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Foreign Affairs

  • CFR: フォーリンアフェアーズ英語版

« 学校(勉強企業)。 | トップページ | 退屈さに飽きないヘンタイ。 »

2018年1月14日 (日)

物象化論とマルクス。

1996年12月に、ジュディス・バトラーは、マサチューセッツで「マルクス主義の再評価」を行おうとしていた。
エヴァ・サドウィックの「クローゼットへの向き合い方」や「ヘンタイの惑星の恐怖」などの本が魅力的に思えて、すでに冷戦は終えていたものの、マルクス主義とは何かを考えてみたくなったのだ。
「男たち」の力で西側諸国は押し切る形になったが、「女」そして「ヘンタイ」により詳しかったのは東側だった。
ゲイやレズビアンなどが西側先進国で「敗北する要因」と考えられたことから、アメリカ合衆国内部でも、マルクス主義に共鳴する連中がいまだに残ったのだ。
アメリカ中西部出身のショートヘアの女など、クリスマスを考えたトロツキーの信者は多く、時に「ヘンタイ」はかなり強烈な全体主義ムーブメントを引き起こすこともわかってきた。
レイザーラモンHG.

女の感じ方を男もしているというのは衝撃的であったし、90年代にこのことを指摘しないものはいなかった。
マイケル・ワーナーは「性の統合」というものがマルクス主義には存在したとし、女たちまで支持する全体主義ムーブメントが「性の統合」だと悟ったのだ。
量子論は「男の子の計算」しか興味がなかったし、労働力としても男が戦力とみなされていた。
男と女というノーマルを憎むものは当然いたのだ。
ラカンも女の子に不思議の国のアリスのように女としてのセックスを要求していた。
犯罪を犯すと処女がセックスさせてくれないとか、非処女でも夏の海にいれば癒されるなどの論争はまだ健全な部類だ。
ジョージ・ルーカクスが考えたのは「階級社会に存在する虐待と性倒錯」であり、下層階級が標榜するのは「相対主義」であり、幅広い支持を得た。
竹原ピストル。

セックスだけが絶対で、他には真理など存在しないというのが相対主義であり、恋愛論という「フィクション」を作り上げることを知らなかった。
ヘンタイプレイは社会で正当化しようがなく、しかしそれが生み出す文化によって自らの社会との和解を行なっていたのだ。
貧しい生い立ち、そして狭い部屋によって行われた虐待はもはや文化的な階級闘争となっていた。
「搾取と抑圧」が「知ること」を制限していたし、社会全体が「分からない」というのはもはやメディア論でもあった。
社会全体が「分からない」と言い出すのが階級格差の結論だったし、だからこそ簡単に英雄になれる人もいたのだ。
「分からないという名の全体主義」が広く支持された。
尾崎豊 シェリー。

「努力を否定してくれるのはありがたい」と考えるものが大勢いた。
全体で足並みをそろえて怠けようというマルクス主義の言い伝えはあながちでたらめではなかったが、このような貧困や階級格差からもたらされたものであることは理解しておかなければならない。
すべての男たちが男らしくありたかったし、疲れ果てたくはなかったのだ。
マルクスは、階級闘争の帰結として社会全体がゆったりとしたものになることを指摘していたが、フーコーはそのような空気の中で「ゆったりとしたプロレスのような格闘技」を楽しむことを志向した。
ジェームソンは「ノンケの中産階級」の攻撃性は「集団主義の経験」や「階級格差をより理解したものたち」に嫌われるだろうと考えた。
ゲイは攻撃的であったが、生み出す文化はゆったりしていた。
どのような空気の中で生きたいのかと問われるとみんながゲイやレズビアンの文化を支持したのだ。
さて、時代の空気を生み出すことには成功したが、それを牽引したヘンタイたちをどのように扱ったらいいのだろうか?という問題と直面した。
田代まさし。

「性行為非公然性の原則」というものが生まれた。
文化を作った階級格差や貧困は評価しつつも、その原因をプライベート化することにしたのだ。
イエスキリストは我々が生み出したゆったりとした世界で女心を語り、性倒錯への感謝もなく、急激に影響力を高めているとみられていた。
我々だってエデンの神話を経験しているんだとゲイは考えていたようだ。
「男性パートナーには男友達を、女性パートナーには女友達を」望むのがカップルの基本であるが、そこに葛藤が生じる恐れがある。
しかし、ゲイやレズビアンの存在は1組のカップルにとっては「役に立つ限界」であると言われた。
フロイト的美女が無限の影響力を行使しないことにつながるからだ。
男らしい男、女らしい女だけの世界ではあまりにもみんなが急ぎすぎる。
政治的無意識の中に「役に立つ限界」がどうしても必要なのだ。
フロイト的にアマテラスを明らかにする作業は社会の速度をコントロールすることを意味する。
イケメンが女心を知るということは社会をスピードアップさせるのだ。
しかし、プロレタリアート的のんびりさはそのことに反発するだろう。
レズビアンやゲイは日経平均株価の上昇を望んでいない。
globe Joy to the love.

いずれにせよ、階級格差や貧困は虐待の原因になり、そのことが社会に「全体主義的に」速度制限をかけているのだ。
アドルノは「このことを利用して英雄を作ろう」と考えた。
しかし、キルケゴールは若い時期はそのような空気にかぶれてみたらいいのではないか?と考えたようだ。
相対主義は社会全体の動きをゆっくりなものにするが、開かれた絶対主義は社会の速度を速める。
男らしい男、女らしい女のいる社会で「口説き文句」を売りつける行為は社会の速度を速める。
この「速度」とは日経平均株価のみならず、人口の変動にも影響を与える。
「人口変動社会」とは、ゲイやレズビアンなどの相対主義文化に国全体が「全体主義的に」飲み込まれていく様を描いている。
開かれた絶対主義、つまり「口説き文句に真理が存在する」という立場は人口のコントロールをも可能にするのだ。
2025年から2045年までの「人口変動社会」の予測もあくまでも相対主義というイデオロギーを見ながら予測しているのであって、開かれた絶対主義の時代の到来がなされた現在においてはそれが現実のものになるかどうかは不明なのだ。
キリストの昇天以降、人口は減るというのは経験則であり、そのことを根拠に人口変動社会は予測されている。
我々は「男が表情を変える瞬間」に経済発展を見出しているのであり、女の表情など見てはいないのだ。
女は自分の「セックスの思い出」のことを振り返っているだけだからだ。
男が表情を変える理由は「ペテロ」がいるからである。

おじ(ペテロ)と自分の関係を「系図」を作ることで統制しようとしたのは1930年代のグラムシだ。
しかし、おじと「どっちがモテるのか?」を競い合うような交流関係を持つことの温床になり、従姉妹との交際は「ヘンタイ」との誤解を受ける羽目になった。
しかし、従姉妹がいればいろんな意味で好ましい性概念を身に付けることができるとされる。
政府は親戚との結婚や交際は禁止していないし、性概念の確立をする上では、本稿においてはミッドナイトカウボーイを貴重な資料としている。


従姉妹との恋愛は「プロレタリアートフェティシズム」と呼ばれ、銀行のアカウントなどで確認されるだろう。
父と母の「姓」が異なることから「ファミリー細胞」というものが生まれ、階級意識というものが生まれる。
しかし、これは極めて女性の感受性を重くみた考えだと言われる。
「何か計算できないもの」をファミリー細胞として混ぜ合わせたほうが女性は自信がつくのだ。
異なる姓を名乗る女との結婚はもはや法ではなく、男の政治的力量を意味した。
女性的感受性はただちに同姓同士の婚姻を拒絶するだろう。
従姉妹は、男に真っ先に体を売る存在だったのだ。
そのことを「知っている」かどうかの見識が問われた。
それをうまく「身辺整理」してファミリー細胞を作っていかなければならないとされたのだ。
同姓同士の婚姻は「階級社会におけるいじめ」と「自由な政治参加を求める側からのいじめ」の二つに直面するのだ。
しかし、率直な印象は「売春婦との結婚なんて汚らしいわ」というものだ。
おじと奪い合った女との結婚は「単純計算」しても敵が多い。
絶対解ける問題 松浦亜弥。

また、ペテロの存在を考えると、同姓同士の婚姻は政治を難しくさせるため「わざわざ」という現実的な問題がある。
女のからだにも「ノーマルボディ」と「より簡単な」ボディの二つがあったため、何のための口説き文句だという批判は政治的には可能だろう。
支配される階級としては「お前、寿命は大丈夫か?」という苦労が絶えない。
しかし、男の本能としては「親の遺産に興味がない」ということと「美しかったから」という二つの指摘が可能だ。
ユダヤ人はこのような心理を銀行で見ていたのだ。
あくまでも産業が近代化を迎えるまでにユダヤ人が見ていたものの名残だと言える。
企画や筆記、ファイリングなどが仕事となった現代においては「意味のない議論」とされている。
ペテロの議論の蓄積を見る限り、美への欲望を満たし、その上で「身辺整理」(テイラーリズム)も必要のない簡素な結婚と扱われている。
今となっては「女たちと接する機会が増えた」ために「◯◯が行った!」という「勇敢な男モデル」が作られたからだろうとも言われている。
この勇敢な男モデルができたために女の側も心を開いたとされる。
アメリカと都市部では「従姉妹との結婚」は「ああ、君か!」という新しい形の奉仕に変わって行った。
愛してジャスティス。

あるいは「故郷はどこですか?」というような特定の田舎の出身者だとも思われた。
食や楽しみに満ち溢れているアメリカ合衆国においては「すべてが過剰である」という意思表示にも思われた。
息子への「ささやかに生きろ」というメッセージともなるものだ。
1909年にフロイトがクラーク大学で講演した「従姉妹との結婚」は「こんなに大勢の女がいるのに」というロマンティックなものへと変わっていた。
アメリカ合衆国においては「大衆社会で消費されるもの」に過ぎなくなったのだ。
むしろ「勇敢な男」モデルは「アウトローっぽくていいだろ」という形で従姉妹との結婚をアピールした。
「すべては給料次第だね」と言って美の魔力にとりつかれるものもいた。
給料があったからこそ、それを「安全弁」として「開かれた処女地」に入っていくものがいたのだ。
「そのほうが安く上がるからな」という言葉は「勤務時間手当ての賜物」とも呼ばれた。
従姉妹にとって、学校などでの恋は「月のもの」だったが、従兄弟との距離感は「季節もの」だった。
月のものであるクラスの男子の言葉の方がより印象に残った。
「親戚一同が集まった」などの場合はお金をたくさん使うことから、女の子の奪い合いが生じるのだろうと考えられている。
ダメ男ばかり見ていたら、従兄弟だけが安定していたことに気がつくこともあった。
従兄弟同士のセックスは「生む」(プロダクション)というよりは「消費」(コンサンプション)だったけどね。
マドンナ パパ・ドント・プリーチ。

すべては「おじ」がいるために結婚に反対されるものの、生産と消費は「従兄弟とのセックス」をめぐって議論されたものだ。
「蓄積」というものも「季節もの」であることを知る必要がある。
女の子の「セックスできる体」も季節ごとに変わって行った。
「次の一族の宴会のためにお金を貯めておかなければならない」と考える親方がいたためにこのようなことが起きたのだ。
ミシェル・フーコーは「次に会う時にはもっとキレイになろう」という従兄弟との出会いの心理を指摘している。
また、フロイトは「命が危険にさらされた時などに従姉妹を想像してマスターベーションする」という男の子の習慣を指摘した。
母親のヒステリーのことだろう。
家庭内のゴタゴタとは無縁で、最も身近な存在が従姉妹だったからだ。
「当然、女社会の序列は別のところにあるんだろ?」と従兄弟は考えてしまう。
従姉妹とのセックスは、男の子のエネルギーに比べてあまりにも簡単だったからだ。
「自分はどこに向かっているのか?」を見失う男の子もいた。
ribbon 3つの願い。

エヴァ・サドウィックの「クローゼットへの向き合い方」というのは「セックスに関する知識がない」男のこのような末路への救いとして書かれたものだ。
本来、学校というものは当然のようにあるものではなかったので、セックスの可能性は「工場」によってプロデュースされていた。
そこで男としてセックスするのか女としてセックスするのかの区別は自ずから身についた。
すべての男女が「男としてセックスしたい」というヘテロセクシャルデザイアーと、「女としてセックスしたい」というホモセクシャルデザイアーを持っていたからだ。
男としてセックスしたがる女を「シシー」と呼び、声が独特のものとなった。
男としてのエネルギーを使おうとするからだとも言われる。
20世紀に入ってから明確な「男女別コース」が採用されるに至っている。
hiro delicious.

男らしさというものは「鬱と敗北」から作られるとされた。
「敗北を知らない」ということが男の子にどのような悪影響を与えるかは理解しておかなければならない。
カントのように「女心は大きすぎる」というような多数派工作をしていたら、「敗北を知らない」ヘンタイが大勢集まってくるだろう。
マルクスは「第二インターナショナル」において「女たちをたくさん集めよう」というムーブメントを起こしている。
女たちさえいれば自ずから敗北も経験するだろうと考えたのだ。
「常勝思考」という名のヘンタイが今度は指摘された。
負けたくない男の子は、マザーファッカーをやって精子が出なくなるし、アナルセックスを許すだろう。
しかも、かなりのナルシシズムをともなう形でこれを行う。
このような男を「プロレタリアンナルシシスト」と呼び、奴隷としての肉体を尊敬する「両刀使い」あるいは「ゲイ」となることになる。
エリートは結婚への強烈なナルシシズムを背景に「勉強」を体に染み込ませるのだ。
若さという退屈さもそこにはない。
常に最高の教育環境に身を置いていた。
しかし、プロレタリアートにとって「最高の教育」ほど遠いものはない。
そこに「常勝思考」を持ち込むのは危険だ。
おちんちんがあるのに「女としてセックスしたい」というのは常勝思考のなせる技だ。
大川隆法。

セックスを知っている文化というのは従姉妹がいなければ成立しない。
しかし、従姉妹は、「若い男には幼すぎて解決不能な抑圧」を経験しているのだ。
しかも、男の子が話せば話すほどその抑圧は顕著になっていき、従姉妹は「ファミリー細胞」というものに目覚めるのだ。
「無人島に行きたい」という女の子の心は、決してセックスをしすぎて居場所がないからではなく、従兄弟の言葉から逃げたいからだとされている。
しかし、その抑圧が性欲に変わり、売春婦として生きようと決めるのだ。
「従姉妹とセックスしたいから蓄積が始まる」というのはジュディス・バトラーが明確にしたものだ。
女の「手足のしびれ」なども、実は従兄弟との間にもうけた隠し子がいることが指摘できる。
フランクフルト学派は、自分に貞淑な妻がいることを強烈な背景にしてこのような残酷な研究を始めた。
この「いとこ同士のタブー」を明確に指摘し、それを容認することを「共産党宣言」と呼んだ。
男たちに「努力しなくていいんだよ」というメッセージを出したのだ。
「女とは何か?」が鮮明に人々の心に響いたのが共産党宣言であり、強烈な支持を集めた。
今の日本の民法もこれを容認する形となった。
SPEED I remember.

マルクスは、フェティシズムを容認したにすぎなかったが、ラカン派のジジェクにせよミランダ・ジョゼフにせよこの論点を「宿題」とする形になっている。
このことから「マルクス主義の地平」は果てしなく広がったのだ。
ジジェクはこの問題を「昔からあった」と指摘し、唯物史観というものを作っている。
また、アメリカ合衆国が「共産党を禁止した」というのもこのことを言っている。
マルクスの衝撃は大きかった。なぜか?これが共産主義の研究だ。
愛し合っただけに夫婦の欲望は強烈なものとなり、その分、女は「ウチと外」を明確に分けた。
男の子は「体がモノを言う」という文化を根付かせた。
自らを「ユダヤ金融の弱者」と位置付けたために、下層階級であるという意識を持った。
しかし、20世紀初頭にジョージ・チョーンシーによって「フェティシズム改革」がなされるまで世界で影響力を持ったのだ。
女の子たちは激しく愛し合う両親を見て自らも「欲望の対象」となることを知った。
みみかきをしていると 國府田マリ子。

男の子に「白人の肉体エネルギーをぶつけてみよう」と親が考えるのも当然だった。
男らしさ、女らしさが明確に区別されることになった。
「女らしさを愛する人ってこういう人ね」と男は語られるようになっている。
女たちはひたすら「欲望の対象」として「遠くで」踊っていたのだ。
しかし、「身体がモノをいう世界」はいつしか「心がモノをいう」世界へと変わっていった。
日本では仏教がこのことをすでに知っており、男の子が「俺への尊敬が足りないぞ」と言って生きることから「頭を下げる」という習慣が生まれている。
女の子たちは「男のように愛されたい」と願っていたとされる。
男の子は「女性に愛されるためにはギリシャ彫刻のような肉体でなければならない」と考えたため、格闘家を多く輩出した。
男としてのアイデンティティを求めて、欲望がとどまるまで鍛え続けたのだ。
「キーワードは言葉ではなかった」とも言われるものだ。
ジジェクが格闘界をこのような言葉で煽った。
近親相姦の禁止が肉体を作ったとも言われた。
思春期の鬱が嘘のように晴れていくのを感じたのだ。
100%の恋人 酒井法子。

女姉妹は、男兄弟を「男にする」ためにいた。
出来るだけ「精子の無駄遣い」をさせるのが仕事だったのだ。
「精子とセックスの実践は違う」というメッセージを女姉妹の側から送るのが文明化だった。
セオドア・ルーズベルト自伝からこのことが明らかになった。
「いくらマスターベーションしてもバレない、なんでだろう」と記されてあったのだ。
米西戦争の三年前の1895年にセオドア・ルーズベルトは「私はダーウィン主義者だ」と語っている。
就任式で述べたのだ。
ヒトラーもそういう意味では同じ「ダーウィン主義」に立脚していた。
マスターベーションしても女兄弟にバレない男の子のためにボーイスカウトがこの時、作られている。
男の肉体はより魅力的に、女の肉体は子供を産むために、そのようにルーズベルトは国を作りかえようとしたのだ。
女が赤ん坊をおぶっているだけで、男は戦争に行く覚悟ができた。
「男」と言っていたものが、米西戦争でアメリカの限界線が引かれようとしていた時に「男性」という表現をともなうようになった。
globe feel like dance.

アメリカ合衆国の限界線が引かれたことで、ようやく20世紀に「女らしさ、子供らしさ」をクリエイトしようという発想が生まれた。
ダーウィニズムとしてその「女らしさ、子供らしさ」は進化していった。
NYダウが「女の取引」をする基盤が整った。
【超大国アメリカの誕生だった】
「警察官にゲイはいない」という形で「男」と「男性」の区別もなされた。
「男が男に触る」ことの意味は明確にしなければならなかったのだ。
「他に代わりがいない」「その人しかできない」というような「公共財」は政治家も含めてこのように誕生した。
「他の男の欲望の対象になる?」そのようなことは公共財には想定されていない。
このようにして「性的欲望」を思う存分、国全体に解き放つことができるようになった。
【20世紀は女性の世紀】
セオドア・ルーズベルトは高らかに謳いあげた。
それに文学作品が付いてきたのだ。
ヘミングウェイの「陽はまた昇る」はその代表作だと言っていい。
ヘミングウェイは、ホモのジェイクが外国人兵の感触をカーテンのように感じ、世界の平和を願ったと記した。
他の男の肉体美に顔を赤らめるような男が戦場にいたのだ。
ジェイクとブレットは「ロメロという子供の評価」でも対立した。
ホモのジェイクにとって、男の子の身体は「女に似ている」ものだったのだ。
「女の子は強くはなれないよ」とブレットは言った。
「ロメロの身体は女の子たちのものさ」
しかし、ブレットがジェイクにカマを掘られていたという記述をヘミングウェイが記した時に、「この作品は失敗だったのではないか?」と人々は語り合った。
ブレットの個人的な怒りがあったのだ。
ヘミングウェイは本当のヘンタイを知っているのか?ジェイクを語り部にしてよかったのか?
それでもヘミングウェイの歴史的評価は揺るがなかった。
出逢えてよかった ribbon.

アルチュセールは、再び、共産党宣言に戻っていった。
「常識を知ってよ!私ほど美しい女はいないのよ?」
従姉妹がそう言ったのだ。
しかも、「女性の世紀」を迎えた20世紀には女らしさのスキルはどんどん磨かれていったのだ。
私がお金が必要な時に、身体を預けられないのならば困るのよね。
なぜ、そんなにいい身体をしていても無一文なの?
「常識を知ってよ!」
20世紀にマルクスを読み返すとするのならばそのような読み方にはなるだろう。
女が女らしくなっただけでも「男だ」というだけでお給料がもらえたのだ。
「女らしさを磨く以外に社会人としてのスキルを作って欲しくないの」
「ファッション雑誌もタダじゃないのよ?」
庭師、医者、料理人、漁師、なんだって仕事はあるでしょう?
ここでヘミングウェイは、「労働とは何か?33の問題」というテーマに作風を変えていった。
スポーツ、子育て、楽器を語るだけで33の論点は全部出た。
人々が「ハードボイルド」と語り合う男の姿がここで浮かび上がってきたのだ。
1933年の「エスカイア」と呼ばれる黒いマスクをした男のデビューだった。
「男に顔などない」
これが女らしさをより一層際立たせたのだ。
ボディビルやエレクトロンなどに親しみながら狙撃する男を描いた。
エスカイアチャンネル。

ヘンリー・フォードは、ヘミングウェイのハードボイルドの影響を受けて「仕事を簡単にしよう」と考えた。
フォードは「住宅着工件数で戦争の行方が分かる」と語った。
メカニックが発達したおかげで、物理学は「新しい口説き文句を見つける世界」になったし、化学は「歴史を遡る世界」に変容を遂げた。
新発見などもはや必要なかったのだ。
フォードは「すべての仕事を精神科医にする」ことを目指していたのだ。
免許を取ろう 高橋由美子。

従姉妹は「月のもの」という性欲を持っているし、親戚一同が集まるのは「季節もの」である。
このことから「他の男にとられた」などということは学習しなければならない。
そのためには「妹や従姉妹しか周りに女の子がいない」という状況は避けなければならない。
「季節もの」のためにお金を貯めるのはフォードのおかげで簡単になった。
もはや従姉妹も「他に男がいないから」という時代ではなくなっていた。
お金の話になっていたのだ。
「私」によって性に目覚めた男だったからヘンタイでないのは分かっていた。
ネイティブアメリカンなどに根強く残った考えだったが、「恋愛マーケット」というものが開かれていった。
19世紀の面影はもはやそこにはなかった。
それでも20世紀に「共産党宣言に戻ろう」という試みは何度もなされた。
我々が「企業の奴隷」になるのもセックス目当てだったし、常に「従姉妹とのセックス」はそのモチベーションとして用いられた。
技術畑というよりは財務畑の男が社長になって、技術はお金についてくると考えられたのだ。
従姉妹との結婚なんて安っぽいわ!と言って多くの恋愛論も作られた。
ヘミングウェイをパクった作品は山ほどある。
問題は「男の肉体美はいとこ同士の結婚から生まれている」ということと、男の肉体美が女をより女らしく見せているというところにあり、何度も何度も共産党宣言に立ち返る論客があとをたたなかったのだ。
キルトに綴る愛。

「ヘミングウェイ」という名前は「筋肉質な男」という意味のブランドとなっていたし、「筋肉バカ」は親の代から子の代へと「従姉妹との結婚」を繰り返す可能性があった。
南北戦争以来、「勝負事はスポーツで決めよう」という伝統が成り立っていたが、そのスポーツアリーナに「筋肉バカ」が出てきたのだ。
ボクシングのゴングは工場のベルのように3分おきに鳴った。
しかし、パッファロービルをコントロールできたことや第一次世界大戦を迎えたことから「もはやアメリカ合衆国にフロンティアはない」ということが明確になった。
従兄弟とこの関係を清算するという意味も「結婚資金」には含まれるようになった。
フロンティアの消滅を受けて、あることが確認された。
それは「筋肉バカ」だったはずの男が「女心の探求を始めた」ということだ。
これがフランクフルト学派だ。
いったんここで女たちは「自分たちの神秘化」を行う方向に向かっている。
ユングやフロイトの場合。

熟練工とは「女心を創造的に作り上げるのが上手い人」という意味であり、未熟練工とはそのような力量がない人のことを言った。
「従姉妹の物語」はここでいったん未熟練工のためのものとしてその地位を確定させている。
20世紀に熟練工が誕生してから、従姉妹の女の子は「裸の女として振る舞えばいいのか、普通の女として振る舞えばいいのか?」というジェンダートラブルに陥った。
この従姉妹のジェンダートラブルに対しては、社会がどのような決意を持つかが問われたために「モーレツ社員」のように明らかに従姉妹とは決別しようというメッセージも出されたし、これが反共労務管理であったとも言える。
マルクスが作った「男の身体がモノをいう社会」は一代限りのものとして誰も繰り返したくはなかった。
自然革命は起きないのではないか?と語られたのだ。
女が「神秘化」したことへの復讐を次の世代は行ったのだ。
息子は自分の肉体に限界を感じた時に自然にフロイトと向き合うようになっていた。
女たちの「神秘化」がいったんなされたからこそ、いろんな国でそれぞれの「女性像」が提示されることとなった。
それこそが経済力であったし、日本国はまぎれもなく経済大国であった。
ユダヤ金融弱者であるのならば「ゲイになる」という形で自然革命を拒絶するとも言われた。
山口百恵 秋桜。

ここで女は「神秘化」したが、マルキュースが「従姉妹がいれば勉強が楽しい」と主張して再び共産党宣言を持ち出してきた。
「よりエロティックな関係」が模索された。
長続きしないことすら感じて欲しかったのだ。
長続きしない理由を「食べる、おしっこをすることの優越」と呼んだ。
フェティシズムの過剰が原因だった。
「従姉妹の存在というのは民主主義の限界なんだ」とマルキュースは語った。
あれほど「神秘」を煽ったのだから当然とも言えることだった。
自然革命なんて起こらないのではないか?という第二インターナショナルの考えに反して、マルキュースは共産党宣言に再び「男女の支持」を集めようとした。
「最終的に目指すのは革命だ」というのであれば何をすればいいのかを知って欲しかったんだろう。
従姉妹が「できちゃった」ということとお金を使ったこと、これを見ていたのだ。
文明化には反するかもしれないよ?
でもこれが革命のプログラムになることはフランクフルト学派が一番よく分かっていたのだ。
rebecca Trouble of love.

マルキュースは、「フロイトなどブルジョアの学問である」とし、革命のプログラムを組むのであれば、ゲイ解放ムーブメントと黒人解放ムーブメントの二つだろうとし、共産党宣言の意味を変えていった。
性的弱者ほど全体主義的な支持を得るという意味ではスターリニスト正統派でもあった。
テキストは「存在と無」であった。
奴隷から自由になることを煽ったのだ。
マタシンソサエテイなどで根強く残ったものだった。
尾崎豊 卒業。

サルトルなどは正統派哲学の観点から「フロイトにどれだけ詳しいかが職業人だよ」と語った。
勉強して実績(物自体)をコツコツと積み上げていかないといけないとしたのだ。
フェチ(物象化論)と興奮(記号論)は「エゴを実現するためにある」と説明した。
マルクスの共産党宣言はフロイトと結びついたのであって、新左翼のようなゲイ解放ムーブメントと結びついたのではない。
1969年にポール・ロビンソンは「フロイトに関してはもはや専門家の仕事になってしまったね」と語った。
しかし、ゲイに関しても尾崎豊みたいに「居場所」ができたのは事実だ。
女たちの「抑圧」はかなり贅沢な形で救済に向かっていった。
垂加神道〜スタンフォードとJPOPの出会い。

マルキュースは、ゲイのような「健康的ではない家族のカタチ」に関心を持っただけだった。
アドルノは時代の英雄がゲイであることが多いと指摘したし、フロイトは「ゲイなんてものは人々の好奇心の対象にすぎない」としていた。
マルクス・フロイトがイデオロギー化していくのも目の当たりにしたし、ゲイが「エゴを丸出しに」するのも見た。
東西冷戦下において、階級格差や搾取を受けていたのはゲイであったし、もはや「従姉妹との恋愛」を解放した共産党宣言とは離れたところにスターリニスト正統派はいた。
アメリカ合衆国上院が「ゲイが国に与える脅威」を1950年代に指摘している。
エゴ丸出しで男に触られるのが好きな男は国の安全保障に悪影響を与えるとされ、フロイトもいつしか「フロイト主義」という「イズム」に変わっていった。
いつしか、マルクスが夢見た革命のプログラムは「従姉妹との結婚」という共産党宣言から、ゲイカルチャーの全体主義へと変わっていったのだ。
イケメンマルクス主義者も、階級闘争はすでに「ゲイ」のものとなっていたし、彼らは「アジト」と呼ばれるものを作った。
法律も「政府を転覆しようとしたもの」という遠回しな表現を用いてゲイを排除した。
尾崎豊 Oh my little girl.

マルキュースは、「オルフェウスとナルシス」を用いることで今度は「ゲイの神秘化」を行った。
木や動物、泉などの自然が二人を愛したが、プラトンは二人の「柔らかさ」を批判した。
アメリカ合衆国政府もゲイの「柔らかさ」というよりは「共産主義へのシンパシー」を批判した。
女に力を与えられて努力するのが男なのではないだろうか?と考えられたのだ。
1964年に「一次元の男」という本が書かれ、努力をしない新左翼が描かれた。
とにかく「子供のように」成熟していないことが嫌われたのだ。
ベトナム戦争という国家の威信をかけた戦いにも「嫌悪感」という単純なリアクションをするという側面がゲイにはあった。
「みんな努力をしないで仲良くしようよ」というユートピア思想には一定の説得力があった。
しかし、東西冷戦は否応なしに経済力の競争となっていった。
ジュディス・バトラーが「結局、共産主義って何だったのか?」と発掘するまではなかなか西側も彼らの意図が見極められなかったのだ。
マンハッタンを歩く恋人たちがもっとのんびりしていたのならばな、しかしそれは夢物語だった。
テクノロジー競争が東西冷戦にともなう形となった。
1955年にマルキュースはマンハッタンでそのような風景を眺めていたのだ。
マンハッタンでブレックファスト 松田聖子。

ソビエトって働かなくても生きていけるんだってさ、という子供達たちに「ゲイカルチャー」の意味がわかるわけがなかった。
しかし、ここにカール・ウィットマンの「ゲイ共産党宣言」という新解釈が誕生したのだ。
加熱する受験競争の中でゲイ解放運動は確実に進行したのは事実だ。
西側諸国には「ゲイは怠け者だ」という差別も根付くようになっていた。
もし、女の子のクローゼットに興奮を感じるのならばお前は正常だとも言われた。
フロイトに興味の持てない男は確実に存在するということを忘れてはならない。
「男」「女」というのはあくまでもイデオロギーなのだ。
しかし、イデオロギーでありながら「最も古い古典」にしたがったものであり、世界で幅広く支持されている文化だった。
ここで「憲法」を持ち出す論客もいた。
アナルセックスを強要する男に女は抱かれたがるのだろうか?という指摘からなされたものだ。
憲法に従いたいと思います。

いずれにせよ、マルキュースは「みんながのんびり暮らせる」というところにフェティシズムを見出したのであり、普通の男女ならば簡単に理解できるフロイトを「専門家の問題」だとしてしまったのだ。
これが「ゲイ共産党宣言」であった。
このゲイ共産党宣言に対して、ベトナム戦争が引き起こされ「男たちが競争したくなるような美女」をテレビで放送することにしたのだ。
これが「マス60年代」と呼ばれるものだ。
美女のために戦うことをフォーディズムと呼んで第二次世界大戦で用いられたが、60年代にこれが再び活用されることとなった。
ミッドナイトカウボーイにおいて、ホモがたくさんいるテキサスと、美女がからだを売るニューヨークの比較という観点から体制を議論した。
ジョン・ウェイン、ポール・ニューマン、ゲーリー・クーパーなどがアメリカの国策と関与している。
第二次世界大戦の時に、ポルノビデオの女性の局部にモザイクをかけたが、あれは「ホモ同士を遠ざける」という効果を狙ったものだ。
50年代にはまだ笑うことができたゲイ共産党宣言も、ベトナム戦争における体制選択の時にはもはや笑えないものとなっていた。
男の肉体は、カウボーイの服を着ることもできれば海兵隊になることもできた。
男の肉体をスクリーンで見て歓声をあげる女性たちの存在を示したかったのだ。
「男とそれに群がる女たち」という図式から体制選択を迫ったのがクリストファー・ニーロンというアメリカ政府高官だった。
おニャン子クラブ 避暑地の森の天使たち。

このベトナム戦争の時に「コスメの時代」を迎え、女たちはお化粧をするようになっている。
ニーロンはコスメの時代の口火を切ったことから「ゲイのいない時代はのんびりとはしていないだろうけど悪く思わないでくれ」と語ってゲイ共産党宣言を完全に抹殺しようとした。
ライフ誌も「ゲイはカリフォルニアだけにしてくれ」という論陣をはったし、ラディカルなアクティビズムもこれを受けて体を鍛えようという新左翼の活動へとつながった。
もはや革命の時代は終わったのか。
ブラックパンサー党のヒュー・ニュートンは「たとえ銃を突きつけられても男らしくあれ、豚ども分かったか!」という有名なセリフを残して海兵隊や学校の運動部の教育に影響を与えた。
ベトナム戦争はゲイとの戦いであるというゲームをアメリカ合衆国は見通していた。
しかし、反戦運動の側もそれを理解していたのだ。
髪の長い女が反戦運動を行ったりしていた。
ジョン・レノン イマジン。

しかし、どうしても「女心」に興味が持てないという男はいたし、割と高い学歴のものでも「理解できない」という者はいたのだ。
中産階級の支持を得ることはできても、下層階級の虐待だけは止められなかった。
どういうゲームをやっているのか?は理解していてもアメリカ合衆国の現状が付いてこなかったと言える。
ミッドナイトカウボーイはアカデミー賞の最優秀作品賞しかもらえなかったが間違いなくベトナム戦争における戦いに用いられたものだった。
カリフォルニア州を地盤にするニクソンでなければ「ゲイというサイレントマジョリティー」の声を聞くことはできなかったんじゃないかな。
女への欲望の大量消費、そして「産めよ増やせよ」という大量生産がなされなければベトナム戦争には勝てないと考えていたのだ。
ニューヨークの42番街でゲイが登場するが、戦争の困難さを示していた。
なにしろベトナム戦争の時の古い作品だ。時代の現実に即したものとして仕上げるしかなかったのだ。
カウボーイというホモは東南アジア進出をしようとしたアメリカ帝国主義であり、黒人フェミニストは反戦運動として描かれた。
「どんなゲームをしているのか?」を戦争中に明らかにすることは昔から行われていたことだった。
黒人の力が必要だったのでミッドナイトカウボーイでは違うメッセージも出している。
ミッドナイトカウボーイ。

美女をスクリーンに映し出せというハリウッドの伝統はベトナム戦争の時に始まったものだ。
美女を愛するニューヨークでジョーはシャワーを浴びる。
お婆さんがいることや、モーテルに泊まったことなどからジョーは孤児だということが分かる。
ジョーはおそらく童貞だろうと推測された。
タイムズスクエアではビルボードが表示され、テキサスにない風景が映し出される。
東南アジア人などインディアンだったし、それを狩りに行くのがカウボーイだった。
美女が大勢いる都会ではからだを売る女たちが大勢いたので、性の経験で足並みを揃えるケインズ主義は取れない。
しかし、フォーディズム(美女がいる)ことが豊かさだった。
ヨーロッパや日本での設備投資にマーシャルプランは用いられたし、ブレトン・ウッズによってドルは「保存通貨」としての地位を固めた。
ブレトン・ウッズによって「アメリカで起きることは日本でも起きる」とされるようになり、ダウ平均が上がれば日経平均も上がった。
しかし、東京の文化にニューヨークダウ平均が影響を受けるという構図も出来上がった。
東京女の世界経済への発信力が認められたのだ。
世界経済はフロイトが大好きな日本の力を借りることになった。
ブレトン・ウッズとはそういうものだった。
東京が「文化世界主義」において重要な地位を占めたことは理解しておかなければならない。
「日本の女の子は可愛いね」とアメリカの高校の校長先生もおべんちゃらをいう有様だった。
女の「主権」というものが「アナルセックスをやる男は勘弁して」という意味であるのならば、国会が改憲勢力3分の2を占めると世界経済が上向きになることがわかる。
perfume Tokyo girl.

美女を愛すると世界レベルで蓄積が起きるということが分かったのはベトナム戦争の時である。
この時にアメリカ合衆国は「ネオリベラル国家」を標榜したし、日本も同じだった。
ゲイが経済に悪影響を与えるという学習からもたらされたものだった。
美女をクリエイトすればいいというフォーディズムは明確になったが、あとは「性の統制」が可能であるかという問題が残された。
からだを売る女と売らない女が共存しているのであれば財政出動は困難になる。
「個と公を区別しない」つまり女性の性の経験を政策から排除しないという姿勢が求められた。
男らしい男、女らしい女というものが宗教になったのは経済を強くするという理由もあった。
片思いの終わりに 亀井絵里。

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