婚」の方がレズビアン同士の結婚よりもいろんな意味で受け入れやすいものだった。
また、「障害者」の特別支援学校の送迎バスを街で見かけることも、人々に「インディアン」(部落民)だけが差別の対象ではないというメッセージを与えたため、「大統領選挙」「皇位継承」というものが生み出す「憎しみ、憎悪」を見えづらくさせた。
特別支援学校の送迎バスはまるで自らを宣伝しているがごとく街を走っていた。
「憎しみを生み出すのは王朝変遷だけではない」というのがいいことなのか悪いことなのかは明らかではないが、「それだけが世の中ではない」という意味を持つため、同性婚や障害者の連中が「いてくれるだけでありがたい」と国家統治の側は考えていたのだ。
女同士の結婚式をディズニーランドが認めたが、アメリカのお伺いを立てており、このような研究報告書を受け取った結果、認められたものと思われる。
女同士の結婚、激論。

アフリカにおいては「文章を読める者は女の子と楽しく話ができる」という発想は「文字を読める人は人気がある」という方向に誘導された。
「オルカプロジェクト」と呼ばれる識字率向上のためのプロジェクトが展開され、文字を読めるムブヤ・アココがヤカンを持っているのならば彼の仲間はみんなヤカンを持てるようになるという具合に「自分の仲間からエリートを1人出せばいい」という発想でそのプロジェクトは進められた。
シミユ・チャンゴもそのような「文字が読める」男の1人だったが、「誰が正しいかは物を仲間にもたらした者が決めるべきだ」とした。
「アフリカ伝説哲学」とは識字率の向上を目指したものであり、人々はオルカプロジェクトにしたがい、案外、エリートの言っていることを理解していた。
ワールドカップでアフリカが案外、強いことの秘密はオルカプロジェクトが背景にあるのだ。
女の子との距離が非常に遠いという「ソクラテス以前」の文化を持ったアフリカ人が、男女の距離を「言葉」によって急激に縮める、これさえできればワールドカップでも強豪チームは生まれるのだ。
「家具などの物で釣る」ことと共同体意識を背景にそのプロジェクトは進められた。
一方で、ピーター・ボドゥンリンのように「アフリカで伝説になると命の保証はできない」という人もいた。
しかし、ワイドショーは毎日のように放送されていたし、その解釈をしてくれる人は必要とされた。
新たな話題があるたびに「必要とされる男」はいたのだ。
平時ならば文字の読めない男たちだけでも成り立つだろうが、ワイドショーの存在は「毎日が有事」であるという文化を作り出すことに成功していたのだ。
オルカプロジェクトがワイドショーを広めたと言っていい。
ケニアやルワンダでようやく「寺院」が建ち始めた。
アフリカ人が楽しむワイドショーの「真実」を知っている「文字の読める男」への信仰心が生まれたのだ。
アフリカほど「男をリーダーにすること」を嫌った地域はなかった。
しかし、家具などの「物で釣ったこと」「判断する権限を与えたこと」「ワールドカップがあったこと」「ワイドショーがあったこと」そして何よりも「あれだけ触ってはいけないと言われていた女の子と仲良くできるようになったこと」からアフリカに寺院が作られたのだ。
アフリカの寺院。

エロヒムは言った。
【自分の行動や状態(国)、そして他者の行動や状態(国)を動かすもの、すなわちお金なり】

ブルゾンちえみ「たとえば、私がシャツを一枚脱ぐとします。皆さん、興奮しますか?」
「お金ちょうだい」
ブルゾンちえみ「たとえば、with Bの1人が抜けてしまうとしますね。残った私たちは結ばれてしまいます。仕事にならないじゃない?」
「35億」

何が正しい行いなのかは、お金が決めてきた。
しかし、その自由を権威と政府が「暴力」を用いて統制してきたのだ。
「労働」というものが「精神史的文脈に位置付けられる」というのもこの問題だ。
勉強しなければお金にならない、言葉にしなければお金にならないなどの「働く」ということの意味がここには込められている、
「金と暴力がモノを言う」
その瞬間が人間社会にはどうしてもあるのだ。
生きるためのお金、選ぶためのお金、投票するためのお金、働くため、そしてストライキをするため、男らしさは皆同じだという主張の背景にあるものもお金だ。
お城というものはお金から作られている。
しかし「金と暴力は常に裏と表の関係にある」のである。

上記のブルゾンちえみのネタは「暴力によっても達成できる」ものなのだ。
あとは「いかに頭を使うか」というのが大人の世界の「仕事」となっている。
この世界で「自由にものを言い合う」というのが社会の実態なのである。
「権利のための闘争」
それがいかに豊かさを持って繰り広げられるかが問われた。
女は「セックスするときはいつも本気」であることが「金と暴力」の発信源でもあった。
人々がもっとも慣れ親しんだ「お金の話」がセックスだったのだ。
人々の「祝福」もほとんど別格だった。
ribbon 愛してジャスティス。

しかし、女の側から「愛をうまく囁けない人ならば結ばれないよね」とも語られた。
男の側からも「当然、俺らも"いい女選び"はやっている」と語られた。
このことから「1人っきりで映画を見る女」も生まれたし、「ベッドルームを真っ赤にペイントする」女も生まれた。
これらのことをより「厳格に」理解したものに「免許」を与えているのが現状だ。
「春闘」というものもベースアップ、定期昇給を求めて行われるものだ。
「いかに言葉豊かに」交渉するかが春闘の目玉とされている。
その「言葉」に耳を傾け、そして判断するものを「権力者」「経営陣」と呼んだ。
どの「言葉」をより高く評価し、お金を流すかを決める力を「権力」と呼んだのだ。
国会は庶民が通常、慣れていない言葉にも慣れている。
アメリカ議会の議員に牧師さんが多い理由がここにある。
庶民が議会からお金を引き出すことの難しさはこのあたりが理由だろう。
男の議員は女好きだったし、女の議員はまるで庶民だった。
エース級が常に予算を請求しなければならない。
エース級の人は「盲目な男と巨象」ぐらいの違いがある。
「セックスから言論を組み立てる」というJSミルの主張は日常のオンエアにおいては弱いだろう。
しかし、ゴールデンタイムはこれを前面に押し出さなければならない。
なぜならば「予算請求のために人々が覚えておく」ためにチャンネルを回したからだ。
みんなゴールデンタイムへの出演には力を入れている。
すべての作家も、その日の頂点を目指して書いているのだ。
あくまでも文学である。最後にほんのりとした気分になれればいい。
しかし、庶民の「時間」を買い取ったのだ。
一人ぼっち。

カントやザビーニー、ケルゼン、シュタイナーなどが「予算の請求の方法」をゴールデンタイムに仕込んでいる。
ゴールデンタイムにはテレビの前に座っていた方が仕事に生かされるものだ。
信託銀行の人も同じ番組を見ている。
「同調義務」というものが社会人にはあるはずだ。
映像技術はもはや高度化しすぎて分からないだろう。
しかし、国民全員が「その日の頂点」を目指して作家になっている。
クレーマーとシュタイナーはこのような「国民全員が作家である」という主張を行い、今では「ブログ」という形で現実化している。
結局、「お金」というものは「まったく違う人種」を知ることから生まれている。
「いいセックス」「公正さ」これらをゴールデンタイムは「お金」に変えていた。
ローマ法学者のウルピアンが、ゴールデンタイムの伝統を形作ったのだ。
どうしてもチャンネルを変えたければ変えればいい。
それがあなたの「心の限界」なのだろう。
しかし、裁判ではその作家は刑務所送りになっているだろう。
判事をうんざりさせることほど重い罪はないのだ。
ゴールデンタイムに「重たい女」ほど貴重な存在はない。
人々はその「意味」を知ることがいい学習になった。
紀州のドンファン妻。

「忘れてはならない日」に間違った行動をとるとお金の問題になる。
それでも飽き飽きすることはあるだろう。
どれほど多くの人が「同調義務」を果たしているかを見るのも必要なことだ。
「すべての男はモテたいと思っている」
しかも、勃たなければ仕事ができない。
要するに「興味のある番組を見たほうがいい」ということは指摘していい。
うんざりしたからではなく「心がもたない」と言ってチャンネルを変えるのであれば作家は刑務所送りにはならないのだ。

「因果関係」
真剣勝負の世界で、指導者がプレイヤーに「女を譲る、与える」。
このような問題を「因果関係」と呼ぶ。
勉強の世界では当然のように「先生」がいる。
生徒(プレイヤー)は女の子にモテるようになり、そして、いつかは女の子たちに見放されるようになる。
「男女の共存」を理解できなければ指導者の言っていることの「真意」は分からないのだ。
山根会長。

女の理由、オンエアの理由、結果が出たという理由、その後の決着の方法という理由が、山根会長の発言の裏にはある。
男が「銅像」になるためには、このような「指導者の言い分」に耳を傾けなければならない。
みんな「オンエア」しか見ていないのだ。
オンエアだけ見て銅像にすべき偉大な人物かを判断するが、結果が出たのならば、しっかりと「その後の決着」を立派に行わなければトラブルになる。
女たちにモテモテになった村田諒太が、山根会長を悪くいうのは「後始末を間違えている」と言うしかない。
銅像は「溶かして別の人に作り変える」ことが可能だ。
本当に「賢い」者しか後の世には残らない。
銅像づくりの職人はこのような「全体像」を見ている。
それが「政治意識」というものだ。
女たちの支持を背景にかつての指導者を批判すると「もはや勝てなくなる」とも言われる。
その程度の政治意識の持ち主であると語られるからだ。
下半身事情にせよそれ以外のプライベートにせよ山根会長は「言いたいことだらけ」なのだ。
「誰もが銅像になれるのか?」と言われると「ノー」と言わざるを得ない。
「もう結果が出せない」
かつての指導者批判はそのような声にも聞こえた。
山根会長にせよ村田諒太にせよ「もっとも気分のいいこと」を言っている。
しかし、若いのならば「牙」を磨かないと歴史に名が残らない。
山根会長に育てられた男たちはこれらの問題をうまく「クリアランス」しなければならない。
「女」「オンエア」「結果」「クリアランス」という四つがうまく回らないと「男が男を育てる」という世界はうまく回転しない。
村田諒太としては「男山根」と言いたい放題言わせてやろうという作戦がいちばん賢い。
山根が吠えれば村田が防衛する、そのような「お金の回転」が始まったのだ。
しばらくは山根会長に吠えまくってもらいたいね。
それを「邪魔してやろう」という「村田の敵」も動き始めたけどね。
この「因果関係」と「重要性」をあわせて「要素」と呼び、民法における錯誤の議論となっている。
要素に錯誤がある場合に「無効」が認められるのだ。
本来、女をめぐって「騙し」が行われた場合に「無効」の状態を作り出すために「取消」というものはあった。
取消とは、夏目漱石の「こころ」の先生のように「なかったことにしたい」という心の旅路のことであり、どうしても「無効」にはならないものだ。
しかし、山根会長と村田諒太の関係は「構造を明らかにする」ことで「錯誤の無効」になる可能性がある。
メデイアが「重要性」を認識すれば、それは「要素」となり、世の中の全員が「自らのあり方を叱られる」形で「なかったこと」にできるのである。

人生の最後には死がある
幸せとは人生の最後であり、目的である
したがって、死とは幸福である

この論理が「騙し」の基本である。
曖昧さを一切、排除した形で他人を騙しているのだ。

神は治めることを知っている
治め方のひとつは寛大であることだ
したがって神は寛大だ

言論の自由は「言葉の計算」によって行われているため、言論は常に「寛大さ」にあまえている。
人間の過去はすべて弱みである。
かつてKKKに属していたことも弱みとなる。
プロの作家は人間の過去を語る。
そのために「神の寛大さ」にあまえているのだ。
「言論の自由」という騙しのもとに生きている。

大学に行きなさい
単位を取れないといい会社に就職できないでしょう
いい会社に就職できなければ人生が楽しめないよ?
人生を楽しみたいでしょう?
だったら大学に行きなさい

すべての「論証」は騙しである。
文学とは「論証研究」ではないのだ。
「男女たちへの人気」でその価値が決まる。
言葉は計算するためにある。
しかし、計算といっても、より深く練られた「ただ感じればいい、自信の裏付けのある」文章こそが「表現の選択」というものなのだ。
「男女の共存」の世界で文章を書いているのだ。
身を固めていない男は「女目当て」で文章を書いている。
2は偶数である3は奇数だ。だったら2+3=5だから5は奇数だ。
このように「頭を使った」文章だけが「人を騙さない」というのが言論の世界なのだ。
言論の自由は「人気」が支えている。
それ以外にバックボーンは何もない。
人類の繁栄のために「表現の選択肢」は無限にある。
アイドルというものそのものが「男たちを騙している」というのが言論の世界である。
そこに「文学者」が登場し、「人気だけがバロメーターの世界」で成功し、アイドルたちの略奪愛の対象になる。
「計算されて作られた女」にとって言論の自由とはそのような人気商売だったのだ。
愛が止まらない Wink.

そもそも、政治家の演説というものも「人気」「共感」に訴えることしかできない。
実験の裏付けがあるのであれば、多少、論理が飛躍していて自信に満ちた話を人々は聞きたがるものだ。
一番よくないのが「三段論法の騙し」を利用することだ。
論文も「論理学」は活用しているが、セックスの時には頭の中がメチャクチャになるだろう。
そのような「計算」が介入しているため、論理の飛躍はむしろ好ましいものなのだ。
「結果責任」ではあるものの、しっかりとしたやり方を身につけているかどうかという意味では「プロセス責任」でもある。
論文を読んでみてもあんがい「素人」が多い。
公では紳士であるが、プライベートでは「セックスする時は頭がメチャクチャになる」という計算ができないのならば、公の発言にも責任が取れないことを意味する。
「理路整然」など大人の言うことではない。
「理路整然」ほど人を騙す議論はないのだ。しかも紳士として語るのならばプライベートの現実を知らなければならない。
背広を着て守りを固めている弁護士は信用できない。
大雑把な職人芸が好ましいのであり、「何ですか?それ」という言葉を顧客は聞きたがっているものだ。
言論の世界の「騙し」を知らな弁護士が紳士を気取っている事例が多すぎる。
いざという時に逃げられたのではたまらないのだ。
懐の深い弁護士と関わった方がいい。



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