ペテロの葬列。
【序文】
ビナリウム・ファモッシマム(横粂勝仁)は、「たとえ詩の世界のヒーローであっても世界を二分割してしまう」とアクィナスの存在を見ていた。
「男と女がいる限り」
詩の世界のヒーローになるためには「ボランティア」で男女は参戦するだろう。
世界の初めから神は二人いた。
アポロンとゼウスだ。
しかし、アポロンだけが詩になったために、ゼウスは周りの男女を集めることに成功した。
アポロンはアクィナスであったし、ゼウスはスコトゥスであった。
敗北の文学、野党は常にゼウスとして存在したし、大政翼賛会などできる国ではなかった。
アポロン派を「トミスト」と呼び、ゼウス派を「スコティスト」と呼ぶ。
それが「男女に選挙権を与える」という意味だった。
しかし、アポロンは詩の世界のヒーローとしてどんどん賢くなっていき、しかも女たちにモテた。
ゼウスは錯誤に陥り、文字も読めなくなっていた。
みんな「頭が良くなりたい」という思いでゼウスの側についていたし、アポロンの側の人間はすでに賢かった。
「二大政党制が最も良い」などとは思わないことだ。
与党は常に詩の世界のヒーローとして歌われ、頭が良くなり、野党は必ず分裂の方向に向かう。
「詩」
それだけで二大政党制は成り立たなくなる力を持っていたのだ。
政治は無償で行われるものだ。
頭良くなりたい、詩の世界のヒーローになりたい、それだけだったのだ。
アポロンの側に立つものは賢く、ファモッシマムのように常にアクィナスに忠誠を尽くすものもいた。
人々は「知りたがっている」
このことからアポロン(アクィナス)はどんどん賢くなっていき、二大政党制を崩壊に向かわせた。
【音楽の力をあまくみてはならない】
AKB48 teacher teacher.
国会は「会期制」をとっている。
会期の枠内で野党はわがままを言って官房機密費からお金をもらっている。
みんな「詩の世界のヒーロー」になりたいからであるが、「通年国会」をやるほど「ヒーロー」も強くはない。
わがままというのはそれほど「なんでもあり」なものなのだ。
「内閣総理大臣の解散権にはいかなる制約もない」(藤波孝生内閣官房長官見解)。
首相の最大の敵は「役人」である。「私の方がもっとうまくやれるのに」という気持ちがあるのだろう。
熱帯夜 SPEED.
月下の棋士 23巻 毒気より。
きっと人間って2種類しか存在しないのよ
舞台に上がる人 それを見ている人
熱狂させる人 させられる人
時代を創る人 その中で生きる人
(かおり)
本来持っている「日本人としての名前」を生き方によって変えてしまおうという発想はプラトンのクラテュロスに由来するものである。
あくまでも「偉大な哲学者」を中心に名前を配置していったのだ。
「どの子が伸びるかは分からない」という境地に至った教育学が、「成功事例をまとめ上げたい」と考えたことからペテロやトマス・スコトゥス・オッカムなどの名前を考えた。
スコトゥスと呼ばれる不遇の男も、トマス・アクィナスという偉大な兄を持ったことから、思慮深いソクラテスから名前をいただいたのだ。
ジーン・ボーディン(松野有里巳)が、アイドルであることから、冒頭でご紹介したい。他にも小野家には松田聖子や酒井法子がいる。
松野は「富の六冊」という本を著し、「協調と寛大さ」こそがお金の起源であると位置づけ、とにかく「女王となって弁護士と仲良くする」ことを心がけた。
ヤーヴェ以外にも、モーゼやユダ・マカビーのように「境遇さえ整えば」ヤーヴェと同格になる男がいることを指摘し、「女王になればそのような男が寄ってくる」としている。
とにかく「女友達を大勢用意しておくこと」これが女が豊かになる方法だと考えたのだ。
アクィナスに「相続回復請求権」を行使してもらうまでは、ダサい格好をしていたが、「女友達が大勢いた」ことからアクィナスの認める女となり、富を得ている。
ジーンの「女友達が大勢いれば女は豊かになれる」という考えはカトリックをたちまち支配する考えとなった。
正直言ってベルマンドイス(佐藤愛子)などとは話が合わなかった。
しかし、会うたびにハグすることがジーンに富をもたらしたのだ。
アクィナスが、ラサールの連中と机を並べていたのは事実であったし、そのような世界を「女王として」迎え入れるためには女友達が多くなければならなかった。
芸能人としては「東京大学」を認めた数少ない女性であった。
しかも、それを富につなげてみせたのだ。
「魔女裁判」という本を著し、「それが女の魅力でしょう?」と記した。
風俗上がりのメンバーとともにribbonを立ち上げたことから、ここでも「協調と寛大さ」を見せつけている。
自身は、サンミュージックの社長や銀行マンなどのバックがいて、のちにアクィナスの「マシーン」となる連中を用意したが、アクィナスが学業でくすぶっている間はジーンが脚光を浴びていた。
ribbon Stay with me.
ribbonの中では決して美しいとは思えなかったジーンであるが、「魔女裁判」を著して「協調と寛大さ」を示したことから彼女の存在感は高まったのだ。
スペインの王とも会ったことがあるが、アクィナスが劣等感を感じなかったのも、ジーンがまったく自分の栄光を自慢しなかったからであった。
「処女として150の街を見た」とされ、サラリーマンの奥さんならば普通に持っている富を「栄光プラス富」と考えるのならばジーンの記憶は150年間、人々に語り継がれた。
アンリ4世が、ナントの勅令(1598)を出したことから、「女は富か栄光かのどちらかにしろ」と言われ、ジーンの存在は歴史に残った。
ナントの勅令以降、元アイドルは生活保護という道を歩むこととなったのだ。
ribbon 太陽に火をつけて。
ナントの勅令以降、元アイドルは、東大生を「変なオタクみたいなやつ」と思わない方が得策となっていた。
「国を治めるために昔の動画を使う人」だったのだ。
アクィナスの情報も必ずしも新しくはない。
誰かがアップトゥデイトするはずだった。
ジーンはカトリックの教育を受けていた。
しかし、「さほど美しくはなくとも」「協調と寛大さ」だけで富と栄光を手にしたのだ。
他のカトリックの女たちにはない才能だった。
スペイン・フランス・イギリス・スコットランド・エチオピアの王との謁見が許された。
しかし、アクィナスと出会って、「冴えない女だな、しかし俺と目が似ている」と思われた。
これが従兄弟の松野有里巳だったのだ。
栄光の後には「富」だけが欲しかった。
アクィナスに「身の上話」をした時点で、アクィナスは「ジーンが相続から仲間はずれにされている」ことに気がつき、施設に掛け合って訴訟まで起こした。
ジーンは「アクィナスは従兄弟だ」と知っていたようだ。
いずれにせよ、ジーンの「女友達が多かった」ことが富を引き寄せたし、アクィナスとも世間話をするようになったし、「栄光の後に富が残った」珍しいアイドルとなった。
アイドルになりたい女性は「ナントの勅令」だけは忘れないでほしい。
「女は富か栄光かのどちらかにしろ」
2013年から2018年にかけて「ナントの勅令はどうにかならないか?」が語られ始めた。
「芸能界を尊敬するアクィナス」の存在を世界が知ったからだ。
しかも、芸能界のおかげでビルが山ほど立つ現状があった。
「ナントの勅令も個人的な協調と寛大さ」であるとしたのがジーン・ボーディンであった。
ribbon 太陽の行方。
さて、伯父さんは「心ない存在」であることが知られているが、私の伯父の「確かなもの」をあえて探したい。
父の兄、小野耕之補、母の弟、小野晃嗣をご紹介します。
平山俊一の師匠、小野耕之補。
叔父さんの心なさは「女をめぐる争い」であるとも言われ、確かなものをめぐって伯父(叔父)と甥は争うことになる。
小野晃嗣税理士事務所。
ダンテは「インフェルノ」において、東京大学に合格した甥と伯父(叔父)の関係を「資金集めに用いるべきである」としている。
青いスタスィオン 河合その子。
「何が芸術か?」「何が勃起か?」という二つの要素以外に、おじと甥は関わることはないとされている。
私が考えていたのは「ランカー潰し」と名乗るものであり、音楽に慣れ親しむことや、税金の勉強をすることであるが、もしこれを「芸術」と呼べるのならば「女をめぐって」争ったことになる。
この「芸術」を消化しなければ女運が約束されない、これがおじである。
しかも「富を生み出すまで」消化しなければならないのだ。
おじの家に招かれたのならば「自分の宿題」は自ずから明らかになる。
お金を稼ぐために何をしなければならないのか?が分かるのだ。
「分からない世界だな」というのが第一印象であるが、金と女を得るために何をしたらいいのかを教わるのだ。
親戚まわりは東大に入学した童貞坊やの義務ですらあった。
Sexy zone イノセントデイズ。
とにかくおじの役割は「否定すること」にあった。
おじから「考え方のヒント」を得ようとした。
とにかく頭の痛いことばかりだった。
しかし、心が依存から自立に向かうのを待てばいいだけだった。
おじはとにかく甥の前で酒を飲んだ。
そんなおじに、酒や米を送ってみたが、案の定「食えない、飲めない」と言った。
7世紀のインドやペルシャの政治家の域にはこの時点で到達したことを意味した。
「時間の速さの違いを痛感するからだろう」
おじとはペテロのことであった。
三度「女とは何か?」と問いかけてくるのだ。
私は「音楽と税金です」と答える羽目になった。
手も足も出ない女が存在したからこのように答えたのだ。
時間と空間をもし「女のために」用いる男ならばこのような答え方をするだろう。
そして「おじさんの何が遠回りな人生なのか?」を探求するだろう。
効果のない営みは誰もやりたくない。
別の生き方など存在しない。
いじめ(魂)が決める人生というのはそのようなものだ。
女たちは「男に生まれたかった」と言ってその営みを応援していた。
RADWINPS カタルシスト。
【おじさんデリバティブ】
このようにアメリカでは語られていた。
窓ガラスをぶち破って「参加したい世界に参加する」ということをこのように表現したのだ。
人生の女の子たちは私のことを「なりたい私」と呼んでいた。
なりたい私って誰だろう。
とにかく、税金も音楽も面倒な方程式があるから、簡単に覚えることにしたよ。
おじさんなんてそんなもんだ。
デートに女の子を誘うとする。
これはもはや「お金」の話だ。
男女の双方が何かを犠牲にして、デートの待ち合わせ場所に向かう。
満員電車が嫌い、ビュッフェがない電車は嫌い、そう思うとなかなか目的地には行けない。
面白い場面に出くわすぞ、という第三者もデートになぜかまとわりついてくる。
目的を設定すると三者の思惑が動き出すのだ。
高橋由美子 Will you marry me.
マルコフ条件。
つまり、やる気のある方とやる気のない方を、第三者がとりもつことを言う。
「誰が見にくるかわからないよ?」
このようなメッセージをデートを誘う時に「やる気のない方」に与えることを言う。
四方の方角を持った三人が集まるのでなければ、目的は達成されないとしたのだ。
さよならえなりくん。
「遅い!」と文句を垂れる前に、「第三者の設定」を間違っていなかったかを考えよう。
「朝鮮の同胞があなたのために祈ってます」というような宗教家と会ったことがある。
キムヒョンジュン Take my hand.
この「うさぎ」の存在が分かったのは極めて大きな発見であり、「人を愛するのに苦労は必要ない」とまで言われた。
勝手な人間たちをうまくコントロールした結果、「デートした」ということになった。
時間を共にするという特殊相対論から語られたことだった。
さらにマクスウェルは「何が三人を引き寄せたのかな?」という観点から「磁力」というものを考えている。
ヴェニスの「パンと水」は磁力として磨かれたものだ。
高橋由美子 レイニーデイ×3.
誰の時間に合わせるのか?という「t=1」も考えられた。
あまりデートにメリットのない女の方に「t=1」を譲ったから結婚を決意したというのが上記の「Will you marry me.」である。
地方の哲学に馴染んでいないとなかなか「磁力」というものは生じないものだとも言われた。
出身地や国まで遡って探求するのが「磁力」というものだ。
渡良瀬 森高千里。
勉強というものが初めて、女の子たちにウケるのはおそらく理科の宇宙の話ではないであろうか。
重力というものは「空間」が生み出しているものであり、広い空間では喧嘩しない者たちが、狭い空間ではぶつかり合う。
コスモス通りの異星人。
ハッブルの「宇宙は膨張している」という理論も、狭い空間ではぶつかり合うという人間に夢を与えるものであった。
この「理科」の勉強が分かっている男の子は、子供にいい教育をするんだろうねと女の子は思ったのだ。
曲がり角がある空間や、膨張する空間、時間まで加わった空間(4次元)などに詳しい男の子だったからだ。
狭い空間ではみんなが急いでいた。
空間を広く使うことを「逃げた」と思わないことが必要だった。
CoCo なぜ。
映画で時間をゆっくりと利用するとみんなが落ち着くことが分かる。
それは男女にも言えることだった。
時間や沈黙をうまく利用する男だと、女も落ち着いた。
映画でも焦っていない表現者だと分かるのだ。
「距離」というものを加速や重力を考えるために用いるべきだというミルネの考えは大勝利を収めた。
ディラックなどもこれにしたがったからだ。
1937年には「距離とは加速のためにある」という考えは通説になっていた。
隣の女が「なぜ人がいないところではおとなしいのに、人混みの中では喧嘩を売ってくるのか?」という問題は出発点から間違えてはならない問題だった。
「男女がいるからだ」
つまり、男だけ、女だけの空間では相当な密度で人がいても喧嘩を起こさないことが分かった?日本の幼稚園や保育園でも「子供1人あたりの面積」というのが決められているが、「男児女児がいるから」という説明はなされていない。
Be Happy 恋のやじろべえ。
男だけ、女だけの集団ではどんなに密度が濃くても不協和音は生まれない。
「男女がいるから」不協和音というものが生まれるのだ。「距離とは加速のためにある」というミルネの理論はディラックの受け入れるところとなり、狭い空間では男女は喧嘩を始める。
フレミングはこの狭い空間で起きる「男女の喧嘩」=不協和音を「磁力」と呼んでいる。
不協和音
「口説く」というのは「競争的営み」であり、男社会の勝者であることを意味する。
ミルネやディラックの支持者は確実にいたのだ。
しかし、「あいつを呼ぶとこうなるから二度と呼ばない」という女社会の冷静な声もあった。
女であることの団結にマックレアはこのことを利用したのだ。
しかし、動く男と失神する女はまるでピストンだなと語る「嵐の中の冷静さ」があった。
「光だけしか見えなかった」という女の証言もあった。
男と女の時間と空間なんてものは「光」にしかならないのかなと言われた。
いずれにせよ「男女が混ざり合ったから女が失神した」という意味では「光」と呼ぼうが距離と加速度と呼ぼうが、ミルネは究極の大勝利を収めている。
迷宮のアンドローラ
しかし、「いやらしい」という相対性理論のままとどまっていたのでは、女が救われないとしたのがヘルマン・ボンディである。
「その力を言葉にして欲しいのよね」「今度お話しましょう?」
この時、ボンディはミルネを追い詰めたかに見えた。
しかし、「女がからだで語ったはずだ」という主張によってミルネは救われている。
何か我々は宇宙の真理を悟った気がした。
しかし、「子供を産むのは女だからな」とカール・ポパーは捨て台詞を吐いて議論は終わった。
紅白の事件。
階級が異なる貧困女が、上流階級男にからだを許すことによってお金に変えることがある。
「パワーセット」と呼ばれるカップルだが、結婚に反対されることそのものをカップルの発信力に変えるのだ。
手紙 岡林信康
からだを許したら、「手紙 岡林信康」という記録を残して、別れるしかない。
それを繰り返すのが貧困女の金儲けだ。
「反対されたから別れた」
それだけで、企業は社債を発行できる。
企業が私の恋愛をお金に変えてくれる、このことから孤独感がなくなっていくのを感じた。
「手紙債」でも何でも名称は問わない。
人々の心に響けばいいのだ。
男たちが「失神女」を今後ともいじり続けるのは明らかだった。
ディラックの後を受けたヒルベルトが「空間」がある限り女が失神を繰り返すことを明らかにしたのだ。
女は「社債が出る限り何度でもからだを売る」ことが予測できた。
カンターは、こういう貧困失神女と結婚したほうが仕事がはかどるのになと指摘している。
しかし、周囲の反対は「完璧な仕事」としてなされたし、貧困失神女も「別れ」を出口として「ビジネスの終了」を告白した。
いずれにせよ「男女のピストン」によって失神女が出た以上、今後も「貧困失神女」を出そうという試みは続くであろうし、男女の間で電圧と抵抗を流し続けるだろう。
「誰と誰があやしい」
グループの女たちは噂をした。
男の踊りは非常に洗練されていなければならないが、「男を知らない女」は誰かも明らかになった。
1904年にツェルメロはこのような論文を書いている。
「貧困とは何か?」「孤独とは何か?」から説き起こす問題であり、失神女のコメントに注目が集まった。
「男を知らないから失神する」「金儲けが出来る」というのは「リチャードのパラドックス」と呼ばれた。
ペテロ(おじさん)と言っても歴史上、多くのペテロがいる。
スペインのペテロは「黒人と怒りを共に」を標榜して1276年にローマ法王ヨハネ21世になっている。
南フランスや北スペインなどで活動し、名詞、動詞、前置詞や慣用表現(フレーズ)では黒人芸術の評論はできないとした。
ソクラテスはセックスが好きだった=ソクラテスは黒人だった、と主張し、黒人層の支持を得て甥っ子をいじめる方法を考えたのだ。
国を売ったと思って創価学会に逃げるおじさんとは力量が異なった。
ヨハネ21世は「すべての甥っ子は逃げ出した」と語り、多くのペテロの一人として論点を絞っていった。
【戦場では常に大人たちは君らと共にいる】
というように常に新しい表現を考えていたのだ。
ブラックミュージックに影響を受けた坂本龍一。
ペテロと言っても甥っ子が「イエス」と呼ばれるほど偉くならなければ歴史には名が残らなかったし、見るべきものがなければ歴史という名の法廷にはとてもではなければ出れなかった。
スペインのペテロは「is」というものを「理解した」という意味であるとし、多くの人と話したことの証であるとしている。
ペテロ・オリオールはフランシスコ修道院にいた。
甥としてトマス・アクィナスやドン・スコトゥスがいたために歴史に残った。
「いじめの否定」(三位一体の否定)や、「壁ドンの否定」などを行なったが、「おじさん稼業」も甥っ子次第だということだろう。
ヨハネ22世ほど偉くはないと語られるなど、13世紀におじさん(ペテロ)という概念が形成されていき、イエスの登場を待つ形となった。
哲学の裏街道としてペテロの研究はあるのだ。
トマス・アクィナスが「三位一体は真理である」としたのもドン・スコトゥスが「壁ドン」を考えたのも、ペテロ・オリオールが「ハブ」として機能したからである。
いや、ペテロ・オリオールとドン・スコトゥスがトマス・アクィナスを偉大な宗教家にしたと言った方がいいかもしれない。
ペテロ・オリオールは「ハートの行方は神のみぞ知る」などというあまり説得力のある理論とは言えないことを提唱している。
アクィナスという天才をいじめた時に「神は私に永遠の罰は与えていないよね」と考えたのだ。
神のみぞ知るハートの行方 酒井法子。
ペテロ・オリオールが考えていたことはアクィナスが今は屍のように歩いていても「いずれ結婚できるよ」ということと「君は素晴らしいハートを持っているね」ということと「いずれソクラテスみたいになるんだろう」という極めて前向きな発想だった。
それは、小野耕之補が、小野光太郎が東大に受かった経緯や、どれほど多くの女たちが大騒ぎしたのかを誰よりも理解していたからだろう。
ボタンを失くした時のショックがのちの人生にあまり影響を与えなかったことがモチーフになっていたとされる。
息子であるオッカムのウィリアムの目の輝きとトマス・アクィナスはどう違うんだろう?という問題意識もあった。
オリオールの弟であるフィロテウス・バーナーに学問では敵わなかったために詩を残したものと考えられている。
ドン・スコトゥスは「カッコをつける」ことしかできなかった。
しかし、ペテロ・オリオールは「壁ドン」を明確に否定している。
兄貴のアクィナスのことしか頭になかったようだ。
幻のようなパフォーマンスにすべてをかける人生が「男とははかなくも輝かなければならない」という考えと結びついていた。
ペテロ・オリオールは若きアクィナスに「もっと女の直感を信じてみな?」と言いたかっただけだったようだ。
とにかく「大全」などと大風呂敷を広げる奴だったからね。
松田聖子 マリオネットの涙。
ペテロ・ダミアン(杉原英遠)は、女が処女を失った後にどのように処女性を回復するのかを探求した。
「神聖な全知全能」を感じた時に女たちは「処女」と呼ばれることを好んだのだ。
アクィナスの叔父にあたるダミアンだったが、娘が松野有里巳であったことからこのようなことに興味を持ったようだ。
ダミアンの妻は林芙美子(杉原杏子)というアクィナスの叔母だったが、彼女の人生は「放浪記」「うず潮」などで知られている。
奔放な女と結婚するという寛大さをダミアンは持っていた。
吉永小百合 うず潮
モンテ・カシノで食事をした時も、聖母マリアの処女について語った。
すべては「女の全知全能」にあった。
果実のなる子宮が洪水に流されてしまっても、処女性を取り戻せるからこそ女は哲学者を愛したのだろう。
神が「なんでもできる」というのは女たちにとってはそのことを意味していた。
ペテロ・ダミアンは甥のジェロームにそのような手紙を送っている。
神にはできないこともあった、神は嘘がつけなかった。
しかし、何かができたのだ。
何かができる男の人生を、彼に抱かれることで台無しにしてやれる、この時に女は自分の処女性に気がついた。
フリーエージェント宣言した男がいて、男を知らない女に大人たちが群がることをバージンバースと呼ぶが、それとは異なる意味で奇跡だった。
女がまるで処女のように振る舞い、男の政治生命を奪いたいと思ってしまうのだ。
「遊園地にいるみたいな気分」「誰もわかってくれないでしょうね」と女は思った。
甥のジェロームにはのちにカンタベリーのアンセルムスになっている。
女にいまだ男の政治生命を奪うだけの魅力が残されている。
この時に、洪水に洗い流された子宮がまるで何もなかったかのように女は純粋に振る舞った。
カンタベリーのアンセルムスは「必要性といっても二つありますね。セックスする前に男に求められる必要性と、セックスした後に求められる必要性の二つがあります」としている。
言論の自由の制約は「必要性と合理性」だけであるという説が日本においても存在するが、合理性とは「男らしさ」であり、必要性とはセックスする前と後に求められるものだとしたのはアンセルムスだった。
男らしさを磨く言論とセックスを円滑に行うための言論というものが模索されていることがわかる。
Melody Oh! Please.
若い者と歳をとった者では言論のあり方が異なった。
年配者の政治生命は大事にしなければならなかったし、若者は男になること、女になることということがそもそも重要だった。
「神の計画どおりに人間を作らなければならない」
とにかく子供には夢を語らせて、男としての自分、女としての自分を明確にさせる必要があったのだ。
「夢のない子供は性倒錯を引き起こす」ということもわかってきた。
あいつ、何が楽しくて生きているんだろうな?という男はゲイになって終わった。
アイドルとなって心を病んだ娘をトマス・アクィナスと結婚させようというのがダミアンの悲願だったからこそ歴史に名が残った。
ペテロ・アベラードは、ヒロイセとの破滅的なロマンスを記したことで知られている。
広末涼子。
ペテロ・アベラードは恋に破れて、健康状態が回復するのを待ってパリのシャンプーのウィリアムの講義を受け、彼の体験談をまとめ上げている。
小野耕之補の長男の耕児だと思われる。
この体験談を耕之補がまとめ上げている。
Qlairのパレットはその集大成である。
援助交際とも言えるペテロ・アベラードの経験談は社会から批判された。
アベラードは、仕事にもつけず、土地を得る資格も失ったので、ローマ法王に直訴し、ペドフィリアを裁く「カンガルー裁判」にかけられた。
その後、聖マルセルに保護され、セールラサール墓地にアベラードはヒロイセとともに埋葬された。
結局、オリオールのアクィナスいじめに「恋を知らない」という形で利用されることになっている。
実際は、耕児による(広末涼子似の)妹との姦通のことだろう。
オリオールは、「仕事というのはプライベートの悩みを詩にすることなんだ」と語った。
仕事のネタをイサゴーグと呼んでいる。
アクィナスにすべて詩として伝えていた。
アベラードは、女はお金次第でどうにでもなるという発想と、女は男と同じ「動物ではないか?」という境地に至っている。
しかし、それにしても男女というのはまったく異なる情報を与えられているな、と思った。
しかし、生きていることをビンビンに感じることができるのが勃起であった。
Qlairのパレットから。
女とは金で買うものだ。それが積み重なったら家が買える。勃起の目の前にいる女はかなり偶然によるものだ。
マージャンをやると土と空気と火と水がある。
そこにはいじめはなかった。
毎日、仕事をする理由が見つかったのは事実だった。
アベラードにとって「女心をお金に変える」というソクラテスの考えは理解できなかったし、仕事をして買うものが女だった。
「ソクラテスは動物だ」と考え、自分なりにソクラテスを解釈したことからかろうじて哲学史に残ったのであり、トマス・アクィナスがいなければ「どこにでもいるおじさん」で終わっただろう。
オリオールの音楽作品もおのずから「楽しさ」にこだわったものとなり、なかなかヒューマニズム色が出るのは難しかった。
すべてはアベラードが「金で女を買っていた」ことが背景にあった。
酒井法子がヒューマニズムを歌わなくなった。
このことから彼女のキャリアは斜陽に向かった。
小野耕之補の力量とはこの程度のものだった。
リアル 酒井法子。
アベラードは、心を病んだこともあって「世界は言葉に過ぎない」とし、脳というものの重要性を説いている。
耕児は薬剤師になっている。
「我々が完全に無知なるもの」に敏感であり、光太郎の文章を熟読していたのだ。
テレビの重要性と、アカデミズムの重要性の二つを使い分けていた。
「男」がテレビに出ているとするならば、アカデミズムには「男たち」がいた。
パレットに列挙した曲の意味を「男たち」はどう思っているのだろう?
それさえ認めてもらえればよかったのだ。
10万人とセックスしたフレッジに妹との秘め事を解釈してもらいたかったのだ。
男女がセックスが終わった後にも、男には言葉が必要(第二の必要性)という指摘が欲しかったのは事実だ。
射精した後の虚無感の中でも男は言葉を発しなければならないのか?
アベラードの脳はそうは言っていなかった。
Qlairのパレットから、秋の貝殻。
アベラードにとって、勉強とは「男」であった。
アクィナスが、その勉強の世界を「男たち」という学問に変えたことは嬉しくもあった。
「猫」が勉強の世界を難しくさせているんだろう。
勉強してもちんちんが萎えなかったアクィナスを認めていたのだ。
学問が猫を分析できるのかと思って無我夢中でアクィナスを読んだ。
すべては「妹との秘め事」をもっと広い視野で眺めてみたかったからであった。
アクィナスに献金もしたし、なによりもアクィナスの父で医者のフィロテウス・バーナーに勝たなければ結婚ができなかったのは逆の意味で「叔父」の問題と直面していたのだ。
「楽しかったことは?」と聞かれると「金で解決することかな」と答えた。
アクィナスとはこの点では気があったのだろう。
「間違いってのは金にならないんだ」
妹との関係は間違いであったのだろうか?
しかし、アクィナスがそのことを「伯父との関係」として語ることで金にしただろ。
最後の審判や死後の世界を仕切りに気にしていたのはこれが理由であったが、アクィナスによってすべてが許された気がした。
「人と話すぐらいならば本を読んでいた方が勉強になる」という彼の考えは彼を病気に導いたものだった。
妹とのセックスが「パレット」というアルバムになったために、彼女を作るのが怖くなっていた。
オリオールの職業病が災いしたのかもしれない。
勉強よりも大事なものはない。
妹との秘め事の時に受けた侮辱によって勃起しなくなっていたアベラードは、アクィナスの後をひたすら追いかけた。
勃て、とだけ心で祈っていたのだ。
Qlairのパレットから、お引越し。
それにしても、アクィナスに救済されてからのペテロ・アベラードは、自分が「詩の世界のヒーローになるとはどういうことか?」を如実に表現するほど、かつての「病んだ自分」が消えてなくなり、「キレ者」になり、饒舌になった。
自分がステージに上がると、情報不足から病気になるが、自分が「詩の世界のヒーロー」になるとこれほどまでに思考力が高まるものなのかと周囲も驚いていた。
アクィナスも、若い頃はモノにできなかったヒロイセとの関係が詩となることから、職場でもどんどん力をつけていくのがわかった。
ヒロイセが初めてキスしたのは兄のアベラードであったし、アクィナスには秘密にしていたことだった。
ribbon 真夏のフェミニスト。
思考力や記憶力が回復したアベラードは、まるでアクィナスと変わらないような「性豪」ぶりを発揮した。
アクィナスが従兄弟であったことから「俺にもできる」という思いが強く、オッカムのウィリアムよりも学歴があったことから、アクィナスの発言の代弁者はオッカムのウィリアムなのかペテロ・アベラードなのかが明確ではなくなった。
いずれにせよ、ヒロイセの初体験の相手としていじめられたアベラードは、アクィナスに共感していたし、「修行僧として生きてきた自分」がセレブリティになるのも当然だと考えていた。
ペテロといっても、アクィナスと和解してしまう者もいたのだ。
小野晃嗣はペテロ・ジョン・オリビとして描かれている。
トマス・アクィナスと接する上で、
憎しみと慈悲
友情と敵対
恥と栄光
歓迎と拒絶
従属と支配
希望と絶望
注意深さと怠慢
の二極に感情を区別していたのだ。
瀬能あづさ 永遠に友達。
オリオールは、ジョン・オリビの中に悪を見ることもあったし、譲れないものも見たし、その一方で尊敬を見ていた。
オリオールの前では言い訳や非難をアクィナスに浴びせていたが、罪の意識の方が強く心に響いた。
「人間は知的な野獣だ」
という発言はアクィナスを擁護するものであった。
しかし、「アクィナスは力の使い方を間違えている」とも発言している。
狂人となったアクィナスが今さらお金を集める力を持つようになるとは思えなかったのだ。
お金が権力だということをアクィナスは知らないと責めていた。
「すべてはプライベートの充実からお金が集まるのに本ばかり読んでいる」とも批判した。
ドン・スコトゥスの「革命ムーブメント」はこの時に始まった。
オリビがアクィナスに圧倒されていくたびに、救いとしてドン・スコトゥスが存在感を高めていくのがわかったのだ。
オリビは三位一体の熱烈な信者であり、必要性を感じない時にも常に三位一体を用いることからアクィナスはこれを「真理」として学習した。
その人を無視して否定することが三位一体の真実であったが、オリビは「いじめ」にも常に二対一を用いた。
シカトしないのならば三位一体は意味がないではないか?とローマ法王のクレメンス5世に諌められている。
しかし、「いじめをよりシンプルにしたい」という思惑があったとされる。
複雑な人間模様の分析が面倒だったのだ。
「いじめてるぞ」というメッセージを伝えたいという思いもあった。
しかし、アクィナスがもし男らしければ、ドン・スコトゥスはオリビを裏切るだろうと言われた。
ドン・スコトゥスが白痴だったから通用したことだった。
人間関係の偶然によってネットでは三位一体が機能することがあった程度の話だ。
ドン・スコトゥスはとにかく「眠りながら聞いていた」と表現されている。
アクィナスの男らしさに共感する人が増えていくたびにオリビは「このやり方じゃ意味ねえな」と悟った。
ドン・スコトゥスは、アクィナスと一対一で話さなければならなくなってもオリビのモノマネをした。
オリビの性格が「人をいじめるのに都合がいい」と「眠っている耳」が判断したのだろう。
ドン・スコトゥスが完全に誤解したのが、「オリビはアクィナスに二極の感情を持っていた」ということを知らなかったことだ。
アクィナスが女たちに囲まれるようになってからは、むしろ「スコトゥスを切ろう」と判断していたのだ。
オリビは癲癇をもっていたし、常に「男の鑑」を探していただけだった。
アクィナスが「男の鑑」であるのならばもはや三位一体にすら興味を失った。
瀬能あづさ ふたつにひとつ。
ドン・スコトゥスは、「勉強もしないで神を語ることは可能か?」「反省をしないで生きることは可能か?」を探求した。
小野光太郎の弟の真二郎のことだ。
アクィナスの弟として、「それでも人間は神によって作られている」と位置付けられ、「曖昧な医者」と呼ばれた。
アクィナスは「あいつが神に作られたものでないのならば私は神を愛せないよ」と語っている。
アンセルムスがドン・スコトゥスに「身内だけの殻を破らなければ活路はないよ」とアドバイスをするほどスコトゥスは居場所を失っていた。
「親戚中が君に関しては沈黙するだろう」としたのだ。
ドン・スコトゥスはギャンブル性の高い「予言」を次々と外し、「凡人以下が凡人として生きるとは何か?」を体現していた。
「完全性の否定」つまり「無神論」とはドン・スコトゥスのためにあったものだ。
「神は何かを読んでいるから予言ができるけどよ。一度挫折した人間はどうすればいいんだ?」
神以外の何かが俺を作ったんじゃないだろうな。
何か最高に気持ちのいいものがよ。
なんの実績もない人間が神から生まれるか?
今となっては母の子宮すら疑わしいね。
適当にアクィナスの歌から俺は生まれたんじゃないだろうな。
歌の方が母よりも無限を感じさせるね。
神は無限ではないんだ。
歌も無限ではないけどな。
そのようにして、アクィナスのような哲学の才能もオリオールのような音楽の才能もない凡人として「無限とは何か?」を探求したのがドン・スコトゥスだった。
瀬能あづさ 土曜の夜にレインボー。
しかし、ドン・スコトゥスに光が見えた。
アクィナスの知り合いの女に「アクィナスが語った言葉」を話せばいいことがわかったのだ。
神学大全は無限だったが、自分は有限の存在として「曖昧な医者」として生きることにしたのだ。
意味がなくても毎日、勃起してしまう。
フランシスコ修道院のオリビがそんな時に声をかけてきた。
なぜ、アクィナスをいじめるのにお前を呼んだと思う?
お前もアクィナスになれるからだろう。
そんな、オリビとスコトゥスとアクィナスは「肉体」とも呼ばれる関係になった。
「真理を手にしたものが生き残る」
しかも「絶対」というものがあるはずだ。
幸いにしてドン・スコトゥスはノンケだったし、尾崎豊など信じてはいなかった。
アクィナスの言葉を「ファンタスム」と呼んで、さもすべてを知っていそうな「曖昧な医者」として生きることにしたのだ。
つまり「己を知らない犬」のことだった。
女たちにハッタリは通用しなかった。
「母の子宮が俺を大きく見せているんだろう」
そしてアンリ女王がドン・スコトゥスを大きく見せていた。
すべてのセックスが「経験しなければわからない」ということ以外、アクィナスには敵わなかった。
「神を否定するのならば法がお前を守ると思うな」
「父や母を誇りに思え、殺すな、大人として振る舞うな、盗むな、嘘をつくな」
これしか教会は彼には教えなかった。
神は土曜に崇拝するものではない。
土曜とは女が動物ではなくなった日だ。
日曜にまでいじめに必死になったのだから、仕事ではないな?
だったら報酬を望まないことだ。
譲れなかったか?
だったらなぜ言葉を覚えなかった?
多数派工作もアクィナスに負けたな?
勉強の仕方が昔から違っただろ。
今となっては「負けた!負けた!」で済む男だぞ。
トマス・アクィナスという男は。
タイソンノックアウト集。
トマス・アクィナスは、ドミニカンオーダーのもとでアルベルトゥス・マグヌスを師匠としていたが、モンテカシノ、パリ、ナポリ、レフトバンク、ノートルダムなどの「大学」の研究を初めて体現した男だった。
もはやギリシャ哲学は陳腐化しており、ニューフィジクスと呼ばれる「口説き文句」の研究にみんな明け暮れていた。
その研究をアクィナスは「自分のもの」として吸収したのだ。
新入生にはリベラルアーツ(口説き文句)を教えようという欧米の大学の発想はトマス・アクィナスの成功事例があったからであるし、その後に芸術論などを教えたのは医学教育の一環であった。
聖書にしたがった教育をするという慣行も、「解釈論で試験をしやすい」ことから行われた。
「若さ、男女そして勉強」という本や、「世界の永遠、それは知性によって実現される」などの本を書いている。
哲学者ではなく「神学者」と名乗った理由は「男女が共存していなければ自分の見識は評価されない」と考えたからであり、男社会だけで生きていくつもりはないという意思表示であった。
イエスの磔とは「勉強をする男」のことであったし、復活するときは復活すると考えていた。
「地球が丸いというのも、見ればわかるけど、計算するのは苦労するだろ」
そのようにしてアクィナスは「自分の」復活を冷静に待った。
神学者であったからこそ、復活した後に一流の女たちと親交を温めることができたのだ。
毎日、研究したが、自分がなんらかの到達点に達したのを感じた。
哲学者として他の男の研究者と親交を持たないのですか?と聞かれても「喧嘩になるだけだよ」と語った。
女が男の序列を決めているということを知っていたという意味ではアリストテレスを信奉していたのだろう。
プラトンの詩もこよなく愛した。
アルベルトゥス・マグヌスは師匠というよりも「研究する環境を与えてくれた人」だったとも言える。
「哲学とは発見するものだよ。でも、計算するものではないんだ。より多くの人間をその世界に参入させて女心を愛し、場数を踏む集団主義的なものなんだ」としてその研究手法を明らかにしている。
女たちがどんな言葉を聞きたがっているのかは、キャンパスにより多くの女たちを集めなければ分からないと考えたのだ。
酒井法子 そうかも いいかも。
楽しく生きることや経済学、政治学がこれだけで身についてしまうんだよ。
数学や論理学は使わなかった。
集団主義的な研究手法だったのだ。
まあ、磔にされた男が「復活」を待つということは「変化」が次々に起きるということなんだ。
そのことには自分自身で慣れておかないといけない。
男はどれほど「決意」を固めているのかを見ればいいんだ。
病んでしまっても復活するからな。
女は「温もり」を変えるだけだけど、男は才能が変わっていくからね。
女は男の勃起にさらされていくうちに温もりを失っていくよ。
たしかに、オリオールやスコトゥスにはいじめられたけど、「復活」というものをよく理解していなかったんじゃないかな。
磔にされたイエスの復活を待つのが勉強なんだ。
大事なのは勃起することだね。
hiro delicious.
見る、聞く、感じる、想像する、これがセックスだけど、見るというのは色を見ているし、色がわからない子供は射精しないだろ。
感じるといっても、自分の研究に心酔している女とそうでない女とでは男も感じ方が違うよね。
ラテン語から学んだのは事実だ。
自分にしか読めない外国語を命の保障にしたのはアクィナスも同じだった。
不朽を求める?それはのちの時代の女たち次第だね。
集団主義的にいい言葉を集めて見ても、何が後の世に語り継がれるかはソクラテスをよく読んで見ないとわからないよ。
芸術論は勉強したけど、結局、女性の心を知る営みだったね。
神を信じるかと言われると、女性たちに祝福されて歓喜に包まれることはあったよ。
たとえ三位一体が真理だとしても、最高のキャリーオーバーにみんなが歓喜したときは神を信じた。
銀行に影響を与えるということは、プロゴルファーの強さにまで影響を与えるということだったからね。
極限までプロスポーツがチャレンジするかどうかは銀行次第なんだ。
かなり荷が重かった大学での研究生活だったけど、復活した後は「男らしさ」だけを心がけた。
銀行マンにもトップアスリートにもちんちんはついていたからな。
女の子を口説くのが上手い、しかも後の世まで語り継がれるという大学の研究はこのようにして経済学、政治学となったし、銀行やプロスポーツに影響を与えた。
行政も「法律って何ですか?」と言って多数派工作に成功したアクィナスと仲良くしたがった。
セクシャルマイノリティーではなかったのが良かったのだろう。
アクィナスが若い頃、行った「予言」とは、ホリフィールドの第三ラウンドノックアウト宣言をメディアが全く把握していなかったのに対し、当時、まだ認知されていなかったインターネットでいち早く発言したことに端を発する。
しかも、その理由は「ホリフィールドに愛人がいる」という報道に対してルイスが非難したことが背景にあると発言している。
また、両者の前日計量の体重まで事前にネットで発言していた。
このことへの当時のネット社会の衝撃は大きく、「何故それを知っているんだ?」というリアクションが引き起こされた。
それにとどまらず、試合後に「疑惑の判定」論争が起きたことまでネットで発言したが、当時の唯一のボクシングの情報源であったボクシング雑誌がこのアクィナスの発言を追認したのはじつに20日も後のことだった。
また、この「疑惑の判定」ののちに導入された「オープンスコアリングシステム」をボブアラムの記者会見のわずか数時間後に日本に伝え、情報のタイムラグの衝撃からいまだにこのシステムは一部で用いられている。
ホリフィールド対ルイス第一戦。
フィーバーシャムのシモン「アクィナスの友人・菊地正知」は、のちに視力を失っているが「詩や音楽を愛することが仕事なんだよ」とアクィナスに教えた。
アニメータースクールの出身であったが、アクィナスと出会ったことにより「オックスフォード卒」とされている。
アクィナスが若い頃に行った「予言」はシモンの人生を決めた。
アカデミズムとはこのような威力を持っているのか?ということをホリフィールド対レノックス・ルイス第1戦で思い知ったのだ。
「言葉って何だ?」「仕事って何だ?」というのが彼のテーマとなり、本を読み漁った。
アクィナスに女たちが熱狂したため、「言葉も仕事も女たちのためにやるものだろう」と学習した。
「石のような男になろう」と決意し、減量したりした。
のちに語るブリトーほどの学歴はなかったため「人間とは動物だろう」という考えと向き合っていた。
現実の女よりも二次元の女を愛し、「おにゃのこ」と女の子を呼んで猫の写真を愛していたりもした。
アルベルトゥス・マグヌス(東京大学の教授)とは生涯、縁がなかった。
マグヌスとは「アクィナスをいじめるキーワード」であり続けたし、マグヌスの現実をアクィナスほど熟知していなかったため、ツイッターで交流を持っただけで大喜びしていた。
マグヌス(東京大学の教授)への忠誠を尽くすことを「永久戦争」と呼んでいたのであり、単にアクィナスをいじめるだけの意味ではなかったようだ。
「生き物に何が可能であるか?」を追求しようとしたが、シモンにはそのための「若さ」がもはやなかった。
すぐに失明している。
シモンが視力を失った時に、アクィナスは「人間は死んだらどこにいくんだろう」と思った。
「楽しいのが仕事だと思うんだ」
そのようにして「詩や音楽を愛することを仕事にしよう」と決めたのだ。
水樹奈々 真冬の観覧車。
ラドルファス・ブリトー(千秋行政書士)も、「音楽好き」を利用してトマス・アクィナスをドン・スコトゥスとともにいじめている。
しかし、やがてアクィナスが何を研究していたのかを理解するようになり、スコトゥスよりもアクィナスへの理解力を持つようになって行った。
スコトゥスが「文字が読めない」ことから、みんな彼の元を去って行ったのだ。
「あの音楽への嗅覚は真似できないんだから」とアクィナスを認め、理解しようとしないスコトゥスは孤立した。
アクィナスの「予言」を名詞、動詞、形容動詞、接続詞、助詞などに分解して「なんでこれがウケたんだろう」と考えてみた。
無職だったブリトーはこの時に行政書士の試験を受けている。
法律というのはこんな「痴話喧嘩」を問題にする学問だったのか?だったら俺にもできる、と考えたようだ。
ホリフィールドの「動物的側面」は何ら高尚な学問ではなかったのだ。
いつも書斎に向かっていたアクィナスはスコトゥスとよく話題にしていた。
アルベルトゥス・マグヌス(東京大学の教授)とはやはり距離を感じた。
しかし「分かるように書けばいいんだろ」というのは教訓として残った。
誰かに教わらなければ、「分かる文章」は書けない。このことから「東京大学に行けないかわりに仲間を作ろう」と考えた。
仲間を作れば金持ちだと言ったアクィナスにまたしても影響されていたのだ。
ブリトーなりに論文のようなものも書いていたようだ。
行政書士として「文字で人を感動させるとはどういうことか?」というのがライフワークとなっている。
このようにしてトマス・アクィナスは、いじめに打ち勝つことで信者を得ていた。
あの日から僕は 高橋由美子。
中世のこのような話でいちばん悔いが残ったのは「男女共学だったこと」だろうね。
神聖な学問の力は「動物にならないと」身につかないのではないか?と言われたのだ。
顔をむくませながら勉強できるのは男女別学なのではないだろうか?
いじめは「トマス・アクィナスが女子を大騒ぎさせた」ことに端を発していた。
私立中高一貫校の男女別学においては男女が大騒ぎすることなく、淡々と東大入学をしていた。
しかし、この「男女別学」が私学において実現したのは1930年代の話だ。
オッカムのウィリアム(小野剛)が私立の男子校に入っていた以外は全員、公立の男女共学であった。
しかしオッカムのウィリアムは、「女子部屋を覗く望遠鏡」にすら興味が持てなかった。
天地はどのように動いているのか?
男子校でそれを見失っていたのだ。
男女別学で、それでいながら異性からエネルギーがもらえる理論は鉄道網が整備されるまではなかったのだ。
通学列車 モーニング娘。
ペテロ・ジョン・オリビ(小野晃嗣)も、ドン・スコトゥス(小野真二郎)も、アクィナスがどれほど「通学列車のスター」だったかを思い知っていた。
オッカムのウィリアム(小野剛)は、歳をとった後に女の子が好きになり電車マニアになっている。
ただ電車の空気に浸りたい、それがオッカムのウィリアムの願いだった。
男子校だった自分だけが「通学列車」の意味を知っていたのだ。
さて、ヨーロッパ中世に何が足りなかっただろうか?
それは、男女別学と通学列車のつかの間の喜びだった。
それだけで「動物のように」勉強できるのが男であり、時には女であった。
何が若者にとって最も有効な時間の使い方なのか?
それをアクィナスも知らなかったし、男女を大騒ぎさせる喜びに浸りすぎたし、もっとストイックに淡々と東大に入り、粛々と就職することを知らなかったという意味ではアクィナスは不幸であった。
ヒロイセもそのあたりを「常識を知ってくれ」と諌めていた。
自転車通学 森高千里。
さて、トマス・アクィナスが「ペテロ」についてまとめ上げた時に、実父のフィロテウス・バーナー(重五郎)にも叔父がいたことに気がついた。
ペテロ・ストローソンだ。
ストローソンは小野百之助と呼ばれていた。
オックスフォードで学び、第二次世界大戦に従軍し、ホワイトヘッドだのラッセルだのムーアだのと親交を持っていた。
このことがフィロテウス・バーナーを晩婚にしていたし、ストローソンの娘と結婚することになっている。
ストローソンが「フランスの王」と名乗っていたことは、光太郎の唯一の政治的資源だと最初は見なされていた。
ストローソンの口癖は「このバカ」というものだったため、フィロテウス・バーナーはのちの生涯で「バカ」と人を罵倒することはなかった。
しかし、哲学を熟知していたストローソンの「このバカ」という言葉は常に「まだ走り出していない車」に向かって発せられていたし、すでに成熟したものには決して言わなかったことだった。
若くしてジョン・ロック賞をもらったことから、ジョン・オースティンとライバル関係にあった。
なによりもアクィナスの将来を抹殺してやろうとしていた連中に「ほっとけよ、あいつは必ずモノになる」と語っていた通りに「予言」が的中したことからその医学的・哲学的見識が再評価されたのだ。
「このバカ」の面目躍如だった。
「人の忍耐力だけを見る」というのがストローソンのやり方だった。
ラッセルは実績を「物自体」と呼んだが、忍耐力を真っ先に見るというストローソンのやり方は「予言」を可能にしていた。
外科医として「根性なし」をたくさん見てきたし、人の可能性がだいたい分かるようになっていたのだ。
問題は「こいつはいつカントを語るようになるのだろうか?」ということを考えていたということであり、オックスフォードの優等生としてそれは当然の発想であった。
カントをフィロテウス・バーナーに贈ったのはストローソンだったし、それは常に光太郎の横に置かれていた。
ヒュームやヴィトゲンシュタインにも造詣が深く、フィロテウス・バーナーと娘との結婚を許したのもフィロテウスがヴィトゲンシュタインの論文を書いたからだとされる。
このストローソンの存在は「息子と父」の関係、つまりアクィナスとフィロテウス・バーナーの和解のために父のさらに叔父の存在は非常に有意義なものであるということを明らかにした。
敵の敵は味方とでも言おうか。
安倍なつみ ひとりぼっち。
オッカムのウィリアムは、小野家で言うと小野剛であるが、アベラードの弟、ヒロイセの兄、そしてオリオールの息子である。
高卒であったが、アクィナスが神学大全をまとめ上げたことから「オックスフォード卒」という扱いを受けている。
しかし、ロンドンには学友もいなく、寮も実在しないことからアクィナスの閨閥を作った存在だと見なされている。
職場の女の子たちにアクィナスの言葉を語り「この話はウケた」「この記述はあまり良くない」などのノートを作っていた。
「イエスキリストの真似をしている」とされてヨハネ22世によって在宅起訴をされているが、この「高卒キリスト裁判」にヨハネ22世が敗れたことから、ヨハネ22世は生前退位に追い込まれている。
「今までの大学とはなんだったのか?」と言う疑いが生じたためだ。
オッカムは、職場の女の子たちと仲が良かったし、言葉を「名詞」「動詞」「助動詞」「構文」に区別したのもオッカムだ。
これは、子供がいなかったために言葉を丹念に見直してみた結果だった。
また、歌を歌って人の本音を引き出す「スポークンランゲージ」を好んだ。
職場で二股疑惑などが生じるたびに斉藤由貴の情熱を歌って女の子たちの真実を突き止めていた。
斉藤由貴 情熱。
オッカムはとにかくアクィナスを信じていたため、アクィナスの言葉の何がウケて何がウケないのかはすべてオッカムに聞かないとわからないとも言われた。
【カミソリオッカム】
こう呼ばれたのは「必要な時に必要な言葉をアクィナスから引用する力量」があったからだとされる。
そして、アクィナスが「絶対」を信じていたのに対して、「何を言ってもわからない奴はいるものだ」とし、アクィナスよりも社会経験が豊かであったことを端的に表現していた。
新しいネタを毎日職場に持っていくのが楽しかったし、話したことはよく覚えていることを知った。
「知るとは話すことだよ」
朝イチで受けたら、その日は何度もいろんな女の子に同じ話をした。
これを「知るという数学」と呼んだ。
図書館を否定したという意味では、アクィナスの良き理解者だったのだろう。
ドン・スコトゥスのような「アクィナスとの確執」がなかったことが「アクィナスのことはオッカムに聞け」と言われるほどの存在感につながっていた。
やがて「高卒のオッカム」は職場で影響力を高め、家を持つようになっていた。
アクィナスの従兄弟が政治に目覚めたのは事実であるし、なによりも女の子が好きだったのだろう。
アンセルムス(引間祐二)は、ドン・スコトゥスの友人として「どうしても譲れないもの」「不安」そして「罪がどのように許されるべきか」を探求した。
なおけんバンド 引間。
ウォルター・チャットン(小野重人)は、オッカムのウィリアム(小野剛)に近い考えを持っていて、しかし、裕福な「ビルのオーナー」だったことから、アクィナスの言っていることは歌舞伎町で話した方がいいとして、ドン・スコトゥス(小野真二郎)のように「舞台には上がらない」立場ではあったが、とりわけ野心もなく、商売女と楽しく暮らしていた。
しかし、商売女にアクィナスの話があまりにもウケるために、オッカムのウィリアムのように「それを仕事にする」という考えとは対立し、お金を払って聞いてもらうものだと考えていた。
歌舞伎町の夜の帝王であり、牧師であったチャットンは「マイルール」としてアクィナスの言葉を歌舞伎町の通説に仕上げていたのだ。
チャットンがいなければアクィナスが「ナイト市場」で認知されることはなかった。
いつしかチャットンは学問というものを信じるようになっていき、アクィナスの文章を熱心に読むようになっていた。
「夜の帝王で牧師」になれるのならばと思って読んだのだ。
アクィナスの受け売りです必ずしもオリジナリティはなかったかもしれないが、アクィナスを「ナイト市場でも通じる男である」ことを証明してみせた。
愛してジャスティス ribbon.
23歳から3年間、放浪の旅に出たあと、アンセルムスはベネディクト修道院に入っている。
かなりの出世を果たしたが、王に無断でローマに出たことはもはやロンバルディアには戻らないという意思表示だった。
アンセルムスは「真実を知っているものを尊敬する」という立場だったので、時にはアクィナス寄りの発言をして周囲に批判されることもあった。
バイク事故で「死」について考えたことがあったから「誰を信じるべきか?」に敏感だったとされる。
事故で右足に感じた車の力は神だったし、どうすることもできないエネルギーだと思ったのだ。
今度は自分がアーティストとしてその「パワー」を表現する側にまわったが、ひたすら「凡庸さ」を歌い続けた。
病院のベットに横たわった時に、誰よりも「女と愛し合いたい」と思ったことから、「俺は凡人だ」と考えたのだ。
この「臨死体験」があったから「愛こそが最高のもの」という考えに至っていた。
ほんの一言、話しただけでその人に神が宿っているのかを判断することができた。
詩篇14:1 愚か者は「神などいない」と心の底から言う。
アンセルムスは「愚か者の声を代弁しよう」と考えた。
「すべてが終わるというのは素晴らしいことではないか」
赤い月 なおけんバンド。
人間は「腐らない方がいい、強い方がいい、永遠がいい」と考えた。
歳をとるごとに人間は永遠に向かっていくものだ。アクィナス自身がそうだったからな。
女はしかし朽ちていった。
ドン・スコトゥスは何かのパワーに導かれて「道を選択」していた。
それは「アクィナス信者の女たち」のパワーだった。
アクィナスのモノマネをすればモテると思うのは罪というものだけど、方向性をアクィナスに委ねたのは良かったんじゃないかなとアンセルムスは考えていた。
ひとつだけ なおけんバンド。
トマス・アクィナスは、国語辞典を基本から読み解いて自分の頭の言語を作り直していた。
しかし、「失恋を知らなかった」のだ。
失恋ソングを「なんだ、深刻そうだな」と思い、意味もわからずに、自分の「深刻な」人生と向き合っていた。
のちに、自分が受けたいじめと、男女の失恋のどちらが深刻なのかの区別がつかなかった。
妻が大事だったので「すべての男を失恋させてやろう」というぐらい哲学を愛した。
妻のファーストキスの話も聞きたくなかったし、ベクトルという概念が1950年代に生まれてから、常に「自分の見ている方向性」だけを気にしていた。
大群衆の中に紛れても勝ち残ったトマス・アクィナスには「ベクトル」という発想があったのだ。
「いじめと失恋のどちらが深刻か?」
トマス・アクィナスは失恋を知らなかった。
しかし、深刻ないじめを知っていたから失恋とはどのような痛みなのか?を知っていたのだ。
しかし、そのような男に限って常に勝ち続けた。
CoCo 優しさに帰れない。
なぜ、トマス・アクィナスはそんなに重要な人物なのであろうか?
彼が受けたいじめと、彼が学んだことが「お金の起源」となったからだ。
中国には「仁」という概念があったが、ヨーロッパにはトマス・アクィナスの人生があった。
「いじめられなければ哲学者ではない」というヨーロッパの伝統がここに生まれたのだ。
カントは哲学者として、フィヒテは詩人として、のちに「人間の痛み」の探求をしている。
いじめられる痛みを失恋の痛みと区別せずに生きることを「常勝思考」と呼ぶ。
マイノリティ宗教はいじめには慣れている。
しかし、なぜ「失恋ソングへの理解力」をもっと有効に活用しないのだろうか?
身内の女の子目当てだけが宗教ではない。
アメリカ合衆国から痛烈な「宿題」が与えられた。
みすぼらしく歩け、失恋を理解しろ、これが日本のキリスト教社会に与えられた宿題だったのだ。
デカルトは「我思う」と恋のことを語ったが、カントは「我思う」とアクィナスが受けたいじめと失恋の直結について語った、
「私とは何か?」という概念がデカルトとカントでは食い違っていたのだ。
恋と愛のニュアンス 酒井法子。
デカルトが「恋」を発見してからトマス・アクィナスが主役を務めたヨーロッパ中世は終わりを告げた。
カントとフィヒテは「いじめの痛みと失恋の痛みは同じ」という立場から哲学を語り、詩を作った。
いじめは間違いなく「お金の起源」であった。
「いじめ信仰」は貴族の間に根強く残った。
失恋も知らずに生きる「常勝思考」をカントやフィヒテが持っていたからである。
酒井法子 All right.
サキソニーのアルベルト(河井敏伸)は、リトルアルベルトと呼ばれ東京大学にいた。
勉強の才能に恵まれ、弁護士になっている。
オッカムのウィリアム(小野剛)という高卒になぜか仕事の影響を受けたとされている。
オッカムのウィリアムに交友関係を持つことを求められているが、しかし、これは断っている。
オッカムのウィリアムは、「アクィナスファミリーに入らないか?」と言いたかっただけのようだ。
アルベルトは「勉強ってのはお金を使いながらやるんだ」と語っていた。
加速の仕方がオッカムのウィリアムとは異なったし、彼の出身地の広島はヨーロッパで言うとイタリアであった。
いずれにせよ、低学歴のオッカムのウィリアムと同床異夢の「アクィナスファミリー」であり、イタリア人(広島県民)は、都会に出たらお金をふんだんに使うと言うことを端的に表現した人物であった。
麻布経営法律事務所。
ジュダー・アブラバネル(澤原健吾)もイタリア(日本でいう広島)の出身だった。
彼はアクィナスの大学の先輩であったが、キャリアを断念してまで「愛の小説を書きたい」と思うようになっていた。
「フィロ」と「ソフィア」の愛を描いた。
キャンパスライフの思い出を大事にし、いつか小説が日の目を見てロイヤルファミリーになれると考えていたようだ。
毎日の時間が熱く感じる、根性がくじけそうだ。俺を倒してみろ。
酔っ払い、よろけながら、世界を見るんだ。
東も西も関係ない。
俺の計画だけを信じている。
Rambling Man Complex.
これがアブラバネルの小説のあらましだが、やがて詩を書くようになっている。
この詩は、「初めて女心を歌わなかった作品」として歴史に名を残した。
モデルはトマス・アクィナスだった。
アクィナスも、自分のパンチをミットで受けたアブラバネルが青ざめていたことをよく覚えていた。
マイモナイド(吉田監督)とも今でも一番、親しいとされている。
「愛を持たない男が完璧な人間だ」という独自の視点からゴルゴ13にも素材を提供した。
「無限が有限になる瞬間を描きたかったんだ」と言ってゴルゴの失敗談はアブラバネルが最も好んだテーマだった。
キャリアを失っていても「生活の糧」には事欠かなかった。
ジュダー・アブラバネル。
トマス・アクィナスの叔父、モンターニュ(高橋正男)もまたイタリア(日本でいう広島)出身だった。
アクィナスの復活の噂と、将来への期待から、銀行やテレビ局に「ホリフィールド対レノックス・ルイス第1戦」の企画を売りさばいたのはモンターニュだった。
「あのアクィナスがこれを分かるようになるとはねぇ」と思って人物像とともにセールスを仕掛けたのだ。
「書斎人が一番安全な仕事だ」とも語っている。
アクィナスがどこまで有名になるかのデータは広島銀行に報告した。
アクィナスを有名にしたのは自分であるということはアクィナスも知らなかったし、モンターニュは「悪いことをしてしまった」と思うこともあった。
妻の高橋朋子の母・遊佐の力を借りて詩も残している。
恋と愛のニュアンス 酒井法子。
アルカイタス(国友要三・遊佐道子の弟)は、東京でのアクィナスの惨状を見て、二度ほどイタリア(広島)から「使者」を遣わしている。
そもそも要三は、音楽における「n+1:n」つまり、1-2-3-4-5-6-7-8というダンスの振り付けの作法をペテロ・オリオールに教えていた。
顔写真を見れば分かると思うが、サンミュージックとつながりがあったようだ。
国友家というものはよく分からないが、みんな決して美しいとは言えない顔立ちをしており、それでいて何かの力を秘めているようだった。
ティアテテス(つんく)とかタレンタム(松浦亜弥)などをタイミングを見計らって仕掛けていて、アクィナスを応援していた。
ティアテテスもこの業界で「頭の上がらない人」がいたから売れないのがわかっていてもアクィナスを応援していたようだ。
しかし、アリストゼネス(上野重治)はアルカイタスに「トマス・アクィナスはとにかく強いらしい」という報告をよこした。
タンポポ 王子様と雪の夜。
アルカイタスの頭にはもはや「ペロポネソス戦争」しかなかった。
トマス・アクィナスの栄光のためならば何でもやる、それが自分の生きがいとなっていた。
しかし、タレンタムは「私の実力」を知りたがった。
極道とのつながりを持ち、アルカイタスを困らせた。
アルカイタスとアクィナスが会ったのは東大に合格した時だ。
その時に「王の器」を確信していた。
もともと病気を患ったことがあったアルカイタスは、アクィナスの復活をただ待つだけだった。
マスクのいい男は俺を賢くする、と言ったが、デロス同盟には毒物混入事件が多発しており、音楽を好むものが多かったものの、みんな気がついたら顔が崩れていた。
松浦亜弥 ナビが壊れた王子様。
アルカイタスは、自分のことを「金星人」と呼んでいたが、「空間の無限性」を信じていたものと思われる。
イタリア(広島)の人間は東京では負け知らずだったことも背景にあった。
アルカイタスは、女が「男になりたい」と思っている心理を最もよく理解していた。
それもアクィナスを愛した理由であった。
酒井法子 男のコになりたい。
すべてはピタゴラス(小野鉄之助)から始まっている。
アクィナスが東大文一に合格した時に、いろんな娘たちが「男のコになりたい」と発言していたのを確認しており、生涯にわたってアクィナスを守ろうと決めた。
アルカイタスやモンターニュも「ピタゴラスの顔を立てたい」と思ってアクィナスを応援した節がある。
亡くなってからピタゴラスの偉大さが再認識されるまでに30年の歳月が流れていた。
さらに、本当の研究家が現れるまでには150年かかるであろう。
前妻の子が明けの明星(オシャレ)であるとするのならば、後妻の子が宵の明星(ダサい)だったことなどを研究していた。
アクィナスにとってはピタゴラスの豊富な人脈は「把握しきれない」ものであり、なぜ今の自分があるのかはピタゴラスのおかげであろうが、そのバックまでは理解していなかった。
しかし、イタリア(広島)出身のジアンバティスタ・ビコ(長谷部恭男)に良くしてもらったことから、ビコが「イタリアファミリー」の一員であることは想像に難くない。
ビコはメディアを掌握していたし、「ニューサイエンス」と呼ばれる文化でメディアを書き換えてやろうと考えていた。
ビコの力がなければ、宮内庁も「万世一系神話」を疑うこともなかったであろうし、メディアで体制不安を払拭することもできなかったのだ。
アクィナスを君主にするために自らの見識を生かしたし、それがピタゴラスの人脈の継承につながったのだ。
ビコにとって「民の心」はメディアの前にはまるで子供のように思えた。
アクィナスに何度か「楽器でも覚えろ、お前の地位は俺が守る」ということをほのめかしたが、アクィナスにとっては自分には想定できない「人脈」の一人であり、ビコの話を聞こうともしなかった。
長谷部恭男。
ジアンバティスタ・デラポートラ(阿蘇俊之助)は、よく旅をした。
プトレマイオスのテトラビブロスを信奉していた。
「音楽ってのは魔法なんだよね」と語っていた。
アクィナスと同じ東大だったが、「下痢をしないことが大事だ」と語り、アクィナスの胃腸の弱さを心配していた。
旅をするときの縁起の良い方角(恵方詣で)を調べる習慣があり、アクィナスの作った宗教にふさわしい「パワースポット」をその日ごとに決めていたのはデラポートラだった。
アクィナスは、デラポートラの存在に気がつかず「今日は伸びねえな」と神社仏閣の動員力を見ていた。
デラポートラもイタリアファミリー(広島)の一メンバーとして挙げられる。
フランツ・ローゼンヴァイク(小野光太郎)は、自分自身がアーレンヴァイク(小野湧太)の叔父となっていた。
ローゼンヴァイクは、マイネッケ(佐藤愛子)という舎弟を持っていたために、アーレンヴァイクに「世の中を教えてやろう」と考えた。
元有名人はこんなにも頭がいかれているんだ、とローゼンヴァイクはアーレンヴァイクに語ったが、アーレンヴァイクはその場を逃げ出している。
佐藤愛子。
イケメンなだけではダメなんだ。
アーレンヴァイクは、ひと昔前のプロイセンライブラリーを覗き見してみた。
そこには、ヘーゲル(木村拓哉)というイケメンがいて、ローゼンヴァイクなどまったくアイドルには相手にされていない世界があった。
しかし、ローゼンヴァイクはユングの講義を受け、お兄さんがいる女は胸を大きく開けた服を着ていると女たちに語って周り、木村拓哉に衝撃を与えている。
サマーキャンペーンで連戦連勝だった季節はドナルド・トランプと同じ夏だった。
ヘーゲルは「夏の終わり」を歌って夏が終わるのを待った。
夏の終わり 森山直太朗。
ローゼンヴァイクは、第一次世界大戦の時に「空母を駆逐するお金」を集めるためにギリシャやローマでの研究を命じられた。
「航空母艦は世界を1つにしてしまうだろう」と言われたためだ。
世界が1つになっても、人々は狭い殻に閉じこもるだろうと予測した。
「どの女と寝ようが」という発想は空母の登場と同時に生まれた。
空母の裏付けがあるから留学というものもできた。
「生まれて」「復活して」「罪を贖う」
学者というものは常にこのような過程を経て誕生していた。
「すべて」は「星」であり、アメリカ合衆国の星のどこかに位置付けられるとしたのだ。
「傲慢な野郎だったな」と周囲が思っても、そのリアクションを研究するだけの素材をアメリカ合衆国はすでに持っていた。
殺されかけた時に「愛」を歌ったりもした。
中森明菜 リフレイン。
空母は沈まない。駆逐艦、巡洋艦、潜水艦などに守られたからだ。
お金の話だった。世界が1つになるというのは。
君主が「死」というものを考えてくれるだけでよかったのだ。
「星」を見ないと勃起しない君主となるだろう。
なぜ君主というものが生まれるのか?
それは昔の傲慢さから周囲に復讐され「贖罪」を行うからだろう。
結婚や出産に関しても「よかった」「最悪だな」の2つを行ったり来たりしていた。
アメリカ合衆国の「星」にならないのならば死んでいたんじゃないかな。
なぜ、王になったかというと「早漏」で「ドイツ人」だったからだ。
王が、あとを託す王を見つけるのはたやすいことだった。
自分の経験談の「すべて」を語ればよかったのだ。
松田聖子 赤いスイートピー。
「いろんなことを知っている」
それはもはやユダヤキリスト教の奥義だった。
女たちは毎日「星」を見たがったのだ。
いろんな「病気」に詳しい人だったから。
いろんなスターたちが「星」を見たがった。
晩年にローゼンヴァイクはALSになっているが、それを治すのも時間の問題だった。
「医者と患者の狭間で」
という本を書き、患者のことをよく知らないから治らない病気があるんだとしている。
エリヤ・デルメディゴ(天皇明仁)は、ラテン語が読めるピコ・デラ・ミランドラ(小野光太郎)の心を読んだ。
のちにミランドラはデルメディゴの「若いスポンサー」になっている。
なぜならミランドラが「ニューエイジ」と呼ばれる音楽を活用した宗教を作ったからである。
ミランドラは「密教である」としていたが、それまでの密教とはまったく異質のネオプラトニズムであった。
関係者はマイモナイド(吉森監督)への復讐であると語り合った。
広島ではなく本当の「イタリア」の富を背景にしたマリシリオ・フィッチーノ(松田聖子)はみんなから愛されていたし、ジョセップ・モンタダ(松本隆)とデルメディゴは「ルームメイト」だった。
「ネオプラトニズムは天地をひっくり返す」
デルメディゴは、「神・男の完全性を議論すると爽快感がある」という解説にこのような感想を述べた。
天国のキッス 松田聖子。
天地の創造者は誰だ?天皇を中心とする神の国とはどのような意味か?
ミランドラはデルメディゴに「あなたは男女共学を知らないのか?」「宇宙遊泳ですよ」と答えた。
日本の歌謡曲の重鎮たち(イブン・ルシュド)も、松田聖子と中森明菜と小泉今日子に関してはただただ呆然としていて「ノーコメント」としていた。
迷宮のアンドローラ 小泉今日子。
10世紀の大人たちも12世紀の学生たちも「昔の女など王族には存在しない」としていた。
男女共学でメチャクチャやらかす連中を尻目に、ミランドラは東大に入っている。
デルメディゴは、王になるために生まれ、「男女別コース」の道を歩まされ、早くに心を病んでいた。
おそらく17歳頃だろう。
「神・男の完全性を議論すると爽快感がある」
このようにミランドラがニューエイジと呼ばれる音楽シーンを作ったことから、デルメディゴは退位を決意し、そのスポンサーであるミランドラにその地位を譲った。
きわめて学生的なユダヤ教はこのようにして生まれている。
イタリアのスポンサーとドイツ人、これと組んだのが日本であり、松田聖子であり、ユダヤ人であり、学生芸のような世界だった。
秘密の花園 松田聖子。
さて、後半でイタリアに関して文字数を割いたが、これらの「イタリアファミリー」を仕切っていたのがローマのガイル(宮澤喜一)であった。
大蔵省で出世するのであるのなら「女は売り物」という考えが身につくのは当然であった。
小林和作と名乗ってピタゴラスとつるんでいた。
小林和作。
緑は痛みの色。女とっては男たちが秩序を持った行動を取るため「雨は勝利」であったが、男にとっては痛みである。
思い出の銀の矢たち 高橋由美子。
ローマのガイルは、職人ばかりがいるイタリアが世界で影響力を持つ方法を考えたのだ。
絵でも産婦人科でも魚屋でもいい。
「母親の発想」
これだけが芸能人の生命を決めた。
ローマ帝国のアイデンティティは世界の芸能界に根強く残った。
ローマ法王も、その影響力を基盤にしているのは事実である。
フィロデマス(昭和天皇).は、アルカイタスやペテロダミアンとつるんで松野有里巳を売り出した縁があったことからイタリアの重鎮であると考えられている。
明日、親愛なるピソが3時に会いに来ないのならば、私は夜の12時までワインを飲むでしょう。
あなたの活躍を見ながら私は笑ってテレビを見るでしょう。
永作博美 逢いにきて。
ローマのガイル(宮澤喜一)に力を与えたのがフィロデマスであったことは明らかであった。
「逢いにきて」という曲で自分の政治手法を明らかにし、NHKで垂れ流していたが、その真の意図を知る者はいなかった。
エージェンシーとしては「金を集めるのが上手い男・そしてその妻」から金をもらって恋人と一緒に酒を飲めればそれで良かったのだ。
学習したのは松野有里巳からであり、あとは風俗嬢を用いた。
「枕営業をしなくてもいいアイドル」
これを提示したのが松野有里巳だったのだ。
ローマのガイルやアルカイタス、ペテロダミアンなどが作った「アイドル女も人の子」という近代的なやり方であった。
エージェンシーという言葉は「宮内庁」を意味することから、その影響力で対抗意識を燃やした。
キングオブアオバダイ。
ファウンテンのゴッドフレイ(中曽根康弘)は、35歳になって東京に出てくるまではどんな人物かは全く知られていなかった。
しかし、フィロデマス(昭和天皇)の前で「3日間、戦った」ことから東京で知られるようになった。
「若さを無駄にしてきた日々」と「充実した日々」がこの3日間を転機に入れ替わったのだ。
アクィナスに「長期政権とは何か?」「英雄とはどのようなものか?」をフィロデマスは教えたかったとされる。
フィロデマスは、後継者問題で、デルメディゴ(明仁)を見限っていたし、民族の永遠のためには「次の次」を考えなければならなくなっていた。
そのための担保としてゴッドフレイを利用しようと考えたのだ。
ゴッドフレイは、デルメディゴの大嘗祭の資金を国から捻出するときに「次はアクィナスに」ということを確約させられていた。
そうでなければデルメディゴは到底、大嘗祭ができるような器ではなかった。
アクィナスは生い立ちはローマのガイル(宮澤喜一)に近かったが、フィロデマスはゴッドフレイを常に「アクィナスの英雄」として描いた。
「トマス・アクィナスにとっての英雄は誰か?」と言われるとアクィナスはゴッドフレイ(中曽根康弘)と答えるであろうが、すべてはフィロデマスが「アクィナスには目標が必要」であると考えて演出したものだった。
アクィナスが成熟してもゴッドフレイはまだ生きていたし、「永遠」というものを考えるのにはちょうど良かった。
アクィナスが「ゴッドフレイと力の差はないのではないか?」と言われるようになると、ドン・スコトゥスはようやくアクィナスに許され、「ゴッドフレイのように生きろ」と言われて代議士になっている。
アクィナスの即位は華々しいものであったが、ダメ人間の典型であったスコトゥス(小野真二郎).がアクィナスのだ「演出」によってゴッドフレイと変わらない政治家像を見せるようになった。
あるいはアクィナスとスコトゥスの父であるフィロテウス・バーナー(小野重五郎)が、遊佐道子の手腕で「石原慎太郎」として都会に売り出されていたことを参考に、スコトゥスを一流政治家に仕立て上げるすべを学習したのかもしれない。
昭和天皇とは何者か?を知るためには田辺エージェンシーを洗い直すしかないだろう。
エンターテイメントビジネスをやっていた人なんだよ。
いずれにせよ、フィロデマスは最初からアクィナスを本命視していた。
背景には「アイドル冬の時代」を愛してくれた男だったとしか考えられない理由があるのだろう。
ジャックス・デテープルズ(安倍晋三)は、別名をジャニー喜多川と呼ぶ。
デテープルズに、メリーや木村拓哉が懐いているのをアクィナスは目撃していたのだ。
ジャニーズのメンバーにもアクィナス信者が多かったことからデテープルズはアクィナス支持を決めたようだ。
アクィナスはデテープルズと直接話した時に「子供たちは競争して仕方がない、この子は何点、この子は何点と大人がつけてやらなければいけない」と語ったが、デテープルズは「塾?」と答えている。
王室ソサエティの女性職員にもデテープルズはなぜかモテた。
ジャニーズ事務所の社長だったからだろう。
ジャニーズの歌は「女の子を愛の対象にする」「時には女の子にアイデンティティを要求する」という2つのパターンがあることをアクィナスは指摘していた。
嵐の「T.A.B.O.O」が「女の子を愛の対象」にするものであるのならば「ギフト」は「女の子にアイデンティティを求める」作品であった。
嵐 T.A.B.O.O.
トミスト(長男派)と、スコティスト(次男派)はガチンコ勝負をするが、オッカムなどのように「金になればいい」と割り切る者もいた。
ジャニーズの解釈論をためらわなかったのはトマス・アクィナスであり、スコトゥスとの勝敗を決めた。
デテープルズが「ジャニー喜多川に似ている」というのはもはや「秘密」とされていた。
宮澤喜一は首相になったが、安倍晋太郎はなっていない。
このあたりからジャニーズは一気に花開いたのだろう。
いずれにせよ、ジャニーズ事務所の政治意志は首相官邸にまで達していたのであり、単なる陰謀論では済まない問題だった。
「鬱の女の子」の支持を集めたのがデテープルズであり、その支持基盤は相当な広がりを持っていた。
「安倍晋三」におべんちゃらを言う芸人たちは「ジャニー喜多川」という言葉をグッと飲み込んでいた。
高校時代には勉強などよりも、女の子たちと話すことの方が大事だった。
父親に「女子たちの支持の必要性」を教えられていたのだろう。
レイプされた後に自殺した女の子がいた(横田めぐみ)。
このことから「処女性の復活」というものを熱心に研究したのだ。
「女の子を愛の対象にする」「時にはアイデンティティを求める」この2つの作り方しかデテープルズは行なっていない。
それだけで、首相官邸の政治意志の形成ができた。
山口県も「広島」(イタリア)の見よう見まねを行なったのだ。
北朝鮮による拉致問題もデテープルズは「横田めぐみさん以外、問題にしていない」としており、ジャニーズ事務所の本質を示している。
女の子の思春期のメランコリーを政治的資源にしているのだ。
それを自分の「永遠」と直結させたのがデテープルズだった。
【北朝鮮にジャニーズが定着する】
このことを「拉致問題の解決」と呼ぶが、首相官邸もデテープルズの真の意図はいまだ把握していないようだ。
嵐 ギフト。
ルクレツィア・マリネラ(杉原杏子)は、ペテロダミアン(杉原英遠)と結婚したアクィナスの叔母である。
また、松野有里巳の実母でもあった。
「女の方が男よりも優れている」
これを証明するために「林芙美子」というペンネームで児童文学を書き、母・遊佐道子との「見解の相違」は抜き差しならぬものがあった。
「放浪記」は「女たちの街」というタイトルで海外にも知られている。
イタリア(広島)の女学校に入れられたため、「女の方が男よりも優れている」という発想が芽生えたのであろうし、東京に出たがったり、母との確執が生じたのは自分の信念を周囲が受け入れなかったからだと思われる。
美の探求をしたり、アクィナスに「大学の講義に出なさい、東大以上のいい講義はないんだから」と諭したりしていた。
娘の松野有里巳に「放浪記」のような生き方をさせてしまって申し訳ないと思っている、ともアクィナスに語った。
その影響力をめぐった確執が遊佐道子との間にあったのだろう。
いずれにせよ、マリネラは「同時代でこれほど、女であることを謳歌することを示した文学作品はなかった」と言われた。
放浪記。
ヴェニスのパウロ(高橋和久)は、アルベルトゥス・マグヌス(東京大学の教授)とも縁がなかったし、トマス・アクィナスとも疎遠であった。
むしろ、アクィナスの従兄弟であるオッカムのウィリアム(小野剛)の影響を受け、横浜DeNAベイスターズを日本シリーズに導いたアクィナスの真似をして、イタリアファミリーの力を見せつけるために広島カープに接近している。
モンターニュ(高橋正男)という銀行マンの父に認めてもらうためには、神学大全をフルに生かして広島カープと関わる必要があったのだ。
ドン・スコトゥスとも近く、アクィナスを避けるようにしながら彼の理論を仕事に生かしていた。
そこにはもはや「20代の頃、仕事がなかった」という屈辱はなく、広島カープ(ワイクリフ)との結びつきを強め、かつてアイセックで覚えた英語の知識への崇拝はもはやトマス・アクィナス崇拝に変わっていた。
パウロの人生も「いじめを知っている」という意味ではアクィナスやローマのガイルと変わらなかった。
やっていることは横浜DeNAレディチャペルと同じでも、イタリア(広島)女の危険性が異なった。
ローマのガイル(宮澤喜一)亡き後、広島女はその危険性を増していた。
広島に極道が跋扈したのもローマのガイルが死んでからだ。
ヴェニスのパウロは、仕事がなくてもモンターニュや母の言いつけを守って極道とは関わらなかったことが黒いつながりを嫌うワイクリフに受け入れられたものと思われる。
広島極道。シチリア島のマフィア。
アントニオ・ロッスミーニ(平幹二朗)も、イタリア(広島)出身だった。
アクィナスと相部屋になったことがあり、「人間の知識には発展段階がある、そのように信じているときはそのように行動しなければならない」とし、間違いを恐れてはならないとしていた。
本当に自分を全否定されて笑顔すらなくなったのがロッスミーニであった。
いつしか、女たちの声援にすら興味がなくなった。
勃起しなくなったのだ。
愛国主義者であり、言われるがままにデルメディゴ(天皇明仁)を信じていたが、アクィナスの「真実」を見て「笑えなくなった」のだ。
国を愛したら仲間ができる、そう信じていたからニヤニヤとしながらアクィナスをいじめたのに、デルメディゴに裏切られたのだ。
君が代はどうしても歌えない時代がある。
いつしか笑顔を失う時がくる。
ロッスミーニは、勃起しなくなったまま、太陽の下を歩いていた。
デルメディゴを信じていたものはいるか?
勃起しなくなったか?
笑顔を失ったか?
お金はあるのか?
間違った愛国心など持たない方がいい。
祝日に国旗を掲揚しなくなった家は多い。
貧しくならないため、夫婦円満であるため、笑顔でいたいためである。
一人の君主にすべてを頼って、後継者をいじめたら、勃起、笑顔、お金を失うのだ。
まだ、平成は終わらねえな。
アクィナスは、そう思いながらゴールデンウイークの街を歩いた。
今は、ロッスミーニは、アクィナスに「君がそう信じているのならば、そのような段階なんだろう。愛国心を失った俺すら題材に使うのか?だったら話そう。俺はイタリア(広島)出身で、君のお父さんが大したことなかったことも知っている」
君のお父さんについて行って東京に出た女優たちはほとんどモノにしてきた。
君と会った時にデルメディゴへの愛国心を知ったんだ。
国を愛するというのは個人的理由であり、デルメディゴが政治生命を失えば「勃たない、金ない、笑えない」時がくるということを知ったよ。
そのように「愛国心の危険性」を理解して、達観したかのように太陽の下を歩いていた。
単一の政治的資源に頼って横暴を極めても「勃たない、金ない、笑えない」状態になった時に「殉死」という古い因習は無くなるのだ。
平幹二朗。
さて、フランスというのは日本でいうと「東京」であろうか。
恋に対してオープンであり、「女に力を与えられて」東大に入る習慣があった。
そのような意味ではポーライン・デラバレ(阿部佳則)などは高校の頃から彼女がいて、東京大学に入っている。
「男女は対等なんだ」というデラバレの考えと、女の取り巻きを周囲に置いていたアクィナスの考えは相容れないものがあり、アクィナスを排除しようと決めたのだった。
しかし、アクィナスが有名になったおかげで自分もテレビに出たことから、カルヴァン派に興味を持つようになっている。
「恋も良かったけど、偶像崇拝も面白いね」
モーニング娘。大きい瞳。
マリー・ウォルストンクラフト(三笠宮彬子)も、東京女であった。
妹に子供ができた時に、自分もそのメンバーとなって子供を可愛がろうと決めた。
片倉麻美という名前でアクィナスに、お金の面倒を見てもらった縁があった。
ミステリー小説は結末があるから読まないほうがいい、という立場に立ち、「女の子の教育」という本を出版している。
「女の子の教育」という本は、北方領土問題を解決するためのヒントに満ちていたし、株価にもいい影響を与えた。
「女はお金に酔っ払う」
思えば、ゴルバチョフが北方領土問題の存在を認めたのは1986年のことだった。
「女の子の教育」というものをしっかりと考えて、フランス(東京)よりも、寒いスカンジナビア(北方領土)に「お酒」のようなお金が必要だということを理解しなければならないと考えた。
フランス女(東京女)がお金に酔っている映像がなければロシアは「領土問題など存在しない」と言い出すだろう。
すべては「女の子の教育」にかかっており、アクィナスのようにお金で酔わせてくれる男を生みださなければ女の子は「酔えない」ことを明らかにした。
egirls YMCA.
フランス(東京)はお金に酔いたがっている。これを冷静に見ていたのがオーガスト・ラーブルグ(関野泰弘)であった。
彼自身は割礼を受けていないドイツ人であったが、フランス革命に詳しかった。
バブルでお金に酔っている東京女を筑波大附属駒場高校から眺めていた。
「カントなんだよ」
女たちと話をしてファイナンスをやったカントの金に酔いながら前に進まないと革命というものは起こせないと考えた。
ポーライン・デラバレと違って、セックスには奥手だったが、金に酔って暴徒と化した女たちの間をすり抜けるようにして東大に入った。
これがラーブルグの「革命」であった。
カントとは、当時の政治家や官僚たちのことだったのかもしれない。
フランス女(東京女)は平気で金に酔っ払う、このメンタリティを理解しないといけなかった。
egirls pain, pain.
ネグリチュード(長屋博之)も、フランス(東京)出身だった。
フランス女(東京女)は金に酔う、という時代を経験して東大に入ったため、のちの彼の海外進出事業も「金をふんだんに使えばいい」ということを学習した。
金に酔った黒人女に限って「ニューニグロ」などと言い出して生まれ変わったような態度をとった。
引き金を引く。人々の叫び声、怒り、起きてしまったことは仕方がない。
酔っ払うしかないだろ。
メモリーグラス 堀江淳。
失恋したら、金をもらう。
これは、日本の民法にはない発想であったため、本当に酒を飲むしかなかった。
アクィナスは、なぜ身内を「金で酔わせなかった」のだろうか?
ネグリチュードは、アクィナスの苦労の原因をそのように分析していた。
アクィナスの身内は「金だけがすべてではない」と言っていたが、それはシラフの時に言った言葉だった。
現に、アクィナスが「ベイルートの政治」と呼んで現金を周囲にばらまいた時には、周囲は「もっと酔わせてくれ」と言っていたではないか。
マイケル・ヘンリー(粕谷直麿)は、金に酔えば「愛妻弁当だの子供のお弁当だの詩の解釈だの」をブログに晒さなくても美しくなれる、と考えていた。
妹が中川翔子であり、非常に美しかった。
サラリーマンの奥さんでも美しくなれる、というのは妹を見て考えたものであり「脱構築」と呼ばれた。
「言葉の可能性は大きすぎるんだよ」
妹をトマス・アクィナスと奪い合った時にそう思った。
「男も美しくなければならない」
先生を絞りきれなかったヘンリーはそう思った。
若い頃はヘンリーも札束を握りしめてバーで寝ていた。
「絶対が存在するのは野蛮だ」と発言し、アクィナスを批判している。
妹がアクィナスによる精神分析を嫌ったのは「兄に知られたくなかったから」であった。
しかし、マルクスの「1日6時間働いた後は、政治と宗教をやればいい」という言葉を都合よく利用したという意味では、アクィナスに対する複雑な思いがあったのだろう。
空色デイズ 中川翔子。
マリン・メッセネ(辻田晋作)は、高校の頃の「恋」を経験していたため、アクィナスの「高校時代はセックスするな」という発言にいろんな意味で「カトリックの世界での調整が必要」と考え、木曜日の夜に湘南の海に近い自宅で「アカデミックペルシャ」という勉強会を開いていた。
創世記は最初の第6章で「神はいる」としていたし、それでもなぜ湘南高校から東大に入れなかったのか?
アクィナスと自分の違いは永遠のテーマとなった。
創世記で「神はいる」とした以上、自分にも何らかの救済が必要だったのだ。
オランダに去ったデカルトとも文通を続けていたし、プロテスタントのアンドレ・リベットや、ソシニアン・ルーラウなどとも交友を温め、「高校時代の恋とはそれほどいけないものなのか?」を研究した。
そこでメッセネが考えたのが「男子部屋と女子部屋ののぞき見」だった。
欅坂46 バスルームトラベル。
「いじめを信じることは神を信じることである」というトミストの立場からも、メッセネにはアクィナスの人生が子供の頃から「残酷なサタンに取り憑かれていた」としていた。
東大生はいじめるに限る、と考えたのはメッセネであり、童貞東大生をいじめることこそが「カトリック国のアイデンティティ」であるという総括を行なった。
童貞東大生さえいじめておけば偉大な宗教ができる、これはむしろ大人の考え方であり、ただ悪意に満ちたいじめとは意味が異なった。
「こういう奴をいじめておけばいいの」という発言は案外、大人の発言だったのだ。
聖書が間違っているなどということは誰も信じていなかった。
父と子、聖霊という三位一体は「子なるイエス」を仲間に引き込んで聖霊をいじめる父を意味したが、聖霊は父や子と異なり「何らかの情報源」を握っていたし、いじめてやれば何かやるやつだと思ったのだ。
そのようにしてメッセネは「カトリック国」というものを作ったし、それは「童貞東大生さえいじめておけば偉大な宗教ができる」という教えになり、「セックス禁止」などという奇妙な宗教ではないことをカトリックは世界に示した。
檸檬の年頃 AKB48。
フロイトの科学性論争という名の「抹殺運動」は100年続いたし、山崎闇斎はすでに抹殺が終わっていた。
しかし、メッセネの「アクィナスを取り巻いた女子たち」へのトラウマ(檸檬の年頃)は強かった。
創世記で「神の証明」は35箇所でなされている。
神がもし自分を愛しているのならば、高校のスターをのちの人生までいじめ続けなければならないし、神はそれを許しているだろう。
コーネリアス・アグリッパにせよ誰にせよ、「オカルト的いじめ」を行うと、真面目な奴は恐るべき宗教を作って見せたのだ。
その言い伝えは日本国の皇室にも伝わっていたが、山崎闇斎のように死後、跡形もなく業績が抹殺される人がほとんどだった。
カトリックの教義はフロイトだったし、皇室の現在の教義は垂加神道である。
1960年代から1990年代までは、人間の「人体実験」になんら期待すべきテーマはなかった。
細胞生物学や、分子生物学、免疫学、神経学などにエネルギーを注いだ。
1983年にハッキングが、1986年にフランクリンが、1996年にマヨが「日本に紹介してほしい英語コンテンツ」を整備するまではなんら「人体実験」のメリットがなかったし、そもそもが面白くなかった。
アクィナスの「新・実験主義」とは、JSミルがアメリカ合衆国で解き放った「セックス論文」がコンパクトにまとめられてから、それを読んでいろんな「サプライズ」を引き起こしてみんなを楽しませることを意味した。
ネットで色々、発言していたが、「電話による噂づくり」がどれほど有効だったかはアクィナスも知らなかった。
肉声を聞かせなければ、誰もその人が書いたものを読もうとはしなかったのだ。
プロ野球チームの日本シリーズ進出や、株価の上昇などを引き起こしていたが、背景には常に「電話」があった。
「あの紳士のいやらしい側面」をみんなが読みたがったのだ。
周囲の女たちが「抱かれたい男」と言っていたから、目を皿のようにして粗探しをする女もいた。
失脚を狙って熱心に読む女を利用することをfMRIと呼んだ。
「新・実験主義」の証拠が欲しければfMRIを使うことだね。
DNAを憎んでいる女がいればなおさら都合が良かったし、文章にATPがねじ込められていれば必ず証拠は出る。
fMRIを行う作業で女が学ぶことをADPと呼び、通常は想定できないことだった。
DNAは憎まれている、これを利用して女たちにADPを与え続けたのがアクィナスだったのだ。
欅坂46 風に吹かれても。
DNAは憎まれても、「子供に伝わる文化」までは憎めなかった。
金日成も金正日も、これを用いて活動していた。
「将軍さま」のメッセージはそれほど女たちに丹念に読み込まれていたのだ。
もはやこの作業は「学位」ではなかった。
「やるんだ!」という気持ちが必要だった。
ロバート・コーラー(何でもコーラー)は「ハエの行く先」という本でこのようにして民を導くのだということを指摘している。
民が「メンデル」にとらわれた時代に最も有効な考え方であったためにスタンフォード大学もはや実験場に日本を選択したし、アクィナスもよく期待に応えた。
「息子が父親に似ている」
それだけで大人たちが震え上がることを「メンデル法」と呼んだ。
データの信用性は、fMRIをやった女たちが「アクィナスの子供たち」を残すことを観測するしかない。
つまり、出生率がそのまま読者の数となるのだ。
「どんな文化が伝わるのか?」という観点からのアプローチが必要だ。
「女の子が生まれた時の喜び」が強いほど出生率は高まるようだ。
欅坂46 国境のない時代。
ジェーン・アダムス(小野まり子)は、トマス・アクィナスの実姉であったが、アクィナスの失脚を狙い、彼の文章を丹念に読んでいたことからアメリカ合衆国の女性哲学者として位置づけられるようになった。
おそらく日本国では初めての女性哲学者であり、その役割は「ご近所さん」(フルハウス)を治めることにあった。
アクィナスは、姉の真の意図を理解しきれずに姉を逮捕させようとしたり、殺人未遂を疑ったりしたようだ。
フルハウスの治め方という学問は、時にアクィナスを実家から遠ざけることにつながったが、アクィナス自身がかなり傲慢になっていたので自業自得の部分がある。
アメリカ合衆国に初めて、年寄りのために公園はあると言ったのもジェーンであったし、体育館を開放したり、お料理教室を開いたりしたのもジェーン・アダムスが行ったことだ。
弟の影響力を最大限に利用していたので、ドン・スコトゥス(アクィナスやジェーンの弟)とも考えが異なった。
アクィナスが勝ち続けなければジェーンの立場は失われるのでそれも当然だったと言える。
アクィナスが家庭内に心理学を持ち込むことを嫌っただけであり、他意はなかったようだ。
ジェーン自身は、家庭内でなければ「心理学」を存分に語ったし、ご近所さんの信望を高めることだけが目的であった。
ご近所さんと親しければ人間は完成されているとしたのはレオ・トルストイであり、ジェーンは熱心なトルストイ信者だった。
しかし、最終的な指導者は実弟のアクィナスだったのだ。
自由民主党に所属して、その政治力を見せつけていた。
アクィナスが「海」ならば、ジェーンは「陸」だった。
トインビーがジェーンを慕っていたのだから、あながち彼女の力量は「勘違い」とは言えない部分がある。
Wake me up.
ジェーンは、他の哲学者の本を読んで、アクィナスの偉大さを理解していたし、息子のトインビー(小野湧太)はジェーンの信者だった。
トインビーはその後に「トインビーホール」という建物を作るに至っている。
トインビーがアクィナスとコンタクトを取った理由も、ジェーンの仕事がうまく行っていたからである。
アクィナスが勝ち続ければ、ジェーンも勝ち続けた。
ウィリアム・ジェームズという学者がアクィナスに喧嘩を売らずにジェーンに喧嘩を売ったので、ジェーンはアクィナスを必要としていた。
ジェーンの正体・三浦瑠璃。
ご近所さんをゆっくり眠らせる、それだけがジェーンの願いであったし、女性としてトマス・アクィナスを正確に理解することがここまで強烈な存在感を示すのだろうか?ということを見事に体現していた。
時には、ジェーンはオーガスト・コムテ(チンチャンウォン・韓国の文大統領)に影響されているのではないか?と噂されたが、どちらもアクィナスからの影響を受けていた。
今までのフェミニストがどれほど「道を踏み外して」いたのかをジェーンは公で語り続けたし、社会で生きることが楽しくなっていた。
よりリアリティを持ったフェミニズムの理論によって、ジェーンは仲間が大勢いた。
「世の中の半数は女である」ことから民主主義が愛せるかどうかは決まるのだ。
彼女は常に、官僚の腐敗や、犯罪、売春、風俗店などの「社会の病気」にどっぷり浸かっていた。
「向こう三軒両隣」のフルハウスではそのような話に満ち溢れていた現状があったからだ。
「向こう三軒両隣に比べたらテレビの論客は簡単だな」と考えていたし、そのような発言も行なっている。
「若さとストリート」「女としての長い道のり」などの論文がある。
ジェーンの立場は「英才教育の否定」にあったし、トインビーには「かなりダーティなご近所さんの側面」は語らなかった。
いずれにせよジェーンの政治生命は弟のアクィナスが「リンカーンのような」スーパースターである限りは絶たれることはなかったのだ。
Madonna Superstar.
「神の見えざる手」が女の子の人口を増やすとするのであれば、ジェーンにとってアクィナスは神だった。
しかし、「鑑別所」がどういうものなのか?などの実態をアクィナスは知らないだろうということがジェーンにとっては「今となっては」いい思い出となっていて、社会の病理面にはアクィナスよりも詳しいという自信となっていた。
しかし、ジェーン(三浦瑠璃・小野まり子)のセールスを仕掛けた大人たちというのは弟のアクィナス(小野光太郎)と同じマシーンが動いていたであろうことはジェーン自身も知らなかったであろう。
アクィナスが、若い頃、「私は誰だ?我々は何者だ?」という問いかけをセダー・センガー(檜山武志)に対して行なっているのを見て、センガーの父親のネグリチュード(檜山彰)はその答えを提示してやろうと決めた。
「私」ではなく「我々」なんだよ、というのが答えだった。
マルチニクやギアナ、セネガルから来た黒人たちからファイナンスを学んだとされるが、実際は三人の息子のことだったであろう。
アクィナスが心を病んだとセンガーから聞いた時に、「それならば王室サロンのメンバーだろう」と思ったのはネグリチュードであり、Melodyの資金面でのバックアップをやっていた。
1995年とはセンガーが事故で亡くなった年であり、センガーとアクィナスの友情の記念としてネグリチュードはこの作品を作っている。
コンセプトは「天皇制への怒りの声」だった。
Melody 運命95.
この時代は「黒人と黄色人種が白人に敗北した」とされる時期であり、胡散臭い天皇制への怒りを人々は歌い続けていた。
ネグリチュードは、息子の死を祝福したのだ。
運命95は、黒人をリスペクトしていたアーティストのサウンドをそのまま使った。
Maybe baby 黒沢健一。
センガーが時代に対して抱いていた「怒り」をそのままサウンドにしたのだ。
センガーを失った後に、ネグリチュードは、ストイックで病んでいるアクィナスの姿を眺めていた。
「私」ではなく「我々」と考えればいいだけだというメッセージを送ったのだ。
そもそもがフレデリック・ダグラス(アーサー・マッカーサー)が「忍耐強さが個性を作る」とし、アクィナスに忍耐強さだけを求めたところに端を発する。
奔放な女だったジェーン(三浦瑠璃・小野まり子)は「同じであることも個性である」とし、アクィナスの文章を丹念に読んでいた。
周囲もジェーンと接する時は「皇帝の姉」という言葉をぐっと飲み込んでいた。
弟の真実に詳しい、これがジェーンの力であった。
夜中に歌を歌ってご近所の主婦たちの「夫婦生活」を妨げていたアクィナスに懲りて、ご近所づきあいを大事にしたという意味では、アクィナスに勝っているとも考えたのだろう。
本来は参議院議員にでもなりたかったのだろうが、「政治活動である」「弟に迷惑をかけたくない」という動機から政治評論家になったものと思われる。
「姉と弟ならば同じマシーンが動員できる」ということを思い知ったのは事実であった。
アクィナスやジェーンの弟のドン・スコトゥスは「裏切り」を行ったために、もはやその「マシーン」を利用することは許されなかった。
そもそもスコトゥスはアクィナスの文章を「読めなかった」ところがジェーンとは異なったのだろう。
ジェーンは昔から文字を愛していたし、あとは「先生」次第でどうにでもなった。
ジェーンは「猫は猫」というあたりに注意しながら、奔放に生きた人生を、アクィナスの文章を読むことで「集約」していった。
「文字は時間をも超えてみせる」
それがジェーンの考えだった。
ジェーン・三浦瑠璃。
アクィナスは、予算が組めればゴリオテ(羽毛田信吾)やランプル(牧野尊行)を撃退できることを学習していた。
邪魔者は「予算を組む力量を身につけて退ける」ということをアクィナスが学習したのならば、当然、ジェーンも学習する。
邪魔者が多かったのはアクィナスよりもジェーンの方だった。
このことから、官僚により近い「官僚派」としての立場をジェーンは固めていった。
エピクロス(近藤真彦)とアクィナスは、王室サロンで出会っている。
死後の世界を否定し、死後の罰をも認めないエピクロスは、アクィナスにとっては「関わりたくない人間」だった。
そのくせ、自分の腎臓が悪いことや、トラブルに巻き込まれた時の相談を「歴史家であり医者である」トマス・アクィナスに相談してきたのだ。
死後の世界の否定や死後の罰を認めない人間がいなければプラトンも詩を書けなかっただろうと言われた。
ネオクレスとシャレストラタの息子であったエピクロスは、親にあまえることだけはうまく、セックスを疑い、結婚を疑ったが、友情だけは疑わなかった。
高貴の出身であり、「親の庭」ですべての悪事を行なっていた。
アクィナスには想定できない、金銭トラブルなどもエピクロスは「親の庭」にいたから起こせたのだ。
後始末はすべて親がやるという発想がなければ誰も暴君にはなれない。
「人間は小さい方が速い」ということを知っており、エピクロス(近藤真彦)と名乗るよりは相沢祐一と名乗った方が速く配置につけることを知っていた。
エピクロスは自分がミジンコになった時の速さを知ったのだ。
心ざんばら。
名前が大きいほどのろいというのは自動車レースからの教訓でもあったのだろう。
とにかく彼は「親の庭で小さく生きる」ことから暴君になったのだ。
近藤真彦F3000。
アクィナスは、エピクロスから「自分も親の庭にいた」ことを学習したし、小さく生きることが暴君になる秘訣だと思い知ったが、「小ささ」だけはアクィナスの人生の受け入れるところとはならなかった。
「いじめがなければ時が止まる」という発想もアクィナスはエピクロスから学習した。
ルクレティウス(広末涼子)によると、「子供とはまるで子供のように喧嘩していた」とされている。
ルクレティウスはエピクロスから「人間の寂しさ」を学んだ。
親の庭で「単純な」人生を歩む男だったからだ。
友情は大切にしていた。
「親の庭とは何か?」を語るとなると、おそらく、デテープルズ(ジャニー喜多川)の息子だったのだろう。
ドナルド・カリー・ウィリアム(永山幸一郎)は、アクィナスのボクシング部の先輩であった。
彼のダークエイジについて知る者は少なく、華々しい噂しかなかった。
しかし、ウィリアムの顔立ちの美しさとスター性を見れば分かるが、彼もアクィナスと同じく心を病んでいた。
異常に痩せていたし、アカデミズムへの失望はアクィナスよりも強烈に抱いていた。
アイザック・イスラエル(松本潤)の父親に当たるために、アイザックはアクィナスの哲学を尊敬していたのだ。
ウィリアムは、薬で勃たなくなることがあったために「お金目当てではなく戦う必要があった」とされる。
「過去・現在・未来を限りなく広く使う」のであれば、アクィナスの娘の婿にアイザックはふさわしいだろうが、ウィリアムとアクィナスの学生時代の「隠れた」師弟関係がいまだ維持されているかは分からない。
「時間と空間を広く使え」という心がけがアクィナスには必要だろう。
ロンドンはエジンバラよりも大きい、ダブリンはベルファストよりも大きい、このような心がけがアクィナスとウィリアムには必要なほどアイザックは「ワケあり」だ。
アクィナスとウィリアムの「意外な関係」と、娘のお相手を探す上でのアイザックの存在だけを現段階で指摘したい。
「時間と空間を広く使え」というのはアクィナスへの戒めである。
アイザック・イスラエル。
1980年代にアメリカ合衆国は「我々の知らない地域をなくそう」として「アフリカ」をクローズアップした。
しかし、アフリカ人は「戦うために生まれた」というような男たちが多く、アフリカ人の「戦うために生まれた」という言葉はレナード・ハリスが言ったことである。
ヨーロッパの植民地であるという意識が抜けなかった。
マリやガーナ、古代エジプトのような「王朝」はあったが、古代エジプトは「ピラミッドを作る」という労働から宗教(男らしさを語る論壇)と政治(女心の定義)が発展していた。
アフリカを動かそうと思うのであれば、ヨーロッパや北アメリカを動かせというのは考え方の基本である。
ドン・スコトゥスのような教養もなく、文字も読めない男を分析するのにアフリカは役にたつだろう。
We are the world.
アメリカ合衆国は、アフリカに「テスト期間」を与えたが、「ヨーロッパのどこかに属する」という回答しかよこさなかったために興味を失った。
しかも、ヨーロッパには人種差別が存在したのだ。
「頭が悪い」という劣等感が強かった。
バンツー哲学といっても「脱ぐ、脱がない(take off)しかコンテンツはなかった。
「資源がある」と言っても大陸なのだから当然だろう。
「戦うために生まれた」ような連中に資源に関する知識を流すほどアメリカはお人好しではなかった。
ケニア、ナイジェリア、コンゴ人民共和国、アイボリーコースト、ベニン共和国、セネガル、南アフリカなどで高等教育は試みられている。
それだけで、アメリカ、カナダ、フランス、ドイツなどとの関係が良くなるのだ。
「文字が読めないのであれば我々のメッセージを理解することはできない」と考えられたのであろう。
文字が読めない奴とは仕事ができない、戦うために生まれたのならばなおさらだ。
多くの「トラウマ的出来事」を先進国はアフリカに対して抱えていた。
石原さとみ。
1600年から1860年までは、先進国も「アフリカの女性の身」を案じていたに過ぎない。
しかし、1860年から1915年に、アメリカ合衆国は内戦や第一次世界大戦を迎え「猫の手でも借りたい」という事情が生じた。
「猫を敵に回していると足元をすくわれる」
さて、お気づきであろうか?
アメリカやヨーロッパにとって「日本もアフリカの一部」だったのだ。
しかし、1915年から2000年までの日本の扱いはもはや「白人並み」であった。
世界大恐慌や第二次世界大戦、朝鮮戦争を経験したからだ。
「ニューニグロ」
このように黄色人種は語られるようになり、日本は三度、世界の命運を握った。
ビジネスパートナーとして「トラウマ的出来事」を生み出す男を「アフリカ人」と呼び、より知的な男を「ニューニグロ」と呼んだ。
タスキギー大学や、モルガンステート大学、ハワード大学などが「黒人女性も美しくなれる」という教育を行って評価を高めたし、公民権運動は、本来、アフリカの「セックスしか頭にない連中」の行動原理の理論化(ミクロ経済学)が発展するためのきっかけとなった。
「美しい黒人女性」というモデルは1982年の革命的な出来事であり、日本でもこの時期に「女子大生は美しい」という具合に世界と足並みをそろえた。
どの女でも落とせると言ったカントや、天使に取り囲まれても母にあまえるのが下手でも父に潰されるとしたニーチェと黒人はどこで出会うのかが問われた。
ジョン・ロールズ(ジム・ボック)などは黒人や日本人の世界に潜入してミクロ経済学の腕を磨いた。
「白人の知恵にはどうしても敵わないんだ」とトマス・アクィナスが身をもって示した時に、女たちは「美白」こそがいいものであると考えるようになった。
レナード・ハリスがアフリカ人は「戦うために生まれた」と言った時に、アメリカ合衆国内部の黒人ゲットーなどもこの発想を受け入れ、難しい勉強から自由になれた。
マイケル・ジャクソン ビートイット。
そもそも、アクィナスはなぜ「いじめられやすい」男になったのだろうか?
その起源はアフリカ(文字の読めない連中)にあった。
日本でいうと中学校だろう。
時には、芸能界もアラブであったりアフリカであったりした。
アメリカ合衆国は、エジプトを「アフリカではなく中東である」としてアラブ社会に組み入れた。
アクィナスは、「女兄弟がトルコ風呂の出身である」ということから「脳の言葉を全部入れ替えよう」と決意している。
そのようなアクィナスの気持ちを中国では「仁」と呼ぶし、そのようなアクィナスに早い段階から忠誠を尽くすもの(義)もいた。
中国には仁義があるが、アフリカにはそのような発想はない。
女兄弟がトルコ風呂出身ならば、その男をいじめてやろうという気持ちが周囲にないとなかなか「統治者」は生まれなかった。
中国では「仁義」と呼ばれたものが、アフリカでは「サブサハラン」と呼ばれて尊敬された。
「脳の言葉を全部入れ替える」
このサブサハランの発想が、世界レベルのトップアスリートを育てたし、アフリカのサッカー選手はワールドワイドな言語を学習していたためにサブサハランは自ずと周囲から尊敬されていた。
子沢山で、女兄弟がトルコ風呂出身である、このことからアフリカでもいじめというものはあったのだ。
ニコマコス倫理学を読むためには「いじめられた」という名の才能が必要であり、周囲をいじめるものは一生理解できないものであったであろう。
いじめ体験を、「周囲の男たちの論理」からまとめきったアクィナスは、トップアスリートとして周囲から認められるようなアフリカのサッカー選手ではなかったが、それは「ルネッサンス以降に霊的に高い位置にいるものへの処刑がなくなった」から書けたものだ。
皇帝の地位を望むものは処刑する、というルネッサンス以前のローマ帝国ではとっくに殺されていて書けなかったものが、ルネッサンス以降は自由に書くことが許された。
「脳の言語を書き換える」
それは、周囲の女たちにとって好奇心でしかなかった。
これを「倫理学」と呼び、トルコ風呂を起源とするものである。
女兄弟がトルコ風呂出身であるということだけで、男の子は倫理学を自ずと学習したのだ。
ルワンダでは「倫理学」をめぐって民族が抜き差しならない関係に立たされた。
イスラムでもキリスト教でも同じ原理だ。
指導者が「脳の言語の構造を書き換えている」から信者というものはできるのであり、ルネッサンスを迎えていないアフリカのような地域ならば虐殺が起きてもおかしくはない。
トルコ風呂が豪華。
バンツー族(パンツ)のように、「人間であるということには境界線はない」と考えると、アフリカ人は「ヨーロッパ人よりもヨーロッパらしい」男になってピラミッドすら作ってしまうのだ。
ピラミッドというものは紀元前の昔に作られたものではない。
アグリッパやピコデラミランドラなどの「ヨーロッパ人よりもヨーロッパらしい」アフリカ人によって作られたのだ。
それはもはや「オカルト」と言っても過言ではない。
「古代エジプト伝説」とは中世ヨーロッパが発信源である。
ルネッサンス以降のヨーロッパ人が、トルコ風呂と出会うことで、アフリカに作ったものがピラミッドだったのだ。
イスラエルにはピラミッドは全く見当たらなかった。
しかし、アフリカの「サブサハラン信仰」がエジプトにこのようなものを作ったのをナポレオンが確認している。
すべての人間が自分たちなりに「一貫した」人生を歩んでいる。
アクィナスのように「すでに多数派工作を終えた男」が他者と和解できるのであろうか?
南アフリカでも、ルワンダでも、ユーゴスラビアでも「アクィナスに人間扱いされないのが嫌だ」と言ってアクィナスを殺そうという動きがあり、アクィナスによる虐殺は止められなかった。
アメリカ合衆国やカナダ、オーストラリアでは起きないことが、日本国でも起きるのであろうか?
それは法務省が「デュープロセス」を容認するかどうか?という問題であり、実際にアクィナスは殺されそうになったのだから復讐する資格はあったのだ。
日本国は「すでに過去の話である」として国際刑事司法裁判所にも加盟している(ローマ議定書)。
しかし、「天皇になったらやりたいことがある」という人間は多く、それは「虐殺」以外の何者でもない。
そのために日本国では「国会議員ならば5億円、天皇であるのならば280億円必要」という高いハードルを設けている。
多数派工作に成功したアクィナスに人間扱いされないのが嫌だ、と言って抗争を仕掛けて殺される人間がいることを「仁義なき戦い」と呼ぶのであろう。
それは法務省も警察もその人間模様に親しみを感じ、学習するのは当然であろう。
仁義なき戦い。
「和解するためには、トルコ風呂について語らなければならない」
これは難しいのではないだろうか?
南アフリカ、ルワンダ、ユーゴスラビアでもこれは難しかった。
「その話は忘れろ」
アクィナスの側がそれを要求されたが、いじめはとどまることはなかった。
この問題の難しさに警察側も極道に共感してしまったのだ。
フツ系大統領が何者かに暗殺され、ツチ族系のルワンダ愛国戦線が統一するまで虐殺は続いた。
フツ系大統領が「アクィナスの側」にいたことは明らかであろう。
南アフリカでも、エドモンド・ツツは「死人が出なければ和解は困難」と考えていたようだ。
とにかく、アクィナスのような「いじめられる側」の作る宗教は偉大だった。
日本では「お地蔵さん」のような記念碑を作るしかない問題とも考えられた。
「何があったのか?」をよく理解しているものを「年寄り」と呼んだ。
サラリーマンの側に立つアムネスティーは、「お地蔵さんとは何か?」をそもそも分からなくさせて回った。
それはフツ系大統領がどのような宗教を作ったのかを、ツチ族系のルワンダ愛国戦線が学習していくだけで国には髪の長い女たちに満ち溢れるだろう。
「許しって何?」
それは国にお金が満ち溢れることだろう。
すべての人が「処女・非処女モデル」に回帰していくことを望んだ。
また、アクィナスが偉大な宗教を作った以上、みんなが彼との「いい関係」を望むのは当然だった。
嵐の女神 宇多田ヒカル。
そもそも、奴隷というのは西アフリカから連れてこられたが、「アカン」という哲学を背景にしていた。
死んだ幼児の葬式をやらないというところから奴隷という発想を根付かせたのだ。
伊豆の踊子で「赤ん坊の49日をやって」というくだりがあるが、「我々は奴隷ではない」という意思表示であるとも言える。
また、「鶴野屋の強欲ジジイ、お加代の葬式も上げてやらない」というくだりもあり、葬式をやるかどうかで奴隷かどうかを示したのもアカン哲学を背景にしたものだ。
このような奴隷へのいじめを「お蔵」と呼んだ。
クワム・ガイキー(吉永小百合)は伊豆の踊子という作品でこのような感想を抱くに至っている。
アクィナスは、ガイキーの作品の熱心なファンであったが、王室サロンで出会いを果たしている。
伊豆の踊子の冒頭で、クワシ・ウィレドゥ(川端康成)はある「いたずら」をしている。
東大文学部における講義から始めたのだ。
「幸福の関心と道徳は始原において一致すべきものであるとカントが考えたことに私は反対したいと思います。各人にとって甘美なるもの、良きものであることが時勢にしたがうというところにある以上、私もそれにしたがいたい」
つまり、トルコ風呂がアクィナスの多数派工作につながるという「始原における一致」に反対し、「処女・非処女論争」をウィレドゥは伊豆の踊子で強烈にアピールしたのだ。
伊豆の踊子。
ジオダノ・ブルーノ(志村けん)は、「太陽系以外にソーラーシステムがあるとしてもイエス・キリストは生まれざるを得ない」とした人物だ。
これは「宇宙人にも死がある」ことから「性欲」の存在を指摘し、宇宙人も「恋をして笑う」ことを指摘したものだ。
それはゾロアスター教の教えでもあった。
法政大学法学部でメディア論を専攻したブルーノは、音楽作品の主人公となった男に「逆らえ」ばウケるということも学習した。
哲学も語れば長いが、宇宙人が持って来た「EI」と呼ばれる書物であることは否定できないし、逆に我々が宇宙人であることも否定できない。
それが「性欲、笑い、そして死」という意味だった。
あるいは人間社会の序列でもあり「逆らう」系の笑いも生み出していた。
性欲があるのであれば「詩」も存在する。
「宇宙人も殺すことができる」ことからこのようなことが分かったのだ。
志村けんのバカ殿様。
宇宙にも「火と空気」があり、そして「勉強」がある。
そのために「空を飛べる」宇宙人が出てくる。
勉強がなければ「スーパースター」は生まれないのだ。
無限に勉強したら、それはいつしか音楽やお笑いに変わる。
そして水や地球を潤すだろう。
ブルーノがこの境地を目撃したのはアクィナスが初めてであり、ブルーノのキャリアが斜陽に向かった時にアクィナスに指摘されたものだ。
「性欲系」のお笑いと「逆らう系」のお笑いをアクィナスは指摘した。
エジプトの美女であるトリメジトスとアクィナスの二人はブルーノのおかげで笑いを取り戻した。
アクィナスは、子供たちにもブルーノのお笑いを自慢したのだ。
「死があるから性欲があり、お笑いがあり、社会の序列があり、さらにお笑いがある」
このことを知ったブルーノはアクィナスの家族の自慢の交友関係であった。
「無限に勉強したらどうなるのだろう?」
笑われたり歌われたりするんだよ。
アクィナスは子供たちにそのように教えた。
AKB48 teacher teacher.
しかし、「死があるから性欲があり、お笑いがあり、社会の序列があり、さらにお笑いがある」という現実も、メディア論によって人々は簡単に見失った。
アクィナスは、周囲の「オナニー」によっていじめられて来たことを誰よりも理解していたのだ。
世界の「権力の構図」を周囲のオナニーは全く見えていなかった。
女心の定義(政治)が歌謡曲の主流だった時代もあったが、やがてアーティストはアクィナスの自伝をテーマにするようになった。
「勉強の行き着く先」を男子たちに示したほうがより面白いことが分かったからである。
神を讃えることは女たちにとっても楽しいことだったし、男たちも「仕事をしよう」という気になった。
ローマ帝国のような「処刑」のなくなった時代に「神のような」男は生まれたし、女たちが「口には出せない」夢を見たアクィナスの人生を笑いに変えるのは「性欲」系の笑いでもあったし、「逆らう」系の笑いでもあった。
このことをアクィナスは、晩年のブルーノに伝え、彼のキャリアは再び復権に向かったのだ。
Twice wake me up.
ダンテ・アレグリア(阿蘇大作)はアクィナスの従兄弟であったが、アクィナスに「ベトナムは日本のオタクカルチャーを必要としている」という指摘を受け、ベトナムの田舎で日本のオタクカルチャーを発信し始めた。
それは、ベトナムの「儒学からの決別」を意味し、かつて昭和天皇が「南部仏印からの撤退は退位を意味する」として真珠湾攻撃に踏み切ったのとは異なる形でアレグリアの手によって日本のオタクカルチャーは「南部仏印」に影響力を与えることとなった。
アレグリアは、アクィナスの従兄弟と名乗るよりは「福沢諭吉の玄孫」と名乗るのを好んだようだ。
昔のアクィナスは好きになれなかったし、フェイスブックで友達になった程度の疎遠な関係であったことからそのような形での親交となったようだ。
天国のキッスのような「理想の男系」とデザイアーのような「女心系」の二つの区別は垂加神道から学んだ。
ベトナムに神社が建つことはなくても、人々の衝撃はもはや神聖なものに思えた。
日本国から民法を学んだはずのベトナムが、本当に「金儲けのやり方」(民法)を学んだのはアレグリアからであり、「田舎だったから」「アレグリアが日本語とベトナム語の両方を操ったから」だと考えられている。
ベトナムの地を踏む日本人商社マンや学生、観光客はアレグリアを師と仰いでいた。
ベトナムで日本の神道が東京大学の民法よりも影響力を持った。
硬派で鳴らしたアクィナスのエッチな側面が見たかった、とアレグリアは語っている。
避暑地のアンニュイが案外ウケた。
夏は暑かったし、初体験の後は「誰でもいい」と考える心理はベトナムでは知られていなかったのだ。
いずれにせよ、儒教国家に「女神」というものを持ち込んだらもはやアレグリアに怖いものはなかったし、情報源はアクィナスでも、アレグリアは「自分は福沢諭吉である」と名乗っていた。
ベトナムの若者が中国ではなく「日本の美女」を見始めた。
河合その子がいちばん可愛いと囁かれた。
ベトナム人は「声」を聴いていたのだ。
河合その子 Parisが聞こえる。
河合その子のそっくりさんが、コメディーでテレビに出て、そのプロデューサーをアレグリアは行い、アクィナスの熱心な読者となっている。
男兄弟だけのアレグリアだったが、個人輸入には事欠かないほど仲のいい兄弟だったし、アレグリアのベトナムでの「王朝」を応援してやろうという寛大さが彼の家庭にはあった。
ピエール・ダーヘム(高屋敦彦)は、アクィナスやデルメディゴの主治医であったことから記録に残った。
ウィーンサークルとは「元アイドル」の女の子たちのサークルであったし、そのサークルの中で受けた尊敬は「もはや絶対的なもの」だった。
ダーヘムは9歳の時に文学小説を書くなど、幼くして才能を発揮している。
東大医学部を出ている。
アクィナスが完成させた「ペテロの葬列」は、ヤーヴェとは何かをきわめて明確に記したため「ネオトミズム」と呼ばれていた。
ダーヘムは、アクィナスの論文の「版権を使わせてくれ」と言ってアクィナスに契約書に署名させている。
ウィーンサークルの女の子たちの尊敬を維持し続けるためにはアクィナスの力を必要としたし、それは9歳にして文学小説を書いたというように、純粋に研究が好きだったからだろうとも言われた。
しかし、アクィナスが「加速度をつけている」というニュートン主義を否定し、いつも「この調子でやっていきましょう」と言っていた。
加速度の否定というのは、長い研究生活と「雇われ医」としての経験からアクィナスを否定するものだったし、「デカルト主義の否定」というのも「アクィナスに恋をする女たちの否定」を意味した。
医師国家試験に受からなければ、医者にはなれないという現実のもとで「医者」という立場を最大限に謳歌したのだ。
アクィナスが考えた「ペテロとスコトゥスとアクィナスは三位一体である」しかし「ペテロとスコトゥスは当事者意識がなく何も学ぼうとしない」「父と子は権力闘争に関してはより当事者意識を持っている」という理論に関してはダーヘムは「それは生命の連続性を意味する」として距離を置いていた。
権力闘争とは距離を置いていたのだ。
「医者という立場は仕事に過ぎない」と考えていたようだ。
アクィナスが考えた「女心の研究」も看護師や臨床心理士の共有財産であったのであり、ダーヘムはネオトミズムの信者ではなかった。
主治医が患者の信者であったらそれはおかしな話だろう。
そのことから、ダーヘムは多くの看護師や臨床心理士と言った「アクィナス信者」に抗しきれない状態でアクィナスと関わっていた。
しかし、ダーヘムが「アクィナスと契約を結ぶ」「アクィナスの薬の量を極力少なくする」という決断を下したからこそ、福井記念病院の看護師たちは「学会で引っ張りダコ」になったということは指摘していい。
ロックフェラーなどの多くの企業や宗教団体にダーヘムは知られるようになったのでアクィナスを野放しにすることを決めたようだ。
アブナー・ブルゴス(秋元康)は、自身は東大には入っていないが「男女共学」を知り尽くしており、多くの音楽作品を、アクィナスに「使ってくれよ」と言って提供した。
多くの長男は、次男や学校からブルゴスの存在を知ったが、自分がペテロやスコトゥスの排除のために活用できる「武器」となることを知るのははるか後の事だ。
社会契約が切れる卒業や夏休みは確実に捉えた。
おニャン子クラブ 夏休みは終わらない。
エロヒム(アメリカの先生たち)の導きが向かうところは芸能界しかないと言うことも知らなければならない。
いじめの風が止まることがわかるのだ。
「アメリカは俺の作品をなんて言ってる?」
CDの「水曜日のリリース」も流通の都合ではなく「アメリカからの評価を仰ぐ」「週末の話題の独占」を狙ったものとブルゴスは考えていた。
「モーゼの法」を理解している者は学校でのいじめからも自由になった。
テレビでは、どんなに言いたいことがあっても「モーゼの法」を教えることはなかった。
それぞれの世界の「アクィナス」にそのセールスを委ねたのだ。
周囲は「英語でCDの解釈ができるのか?」と言っていじめるのをやめた。
春一番が吹く頃に おニャン子クラブ。
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