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Foreign Affairs

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2018年3月18日 (日)

アニメ。

プラトンの詩(音楽作品)はあまりにも女を「幻」として描きすぎている。
幻よりも真実を見る時が男にはある。
プラトンを助けてきた歴史上の哲学者はことごとくプラトンの「教義」にしたがってきたのだ。
人間はどれ程忍耐強くなれるのか?死というものをどのように考えたらいいのか?
この二つをアニメーションでは縦横無尽に描くことができた。
「善悪の彼岸」
つまり、アニメの世界においては「女をあてがわれた程度では男は失脚しない」ということを描けた。
カントは「いかなる女も口説き落とせる」という学問の探求を行なったが、ニーチェはアニメにおいてそれを映し出した。
そこには「超人」がいて、多くの女たちが恋に落ちていたのだ。
アテネが男に求めていたものが、アニメの世界では実現していた。
男の到達点がそこにはあった。
モテない男がアニメの世界ではクラリスにもモテた。
人生の絶望の中でルパンになる妄想もした。
カリオストロの城。

男らしさを語り合う宗教は無尽蔵に発展したが、「女心」を見失ったのがアニメだった。
女も「アニメのような」存在として、お化粧もしたし、胸や尻を強調した。
しかし、男が口説き文句を知らなかったではないか?
CoCo メロディー。

男の子が勉強をする理由はモテたかったからだ。
勉強し、いずれは学問をやる男の子に、いきなり「学問の到達点」を見せてしまうのがアニメだった。
テセウスの後継者であるデルファイの人生とはこのようなものだということをアニメは示していたし、アニメを見る男の子はデルファイになる妄想を持っていた。
カリオストロの城。

人間同士が何をやろうと「地球」だけは微動だにしなかった。
「どの女も落とせる」というカントの「最も男女に人気のあった学問」の存在はアニメで知った。
しかし、勉強は一向にその答えを示そうとはしないではないか?
「どのように?」と聞かれたら「簡単に」と答えるのがアニメオタクの考えだった。
軍師官兵衛テーマ。

しかし、ドイツ観念論哲学の到達点を示したことから、ドイツ観念論哲学とニーチェのハネムーンは行われた。
人々は夢を見ていた。
これが哲学の到達点なのだ。
うまくいかない仕事や勉強がある世の中で、どのようにぐっすり眠れるのだろうか?
Dr.モリエールは「アニメを見ろ」と答えた。
「なぜクラリスとセックスしなければならないのか?」
シェークスピアは「普通の男にはその資格がない」ということを描いた。
カリオストロの城 別れ。

理解して欲しいのは「哲学とは統治者のものである」が、「アニメを見る男は誰も物事を治めようとは思っていない」ということだ。
「勉強する助けになればいい」程度に考えておかなければならないのだ。
アニメの主人公になろうと思っても、現実は「真っ青になる」ことばかりで禿げた奴が多い。
アニメは「内臓」となるが、現実社会が内臓のようには動いていないからである。
おちんちんが男女の間でどのように位置付けられているのかを明確にすることを心がけた。
最高の哲学者に女は「感じる」ということを示したのだ。
「譲れないもの(エゴ)はどんな哲学者でも叶えることはできない」
このことにも女は感じた。
あしたのジョー ダイジェスト。

影響を受けてリングに上がる男は「割りに合わない」思いをした。
それが「エゴ」というものなのだ。
通常の人間は「夢を叶えようとは思わない」ほど強いものだ。
はじめの一歩のような「フィクションにおける勝利の興奮」は哲学ではなかった。
対戦者とどれだけ「譲れないもの」をぶつけ合ったのかを示すことが大事だ。
「トレーニングとはどのようなものなのか?」を示さないのがアニメというものだ。
カントは「どの女でも落とせる」のが哲学者であるとしたが、一歩は久美ちゃんを落とせないだろう。
これも視聴者に「君らは哲学者ではない」というメッセージを送っているのだ。
人間を本当に「自由な空気」に流したら譲れないものばかりなのだ。
作者も哲学までは分からないから、ひたすら「自由の世界で起きる二人の男の激突」を描いているし、それが正解なのだ。
あしたのジョー。

「人間、あまりにも人間的すぎる」
アニメを見た後の人間社会を見た感想である。
「権力への意思」も生まれた。
それはクラリスがあまりにも美しかったからであり、いずれは「女心」を解明したいという欲望が生じたためだ。
基本は「クラリスもマスターベーションをする」ということを精神医学の観点から知っておくことなのだ。
カリオストロの城。

謀略や裏切りに満ちた世界での忍耐力がつくという点も指摘できる。
アニメを見ているの孤独も愛せたため、知性というマスカレードへの周囲の殺害意図も感じなかった。
アニメをディズニーランドが手にするのも当然ではなかっただろうか?
夫や恋人を失っても寂しさが紛れるのだ。
それはある意味「悲劇」だった。
人間の「嘘」に辟易したものが見るものでもあった。
松田聖子 ストロベリータイム。

夢がカラーならば、ディズニーランドのシンデレラ城を見に行けばいいし、白黒ならば寺院に行けばいい。
アニメで神社仏閣が「聖地巡礼」の対象となるのは当然のことだったのだ。
らき☆すた。

イスラエルは海岸を「聖地巡礼」に用いたが、人々は人生の妬みや嫉みを海岸ですべて忘れることができたし、聖地を作ることはヘレニズムにとって重要なことだった。
聖地は「お上」の熾烈な権力闘争の場でなければならない。
あれだけ「きな臭い」空気だったのに、人々はそこで新鮮な空気を吸った。
三浦海岸 ジャーバージャ。

聖地は意図的に作るものではなかった。
権力闘争の場に行ってきたというだけで、孤独な人に仲間ができた。
海でも山でも多くの政治家が「聖地」にしてきた歴史がある。
権力者がいかに率直にメッセージを出すかに聖地の魅力は託されていた。


三浦海岸。
レイニーデイ×3 高橋由美子。

どっち側につくつもりだ?観光というものは本来、休日のつかの間の家族サービスであったが、それでも人脈と関わっていたのだ。
権力者は「偏見」を避けなければならなかった。
より説得力のあるメッセージを出す必要があったのだ。
権力者にはライバルがいなければならない、しかも強くなければならない。
権力者も悔いを残しながら生きている。しかし、それをも力に変えているという意味では聖地巡礼は「栄養」の起源だった。
巡礼者にとっても権力者にとっても「聖地は栄養」だったのだ。
フランス革命がなければパリは恋の都にはならなかったであろう。
大事なことは「すでに起きてしまった」ということだった。
治めることが嫌いな権力者はいなかった。むやみに争いごとを好むものもいなかった。
家族は「治ればいい」とみんな考えていたし、そのための聖地巡礼だった。
権力者にとって「誤魔化しは恥」だとみなされた。
率直なメッセージだけが栄養となった。
政治家として「正体」を見せることはそれほど大事なことであったし、偉大な者は偉大だった。
政敵も「聖地」を作っているだろう。そうでなければ一方的な勝負になる。
「正体」を見せなければ勝てないのが政治だ。
勝つためにお金が必要であることはどの政治家も分かっていた。
「歯と胃袋」が政治家には必要だったのだ。
三浦海岸駅 接近メロディー。

経験の「高さと深さ」が男には必要だ。男らしさを語り合う上では「宗教」の対象となる男に求められるものはこの二つなのだ。
射精して「天国を見る」ことは男が犠牲になる上で必要なことだ。
ローマ・カトリックは、男を犠牲にするという意味ではナンセンスだとも言えた。
ドイツ人男の方がフランス人の男よりもより犠牲になったのだ。
ドイツではハーゲンダッツのような「女の乳首をピンク色にする」エニグマも作られた。
「男が旅をしたい国」でもあった。
新約聖書から「ココ」というものが生まれた。
CoCo 夏空のDreamer.

一発試験で男を判断する方法と、より多くの女にモテた男を試験に合格させる方法の二つが考えられたりした。
いずれにせよ「立証責任」は男が負った。
モダン(近代)とは処女という概念が生まれた時代であり、とにかくそのおかげで騒がしくなった。
「処女の発見」がなされてから「男らしさ」の世代も下がり、勉強というフェアなスポーツも生まれた。
世代ごとに「真実」も異なったが、快楽がもたらされるのは同じだった。
「勉強」だけで大工にはなれただろうが、それ以降の学問は「女心」を語った。
美しい女は病気に苦しんでいる。そのために学問で苦しんだ男を必要とした。
子供たちには公園で「神聖なハンマー」を頭部に与えている。
偏差値BOY うしろゆびさされ組。

青年期に鬱を背負っている男は、いずれ「女心」に詳しくなる。
女のメランコリーの意味を知っているからだ。
その「鬱病男」はいずれ多数派工作に成功するだろう。
この人はキリストであり、犯罪者であるが、犯罪はいかなるものの種となるだろう。
キリスト教信仰とは「おじいさんのためのジハード」である。
なぜ「お父さん」ではなく「おじいさん」なのかは感情にいかなる制約も受けずに健康的に生きたいからだ。
おじいさんは「ゼロの発見」を行っていた。
お父さんは「もう終わり、最終回、お別れ会」という言葉を延々と繰り返し、負けを認めなかったから、孫はおじいさんのためのジハードを行った。
お父さんは「息子を取り巻く天使たち」の存在も面白くなかった。
結論として「子供はユダヤ人として生まれる」「奴隷として生まれる」ということが指摘できる。
おじいさんが大学受験前に「テコ入れ」しに家に来ると、父親は息子に毒を盛った。
我々は果たして「野獣」として生まれたのだろうか?それとも「人間」として生まれたのだろうか?
「風邪」を引くたびに私は祈った。
しかし「神は死んだ」ことを悟っただけだった。
息子にはとにかく「酒を飲め」としか言えない現状があった。
野獣も「恥を白日のもとに晒すのであれば息子に死んでもらう」と考えていたという点では祈っていた。
息子が「天使たちに取り囲まれる」時に限って「風邪」を引いたのだ。
おじいさんが発見した「ゼロ」(ゲームセット)が近づくたびに風邪をひいた。
ここから孫のジハードは始まっていたのだ。
「善悪の向こう側に何があるのか?」
それをアニメにすればいいのだ。「祈り!」
権力への意思はここからしか生まれない。
権力者になったら他人をよく助けろ。
「共通の敵を罵倒しろ」
サザエさん。

ヨーロッパは「人間」として祈り、野獣たちに影響力を与えた。
文明国で「仲間が多い」ということの意味を知るしかない。
これらの「真理」が分からないのであれば「男らしさを語る宗教」は発展しようがないではないか。
これが女たちの「産業」革命でもあった。
知っているか知らないかで「主人と奴隷」の関係もできてしまった。
知らないのならば「祈り」を教えてやれ、そのようにして新仏教(アニメ)は作られた。
「バカげたこと」を支配すればいいだけだ。
もう一度言おう。
息子は生まれながらのユダヤ人(東大生)である。
どこで潰されるかという時間の問題なのだ。
【すべての男の子が祈る資格がある】
しかし、「不運」だけはしっかりと覚えておかないと哲学が分からないよ。
「勉強してもいいよ?」と言われた男が哲学者になるのは当然のことだ。
さらに彼の「肉体」は人に恐れられるだろう。
なぜ、歴史上の哲学者はこの「権力への意思」に気がつかなかったのだろうか?
中年になって「女心の定義」ができるようになる理由も分からなかったし、「男らしさとは何か?」という宗教の基盤を作ることも怠っていた。
「何でも知っているおじいさん」の面影を鏡で見ていただけだ。
「男」になるためにはハートが必要なんだ。
「ヨーロッパの病気の蔓延は父が原因だと分かるのに時間がかかったのだ」
父と息子、それは宗教の起源であった。
ribbon Be my diamond.

ヨーロッパ列強の植民地進出はニーチェが決めたものである。
「祈り」を求めていた連中がいたからだ。
先進国と発展途上国の違いなんてこれだけなんだよ。
祈ることそのものが多数派工作なのだ。
ロシア正教会は、都会の大学に出る男がキャンパスで富を築き上げることを教えとしていたので、祈らなければ実家からの仕送りもなかっただろう。
青いスタスィオン 河合その子。

フレデリックは病弱な生い立ちだったが、これらを学習してベルギー国王になってコンゴに植民地を作っている。
植民地とは「ドイツの心」が作り出したものだったのだ。
ヨーロッパの良心があるドイツに共感して、アフリカにそれを広めようと考えた。
なぜ、世界の子供たちは勉強することが許されるのだろう?すべてドイツ人の心にしたがっているのだ。
東大に受かったのならば「将来の哲学者」を称えよう。
「飢饉」はすべて人災である。
これらの学習がなされていないから起きる。
このことからアフリカ人も祈り始めた。
祈りを知らない家庭では彼女も作れないんだよ。
親父からの「ハンマー」がある限り、どんな学問をやっていても哲学に気がつかざるを得ないのだ。
「治める」
それは父と息子の関係を知っている者が考えることなのだ。
息子はお金がなければ父と「我々は対等だ」とは言えない。
祈りとは富につながるものなのだ。
だからこそ「飢饉は人災」であるとされている。

三浦市の発展は「心の問題」にかかっている。
女心を定義する「政治」と男らしさを語り合う「宗教」が政教分離が一体となって女のからだを取り巻いている。
「男らしさとは何か?」のニーチェの研究からだんだん明らかになってきた。
しかし、それが「他の街でも通用する議論である」ことが大事なのだ。
街づくりは「心の問題」が常に先行する。
海南神社。三浦市。

三樹院 浄土宗。


キルケゴールは、男の子の「おじいさんのための聖戦」を知り、「祖先なんて愛せるか?教会に集まろうよ」と言った。
飢饉の原因はお父さんが作っているではないか、と考えたからだ。
教会で多数派を形成すれば、それが我々の祖先になるではないか?と考えたのだ。
教会には処女がいたり、罪悪感もあった、
しかし、野蛮な国ではない、ということを標榜する教会は男女が愛し合うことを応援した。
「神は死んだ」というような野蛮さをなくせば、教会で「お、可愛いじゃん」というような出会いはなかった。
男前を「演じなければならない」という意味では仏教にも似ていた。
19世紀に「お見合い」という慣習は消滅し、ラブレボリューションが起きた。
革命家と呼ばれる「イケメン」が横行する温床ともなった。
いかなる宗教団体も「美女」を必要とし始めたのだ。
恋愛レボリューション21。

文明国であるヨーロッパにおいても、男は家庭内で苦しみ続けた。
しかし、女の子たちは癒しでもあった。
「彼女のためならば苦しみに耐えられる」
これが教会の存在理由だった。
祖先崇拝などニーチェが抹殺したよ。可愛らしい女の子は絶対だった。
労農派がキルケゴールを総攻撃した。
しかし、仕事の意味が変わり、時間が解決した問題だった。
少年は野獣として生まれ、しかし、女の子たちのおかげで洗練された男になる。
コペンハーゲンに生まれ、ドイツの空気にかぶれ、コペンハーゲンで死んだ。
白い夜 松田聖子。

キルケゴールは、「美しい女たちに愛されたければヒーローになりたいだろう」と語り、コツコツと実績を重ねていくことの重要性を説いた。
教会で出会う女の子が目当てでもいいとしたのだ。
わがままであることは「セックスを秘密にすること」であり、私有財産制を支持することだった。
ヘーゲルはひたすら「イケメン」であることを求めていたが、キルケゴールは「教会の女の子目当ての努力」を主張していた。
しかし、祖先崇拝を放棄し、教会での楽しみを見つけたキルケゴールは、研究に没頭した。
ヘーゲルが「アウトロー」の男を描いたとするならば、キルケゴールはきわめて堅実な男を描いた。
「父親との向き合い方」が異なったのだろう。
ヘーゲルに対しては「自由というものはぶつかりあって身動きが取れなくなるものなんだ」と語った。
週末の教会に行くのを楽しみにしながら平日に働くという発想はキルケゴールが考えたものだ。
無数にいる論客の中から「聞くに値する哲学者」を選別し、後世に残したのもキルケゴールだった。
仕事は「貧しい者、苦しんでいる者」ばかりを相手にしていたが、その話が教会の可愛い子にウケた。
世の中の「ほんの一部の苦しみ」を知っている階層であることは特権階級であることを意味した。
病院などに出入りし、法律家として生きることは社会を愛することだった。
アウトローの男よりもよっぽどモテたので、女の子が抱かれたがり、貧しい者、苦しんでいる者ばかりを相手に仕事をしていてもお金の面では割にあった。
CoCo 優しさに帰れない。

社会の特権階級ばかりが「社会の一部の苦しみ」を抱えて病院に来ていたので、それらの話題が女の子たちにウケるのは当然だったし、土日だけで40,000円は儲けたことになる。
若い頃の鬱も忘れて仕事をしたよ。
お父さんももはや「楽しんでください」と言っていたし、みんなキリスト教徒になるべきだと思ったよ。
男の「父への適応」とはこのようなものであり、祈ることの効果でもあった。
キリスト教徒になるべきだと言ったからには正確に「読むべき本」を選ばなければならなかった。
「神は死んだ」というのは一面の真理ではあったが、老成すると別の風景が見えてくるのだ。
懲罰的な罰というのは「有名になる」ということなんだ。
みんなその地位を捨てたくないからいろんなことをやらかすものだ。
一般論としてはそういうことだ。
神の力を使い果たした者たちが神に失望していた。
ストーカーたちに囲まれて身動きが取れなくなった時にそう思った。
ギャンブルにはまって馬に叫んだ時もそう思った。
有名人というのはそのような連中なんだよ。
女の子たちとの関係は非常にロマンティックなものだった。
愛の倫理社会 おニャン子クラブ。

マルクスが「貧しいならば従姉妹と結婚しろ」と言った時は「それは働きすぎだ」と思ったね。
教会というものはそういうものではなかったからだ。
どの年寄りも「誰もが通る道」だと考えたことでも、覇権国家の学問を持ち込んだときはみんな腰を抜かした。
今の日本で「英語によって女のを攻略する」ような行為は若い娘たちもどうしようもなく魅力的なものに思えたのだろう。
プロのアーティストがどの国を見ているかで学問も覇権国家を判断しているんだ。
キルケゴールが読むべき本を書き記したことは、のちの若者にお金を撒き散らす行為だった。
父と息子の関係で「神は死んだ」と思った時期は確かにあったのだ。
しかし、教会は決して息子を裏切らなかった。
これはキルケゴールの生き方特有のものであったであろうが、教会は存続したのだ。
父が息子に「社会の暗部さえ知ってくれれば認めよう」と考えるのも当然だった。
有名人の名前がポンポン飛び出るので父も遠慮というものを覚えたのだろう。
あとは普通に父と息子は「仕事の話」のようなものに花を咲かせた。
どの女の子も「ひとりぼっちじゃ寂しい」と思っていたし、外国語そのものが「大勢の人」に支えられているように思えたのだろう。
ご先祖様に身を委ねるか、「大勢の人」に身を委ねるかという問題であり、大勢の人の方が問題の解決能力が認められた。
若いのならば健康だろう。人混みに身を委ねてみれば分かる。
Mr.Children Tomorrow never knows.

街の人混みを作ったのもキルケゴールだった。
群衆が隣人を信じているのならば神も怖くないだろ。
女たちも胸さえ隠していれば、鬱が解消された。
群衆の中では人間は「無私の心」「仏の道」を歩んでいる。
「神は死んだ」と思うのならば人混みに出た方がいい。
しかし、父と息子という問題を彼は一生、忘れなかった。
キルケゴールよりカントの方が合ってるみたい。



【延々とつづく】

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