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Foreign Affairs

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« 一夏の経験女。 | トップページ | 金融女。 »

2017年10月12日 (木)

いもうと女。

舜は、お父さんが羊を盗んだ(女兄弟にお風呂でいやらしいことをした)。
この舜の人生を救済する学問を儒学という。
そして、孔子が語った教えを信じることを「儒教」と呼ぶ。
孔子の教えを受けて王になったものたちの物語を「聖学」と呼ぶ。
舜のお父さんである堯の人生は「先王学」と呼ばれた。
勉強のことを「性理学」と呼び、勉強が発展することを「理学」「心学」と呼んだ。
人生の出発点を端的に示したCMを見つけた。
木村拓哉 フレッツ光。

妹が言っていた「うちで起こっていること」って何かな?
これを学ぶことがテーマだった。
ここで、妹の学校生活に関する学問である仏教と、女心を学ぶ神道は儒学と共存することとなった。
本当の「儒者」は中国や日本の「お風呂」という文化に興味を持ったルイ14世だったとされる。
ルイ14世は、儒学をフランス語、英語、ドイツ語に翻訳している。
ヘーゲルも「妹」という文化に興味を持った。
井上哲次郎はヘーゲルを学び「心技体」という陽明学や、季節の学問である朱子学を東京帝国大学に紹介している。
古典の研究とともに「井上三部作」と呼ばれた。
仏教が教育に関する教えであることはすでに述べたが、江戸時代に「家庭というもの、士農工商というものを考えて欲しい」という観点と「お風呂という文化」があったことから儒学は仏教を圧倒していった。
清朝末期に中国は「儒学を卒業する」と宣言している。
「一人っ子政策」のことだ。
「家庭で学ぶよりは大学で学べ」という考えを「新・儒学」と呼び、中国はそれを採用したのだ。
大学には女学である「道教」もあれば恋愛を語る「墨家思想」もあれば、処女を口説く「法家」もあった。
「百花斉放、百家争鳴」とは「ギリシャ哲学も学んだ方がいい」というムーブメントだった。
カントが「法を守らないと処女が抱けない」と考えたことから、「楊貴妃の牛乳風呂」の問題は、兄にとっては「もはや学問の域を超えているもの」と位置付けられ、東京帝国大学は論語に興味を失った。
孔子は、女子たちにもいじめられて「女嫌い」になった時期もあった。
次元大介。

女嫌いになった男には「偉人」「主人」「詩人」などの学問が義務付けられた。
中国の「一人っ子政策」とは異なる発想を東京帝国大学は持っていたのだ。
アメリカの方によりシンパシーを感じる「反中エリート」が出てくるようになった。
「家で起きてること何にも知らない」という問いかけの答えを大学に求めた。
初等中等教育には手が出せない問題であるという共通認識もあったり
この「兄の人生の苦しみを経験してみよう」というのが「正座」というものだとされた。
歴史を振り返れば6世紀に「高麗」がこの「お風呂」の学問で日本に優位に立っていた。
大化の改新は「儒学を学ぼう」というムーブーントであり、1912年に「年号というものを作った方がいい」という考えに日本国が至るルーツとなっている。
兄と妹の関係は「イザナギ、イザナミ」であるとも「スサノオ、アマテラス」の関係であるとも言われ、天皇が最も詳しいと位置付けられた。
「天下」で何が起きたかは古事記や日本書記に書いてあるはずだ。
木村拓哉 フレッツ光。

兄は「五行」という学問を求められ、その到達点は聖徳太子の「17条憲法」であった。
「和をもって尊しとなす」
兄は社会で存在感を示さなければ家庭内では妹に太刀打ち出来なかったのだ。
古事記や日本書記の奥義は「五行」にあり、神道や官僚、サムライへの教えとなっている。
1180年から1185年の「源平の合戦」もこの教えへの理解度が争われたのだ。
花園天皇や後醍醐天皇は「皇統の方がその話に詳しい」と主張したに過ぎない。
織田信長も安土城に孔子の絵画をたくさん描かせている。
江戸時代に女子の教育に「季節を愛する」朱子学を持ち込んだのが藤原惺窩、林羅山、山崎闇斎であったし、男子に「心技体」という陽明学を持ち込んだのが中江藤樹、熊沢蕃山であり、ギリシャ哲学を持ち込んだのが山鹿素行、伊藤仁斎、荻生徂徠であった。
「妹と向き合った」という意味ではみんな儒学者だった。
文明開化の波が押し寄せるまでは「妹」は兄の地位を脅かす存在だったのだ。
17世紀から19世紀前半までを「前近代」「徳川時代」と明治政府は呼んだ。
女たちが「恋」を知っていたという意味では中世ではなかった。
プロトモダンとは「家族を解体しよう」という動きであるが「女兄弟の呪縛から男を解放しよう」というムーブメントだった。
1637年から1638年の島原の乱は、男を家庭内の苦しみから解放しようというキリスト教ムーブーントであり、松永尺五は「儒学の伝統を否定するもの」と考えたのだ。
教育熱心な国だったのは江戸時代からも変わらなかったが、臨済宗の「公案」のように、1人で考えをめぐらせて言葉を豊かにしろという教えもあった。
何かの発見ではなく「日常のコミュニケーションができればいい」と考えたのだ。
しかし、林羅山は「政治の基本」を教育しようという立場だった。
「妹はあまりにも政治的すぎる。横に読み、縦に読み、左から読み、右から読まないと太刀打ち出来ない」と考えたのだ。
伊藤仁斎も「五孟字義」においてそのことををまとめていたのだ。
伊藤仁斎は「政治的すぎる妹」との向き合い方をまとめ上げた。
木村拓哉 フレッツ光。

しかし、荻生徂徠の「弁明」はギリシャ哲学まで引用してあり、伊藤仁斎の時代を終わらせてしまった。
各大名たちも、荻生徂徠の弁明に対しては「洗脳ではないか?」と考えたのだ。
「はじめに言葉ありき」から始まる荻生徂徠の弁明は、妹の恋愛事情にまで立ち入っていた。
オリビアを聴きながら 杏里。

林羅山は「理」と呼ばれる「妹のパターン」と「気」と呼ばれる精神力を教えたに過ぎない。
孔子は「パターンは詩にすると300ぐらいかな?」としていた。
詩を丹念に聴くことを「気」と呼んだのだ。
伊藤仁斎は、その理と気という概念を用いて「古学」というものを完成させている。
「昔からそのような学問はあった」としたのだ。
伊藤仁斎と荻生徂徠の争いは「理」と「気」をめぐって展開されたのであり、その土俵を提供したのが林羅山だった。
そのような議論をしているうちに貝原益軒は「日本でも王の物語が書ける」と言い始めた。
林羅山と貝原益軒が「日本にも歴代の王(天皇)がいた」と指摘したのである。
それ以前は「ゴダイゴ」とか「ゴトバ」などという具合に呼び捨てにされていた連中だった。
「学があればサムライがしたがう」という文民統制のモデルが作られた。
サムライの心を「義」と呼んだ。
1703年には47士のように学のある大名のために命を捨てるものまで出た。
47人もよく「浪人」を集めたものだとみんなが喝采を送った。
理と気の探求に没頭したからこそ浪人たちが集まったのだ。
「理」には後悔や恐怖、憎しみ、欲望などの教えが満ち溢れており、それを知っているものには人望があった。
伊藤仁斎と荻生徂徠は「不動明王」を作ることで和解している。


広島生変図 平山郁夫。

心臓病には「医者の愛情」が必要だ。
ギリシャも中国も知っている、それはまるで「不動明王」のようだ。
さらに、「レッグエレベーション」と言って足をダラリとさせたり、足を投げ出したりすることが心臓に効く。
不動明王 瀬戸朝香 My home town.

腎臓が悪いのならばポカリスエットを飲んだり、肝臓が悪いのならば首にネックレスや数珠、チョーカーをつけてみるといい。
SPEED My graduation.

ポカリスエットCM.



疲れていたりして「嫌なことばかり思い出して苦しい」ときに、脳では「脳腫瘍ができる」という反応が起きている。
このような時には、「お風呂に長時間つかる」のが正解だ。
汗になって脳腫瘍の塊が流れ出てしまうのだ。
バスルームでダイアリー

のちに山崎闇斎のように垂加神道を作るものも現れた。
いずれにせよ「君子」というものがどういうものなのかが明確になったのは江戸時代の話であった。
クラスで、天国と地獄、話のわからないやつ、知識に飢えた者たち、そして天使たちのいる世界でいい成績をとるものは「鬼神」と呼ばれた。
陰陽師とは、暗い歌も明るい歌もよく理解しているもののことを言う。
最終的にこれらのことを最も正確に理解したのは吉田松陰であり、山鹿素行を記録係として、政治家伊藤博文を生み出している。
西周や中江兆民なども優れた政治家だった。
政治家に仕えるサムライたちは「武士道」というものを発展させていった。
いずれにせよ、東京大学を中心とする天皇制はゴールデンエイジを迎えるに至っている。

西田幾多郎は、金沢市に生まれたが、第四高等学校の「あまりにも抑圧的な」空気に耐えられず中退している。
東京帝国大学に入り、哲学の道を志した。
フッサールの現象学をやってみると、女の子は家庭で守られ、通学路で守られ、学校で守られるという具合におのずから「世界の広さ」は決まるだろうとした。
女子中学生や女子高校生に、さほど「冒険の機会」を世の中は与えていなかったのだ。
しかも、天皇制というものがあった。
近衛文麿に頼まれて「世界新秩序」を描いたが、西田幾多郎のことを「23歳まで健康に生きて、夢のように消えていった」と詩に描いた遊佐という女もいた。
実は、私(小野光太郎)も21歳の時に、遊佐道子(祖母・小野道子)に似たような詩を送られている。
遊佐は「酒井法子さんに詩を提供する」という形をとって私に詩を聞かせている、
エアー〜サラダデイズ 酒井法子。

女の子は「知識」の周りをうろちょろしているが、「走っている馬」にしか興味がなく、男は「走り続けなければならない」と語った。
しかし、男たちの野心は容赦なくぶつかり合った。
この、西田の「純粋な経験」は23歳で終わりを告げた。
夏休みは終わらない おニャン子クラブ。

西田は23歳で目が覚めた(自覚)。
女に「おちんちんがない」(無)ことをどう考えたらいいのだろう?
彼は自分の鏡を見て、そこに「知性の塊」を見つけた。
フィヒテやショーペンハウエルなどを読むにつれ、「男である」ことを感じたのだ。
「男は鏡を見るから女の子にやる気をもらえるのだ」
鏡に映る自分の顔が世界にあるのだという意識がなければ女の子に興味が持てないだろうと考えた。
タンポポ 私の顔。

鏡を都合よく見ることは、世界を都合よく見ることだ。
それは、自分を否定しないためであった。
西田は歳を重ねるごとに世界を美しいものだと思えるようになった。
決して惹かれ合うことはない「処女」というものの美しさが分かるようになったのは歳をとってからだったのだ。
若い連中には「エロオヤジ」と言われるだけだったが、すべては「鏡」と「自覚」にあることをいずれ分かってもらえると思った。
年寄りは、中年女の美しさまで見抜く眼力があった(恋的直観)。
老婆にも「昔、ハンサムだった」ということを見抜く眼力があっただろう。
恋的直観がなければ「熟年カップル」は生まれないだろう。
老いさらばえた顔を丹念に鏡で眺めてみろ。美しさとは何かを知るだろう。
「自覚」とはそのようなものだ。
老境に「絶対的に染まる」とは美しいものに囲まれることを意味した。
能年玲奈 CM.

世界が美しさに囲まれた時に、神との関係は「私とあなた」の関係になる。
国も愛せるし、若者に「お国のために死んでこい」などと公然と言えるのも鏡を見たからだ。
西田が「世界新秩序」を作るために年寄りのこのような心理を利用したのは事実だ。
学問にしか興味がなかったために、国の行く末までは考えていなかったり
若者(ヘーゲリアン)が年寄りのいうことを聞くのを見て愚かだとすら思った。
「白人に美しさで負けている」と思い込むことがどれほど危険なものなのかを東洋の人間は知らなかった。
東洋人は「ただ座っていればいい」(只管打坐)と言われるのもこのためだ。
しかし、1939年に公表したこの研究も、戦争が終わると40年間、忘れ去られた。
人間には「若さ」だけではない世界があることを知り、ようやく西田は遊佐に「感謝」の手紙を書いている。
「私は夢のように消え去ってはいないよ」
東洋で「禅」を語るとはこのような世界観を語ることだ。
「有限の中に無限はあるか?」
それは、東洋人こそが見た目で白人に劣等感を持つことに無限があるという意味でもあった。
西洋と東洋の「出逢い」をこのように総括している。
好きになったらキリンレモン。

2世紀にわたる「鎖国」を終えたのちに、日本国は「なぜ西洋の教室はムンムンとした熱気に満ちているのだろう」と考えた。
これが京都学派だ。
田辺元や、西谷啓治などの論客がいた。
東京はすでに首都としての地位を築いていたが、「京都学派」という明確な指導者がいたのは古都である京都だった。
京都学派が見たのは西洋ではなく東洋であった。
言葉づかいや人間観、歴史や文化などの「関西」という概念を作り出したのは京都学派だった。
白人ほど鏡に映る顔は美しくないからこそ私にとって世界は美しいとした「禅」やそれを背景にした「新派」の舞台などが作られた。
「床上手な女」という舞妓さんもこの時に出来たものだ。
白人よりも私たちには世界が美しく見えるという京都の教えは「京都の女」を作り出した。
東京の連中はすでに西洋に蝕まれているとして「我々の女たちは美しいだろう」と猛烈にアピールした。
「我々の女たちは東洋から来た」
上田閑照はまだご存命だ。
1980年代に東京が踊り狂った。
しかし1990年代に「東洋から来た女たち」の逆襲が始まったのだ。
「愛国心とは京都を愛することにあるのではないか?」
舞妓さんへの道。

女たちが「下の名前で」呼びあうというのも京都学派が考えたことだった。
下の名前の方が苗字よりも多様だったからだ。
三木清はブルジョアとして、戸坂潤はマルクス主義者として彼女たちと向き合った。
三木清は「貧しい生い立ちの女」を知らなかったが、戸坂と並んで「左翼」と呼ばれた。
西谷啓治は1977年に「太平洋戦争が京都学派を作ったんだよ」と語っている。
ヨーロッパやアメリカは、京都に隠されたものが本来の日本であるとして、それを知りたがった。
21世紀に入って藤田正勝と大橋良介がその全体像を明らかにしている。
藤田は「西田幾多郎と田辺元が作ったネットワークのことを京都学派と呼んでいるんだよ」としている。
しかし、大橋良介は「京都の女たちと左翼グループのことなんだ」としている。
これは西田幾多郎の「金脈」に注目するかしないかの違いだろう。
たしかに大橋良介も、西田幾多郎とどう関わったか?京都大学に属していたか?仏教をどう思っているか?マルクス主義者愛国心を理解しているか?などを京都学派の特徴としている。
細雪 谷崎潤一郎。

西田幾多郎は、京都の女をプロデュースし、セールスに出して田辺元とのつながりを持った。
しかも、「禅」というイデオロギーを強烈にアピールし、「私たちが見ている美しい風景」を作り出した。
京都大学の学生たちはそのために「西洋と東洋の間」を揺れ動いていた。
辻村公一がハイデガーを持ち込んだりしたので、学生たちの間に混乱が起きた。
久松、下村、竹内などの「第2世代」から、現在は「第3世代」に受け継がれている。
長谷正当、堀尾勉、大峰顕、藤田正勝、森哲郎などを知らなければ京都の金融が分からないのだ。
つまり、これは「神道」ではないか。
細雪 谷崎潤一郎。

お風呂という文化をもつアジアにおいては、勉強や努力というものは「ダサい」(サイン)であり、「ダサいんだ」(タンジェント)であった。
しかし、勉強というものが「隠されたものを明らかにする」と考えられていた。
「女学」「女の口説き方」を学ぶ前に「勉強という方便」を知っているだけで、女は「隠されたもの」を明らかにした。
ハイデガーは「女学ってなんだ?」とアジアに向けてメッセージを出した。
「形而上学」=「女学」であることを勉強や方便があることによって日本の男は見失っていた。
1920年代に田辺元はハイデガーと出会って、このことを指摘された。
「僕は勉強さえできれば」
このために「宗教」=「女学」という発想が根付かずに「超自然的」な方向を宗教の世界が向いていたのだ。
CoCo メロディー。

父と子、聖霊という三人組のいじめにも気がつかずに「仲良し」だと思っていたのだ。
いや、父と子と神聖なゴーストという理想の男という捉え方すらされた。
「女学」も知らないニヒリストしか日本の女の周りにはいなかった。
しかも、中途半端にちいさいおちんちんを見せることを嫌ったのだ。
「これはキリスト教ではない」
西洋ではそのように受け止められた。
「我々はこのようなつらい教えを信じているのではないのだ」と考えたのだ。
日本ではおちんちんと勃起が「心」によって金に変わることを知った。
松田聖子 ハートをロック。

アジアの女たちは、まるでこれらのことを見透かしているように「神秘」を演じていた。
「魔女が笑い、魔女だけが得をする」
これを何千年つづけるつもりだ。
セックスを「サプライズ」とみなすスーンヤターをどれほど経験したら気が済むのだろうか。
まるで、セックスと関わらないことを「無我」と呼んでいるようだ。
アジアンビューティー。

プラティーヤサムトパーダ(縁起)と呼び、まるでセックスをしたら予想通り、みんな教室から脱落していった。
エリートほど「真空妙」を知っていたのだ。
この東洋の「スーンヤター」のおかげで、どれほど日本人は損をしているのだろうか。
ここで、「処女」というものと「有無」という概念が結びついている。
荘子がこの概念を「王家の証」としたのは自然の成り行きだった。
「有無」がそのように仕向けたのだ。
西田幾多郎が、このことから「処女をセールスにかけよう」と思うのも自然の成り行きだった(トポロジー)。
吉永小百合。

女の「場所」(あそこ)は男と女がともに意識するものとなっている。
「キス」をするという表現が「胸を揉まれたりセックスしたりすることを意味する」という文化が生まれた。
女の「場所」は、人が生まれるところでもあったし、男が射精して死ぬところでもあった。
それは「知的な男が入り込む」というだけにはとどまらなかった。
宗教が「女学」を教えていないんだよ。
「女心は大きすぎる」なんてことは欧米で語られていることだった。
高橋由美子 ときめき。

「絶対」と「相対」は、女の「場所」との向き合い方から自ずと決まった。
相対主義が日本に根付いただけで「神は800人」という汎神論が生まれた。
また、男の有限性と女の「場所」の関係から、一度セックスしたら男が冷たくなるという「逆対応」という現象が見られた。
相対主義の立場に立つ男は「逆対応」をすることを知らなければならない。
冷たくしないで。

1930年には田辺元は、西田幾多郎を「教授」と呼んで仰ぎ見ていた。
哲学と宗教の分離をこのように明確に行った人はいなかったからだ。
女の「場所」は宗教となっていると西田哲学は位置づけていた。
わいせつ概念が欧米とは異なっていて「宗教的エクスタシー」をハードコアによって得られるとされたのだ。
このため、女たちは「わがままを言っても聞いてくれる」男に夢を託すようになっている(他力)。
西田哲学の女の「場所」の考え方は「絶対的無」と呼ばれ、なかなか批判が困難だったし、変なストイシズムを「悟り」などと呼ぶ連中もいた。
これらのことを共通認識にしたのが新仏教(鎌倉仏教)であるとされ、禅であった。
三度生まれ変わらなければ悟れない、つまり、お父さん、息子、孫が射精する頃には悟るだろうとした奈良仏教、そして、曼荼羅とお経という密教世界に対して、新仏教はさらなる発展を遂げたのだ。
このことを踏まえて、西谷啓治は「ニヒルな男ってなんだろうな」ということをニーチェを紐解くことによって探求している。
赤いスイートピー 松田聖子。

また、西谷啓治は若い頃に3年間いじめられた(徳)経験を持つ男のことをニヒリストと呼んでいるのではないか?としている。
そうなると、新仏教は儒学と結びつくことになる。
女子たちの「勉強ができる男」へのフェティシズムとはそれほどまでに強烈なものだった。
「冷たくされてもいいの」という女もいた。
ニーチェにとってそのような男は「狂人」であったが、日本の禅はそれをいともたやすく受け入れた。
ローラースケートをはいた猫 松田聖子。

スーンヤターと呼ばれるクラスをどのように近代化していくのか?
これが日本国のテーマとなった。
「虚無」「空の場」の近代化が求められたのだ。
ニーチェやハイデガーを受け入れた?それでは日ユ同祖論ではないか。
上田閑照は1980年代に活躍した哲学者だ。
「禅の国」「悟りの国」の膨張を目指したのだ。
「日本の女」を世界に売り込んだ。
また、上田は男に関しては「俺は若くない、俺は俺だ」というスローガンを用いた。
「俺は(女心を知っている)俺だ」という意味であり、これだけで日本の近代化がなされると考えたのだ。
ハードコアが広く知られるようになると「女心を知っている」ということはもはや男にとって絶対に必要なものとされたのだ。
この時ようやく日本は「水平線の向こう側」の知識を必要としたのだ。
外国に目を向けることを道元は「無我の境地」と呼んでいた。
日本の「教室」を離れて、本当のキリスト教社会の空気に触れることをこのようにたとえたのだ。
どうしても近代化が必要だったのは「方便」だけを愛する女たちがいたことから多くの問題が起きたためだ。
水平線でつかまえて 三浦理恵子。

さて、これらのことを語ったことから、日本国の哲学はソクラテス、プラトン、マルクス、ハイデガーを西洋から、孔子、韓非子、ガンディー、西田を擁することとなった。
戦争中だったこともあり、左翼活動が蔓延したのだ。
三木清はブルジョアとして、戸坂潤は貧困層の女を相手にすることにより、この二名は1945年に獄死している。
西谷啓治は「純粋に日本の性文化を愛することが禁じられたからであろう」としている。
大橋良介は「京都の側からの集団的レジスタンスであった」としている。
「国が戦争に負けてしまえばいいのに」という敗北主義ですらあった。
日本のファシズムへのカウンターとして日本の性風俗が涵養された。
1943年に矢次一夫が政府の側から西田幾多郎と接触した。
福沢諭吉やカント、アダムスミスに造詣が深かった矢次は、西田と「世界新秩序」を書くことにした。
この二人の活動に東条英機内閣総理大臣が共鳴したのだ。
天皇裕仁にも「世界新秩序とは何か?」が伝わった。
西田は「他民族の文化を否定すること、この文化を世界に拡散させること、植民地へ皇民化として教えること」に反対した。
「世界的世界」においてはこの文化は日本だけのものでなければならないと考えたのだ。
遊佐道子が今度は西田を「あなたはもっと世界に出て行くべきです」と説得する有様だった。
「皇室は世界の始まりと終わりを手にしようとしています。あなたの研究のおかげで過去を握り将来を握ったのです」と遊佐は語った。
民主的でありながら、それでも全体主義を握ったのは西田が最後だっただろう。
特高警察 赤狩り。

西谷啓治、高山岩男、高坂正顕などが「中央公論」や「世界」でしきりに西田幾多郎を書き立てた。
「シンポジウム」と呼ばれるキャンペーンだった。
この時に「まるでもともと日本にあったような文化」が作り上げられた。
まるで、ローマ帝国、大英帝国に次ぐと言わんばかりの「日本文化」が出来上がったのだ。
これが貴族院や皇室の「処女・童貞文化」であり、のちに禍根を残している。
「有無」「ありやなしや?」という二択を迫ることは西谷啓治も「近代化に十分耐えられる議論である」としている。
1942年2月に「大島メモ」というものが残された。
日本国がどのように西洋と向き合い、どのようにアジアの植民地を解放するかが記されていた。
それもすべて「京都学派」をいかに理解するかにかかっていた。
大島康正がその本当の意味を語ったのは1965年のことになる。
特高警察 赤狩り。

この、京都学派の「ナショナリズムを支持する側」と反体制の側の二つに分かれるという「どっちつかず」の立場が戦後の彼らの存続を決めた。
「京都学派は必ずしも戦争を支持したわけではない」と語られたのだ。
この「戦争toto」に勝ったから舞妓さんも京都に残った。
「中途半端にちいさいおちんちん」も美学とともに国際社会を生き残った。
藤田正勝は、平成の「失われた20年」を「京都学派のリハビリ」と説明している。
「戦争が日本国の文化を何をもたらしたのかを忘れてはならない」
アジアンビューティーと、処女というものの復権を目の当たりにするのに時間がかかった。
本当に日本の女子たちが美しくなるためには皇室からのメッセージも必要だった。
また、中華人民共和国というライバル国家がなければ日本国が本気で「女子力」というものを考えることもなかっただろう。
日本国において「漢」ではなく「洋」に影響を受けたと公言する政治家の登場を待った。
インド・中国・日本ルートが日本に「失われた20年」をもたらしていたからだ。
岡倉天心の「アジアはひとつ」という考えの後遺症とも言われた。
AKB48 #好きなんだ。

教室で、ヨーロッパやアメリカの話題が出るのが当たり前になるのをひたすら待った。
クラスの女子たちにこのことが影響を与えるからだ。
みんな「中国」しか見ていないのでは日本は沈没する。
たしかにヨーロッパはもはや世界の中心ではない。
それでもギリシャ哲学もキリスト教も見て欲しかったし、それをやらなければならない国だったのだ。
AKB48 願いごとの持ち腐れ。

どんなに権勢を誇った人がいても、その時代は終わっていく。
ここにも「宇宙論」はあるよね。
男を「有限」なものとして作っているんだ。
「何もない」というよりは「何かあった」と思いながら古典を紐解いているんだよ。
「昔の人も愛し合っていたんだな」と思いながら根気よくその本当の意味を探っていかなければならないんだ。
女は「男の話をすぐに忘れる」から手紙を大切にとっている。
二人の間に何もなかったとは言えないことばかりだけど、恋文のどこに注目すべきかというのが、昔の人の心を知ることであり、ビッグバンの存在を感じることなんだ。
残された手紙の世界は大きすぎる。大きすぎて「何もない」というほかはない。
膨大すぎて手がつけられないから、我々は「今を生きよう」と決めたんだ。
文献学をやっていると、その膨大さに「神以外存在しないんだろう」と思うことばかりなんだ。
「歴史を説明しなければならない」という考えを否定したくなることもある。
手紙なんてのは10のマイナス35乗(秒)程度のささやかな意味しか持たない。
昔の人なんてその程度の存在なんだ。
手紙の「論点」を20ぐらいに分けてひたすら調査したのだ。
ひとつひとつの「愛」なんて丹念に追ってられないよ。
大河ドラマでもいつも同じシーンばかりやっている。
ビッグバンに太刀打ちできないからなんだ。
歴史をシンプルにして「今を生きろ」と言っているに等しい。
信長とか秀吉、家康と言っていれば人生をシンプルに生きられる。
しかし、ひとつひとつの「愛の物語」が文献学の世界にはある。
ビッグバンを知ることとはそのような学問なんだ。
アイルトンセナ ラストラップ。

一人の女を愛した人の恋文に着目するのであれば「どんな本を読んだ男なのか」を念頭に置かなければ到底興味の持てるものではない。
手紙なんて「長話とお金」の話しか書いてないからだ。
「必要とされた男」かどうかで判断していくけど、それでもビッグバンの世界を相手にするほど我々もヒマではないと思うこともある。

本居宣長は、日本国は昔、女神さまとともにみんな仲良く暮らしていたとし、中華帝国の影響下から脱しようとした。
古事記、日本書紀や多くの詩を研究したのだ。
一方で19世紀の中頃になって平田篤胤は、「天皇」というものを持ち出して明治維新につなげている。
出雲大社も「教義は神話になります」との立場を明らかにしている。
契沖は、57577シラブルの和歌というものはスサノオという王子の詩であるとして、「お風呂」というものを中国と共有し、儒学を共有しながらも、それぞれの男が学校で勉強(儒学)をしていたさまを表現しているとした。
賀茂真淵は、万葉集から50音というものを作り出している。
契沖と賀茂真淵が50音を作ったのだ。
1764年に本居宣長は、古事記は中国語みたいで読めないよ?というニーズに応えて古事記伝を50音によって書き直している。
山崎闇斎は日本書記を読み解くことを通じて「儒学によって日本は統治されていた」としている。
新井白石は「高天原とは九州のことである」としている。
「天の意思」とは皇統にあるとも語った。
「神聖な時代」に何が起きたのかが古事記や日本書記には書かれていた。
天武天皇を寵児とする時代のことだった。
女たちが奪い合った男が天武天皇だったのだ。
儒学や仏教に造詣が深いということへの女たちの憧れがあったのだろう。
「昔の人は」というような話は全部、天武天皇のことだった。
儒学や仏教は漢心(からごころ)と呼ばれる中国人の心をいうが、50音にすると大和心になる。
まるでいろんなものを洗い流したように「まごころ」に満ちたものになるのだ。
恋心を抱いた男や女がいる場所の「空気」を祀ったりもした。
日本人にはそのようなメンタリティがあったのだ。
CoCo メロディー。

ナオビとナガツビという二人の女神をすべての男が持っていた。
ナオビのミタマを寺社に祀ったし、クズバナのような花を愛したし、玉くしげという宝を贈った。
儒学のいう「天」仏教のいう「カルマ」を知るものはみんなナオビに憧れて宝を贈っていたのだ。
このような「女への憧れから宝を贈った」というのが神話のあらすじである。
水戸学は、日本の方が中国よりも優れていると主張し、男が出世して、昔憧れたナオビに贈り物をするという習慣を日本国のアイデンティティとしたのだ。
明治維新を経験しても、第二次世界大戦を経験しても「ナオビのミタマ」に宝を贈る日本人の習慣は廃れなかったな。
かなり保守的な思想であると丸山真男も位置づけていたようだ。
芳賀矢一や、村岡典嗣も「忍耐強い男は得てしてそんなものだ」としている。
額田王 ナオビの夢。

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