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Foreign Affairs

  • CFR: フォーリンアフェアーズ英語版

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2018年1月

2018年1月25日 (木)

政治の世界における敵の男。

女の子と話すことをお金に変えていたら、男同士の関係が難しくなるという問題は指摘できる。
個人的な「女の怨み」もあれば、論文を称賛する声もある。
「女友達が大勢いるらしい」という噂と「男同士の仲間づくり」はどのように兼ね合いが取れるのだろうか。
非難と賞賛はそのまま「罰と褒美」に変わる。
罰と言っても悪口を言う程度だろうが、褒美を与えたい男が悪口を言っている男を罰することもある。
「怒りや無知、孤独」などは女とセックスするだけで治る。
しかし、残されたサークルへの怒りは翌日まで持ち越されるだろう。
研究の仕方が間違っていたと言う観点からのアプローチと、女に満足するという観点からのアプローチをするしかない。
研究の仕方が間違っていたと思う者は「悪口を言う」以外の対処法はない。
しかし、自分の女がアメリカ哲学かぶれならば話を聞くしかない。
女に「セックスのおあずけ」を喰らうという形でアメリカ哲学の話を聞くしかなくなるのだ。
これがスキャンロンが考えた「教勢拡大論」であり、女への恋心からアメリカ哲学を支持する男がいるということだ。
B'z 恋心。

支持者の女に頼らなければ男社会の「自分のやり方が間違っていた」という問題は解決しないという現実がある。
しかし、女に頼るということは教団にとっては魔法のような効果が認められるのだ。
からだを使ってまで真理を広めたいのが女であるし、そのこと自体、宗教というのは「教義の間違いが許されない」ものとなっている。
女たちはどの教えを信じようが「譲れない夜」「夢がぶつかり合う夜」を過ごしている。
ここに「女のセックスに頼ることの限界」を見なければならない。
もし「女を愛するためには苦労が必要」だとするのであれば、男の側にしっかりと学んでもらいたいと女は考えるだろう。
愛してジャスティス ribbon.

また、スペックの高い男に対しては女は、本当の女を知ってもらいたくない、セックスで人生を狂わせて欲しくないと考えるだろう。
しかし、女の方がより方法論上、確かなものを持っているのであれば「教えてあげたい」とも思うだろう。
方法論で女の側が男に介入することを因果的決定論と呼ぶ。
「私とやりたくないの?」と言われるものだ。
女の子をシカトして勉強する奴には「女こそが学問でしょう?」と言ってやる必要がある。
スペックが高い男ほどそれが必要なのだ。
急進的で女を排除する思想の持ち主は貧しくなる。
そのスペックでもったいないよ、と言って女が教える必要があるのだ。
CoCo メロディー。

「落とせない女はいない」と豪語する奴に教えることは何もない。
その男のキャリアがどこまで確かなものなのかを女は見極めなければならないだろうね。
カール・ルイスはソウルオリンピックで金メダルを取っているが、危ないことがあっただろう。
ドーピング問題から金メダルを取ったので「政治を背景にした運のいい王子」と呼ばれた。
神が出来事を巻き戻して、もう一度やってみろと言ってもできないだろうとされた。
スペックの高い男にとっては「ようやくモノになってきた」と思うようなものも、キャリアが危なっかしい者は「俺の時代」などと言い出すからね。
夢は決して叶わないだろう。
「金の切れ目が縁の切れ目」とまで言われる。
16世紀の医者は、水に手を浸す習慣もなく手術していて多くの死者を出した。
「遺伝子」という概念がなかったからだ。
要するに「金をやるしかない」という敵の男は確実にいるのだ。
宗教をやっていると「金をやるしかない男」が確実に存在することは知っておかなければならない。
ソウルオリンピック100m決勝。

そもそも、なぜ「敵」なのだろうか?
「恋愛論が納得いかない」からだろ。
秒速200マイルで動く脳があるのならば、癲癇患者は「俺ならば350〜400マイルは動く」と言い出すだろう。
神経の鈍さから見る「幻」とはそういうものだ。
しかし、現実には100マイルも動かずにそのスポーツの世界の観客として戻ってきてしまうだろう。
その世界の技術論を語らせるとたちまちダメになってしまう連中だ。
譲れないのはお互い様の世界で「他人が譲った」瞬間だけを見ているのだろう。
生き方が間違っていたとくよくよしていると女が感じなくなる。
ボルト世界新記録。

女が感じなくなって別れたというのは犯罪の温床になるが、処女はそのような男を相手にすることは2度とない。
ずる賢い奴にはビッチしか寄ってこない。
そのようにしてスポーツの世界にはリピーターが生まれている。
多数派工作の「解釈」にもリピーターがいる。
同じセリフを何度も何度も繰り返しては「多数派工作ってなんだろう」と考える癲癇の患者がいるのだ。
人の心が分からなくなっているんだろうね。
人の心が分からない人がスポーツにのめり込むという現実は指摘していい。
要するに「他人が道を譲った瞬間」だけを何度も何度も暗唱している病人なんだよ。
怒りと落胆の人生であるという現実がある。悪く思わないほうがいい。
怒りながら生きているんだ。
癲癇とはそういう病気だ。
みんなが笑ったり歓声をあげたりしただけで「俺でもできる」と言い始めるんだ。
周囲の反応だけ見て言っているんだよ。
オリンピックが楽しみなのは癲癇患者だけだよ。
アナウンサーの絶叫だけが聞きたいんだ。
顔にコンプレックスがあって頭が働かない連中だ。
何かを成し遂げることはないだろう。
太ることを覚えて休養することからスポーツに興味を失うものもいるが、それが本来の姿じゃないのかな。
女にモテないという社会的制裁は受けているんだ。
子供たちは「大人の犯罪」に敏感だよ。
筒香ホームラン2017.

港湾ヤクザが犯しているのは軽犯罪ではないんだ。
重大犯罪だからヤクザと呼ばれるんだろ。
スポーツにのめり込むというのはそういう意味なんだ。

保守派の真実とは「有言実行する力がある」ということと妻が感じるという所にある。
妻が自分に貞淑であれば妻が読んだ本の話を耳学問にすればいいだけだ。
女にとって意味のあることだけを話すので、それを職場の女の子に話せばいいのだ。
聖母マリアの話は役に立つし、息子のトム(イエス)の教育に関する話も「プライベートを職場に持ち込む」という観点からは夫のヨゼフはマリアの話を聞いていればよかった。
ゲーデルはしかし不完全性定理において「女の言い分だけがまかり通っている」として「男として妻の意見に社会人としての視野の広さを与えなければならない」と考えた。
「母・女の言い分」にうんざりしていたのはトムだったのだ。
ヨゼフは職場で「女の言い分」を話していれば出世するだろうけど、トムの「志」はマリアには分かるわけがなかった。
トムは「ギャーギャーわめくな!」と母を一喝することもあった。
聖母マリアの話だけを聞いていればいいというのは夫・ヨゼフの出世のためだけに用いるべき発想であり、子育てには必ずしもいい方向には作用しないことを不完全性定理と呼ぶのだ。
「どういうカップルなのか?」が分かれば職場はそれで成立したが、だからといってマリアのいうことをそのまま子育てに用いてはならない。
夫に貞淑ならば発言力はあるだろうが、相当、認知は歪んでいるものだ。
私の魅力に気付かない鈍感な人。

プラトンは、結局「従姉妹の女の子」をモチーフにしたほうがいい詩が書けるということに気がついたのだ。
学校生活と、適度な距離感、そして「すべてを言葉にすること」の三つを満たしていたからだ。
詩というものは「書きたいことを書いてくれ」という側面があり、いとこがいるというのは才能でもあった。
従姉妹との関係を詩にするのが詩を作る基本であるが、そこに「盗み、セックス、欺き」の三つの要素を書き記すのだ。
この三つの要素は「誰のものか?」をいとこ同士で争うのが詩というものだ。
これが「すべての先生の公約数的見解」であり、ギリシャの一神教であった。
キセノファネスはこれを明らかにしたし、クロトンの心を病んだ女の子たちは共通してこのことを歌わされていたとしている。
どの男女も自分の身内の身近なモチーフに共感しているということをギリシャ一神教は狙ったのだ。
「彼女が」「おちんちんで」「痛みを感じている」このあたりに「盗み、セックス、欺き」を表現したのだ。
あとは「この表現こそが多数派だろう」というあたりにブレイクの秘密はある。
「誰一人としてファッショナブルな男はいない」ということも分かる。
ホメーロスやヘシオドスを要約するとそういうことなんだ。
Qlair 秋の貝殻。

適度な距離感をコントロールする学問を「数学」と呼んだ。
「10と20の間にも素数はあるんだよ」
こんなことすら従姉妹は知らなかった。
そういうことを詩にするんだよ。
数学ができるということは国語も勉強したんだろ。
「韻」の数をビートに合わせればいいだけだからな。
数学と国語の「腕試し」は詩で表現できる。あくまでもプラトニックなものだ。
「11は素数だ」という言葉が「すべてはプラムだ」といっているように聞こえた。
詩が書けるようになったら「真実が知りたい」と思うようになる。
しかし「恋話を覚えるモチベーション」としてとっておいたほうがいい。
そのようにして学校生活というものは楽しむものなんだ。
お引越し。

「プライベートの話題を仕事に持ち込むと出世する。仕事の話をプライベートに持ち込んではならない」
この基本を踏まえると、1890年代からアメリカにおいて「仕事にとっても有意義なプライベートを他者の妨害から守ろう」というムーブメントが始まったことの意味を理解することができる。
みんな「お金」に興味があったのだ。
仕事仲間として仲間に迎えるためにはプライベートの話をしなければならない。
しかし、プライベートを充実させるためには職場では黙っておいたほうがいい時もあるし、お金になるようになってから話したほうがいいこともある。
ウォーレンとブランダイスが1890年ごろから明らかにしたものであり、セックスの感じ方や、日常の雰囲気は「黙ってないと壊されるぞ」ということを明らかにしていた。
BoA まもりたい。

他の職場の同僚よりも自分は優れているということをアピールするのはプライベートを語ることによってなされるものであり、ウォーレンとブランダイスの論文の70年後の1960年代になってから連邦最高裁で話題になるようになった。
アジアやヨーロッパでも「プライベートを職場に有利な形で持ち込む」ということは共有されるようになった。
ホリフィールドは1995年までに明らかになっていた方法をレノックス・ルイス戦で活用し、プライベートを明らかにすることで判定を有利な方向に導いた。
ホリフィールド対ルイス1999年。

ローレンス対テキサスにおいては「同性愛者であること」が5対4の審判で公表することが認められ、バウアー対ハードウィックにおいては「児童虐待」が困難な問題として提起された。
果たして仕事に有意義なプライベートの情報なのかが争点となったのだ。
特定の女性に伝えたい情報なのか、職場全体の噂になるような情報なのかの違いが認められる。
特定の女性に伝えたい情報ならばその情報自体が「富」(デリバティブ)となる。
ジャービス・トンプソンは「孤児の女の子に仕送りをしている」という情報を仕事に活用していた。
ポズナーもその「経済効果」を認めていた。
しかし1965年にボークは、「それは社会問題である」としてジャービスを批判している。
アメリカ合衆国憲法修正4条、5条、9条でジャービスのやり方は認められた。
しかし、連邦最高裁にも「社会は間抜けだな」という内容を含んだプライバシーの情報に関しては「それはボークだ」という考えは根強い。
「不幸な女」を利用して欲しくないという考えは広く女性たちに共有された。
また、プライベートがスポーツ新聞に掲載されてしまえば、それはもはや「仕事に活用しなさい」という意味であり、それをメディアから強制されることになる。
そこで、プライベートの登場人物全員を「認める」という形でスクープする必要が生じる。
プライベートを明らかにするということは「他人からの親密さ」をもたらす。
我々は世の中の人全員と親密になろうとは思っていない。
ネコラブ。

そのような意味において、「プライバシーとは寂しいから暴露する」という側面が指摘できる。
私生活を晒さない人間は寂しい人間ではない。
プライベートの暴露に多くの男女が群がることがあるが、2003年ごろには「そんなにあなたは寂しいのか」というリアクションが定着した。
今は「社会への貢献」を見ながら争点を提起できる議論かどうかを見ながらリークしているのが現状だ。

やしきたかじん嫁問題について。

小保方晴子の問題。

ベッキー騒動について。

ウォーレンとブランダイスは「寄ってこないでよ!」という意味でプライバシーというものを考えた。
そういう意味では「一人でいさせてもらいたい」という権利のことであるといっても間違いではない。
女性は特にそうだった。
インターネット時代になったらIPアドレスがなければ女を守れないことも分かった。
電話、ファックス、Eメールなどが世界の20カ所で傍受されている。
NHKもその中の一つだろう。
9・11テロの後にそれは容認されているのだ。
今の妻や彼女から愛が失われたのか?などは聞けば分かるものだ。

リベラリズムというのは、自分の主張を通すために男の前で裸になる女のポリシーのことを言う。
熾烈な女同士の戦いが展開される世界だ。
あの女、今頃、何をしているのかな?と譲れない夜もあった。
カントを知っている影響力のある男を狙ったし、私は「女になる」という教育を終えていた。
アナルセックスを強要されることを恐れていない女のことをリベラルと呼ぶんだろう。
ホッブスは主権というものを考えて、アナルセックスがどうしてもいやだという女たちのニーズに応えた。
どの男の前でも裸になる女はアナルセックスを恐れていない。
このことをよく理解している男を「王子さま」と呼んで、東大生ならば誰だって乗せる女などいないということを見越していたのだ。
永遠に友達 瀬能あづさ。

男の前で裸になればなんだって通ると思っている女はかなり古典的なリベラリズムに立脚している。
法律の力を信じているのだろう。
法律とは「ノンケ」を作り出す学問だ。
しかし、アナルセックスをやる男が知れ渡ってくると、男でも「ケツの一回でも許してやろうかと思ったのに」というようなニューマーケットが開かれた。
金に困ったら男でも女装して歩いたのだ。
一回2万3千円だぜ?
カントのように「女心」を語ってモテる男はノンケだったので本気モードに入る女たちがいた。
ホッブスのように「アナルセックスを強要する男がいる」ということを踏まえて、それを嫌う女たちの支持を広げたのがカントだった。
男が好きな男ならば女たちは「どこに連れてかれるか分からないね」と語り合った。
女の局部だけが政治の世界で万能なのではない。
アナルセックスをする男がいるので、うかつに男の前で誰もが裸になれるわけではない。
ribbon あのコによろしく。




【つづく】

2018年1月24日 (水)

アプレーゲル。

10世紀ごろ、イスラム・ユダヤキャンパスで学生によるビジネスが始まった。
哲学書を読んで女の子に話し、それを論文にまとめて企業に貢献する。
さらには地元の役所とのつながりを深めて、「市を寄託者、市を受託者、私を受益者とする信託を形成してもらいたい」と役所と企業の双方に申し出て株式を発行してもらうのだ。
学生の頃しか大勢の女の子と話す機会はないし、存分に勉強する機会もない。
そんなキャンパスライフを過ごしているうちに、企業の大株主に信託銀行が名前を出すようになり、学生さんは就職などというものを「人生唯一のチャンス」などと考えなくて済むようになる。
あとは一生、「役所の行政指導にしたがわせていただきます」と言って暮らすのだ。
停電した、水道が止まったなどということがあるたびに役所と頻繁に連絡を取り会える。
大事なのはキャンパスで一人の女の子という殻に閉じこもらないことだろうね。
できるだけ若くて聡明な女の子たちに取り囲まれた方がいい。
これを理論化したのがイブン・バジャ(アベンパス)である。
モーニング娘。 Im lucky girl.

アベンパスがラテン語を読んで、このような「学生大富豪」になったから、それ以降のユダヤ人が「ラテン語でモーゼ五書を読むまで家に帰ってくるな」と大人たちに言われて城の外に下宿してラテン語を覚えて銀行マンになっていったのだ。
Mr.Children Tomorrow never knows.

アベンパスは、曲作りも自分でやったとされるが、今は日本には芸能界が割とオープンに学生たちにコンテンツを提供している。
大富豪になってスルタンとも親交を深めたりしていた。
キャンパスで女の子を見かけたら声をかけてみる、しかも哲学を語ってみるということの重要性は指摘できる。
アラブというのは石油王ばかりで成り立っているわけではない。
ダマスカスやバグダッドは、コンスタンチノープルに出たエリートがキャンパスで企業とつながりを持って帰ってきている。
オックスフォードやベルリン、タシュケント、エスコリアル、カイロ、アンカラなどにも大学はあるし、女の子たちはいる。
イスラム社会が東京大学の学生に「何をして欲しいのか?」は自ずと明らかだろう。
同じ「学問文化」「富を生み出す文化」を共有してもらいたいのだ。
大学三年時の就職活動を「人生唯一のチャンス」と呼ぶような知的弱者になって欲しくないのだ。
青いスタスィオン 河合その子。

いろんな人と出会っては音楽作品を作ったため、クルアーンはアベンパスが作ったことになる。
音楽作品は日本にもあるが、なかなかアメリカ哲学史に位置付けられ、解釈される曲は少ない。
しかし、JPOPをクルアーンと同様にビジネスに活用することは可能なのだ。
「女心」そして「男らしさ」しか見ていない。
クルアーンは「5つの哲学、4つの芸術」から成り立っている。
4つの芸術とは「議論、ナンパ、修辞学、詩」から成り立っていて、行政や企業との対話は常に芸術だった。
哲学は常に口説き文句の研究をやっているけど、行政や企業と話すのは芸術なんだ。
5つの哲学は「女の子、複雑な男女のつながり、見た目、宇宙論、音楽」のことを言う。
結婚後の研究を代数学と言い、結婚前の研究を幾何学と言う。
あとは「常に医者であること」を心がけなければならない。
医学書ぐらいは英語で読めたほうがいいだろう。
あとは治療薬マニュアルなどを持っていることと、自動販売機の飲み物がどの薬のことを言っているのかなどは理解しておかなければならない。
歩いている人の医学。

あとは、地域の敵(ゴリオテ)を見つけたら、市長さんの「専決」を名乗って中央官庁に連絡して資金の裏付けを取ることかな?
ダビデはそのたびに石(補正予算)を投げ続けるのだ。
4度投げるというのは「戦争状態」を意味するから気をつけよう。
昔は「交通戦争」なんてものもあった。
人間の言葉には「人をダメにする言葉」と「澄んだ言葉」があるからそれもより澄んだものに磨いていかなければならない。
問題を解決していくのが書生さんの「活動」なのだ。
「しくじり先生」をあまくみてはならない。アリストテレスはそのような連中から勉強している。
仕草や話し方を真似する人は9人ぐらい必要だろう。
10人目がアリストテレスだ。
これが「敬虔なイスラム教徒」の教えの真実なんだよ。
【どうやって仕事を覚えるのか?】
知識というものは多くの男女が真実をかき消そうとしているのだ。
重さに耐えた言葉以外に意味はない。
抹殺してやれという方向に男女が群がるのだ。
女たちがその「危険性」を知っている男の言葉は重たい。
ribbon Bad boy friend.

伝えたいことを伝えるというのは「強い意志」が必要だ。
女にも分かる表現がいちばん伝わりやすい。
祝福と突破をともなわなければ伝わらない。
びっくりするような突破が必要だ。
なによりも男に「人気がなければならない」とされる。
伝わる以前と以後が明確でなければならない。
なによりも優先順位の高い仕事でなければならない。
崩壊した直後を狙うのがいちばんいい。
アベンパスはそのようにして仕事を積み重ねていった。
日常会話は常に満ち溢れている。
常に「予測」をし続ける姿勢が必要だろう。
行政がビックリするような予測が可能になったのもアベンパスが音楽をこよなく愛したからである。
対立が生じたら「天にお返しする」つまりアカデミズムへの貢献という発想が求められる。
多くの女たちが興味を持つようなことが教科書には書いてある。
大事なのは中学や高校の段階からこのような「学問の可能性」を知っておいてもらうことだ。
勉強と学問は違う。
しかし、「学校でやるのは勉強だけではないからね」という先生の言葉は「学問もやる」という意味である。
公立の中学高校は「男女共学」の意味を知ってもらいたがってある。
偏差値Boy うしろゆびさされ組。

大事なことは「常に動き続けること」「常に学び続けること」なんだよ。
企業や行政が興味を失う時期を作らないことが必要だ。

夏はカント。

冬はフィギュアスケート。

秋は森林浴。

季節ごとに政治フォーラムを作るのは朱子学でもあるし、北朝鮮では主体思想と呼ばれているものだ。
大学受験でもはや「反則」が許されなくなったのは韓国もそうだっただろう。
石がどちらに転がり落ちるかを言論の世界で見てみると、明らかに「アメリカから石がなだれ込んでくる」のが現状だ。
加速したら石は止まらないので逆らわないほうがいい。
つまり「英語を勉強する」ということだ。
そうでなければガリレオのように「望遠鏡で女心を覗く」ことはできない。
無理だと思うのならば本ブログを活用してもらいたい。
「天にお返しする」というのは「女たちの支持に訴えかける」という意味だと分かる。
女の四人組を見てみるといい。
「火・空気・水・土」から出来ている。
どれが本質なのかはギリシャの頃から語られていただろう。
この四つの本質はそれぞれが派閥を率いているのだ。
ミルキーウェイは彼女たちに平等に縄張りを与えているのではない。
多数派というものがどうしてもできる。
女が「異なる本質」に背を向けても怒るなよ?
「動物・ろっ骨・魅惑・男まさり」の四つなんだ。
女たちの「デザイン」に文句つけても始まらないよ。
CoCo 夏空のDreamer.

オックスフォードとかベルリンとかコンスタンチノープルがあったからクルアーンには「四つの学派」が生まれたのだ。
「学派の行き来が自由」なのは当然だろう。
ビジネスに役に立つものを使うよ。
「火・空気・水・土」のどれを支持するのかで学派は分かれたのかもしれない。
ラテン語を覚えるまで家に帰ってくるなというユダヤの孤独はわかるけど、アラビア語は現在でも国連公用語なんだ。
いろんな音楽作品はアラビア語で多く存在するけど、アラビア語は普通の日本人には理解できないからね。
JPOPでいいんじゃないか?
とにかくアベンパスの「恋話への詳しさ」はずば抜けていたね。
勉強というものが「他人を蹴落とす」ものだったから、いじめもあったし、周囲と「文化を合わせる」必要があったのだろう。
ギリシャ語やラテン語で何を学んだのか?あるいはどのようにクルアーンが作られたのかはオックスフォードとベルリンにしか資料は残っていない。
大学受験にしか興味がないのであれば男子校(アルカイダ)の方がいいけど、果たしてそれが学問につながるのかは明らかではない。
しかし「何のために勉強するのかな」という問いかけへの答えのようなものを示したのがアベンパスだった。
絶対解ける問題 松浦亜弥。

いずれにせよ、政治家の味方をしたのがプラトンだとすればアベンパスはサラリーマンではなく政治家であったし、イスラム教のコンサートを愛する「スーフィズム」へと発展している。
一日5回メッカに向かってお祈りする連中が何を尊敬しているのかの一つの側面は明らかになったと思う。
モーニング娘。 Sexy boy.

会社などで行う「プレゼン」も夢や希望を語るのではなく「すでに自分が成し遂げたこと」を語るべきだとされる。
すでに成し遂げたことであればコメントも求められるだろうし、異論、反論もかなり充実したものとなる。
アプレーゲルという生き方は、「キャリア採用」という形で即戦力として企業にも迎えられるのだ。
「本当にそういうことがあったのか?」
重役たちは興味津々だった。
このブログを読んで人に話した男は「カミソリオッカム」だけではなかった。
どの話がウケて、どの話がウケなかったかをノートにまとめていた男だ。
周恩来はキッシンジャーの分厚い大学ノートを「ずいぶん分厚いノートですね」と皮肉ったが、本当に論点表をまとめている学生がいるのだ。
キューリー夫人は、「あいつの話を聞くと本気になるから2度と会いたくない」と語った。
イギリスの王・エドワードのことだった。
SPEED Deep blue & Truth.

2018年1月23日 (火)

バージン女。

アリストテレスは「子供は小さな大人」と割り切っていたが、デカルトは「恋の発見」を行なった。
このことから自ずと「処女の発見」もなされた。
3つの必要性とは「みんなが知りたがっていること」「口々に伝わっていくこと」「アナウンスした方が速いこと」の3つから成り立っているが、「初めてのセックス」がこのことから女の子たちの間で語られることとなった。
そして、いつか必ず起きることという「可能性」をともなっていた。
365日の紙飛行機 AKB48.

この論壇が女の子たちの間で成立したからこそ、ソクラテスが「長い髪はお金目当て」としていた女の子の「女らしさ」が一気に加速した。
可能性と必要性から、論壇を成立させ、「初体験」「バージン」という共通認識を作るのに成功したデカルトは偉大だったし、巨大ビジネスを成立させた。
女たちまでもが「私、もうピュアじゃないので」と言ってその論壇から離れたことを「ピュアではない」と語った。
「昔、参加していた論壇」というものは確実にあったし、今でも後輩たちがいるのだ。
これは男たちの「悶々とした」世界を生み出すことに成功したし、「ピュアではない」と語る女たちもいまだに夫を縛り付ける力を持つものだった。
もはやデカルトは「真理」を見つけていたとまで言われた。
この「処女の発見」は、既婚女性にも都合よく利用されたし、AKBが大人の女性にまで興味の対象となる理由となっている。
恋するフォーチュンクッキー AKB48.

「黒くて勃起したおちんちんを知らない?」
そのこと自体、女の子たちの魅力となっていたのだ。
君たちがいてくれるだけで、我々は仕事ができる、そのように大人たちは考えた。
もちろん、デカルトも「女の子に空虚な空間はない」ということは知り尽くしていた。
「処女証明書」や「ブライダルチェック」などというものも高値で取引されることになったのは、庶民の信仰と言うしかない。
セーラー服を脱がさないで。

「初体験は20歳になってからと決めているんです」と語る女の子は可愛らしかったし、「非処女に人権はない」と語る童貞男はまんまと「童貞チェック」の対象とされた。
いずれにせよ、デカルトの作った「軸」は仲間づくりに利用されることとなった。
セックスした後に「何もなかった」と女が思うことそのものが「論壇」からの決別を意味した。
この論壇とどのように関わったかで、女の側の貞操観念というものも生まれた。
デカルトは「強い男への祈り」として「自分しか男を知らない女」というモデルを作った。
デカルト主義に立たない男は、女たちの論壇への恐怖でハゲたりもした。
そもそも「聖母マリア」が「強い男への祈り」を持っていたとされる。
日本では日枝神社がこのような「帝国カルト」を広めた。
ロマンスかくれんぼ。

この議論を理解するためには「女の方が問題の少ない愛を知っている」ということを知る必要がある。
「女はからだが小さくて嘘つきだ」ということからこの論争を完全に男たちは見失った。
「勉強で間違ってばかり」の男の子がたくさんいたからこの論争を女の側が仕掛けたのだ。
しかし、デカルトは「最高の哲学者はそのことを知っているし、そもそもその論争を仕掛けたのは私だ」と語った。
「勉強ができたから女の子とセックスできたときの喜びだけは忘れないでくれ」
男が強さにみなぎる時、それがフランスカトリックの伝統となった。
「神が嘘をついたらフランスは左翼の国となるだろう」
女たちは男を見て神について語り合った。
男たちが弱いから左翼になるのよね。
「恋」の発祥の地はパリだったけど、政治には違う考えもある。
「強い男への祈り」は女たちも持っていたけど、政治判断・経営判断がより高度なものとなったのはフランスだった。
時間旅行 松田聖子。

デカルトは「神や学問を信じない男の多さに幻滅しないでくれよ」と女たちに悪名高いメッセージを残している。
万能の男でなければ人生を委ねる気にれなかったのは女の側だった。
【神はこの時に自由になった】
ハリー・フランクフルトは、妻に「男の強さへの祈り」を与えてもらいながら永遠の真理を探求しようと思った。
「人知を超えた」のはフランクフルトが初めてだったので、男の強さへの祈りもあながちデタラメではなかったんだろうと語られた。
カーリーは、フランクフルトを読んで「内省ってのはこのことか」と思ったのだ。
それまでは、セックスする時に「どう?私の子供の気持ち」と女が言うことが内省であると思われていたものだった。
神とは「フランクフルト学派の悪口を言える男」のことかもね。
ベネットも「デカルトはインフラは作ったけど、のちの時代に本当に強い男が生まれるとは予想していなかったね」としてフランクフルト学派を支持した。
松田聖子 ハートをロック。

結局、神の周りに男女を集めたかったんだよ。
2+2=4
つまり、二対二ならば必ず割り切れるというような「真理」を知っている男が神だ。
1人から始めてパートナーを見つけ、3人目の女に無駄口をきかず女同士で盛り上がらせて4人目の男の登場を待つ、このような教団づくりができるのならば神を知っている。
これでは「神聖な活動」とは呼べない。

いずれにせよ、聖アウグスティヌスの「割礼をしないマスターベーションの告白」からヨーロッパ中世は始まり、トマスアクィナスの「ペテロ談義」というハイミドルエイジなどもあったが、デカルトがヨーロッパ中世を終わらせたのだ。
オバマが言った「チェンジ」というのも男らしい男、女らしい女を増やそうという意味以外に何も見出せない。
世の中の何を変えることができるのかということは見通しておかなければならない。
男のために祈る女というのも「強い男への祈り」以外に想定できない。
神は常にシンプルだ。目の前の課題をこなすだけなのだ。
女の単純さを知り尽くした神というのもシンプルだ。
いずれにせよ「強い男への祈り」というものを考えたデカルトが「神」というものを作ったということは指摘していい。
男に感じる女というのは確実に存在するし、譲れない恋をする女はいるのだ。
瀬能あづさ 永遠に友達。

女がセックスで感じることを「第六感」と呼ぶが、論壇との決別の痛みと恐怖、そして自分の若さが忘れ去られることを感じるのを「第四感」と呼ぶ。
その意味では初体験の感じ方は、論壇との兼ね合いで「異なる」という指摘は可能だ。
第四感の相手は情けない男であることが多く、第六感の方が優れた経験であると感じることもある。
また、第四感を味わせた男が自分の限界を悟り、勉強が壊滅的になることもある。
このような現実は相も変わらずであるし、デカルトが構築した「システム」の完全さだけは不朽のものであるとされている。
君はメロディー AKB48.

社会生物学というものは、人間社会全体を見渡すものだ。
一部の「人間の神経に影響を与える知識人」の存在をあくまでも「神経の問題」だと割り切って、社会全体をより生物学的にとらえるものであり、そこには病気もあればセックスもある。
祖先だの何だのという「能書き」を一切排除する考えだ。
そのような発想をしてみたら「エコロジー」が見えたのだ。
つまり「人の悪口を言わない人」や「勉強をする人」が影響力を持っているのが分かった。
人間社会にはひとしく時間というものが与えられている。
そのような中で「ポップカルチャーの影響力」を勉強する人の影響力は強い。
社会生物学と言ってもあくまでも「社会」であり、生物としては病気になったりセックスしたりしていても、やはりカルチャーの影響を受けながらみんな生きている。
祖先だの家柄だのいうよりも「文化の宗教センター」こそが力を持つべきだという発想が社会生物学なのである。
垂加神道〜スタンフォードとJPOPの出会い。

エコロジーって何?
社会生物学からのアプローチでは社会で影響力を持つ学問のことである。
どのような男が影響力を持つのかは女たちが語り合う余地があるだろう。
コンラート・ローレンツはソビエトの捕虜になり、そこには家柄もなければ人間の動物的側面しかなかった。
必要なのは「ポップカルチャーや医学に詳しい」など以外に人間が影響力を持つ理由はなかったのだ。
白人社会は、できるだけ社会を社会生物学に委ねたいと思っていた。
みんなが神経や心理に身を委ねて心地よく生きることができる。
女の子が「お父さん」「家柄」を口にしてもカンに触るだけだったからだ。
WASPというのはそのような意味だった。
人間のセレクションを行う上で、白人同士では優劣をつけるのが困難だったということは指摘していい。
「愛を囁くのが上手い人」などが選ばれないのならば白人社会の文化は死滅すると考えられたのだろう。
21世紀はエコロジーで人間が団結する可能性があるという指摘は以前からあった。
親の威光を傘に着るパラサイティズムはここで批判されたのだ。
血筋・家柄を語らなくても社会は発展するという論陣は確実に必要とされていた。
松田聖子 マリオネットの涙。

「身分制社会」などと言って親の威光を傘に着る連中への憎しみはみんなが共有していた。
「何のために勉強するんだろう」ということになりかねない。
信仰心の無さを責めるふりをした嫉妬も目の当たりにした。
コンラート・ローレンツやメイナード・スミスがいなければ社会はいまだに「身分制社会」「家柄」にしがみついていたであろう。
社会生物学のキーワードは「エコロジー」と「ポップ」であった。
この二つだけで人々の心をとらえる人が影響力をもったのだ。
「遺伝症候群はイエロー特有のものかい?」と白人は嘲笑った。
日本国も「双子の研究」を行い、遺伝症候群から抜け出そうとしていた。
「学ぶことや文化はシカトかよ」と身分制社会は批判された。
適応能力が問われたというのもエコロジーのいち側面だったであろう。
センセーショナルな風はマザコン坊やから吹くことはない。
ribbon センセーショナルウィンド。

いずれにせよ、エコロジーというものは血筋や家柄を否定した時に初めて見えてくるものだ。
勉強する環境に恵まれたなどのレベルから語られるものであり、女々しい学問ではない。
気分良く生きよう、英雄を称えようというアメリカ合衆国のアイデンティティは白人が作ったものなのだ。
グールドなどは「セレクションというのは厳しすぎないか?」と指摘したが、メイナード・スミスは「知識の物々交換は楽しいものだよ。居心地がいいのがエコロジーなんだ」として譲ろうとはしなかった。
自分のルーツによるセレクションは「どうせ改竄されるだけだろ」としたのは白人も日本人も同じだった。
「話していて不愉快になる」としたのも同じだ。
「ポップ」はそのような意味では楽しかった。
「ポップでキュート」とは血筋や家柄にこだわらないから可愛らしいという意味である。
子孫にも文化を伝えたいという意味であると受け止められた。
ポップにいこうよ 酒井法子。

我々も動物である以上、ルーツはあるはずだと主張されたが「知らぬは男ばかりなり」という言葉を知らないのか?と笑われただけで終わっている。
大事なのは「適応してしまう」というエコロジーだった。
生きて、適応している世の中に今さら持ち出す議論ではないとされたのだ。
「人生は一度きりだからね」という言葉が心に響いた。

2018年1月20日 (土)

孤独な昇り龍。

グループは、特定の人だけが上昇していくことを望んでいない。
女のからだがそのことを拒絶するだろう。
しかし、もし私たちが興味のあることを研究しているのならば話は別ね。
私たちの悩みを解決する方法を知っているのならば「昇り龍」はもう一人ではないの。
そういえば、昔、成績優秀で有名だったわね。
あの時、貴方みたいになりたいと思ったから私は悩みが色々できたわ。
「みんな長生きしたいの」
だから昔の貴方は危なっかしかった。
私もあれからセックスもしたし、鬱にもなった。体も痛い。
今は「胚」の段階から寿命が分かる。なぜなら時代の知識が分かるからよ。
遺伝なんて誰も見てないわ。
「昇り龍」の言葉から私の子供の寿命をはかっているだけ。
そういう意味では人間もチンパンジーの群れも同じね。
私の子供は幼児の頃から昇り龍のニュースを見て育つの。
ドクターX.

神童のような子供にどのような空気を与える人なのかを見ているわ。
子供をお腹に宿した時から私は「時代の知識」に敏感になった。
昇り龍(皇帝)は最もお金儲けが上手い人だから、一番、意識がはっきりしていると思う。
多数派工作ってお金でやるものなんでしょう?
昔、勉強ができて有名になった時に、貴方の所属に無限があることはわかっていたわ。
時には暴力も辞さずに手に入れた「無限」ですものね。
この国の言葉は「日本語」でしょう?
女は日本語しかわからないの。
貴方は昔の「危険性」を女たちを救う方向に用いてくれたから今「昇り龍」と呼ばれているの。
「いつか話さなければいけないな」というようなワケありの女ばかり見てきたでしょう?
貴方に必要だったのは、貴方の「無限」を国も共有しているということを知らなければならなかったことと、社交性ね。
どんな有名女も「役所とはこうやって話すのか」と感謝するわよ。
昔の「女の美しさ」がくたびれて行ったのも見たわね?
だったらもう「美しさ」には騙されないはずよ。
貴方が昔、成績優秀で有名になった時は、私が「説明義務違反、適合義務違反」の勉強をさせられたわ。
「貴方だけが知っているんでしょう?」と思った。
そのあと、私はセックスデビューをして「秘密」を抱えたままファンのみんなに契約を教える立場になった。
私の「秘密」によって大混乱に陥る男たちがいたの。
でも、ふたたび貴方は復活したわ。
私に、文学・経済学・法律学を教える立場になったからね。
若者に必要なのは「無限を知っている所属」を死守しなさいということかしら。
犬の群れもウサギの群れも「分け合っている」けど「好き嫌い」だけは意思表示している。
犬を救うためには「魚」が必要なの。
太った女と痩せた女と処女しかいないと思っていたでしょう?
でも、太った女と痩せた女しかいないと考えてごらんなさい。
処女がいるのならば争いは治るけど、世の中の争いは治らないじゃない。
処女は「成績優秀だった昔」に周りにいただけ。
それを有効に使ったのならば、「研究」している今は全く関係のない議論なのよ。
勉強している男の子たちにとって死活問題なだけ。
「勉強」と「研究」の違いはそれだけかしらね。
「あの男は無限の研究の場を確保したぞ!」と年寄りまで騒いだわね。
青いスタスィオン 河合その子。

勉強のテストは「複雑なキャパシティ」を見ているだけ。
スタニスラフ・ブーニンの鬱屈した青春時代の真実は2003年まで語られることはなかったわ。
その複雑なキャパシティは誰も理解できなかった。
成績優秀だった男がどのように鈍っていき、どのように復活するのかが分かってきた。
ブーニンは「自分を計算できる」という才能があった。
思考力の低い大人は、勉強の才能すらなかったの。
「負ける」ということから学習するしかないわね。
「無限を知っている所属」の中では「ビッグベン君」が一番いいわね。
ソウル大学の学生が「こうあるべし」と考えていることを東京大学も参考にしないとね。
韓国は国策として「学生の思考力を下げない」ための研究をしていた。
普通のチンパンジーとスーパーチンパンジーの研究を終えていたのだ。
ビッグベン君。

スーパーチンパンジーは案外、このような生活から生まれるものよ?
部屋に男ばかりたむろしていて、親の理解もある、そんな男が勉強するの。
エリートの男子部屋は女子たちの憧れね。
この中の誰がスーパーチンパンジーだと思う?
メンバー全員だし、このような生活が一番いいと知っている連中ね。
尊敬すべき哲学者の名前もポンポン飛び出してくるわ。
仲間というものがどういうものかが分かるようになる。
部屋への出入り禁止にならないために何をしたらいいのかも分かる。
ビッグベン君。

女は祝福から絵を描くのではない。胸に残ったから絵を描くのだ。


エルグレコ トレドの眺め。
乾いた地図 河合その子。

色と形だけではない。その街で何があったのかを記録に残したかったから絵にしたのだ。
ビッグベン君たちの住んでいた街、それ以外に女たちの胸に残るモチーフであるとは思えなかった。
彼らの中から王が出て、側近に毒を盛られて死んだ。
譲れないもの、そしてセックスとは何かを考えさせられたのだ。
哲学が果実を実らせるというのはいつも「死」をともなっていた。
知恵と知識がすべての男に勝る、それは周囲の男たちがひどく尾を引くものであった。
もはや「キスをする」という世界ではなく「深く胸に刻まれる」というものだったのだ。
SPEED Deep blue& truth.

ビッグベン君たちはいちばん詳しい奴からの耳学問だけでも試験の成績は良かった。
みんなノンケだったので女心まで語り合った。
つまりは法学部だったのだろう。
優れた哲学者がいるということは、尾を引く男もいるわけだな。
すべてが街の風景だった。
凡庸さと優れたものが常に交錯した街、知的な街だった。
セックスするというのは「優れた男」という意味だったので、彼らは彼女ができても部屋には連れてこなかった。
詩を作る奴もいた。
誰も俺たちの上にはいないと思ったね。
ビッグベン君 ハルハル。

人間関係があったから「別の生き方」などなかったと思えたし、誰かが常に「最高の先生」の言葉を口にした。
世の中にはノンケでも「脳が弱い」男がいるのよ?
虚弱体質とか自閉症とかね。
知的な男に負けた奴は「拳」に訴えかけることがある。
これを「双子の地球」とも「ゾンビー」とも呼ぶが、拳に訴えかける理由は「女を寝取った」という「セックス主義」にもとづくことが多い。
空白に対して「2つの物語」が激突した時も拳に訴えかける奴はいる。
空白とは「まだ誰も知らない結論」のことだ。
今後のさまざまな「空白」に介入する力があるとみなされたら拳を使う奴もいるだろう。
女の子の「恋の対象」になることから争われているとも言われている。
男は知性に憧れると下痢をするということから、自ずと限界があり、拳に訴えかけるとされる。
一次補正だけでなく二次補正も組めるのがダビデであったが、次のゴリオテを誰が倒すのかで争いが生じるのだ。
一次補正の戦友も「昨日の友は今日の敵」となってしまう。
ゴリオテが次から次に現れる世界なんだから仕方がない。
ソニー、カルロを殴る。

「空白」に介入すれば、それはお金を意味する。
男社会の仕事が女とのセックスに変わる瞬間だ。
男社会の仕事といっても女たちと話した「場数」の違いから力量の差が生じている。
しかも「文化の空間」を熟知していなければお金にはならない。
何がすでに東京大学に蓄積されているのかを知らなければならないのだ。
ソクラテスが殺された後にザンシッピは未亡人になっている。
哲学をやると殺されるという問題とケンブリッジは向き合うこととなった。
個人主義批判をケンブリッジは行ったのだ。
孤独だからソクラテスは殺されたんだという結論に至った。
シュレディンガーは、日常の政治活動から生じるお金が、女を買うために用いられる可能性を指摘している。
「見た目が平凡ならばいいんじゃないか?」とケンブリッジは考えたようだ。
また、資金力に満ちるほどの見識があるのであれば、女の子とは「話し合いの相手」になっているはずだとした。
「足は腕よりも長い」とも言われ、精力善用を行えるようになっているのだ。
裸になったヒラリーに、裸にならないオバマは勝っただろう?
「話してみると面白い」というような見た目が平凡な男もソクラテスのようにはならないとされている。
あるいは「体重500キロの男」などだね。
魅力を内面にとどめておけば殺されることはないわけだろ。
「完全勉強主義」というものもあり、東大生ならば誰でも乗せる女もいる。
しかし、それは「勉強が男に見える」という子供じみた女だと言える。
しかし、「勉強の向こう側にいい研究があるよ」と指摘した女は2006年のウェザーソンが初めてだった。
女の側が学問というものの意味を認めた瞬間だった。
「勉強、誰よりも勉強したい男」の意味がこの時に変わったとされる。
偏差値BOY うしろゆびさされ組。

女心が自分のテリトリー(縄張り)を守りたがっていた。
しかし、勉強したい偏差値BOYが財産を築くであろうことも予測できた。
この女心と男の財産の関係がゲームとして成立したのだ。
女の側が「裸一貫」になれたのがこのような偏差値BOYとの関係があったからである。
「私と話すと儲かるわよ?」
これが話し合いのパートナーとして成り立つようになったのだ。
時代の学問の話をパートナーで語り合って、男が満足したら、女の支持は根強くても金を払うのは男であった。
バレンタインは「男の子に時間をあげる」という発想を持っていた。
チョコレートをあげた男と「時間契約」を結んで話し合いのパートナーになることを意味した。

我々は「言葉」で守るべきルールやテクニックを教わり、なんらかの満足の得られる結果を出している。
「感じればいい」というものではない。
言葉にして覚えているのだ。
悪意と満足が常に「話し合い」の場に存在する。
本当にその人のためを思って言っていることなのかも実は分からないのだ。
ヴィトゲンシュタインは「一緒に写真に写らないと相手は本当に自分のためを思った発言をしてくれない」としている。
若い時はとにかく人と一緒に写真に写ったほうがいい。
その時に「写真に写っているものたちの目的」を明らかにしなければならない。
写真に写ることによる「お互いの利益のために発言する」関係は社債を出すことにもつながるものだ。
社債を出しまくらなければサッカーのゴールシーンも生まれない。
このゴールを誰に捧げたいのかを明確にするという意味合いもある。
筒香2017年ホームラン集。

ゴールシーンが生まれるとコーチも女にモテるようになる。
そのことから「真実を語ろう」というモチベーションが生まれるのだ。
コーチは男にアドバイスした話の内容をそのまま女にも話しているよ。
自分の「知っていること全部」のうんちくを伝えてあるのだ。
野球人生一筋のコーチの情報量は秘密警察と変わらない。
しかし、人柄に期待してはダメだ。
社債と女につなげなければならない。
自分以外の人間にはみんな悪意がある。
かつて自分に出した「命令」を人に伝えるのがコーチだ。
しかし、医者ではないからね。他人を壊すこともあるんだ。
「痛い」と言っただけでどんなアドバイスをすればいいのかも知り尽くしている。
痛ければ医者に行くだろ?でもコーチの方が詳しいんだよ。
結果を出せば、写真は社債や女だけでなくコマーシャルにも使われるようになる。
王貞治と荒川博。

教わる側が、コーチほどの「強さ」を持っていないこともある。
しかし、「強さ」というものはコマーシャルから作っていくものだ。
痛みへの対処法から間違えずに、うまく「道場」の発信力を高めていかなければならない。
「痛い」と言って泣いているのに厳しさだけを追求したのではコマーシャルに選手が付いてこないのだ。
道場は時に、痛みを選手が抱えて休養するというムーンライトソナタの側面もあるのだ。
むしろ、選手が弱さを見せた時ほど「辞書」の出番ではないだろうか。
弱さへの対処法が正解だったのならばコマーシャルはいっそう強度を高めるだろう。
寝込んでいる時の人間はみんな弱気なのだ。寝ている人間に命令を出すことはできない。
教えたいことがあってもムーンライトソナタの時だと割り切るほかはない。
こんな指導にはついて行きたくないと思わせないための作品だ。
寝込んでいる時に「そりゃねえだろ」という発言を聞かされたらもはや信頼の回復はないと思った方がいい。
ベートーベン 月光。

コマーシャルにおいてはライバルに「あなたは間違ったものを信じている」というメッセージを発信し続ける。
「いろんな人があなたを壊そうとしている」というメッセージは明確にしなければならないね。
結局、練習というものは「心地いいもの」でなければならないし、痛い時に休めるものでなければならない。
「正解」というものは積み重ねなければたどり着けないものである。
常に指導者が「そう」と言って意味を与えられなければならない。
痛くても意味のあるトレーニングがあるとは思えない。
痛みを訴えた選手に対しては「とにかく指導者は裏切ってはならない」ということは理解しておかなければならない。
かつて自分に出していた「命令」を人に伝えるという行為は常に「痛み」と向き合わなければならないものだ。
他人を潰すのは勉強社会では義務だったはずだ。
「こいつは」と思うものがなければ人間というものは人を潰すようにできている。
選手たちが持っている文化が指導者にとって「痛み」であるのならば、痛みには痛みで応えるだろう。
「右を向いて左を向いたら一億円プレイヤーになっている」という時代ではなかった人はそのような意味では痛みを抱えているのだ。
「志半ばならば写真を撮れ」とヴィトゲンシュタインは言った。
落合博満の持論。

こういうことが分かるようになったら博士号をあげてもいいんだけどね。
ギンズバーグは連邦最高裁判事になるほど勉強したからいろんな世界で睨みが効くようになったのだ。
勉強社会で身につけた「人を潰すという本能」は知らなければならない。
メジャーでは「盗塁する時は右投手ならば右足のジャンプがあるかないかを見る」とされていたけど、高木豊は福本豊に「投手の目を見ろ」と教わった。
その業界で何が語られているかというのにみんな敏感なんだけど、人の意見を聞くというのはそれほど危険なものなのだ。
女に満たされていない奴は特に危険だ。
あるいは「今のコイツは止められないな」という時期を経験していない指導者も危険だ。
「他人を潰す言葉」に多くの男女が群がったらもう目も当てられないね。
ノイズが一気にアンプにかけられるからね。
CDのように鳴り響く音になりかねない。
とにかく、心をかき乱されないことが必要だ。迷いが生じるのがいちばん困る。
プロフェッショナルというのはそういうことを知り尽くしているから選ばれたんだろ。
プロのコーチはプロとして仕事をするだろう。
それでも情報戦は果てしなく続くよ。
指導というのは「2つの孤独」が向き合う行為なんだ。
バットとは押すものなのか引くものなのかなどという禅問答をCDで鳴らしているんだ。
プロなんてなれるわけないよ。
答えのない問いかけという落とし穴にはハマらないようにしよう。

2018年1月19日 (金)

退屈さに飽きないヘンタイ。

マルクス主義が西洋社会に受け入れられるために欠かすことのできない人物がジョージ・ルーカクスである。
小説というものは「得るものがない」とされているが、すべてゲイや両刀遣いなどのヘンタイが書いているとしたのだ。
ものに意味を込めない才能とでもいうべきものだろう。
竹原ピストル。

階級社会がヘンタイを生み出しているとするのならば、下層階級以外に政治家に向いている階級はない。
ノンケならば経済学への理解度が高い。
このへんから「才能」や「適性」を見ていかなければならないものだ。
ロースクールにも適性試験というものはあるが、憲法改正からの威嚇を受けるヘンタイならばそこで適性は切らなければならないのが本来の姿であろう。
新カント派は「女神さまというのは作るものだ」としたが、はたして「自らの越境問題」の論点をまとめ上げたアリストテレスやニクソンのように「自分についてきたアイドル」への理解力をもてるかどうかは、自分の大学での情けない成績を「オールS」に変えてみせるポテンシャルを持つかどうかという問題となる。
ハンガリーで軍務に就いたルーカクスは、自らをヘンタイとして「文学者」と位置づけることにしている。
階級社会の怒りこそが文学なのではないか?としたのだ。
イケメンが全体主義をもたらすとするのならば「彼はゲイだ」と言われるだろう。
尾崎豊 シェリー。

ハンガリーのベラクンによって指導されたハンガリー赤軍はこの「若き全体主義者」によってイデオロギーが統一されていた。
寒空で1時間も平気で待つことができる新左翼もいる。
これは「スターリニスト正統派」とも呼ばれた。
1956年にスターリンが死んだら、ルーカクスはソビエトによって投獄されている。
これがハンガリー動乱であり、哲学者を攻撃しろという戦争の基本を踏まえて、「学歴のない豚追い」がノンケとしてイデオロギー批判を展開したのだ。
仲間たちが学歴を身につけていくにつれ「何かやらなければならない」と考えたのがスターリニスト正統派であった。
しかし「豚追い」の方が楽しいと思うのであれば当然「スターリン批判」につながるだろう。
「ノンケのお前は政治家には向いていない」と呼ばれることもある。
いずれにせよ「何か得体の知れない世界」という心理学を皆が共有したのだ。
政治家という職業を「ブルジョアの恥」とみなす中産階級もいた。
マックス・ウェーバーは「勉強し、男女の論理が分かるようになる」という支配の構図を作っていたが、西洋の左翼思想はもっと「性倒錯」の現実を睨むことになった。
キルケゴールは「根性のない連中なんだよ、もっと若さと退屈さを楽しんでもいいんじゃないかな」として正統派の学問を支持したが、スターリニスト正統派の方がより全体主義的に人々の支持を得たのだ。
尾崎豊 I love you.

「豚追い」は、ルーカクスには女心の全てが分かるわけではないという持論があり、いくら人々の心をとらえても「絶対」を見失うと考えていたのだ。
スターリニスト正統派を支持してしまった「女心の悲劇」が指摘された。
それは「恐るべき男の序列」を生み出していたし、「友達としての男」を志向していたのだ。
キルケゴールは「女心には絶対というものがある」としていたが、それは新カント派が「女神さまとして発信する」ものだとルーカクスは考えていたようだ。
紅白歌合戦の紅組白組の区別は1916年のルーカクスの論文に見いだすことが可能だ。
女の考えは女に語らせようとしたのだ。
CoCo 夢だけ見てる

理想の男=法はどこに行ったのだろうか?
ルーカクスは「そんなものはキリスト教・ギリシャ哲学に委ねておけ」と語った。
法律学は「かなり女々しい学問」であるとし、よりパワフルな学問とは区別したのだ。
法律学は「女心をホームレスにさせる」とも言った。
松田聖子 赤いスイートピー。

これらの文学・経済学・法学の適性を理解しないものは「ドン・キホーテ」と呼ばれた。
自分が好きなものを好きなように表現できるのがいちばんの才能だった。
「貧しさの中から自分が本当にやりたいことを見つけていく」という発想が必要であり、型を真似るものではなかったのだ。
「このやり方でいいのか」というものが分かってくれたらなんらかの賞は与えられる。
貧しさの中で見つけるフェティシズムほどありがたいものはない。
その人の才能はそれで分かるからだ。
「コイツはオンナをバッタバッタと300人斬りするぞ」ということも分かる。
「我々」という言葉の意味は君にとって何を意味するのか?を明らかにしてもらいたいのだ。
スターリニスト正統派は確かに革命を志向した全体主義だった。
しかし、キリスト教を否定しただろ。
プロレタリアの集合無意識に訴えかけただけだった。
階級社会はそれで満足しても「真理」はそうではなかっただろう。
酒井法子 17ビート。

古典的マルクス主義は「男が女を愛する気持ちを利用しろ」と言っていただろ。
しかし、階級社会からは異なる返事が返ってきたのだった。
「知的な連中は俺を呪うんだろうな」とルーカクスは思った。
カントもフィヒテも味方してくれないことは分かっていた。
しかし、ヘーゲルだけは「アウトローのイケメンっていいんじゃないか?」と考えた。
また、シェリング・キルケゴール・ニーチェ・ハイデガーの「知的な直感」が若さを応援してくれた。
要するに「ヘンタイでも誰でも社会に出て欲しい、殻に閉じこもらないで欲しい」という願いがルーカクスにはあったし、当然、スターリニスト正統派のバックボーンでもあった。
文化は特定の者を権力から遠ざけてはならないとしたのだ。
考えて欲しいのは「自分の生きる道への向き不向き」だけであった。
このスターリニスト正統派の文化は「死にゆく宿命にあった」とも言われている。
粛清も行われた。
バルザック・トルストイ・ゴルキー・トマスマンなどの作家は当然いたが、「聖書」には敵わなかった。
「豚追い」はいろんな意味で自らの成熟と重ね合わせながらスターリン批判を行なったのだ。
モダン文化とは何か?を知らないと体制というものが理解できないことが分かった。
竹原ピストル ファイト!!!

2018年1月14日 (日)

物象化論とマルクス。

1996年12月に、ジュディス・バトラーは、マサチューセッツで「マルクス主義の再評価」を行おうとしていた。
エヴァ・サドウィックの「クローゼットへの向き合い方」や「ヘンタイの惑星の恐怖」などの本が魅力的に思えて、すでに冷戦は終えていたものの、マルクス主義とは何かを考えてみたくなったのだ。
「男たち」の力で西側諸国は押し切る形になったが、「女」そして「ヘンタイ」により詳しかったのは東側だった。
ゲイやレズビアンなどが西側先進国で「敗北する要因」と考えられたことから、アメリカ合衆国内部でも、マルクス主義に共鳴する連中がいまだに残ったのだ。
アメリカ中西部出身のショートヘアの女など、クリスマスを考えたトロツキーの信者は多く、時に「ヘンタイ」はかなり強烈な全体主義ムーブメントを引き起こすこともわかってきた。
レイザーラモンHG.

女の感じ方を男もしているというのは衝撃的であったし、90年代にこのことを指摘しないものはいなかった。
マイケル・ワーナーは「性の統合」というものがマルクス主義には存在したとし、女たちまで支持する全体主義ムーブメントが「性の統合」だと悟ったのだ。
量子論は「男の子の計算」しか興味がなかったし、労働力としても男が戦力とみなされていた。
男と女というノーマルを憎むものは当然いたのだ。
ラカンも女の子に不思議の国のアリスのように女としてのセックスを要求していた。
犯罪を犯すと処女がセックスさせてくれないとか、非処女でも夏の海にいれば癒されるなどの論争はまだ健全な部類だ。
ジョージ・ルーカクスが考えたのは「階級社会に存在する虐待と性倒錯」であり、下層階級が標榜するのは「相対主義」であり、幅広い支持を得た。
竹原ピストル。

セックスだけが絶対で、他には真理など存在しないというのが相対主義であり、恋愛論という「フィクション」を作り上げることを知らなかった。
ヘンタイプレイは社会で正当化しようがなく、しかしそれが生み出す文化によって自らの社会との和解を行なっていたのだ。
貧しい生い立ち、そして狭い部屋によって行われた虐待はもはや文化的な階級闘争となっていた。
「搾取と抑圧」が「知ること」を制限していたし、社会全体が「分からない」というのはもはやメディア論でもあった。
社会全体が「分からない」と言い出すのが階級格差の結論だったし、だからこそ簡単に英雄になれる人もいたのだ。
「分からないという名の全体主義」が広く支持された。
尾崎豊 シェリー。

「努力を否定してくれるのはありがたい」と考えるものが大勢いた。
全体で足並みをそろえて怠けようというマルクス主義の言い伝えはあながちでたらめではなかったが、このような貧困や階級格差からもたらされたものであることは理解しておかなければならない。
すべての男たちが男らしくありたかったし、疲れ果てたくはなかったのだ。
マルクスは、階級闘争の帰結として社会全体がゆったりとしたものになることを指摘していたが、フーコーはそのような空気の中で「ゆったりとしたプロレスのような格闘技」を楽しむことを志向した。
ジェームソンは「ノンケの中産階級」の攻撃性は「集団主義の経験」や「階級格差をより理解したものたち」に嫌われるだろうと考えた。
ゲイは攻撃的であったが、生み出す文化はゆったりしていた。
どのような空気の中で生きたいのかと問われるとみんながゲイやレズビアンの文化を支持したのだ。
さて、時代の空気を生み出すことには成功したが、それを牽引したヘンタイたちをどのように扱ったらいいのだろうか?という問題と直面した。
田代まさし。

「性行為非公然性の原則」というものが生まれた。
文化を作った階級格差や貧困は評価しつつも、その原因をプライベート化することにしたのだ。
イエスキリストは我々が生み出したゆったりとした世界で女心を語り、性倒錯への感謝もなく、急激に影響力を高めているとみられていた。
我々だってエデンの神話を経験しているんだとゲイは考えていたようだ。
「男性パートナーには男友達を、女性パートナーには女友達を」望むのがカップルの基本であるが、そこに葛藤が生じる恐れがある。
しかし、ゲイやレズビアンの存在は1組のカップルにとっては「役に立つ限界」であると言われた。
フロイト的美女が無限の影響力を行使しないことにつながるからだ。
男らしい男、女らしい女だけの世界ではあまりにもみんなが急ぎすぎる。
政治的無意識の中に「役に立つ限界」がどうしても必要なのだ。
フロイト的にアマテラスを明らかにする作業は社会の速度をコントロールすることを意味する。
イケメンが女心を知るということは社会をスピードアップさせるのだ。
しかし、プロレタリアート的のんびりさはそのことに反発するだろう。
レズビアンやゲイは日経平均株価の上昇を望んでいない。
globe Joy to the love.

いずれにせよ、階級格差や貧困は虐待の原因になり、そのことが社会に「全体主義的に」速度制限をかけているのだ。
アドルノは「このことを利用して英雄を作ろう」と考えた。
しかし、キルケゴールは若い時期はそのような空気にかぶれてみたらいいのではないか?と考えたようだ。
相対主義は社会全体の動きをゆっくりなものにするが、開かれた絶対主義は社会の速度を速める。
男らしい男、女らしい女のいる社会で「口説き文句」を売りつける行為は社会の速度を速める。
この「速度」とは日経平均株価のみならず、人口の変動にも影響を与える。
「人口変動社会」とは、ゲイやレズビアンなどの相対主義文化に国全体が「全体主義的に」飲み込まれていく様を描いている。
開かれた絶対主義、つまり「口説き文句に真理が存在する」という立場は人口のコントロールをも可能にするのだ。
2025年から2045年までの「人口変動社会」の予測もあくまでも相対主義というイデオロギーを見ながら予測しているのであって、開かれた絶対主義の時代の到来がなされた現在においてはそれが現実のものになるかどうかは不明なのだ。
キリストの昇天以降、人口は減るというのは経験則であり、そのことを根拠に人口変動社会は予測されている。
我々は「男が表情を変える瞬間」に経済発展を見出しているのであり、女の表情など見てはいないのだ。
女は自分の「セックスの思い出」のことを振り返っているだけだからだ。
男が表情を変える理由は「ペテロ」がいるからである。

おじ(ペテロ)と自分の関係を「系図」を作ることで統制しようとしたのは1930年代のグラムシだ。
しかし、おじと「どっちがモテるのか?」を競い合うような交流関係を持つことの温床になり、従姉妹との交際は「ヘンタイ」との誤解を受ける羽目になった。
しかし、従姉妹がいればいろんな意味で好ましい性概念を身に付けることができるとされる。
政府は親戚との結婚や交際は禁止していないし、性概念の確立をする上では、本稿においてはミッドナイトカウボーイを貴重な資料としている。


従姉妹との恋愛は「プロレタリアートフェティシズム」と呼ばれ、銀行のアカウントなどで確認されるだろう。
父と母の「姓」が異なることから「ファミリー細胞」というものが生まれ、階級意識というものが生まれる。
しかし、これは極めて女性の感受性を重くみた考えだと言われる。
「何か計算できないもの」をファミリー細胞として混ぜ合わせたほうが女性は自信がつくのだ。
異なる姓を名乗る女との結婚はもはや法ではなく、男の政治的力量を意味した。
女性的感受性はただちに同姓同士の婚姻を拒絶するだろう。
従姉妹は、男に真っ先に体を売る存在だったのだ。
そのことを「知っている」かどうかの見識が問われた。
それをうまく「身辺整理」してファミリー細胞を作っていかなければならないとされたのだ。
同姓同士の婚姻は「階級社会におけるいじめ」と「自由な政治参加を求める側からのいじめ」の二つに直面するのだ。
しかし、率直な印象は「売春婦との結婚なんて汚らしいわ」というものだ。
おじと奪い合った女との結婚は「単純計算」しても敵が多い。
絶対解ける問題 松浦亜弥。

また、ペテロの存在を考えると、同姓同士の婚姻は政治を難しくさせるため「わざわざ」という現実的な問題がある。
女のからだにも「ノーマルボディ」と「より簡単な」ボディの二つがあったため、何のための口説き文句だという批判は政治的には可能だろう。
支配される階級としては「お前、寿命は大丈夫か?」という苦労が絶えない。
しかし、男の本能としては「親の遺産に興味がない」ということと「美しかったから」という二つの指摘が可能だ。
ユダヤ人はこのような心理を銀行で見ていたのだ。
あくまでも産業が近代化を迎えるまでにユダヤ人が見ていたものの名残だと言える。
企画や筆記、ファイリングなどが仕事となった現代においては「意味のない議論」とされている。
ペテロの議論の蓄積を見る限り、美への欲望を満たし、その上で「身辺整理」(テイラーリズム)も必要のない簡素な結婚と扱われている。
今となっては「女たちと接する機会が増えた」ために「◯◯が行った!」という「勇敢な男モデル」が作られたからだろうとも言われている。
この勇敢な男モデルができたために女の側も心を開いたとされる。
アメリカと都市部では「従姉妹との結婚」は「ああ、君か!」という新しい形の奉仕に変わって行った。
愛してジャスティス。

あるいは「故郷はどこですか?」というような特定の田舎の出身者だとも思われた。
食や楽しみに満ち溢れているアメリカ合衆国においては「すべてが過剰である」という意思表示にも思われた。
息子への「ささやかに生きろ」というメッセージともなるものだ。
1909年にフロイトがクラーク大学で講演した「従姉妹との結婚」は「こんなに大勢の女がいるのに」というロマンティックなものへと変わっていた。
アメリカ合衆国においては「大衆社会で消費されるもの」に過ぎなくなったのだ。
むしろ「勇敢な男」モデルは「アウトローっぽくていいだろ」という形で従姉妹との結婚をアピールした。
「すべては給料次第だね」と言って美の魔力にとりつかれるものもいた。
給料があったからこそ、それを「安全弁」として「開かれた処女地」に入っていくものがいたのだ。
「そのほうが安く上がるからな」という言葉は「勤務時間手当ての賜物」とも呼ばれた。
従姉妹にとって、学校などでの恋は「月のもの」だったが、従兄弟との距離感は「季節もの」だった。
月のものであるクラスの男子の言葉の方がより印象に残った。
「親戚一同が集まった」などの場合はお金をたくさん使うことから、女の子の奪い合いが生じるのだろうと考えられている。
ダメ男ばかり見ていたら、従兄弟だけが安定していたことに気がつくこともあった。
従兄弟同士のセックスは「生む」(プロダクション)というよりは「消費」(コンサンプション)だったけどね。
マドンナ パパ・ドント・プリーチ。

すべては「おじ」がいるために結婚に反対されるものの、生産と消費は「従兄弟とのセックス」をめぐって議論されたものだ。
「蓄積」というものも「季節もの」であることを知る必要がある。
女の子の「セックスできる体」も季節ごとに変わって行った。
「次の一族の宴会のためにお金を貯めておかなければならない」と考える親方がいたためにこのようなことが起きたのだ。
ミシェル・フーコーは「次に会う時にはもっとキレイになろう」という従兄弟との出会いの心理を指摘している。
また、フロイトは「命が危険にさらされた時などに従姉妹を想像してマスターベーションする」という男の子の習慣を指摘した。
母親のヒステリーのことだろう。
家庭内のゴタゴタとは無縁で、最も身近な存在が従姉妹だったからだ。
「当然、女社会の序列は別のところにあるんだろ?」と従兄弟は考えてしまう。
従姉妹とのセックスは、男の子のエネルギーに比べてあまりにも簡単だったからだ。
「自分はどこに向かっているのか?」を見失う男の子もいた。
ribbon 3つの願い。

エヴァ・サドウィックの「クローゼットへの向き合い方」というのは「セックスに関する知識がない」男のこのような末路への救いとして書かれたものだ。
本来、学校というものは当然のようにあるものではなかったので、セックスの可能性は「工場」によってプロデュースされていた。
そこで男としてセックスするのか女としてセックスするのかの区別は自ずから身についた。
すべての男女が「男としてセックスしたい」というヘテロセクシャルデザイアーと、「女としてセックスしたい」というホモセクシャルデザイアーを持っていたからだ。
男としてセックスしたがる女を「シシー」と呼び、声が独特のものとなった。
男としてのエネルギーを使おうとするからだとも言われる。
20世紀に入ってから明確な「男女別コース」が採用されるに至っている。
hiro delicious.

男らしさというものは「鬱と敗北」から作られるとされた。
「敗北を知らない」ということが男の子にどのような悪影響を与えるかは理解しておかなければならない。
カントのように「女心は大きすぎる」というような多数派工作をしていたら、「敗北を知らない」ヘンタイが大勢集まってくるだろう。
マルクスは「第二インターナショナル」において「女たちをたくさん集めよう」というムーブメントを起こしている。
女たちさえいれば自ずから敗北も経験するだろうと考えたのだ。
「常勝思考」という名のヘンタイが今度は指摘された。
負けたくない男の子は、マザーファッカーをやって精子が出なくなるし、アナルセックスを許すだろう。
しかも、かなりのナルシシズムをともなう形でこれを行う。
このような男を「プロレタリアンナルシシスト」と呼び、奴隷としての肉体を尊敬する「両刀使い」あるいは「ゲイ」となることになる。
エリートは結婚への強烈なナルシシズムを背景に「勉強」を体に染み込ませるのだ。
若さという退屈さもそこにはない。
常に最高の教育環境に身を置いていた。
しかし、プロレタリアートにとって「最高の教育」ほど遠いものはない。
そこに「常勝思考」を持ち込むのは危険だ。
おちんちんがあるのに「女としてセックスしたい」というのは常勝思考のなせる技だ。
大川隆法。

セックスを知っている文化というのは従姉妹がいなければ成立しない。
しかし、従姉妹は、「若い男には幼すぎて解決不能な抑圧」を経験しているのだ。
しかも、男の子が話せば話すほどその抑圧は顕著になっていき、従姉妹は「ファミリー細胞」というものに目覚めるのだ。
「無人島に行きたい」という女の子の心は、決してセックスをしすぎて居場所がないからではなく、従兄弟の言葉から逃げたいからだとされている。
しかし、その抑圧が性欲に変わり、売春婦として生きようと決めるのだ。
「従姉妹とセックスしたいから蓄積が始まる」というのはジュディス・バトラーが明確にしたものだ。
女の「手足のしびれ」なども、実は従兄弟との間にもうけた隠し子がいることが指摘できる。
フランクフルト学派は、自分に貞淑な妻がいることを強烈な背景にしてこのような残酷な研究を始めた。
この「いとこ同士のタブー」を明確に指摘し、それを容認することを「共産党宣言」と呼んだ。
男たちに「努力しなくていいんだよ」というメッセージを出したのだ。
「女とは何か?」が鮮明に人々の心に響いたのが共産党宣言であり、強烈な支持を集めた。
今の日本の民法もこれを容認する形となった。
SPEED I remember.

マルクスは、フェティシズムを容認したにすぎなかったが、ラカン派のジジェクにせよミランダ・ジョゼフにせよこの論点を「宿題」とする形になっている。
このことから「マルクス主義の地平」は果てしなく広がったのだ。
ジジェクはこの問題を「昔からあった」と指摘し、唯物史観というものを作っている。
また、アメリカ合衆国が「共産党を禁止した」というのもこのことを言っている。
マルクスの衝撃は大きかった。なぜか?これが共産主義の研究だ。
愛し合っただけに夫婦の欲望は強烈なものとなり、その分、女は「ウチと外」を明確に分けた。
男の子は「体がモノを言う」という文化を根付かせた。
自らを「ユダヤ金融の弱者」と位置付けたために、下層階級であるという意識を持った。
しかし、20世紀初頭にジョージ・チョーンシーによって「フェティシズム改革」がなされるまで世界で影響力を持ったのだ。
女の子たちは激しく愛し合う両親を見て自らも「欲望の対象」となることを知った。
みみかきをしていると 國府田マリ子。

男の子に「白人の肉体エネルギーをぶつけてみよう」と親が考えるのも当然だった。
男らしさ、女らしさが明確に区別されることになった。
「女らしさを愛する人ってこういう人ね」と男は語られるようになっている。
女たちはひたすら「欲望の対象」として「遠くで」踊っていたのだ。
しかし、「身体がモノをいう世界」はいつしか「心がモノをいう」世界へと変わっていった。
日本では仏教がこのことをすでに知っており、男の子が「俺への尊敬が足りないぞ」と言って生きることから「頭を下げる」という習慣が生まれている。
女の子たちは「男のように愛されたい」と願っていたとされる。
男の子は「女性に愛されるためにはギリシャ彫刻のような肉体でなければならない」と考えたため、格闘家を多く輩出した。
男としてのアイデンティティを求めて、欲望がとどまるまで鍛え続けたのだ。
「キーワードは言葉ではなかった」とも言われるものだ。
ジジェクが格闘界をこのような言葉で煽った。
近親相姦の禁止が肉体を作ったとも言われた。
思春期の鬱が嘘のように晴れていくのを感じたのだ。
100%の恋人 酒井法子。

女姉妹は、男兄弟を「男にする」ためにいた。
出来るだけ「精子の無駄遣い」をさせるのが仕事だったのだ。
「精子とセックスの実践は違う」というメッセージを女姉妹の側から送るのが文明化だった。
セオドア・ルーズベルト自伝からこのことが明らかになった。
「いくらマスターベーションしてもバレない、なんでだろう」と記されてあったのだ。
米西戦争の三年前の1895年にセオドア・ルーズベルトは「私はダーウィン主義者だ」と語っている。
就任式で述べたのだ。
ヒトラーもそういう意味では同じ「ダーウィン主義」に立脚していた。
マスターベーションしても女兄弟にバレない男の子のためにボーイスカウトがこの時、作られている。
男の肉体はより魅力的に、女の肉体は子供を産むために、そのようにルーズベルトは国を作りかえようとしたのだ。
女が赤ん坊をおぶっているだけで、男は戦争に行く覚悟ができた。
「男」と言っていたものが、米西戦争でアメリカの限界線が引かれようとしていた時に「男性」という表現をともなうようになった。
globe feel like dance.

アメリカ合衆国の限界線が引かれたことで、ようやく20世紀に「女らしさ、子供らしさ」をクリエイトしようという発想が生まれた。
ダーウィニズムとしてその「女らしさ、子供らしさ」は進化していった。
NYダウが「女の取引」をする基盤が整った。
【超大国アメリカの誕生だった】
「警察官にゲイはいない」という形で「男」と「男性」の区別もなされた。
「男が男に触る」ことの意味は明確にしなければならなかったのだ。
「他に代わりがいない」「その人しかできない」というような「公共財」は政治家も含めてこのように誕生した。
「他の男の欲望の対象になる?」そのようなことは公共財には想定されていない。
このようにして「性的欲望」を思う存分、国全体に解き放つことができるようになった。
【20世紀は女性の世紀】
セオドア・ルーズベルトは高らかに謳いあげた。
それに文学作品が付いてきたのだ。
ヘミングウェイの「陽はまた昇る」はその代表作だと言っていい。
ヘミングウェイは、ホモのジェイクが外国人兵の感触をカーテンのように感じ、世界の平和を願ったと記した。
他の男の肉体美に顔を赤らめるような男が戦場にいたのだ。
ジェイクとブレットは「ロメロという子供の評価」でも対立した。
ホモのジェイクにとって、男の子の身体は「女に似ている」ものだったのだ。
「女の子は強くはなれないよ」とブレットは言った。
「ロメロの身体は女の子たちのものさ」
しかし、ブレットがジェイクにカマを掘られていたという記述をヘミングウェイが記した時に、「この作品は失敗だったのではないか?」と人々は語り合った。
ブレットの個人的な怒りがあったのだ。
ヘミングウェイは本当のヘンタイを知っているのか?ジェイクを語り部にしてよかったのか?
それでもヘミングウェイの歴史的評価は揺るがなかった。
出逢えてよかった ribbon.

アルチュセールは、再び、共産党宣言に戻っていった。
「常識を知ってよ!私ほど美しい女はいないのよ?」
従姉妹がそう言ったのだ。
しかも、「女性の世紀」を迎えた20世紀には女らしさのスキルはどんどん磨かれていったのだ。
私がお金が必要な時に、身体を預けられないのならば困るのよね。
なぜ、そんなにいい身体をしていても無一文なの?
「常識を知ってよ!」
20世紀にマルクスを読み返すとするのならばそのような読み方にはなるだろう。
女が女らしくなっただけでも「男だ」というだけでお給料がもらえたのだ。
「女らしさを磨く以外に社会人としてのスキルを作って欲しくないの」
「ファッション雑誌もタダじゃないのよ?」
庭師、医者、料理人、漁師、なんだって仕事はあるでしょう?
ここでヘミングウェイは、「労働とは何か?33の問題」というテーマに作風を変えていった。
スポーツ、子育て、楽器を語るだけで33の論点は全部出た。
人々が「ハードボイルド」と語り合う男の姿がここで浮かび上がってきたのだ。
1933年の「エスカイア」と呼ばれる黒いマスクをした男のデビューだった。
「男に顔などない」
これが女らしさをより一層際立たせたのだ。
ボディビルやエレクトロンなどに親しみながら狙撃する男を描いた。
エスカイアチャンネル。

ヘンリー・フォードは、ヘミングウェイのハードボイルドの影響を受けて「仕事を簡単にしよう」と考えた。
フォードは「住宅着工件数で戦争の行方が分かる」と語った。
メカニックが発達したおかげで、物理学は「新しい口説き文句を見つける世界」になったし、化学は「歴史を遡る世界」に変容を遂げた。
新発見などもはや必要なかったのだ。
フォードは「すべての仕事を精神科医にする」ことを目指していたのだ。
免許を取ろう 高橋由美子。

従姉妹は「月のもの」という性欲を持っているし、親戚一同が集まるのは「季節もの」である。
このことから「他の男にとられた」などということは学習しなければならない。
そのためには「妹や従姉妹しか周りに女の子がいない」という状況は避けなければならない。
「季節もの」のためにお金を貯めるのはフォードのおかげで簡単になった。
もはや従姉妹も「他に男がいないから」という時代ではなくなっていた。
お金の話になっていたのだ。
「私」によって性に目覚めた男だったからヘンタイでないのは分かっていた。
ネイティブアメリカンなどに根強く残った考えだったが、「恋愛マーケット」というものが開かれていった。
19世紀の面影はもはやそこにはなかった。
それでも20世紀に「共産党宣言に戻ろう」という試みは何度もなされた。
我々が「企業の奴隷」になるのもセックス目当てだったし、常に「従姉妹とのセックス」はそのモチベーションとして用いられた。
技術畑というよりは財務畑の男が社長になって、技術はお金についてくると考えられたのだ。
従姉妹との結婚なんて安っぽいわ!と言って多くの恋愛論も作られた。
ヘミングウェイをパクった作品は山ほどある。
問題は「男の肉体美はいとこ同士の結婚から生まれている」ということと、男の肉体美が女をより女らしく見せているというところにあり、何度も何度も共産党宣言に立ち返る論客があとをたたなかったのだ。
キルトに綴る愛。

「ヘミングウェイ」という名前は「筋肉質な男」という意味のブランドとなっていたし、「筋肉バカ」は親の代から子の代へと「従姉妹との結婚」を繰り返す可能性があった。
南北戦争以来、「勝負事はスポーツで決めよう」という伝統が成り立っていたが、そのスポーツアリーナに「筋肉バカ」が出てきたのだ。
ボクシングのゴングは工場のベルのように3分おきに鳴った。
しかし、パッファロービルをコントロールできたことや第一次世界大戦を迎えたことから「もはやアメリカ合衆国にフロンティアはない」ということが明確になった。
従兄弟とこの関係を清算するという意味も「結婚資金」には含まれるようになった。
フロンティアの消滅を受けて、あることが確認された。
それは「筋肉バカ」だったはずの男が「女心の探求を始めた」ということだ。
これがフランクフルト学派だ。
いったんここで女たちは「自分たちの神秘化」を行う方向に向かっている。
ユングやフロイトの場合。

熟練工とは「女心を創造的に作り上げるのが上手い人」という意味であり、未熟練工とはそのような力量がない人のことを言った。
「従姉妹の物語」はここでいったん未熟練工のためのものとしてその地位を確定させている。
20世紀に熟練工が誕生してから、従姉妹の女の子は「裸の女として振る舞えばいいのか、普通の女として振る舞えばいいのか?」というジェンダートラブルに陥った。
この従姉妹のジェンダートラブルに対しては、社会がどのような決意を持つかが問われたために「モーレツ社員」のように明らかに従姉妹とは決別しようというメッセージも出されたし、これが反共労務管理であったとも言える。
マルクスが作った「男の身体がモノをいう社会」は一代限りのものとして誰も繰り返したくはなかった。
自然革命は起きないのではないか?と語られたのだ。
女が「神秘化」したことへの復讐を次の世代は行ったのだ。
息子は自分の肉体に限界を感じた時に自然にフロイトと向き合うようになっていた。
女たちの「神秘化」がいったんなされたからこそ、いろんな国でそれぞれの「女性像」が提示されることとなった。
それこそが経済力であったし、日本国はまぎれもなく経済大国であった。
ユダヤ金融弱者であるのならば「ゲイになる」という形で自然革命を拒絶するとも言われた。
山口百恵 秋桜。

ここで女は「神秘化」したが、マルキュースが「従姉妹がいれば勉強が楽しい」と主張して再び共産党宣言を持ち出してきた。
「よりエロティックな関係」が模索された。
長続きしないことすら感じて欲しかったのだ。
長続きしない理由を「食べる、おしっこをすることの優越」と呼んだ。
フェティシズムの過剰が原因だった。
「従姉妹の存在というのは民主主義の限界なんだ」とマルキュースは語った。
あれほど「神秘」を煽ったのだから当然とも言えることだった。
自然革命なんて起こらないのではないか?という第二インターナショナルの考えに反して、マルキュースは共産党宣言に再び「男女の支持」を集めようとした。
「最終的に目指すのは革命だ」というのであれば何をすればいいのかを知って欲しかったんだろう。
従姉妹が「できちゃった」ということとお金を使ったこと、これを見ていたのだ。
文明化には反するかもしれないよ?
でもこれが革命のプログラムになることはフランクフルト学派が一番よく分かっていたのだ。
rebecca Trouble of love.

マルキュースは、「フロイトなどブルジョアの学問である」とし、革命のプログラムを組むのであれば、ゲイ解放ムーブメントと黒人解放ムーブメントの二つだろうとし、共産党宣言の意味を変えていった。
性的弱者ほど全体主義的な支持を得るという意味ではスターリニスト正統派でもあった。
テキストは「存在と無」であった。
奴隷から自由になることを煽ったのだ。
マタシンソサエテイなどで根強く残ったものだった。
尾崎豊 卒業。

サルトルなどは正統派哲学の観点から「フロイトにどれだけ詳しいかが職業人だよ」と語った。
勉強して実績(物自体)をコツコツと積み上げていかないといけないとしたのだ。
フェチ(物象化論)と興奮(記号論)は「エゴを実現するためにある」と説明した。
マルクスの共産党宣言はフロイトと結びついたのであって、新左翼のようなゲイ解放ムーブメントと結びついたのではない。
1969年にポール・ロビンソンは「フロイトに関してはもはや専門家の仕事になってしまったね」と語った。
しかし、ゲイに関しても尾崎豊みたいに「居場所」ができたのは事実だ。
女たちの「抑圧」はかなり贅沢な形で救済に向かっていった。
垂加神道〜スタンフォードとJPOPの出会い。

マルキュースは、ゲイのような「健康的ではない家族のカタチ」に関心を持っただけだった。
アドルノは時代の英雄がゲイであることが多いと指摘したし、フロイトは「ゲイなんてものは人々の好奇心の対象にすぎない」としていた。
マルクス・フロイトがイデオロギー化していくのも目の当たりにしたし、ゲイが「エゴを丸出しに」するのも見た。
東西冷戦下において、階級格差や搾取を受けていたのはゲイであったし、もはや「従姉妹との恋愛」を解放した共産党宣言とは離れたところにスターリニスト正統派はいた。
アメリカ合衆国上院が「ゲイが国に与える脅威」を1950年代に指摘している。
エゴ丸出しで男に触られるのが好きな男は国の安全保障に悪影響を与えるとされ、フロイトもいつしか「フロイト主義」という「イズム」に変わっていった。
いつしか、マルクスが夢見た革命のプログラムは「従姉妹との結婚」という共産党宣言から、ゲイカルチャーの全体主義へと変わっていったのだ。
イケメンマルクス主義者も、階級闘争はすでに「ゲイ」のものとなっていたし、彼らは「アジト」と呼ばれるものを作った。
法律も「政府を転覆しようとしたもの」という遠回しな表現を用いてゲイを排除した。
尾崎豊 Oh my little girl.

マルキュースは、「オルフェウスとナルシス」を用いることで今度は「ゲイの神秘化」を行った。
木や動物、泉などの自然が二人を愛したが、プラトンは二人の「柔らかさ」を批判した。
アメリカ合衆国政府もゲイの「柔らかさ」というよりは「共産主義へのシンパシー」を批判した。
女に力を与えられて努力するのが男なのではないだろうか?と考えられたのだ。
1964年に「一次元の男」という本が書かれ、努力をしない新左翼が描かれた。
とにかく「子供のように」成熟していないことが嫌われたのだ。
ベトナム戦争という国家の威信をかけた戦いにも「嫌悪感」という単純なリアクションをするという側面がゲイにはあった。
「みんな努力をしないで仲良くしようよ」というユートピア思想には一定の説得力があった。
しかし、東西冷戦は否応なしに経済力の競争となっていった。
ジュディス・バトラーが「結局、共産主義って何だったのか?」と発掘するまではなかなか西側も彼らの意図が見極められなかったのだ。
マンハッタンを歩く恋人たちがもっとのんびりしていたのならばな、しかしそれは夢物語だった。
テクノロジー競争が東西冷戦にともなう形となった。
1955年にマルキュースはマンハッタンでそのような風景を眺めていたのだ。
マンハッタンでブレックファスト 松田聖子。

ソビエトって働かなくても生きていけるんだってさ、という子供達たちに「ゲイカルチャー」の意味がわかるわけがなかった。
しかし、ここにカール・ウィットマンの「ゲイ共産党宣言」という新解釈が誕生したのだ。
加熱する受験競争の中でゲイ解放運動は確実に進行したのは事実だ。
西側諸国には「ゲイは怠け者だ」という差別も根付くようになっていた。
もし、女の子のクローゼットに興奮を感じるのならばお前は正常だとも言われた。
フロイトに興味の持てない男は確実に存在するということを忘れてはならない。
「男」「女」というのはあくまでもイデオロギーなのだ。
しかし、イデオロギーでありながら「最も古い古典」にしたがったものであり、世界で幅広く支持されている文化だった。
ここで「憲法」を持ち出す論客もいた。
アナルセックスを強要する男に女は抱かれたがるのだろうか?という指摘からなされたものだ。
憲法に従いたいと思います。

いずれにせよ、マルキュースは「みんながのんびり暮らせる」というところにフェティシズムを見出したのであり、普通の男女ならば簡単に理解できるフロイトを「専門家の問題」だとしてしまったのだ。
これが「ゲイ共産党宣言」であった。
このゲイ共産党宣言に対して、ベトナム戦争が引き起こされ「男たちが競争したくなるような美女」をテレビで放送することにしたのだ。
これが「マス60年代」と呼ばれるものだ。
美女のために戦うことをフォーディズムと呼んで第二次世界大戦で用いられたが、60年代にこれが再び活用されることとなった。
ミッドナイトカウボーイにおいて、ホモがたくさんいるテキサスと、美女がからだを売るニューヨークの比較という観点から体制を議論した。
ジョン・ウェイン、ポール・ニューマン、ゲーリー・クーパーなどがアメリカの国策と関与している。
第二次世界大戦の時に、ポルノビデオの女性の局部にモザイクをかけたが、あれは「ホモ同士を遠ざける」という効果を狙ったものだ。
50年代にはまだ笑うことができたゲイ共産党宣言も、ベトナム戦争における体制選択の時にはもはや笑えないものとなっていた。
男の肉体は、カウボーイの服を着ることもできれば海兵隊になることもできた。
男の肉体をスクリーンで見て歓声をあげる女性たちの存在を示したかったのだ。
「男とそれに群がる女たち」という図式から体制選択を迫ったのがクリストファー・ニーロンというアメリカ政府高官だった。
おニャン子クラブ 避暑地の森の天使たち。

このベトナム戦争の時に「コスメの時代」を迎え、女たちはお化粧をするようになっている。
ニーロンはコスメの時代の口火を切ったことから「ゲイのいない時代はのんびりとはしていないだろうけど悪く思わないでくれ」と語ってゲイ共産党宣言を完全に抹殺しようとした。
ライフ誌も「ゲイはカリフォルニアだけにしてくれ」という論陣をはったし、ラディカルなアクティビズムもこれを受けて体を鍛えようという新左翼の活動へとつながった。
もはや革命の時代は終わったのか。
ブラックパンサー党のヒュー・ニュートンは「たとえ銃を突きつけられても男らしくあれ、豚ども分かったか!」という有名なセリフを残して海兵隊や学校の運動部の教育に影響を与えた。
ベトナム戦争はゲイとの戦いであるというゲームをアメリカ合衆国は見通していた。
しかし、反戦運動の側もそれを理解していたのだ。
髪の長い女が反戦運動を行ったりしていた。
ジョン・レノン イマジン。

しかし、どうしても「女心」に興味が持てないという男はいたし、割と高い学歴のものでも「理解できない」という者はいたのだ。
中産階級の支持を得ることはできても、下層階級の虐待だけは止められなかった。
どういうゲームをやっているのか?は理解していてもアメリカ合衆国の現状が付いてこなかったと言える。
ミッドナイトカウボーイはアカデミー賞の最優秀作品賞しかもらえなかったが間違いなくベトナム戦争における戦いに用いられたものだった。
カリフォルニア州を地盤にするニクソンでなければ「ゲイというサイレントマジョリティー」の声を聞くことはできなかったんじゃないかな。
女への欲望の大量消費、そして「産めよ増やせよ」という大量生産がなされなければベトナム戦争には勝てないと考えていたのだ。
ニューヨークの42番街でゲイが登場するが、戦争の困難さを示していた。
なにしろベトナム戦争の時の古い作品だ。時代の現実に即したものとして仕上げるしかなかったのだ。
カウボーイというホモは東南アジア進出をしようとしたアメリカ帝国主義であり、黒人フェミニストは反戦運動として描かれた。
「どんなゲームをしているのか?」を戦争中に明らかにすることは昔から行われていたことだった。
黒人の力が必要だったのでミッドナイトカウボーイでは違うメッセージも出している。
ミッドナイトカウボーイ。

美女をスクリーンに映し出せというハリウッドの伝統はベトナム戦争の時に始まったものだ。
美女を愛するニューヨークでジョーはシャワーを浴びる。
お婆さんがいることや、モーテルに泊まったことなどからジョーは孤児だということが分かる。
ジョーはおそらく童貞だろうと推測された。
タイムズスクエアではビルボードが表示され、テキサスにない風景が映し出される。
東南アジア人などインディアンだったし、それを狩りに行くのがカウボーイだった。
美女が大勢いる都会ではからだを売る女たちが大勢いたので、性の経験で足並みを揃えるケインズ主義は取れない。
しかし、フォーディズム(美女がいる)ことが豊かさだった。
ヨーロッパや日本での設備投資にマーシャルプランは用いられたし、ブレトン・ウッズによってドルは「保存通貨」としての地位を固めた。
ブレトン・ウッズによって「アメリカで起きることは日本でも起きる」とされるようになり、ダウ平均が上がれば日経平均も上がった。
しかし、東京の文化にニューヨークダウ平均が影響を受けるという構図も出来上がった。
東京女の世界経済への発信力が認められたのだ。
世界経済はフロイトが大好きな日本の力を借りることになった。
ブレトン・ウッズとはそういうものだった。
東京が「文化世界主義」において重要な地位を占めたことは理解しておかなければならない。
「日本の女の子は可愛いね」とアメリカの高校の校長先生もおべんちゃらをいう有様だった。
女の「主権」というものが「アナルセックスをやる男は勘弁して」という意味であるのならば、国会が改憲勢力3分の2を占めると世界経済が上向きになることがわかる。
perfume Tokyo girl.

美女を愛すると世界レベルで蓄積が起きるということが分かったのはベトナム戦争の時である。
この時にアメリカ合衆国は「ネオリベラル国家」を標榜したし、日本も同じだった。
ゲイが経済に悪影響を与えるという学習からもたらされたものだった。
美女をクリエイトすればいいというフォーディズムは明確になったが、あとは「性の統制」が可能であるかという問題が残された。
からだを売る女と売らない女が共存しているのであれば財政出動は困難になる。
「個と公を区別しない」つまり女性の性の経験を政策から排除しないという姿勢が求められた。
男らしい男、女らしい女というものが宗教になったのは経済を強くするという理由もあった。
片思いの終わりに 亀井絵里。

2018年1月10日 (水)

学校(勉強企業)。

クラスメートを固定する。成績が伸びる人がいる。反省する人もいる。
そんな子供たちに時間と空間を与える。
固定された者たちは、成績が伸びなければ、反省を部活動などで発散させる。
毎日の新しい話題を持ってくる男の子がいる。
こんなクラスルームが「勉強企業」として受験戦争に立ち向かっていくのだ。
青いスタスィオン 河合その子。

恋愛評論家のことを物理学者と呼び、クラスには必ず必要だとされた。
これは男の子の役割であり、高校を卒業する頃には男女を問わずみんなが「恋愛評論家」になっていた。
勉強企業に恋愛はつきものだったし、最終的に東大に入るものと、そうでないものに「同じ見識」を与えるのが目的であった。
クラスの編成など適当だよ。
いじめが生じるようになっている。
いじめられた奴が「恋愛評論家」として期待されているということなんだ。
1組の男女の問題でクラスが動揺するのは必要なことだった。
そのうちみんな慣れるようになっている。
恋愛評論家が機能しないと「今更努力してもなあ」「あいつ充実してんなあ」という具合に勉強企業は崩壊に向かう。
充実している奴は教室から追放されるからだ。
みんなでどんな家を建てるつもりなのだろうか?
それは毎年のサンデー毎日で東大合格者数を見るしかない。
「悔いが残った」奴を出さないことが大事なんだ。
ああいうガリ勉がいたら恋も楽しめない、と思われないようにしないといけない。
ガリ勉こそが「哲学」に関してもガリ勉でなければならない。
7〜8組のカップルは出来るだろうが、恋愛評論家は東京に出て行くよ。
英語・数学・国語・理科・社会をマスターするというのは恋愛評論家の得意技だからね。
動かないものは動かない。動き出したものはもう止まらない。
作りたい作品は東大合格者数なんだよ。
結局、学校で学んだことが「財産」になるんだ。
動かなかったものが動いたことを学校では経験しているが、会社では「すでに動いている」だけなんだよ。
彼女も作らずに勉強した奴に大学が必要なのは理由がある。
モリエールは高学歴の人間の睡眠薬を嘲笑った。
恋愛評論家の自己実現と、活動家の自己実現のどちらがいいのかは分からない。
それが、女王陛下の「薬の説明」であった。
男女の激しい営みは夜、よく眠れるようにはしてくれた。
研究室では睡眠薬が必要だったのだ。
恋ING モーニング娘。

若いセックスは後悔するのに十分すぎる理由だ。
しかし、高学歴男は眠れないという悩みを持っているだろう。
この、眠れる低学歴と眠れない高学歴を「入れ替える」のが哲学の仕事なのだ。
低学歴のセックス自慢男は健康に異変をきたしてくるし、高学歴の男は「世界を理解できる」ことに満足して眠れるようになる。
若い頃は「無限」だったセックスも歳をとるとそうではなくなる。
セックスは勉強に逆らう行為だ。
すべての男は「動いている」が、セックスでの動きは勉強の動きを鈍くさせるのだ。
動き出したものは止まらない。
しかし、「全体を動かさないまま」大学受験に立ち向かってくる学校もあるのだ。
それは「進路」というものであり、財界が出資した高校と公立の高校の違いというものでもあり、自分なりの方法で、すべての高校が東大合格者を出すことを望んでいることを知らないといけない。

時間と空間に「女神さま」を与えたのはサムュエル・アレキサンダーだった。
19世紀後半にはオックスフォードも「若い女がいるところだろ?」と言われるようになっていたが、マンチェスター大学はもっと楽しい場所となっていた。
高校までの勉強はスターになるためにやるものだとし、大学に入ってからの学問とは明確に区別した。
高校では成績がものを言ったし、女の子が成績の良い方の男の子に乗り換えたりもしていた。
それはまるで「勉強憲法」とも言えるものであり、勉強ができるからといって口説き文句がうまいとは限らなかった。
勉強の歌 森高千里。

楽しい場所、それが学校だった。楽しいと思えるのであれば政治感覚も自ずと身についた。
読まなければ政治は分からないとも考えられたが、家庭内では決して必要とはされない「政治」も学校では必要だった。
偏差値では全国区に引き直せない学校でも、「美女」はユニバーサルなものだったし、美女とのセックスは「一神教」の世界では男子生徒が神になることだった。
時間と空間と女神さまのいる世界に「真剣勝負」を持ち込んだのはアレキサンダーだった。
「強くなければ結婚できない」
これが男であり、勉強と部活動はそのためにあった。
女の子に選択権が与えられたのが学校というものである。
ガールズアイデンティティには十分すぎるほどの「補償」がなされていた。
「男」との向き合い方を学ぶのだ。男らしいってのは素敵なことだと思ってもらいたかった。
檸檬の年頃。

アレキサンダーは、学校企業において「なぜ、今の男子の序列が存在するのか?」をよく考えてもらいたかったのだ。
哲学者は「議論」をまるで植物学者が「ルーペ」を用いるように利用する。
何があったのかは話をしてみなければ分からないからだ。
クラスの「女神」に男たちは「男」にしてもらうが、若い頃はセックスだけが「絶対」だった。
しかし、男になったのであれば「絶対」をセックスだけにとどめてはいけなかった。
男子たちに時間と空間を与えたのだ。
そこには男女の恋愛の話が豊富に存在した。
女子はクラスにいてもらうだけでよかった。勉強する必要もなかった。
やんちゃな男子が「ガンを飛ばす」のはムカつくからではなかった。
「俺の心を教えてくれ」という意味であったし、それはクラスの哲学者だと思われる男子に対して行われた。
神・男というのは勉強企業(学校)から生まれるものであったし、大会もあれば試験もあった。
しかし、よほど強烈な「女神」がいなければ世界には届かないことを知るだろう。
河合その子 緑の少女。

先生がたくさんいて自分一人にまとめ上げるという営みであるが、よりシンプルにすでに自分一人にまとめ上げた指導者の言うことを聞くという発想は当然あっていい。
スピノザは「時間と空間と800人の神」を知っている指導者の言うことを自分一人に集約させようと考えた。
パスカルなんてのはまるでコンピューターのように指導者の言うことを自分のものにしてみせた。
「大勢の人たちのエネルギーが集約されている男」と言うのは美しくもあった。
学校というものは「まだ見つかっていないリンゴ」の宝庫なんだよ。

勉強企業(学校)から、実際の企業に就職するのならば「恋愛」に詳しくなければならない。
それは人事労務においてもそうであるし、財務においても同じだ。
「すべて学校で覚えることである」と位置付けられている。
これが「いつでも戦える男」と呼ばれるものである。
しかし「恋愛を熟知している男」というのはフィクションに近い部分がある。
恋愛論というのはそもそもがフィクションに近く、セックスという絶対をいかに膨らませるのかの力量が試されるものだ。
堅物に仕事をしてもらいたいのは事実であるが、しかし、そもそもMBAなどを取得してお金を集めるのは恋愛論にいかに詳しいかが問われるのだ。
堅物は、サンタクロースや若者のファウンテンのようにセックスサークルの輪に加わらなくともいろんなことを知っている存在だ。
カエサルが暗殺されていなければ我々は何を知ることができるのか?
ロト7 CM.

サンタクロースや若者のファウンテンのような男は「女たちが語り合った理想の男」のことであった。
しかし、「ああ、夫婦ってこんなことまで・・」というような男を愛することがあるのだ。
特に「男の子」を授かった時に、女は男にどんなプレイでも許した。
西野カナ ダーリン。

男の子が成長してご近所の噂になった時に、女は自分の性生活よりも大事なものがあると分かるからだ。
女は、息子に関する占いもやるようになった。
「街のカルトおばさん」と呼ばれる人もいた。
ヘンタイではない子供たちをこよなく愛したので、塾や作業所などを運営した。
ヘンタイを出さないように「男」「女」に育て上げることにしか興味がないから、そのような「私塾」で成績を伸ばそうなどとは思わない方がいい。
普通の「男」「女」であれば十分に金になることを知っているんだろう。
優秀な男の夢を壊してまで「パート」「アルバイト」をやらせようとするのが「街のカルトおばさん」であるが、八百屋もサラリーマンも給料がほとんど変わらないことを知っているんだろう。
かつて「奪三振王」として鳴らした男がそのような「巣」にいていいのかは問題にしなければならないね。
ヘンタイ夫を知っているから、普通の「男」として適当に給料をもらって適当に生きていくことの幸せを知っているのだ。
偏差値BOY うしろゆびさされ組。

男は出世すればするほど病気になる。
カエサルは暗殺されている。
なぜ、西野カナは理想の男を歌ったのだろうか?
適当に妥協して適当に生きた方が幸せなんだということの知識は「街のカルトおばさん」の方が詳しかった。
ソクラテスは「彼女がいる凡人」にしか理解できないのだ。
女たちの「時間切れ」に直面した奪三振王とは抜き差しならぬ対立をするだろう。
「あの子を司法試験に不合格にして?」と法務省に連絡する街のカルトおばさんの存在は案外知られていない。
「何が男にとって幸せなのか?」というところで妥協できないことがあるのだ。
男はシャーロック・ホームズのようなフィクションに憧れる時期がある。
それを「フィクションだよ。偉い人も水道管工事をやって生計を立てているんだよ」と教えてあげられるかどうかが問題なのだ。
これが分かるようになれば奪三振王も自然に悲願が叶うんだから皮肉なものだよね。

2018年1月 2日 (火)

演技の研究。

アメリカの「ドラマのクラス」のテキストを買ったけど、「スポーツだけが子供の能力ではない」とされていて、「コミュニケーションスキルが身につく」「子供に自信を与える」などの効果が認められている。
大人は客を集めるプロモーション役だよ。
演技はスポーツではない。「自分は今どこに配置されているのか」をしっかり理解していることが大事で、演出家は、下手は「悲しみのゾーン」、中央は「喜びのゾーン」、上手は「混乱のゾーン」などと考えながら演出するそうだ。
演劇のトレーニングは面白いね。
フリーズタッグ」というのがあって、二人で演技をしているところへ演技の途中で「フリーズ」と声をかけて、演技や動きを停止させる。その停止した状態に次の二人が完全に入れ替わって合図とともに演技を続けるのだ。人の演技をそのまま引き継ぐトレーニング法だそうだ。
いろいろとアメリカには情報があるよ。
タクシー演技
前に運転手のいすを置いて、後ろに三つのいすを置く。これがタクシーだ。客が一人一人乗ってくる。
キャラは
「サーファー」「OL]「話し好きの年寄り」「シークレットサービス」「芸能人」「バレリーナ」「声優」「かわいい子供」「ボディビルダー」「海賊」「カウボーイ」
などが設定される。三人の「個性」と運転手は向き合いながら運転する。やがて客が降りていくのだ。
いろんなトレーニング法がある。
スライドショートレーニング
数人の演技者を用意し、旅行から帰ってきたという設定の演技者が「旅行の記念写真の解説」を思いつくままに語る。その人の語る写真映像に沿ったポーズを数人がアドリブで作る。
「19種類の感情をパントマイムで表現する」というのもある。感情は通常の役者は19種類表現できるのだ。
「エネルギッシュ」「だるい」「落ち込む」「幸せ」「興奮」「怒り」「混乱」「いらいら」「狼狽」「嫉妬」「すがすがしい」「怯える」「無関心」「孤独」「退屈」「愛情表現」「とまどう」「はにかむ」「傷心」



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