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Foreign Affairs

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2018年1月25日 (木)

政治の世界における敵の男。

女の子と話すことをお金に変えていたら、男同士の関係が難しくなるという問題は指摘できる。
個人的な「女の怨み」もあれば、論文を称賛する声もある。
「女友達が大勢いるらしい」という噂と「男同士の仲間づくり」はどのように兼ね合いが取れるのだろうか。
非難と賞賛はそのまま「罰と褒美」に変わる。
罰と言っても悪口を言う程度だろうが、褒美を与えたい男が悪口を言っている男を罰することもある。
「怒りや無知、孤独」などは女とセックスするだけで治る。
しかし、残されたサークルへの怒りは翌日まで持ち越されるだろう。
研究の仕方が間違っていたと言う観点からのアプローチと、女に満足するという観点からのアプローチをするしかない。
研究の仕方が間違っていたと思う者は「悪口を言う」以外の対処法はない。
しかし、自分の女がアメリカ哲学かぶれならば話を聞くしかない。
女に「セックスのおあずけ」を喰らうという形でアメリカ哲学の話を聞くしかなくなるのだ。
これがスキャンロンが考えた「教勢拡大論」であり、女への恋心からアメリカ哲学を支持する男がいるということだ。
B'z 恋心。

支持者の女に頼らなければ男社会の「自分のやり方が間違っていた」という問題は解決しないという現実がある。
しかし、女に頼るということは教団にとっては魔法のような効果が認められるのだ。
からだを使ってまで真理を広めたいのが女であるし、そのこと自体、宗教というのは「教義の間違いが許されない」ものとなっている。
女たちはどの教えを信じようが「譲れない夜」「夢がぶつかり合う夜」を過ごしている。
ここに「女のセックスに頼ることの限界」を見なければならない。
もし「女を愛するためには苦労が必要」だとするのであれば、男の側にしっかりと学んでもらいたいと女は考えるだろう。
愛してジャスティス ribbon.

また、スペックの高い男に対しては女は、本当の女を知ってもらいたくない、セックスで人生を狂わせて欲しくないと考えるだろう。
しかし、女の方がより方法論上、確かなものを持っているのであれば「教えてあげたい」とも思うだろう。
方法論で女の側が男に介入することを因果的決定論と呼ぶ。
「私とやりたくないの?」と言われるものだ。
女の子をシカトして勉強する奴には「女こそが学問でしょう?」と言ってやる必要がある。
スペックが高い男ほどそれが必要なのだ。
急進的で女を排除する思想の持ち主は貧しくなる。
そのスペックでもったいないよ、と言って女が教える必要があるのだ。
CoCo メロディー。

「落とせない女はいない」と豪語する奴に教えることは何もない。
その男のキャリアがどこまで確かなものなのかを女は見極めなければならないだろうね。
カール・ルイスはソウルオリンピックで金メダルを取っているが、危ないことがあっただろう。
ドーピング問題から金メダルを取ったので「政治を背景にした運のいい王子」と呼ばれた。
神が出来事を巻き戻して、もう一度やってみろと言ってもできないだろうとされた。
スペックの高い男にとっては「ようやくモノになってきた」と思うようなものも、キャリアが危なっかしい者は「俺の時代」などと言い出すからね。
夢は決して叶わないだろう。
「金の切れ目が縁の切れ目」とまで言われる。
16世紀の医者は、水に手を浸す習慣もなく手術していて多くの死者を出した。
「遺伝子」という概念がなかったからだ。
要するに「金をやるしかない」という敵の男は確実にいるのだ。
宗教をやっていると「金をやるしかない男」が確実に存在することは知っておかなければならない。
ソウルオリンピック100m決勝。

そもそも、なぜ「敵」なのだろうか?
「恋愛論が納得いかない」からだろ。
秒速200マイルで動く脳があるのならば、癲癇患者は「俺ならば350〜400マイルは動く」と言い出すだろう。
神経の鈍さから見る「幻」とはそういうものだ。
しかし、現実には100マイルも動かずにそのスポーツの世界の観客として戻ってきてしまうだろう。
その世界の技術論を語らせるとたちまちダメになってしまう連中だ。
譲れないのはお互い様の世界で「他人が譲った」瞬間だけを見ているのだろう。
生き方が間違っていたとくよくよしていると女が感じなくなる。
ボルト世界新記録。

女が感じなくなって別れたというのは犯罪の温床になるが、処女はそのような男を相手にすることは2度とない。
ずる賢い奴にはビッチしか寄ってこない。
そのようにしてスポーツの世界にはリピーターが生まれている。
多数派工作の「解釈」にもリピーターがいる。
同じセリフを何度も何度も繰り返しては「多数派工作ってなんだろう」と考える癲癇の患者がいるのだ。
人の心が分からなくなっているんだろうね。
人の心が分からない人がスポーツにのめり込むという現実は指摘していい。
要するに「他人が道を譲った瞬間」だけを何度も何度も暗唱している病人なんだよ。
怒りと落胆の人生であるという現実がある。悪く思わないほうがいい。
怒りながら生きているんだ。
癲癇とはそういう病気だ。
みんなが笑ったり歓声をあげたりしただけで「俺でもできる」と言い始めるんだ。
周囲の反応だけ見て言っているんだよ。
オリンピックが楽しみなのは癲癇患者だけだよ。
アナウンサーの絶叫だけが聞きたいんだ。
顔にコンプレックスがあって頭が働かない連中だ。
何かを成し遂げることはないだろう。
太ることを覚えて休養することからスポーツに興味を失うものもいるが、それが本来の姿じゃないのかな。
女にモテないという社会的制裁は受けているんだ。
子供たちは「大人の犯罪」に敏感だよ。
筒香ホームラン2017.

港湾ヤクザが犯しているのは軽犯罪ではないんだ。
重大犯罪だからヤクザと呼ばれるんだろ。
スポーツにのめり込むというのはそういう意味なんだ。

保守派の真実とは「有言実行する力がある」ということと妻が感じるという所にある。
妻が自分に貞淑であれば妻が読んだ本の話を耳学問にすればいいだけだ。
女にとって意味のあることだけを話すので、それを職場の女の子に話せばいいのだ。
聖母マリアの話は役に立つし、息子のトム(イエス)の教育に関する話も「プライベートを職場に持ち込む」という観点からは夫のヨゼフはマリアの話を聞いていればよかった。
ゲーデルはしかし不完全性定理において「女の言い分だけがまかり通っている」として「男として妻の意見に社会人としての視野の広さを与えなければならない」と考えた。
「母・女の言い分」にうんざりしていたのはトムだったのだ。
ヨゼフは職場で「女の言い分」を話していれば出世するだろうけど、トムの「志」はマリアには分かるわけがなかった。
トムは「ギャーギャーわめくな!」と母を一喝することもあった。
聖母マリアの話だけを聞いていればいいというのは夫・ヨゼフの出世のためだけに用いるべき発想であり、子育てには必ずしもいい方向には作用しないことを不完全性定理と呼ぶのだ。
「どういうカップルなのか?」が分かれば職場はそれで成立したが、だからといってマリアのいうことをそのまま子育てに用いてはならない。
夫に貞淑ならば発言力はあるだろうが、相当、認知は歪んでいるものだ。
私の魅力に気付かない鈍感な人。

プラトンは、結局「従姉妹の女の子」をモチーフにしたほうがいい詩が書けるということに気がついたのだ。
学校生活と、適度な距離感、そして「すべてを言葉にすること」の三つを満たしていたからだ。
詩というものは「書きたいことを書いてくれ」という側面があり、いとこがいるというのは才能でもあった。
従姉妹との関係を詩にするのが詩を作る基本であるが、そこに「盗み、セックス、欺き」の三つの要素を書き記すのだ。
この三つの要素は「誰のものか?」をいとこ同士で争うのが詩というものだ。
これが「すべての先生の公約数的見解」であり、ギリシャの一神教であった。
キセノファネスはこれを明らかにしたし、クロトンの心を病んだ女の子たちは共通してこのことを歌わされていたとしている。
どの男女も自分の身内の身近なモチーフに共感しているということをギリシャ一神教は狙ったのだ。
「彼女が」「おちんちんで」「痛みを感じている」このあたりに「盗み、セックス、欺き」を表現したのだ。
あとは「この表現こそが多数派だろう」というあたりにブレイクの秘密はある。
「誰一人としてファッショナブルな男はいない」ということも分かる。
ホメーロスやヘシオドスを要約するとそういうことなんだ。
Qlair 秋の貝殻。

適度な距離感をコントロールする学問を「数学」と呼んだ。
「10と20の間にも素数はあるんだよ」
こんなことすら従姉妹は知らなかった。
そういうことを詩にするんだよ。
数学ができるということは国語も勉強したんだろ。
「韻」の数をビートに合わせればいいだけだからな。
数学と国語の「腕試し」は詩で表現できる。あくまでもプラトニックなものだ。
「11は素数だ」という言葉が「すべてはプラムだ」といっているように聞こえた。
詩が書けるようになったら「真実が知りたい」と思うようになる。
しかし「恋話を覚えるモチベーション」としてとっておいたほうがいい。
そのようにして学校生活というものは楽しむものなんだ。
お引越し。

「プライベートの話題を仕事に持ち込むと出世する。仕事の話をプライベートに持ち込んではならない」
この基本を踏まえると、1890年代からアメリカにおいて「仕事にとっても有意義なプライベートを他者の妨害から守ろう」というムーブメントが始まったことの意味を理解することができる。
みんな「お金」に興味があったのだ。
仕事仲間として仲間に迎えるためにはプライベートの話をしなければならない。
しかし、プライベートを充実させるためには職場では黙っておいたほうがいい時もあるし、お金になるようになってから話したほうがいいこともある。
ウォーレンとブランダイスが1890年ごろから明らかにしたものであり、セックスの感じ方や、日常の雰囲気は「黙ってないと壊されるぞ」ということを明らかにしていた。
BoA まもりたい。

他の職場の同僚よりも自分は優れているということをアピールするのはプライベートを語ることによってなされるものであり、ウォーレンとブランダイスの論文の70年後の1960年代になってから連邦最高裁で話題になるようになった。
アジアやヨーロッパでも「プライベートを職場に有利な形で持ち込む」ということは共有されるようになった。
ホリフィールドは1995年までに明らかになっていた方法をレノックス・ルイス戦で活用し、プライベートを明らかにすることで判定を有利な方向に導いた。
ホリフィールド対ルイス1999年。

ローレンス対テキサスにおいては「同性愛者であること」が5対4の審判で公表することが認められ、バウアー対ハードウィックにおいては「児童虐待」が困難な問題として提起された。
果たして仕事に有意義なプライベートの情報なのかが争点となったのだ。
特定の女性に伝えたい情報なのか、職場全体の噂になるような情報なのかの違いが認められる。
特定の女性に伝えたい情報ならばその情報自体が「富」(デリバティブ)となる。
ジャービス・トンプソンは「孤児の女の子に仕送りをしている」という情報を仕事に活用していた。
ポズナーもその「経済効果」を認めていた。
しかし1965年にボークは、「それは社会問題である」としてジャービスを批判している。
アメリカ合衆国憲法修正4条、5条、9条でジャービスのやり方は認められた。
しかし、連邦最高裁にも「社会は間抜けだな」という内容を含んだプライバシーの情報に関しては「それはボークだ」という考えは根強い。
「不幸な女」を利用して欲しくないという考えは広く女性たちに共有された。
また、プライベートがスポーツ新聞に掲載されてしまえば、それはもはや「仕事に活用しなさい」という意味であり、それをメディアから強制されることになる。
そこで、プライベートの登場人物全員を「認める」という形でスクープする必要が生じる。
プライベートを明らかにするということは「他人からの親密さ」をもたらす。
我々は世の中の人全員と親密になろうとは思っていない。
ネコラブ。

そのような意味において、「プライバシーとは寂しいから暴露する」という側面が指摘できる。
私生活を晒さない人間は寂しい人間ではない。
プライベートの暴露に多くの男女が群がることがあるが、2003年ごろには「そんなにあなたは寂しいのか」というリアクションが定着した。
今は「社会への貢献」を見ながら争点を提起できる議論かどうかを見ながらリークしているのが現状だ。

やしきたかじん嫁問題について。

小保方晴子の問題。

ベッキー騒動について。

ウォーレンとブランダイスは「寄ってこないでよ!」という意味でプライバシーというものを考えた。
そういう意味では「一人でいさせてもらいたい」という権利のことであるといっても間違いではない。
女性は特にそうだった。
インターネット時代になったらIPアドレスがなければ女を守れないことも分かった。
電話、ファックス、Eメールなどが世界の20カ所で傍受されている。
NHKもその中の一つだろう。
9・11テロの後にそれは容認されているのだ。
今の妻や彼女から愛が失われたのか?などは聞けば分かるものだ。

リベラリズムというのは、自分の主張を通すために男の前で裸になる女のポリシーのことを言う。
熾烈な女同士の戦いが展開される世界だ。
あの女、今頃、何をしているのかな?と譲れない夜もあった。
カントを知っている影響力のある男を狙ったし、私は「女になる」という教育を終えていた。
アナルセックスを強要されることを恐れていない女のことをリベラルと呼ぶんだろう。
ホッブスは主権というものを考えて、アナルセックスがどうしてもいやだという女たちのニーズに応えた。
どの男の前でも裸になる女はアナルセックスを恐れていない。
このことをよく理解している男を「王子さま」と呼んで、東大生ならば誰だって乗せる女などいないということを見越していたのだ。
永遠に友達 瀬能あづさ。

男の前で裸になればなんだって通ると思っている女はかなり古典的なリベラリズムに立脚している。
法律の力を信じているのだろう。
法律とは「ノンケ」を作り出す学問だ。
しかし、アナルセックスをやる男が知れ渡ってくると、男でも「ケツの一回でも許してやろうかと思ったのに」というようなニューマーケットが開かれた。
金に困ったら男でも女装して歩いたのだ。
一回2万3千円だぜ?
カントのように「女心」を語ってモテる男はノンケだったので本気モードに入る女たちがいた。
ホッブスのように「アナルセックスを強要する男がいる」ということを踏まえて、それを嫌う女たちの支持を広げたのがカントだった。
男が好きな男ならば女たちは「どこに連れてかれるか分からないね」と語り合った。
女の局部だけが政治の世界で万能なのではない。
アナルセックスをする男がいるので、うかつに男の前で誰もが裸になれるわけではない。
ribbon あのコによろしく。




【つづく】

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