最近のトラックバック

2019年6月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30            
無料ブログはココログ

Foreign Affairs

  • CFR: フォーリンアフェアーズ英語版

« 2018年7月 | トップページ | 2018年9月 »

2018年8月

2018年8月31日 (金)

処女。

処女の研究というものは奥の深いものだ。
たとえば、午後3時キックオフのサッカーが4:45に終了するのは「選手が処女たちの祝福を受けるためである。
松任谷由実 ノーサイド。

メリーランドからペンシルバニアまで旅をするためには「メーソン・ディクソンライン」を越えなければならない。
ブラックホールではなくホワイトホールが見たい。そのようにレナードはノートに記した。
妻が、かつて「嫌いなおばさんからもらった人形を花壇に埋めた」という話は「どのような空気と水か」を記していたので知りたかった。
しかし、セックスの記憶だけはダメだ。
おそらく自分の「所有」と関わったからだろう。
みみかきをしていると 國府田マリ子。

メリーランドという権力の中枢から来た娘はメーソン・ディクソンラインを渡るためには、勉強ができなかったという記憶は許せても、「失恋ソングなどの芸術の才能があった」という記憶はダメだ。
「おじさん、おばさん」の記憶は許せても、「父、母」の記憶はダメだ。
「4次元ではなく3次元にする努力」が必要なのであり、過去の時間背負っている女も、できるだけ「自分を3次元に」する努力が必要だった。
たぶんタブー 酒井法子。

レナードは「キスでも胸でもない」としていた。
シュガー・レイ・レナードはなぜ、一試合で10億円も稼げたのか?
答えは「なぜ自分がボクシングに専念できるのか?」という論文を書いていたからである。
銀行にコウモリのように敏感なデトロイトスタイルにも「ボーダーライン」の議論は打ち勝った。
Madonna borderline.

シュガー・レイ・レナードは「自分がなぜボクシングに専念できるのか?」という論文を妻のファニタを見て書き残していた。
マドンナの「ボーダーライン」だけでなく「ライク・ア・ヴァージン」のセールスにもつながった。
日本のボクサーとアメリカのボクサーは明らかに異なる。
「全米が彼らの資金力に熱狂する」ということの意味を知ってもらいたい。
Madonna Like a Virgin.

女の子は「男の子で数字を覚えている」(代数学)。
月曜から日曜、そしてまた月曜がくれば数字の数は「無限」を覚えることになる。
いじわるねダーリン おニャン子クラブ。

一方、幾何学は、これらの男の子とセックスすることによって自分が「女-男-女-男」という無限の連鎖の中に入っていくことを意味する。
悲しみが止まらない 杏里。

数字を数えられない女はいないのに、みだりにセックスされると困る、それが代数学と幾何学の違いであり、代数学では、「H」として知られている。
浜崎あゆみ Hanabi,

数字を数えられる女(代数学)が、なぜ、セックスすると問題を生じさせるのか(幾何学)というのが数学を探求するものの問題意識となっている。
Σ11セット(処女と童貞が結ばれた)というのをパワーセットと呼ぶが、Σ12セット(女が男を奪った)というのもパワーセットである。
愛が止まらない Wink,

【AKB48新聞を読むと頭が良くなる】
女の言葉から「経験した男の数」を見抜く眼力は最高の学問なのだ。
HOM(X.Y)つまり「自分を男だと思っている」女は男を知らない。
愛してジャステイス ribbon.

HOM(Y.Z)つまり「一人上手の癖を知っている」女も男を知らない。
ribbon さよなら。

彼氏がいると噂になっても、それを否定せずに喜ぶ女も処女だ。
「お相手候補者」を並べて喜んでいる女は処女そのものである。
女を見て「男の数」を計算するのが数学なのであり、かなり人気のある学問なのである。
女-男-女-男の連鎖のどこに位置付けられるのか?
心ある周囲が「あいつとは関わるな」と言ってくれるのかどうか?それが男女の連鎖というものなのだ。
うしろゆびさされ組。

AKB48新聞に載って「私、生きてます」というような活動をしているのならば処女である。
女たちの噂話はそれほどまでに影響力のあるものだったのだ。
セックスしたら「その二乗」の衝撃が女たちに走ることを知らなければならない。
キスシーンすら「純潔が汚染される」とされてNGになっていた。
キスシーンをオンエアしたら、彼女は周囲の女たちの複雑な計算により、「お金が集まらなくなる」女になるのだ。
キスした跡は残さないで 国生さゆり。

男の子女の子がいるとすれば、男の子がモテないか、モテるかのどちらかによって男の子優位の環境が生まれる。
モテるモテないのどちらでもない中途半端に女にキョロキョロしていると「女の子優位」の環境になる。
Melody You are only my love.


【つづく】

2018年8月22日 (水)

因果関係。

安倍晋三49%、石破茂16%、石破茂は小泉進次郎の19%すら下回る。
これが9月の総裁選の予測である。
どうやったら石破茂は番狂わせを起こせるのだろうか?
Qlair 君住む街。

答えは「死」という無限にしか答えはない。
番狂わせの背景にはいつも「死」という無尽蔵の富があった。
安倍晋三を「殺す」ことは勝利にはつながらない。
自分の破滅にもつながるからである。
「他人の死を待つのも作戦ですよ?」そんなたわごとは皇太子徳仁だけに言わせておけ。
自分がひたすら「死とは何か?」を探求する以外に番狂わせを起こす方法はない。
安倍晋三に「知性」で負けた時に、彼女(吉澤ひとみ)が部屋から去っていくのがわかった。
石破茂はこの時に「自衛官がどんな時に死を覚悟するのか?」を知った。
中森明菜 リフレイン。

人が死んで勝つことほど簡単なことはない。
小野光太郎は、三笠宮が死んだ時も池田大作が死んだ時もそう思った。
「これでは俺が伸びないんだよな」
他の男に知性で負けて、彼女が部屋を去っていく、このリフレイン(カサブランカ)を理解すること以外に番狂わせの理由はない。
小野光太郎は常に勝ち続けていたので、知性で皇太子徳仁や秋篠宮文仁に負けることはなかった。
戦いは「常に優位」にあった。
もし、皇太子徳仁や秋篠宮文仁が「カサブランカ」(リフレイン)の問題と真摯に向き合い、その心情を吐露するのであれば接戦になったであろう。
しかし、彼らは死と向き合ってはいなかった。
「小野光太郎が死んでくれればいいのに」
そんな連中だったのだ。
さて、自由民主党総裁選であるが、石破茂は安倍晋三の三分の一しか支持を得ていない。
それでも一騎打ちになるだろう。
「恥ずかしくないようにボロ負けしよう」と考えるのならば何の波乱もない総裁選になる。
しかし、石破が「死とどのように向き合ったのか」を明らかにしたら局面はガラリと変わる。
もう一度キスしたかった Bz.

安倍晋三の死を望むのではなく、自分の死と向き合うこと、これをやらないと「勝負から逃げる」ことになる。
終始劣勢であること、それは自分が世論から憎まれていることを日々、マスコミが報じることを意味した。
支持率が伸びないのは「人気がない」からではない。
「世論から憎まれている」からである。
それでも、メディアに数字を出させるということは「勝負に出た」ということである。
あとは、世論から憎まれて、テレビで見るよりはるかに可愛い吉澤ひとみが自分の元を去っていく心境を歌にする以外に接戦に持ち込む方法はない。
Bz alone.

安倍晋三は金閣寺である。しかし、三島由紀夫は「金閣寺」において、「時代の陰にある銀閣寺」を描いていた。
そこには常に「死と向き合う男たち」の姿があったし、その本を書き上げた後に自衛隊の市ヶ谷駐屯地に向かった。
「クーデターが成功する公算がある」
佐藤栄作首相は大混乱に陥った。
世界を敵に回して、その心情をより内向きに探求し、表現する、外国人女性観光客は金閣寺には目もくれずに銀閣寺を見に来た。
そこには、第二次世界大戦の戦没者のサビがあったのだ。
B'zに熱狂する日本人女すら知らないことをアメリカ人女性は知っており、哲学の小道を歩いて銀閣寺を目指した。
愛のままにわがままに僕は君だけを傷つけない。

時代の寵児は各業界に一人しかいない。
しかし、いろんな世界に「銀閣寺」の支持者はいるのだ。
世界を敵に回すのは「弱い」からだと公然と言われる男たちは確実にいる。
経営者と従業員の関係にも似た構図が世の中には無数にある。
その「従業員」(銀閣寺)あるいは自衛官の心境を理解しないものは指導者にはなれないだろう。
「信用できる男かどうか」だけを見られているのであれば、知性などあまり問題ではないこともわかる。
加計だ森友だ、野党と同じことは言わないことだ。
野党の「なんでもあり」とは異なる戦いが自由民主党内で「より内向きに」展開されているのだ。
大きく水をあけられて「なんでもあり」の道を選択するのならば皇太子徳仁や秋篠宮文仁みたいな惨めな負け犬にしかなれない。
時代の寵児の死を願っているうちは「金閣寺の放火魔」となんら変わり映えはしない。
三島由紀夫ほど銀閣寺を、そして自衛隊を愛した男はいない。
結果無価値論(女たちの考え)は、一般人が接戦を予測できることを因果関係とし、より男らしさを男に求めた。
CoCoの「夢もの」なんて女々しくて聞いてられないわ。
CoCo 夏空のDreamer.

本当に愛される「カップル」というものは「男が敗北を知っている」ものではないだろうか。
男は世界から憎まれ、女が部屋を去ろうかと思うようなカップルなのではないだろうか。
批判されるカップルの絆はあんがい強いものだ。
男の側が「何か普通ではないもの」に挑戦しているからだろう。
しかし、政治力で劣勢に立たされるということは「女心を知らない」ということであり、石破茂は吉澤ひとみと喧嘩ばかりしているのではないだろうか?
「アニメの何が面白いんだ?」
石破は吉澤に聞いた。
「女心ってのはアニメみたいにバカバカしいの、男に聞かなければ自分の気持ちも分からない」
そう吉澤は答えた。
男社会で石破が安倍にかなわない部分があるとするならば「女心はアニメでできている」ということに疎かったということだろう。
SPEED Deep blue & truth.

なぜ、世論に憎まれたのだろうか?
それは、アニメを理解しなかったからであり、しかも、女性にも参政権があったからである。
アニメの主人公の男の子はイエスキリストの養子であった。
しかし、ルパン三世にせよガンダムにせよ「湾岸戦争にまったく太刀打ちできなかった」ではないか?
たまに男が「イエスキリストの養子」と重なって見えればいい。
本当にアニメの主人公のような視野の狭い男がいたらおそらく頭が悪いと思う、吉澤はそう思っていた。
最新アニメPV.

哲学を勉強すると何が変わるか?
それは「多くの男たちが失恋して、好きな女を独り占めできる」ということだよ。
勉強ができる奴は哲学と親しみやすく、オシャレになっていくんだ。
石破茂は、どの女とでも話す気さくな男ではなかった。
女で失恋し、勉強で負け、いじめられ、健康を害する。
この四つは「痛みという意味では失恋と同じ」とされ、どれか一つを経験すれば「人生の一通りのことは知った」ということができた。
女を寝取られることは、受験の不合格、いじめられること、病気になることと同じ痛みであり、エリートは同窓会でいじめられて政治家になるし、有名になると周囲からの眼差しが気になって病気になる。
すべての痛みを経験したら「国士無双」だよ。
だから、吉澤ひとみは石破茂に懐いていた。
「痛みを知っているおじさん」に懐いていたのだろう。
快適な環境に身を置きたいと考える女にとっては非常に癒されるおじさんだった。
おじさん東大?何か話して?
小野光太郎は「期待されていないことができないのが女らしさだ」と同じ病棟で発言したので、吉澤ひとみが2度と近寄ることはなかった。
吉澤ひとみにとっては「女心をまるで知らない男が気持ちいい」という思いがあったために、石破茂に懐いたのであろう。
「期待されていないことができないというのが女らしさだ」
この発言を聞いて、吉澤ひとみは転院してしまった。
石破茂というまるで「女心」を知らない男がいなくなるだろうと予感したのだ。
「勉強ができる人が何をやるのか?」
それは「女心を知る」ということだよ。
Bz 今夜月の見える丘に。

ライヘンバッハは、常に「その国の時代の発言者は一人」であることを気にかけていた。
Bzに共感を覚える人が「常に多数派」だとしたのだ。
ジャニーズ帝国(安倍晋三)すら怯えさせたのがスタンフォード大学であり、小野光太郎であった。
小野光太郎は、決して石破茂に大命を下したわけではなかった。
時代の発信源として「石破茂とは何者か?」を語ったのだ。
「台風を撃退できる」
「タイムマシーンが作れる」
「日本人はアラブ人の祖先」
「女の人生の体系化」
などを行なったスタンフォード大学(小野光太郎)は、ジャニーズ帝国を震え上がらせ、今回は安倍晋三に「総裁選が終わるまで家にいてくれ」と言われている。
もし私が石破茂と組んだら、安倍晋三は屍となるだろう。
しかし、私は石破茂は「近所でよく見かけるおじさん」としか思っておらず、また、石破茂からの連絡もない。
今回は「吉澤ひとみが懐いていたおじさん」としての石破茂を語らせていただいた。
この国は「独裁者を嫌っている」「カリスマいらね」という本音を持っていることを理解しなければならない。
しかし、9月20日の自民党総裁選は、石破茂が安倍晋三を「刺す」可能性があることも指摘しておきたい。



Aが小野光太郎で、Bが安倍晋三で、Cが石破茂となっている。
Bz チャンプ。

「悪」とは人気のあるものだ。
なぜなら「攻略法」が明確だからである。
「勉強悪」と「孤立悪」の二つがある。
勉強不足の悪は、「神に祈れば攻略できる」ものだ。
全知全能の「先生」の導きによってどうにでもなるのが「勉強不足の悪」(勉強悪)である。
しかし、殺人などの「世界から孤立してしまう悪」(孤立悪)は扱いが難しいね。
「俺は少年院上がりだ」などと言ってのちに多数派工作に利用されたりするからだ。
政治の世界では「政策」で攻めるか「政局カン」で攻めるかの違いが見られる。
加計だ森友だという「孤立悪」が多数派工作に利用されることもある。
なんのために勉強してきたんだという「巨悪」も存在する。
9・11テロ フォーリングマン。

一方で、「勉強さえできればなんでも許される」という発想も存在する。
ヴァンパイヤや、狼男のような「サタンの所有物」は、「勉強がずば抜けている男」に浴びせられた「孤立悪」の指摘であり、その批判はなんら有効ではない。
サタン崇拝とは「王位継承崇拝」であり、その「勉強さえできればいい」という発想に傾きがちな男は、のちにヴァンパイヤや狼男と呼ばれている。
「孤立悪」の扱いの難しさはここにある。
イラン・イラク・北朝鮮をジョージ・W・ブッシュは「悪の枢軸」と呼んだが、北朝鮮は自らの影響力を楽しみ始めただろう。
勤勉な彼らにとって「俺らは狼男っすか?」という思いがあり、勉強だけの日々に希望が見えたのだ。
母国語の朝鮮語だけでなく、日本語や英語を学ぶ彼らの姿勢は、日本人からは「狼男」「孤立悪」などの噂で満たされるようになっていた。
孤立悪の噂はなんら有効ではない。周囲がビビってしまうだけだ。
在日朝鮮人が朝鮮人のアイデンティティを捨てられない理由もこの辺りにある。
【女は彼氏と付き合っていくたびに、彼氏が子供に興味を持ってくれるのかな?家庭に縛られるのかな?と追い詰められていく】
BoA Is this love?

ニーチェは「善悪の彼岸」において「悪は伝説につながりやすい」としている。
背景には「勉強がずば抜けている」ことへの嫉妬や怒り、憎しみがあるとし、ニーチェ自身はヴァンパイヤと呼ばれていた。
「暗闇の王子」を周囲は「いじめてもいい奴」と判断したためにニーチェは「勉強がずば抜けている」ことが果たしていいことなのかが分からなくなっていた。
カントも「狼男」と呼ばれるほど勉強がずば抜けていたが、周囲の「自己愛」が団結に向かうのを観測した。
何も悪いことをしていないのに、勉強がずば抜けているだけで「孤立悪」の噂を立てられることをアウグスティヌスは「告白」から知り、ローマ帝国は「中世」を迎えている。
デカルトが「アウトローっぽい男への恋」というモデルを提示するまでヨーロッパ中世は続いた。
うしろゆびさされ組。

駿台模試一位の鬼塚とか、悪の噂とは案外、そのようなものだった。
エルサレムのアイヒマンなどの「巨悪」もナチスドイツの勉強エリートがそのような噂になっており、ユダヤ虐殺とイメージが重なるように映像が作られた。
「勉強がずば抜けている男」が「間違った行い」と噂が結びつきやすいのは事実だった。
「孤立悪」の噂はたしかに孤立しやすかった。
そのために、勉強の世界は「女の子にモテる話」の研究に向かうのは当然だったのだ。
壮大な「悪の扉」を開くことは、何かのとてつもない目的を持つことを意味した。
しかし、学問の行き着く先は「女の子にモテる」ということだったのだ。
女の子にモテれば、子どもの命も最優先に助けてもらえるし、奥さんの洋服も綺麗になる。
このようにして、カントは「狼男やヴァンパイヤの時代」からの決別を図った。
いじめっ子にエイズの烙印を押したのもカントだったし、学問を「女の子にモテる」方向に向かわせたのもカントだった。
勉強もしないでイエスキリストになろうとする者を「サイコパス」と呼び、「時代の学問に恵まれなかった者」としてマクノートンルールと呼ばれ、救済が図られた。
本物の「駿台模試一位の鬼塚」に憧れるチンピラはその行動原理からマクノートンルールの対象とされた。
夏の扉 松田聖子。

何が「悪い行いなのか」という側面だけを真似するチンピラがいるのであればマクノートンルールの対象だ。
偏差値だけの世界でどのような争いが展開されたのかを、「追体験」することは賢くなるための秘訣でもあった。
中には「コンピューター」に憧れるものもいた。
お金を払って女遊びをして「頭が良くなったふり」をする人もいた。
すべて「カントやニーチェのモノマネ」であり、それはそれでマクノートンルールが成立しているのだ。

「スポンサーを探す企業」である電通は、社員が哲学を研究して、多くの人脈を作り、ファイナンスをするのが一流の「電通マン」であるが、組織の「奴隷的扱い」などがとりわけクローズアップされ、国内最初の「ブラック企業」となっている。
背景には「どうやってスポンサーを探すの?」という問題が庶民には理解できなかったことが指摘できる。

ヴァンパイヤや狼男が女たちを口説くのが上手い、女心を知っている、男らしい、仲間が大勢いる、敵の少ないセックスをさせたくない、搾取されたくない、これだけで周囲は「間接統治」と呼んで差別を行なった。
その集団が「学問を好む」のであれば、しかも、自分たちがついていけないのであれば、ヴァンパイヤや狼男と呼んで知的弱者は社会に「己の弱さ」を自己紹介するだろう。
南の島はカントで満ち溢れていて、羨ましい。
これだけで、家庭に縛り付けられた男女たちは「信託統治理事会」を作ってカントを世界から殲滅しようとした。
南の島には「無料キャバクラ」のような有様が蔓延しており、「社会の文脈が異なる」として、同じ人間としては扱っていなかった。
差別とは「勉強のしすぎ」が温床となっている。
「朝から晩まで勉強している」
このことと向き合うのが差別であり、「実らないうちに刈り取っておこう」というものだ。
実ったのならばみんなが「間抜けな面」を晒すのが分かっていた。
散々、狼男だヴァンパイヤだの言っていたのに、学が実ったら、世界は敵に回すわ、職は失うわ、それだけが怖くて「朝から晩まで勉強している人」を磔にした。
Qlair 秋の貝殻。

学が実らないうちは「直接」とも呼べる統治が可能であったが、女たちにモテたり、仲間が大勢できたら、周囲は「間接」統治と用語を切り替えていた。
しかし、ブラウン対ボードオブエデュケーションは、国立大学はすべての高校の内申書を同じ扱いをする、とし、「朝から晩まで勉強する高校生」を「すべての高校に」生み出すことを選択した。
様々な地域、様々なレベルの高校にイエスキリストが誕生した。
勉強することが、うまく「女の子たちの支持」につながらなければならない。
絶対解ける問題 松浦亜弥。

ローマ人ジプシーは、歌を歌うだけでなかなか学問が進まない連中のことを言った。
ジムクロウ(フリーセックス容認)の時代になって、その「歌の意味」が分かるようになった。
ローマ進軍が、フリーセックスの広まりを背景にムッソリーニによって行われた。
詩の解釈をムッソリーニは新聞によって行なっていたのだ。
「カエサルのものはカエサルに」
そのようにして、ローマの休日においては登場人物のセリフは「すべて詩によって」作られた。
直接統治(直接差別)を受けたのは、学問が未成熟なオタクだったのだ。
間接統治(間接差別)を受けたのは、オタクカルチャーをよりメジャー化した連中だった。
ローマの休日は、その「メジャーな」男たちとお姫さまを描いていたが、ローマの「一部の統治者」だけが知識を独占しているとして、「シチリア島マフィア」などという悪いイメージが世界に配信された。
間接統治(間接差別)は、一部の統治エリートに対して「ユングも知らない盲目な庶民」が行なった。
直接か間接かは「セックスをする」「個性に注目する」「宗教に守られていない」という長続きしない愛という評論を理解しているかどうかの違いでもあり、それを知っていて自分だけが「愛」を謳歌する者へは間接統治が行われた。
インディゴブルーラブ モーニング娘。

自分たちはすでに離婚していたり、冷めきった貧しい暮らしをしていたからだろう。
間接統治(間接差別)とは、庶民が統治者を見張るものであり、半代表制とどのように違うのかは明らかではない。
どの国民が国の知的空間を作ってもいいという純粋代表制に対して、統治者を見張るという半代表制が対置される。
半代表制の対象になるものは常に純粋代表制の支配者であった。
「私の学校の雰囲気はそんなに知的ではなかった」などの理由が半代表制にはあった。
学歴の階層化が半代表制の背景にある。
「成績がいい」だけの鬼塚ならば「間違い」はたくさん見つかる。
要するに「チンピラ風情」として描かれた。
しかし、女の子にモテるようになる講義を行なっている大学なり組織なりで成功するようになると「学閥」という形で半代表制が機能するようになる。
半代表制、つまり間接統治(間接差別)は学歴とともにあることになる。
しかも、のちの人生を考えると「入試問題の難易度」でその階層は決まっている。
直接統治(直接差別)は、近所の奥様方の激しい戦いであるが、間接統治(間接差別)は、学閥という「グループ」を作ることで回避できる。
「東大閥きらい?」
そのようにしてモテるようになった男たちは果たして半代表制が機能しているのか分からないという学閥を形成した。
官僚は純粋代表制を機能させる者もいるかもしれないが、学閥を形成することで半代表制からは免れている。
しかし、政治家は純粋代表制(国民の知的空間を作る)を機能させなくても庶民の激しい監視(半代表制)のもとに置かれる。
カトリックは「壊れていく妻が怖くて浮気をする」ことを戒めるために教会を作った。
教会には医者もいれば弁護士もいた。
壊れていく妻から逃げる男をなくすためにカトリックもオーソドックスユダヤも「牧師さんは男である」と決めたのだ。
医者の能力も弁護士の能力も兼ね備えている存在を「牧師」と呼んだのだ。
オリビアを聴きながら 杏里。

目標を断言する、それは「何かの企みがあるんだろうな」というイメージと「身だしなみが綺麗になる」という効果が認められる。
「だんだん壊れていくのが観測された」のでは目標の達成は叶わぬものとなるだろう。
愛は勝つ KAN.

「愛は勝つ」程度の断言ならば問題ないが「野球選手になる」という断言をするのならば、周囲から質問を受けたり、脅しを受けたり、警告されたり、リクエストを受けたりする。
「周囲が怯えるような形でリクエストに応える」ことを繰り返さないと彼の「断言」は実現しない。
効果測定は甲子園でも模擬テストでも行われている。
しかし、「政治家になる」という断言はどうであろうか?
学生の頃は、近所のおばさんたちの直接統治(直接差別)を受け、大学を卒業して女の子にモテるようになったら間接統治(間接差別)を受けるようになる。
ひたすら「学術法則」を学んでいるだけで、庶民にとっては「ショッキングな」事件の解決がなされ影響力を増していくものだ。
女の子の取り巻きの計算をしたケプラーがもし惨めな死に方をしていたら彼の「学術法則」は後の世に残らなかっただろう。
成功した歴史上の人物から学んでいるんだよ。自分が失敗するわけがないだろう。
周囲は「醤油をとってくださる?」「4のルートは半分かしら?」などと当たり障りのない間接統治(間接差別)しかできなくなる。
なぜならば、庶民にはわからない「成功者」が歴史には多く残されているからだ。
「スイスは攻撃的な外交政策を取っているらしいわね」などと言ったら「スイスはヘキサゴン(六角形)でね、周辺6カ国の同意のもとで永世中立をはかっているんだ」などというたちまち周囲がやり場のなくなる答えが返って来るために、周囲は間接統治に切り替えていた。
「六つの声を同時に聞くのは聖徳太子だ、攻撃的に決まっているだろう」
そのスイスの姿が「政治家を目指している男と重なって見えた」のだ。
また、「絶好調人生」を妨害してやろうという女の子たちがいることも忘れてはならない。
「彼は政治家になると断言した」という噂を聞いて取り巻きの女たちができる。
落とし穴にはまらずに「10万人の女の取り巻き」を作るのは「絶好調人生」にとっては案外簡単なのだ。
美女の誘惑に負けない男はほとんどおらず、「彼は当選しましたか?」「おそらく当選したのだろう」「彼が当選したということを知っている人を教えてください」という具合に、女によって政治家への道は絶たれていた。
そのようにして「猫」は人生の階段を上っていった。
東大に入って「政治家を目指す」と言ったら「政治家の卵を食って芸能界に行く女」は必ずいた。
いろんな意味で「食われていた」のである。
「彼、私でマスターベーションしてるらしいわ?」
都合よく女に利用されるのが絶好調政治家志望男であった。
「学閥を形成しよう」と思っても、女の人生の体系化がなされていないと、必ず「女による進路妨害」は起きたのだ。
業績を成し遂げる「主語」は必ず存在するが、何か突拍子もないことをやるわけではない。
制定法(音楽作品)と、音楽作品の解釈(習律)の中に人間社会の「慣習」を泳がすだけである。
「あの氷は分厚いぞ?」という周囲の警告はあるだろうが、そのような氷を打ち砕く仕事は「父だからやらなければならない」という側面がある。
どの音楽作品と「契約」を結ぶかは、アーティストもその時の状況次第であろうが、「切れ味のいい音楽作品」というものは必ず存在する。
政治家になるのであれば、明るい音楽作品だけでは言葉も不自由になるし、問題の解決力もあまりないことになりかねない。
暗くて深刻な音楽作品を愛さなければ人間社会が見えてこないのだ。
制定法(音楽作品)、習律(詩の解釈)、そして世の中を泳ぐ人間たち(慣習)の世界を淡々と伶俐な眼差しで見るのが仕事であり、突拍子もないことはできない。
「これがあなたの人生の目的だったのですか?」というほど淡々とした現実を毎日、処理していかなければならないのだ。
スポーツ選手のように大歓声を浴びることもない、しかし、それが「予言」というものではないだろうか。
ひたすら「制定法」「慣習法」「習律」の世界で「主語」「私がやった」ということを明らかにする、このような世界が、かつて私が夢見た政治の世界の現実であった。
人間の「馬力」を見て、時には「お耳に入れたいことがある」ということも言われたが、馬力とは制定法、慣習法、習律という淡々とした世界にしか存在せず、音楽作品などみんなが趣味として聞いているが、それをどのように解釈し(習律)、現実の人間社会がどのような空気で人々が泳いでいるのか?(慣習法)を見て行くしかないのだ。
優しさに帰れない CoCo.

ヴァンパイヤや狼男とセックスすると、周囲からは偏見の目で見られる。
しかし、黒人や在日朝鮮人、部落民、LGBTという「味方」ができる。
愛になりたい 瀬能あづさ。

男は「朝から晩まで勉強して女の子にモテるようになった」ために周囲が「勉強では太刀打ちできない」と考えてヴァンパイヤや狼男などという悪口を言っていたのであるが、そのような男とセックスすると「マイノリティを味方につける」という効果が認められる。
ニーチェやカント、いや「ツァラトゥストラ」とセックスした時に女は「ジーザス」と言って周囲を敵に回し、マイノリティ宗教に所属した。
バブル青田。

2018年8月18日 (土)

ヘルス。

「健康で文化的な最低限度の生活」(憲法25条)の世界は「クリーンヒットのない世界」と従来の憲法学会で言われてきた。
しかし、「健康」というものを「ヘルス」(射精)と言い換えるだけでどれほど豊かな世界になるだろうか?
ましてや「文化」を「タバコなどの焼いたもの」と掘り下げると「クリーンヒットはいくらでもある」ということになりそうだ。

プライベートでの「射精」を、政府は公の場で「病気の予防」「食品や薬」「勉強する環境の保護」「消費者保護」などの部門に分けて対処している。
世の中には「満足に射精すらできない」人たちがいるのだ。
「射精」はセックスによる病気からの予防が必要であるし、そもそも「人間が食べ物を得る」のも男が射精するからお金が生じるというものである。
さらには、勉強も射精しなければはかどらない、さらには射精するために作られた「製品」の安全性を確保しなければならない。
プライベートでの射精は、政府ではこのように政策として表現され、守られている。
これらをまとめて「社会的正義」(偶像崇拝)と呼ぶこともある。
射精とは「生きていることを楽しむ」ことである。
このことにアクセスできない人は様々なトラブルを抱えることになる。
適切な「偶像」(AV)にアクセスできなかったり、秘密が保たれなかったりすることは「食べ物」「勉強」「ビジネス」に悪影響を与え、薬が必要になる。
運動したら心臓発作を起こした、などという人はそもそも射精していないから「病気を引き起こし、食べ物に逃げ、薬のお世話になる」のである。
このことを「国全体の問題」として政府は対策を練るためにかなり「大人の堅苦しい」用語で表現している。
人をいじめなければ太ってしまう人は確実にいる。
しかし、いじめの報酬として「射精」というものを受け取っていたからである。
女目当てでなければ、有名男に対して「ニヤリ」と笑って二人一組で近づいてくるわけがないではないか?
もう片方の人が「あいつはいじめてはいけないやつだ」と片方を諌めたらとんでもなくブクブクと太ってしまうものだ。
「あいつをいじめた」というのは人間にとっては勲章であり、射精するために必要とする人もいる。
「病気の予防」「食品や薬」「勉強する環境の保護」「消費者保護」という堅苦しい用語もつまりは「射精」の問題を扱っており、同じ言語を話す「偶像」をテレビではオンエアしている。
国境線確定とは、案外、「同じ偶像の共有」からなされているものだ。
「食べ物」を保証し、「勉強する環境」を保証しないと必ず人口は減少する。
すべて「男が女の胸や尻に興奮する」という原罪から由来するものだ。
彼女がいない、インターネット環境がない人は確実にいる。
それは「いじめの温床」となっているのだ。
3テラもポルノグラフィーを溜め込んだ奴が人をいじめる理由はない。
精子が出なくて「猫」しか愛せないものもいる。
「愛すべきもの」を誤解したマザーファッカーは精子が出なくなり、かなり政府に迷惑をかけることになる。
新垣結衣 赤い糸。

偶像崇拝がなければ、パートナーをうまく成立させることが困難な国はたちまち「大きな政府」の独壇場となるだろう。
女たちの支持が民主主義には求められる。
しかし、セックスを否定するカトリック女もいるだろう。
16オンスの砂糖とも言われるのが射精であり、これを国民が円滑に行うための政策が必要になる。
「病気予防コントロールセンター」(CDC)や、食品薬品行政局(FDA)といった行政組織はこの16オンスの砂糖がうまく円滑に回らないことから必要になっている。
かなり国の全体像を見ながら男の射精をコントロールしているのだ。
家にプライベートがない男や、魅力的な女に恵まれない男は「ファッションヘルス」のお世話にならなければならない。
国の集団的行動を把握することが大事であり、時には「赤線」の赤い信号を青に変えなければ食品や薬、医療に関する政策の流れを変えなければならなくなる。
非常に「現代的な」マーケットプレイスが繁華街に作られた。
しかし、「女に不自由している」という情報でもあった。
資金の流れを止められると困ると言って、頭の上がらない人もできた。
男の健康も「女次第」ということになっている。
いちばん快適な環境にある者から税金を取るしかない。
日米共通税(バードンシェアリング)など認められるわけがないではないか。
しかし、確実に「アメリカ製の日本人ポルノ」は流れ込んできた。
日本国がアメリカ軍にお金を出す見返りとして「対価性はなく」ばら撒かれたのがハードコアだった。
当然、建築学にも影響を与えたし、「父親として」子供たちが痩せた存在であることを見守る必要があった。
2007年に「国民の射精を見守る仕事は楽しい」とナフィールド委員会は語った。
この瞬間、世界が「医療や健康、お金の秘密」を理解したのだ。
固い仕事を柔らかくする必要性はどの職場にもある。
政府レベルで「厚生労働行政とは何か?」を知ったのだ。
貧困層にはビタミン剤が必要だ。こんなに簡単な「性病対策」はないからだ。
「男が女を愛する気持ちを利用するのが経済」だとするのならば、口説き文句(哲学)の権威が「恋愛大臣」をやるべきだ。
モーニング娘。Go girl 恋のヴィクトリー。

女友達が大勢いるような、哲学を学んだ男は常に「健康」を味方につけることを意味する。
仲間を増やせば増やすほど痩せていく。
ダイエットのことを「共謀共同正犯」であると呼ぶ人もいた。
エボラ熱などという問題は、アフリカ人がアメリカ合衆国に「哲学を教えてくれ」と主張したものに過ぎない。

さて、射精が健康の秘訣だと語ったが、アメリカ合衆国の都会の黒人は白人に比べて15.4歳も寿命が短い。
「セックスはトラブルの元である」という観点は当然、持たなければならない。
一方で、アメリカ合衆国南部の田舎の黒人女性は白人に比べて12.8歳も寿命が短い。
都会のゲットーでは「男たちが知恵比べをして喧嘩している」のに対して、黒人女たちは「体比べ」をして命を落としている。
日本やスイスは「寿命の優等生」と呼ばれ、世界の平均寿命を13歳上回っている。
射精がいくら健康に良くても、セックスにまつわるトラブルだけは避けなければならない。
ソニーがカルロを殴る。

男の射精には「女の都合」もある。
「私たちは健康になりたいだけなのに」女たちが胸を比べあったりして、貧乳の女は巨乳の女に吐き気がしたりした。
女の「体比べ」も女の寿命を縮める一因となっている。
「男らしさ」(宗教)にアクセスするのも女の健康にいいが、イエスさまを語るのは大抵、貧乳の女だ。
男を語らないと吐き気がするからだろう。
教団に近づけば彼女ができると思うだろうが、巨乳の女はそこにはいない。
巨乳女が目当てならば教団と関わっても願いは叶わないだろう。
しかし、「神」を語るのならば巨乳女よりは長生きできるかもしれないね。
悲しみが止まらない 杏里。

浜崎あゆみは、「君」「僕「彼」と女同士が呼び合う女子校文化とは異なり、「仲間に男を加えようとした」のだ。
しかも「女心を教えてくれる」男を仲間に加えようとした。
「僕たち」とはそのような意味だ。
心臓が小さい女はユニークさもなければ、このように「男を仲間に加えようとする」ものなのだ。
心臓の大きな女は非常にユニークな言動をする。
心臓は「大きいのが問題」だとされるが、小さな心臓をした浜崎あゆみは「心臓がバクバクする」と言ってこのような行動を取っている。
浜崎あゆみは、巨乳であるが、子供の頃、泣きわめくこともない「手のかからない子」だったために、心臓が小さく、「男」を語るようになっている。
浜崎あゆみ Seasons.

結局、寿命というものは「所得」で決まるものなのだ。
「女を買うお金」「後腐れなく手切れ金を払うお金」「自由にマスターベーションができる部屋」などの要因がある。
所得が人それぞれであることから、人をいじめているうちは長生きは保証されない。
多数派工作がうまい人は所得が多い。
しかも、「人のつながりがあるから、別の生き方などもはや想定できない」という人が長生きする。
「別の生き方」を想定する人は、人間関係のつながりに意味を見出せない人だ。
それはつまり「金にならない人脈」を意味する。
人間の寿命は所得で決まるという側面を示している。
アイドルだからという憧れや、勉強ができる男だからという憧れはあるだろうが、「出る杭は打たれる」という側面は確実に存在する。
日本は「ネジが飛んでたらぶっ殺してる奴」がいても銃社会ではないのだ。
お金がモノを言う社会なのである。
もう一度キスしたかった。

人間から「プライベート」を奪ったら、その時点で障害者である。
また、男のニーズを満たすだけの「女の数」は常に少ない。
「障害者」が生まれる理由はここにある。
男女の「全体の動き」で「愛し合いたければ対等であれ」ということを理解している男は果たしてどれくらいいるのだろうか?
高血圧によるめまいが「性的欲求不満」からもたらされるだろう。
夜中に眠れずに、明日の予定を考えたり、寝不足のまま、朝の病院の待ち時間を待ったりするのは性的欲求不満からくるものだ。
女の子と話す機会のない男にはこのような悪夢が襲いかかる。
病院のベッドで看護婦とセックスするというのはすべての医者が黙認してデータを取っている。
「女がいないからここに来たんでしょ?」
看護婦たちはあとで論文にしていた。
「病院イベント」と呼ばれていたようだ。

「健康で文化的な最低限度の生活」(憲法25条)の「健康」(ヘルス)に関してはすでに述べたが、「文化」(カルチャー)とは実は「可愛い女の子が隣にいる」という意味なのだ。
焼いた食べ物が好きなのが可愛い女の子であると考えることも可能だ。
知識や芸術、口説き文句、男らしさ(法)、仲間づくりや慣習に詳しいことなどから「隣に可愛い女の子がいる」ことになる。
可愛い女の子は基本的に「男が信じているもの」についてくる。
また、世の中の「男たちがプロデュースしたもの」を文化とも呼び、可愛い女の子が隣にいる男は常に「プロデュースされたもの」に敏感でなければならない。
「若い子の気持ちが分からないな」と思った時点で「文化的」な生活からは見放されることになる。
ギーツ(Geertz)がこの「文化」の可能性を1970年代から1990年代にかけて探求した。
愛の倫理社会 おニャン子クラブ。

ギーツはいろんな意味で「金のかかった男」じゃなければ無理かな?と考えている。
一方で、1950年代からダンドレードによって「社会にはルールがある、可愛い女の子が隣にいる、というのも限界があるのかな?」と主張されてもいる。
しかし、おっさんが若い子を口説いた言葉を公表したら熱病のように一気に広まるとされている。
「頭のいいおじさんの言葉」は「変わっていく私の体」にどうしても必要だと小学生女子は考えていた。
女の子を「時代の叡智」はどう思っているのだろう?
【お母さんが嫌いになって、痩せて(約束)性感帯がクリトリスから膣に移る(願い)】
天使のウィンク 松田聖子。

マイムというのはイスラエルの言い伝えであり、若い女の子は若い男の子と付き合うべきだという意味である。
よくおじさんの書く本を読んでキレイな女性になったら、同世代の若い男と付き合う、この「マイム」の世界ではおじさんは「先生」と呼ばれた。
文化さえ伝わればいいという思いが年寄りにはあったのだろう。
年寄りは美男美女の踊りを微笑ましく見ていた。
若者たちは「誰の真似をして生きるか?」まで決めていたとされる。
できれば「社会の多数派」に属している人の真似がしたいと考えた。
「真似をする」というのは頭が良くなる秘訣だった。
「進化論」の一側面が真似をされることにあった。
真似をされるというのがおじさんや年寄りの「影響力」でもあった。
マイムマイム。

文化的影響力の事例はいくつかある。
真っ白なお髭を撫でながら話をしてくれるおじいさんというモデルが可能性としてではなく、現実にヨーロッパにあったのだ。
中国はこれを「伝説」として語っている。
年老いた哲学者の魅力は女の子たちに「言い伝え」として残された。
1960年のクインのことだろうとも言われている。
河合その子 Please tell me Mr.朱。

「男らしさの可能性」が女の子たちから提示されたのだ。
このような年寄りでありたいというのが「ガバガイ」と呼ばれる「ファーストラビット」のことだった。
それほど、年寄りというものは「常に怒っている」ものだった。
「言葉だけを聞きたい」しかも「人生経験から」という発想は組織論にまで影響を与えた。
「怒るだけならばやめてもらった方がいい」と考えられていた定年制の引き上げにもつながった。
「言葉の人気」を年寄りは楽しんでいたのであり、それができない年寄りが組織から必要とされなくなっていたのだ。
「怒るだけの人ならば仕事にならないよ」
そう思われても仕方がないのが「哲学を知らない年寄り」だった。
サピア・ウルフ仮説というものは「発展途上国ほど定年が早い」というものであったが、日本国は「あくまでも理想論」として定年の引き上げを行なっている。
中身がともなうかどうかは今後の哲学の世界の動向を見守るしかない。
やめさせたい上司がいる場合は「利上げ」が行われるが、今のところ定年制というのは安定した運用がなされているようだ。
サピア・ウルフ仮説によると「勝った人間がいれば負けた人間もいる」とされ、勃たなくなった男を外していった方が哲学が組織に残りやすいとされた。
勃つという当たり前のこともできない敗者は組織から必要とされなくなる。
そのようにして、いまだ飽くなき情熱を持っている人は選別できた。
「怒鳴り散らすだけなら迷惑だわ」という感情論も定年制を前向きに受け止めていた。
「何が社会経験よ!」という男がいつまでも居座っているので、定年という口実を周囲は用いたのだ。
日本国においては、受験というものが「基礎的な共通認識」を作るのに都合がよく、本当の政治学に必要な「用語」は受験エリートがみんな知っていたのだ。
若い連中はその「受験インフラ」を掘り下げていくだけで生きていけるようになっていた。
年寄りは年寄りなりに「子供の頃からのしつけ」を歳とっても持ち続けてきたのだ。
【女嫌いほど女が男に失望するものはない】
CoCo ミスロンリー。

社会は「エコノミックゲーム」の世界だ。
女も愛せず、怒りだけを持ち続けるのならば社会人としてはとうてい受け入れられない。
東アジアの女の愛され方はアメリカ合衆国をも凌ぐ。
中国もひどければ日本もひどい。
特に、中国女の「愛され方」は、アメリカ合衆国から中華人民共和国への「パワーシフト」の可能性すら示すものだった。
アメリカ合衆国は、「ハンドルまで渡すつもりはない」と中華人民共和国に言っているが、アジアンビューティーの可能性こそが中華人民共和国がアメリカを震え上がらせたのだ。
しかし、中華人民共和国も日本派がいなければ、今後の発展は望めないかもしれないね。
アジアンビューティーの共通点をあげるのならば「学者を愛した」ことかな?
勉強男が本気度を高める方向に国家として誘導しているんだよ。
アジアンビューティー。

それにしても、年老いた男と若い女の子の「文化の違い」とはこれほどまでに大きいものなのか?と思わざるを得ない。
よそのお爺さんに「おじさん!」と言って若い女の子が寄ってくる、そのような「年寄りの見識」のことを「健康で文化的」と言っているように見える。
文化を思い切りずらしても「年寄りの側からついていく」これを文化と言い人類学と言う。
高齢社会を迎えて、頑なな年寄りが「文化の多数派」となっても、「若い少数派」を愛し続けることが必要だ。
これは、組織への残留を決める理由でもある。
黒人だ、女だ、LGBTだの言っては差別してきた「年寄り」が現代の文化の多数派なのだ。
「人間の好奇心」も「男が女を愛する」というエコノミックゲームの世界の一つの要素だ。
「文化がまるで違う男女」というものほど人々が微笑ましく見るものはない。
「遠くの味噌を掛け合わせる」のは知性の表れなのだ。
それは年寄りに限らず、経験豊富な女が処女と気さくに話をするというところでも表現される。
誰が誰にひざまずくのでもない、これが「文化的」な世界なのだ。
年寄りにひとこと言ってやったよ。「俺たちが多数派だ」ってね。
支配から自由になれた気がしたのだ。
ウルトラタイガー。

「健康で文化的な最低限度の生活」の世界にクリーンヒットがないのは日米安全保障条約以来の、学生の「大学離れ」が原因なんじゃないのか?
年寄りから「見識」が奪われていたのだ。
立て直すのに50年かかる作業になるし、「真似をして生きたい人」のモデルを構築する必要がある。
アメリカ合衆国では1960年にクインがいたが、日本国は「クインのような人」を失うことになった。
日本人のアブラハムを祖先とするイスラム女がなぜヴェールを被ったのだろうか?
それは「健康で文化的な最低限度の生活」という祖先の言い伝えをどこかで見失い、「女とは何か?」という知識だけが蔓延した将来の日本国ではないか。
女がヴェールを被るというのは最悪の選択肢であり、このまま私が「女とは何か?」を書き続けたら、日本人女たちは顔にヴェールをまとうことになるだろう。
まったく文化の違う男女が並んで座っている、この「文化的」な姿を忘れてはならない。
「大都会で戦争になったのよ」
あるイスラム女が告白した。
「セックスとはお金である」という理論を背景に交易を行ったイスラム社会が、そのことから戦争を引き起こしていたのだ。
イラクのアイドルのおっぱいをイランのパーレビ国王が暴露した、それだけでイランイラク戦争は引き起こされている。
おそらく、あの時の抗議運動なんじゃないかな?
キリスト教で「差別された存在」として認知されていたペルシャ人と日本系ユダヤ人であるアラブ人が戦争を引き起こしたのだ。
「おっぱいを暴露すれば国家が戦争をする」
このことへの女たちの抗議運動がヴェールだったのだ。
それは「リベンジポルノ」への抗議だった。
中森明菜のデザイアーが背景にあるのがヴェールなのだ。
中森明菜 desire。

ホメイニ師は、アメリカ合衆国からの独立を果たした。
しかし、イランはこの時、何かを見失ったんだろうね。
「石油の経済制裁」と国際社会では語られているけど、「まったく違う文化を持った男女の共存」を見失っただけだろう。
つまり「文化的」な側面を女たちがヴェールをまとって抗議することによって見失ったことを女たちも知らなかったし、それでどれほど自分たちが損をしているかも分からなかった。
イラク人に「おっぱいを国際社会に晒されたらどうしよう」という個人的な理由しか「経済制裁」にはなかった。
イランがイラク人女性のおっぱいを晒したんだろう。
次はイランがやられる番だという理由は、国家としては十分すぎる理由だった。
イランとイラクの男たちの「知性の争い」になったらもはや誰にも止められないのだ。
イランは世界最高の国民監視社会となり、アヤトラ師の同意がなければ60代になっても夢が見れない国となっている。
女のキャミソールをずり下げる性癖をもつ日系ユダヤ人(アラブ人)はイスラエルにもイランにもはた迷惑なことをしてくれたものである。
SPEED Deep blue & truth.

もし、新聞社の社長などがクラブのお姉ちゃんにモテるのであれば「何を知っているのか」を本にして欲しいのだ。
アメリカ合衆国の格差社会の容認は、このような「情報のオープンさ」からなされているものだ。
このような本のことを「文化遺産」と呼んでいるのであり、エリート主義から「文化」というものは拡散していくものだ。
文化遺産の扱いを受けている本は、必ず「若い連中が噂する」ものである。
ユネスコ世界遺産もそのようなものを認定しているはずだ。
「いずれ分かってくれるんだろうな」と考えて「モテたおじさん」にまつわる文化遺産を世界が認定している。
文化的であることを国全体が忘れてしまうこともあるだろう。
文化遺産を、歴史学の側が歪曲してしまうこともあるだろう。
「モテたおじさんを歴史上の人物として子供達に名前を覚えさせている」ことを受験生は知らないだろう。
継承する「文化」とは、女の子たちを笑わせ、光を当て、そしてモテるおじさん以外にないのだ。
1972年にユネスコ世界遺産会議はこのような結論を出している。
素敵なエスコートというモデルも示された。
パラディラタンの夜 河合その子。

歴史上の人物を「だいたいこんなもんだろう」と言って研究するのも仕事だ。
どれだけ「時代の女たち」を熱狂させたかを、人物同士比較することは可能である。
それがそのまま「哲学史」となるのだ。
それを踏まえた上での愛国主義でなければならない。
女の子にモテる老後になったから国を愛するというのは筋が通っている。
女の子にモテない愛国主義など存在しない。
じっくりと腰を据えて勉強できる環境がなければ愛国主義も成立しないのだ。
ユングやフロイトの場合。

2018年8月16日 (木)

尊敬。

尊敬という言葉は「いろんな人にいろんな理屈がある」ということを意味するが、たとえば、頭がおかしく、老いた「天皇陛下」というのも「メディカルマスターピース」(医学的傑作)という意味では尊敬に値する。
学ぶべきことがたくさんある人、という意味では医学の側もしっかりとそのメッセージを受け止めなければならない。
他人から「医学を学ぶ」行為は「自分の勝ちに賭ける」行為だとも言われる。
文字が読めない「在日・部落」ですら、我々は「なぜ文字が読めないのか?」という観点から「権力の側が彼らを口説き文句から遠ざけてきた歴史」を知る。
「セックスはみんなに対して平等である」
というキャッチフレーズのもとで、多くの行動原理が分析できるのだ。
多数派工作(サルベーション)に失敗したものは、表舞台には出れない。
「勉強する環境」を没収されたものたちは、一生「裏方」の仕事をやることになる。
人間というものは「他人にどう思われているか?」を極端に気にするものだ。
いじめも行き過ぎると「うち方やめ!」と言われてエイズの診断を受ける時代になっている。
もはやエイズになったら、医者も「メディカルマスターピース」の認定を取り下げるだろう。
「うち方やめ!」と言われるぐらい人をいじめた経験のある人は、たとえその地位を守るためであっても「もはや反則」とされている。
良きサマリア人の側から「隣人愛の限界」が提示されたのだ。
カント自身が「アフタング」という論陣を張って、「隣人愛の限界」を設定している。
アフタングがなければ、「この人はこのような業績を成し遂げた人である」という「政策面での一致」はきわめて困難となる。
他人の業績を横取りするものはカントの「アフタング」の運動に巻き込まれることにもなる。
エイズとは「アフタングが作った産物」であり、人々に「もはや尊敬できない人である」というメッセージを出すにとどまり、なんら病気ではない。
「しかし、そのことを医者は知っているのだろうか?」
カントの権力闘争は熾烈を極め、その影響力も計り知れないものがあった。
「処女」というものも、アフタングによって「もはや認められないもの」となっている。
「人間であることをやめる」
そのような問いかけがカントからなされたのだ。
「誰からも愛されない存在になる」
これが「聖母マリア」「モナリザ」の生き方であった。
マドンナ マスターピース

人間は「尊敬されること」をやめてはならない。
誰もが人生で一度は「孤独」を経験している。
「それでも王者であり続けた」
そこにカントは尊敬を見たのだ。
試されなければ分からない。
それが尊敬というものだった。
孤独、この時に「一般条項」(王者的条項)を用いてその人間をまじまじと観察した。
「あんたそれは反則だよ」
他人を動物として自分の手段として用いるものに、動物としての扱いを与える。
このことをカントは「尊敬できない」と位置づけたのだ。
「他人にしてほしいことをあなたはしてはいけない」
これをカントは「黄金ルール」と呼んで、ひとつの尺度として用いた。
人間とはこれほどまでに他人を尊敬していないものなのか?
しかし、「勉強ができる者」だけはカントはこのルールから除外している。
自分のことを理解してくれる可能性だけはカントは「尊敬」の対象であると判断したのだ。

人間は、愛されることをやめたら、多数派工作もできなくなるし、貧しくなる。
犬や猫、やがて植物だけが友達になる。
他のエイズ仲間の男を見てみても、チンパンジーにしか見えない。
カントが「アフタング」で作った「畜生界」とはこのことかと思った。
美しい処女と話ができる「王者」がうらやましかった。
自分の何がいけなかったのかは、もはや文字を読むつもりもないので分からない。
「自尊心」という言葉がどれほど人気があっただろうか?
そのようにして、キリスト教の門を叩く者が多かった。
もう、何も「生産的なことはできない」
これが畜生界だった。

「自尊心」というものが「尊敬」の起源である。
自分のキャリアが大事である。自分の能力に磨きをかける。
すべて自尊心から始まるものであり、他者への尊敬とは「自分磨き」から始まるものだ。
「いちばんの敵は自分である」
皇族や芸能人なんてみんな生活保護なのに、みんな「マンガ、平等であること、自分であること」から憧れを抱く。
アブラハムはいろんなことを知っている。
しかし、人々に「魅力」を与えるのが「愛」であることも知っていた。
愛されている人の「化けの皮」を剥がそうなどとは思っていない。
貧しきものに必要なものは「賞賛」だけだった。
テレビや週刊誌を読んで「企画立案」するほど愚かなものはない。
「賞賛」するための媒体と、生活保護としての実生活の違いを見極めて、生活保護としての彼らに「資産」を生み出すだけの「実体」があるかどうかだけ見ている。
すでに離婚しているのに「天皇皇后」になろうとする者もいる。
しかし、実体がなければ、もはや「デリバティブ」と呼ばれる「富」を生み出すことはできない。
メディアは案外「真実を」伝えている。
基本的に「仲間が多い」か「法律に詳しい」かしか、組織で生き残る方法はない。
しかし、皇族や芸能人は「仲間が多い」というイメージを報じられている。
宗教家は「法」に詳しいからメディアで報じられるのだろう。

尊敬とは「他人の医学、他人の心」を知る営みだ。
本当に「尊敬」が成立したら多くの人たちに影響を与え、周囲の「歩く道順」まで変わる。
医者でなければ案外、「駅までの最短距離」を歩けないのが大人というものである。
やっぱり「セックスの分析」をしなければ選択するルートは分からない。
みんな「夢がぶつかり合っている」のだ。
「友達がいたから手を挙げた」という動きも必ずしも自然なものではない。
スティックで突いたビリヤードの玉にはなんの意思もないが、「情熱」が乗り移っている。
みんな「ビリヤードの玉をどのように突いたのか?」よりも玉の行方ばかり見ている。
人間は他の人間の心をとらえることで「他の人間の歩く道順」を変えてしまうことができる。
これも「尊敬」の学問である。

どこをどのように突いた(心をとらえた)かは大人のゲームなので、そこいらの東大生ならばひとたまりもなく街に居場所をなくすだろう。
空を飛びたいという女は「無人島に行きたい」と表現する。
周囲はいったいどんな玉の突き方をしたのだろうか?
とにかく「心をとらえた」のである。
周囲は「玉の突き方」にしたがって率先して「今日の行動」を決める。
「会いたくないな」と思ったら向こうが避けるようになる。
これが「町内ビリヤード」である。
駅からまっすぐ家に帰れる喜びもあるし、行きたいお店に行ける喜びもある。
「女心をとらえる」というのが「政治」と呼ばれるのはこのような側面があるからだ。
自信を持って街を闊歩する男を崇拝するのが「宗教」である。
酒井法子 友情キッス。

ダンケルク撤退も、イギリスが「ルートX」「ルートY」は使えないとして「ルートZ」を見つけたから実現できたのだ。
町内ビリヤードで負けるようならば戦争の司令官になどならないことだ。
お金がかかっても「ルート」はルートである。
タクシーを使ってもいいではないか。
書生さんが一緒だから通らせてもらおう、という時代もあったのだ。
女たちの植民地が「街」である。
堂々と駅からの最短距離を歩くのもいいし、タクシーを使ってもいい。
「クルマが欲しい」というのは「町内ビリヤードと関わりたくない」という理由が大きい。
街は「鍵がかけられた部屋」である。
女たちは街にしか話し相手はいない。
しかし、男はかなり広範囲に移動している。
女たちの意思は自由だったため、勝手に「地割」を行い始めた。
「実効支配」とはこのことだ。
ライプニッツが「ヤオロズの神」というのであれば800の地割が日本国にあることになる。
あいつにはもうこのルートは使わせない、という女たちの行動は「プロジェクトA」と呼ばれた。
女たちが「歌声」を止めるだけでもそれは遂行可能だった。
ママさんコーラスの声が聞こえているうちは街に歓迎されているのを感じたのだ。
この「プロジェクトA」の意味をよく理解してコーラスに誘ってくれる人を待っているのが専業主婦なのだ。
「何が罪か?」を明らかにする力を奥様方はもつに至ったのだ。
また、通行人を見ながらコーラスを統制する眼差しは「アイ・オブ・ザ・タイガー」と呼ばれ、その道を通ることから逃げ出してしまう男たちがいた。
アイ・オブ・ザ・タイガー。

さて、「処女であること」にもバチカン市国やバチカン銀行の資金の裏付けを得て、フラメンコを踊るのにもビルバオ・ビスカヤ・アルヘンタリア銀行の資金の裏付けを得て、ママさんコーラスをやるのにも朝日新聞社の資金の裏付けを得るという発想は、アブラハムが尊敬を勝ち得るのには十分すぎる理由だった。
この「アブラハムの完全主義」は「勉強派」と「芸術派」の二つに分かれた。
本来、芸能界という「芸術派」だけが浴びていた女性達からの歓声を「勉強派」が引き戻したとでも表現されるだろう。
しかし、勉強といっても発展段階があるのだから、若い頃に成功できる芸術とも慣れ親しんでおいたほうがいいだろう。
どちらをやるにせよ「女子達にモテる」のは健康的でいい。
さらに、「いじめがなければ才能は花開かない」ということも指摘できる。
みんな案外、結果オーライで、才能の伸ばし方についての議論の必要性を感じていない。
仲間が多い方向に男の子は流れていっているようだった。
いずれにせよ「女子の相手をするのが上手くなる」という意味では勉強にせよ芸術にせよ同じことだった。
「勉強か芸術か」の選択肢そのものがエリート主義ではないか?とも言われた。
それにしても、東京大学と芸能界の相性は良かった。
ピカソみたいにイカれたら「ブラック」というペンネームで誤魔化せばいい。
女の子と話さなければ自信がつかないことが分かってくる。
太っている女子に「お母さん大好き?」と聞くこと自体、頭がイカれている。
高橋由美子 わたし。

国そのものが「女子が男子の進路妨害をしている」ということに対策を立てる必要はない。
「処女であること」「ステップを覚えること」「コーラスをやること」の資金の裏付けは政治家が考えることだ。
しかし、「それはいい企画だね」と思ったら国が政治家の仕事を取り込んでいくだろう。
民間で流行らせ、国が追認していくという発想がいちばん好ましい。
国がゼロから立ち上げるよりも、政治家に任せて、しかし、成功するようであれば尊敬をもって迎えるという立場なのだ。
また、ここまでシンプルな方程式を作ると「女心が単純すぎて鬱になるわ?」という女性達が出てくることも予測しなければならない。
彼女たちが趣味でやっていたことに何でも「意味」を与え、仕事にしてしまうという「勉強派」は、どこかで「芸術派」にその地位を譲らなければならない時期もあるだろう。
「勉強の復権」をアブラハムがやったことは認めるよ。

「私」「ここ」「今日」「彼」などの言葉から「お腹すいた」という言葉につながることがある。
今、お腹が空いているのならば、将来はどうなるのだろう?
この「将来のビジョンの体系化」が政治の側からもたらされたし、女の子が「体を売っちゃおうかな?」と思うことにつながりかねないから体系化が求められた。
「あなたと一緒にいても将来が見えない」
という言葉は恋の最大の敵である。
昨日、今日、明日という用語を用いることそのものが日常(妬む神)であり、かなり悠長に女性のあり方を語ることになる。
「今の私はお腹が空いてる」
ここから宗教というものは作られている。
体系化されているようで、結構、曖昧なところもあり、「銀行」に「コウモリ」のように敏感なだけにしか見えない。
「デトロイト出身?どうりでお金の話ばかりするわけね」
こんなに簡単に私の悩みが解決してしまうの?読んだ本を教えて?
【常に凡人だっただけだよ。薬さえ飲まなければあんがい学べるね】
しかし、女の人生が「巨大な集団」になった時のことは想定しているのかしら?女の人生まで決めてしまうことはあまりにも危険よ?
歳をとって金持ち、それは全員?それともほとんど?それともその政策は否定されるのかしら?
アブラハムの企画する能力が傑出していたのは事実だ。
しかし、大人の事情でほとんど原型をとどめないぐらいボコボコにされることは覚悟しなければならない。
それでも企画が通る以上、かなり「澄んだ目」で発言していたのだろう。
妖しいニュアンス 松田聖子。

こんな「女の人生」を考えた宗教家には太っていてもらいたいわ?
美味しいものを食べて、チヤホヤされていて欲しいわ!
なぜなら女たちはそのおかげで空腹から免れるのだから。
あとは「恋して女磨いて」の世界ならアブラハムよりも私たちの方が詳しい。
「女の人生の体系化」をしてくれてありがとう。
でも、女にもいろいろあるのはご存知ね。
私が壊れていくのが怖くて主人が浮気することもあるわ?
体系化されてはいるけど、それは決して完璧ではない。
私が奔放なタイプだったら、主人は人を裏切るタイプかしら?
男の「性格」まで女次第なのよ?あまくみないで。
そこまで理解してくれるのならば「体系化」してもいいわよ。
そして最後に、タバコを吸いすぎてガンになった人がタバコ会社を訴えて勝訴する国もあるのよ?
私たちを太らせて訴えられたらアブラハムはただの凡人に成り下がる。
それほど「宗教」というものは永遠ではないの。

女の人生の体系化がなされたら「恋愛と結婚は果たして違うスポーツなのか?」が分からなくなった。
エルグレコの絵画をサザビーで買って、トレドの風景を眺めていた。
しかも、どんな男と結婚してもそのような風景を見ることができたのだ。
アブラハムの恵みだったし、この風景を見るたびに「アブラハムをいじめた醜い男たち」が嫌いになった。
どの男と結婚しても女の人生は変わらない、このことが女たちにどれほどの余裕をもたらしたであろうか?
「できない」ということから追い詰められていく女の姿はもはやどこにもなかった。
このような「夢」が見れるのもアブラハムが生きているうちだけかしら?
学校では男子の進路妨害を行い、結婚の時には「いい男選び」を年収で行なった、そんな時代ではなくなるのかしら?
女が一歩引いて男選びを考えてくれたことは、男たちにもいい影響をもたらした。
男を比べるという必要性が薄れてきたのだ。
「男になるためのハードル」を下げる効果が生じた。Fランの自宅警備員でも持ち家があったのだ。
それならばと国も自宅警備員に正規雇用の道を開くのは当然の成り行きだった。
女たちの側から「いい男選び」を見直してくれないと、男たちの競争で妥協はできなかった。
女たちはサザビーのテーブルのワインを楽しんだ。
おニャン子クラブ FENを聞かせて。

アブラハムが生きているうちだけかもね。
「誰がやっても同じ」なのが指導者なのかどうかは自分たちが男選びでガツガツしていないかどうか?という身近な問題から考えていかないといけない。
男選びに必要なのは「幼女に興味のあるヘンタイだけは勘弁してよね」というものにとどまり、大人の男性であればあまりこだわりはなくなった。
「男選びは楽しかったわ」
彼氏の年収だけではなく、美術館に行ったり海に行ったり、いろんな余裕が生まれたの。
そうね。アブラハムという偉大な政治家をいじめるのに躍起になってエイズの診断を受けた男だけは勘弁してね。
アブラハムが私たちに何をしてくれたのか?をいまだ理解できないエイズ男だけは関わりたくなかった。
何にも学ぶつもりがない、作家や古い映画のことも何も知らない、そんなのロマンティックでも何でもないから。
瀬能あづさ ふたつにひとつ。

哲学は、人間が「楽な方に楽な方に」流れていく心理の側面と、それに逆らう「規範」の側面がある。
人を「認める」ということの背景には「規範」があり、「楽な方向」、本来哲学が想定していた人間観に逆らう存在を「認める」「偉い」とするものである。
本来、人を「偉い」と位置づけることはかなりのストイシズムを要求することになる。
しかし、偉いと言っても何が偉いのか?それはかなり「柔らかい」テキストを残さなければならない。
なぜ、彼女は乃木坂新聞に載っているのだろうか?
なぜ「偉い」のだろうか?
それは健康な女はセックスするという「心理」に逆らう「規範」の持ち主だからである。
黒人は「認めてもらうために」戦った。
日本人女性の中にも「認めてもらうために」戦うものはいるだろう。
カトリック女たちは「認められなければ」教えを守らないものなのだ。
生活保護になって「認められるのをやめたら」女はマリアではもはやない。
浜崎あゆみ M.

女同士で認め合うことはもちろん必要であるが、男たちからも「処女」というものが賞賛されなければならない。
処女にもっともふさわしい音楽作品を書いたのはフィヒテ(Johann Gottlib Fichte)である。
フィヒテの詩を離れたらAKB48も乃木坂46も夢が見れないとされる。
サルトルやラカンもフィヒテの詩を歌う処女の影響を強く受けている。
処女たちよ、時代を謳歌せよ、そのような詩がフィヒテによって多く書かれたのだ。
フィヒテは「詩」というよりも、処女に歌わせる歌を書く心構えを記している。
「女心を男に教えてあげることが可能であること」「それが世界の主流であること」などを記しているようだ。
フランスの大企業の娘やアメリカの牧場主の娘はこのような「フィヒテの詩」によって富を生み出す存在だった。
「誰のおかげで」「どのような空気で」処女として生きていけるのかを歌うのは基本だった。
そして、処女たちのおかげで「夢をかなえる」連中がいることを歌うのも基本だった。
戦いになってみれば分かる。女たちは「一生、処女を守ります」とすら言った。
処女たちは「胸」すら巧みに利用した。
リクルートメントチャンネルを維持するのも大事だった。
Winning CoCo.

この「処女のセールス」は、カントには「初体験」として利用され、ヘーゲルには「顔が可愛らしい」として利用され、その富はマルクスによって「革命」に向かうことになった。
社会人ならば当然知っていることを知らないと「反革命分子」によって主張された。
「世界が狭い」「スレた女の方が美しい」など多くの論争を引き起こしている。
そこで、日本国は「日経平均株価」という高めの値段を女たちにつけることにした。
革命エネルギーの放出であったし、一部のカルヴァン派によってセールスが仕掛けられるにとどまっている。
日本国は処女にあまりこだわらない「革命中立国」としての立場を維持した。
「愛って何?」「友情って何?」
女子たちは真剣に話し合った。
革命とはどのように起こすものなのか?
お金によって起こすものなのだから当然、「処女」を利用したものなのだ。
1990年代の中頃まで「革命ってどうやるんだろうな?」という議論は続いていた。
オウムシスターズなどもアメリカ合衆国は観察していた。
AKB48の第1章が崩壊に向かうのを見た。
「国家転覆」に使ってくれないのならば私は抜けます、というのが処女たちの考えだった。
「先生!小野光太郎先生!国家転覆してください」
「ティチャーティーチャーと言って足をあげる時にもっとも興奮する、これがパンチラインだ」
瞬間的に「女の体が情熱を表現し」「同性愛から異性愛へと切り替わる」瞬間を見て欲しい。
「黒から白」へと色のイメージも変わり、詩は「女性から男性に変わる」瞬間でもある。
「心を表現していたところから急に出身母体を使うところ」も評価できる。
完璧なパンチラインだ。
AKB48 teacher teacher.

バーナード・ボルツァーノは、女たちの地割の800を考えたライプニッツと、10万人の処女に愛されたフレッジの間で「仕事とは何か?」を考えた。
タルスキやカルナップが100年ものちにハプスブルク家で実践することを共産党宣言の年(1848年)に殺されるまで探求した。
処女たちに与えるインパクトが奥様方の地割にどのように影響を与えるのか?をボルツァーノ・ワイヤストラス理論として提唱し、頑なな主婦層(B層)の切り崩しを計った。
お金のない女子高生の方が情報に敏感で、ローンを組めたり働いたりしている世代がどれほど盲目であるかを見せつけた。
しかも、その「お金のない」世代が「実は小学生女子であった」ことまで示したのだ。
ボルツァーノは、6年間ジムに身を置いたのちにプラハ大学に入学している。
彼の頑丈な体が、虚弱な連中とは異なり「発展」を目指したのだ。
カトリックではあったが、フランツ・ヨゼフ皇帝の家庭教師もやっている。
アリストテレスがアレキサンダー大王の家庭教師であるという噂と同じく、ボルツァーノこそがフランツ・ヨゼフ皇帝だったのだろう。
このあたりは金光教の教祖が「小野光右衛門に教えを受けた」というのと同じ論理であろう。
血筋を重んじる王室においては「家庭教師」と名乗る王が多い。
小学生処女は、スマートホンを与えられると真っ先にこのブログを読んでいた。
灘・開成・麻布・桜蔭の向こうにいったい何があるの?
それは小学生の問いかけではないか?
さらには東大の向こうに何があるの?
という答えまで知りたかったのだろう。
「お父さんってどんな仕事をしているの?」
カール・ポパーは「先生と生徒」という小説で、「皇帝と小学生」を描いていたのだ。
「プロポーズの言葉などなかった」
そのように皇帝は語った。
彼女や彼女の家族が私を必要としていただけだった、としたのだ。
多くの男たちは「プロポーズの言葉」を考えていたが、「東大の向こう側」とはそのようなものだと語ったのだ。
しかし、「私を奪おうとした女がいたから彼女は子供を産んだ」とも語っている。
結局、「王室に必要とされた」ことと、すでに構築されていた利害関係が衝突する形で、カトリックというものはヨーロッパに広まった。
実に19世紀のことであった。
女子校は、たまたまアメリカ合衆国が世界に必要としていただけだった。
ボルツァーノが「ソクラテスには知恵があった」というだけで、そのコンテンツは今まで述べてきた通りだったので、女の子たちはパンを食べた。
小学生処女たちは桜蔭・東大の向こう側を知りたかっただけだった。
欅坂46 アンビバレント。

女の子たちは「男の子の人生」から興味を持ち始め、クラス委員となること、もし女の子だけで世界が成り立っていたらどうなるのか?
自由にセックスしたら太ること、男女が対等であること、地割の存在、子供であるから自由であること、見てはいけない本、見てはいけない本のおかげで旅行もできれば洋服も買えること、などを知った。
中学生になったら、作者と話をして「恋の話を聞かせてください」などと思い切って言ってみたりもした。
勉強したらそもそも犯罪を犯さないことも知った。
セックスしたら税金を取られるということも教わっていた。
タバコから税金の入門は始まっていた。
特にこの年頃の女の子の性欲は旺盛だったために、皇帝が小学生の家庭教師になったものと思われる。
「日経平均株価」の意味を教わり30万円貯める中学生もいた。
「女の子がクラスの男子のいじめの原因になっている」
ひでえ女だな、と女の子を泣かす男子は義憤に駆られてたのだろう。
「お前がすべてを仕切っているらしいな」
いじめられている男の子のためというよりは「体を利用したパワー」に怒りを感じていたようだ。

2018年8月 4日 (土)

文字を読む力。

文字を読むという営みは「美しい経験」である。
そのことによって「異性と出会える」ことがなければ「何を言っているか分からない」と思われ、小論文の成績も悪い。
常に「最短距離」を歩ませてくれる媒体は確実にある。
法学部ならば「法学教室」「ジュリスト」などであろうし、哲学や経済学ならば本ブログであろうか?
勉強したのならば「コンパクトに女の子に話したい」というのが受験生であり、女の子は耳学問に近い。
模試でいいスコアを叩き出すのもいい効果がある。
「僕はもう文字が読めない」というぐらい女の子から優秀な男を遠ざけて「最高の媒体」への嗅覚を磨かせるのは日本や中国の伝統である。
絶対解ける問題。

食べる、歩く、風呂に入るために「最も美しい文章とは何か?」は、その男や、その男が書く文章を取り巻く「女性の数」で決まる。
ドイツのロクシンは「行為」というものを「セックス」だと考えて女子たちを熱狂させたはずだ。
日本の法律家はドイツ語をそのまま「頑なな」文章に翻訳している。
法律の教科書を読むのならば、もっと「女子たちを熱狂させる」文章とも慣れ親しんでおかなければならない。
「文字とは男である」
このことから、神がかった文章を書く男は「神がかって」いなければならない。
いい文章を書きたければ「生き方」まで考えなければならないという指摘は斎藤百合子が世界で知られている研究を行った。
孤独と慣れ親しむ(ワビ)、年寄りの文章をよく読む(サビ)、イキイキと女の子と話をする(イキ)、昔の縁を断つ(キレ)、音楽作品をよく聞く(幽玄)、深刻な歌の意味を探求する(モノノアワレ)、これが理解できないのであれば法律書ほどの「悪書」はないだろう。
ロクシンは「行為」を「セックス」と考えていた。
このことからはるかに遠い議論をする法律書ならば読まないほうがいい。
仕事をしたくないから、お金を払いたくないから「細かいルール」を学ぶ男に富がもたらされる訳がない。
食べる、服を着る、快適な環境で眠ることからもたらされる「文字を読む」という活動は美学なのである。
常に自分を「日本の美」と重ね合わせて磨いていくのが読解力であり、文章力である。
いつも言っていることが「オーラ」という魔法にかけられて人々に衝撃を与える、これが文章力だ。
女性たちを熱狂させ、しかし、本人は極めてストイックに生きる、これが「オーラ」である。
デート注意報 後藤真希。

学生時代に女の子に縁がなくて「僕はもう文字が読めない」といったことのある東大生はある意味、不幸であり、決して美しくはない。
しかし、「名誉教授」とも呼ばれるようになる男はこのような経験をしている。
のちの世代にこのような思いをさせたくないと思うから、言っていることはきわめて優しい。
斎藤百合子が世界で最も「文字の読み方、書き方」に詳しいのであり、「分からない、分からない」と言うのならば「女の子たちの距離感」の違いだと考えるしかない。
「僕はもう文字が読めない」と思った時に大声で歌ったりもした。
最高の本を求めて本屋をうろついたりもした。
このような経験がなければ「最高の指導者」を見つけることはできない。
「読解力・文章力とは女の子との近さである」ということを忘れてはならない。
藤本美貴 大切。

1950年代から1960年代にかけて、アメリカの黒人の間でも「私有財産」(セックス)、「政治」(女心の定義)、「経済」(男が女を愛する)という分野で「文字を読む必要性」が生じた。
それは政治(女心の定義)により生じるお金だけにとどまらず、卒業や夏休み、別れなどの社会契約論や、父と息子のあり方、男らしさへの崇拝(宗教)から生じるお金にも関わるものだった。
「札束というものがどこからくるのか?」
それは「文字」からくるのであるが、シンクタンクのような「異性に近づくことには必ずしもつながらない」文章を書くのであればあまりお金にはならない。
私有財産、政治、経済、社会契約論、宗教などからお金というものはくるものであり、キャッチコピーのように「パンチライン」だけを狙った「言葉づくり」だけでは舌足らずな部分がある。
鬱病患者の精神論がキャッチコピーであり、ニーズは高いであろうが、読者のお金には必ずしもつながらない。
お金、家、医療、雇用に必要なのは「文章」であり、キャッチコピーではない。
マーチン・ルーサー・キング・ジュニアが黒人に「選挙権を与えよ」と言ったのはこのような「言葉」「文章」へのアクセスを求めたのであり、それはそのままお金や家、医療、雇用につながるものだった。
差別の対象となる人は医者にはなれないが、黒人はもはやそうではなかった。
アメリカの「王位継承」である大統領選挙があるたびに「差別される民」は生まれていたし、ランピー族やチカホミニー族を差別から除外することなどが公約の一部となったりもした。
「読むと異性に近づける」
これが政治であり経済であり、私有財産であり、宗教であり、社会契約論だった。
伝統的にはこれらの分野にどれほどの「知恵」を注ぎ込むかが学問の歴史だった。
「民主主義は多数決だ」と単純に思い込んではならない。
「人間の半数は女性である」という意味であるからだ。
民主主義がどれほど「学問」というものの形を変えたであろうか?
そして、民主主義とは「お金の勝負」なのであるから、サラリーマンにはとうてい稼げない「お金」がある職業政治家によって生み出され、マイノリティーがどれほどそのような「機会」を求めたであろうか?
「私たちの政府」とはこのような職業政治家によって形成されて行ったのであり、キムリッカがそれに参加したいのであれば「文字」「文章」の読み書きができなければならない。
夏休みは終わらない おニャン子クラブ。

「私たちの政府」に参加するためにはお金が必要である以上、王位継承の敗者を「文字から遠ざける」のがもっとも都合のいい「罰」だった。
言語に卓越した才能を持ち、「日曜日に魔術を仕掛ける」と噂されたユダヤ人差別とは異なる「差別や怨念」が王位継承にはともなった。
「女の子と楽しく話しができない」
それは社会人としては重傷を負うことを意味した。
大統領選があるたびに、それらの被差別部落はアメリカにおいては救済されてきた。
日本でも皇位継承にそれを託そうというのが被差別部落であったが、「政権交代よりも簡単」と皇位継承が考えられたのは屈辱以外の何物でもない。
「読みたければ読めばいいのに」とは思わないほうがいい。
「下水」を封じられただけで人間は文字が読めなくなるのだ。
アメリカにおいても、黒人はアメリカ南部の「ブラックベルト」と呼ばれる地域に住んでいたので、簡単に下水から排除することができた。
しかし、この問題も「州レベルで」ハリー・ヘイウッドが解消させた。
アメリカの黒人は「全米各地に散らばる」というインクルージョンストラテジーと呼ばれる戦術をとった。
文字や文章が読めなくなった連中が目指すのは「馬並み」のおちんちんであり、勃起した時に根っこを抑えてしまうという訓練ぐらいしか親から教わらなかった。
「馬並み」の男は無口でも女にモテたし、それは種の保存の本能として成立した話だ。
アメリカ大統領選挙で怨念の対象となった連中が「インディアン」というあたかも「アメリカ原住民」のような名称で呼ばれていることにも1968年に法律が作られ、なんらかの対応が求められた。
「原住民の娘とは結婚するな」という言い伝えは政治意識の高い年寄りによって語られていたものだ。
しかし、キムリッカ族は1995年になっても、この問題と向き合っていた。
サンタ・クララという国民的アイドルが生まれ、この問題は大きな争点になった。
男は「文盲」でも「女の子の魅力」は変わらないではないか?という問題だった。
女の子は「ガラの悪い男たち」に囲まれて育ったと語られた。
しかし、サンタ・クララはソフィアの進学科に行きたかったし、キャビンアテンダントになりたかったと語っている。
権力闘争で怨念が生まれている、このことを利用するものは「社会的暴君」とも呼ばれた。
タンポポ 恋をしちゃいました。

選挙権を与えれば、政治家から「口説かれる」のは明らかではないか?
しかし、選挙人名簿から50%の部落民が排除されていた。
このサウスカロライナ対カツェンバッハの問題は2006年になっても解決しなかった。
シェルビーカウンティ対ホルダー(2013年)は、日本国の皇位継承で問題意識を世界に発信させた方が良いのではないか?とロバート判事は発言している。
選挙権とは異なる「エネルギー」は日本にしかなかったし、「圧力に屈する」という形で社会的暴君を抑え込む可能性が日本の皇位継承で見られたのだ。
ブルース・アッカーマンがある「アメリカ大統領選挙っていう最悪な制度だな」と語った真意はここにあった。
オバマが黒人初の大統領になったが、1970年から徐々に時代を進めていこうという考えを「ベースライン」と呼んだ。
オバマ大統領が誕生した時に我々が見た「達成感」がベースラインというものを作ったのだ。
人間は錯誤に陥るから犯罪を犯すということもベースラインから明らかになった。
また、アメリカは「異なる人種同士の結婚」を同性婚という「もっと酷いもの」を認めることでむしろ先手を打った。
「部落の女は美しい」ということを巧みに利用したものだった。
同性婚というのは「女同士」「男同士」でなされる結婚のことであるが、「生産的でない」ものでは決してなく、「里親」として子供を受け入れる温床となっている。
パートナーを「ナンバーワンパーソン」であるとしてなされるのが結婚というものであるが、女同士の結婚はセックスが「お腹をさするだけ」というように「男とセックスできない女」にとって極めて都合のいいものだった。
結婚という仕組みが「チャイルドプロテクション」(子供を守る)のためにもっとも都合のいい仕組みであったが、「父親らしさ」を女が演じるよりも「母親らしさ」を男が演じたほうがよりリアリテイがあると言われ、しかも「男の方が所得が高い」ということから「ゲイ同士の結婚」の方がレズビアン同士の結婚よりもいろんな意味で受け入れやすいものだった。
また、「障害者」の特別支援学校の送迎バスを街で見かけることも、人々に「インディアン」(部落民)だけが差別の対象ではないというメッセージを与えたため、「大統領選挙」「皇位継承」というものが生み出す「憎しみ、憎悪」を見えづらくさせた。
特別支援学校の送迎バスはまるで自らを宣伝しているがごとく街を走っていた。
「憎しみを生み出すのは王朝変遷だけではない」というのがいいことなのか悪いことなのかは明らかではないが、「それだけが世の中ではない」という意味を持つため、同性婚や障害者の連中が「いてくれるだけでありがたい」と国家統治の側は考えていたのだ。
女同士の結婚式をディズニーランドが認めたが、アメリカのお伺いを立てており、このような研究報告書を受け取った結果、認められたものと思われる。
女同士の結婚、激論。

アフリカにおいては「文章を読める者は女の子と楽しく話ができる」という発想は「文字を読める人は人気がある」という方向に誘導された。
「オルカプロジェクト」と呼ばれる識字率向上のためのプロジェクトが展開され、文字を読めるムブヤ・アココがヤカンを持っているのならば彼の仲間はみんなヤカンを持てるようになるという具合に「自分の仲間からエリートを1人出せばいい」という発想でそのプロジェクトは進められた。
シミユ・チャンゴもそのような「文字が読める」男の1人だったが、「誰が正しいかは物を仲間にもたらした者が決めるべきだ」とした。
「アフリカ伝説哲学」とは識字率の向上を目指したものであり、人々はオルカプロジェクトにしたがい、案外、エリートの言っていることを理解していた。
ワールドカップでアフリカが案外、強いことの秘密はオルカプロジェクトが背景にあるのだ。
女の子との距離が非常に遠いという「ソクラテス以前」の文化を持ったアフリカ人が、男女の距離を「言葉」によって急激に縮める、これさえできればワールドカップでも強豪チームは生まれるのだ。
「家具などの物で釣る」ことと共同体意識を背景にそのプロジェクトは進められた。
一方で、ピーター・ボドゥンリンのように「アフリカで伝説になると命の保証はできない」という人もいた。
しかし、ワイドショーは毎日のように放送されていたし、その解釈をしてくれる人は必要とされた。
新たな話題があるたびに「必要とされる男」はいたのだ。
平時ならば文字の読めない男たちだけでも成り立つだろうが、ワイドショーの存在は「毎日が有事」であるという文化を作り出すことに成功していたのだ。
オルカプロジェクトがワイドショーを広めたと言っていい。
ケニアやルワンダでようやく「寺院」が建ち始めた。
アフリカ人が楽しむワイドショーの「真実」を知っている「文字の読める男」への信仰心が生まれたのだ。
アフリカほど「男をリーダーにすること」を嫌った地域はなかった。
しかし、家具などの「物で釣ったこと」「判断する権限を与えたこと」「ワールドカップがあったこと」「ワイドショーがあったこと」そして何よりも「あれだけ触ってはいけないと言われていた女の子と仲良くできるようになったこと」からアフリカに寺院が作られたのだ。
アフリカの寺院。

エロヒムは言った。
【自分の行動や状態(国)、そして他者の行動や状態(国)を動かすもの、すなわちお金なり】

ブルゾンちえみ「たとえば、私がシャツを一枚脱ぐとします。皆さん、興奮しますか?」
「お金ちょうだい」
ブルゾンちえみ「たとえば、with Bの1人が抜けてしまうとしますね。残った私たちは結ばれてしまいます。仕事にならないじゃない?」
「35億」

何が正しい行いなのかは、お金が決めてきた。
しかし、その自由を権威と政府が「暴力」を用いて統制してきたのだ。
「労働」というものが「精神史的文脈に位置付けられる」というのもこの問題だ。
勉強しなければお金にならない、言葉にしなければお金にならないなどの「働く」ということの意味がここには込められている、
「金と暴力がモノを言う」
その瞬間が人間社会にはどうしてもあるのだ。
生きるためのお金、選ぶためのお金、投票するためのお金、働くため、そしてストライキをするため、男らしさは皆同じだという主張の背景にあるものもお金だ。
お城というものはお金から作られている。
しかし「金と暴力は常に裏と表の関係にある」のである。

上記のブルゾンちえみのネタは「暴力によっても達成できる」ものなのだ。
あとは「いかに頭を使うか」というのが大人の世界の「仕事」となっている。
この世界で「自由にものを言い合う」というのが社会の実態なのである。
「権利のための闘争」
それがいかに豊かさを持って繰り広げられるかが問われた。
女は「セックスするときはいつも本気」であることが「金と暴力」の発信源でもあった。
人々がもっとも慣れ親しんだ「お金の話」がセックスだったのだ。
人々の「祝福」もほとんど別格だった。
ribbon 愛してジャスティス。

しかし、女の側から「愛をうまく囁けない人ならば結ばれないよね」とも語られた。
男の側からも「当然、俺らも"いい女選び"はやっている」と語られた。
このことから「1人っきりで映画を見る女」も生まれたし、「ベッドルームを真っ赤にペイントする」女も生まれた。
これらのことをより「厳格に」理解したものに「免許」を与えているのが現状だ。
「春闘」というものもベースアップ、定期昇給を求めて行われるものだ。
「いかに言葉豊かに」交渉するかが春闘の目玉とされている。
その「言葉」に耳を傾け、そして判断するものを「権力者」「経営陣」と呼んだ。
どの「言葉」をより高く評価し、お金を流すかを決める力を「権力」と呼んだのだ。
国会は庶民が通常、慣れていない言葉にも慣れている。
アメリカ議会の議員に牧師さんが多い理由がここにある。
庶民が議会からお金を引き出すことの難しさはこのあたりが理由だろう。
男の議員は女好きだったし、女の議員はまるで庶民だった。
エース級が常に予算を請求しなければならない。
エース級の人は「盲目な男と巨象」ぐらいの違いがある。
「セックスから言論を組み立てる」というJSミルの主張は日常のオンエアにおいては弱いだろう。
しかし、ゴールデンタイムはこれを前面に押し出さなければならない。
なぜならば「予算請求のために人々が覚えておく」ためにチャンネルを回したからだ。
みんなゴールデンタイムへの出演には力を入れている。
すべての作家も、その日の頂点を目指して書いているのだ。
あくまでも文学である。最後にほんのりとした気分になれればいい。
しかし、庶民の「時間」を買い取ったのだ。
一人ぼっち。

カントやザビーニー、ケルゼン、シュタイナーなどが「予算の請求の方法」をゴールデンタイムに仕込んでいる。
ゴールデンタイムにはテレビの前に座っていた方が仕事に生かされるものだ。
信託銀行の人も同じ番組を見ている。
「同調義務」というものが社会人にはあるはずだ。
映像技術はもはや高度化しすぎて分からないだろう。
しかし、国民全員が「その日の頂点」を目指して作家になっている。
クレーマーとシュタイナーはこのような「国民全員が作家である」という主張を行い、今では「ブログ」という形で現実化している。
結局、「お金」というものは「まったく違う人種」を知ることから生まれている。
「いいセックス」「公正さ」これらをゴールデンタイムは「お金」に変えていた。
ローマ法学者のウルピアンが、ゴールデンタイムの伝統を形作ったのだ。
どうしてもチャンネルを変えたければ変えればいい。
それがあなたの「心の限界」なのだろう。
しかし、裁判ではその作家は刑務所送りになっているだろう。
判事をうんざりさせることほど重い罪はないのだ。
ゴールデンタイムに「重たい女」ほど貴重な存在はない。
人々はその「意味」を知ることがいい学習になった。
紀州のドンファン妻。

「忘れてはならない日」に間違った行動をとるとお金の問題になる。
それでも飽き飽きすることはあるだろう。
どれほど多くの人が「同調義務」を果たしているかを見るのも必要なことだ。
「すべての男はモテたいと思っている」
しかも、勃たなければ仕事ができない。
要するに「興味のある番組を見たほうがいい」ということは指摘していい。
うんざりしたからではなく「心がもたない」と言ってチャンネルを変えるのであれば作家は刑務所送りにはならないのだ。

「因果関係」
真剣勝負の世界で、指導者がプレイヤーに「女を譲る、与える」。
このような問題を「因果関係」と呼ぶ。
勉強の世界では当然のように「先生」がいる。
生徒(プレイヤー)は女の子にモテるようになり、そして、いつかは女の子たちに見放されるようになる。
「男女の共存」を理解できなければ指導者の言っていることの「真意」は分からないのだ。
山根会長。

女の理由、オンエアの理由、結果が出たという理由、その後の決着の方法という理由が、山根会長の発言の裏にはある。
男が「銅像」になるためには、このような「指導者の言い分」に耳を傾けなければならない。
みんな「オンエア」しか見ていないのだ。
オンエアだけ見て銅像にすべき偉大な人物かを判断するが、結果が出たのならば、しっかりと「その後の決着」を立派に行わなければトラブルになる。
女たちにモテモテになった村田諒太が、山根会長を悪くいうのは「後始末を間違えている」と言うしかない。
銅像は「溶かして別の人に作り変える」ことが可能だ。
本当に「賢い」者しか後の世には残らない。
銅像づくりの職人はこのような「全体像」を見ている。
それが「政治意識」というものだ。
女たちの支持を背景にかつての指導者を批判すると「もはや勝てなくなる」とも言われる。
その程度の政治意識の持ち主であると語られるからだ。
下半身事情にせよそれ以外のプライベートにせよ山根会長は「言いたいことだらけ」なのだ。
「誰もが銅像になれるのか?」と言われると「ノー」と言わざるを得ない。
「もう結果が出せない」
かつての指導者批判はそのような声にも聞こえた。
山根会長にせよ村田諒太にせよ「もっとも気分のいいこと」を言っている。
しかし、若いのならば「牙」を磨かないと歴史に名が残らない。
山根会長に育てられた男たちはこれらの問題をうまく「クリアランス」しなければならない。
「女」「オンエア」「結果」「クリアランス」という四つがうまく回らないと「男が男を育てる」という世界はうまく回転しない。
村田諒太としては「男山根」と言いたい放題言わせてやろうという作戦がいちばん賢い。
山根が吠えれば村田が防衛する、そのような「お金の回転」が始まったのだ。
しばらくは山根会長に吠えまくってもらいたいね。
それを「邪魔してやろう」という「村田の敵」も動き始めたけどね。
この「因果関係」と「重要性」をあわせて「要素」と呼び、民法における錯誤の議論となっている。
要素に錯誤がある場合に「無効」が認められるのだ。
本来、女をめぐって「騙し」が行われた場合に「無効」の状態を作り出すために「取消」というものはあった。
取消とは、夏目漱石の「こころ」の先生のように「なかったことにしたい」という心の旅路のことであり、どうしても「無効」にはならないものだ。
しかし、山根会長と村田諒太の関係は「構造を明らかにする」ことで「錯誤の無効」になる可能性がある。
メデイアが「重要性」を認識すれば、それは「要素」となり、世の中の全員が「自らのあり方を叱られる」形で「なかったこと」にできるのである。

人生の最後には死がある
幸せとは人生の最後であり、目的である
したがって、死とは幸福である

この論理が「騙し」の基本である。
曖昧さを一切、排除した形で他人を騙しているのだ。

神は治めることを知っている
治め方のひとつは寛大であることだ
したがって神は寛大だ

言論の自由は「言葉の計算」によって行われているため、言論は常に「寛大さ」にあまえている。
人間の過去はすべて弱みである。
かつてKKKに属していたことも弱みとなる。
プロの作家は人間の過去を語る。
そのために「神の寛大さ」にあまえているのだ。
「言論の自由」という騙しのもとに生きている。

大学に行きなさい
単位を取れないといい会社に就職できないでしょう
いい会社に就職できなければ人生が楽しめないよ?
人生を楽しみたいでしょう?
だったら大学に行きなさい

すべての「論証」は騙しである。
文学とは「論証研究」ではないのだ。
「男女たちへの人気」でその価値が決まる。
言葉は計算するためにある。
しかし、計算といっても、より深く練られた「ただ感じればいい、自信の裏付けのある」文章こそが「表現の選択」というものなのだ。
「男女の共存」の世界で文章を書いているのだ。
身を固めていない男は「女目当て」で文章を書いている。
2は偶数である3は奇数だ。だったら2+3=5だから5は奇数だ。
このように「頭を使った」文章だけが「人を騙さない」というのが言論の世界なのだ。
言論の自由は「人気」が支えている。
それ以外にバックボーンは何もない。
人類の繁栄のために「表現の選択肢」は無限にある。
アイドルというものそのものが「男たちを騙している」というのが言論の世界である。
そこに「文学者」が登場し、「人気だけがバロメーターの世界」で成功し、アイドルたちの略奪愛の対象になる。
「計算されて作られた女」にとって言論の自由とはそのような人気商売だったのだ。
愛が止まらない Wink.

そもそも、政治家の演説というものも「人気」「共感」に訴えることしかできない。
実験の裏付けがあるのであれば、多少、論理が飛躍していて自信に満ちた話を人々は聞きたがるものだ。
一番よくないのが「三段論法の騙し」を利用することだ。
論文も「論理学」は活用しているが、セックスの時には頭の中がメチャクチャになるだろう。
そのような「計算」が介入しているため、論理の飛躍はむしろ好ましいものなのだ。
「結果責任」ではあるものの、しっかりとしたやり方を身につけているかどうかという意味では「プロセス責任」でもある。
論文を読んでみてもあんがい「素人」が多い。
公では紳士であるが、プライベートでは「セックスする時は頭がメチャクチャになる」という計算ができないのならば、公の発言にも責任が取れないことを意味する。
「理路整然」など大人の言うことではない。
「理路整然」ほど人を騙す議論はないのだ。しかも紳士として語るのならばプライベートの現実を知らなければならない。
背広を着て守りを固めている弁護士は信用できない。
大雑把な職人芸が好ましいのであり、「何ですか?それ」という言葉を顧客は聞きたがっているものだ。
言論の世界の「騙し」を知らな弁護士が紳士を気取っている事例が多すぎる。
いざという時に逃げられたのではたまらないのだ。
懐の深い弁護士と関わった方がいい。



【壮大なテーマ】

« 2018年7月 | トップページ | 2018年9月 »