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Foreign Affairs

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2018年7月 4日 (水)

勝負。

【勉強ってなんのためにやるの?】
セックス、いじめ、ダイエット、失恋、世界記録、女心の研究、男の数、興奮する文章などがある限り、勉強というものは行わなければならない。
それらを勉強した結果、「勝負事に強くなる」ようになっている。
岡本太郎は楽しんで絵を描いていたかもしれない。
秋元康は楽しんで詩を書いていたかもしれない。
しかし、上に述べた「勉強」をすることで、これらが「勝負事」に生かされるようになる。
岡本太郎も秋元康も常に「セックス」が頭にあったし、周囲は女の奪い合いでいじめを行なったり、音楽作品を聞いてダイエットをしたり、失恋ソングから言葉を生み出したり、作品が語り継がれたり、女心を端的に表現したり、男遍歴まで体形で予測できたり、作品そのものに興奮したりした。
アダムとエヴァの「原罪」があったからこのような豊かな世界が構築されたし、人々は争った。
テーブルでも石でも月でも詩のモチーフになったが、実際は「争い」に用いられるのが芸術作品というものだ。

女には分からない男社会、それが月の裏側だ。
「いつか行けるかしら?」
月の裏側 渡辺満里奈。

彼氏の顔をマジマジと見ても「男社会」だけは分からなかった。
凡人か英雄か反則しか勝負の世界には存在しなかった。
凡人か英雄か反則しか存在しない勝負の世界から身を隠す人もいたし、それはそれで成り立っている世界だ。
月がある、月はまるい。
しかし、それを「男」や「セックス」(私有財産)に変えていく作業が芸術だった。
そうでなければ「勝負事」に使えなかった。
まず、月の裏側のように「優れた男とのセックスの否定」を行うことが大事だった。
「どの男にもあること」を表現した。
さらに、「処女のピアノ算数」のように初心に帰ることも必要だった。
「どの女にもあること」だったからだ。
そして、それを「抽象的に」表現することが必要だった。
そのようにして、経営陣は「この芸術作品は戦力になる」と笑った。
芸術作品が「戦力になるかどうか」だけを原罪の世界は見ていたのだ。
さらには「噂」や「メディア」を最大限に利用した。
デジタル化してしまえばインターネットでも用いることができる。
そのようにして芸術作品は世に出て行った。
「原罪」からエリートは生まれている。
芸術作品が戦力になるかどうかは、勉強して感覚を研ぎ澄ますしかない。
どの男女にも「ひらめき」が生まれるような解釈を与えた。
「ラッキーセブン」にはお金は無くなっている。
お金が尽きた中でも人々は戦ったが、ラッキーセブンをしのいだらまたお金が降ってきた。
終わりが見えたらみんなが「ゼロ」(試合終了)という一点に向けてお金を差し出したのだ。
3点以内ならばなんとかなるとみんなが思っていた。
なぜなら、空には月があったし、みんなが異様な空気に飲み込まれていたし、流れがどのように動くかは分からなかったからだ。
空の月だけはもはや天命だった。
それすら芸術にして勝負事に利用した。
もちろん「男」と「セックス」を芸術作品に練りこんだ。
エレファントカシマシ 化ケモノ青年。

異様な空気を作れなかったのならば、経営陣は「ツキに見放された」というしかなかった。
この不吉な月の下ではなにか劇的な絵が描けそうだ。
みんながそう思ったらそのような展開をたどる。
「今夜は一人の男を英雄にしたいの」
日本中がそう思ったらそのような結果が出る。
原罪の支配下の下では国中が「何か」を探していた。
よりシンプルに、その道を歩んだものが英雄となっていた。
月が出ている夜は策を弄する必要もなかった。
「ゼロ」と「月」それだけで勝負事はできるのだ。
何かが道をやってくる CoCo.

女たちには「失恋した経験」があった。
芸術作品は、その痛みを表現していた。
「私たちは仲間なの」
ゼロと月が女たちを団結させた。
みんなが議論するのをやめた。
おしゃべり女も「ゼロ」と「月」の前には沈黙した。
勝負事は「役に立つフィクション」とも言われた。
勝たせたい人を勝たせるからだ。
しかし、岡本太郎でも秋元康でも「うまくかけた絵と書けなかった絵」がどうしても生まれる。
それが「罪の告白」というものだ。
罪の告白によく耳を傾けて、自分の作品として消化していかなければならない。
要するに「どのような作品でも仲間づくりは可能である」ということなのだ。
「率直な感情表現」にはエネルギーがある。
言論の自由によってどのような作品も「復権」できるようになっている。
そのようにして戦力に加えていくのだ。
お金は盗むものではない、ハートは盗むものだ、とも言われた。
人を殺すのは良くない、しかし、ハートを盗んで、「政治的に殺す」ことはスポーツの世界では可能だ。
女たちの失恋というのは、要するに「男みたいに頑張れない」というところにある。
CoCo 同じ星の上で。

国民世論から見放された勝負事ほど「どっちに転ぶか分からない」ものだ。
世論を一つにまとめきることなどアクィナスにもできない。
与党と細分化された野党のいる現代社会では、「興奮する論文」を書いた方が勝つのだ。
1試合ごとに論文の数は増えていく。
夏目漱石の文学はそのようにして出雲大社に祀られている。
出雲大社。

その日ごとに「与党」は変わっていき、野党不在のまま戦いが進むこともある。
それが文学というものだ。
テーブル、石、山、月、いろんなものを「男」と「セックス」に変えていく芸術作品がどうしても必要だ。
ときには海も必要だった。
日常生活で目にするものを「戦いの味方」にする必要があった。
aiko ストロー。

勝負というものはこのようなものであるが、「下克上」を夢見る連中の逃げ場がなくなるものだ。
そのためにプロレスというものはある。
孤独な現実を癒してくれるのは常にプロレスだったし、多数派工作に失敗した俺(私)を常に勝利に導いてくれるものだった。
エリートで女を侍らせる奴には俺の気持ちなんて分からない、という奴に常にプロレスがあったし、現実の勝負とは異なる意味で多数派になり得た。
このような「プロレスファン」の存在を常に気にかけていたプロ野球選手もいた。
つば九郎 プロレス。

そもそも「女心をつかむ必要性」は「孤立した女」にしか必要ないとも言われた。
美人でむしろいじめられて泣いていたとかそのような女の存在が指摘されたのだ。
その「孤立」を前向きに表現した方がいいとされたのだ。
「誰にも分かってもらえない」
そこに男社会は多数派工作の目を向けた。
なにしろ美人だったからね。
孤高の哲学者ならばこのように歌われるだろう。
愛になりたい 瀬能あづさ。

「月」モデルではなく、「孤立した女」モデルの芸術作品も勝負事に用いることに経営陣は賛同した。
美人が男の序列を決めるとも言われ、この「孤立した女」モデルの芸術作品が分かれば一足飛びに出世できた。
これは「哲学界の宝」とも呼ばれた。
1980年代以前は、「応援ソング」と表現される「孤立した女」モデルから歌謡曲は始まった。
なにしろ、本当に理解している男はモテたからだ。
美人だけを参考に「女心」を調べてみたらみんな孤立していた。
瀬能あづさ クリスタルアイズ。

美人を射止めるためには「自らも孤立を選ぶこと」「バカでないこと」「金を持っていること」という実に簡単な条件が課された。
この「孤立した女」モデルが芸術をリードするのも当然なほど、美人にモテたし、男社会での序列は高まった。
瀬能あづさ 君の翼。

キモオタに出世を約束するような行為だった。
「心のあり方」をソネットとして叩き込んだのだ。
「どの女でも口説き落とせる」としたカントに対して、「美女を口説き落とせる」と新カント派は言った。
「税金高いよ?」と政府も羨ましがった。
ヘーゲルの「顔の発見」は新カント派からもたらされたものだ。
瀬能あづさ 君と歩いてく。

勝負が好きな男は、結婚適齢期の頃には孤立していたから、このような「孤立した女」モデルが提示されたのだろうと位置付けられている。
人生を長い目で見ればいい効果があるのだろうとされた。
のちに「キモオタ」が熾烈な多数派工作を行うようになるなどとは、他の女たちには分からなかった。
誰も追跡調査なんてしていないのだ。
「孤立を知っていること」は男として最も必要な才能だとも言われた。
時間が与えられればなんらかの才能を開花させるのが男だったからだ。
あの娘とは金が釣り合わないと言われたが、ある意味、学ぶための金もかかった。
孤独な道を選択しただけで、男は90%の確率で美女と結婚している。
これが「スポーツ選手の奥さん」の正体でもあった。
カントリー娘。 色っぽい女。

才能のあるスポーツ選手は、才能があるのではなく「孤独だった」「他にやることがなかった」ということは理解しないといけない。
言葉が肉体を作るとも言われ、孤独でなければ一流にはなれなかった。
コーチの指導のもと、というが、とにかく「他にやることがない」ことが必要だった。
本当にやることないから話を聞いてみようかな?と思う相手が一流のコーチならばいいだけだ。
一流のコーチを選ぶのは「貧しさの証明」とも言われ、一流の指導者は金を取らないのが世界の主流だ。
公園で拾ったスポーツ新聞で勉強する男、と呼ばれるようになるのが一番いい。
「貧しさの証明」がなされていない指導者は、名選手を生み出せない。
荒川道場。

ここまで理解しないで「美男美女のサークル」などというのは考えがあまい。
ブサイクだから輪の中心にいて、大人になったらバカで孤立するようになるだけだろう。
「スパイ理論」すら満足に学べないのがブサイクなのだ。
美人ほど「スパイ理論」に才能を発揮する。
内偵捜査をやったことがあるのか、かつての共犯だったのかは分からないが、美人スパイというのは案外、バカにならない。
男にはない才能だね。
歳をとったら社会参加を始めるだろうから「元美人」を見抜く才能だけは持っておいたほうがいい。
あとはオカマも「ゾルゲ」の話を好み、スパイ行為のために1日を費やしている。
バスルームでキャッチホン 高橋由美子。

サラリーマンの場合は、毀誉褒貶から縁遠い側面があり、「勝負に疎い」ことが指摘されている。
誰に金をもらっていて、誰とセックスしているのか?は案外、地元の「金のかかる」床屋でサラリーマンも情報を得ている。
床屋は「あっちの世界とこっちの世界」を明確に区別していて、政治家などは床屋で無口になってしまう人が多い。
「とにかく黙ってくれ」という無言の圧力を床屋にかけられたら、もはやその人物は有名な政治家だと言っていい。
これがおそらく最も正確な「勝負師とは何か?」という議論だろう。
床屋や美容院で「指名」するのはサラリーマン世帯だろう。
瀬能あづさ ふたつにひとつ。

作家から得た話を「話したくて話したくて」というのはサラリーマンではない。
サラリーマンは案外、「耳学問」なのだ。
サラリーマンは「ガチンコ勝負」など望んではいなかった。
プロレスを愛するほど弱くもなかった。
仕事の参考になればと思って「作家」の文章を読んでいたのだ。
大規模な財務は政治家に任せるしかなかった。
「24時間戦えますか?」
それは24時間、作家先生について語り合うという意味であった。
時間と空間の使い方がサラリーマンと作家は異なったのだ。
美女を娶るほど孤独ではなかった。
しかし、作家が書いたものをさらに簡単にレポートにまとめ上げる力量があった。
子宝に恵まれたからだろう。
下痢をしない程度に仕事をするのがサラリーマンだ。
床屋は「サラリーマンと、政治家や作家」「こっち側とあっち側」をつなぐのが仕事だった。
ブラックホールではなくホワイトホールを見ている作家には興味もあったし、一度話した時に「こいつは面白い」と思って仕事に使おうと決めていた。
作家は二度と入店を許されることはなかった。
とにかく、タバコを吸いまくって昼間から風呂に入る作家と、サラリーマンは違うのだ。
床屋で「耳学問」をやるために禿げても床屋に行った。
息子に「力のコツ」を学ばせるのも床屋の主人の役割だったのだ。
これらの床屋の文化を「特派員原則」と呼んだ。
あの作家の新作はどうですか?
サラリーマンは耳学問で24時間戦った。
リゲイン。

床屋と美容院は違う。雑誌など読んでる場所ではないのが床屋だ。
客が作家の言葉に顔を赤らめるのが分かった。
セックスは私有財産であるという発想も根付いていなかった。
いずれにせよ、作家に詳しいと周囲の女の数が変わってくるのだ。
カルチャーセンターよりは安く上がったよ。
桂歌丸は、絵を人に贈ったり、詩の評論を行うなどの「人情もの」を嫌っていてはいけない、と語っていた。
哲学者みんな「あっち側の人」だったがラムジーだけはサラリーマンだった。
垂加神道を考えるのは「雇われ医」にも無理だったんじゃないかな。
ラムジーちゃん。

「我々が仕事ができるのはタバコを吸いまくって文章を練り上げた作家のおかげだ。汚い歯をバカにするつもりはないよ?」
編集者のフラーセンは言った。
永井荷風みたいなものだろう。
20世紀にこのような発想が根付いてきた。
作家は歯が汚い「あっち側の人たち」と親交があるかもしれないけど、サラリーマンには芸能界などあまり馴染みのあるものではなかった。
作家は面白いかどうかだけが問われる「旧古典派」の世界に身を置いている。
お金で買えるのは身の回りのことであって、文章だけは真剣勝負だった。
与党(詩の世界のヒーロー)と細分化された野党だけでなく「こっち側とあっち側」などという区分があり、世の中面倒になったものだ。
与党も野党も「親方」は「あっち側の人」だった。
「子供たちの動き」(量子論)の研究もこのことを念頭に置かなければならない。
旧古典派(真剣勝負)の世界ではめっぽう強い「あっち側の人」であったが、新古典派(お金を使って勝負を決める)の世界に子供達を誘導するのは明らかであった。
世界の「心」を作る世界は真剣勝負だよ。
しかし、修行期間中の下痢だけは堪えるね。
サラリーマンは電車で下痢をしたらシャレにならない。
自ずと生き方が変わった。
ストッパ CM.

「子供たちの人生を金で買うのは目に見えていた」
子供たちはそれで嬉しいのだろうか?
遊佐道子は、娘の林芙美子の人生を「金で買った」が、母と娘の対立は抜き差しならぬものがあった。
林芙美子(杉原杏子)は、実力の世界(旧古典派)の文学の世界では「通用しない」とも言われていた。
子供だって「勝ちたい」んだよ。
サラリーマンはワールドカップを楽しんでいたし、子供たちはワールドカップに憧れた。
しかし「あっち側の人」である作家や政治家、哲学者は、床屋は出入り禁止になるし、子供たちの「強くなりたい」という気持ちに葛藤をもたらせた。
東京大学だけは旧古典派の立場を維持しており、慶応ボーイになるのが関の山だろう。
強くなるために親が下痢と戦ったことなど子供は知る由もなかった。
サラリーマンだけが得をすることは「クーンの敗北」とも呼ばれたが、強い作家に人生を狂わされる弱い作家はサラリーマンの世界に戻っていった。
長嶋一茂。

男にとって最も優れた多数派工作は、「失恋について歌い続ける」ことである。
自分よりも知恵や知識に勝ったものがいる。
これらを歌うことそのものが多数派工作だったのだ。
どうしても敵わない作家がいるのならば、他の作家はこのことを描くべきだろう。
「神」がいるからこそB'zに人々は熱狂したのだ。
恋に破れた男たちは決して団結することはなかった。
しかし、少なくともB'zという共通の話題だけは見つかった。
「神」以外の男はみんなバックがバラバラだったし、属している教団も違った。
もう一度キスしたかった。

「なぜ負けたのか?」
作戦を練り直す余地は十分にあったし、女たちは「一通りのことを知っている男」に魅力を感じた。

ウェスリー・サーモンは「女心」ではなく、女には分からない「男心」から資金集めを行うという珍しい発想をとった。
明確な正解などなかった。
「男心」とは非常に複雑怪奇で、時には女の子が孤立感を感じてしまうような競争社会だった。
「いつか私の心を明らかにしてね?」
その男心を「分からないもの」としたのだ。
「私の心はこんなに単純なのに」
しかも、私が納得いくような歌謡曲をどの男の子も聞いていたのに「意味が分からない」らしいのよ。
「男の方が金持ちになるのがその時に分かった」
サーモンは「デトロイトスタイル」と呼ばれる「男心が分からない」という女の子の気持ちを資金集めに用いるスタイルを考えた。
オーストリアの王室から流れてきた流派だった。
「とにかく勉強を難しくしてやれ」と考えたデトロイトスタイルは、ある意味、日本国の受け入れるところともなった。
「性欲だけでは動かない男の子の気持ち」
それが家族を作り、権力を作るからである。
シャーロック・ホームズはライヘンバッハに転落したことにしたかった。
ライヘンバッハとは「男心の象徴」だったからだ。
バナナの涙 うしろゆびさされ組。

「あなたにとってセックスって何?」
そんなに遠くにあるものなの?
そう思っている男の子に可能性を見出したのだ。
女の子たちはそのような男をセックスの外へ外へと押し出した。
ライヘンバッハには「発見」と「セックス」の二つがあった。
セックスにしか興味がない男は「発見」に興味がある男を恐れた。
予測が単純ではない快楽がある、そう言い放つ男を「怖い」と言っていたのだ。
とにかく「予測が単純ではない快楽」を知っている男かどうかは話してみなければ分からないし、「言っていることが怖い」とは困難な道を平気で極めている男に対して言っていたのだ。
「普通、女の子のケツばかり追いかけるよね?」
ライヘンバッハの滝。

しかし、「硬派」として鳴らした男が、男社会で勝ち抜いて「女心」の研究に関心が向かった時がいちばん怖かった。
女心を「発見」されるのが怖かった。
デトロイトスタイルは、サーモンの成長とともにあった。
サーモンが「柔らかく」「噛み砕いて」話し始めた時に、一気にお金が集まった。
今までは「男社会で勝ってきた」ことが売りだったではないか?
ところが「女たちに人気のある議論」への飲み込みが早く、その場で女たちと意気投合してしまう秘訣も身に付けるようになっていた。
「結局、男心って分からなかったわ」とおばさんたちは中年になっても痛感する瞬間だった。
なんで私と話しが合うのかしら?
今までそんな人いなかったのに。
男は太っていたかもしれない、腰痛に悩まされていたかもしれない、しかし、それすら「男の愛嬌だった」と思えるようになっていた。
タイソンの時代よりも少し前にデトロイトスタイルは完成していたのだ。
金と人脈がなければ「強さ」は生まれないものだ。
トーマス・ハーンズ。

妊娠した女は、それを言いふらしたりセックスしたりしない限り太るものだ。
テレビで報道すれば、言いふらすこともセックスすることもない。
「彼女、妊娠したって、本当かしら?」と女たちが噂しあっているのならば「それは本当だ」と知っている男がその場の空気を作る。
そこからが恋愛論の独壇場だろう。
仮説を女たちが話し合っている段階で、議論の焦点を絞ってしまう。
それも男の「発見」からもたらされるものだ。
「真相は男に聞かないと分からないね」と女たちは話し合った。
妊娠していることを黙っている女はとにかく太る。
太りたくないからいろんな女に話して回っている。
太るっていくのが怖くていろんな男とセックスしていた。
破局も悟っていた。
妊娠とはそのようなものであり、1人の男の命を預かることではあったが、かなり女にとっては負担となるものであった。
「どうしてもテレビで公表したい理由が女にはあった」
松田聖子 抱いて。

「言いふらさないと他の男ともセックスするのか?」
盛大にパートナーの妊娠を男が祝わないのならばそのような展開を辿るのは目に見えている。
アダムとしてはリンゴをかじりながら鬼気迫る表情で仕事をするしかない。
GTRという車で女に自由に旅をさせよう。
男の表情の意味を考えるいい機会だ。
ヒッチコックは鬼気迫る表情で映画を撮り続けた。
「ヒッチコックならどうする?」
いろんな映画監督が腹ボテの妻のことを考えながらそのようなメモを残している。
男の顔を思い浮かべなければ女は妊娠というものを受け入れられなかったし、バカな男の命を宿したとなると人生は一気に破滅に向かうのだ。
愛の炎 田中れいな。

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