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Foreign Affairs

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2017年9月30日 (土)

鋼鉄はどのように鍛えられたか。

1878年に生まれたスターリンは、人生の最初の40年間は「得るものがなかった」とされる。
しかし、子供の頃の「詩」が印象的だったと語る人もいた。
グルジアの家庭に育ったが、ツァー(皇帝)にシベリアに流されている。
1917年2月の革命でボルシェビキのメンバーとなった。
スターリンは39歳だった。
1922年にロシア共産党のリーダーに彼を抜擢したのはレーニンだった。
一億二千万人の農民をどのようにまとめあげていくのかが課題となり、芸術の発展や秘密警察の創設、恋愛論の普及などにエネルギーを注いだ。
趣味は時計集めとビリヤード、ガーデニングとスチームバスだった。
ミネラルウォーターとワインをよく飲み、タバコも吸った。
蔵書はやがて20000冊になり、プラトンやクラウゼウィッツなどを特に読んだ。
チェーホフも好み、「ハハ」という笑い方を真似した。




スターリンは指導者になってもハーレムを作らなかった。
子供の頃の遊んだ時の事故で、鼻や頰、唇の下などにできた赤い斑点がコンプレックスだったとも言われる。
この赤い斑点は公の写真からことごとく消去するほどのコンプレックスであり、身長はナポレオンと同じぐらいの5フィート7インチで、ヒトラーよりは1インチ小柄だった。
「階級闘争が激しければ激しいほどスターリンの権力基盤は高まった」
このことから1929年に独裁への道が開かれたのだ。
共産主義というものは女が男を奪い合うものなのだ。
すべての女たちをイデオロギー的にまとめあげていくという社会主義に対してスパイ行為や、殺人、嘘がまかり通った。
「29歳以下の人間が国の半数を占めた」
これがスターリンに味方した。
ミコヤンに「俺はレーニンのような個人崇拝は嫌いなんだよ」と語った。
モロトフもその考えに共感していた。
「ソビエトが帝国になるためには、俺は時には怒り、時には笑わなければならい」とし、個人崇拝を嫌ったのだ。
ヒトラーは1889年に生まれている。
美術大学を不合格になり、母が死に、ホームレスシェルターで暮らしていた。
図書館に通ってショーペン・ハウエルなどを読んだり、アメリカの本を読んだりしていた。
オーストリアの兵役を逃れたことから捕まったが、栄養失調とされ罪を逃れている。
その後、第一次世界大戦に「プライベートな」兵士として参加し、その後も軍に所属し「情報屋」を演じていた。
ババリアソビエトなどのドイツの運動を見張ったりしていたが、当時のヒトラーは「貧しい犬のように行動していた」「自分に対して優しい人を探していた」と周囲は語っている。
スターリンが、ソビエトの要職を占めていた時に、ヒトラーはミュンヘン一揆(1923年)を起こしている。
この時の裁判はヒトラーにとって大勝利であった。
「4年半に渡って軍務についた経験談」を語ったことから「まさにドイツ人の鑑だ」とされたのだ。
刑務所で13ヶ月かけて「我が闘争」をルドルフ・ヘスに筆記させたが、セールスは伸びずに、第2巻は出版すらできなかった。
「自分が急進的になればライバルも急進的になる」
これがヒトラーのやり方となった。
1907年にスターリンはベルリンを訪れているが、ヒトラーなどという人物はいなかった。
しかし、1933年にはスターリンはヒトラーを尊敬していた。



1941年6月21日に、スターリンは、レーニンのデスマスクや、マホガニーの家具のあるオフィスでくつろいでいた。
政治活動においてヒトラーに勝った日だったのだろう。
ワシントンやウォール・ストリート、ハリウッドからよく学んだ。
その代償として足の関節が痛んだ。
「鋼鉄の男」「ヒマラヤよりも高い」
スターリンの政治活動はそのように語られていた。
健康不安説を流すものもいた。
オーストリア、チェコ、ポーランド、リトアニアをヒトラーは落とした。
1871年にオットー・ビスマルクすらためらったことをやったのだ。
ブルガリア、フィンランド、イタリア、スペイン、ハンガリー、ルーマニアなど、ヨーロッパの半分をヒトラーはコントロールした。
1941年7月21日にヒトラーはソビエトを攻撃する、と周恩来が大騒ぎした。
スターリンが何を考えているのかが知りたかったのだ。
しかし、社会主義の世界の男女の関係を探る情報ネットワークが巧みに外交に用いられていた。
スターリンの手元には「7月22〜25日」「7月21日か22日」という二枚のメモしかなかった。
ヒトラーにせよスターリンにせよ、日常の政治活動があったが、やはり、スターリンは飛行士がドイツ軍が国境を越えてきたという報告をよこした時は緊張したし、メディアのデタラメを非難した。
7月22日の夜明け前のことだった。
モロトフがスターリンの部屋に入ってきて、サフォノフも来た。
ティモシェンコもボロシロフも来た。
政治生命を共にするという意味ではスターリンの勝利を確信していたのだろう。




軍事力ではドイツに劣っていたソビエトではあるが、情報戦に強かった。
バルバロッサ作戦は始まったが、あとはヒトラーの孤立を待った。

スターリンはソビエトという「男女の陰謀に満ちた社会」において、一行しか書けない電報や、短時間しか話せない電話の改革を行った。
この「クレムリノロジー」だけでも軍事力の近代化が行えたのだ。
ヒトラーには、マルクスやレーニンなどの「傑出した先生」がいなかったのだ。
ヒトラーの「先生」を強いて挙げるのであればダーウィンだろうが、英国がこれを嫌うのは明らかだった。
ヒトラーは日本に「英国をなんとかしてくれ」と泣きついてしまった。
いくらロンドン空爆をやっても、嫌われたものはどうしょうもなかった。
ヒトラーは「民族がどこに行こうとしているのか?」を説明できなかったが、スターリンはマルクスに導かれるような戦いだった。
ドイツ第三帝国は、「ビスマルクの孤立」を再び味わった。
そのあとこのようなムーブメントが支持を得ることは二度となかった。
スターリンの「リトルコーナー」と呼ばれる執務室に常に人がいたことも勝因となっている。


1938年にチェンバレンが、ダラディエやボネットと「ミュンヘン会談」を開いた。
イギリスとフランスは大陸におけるパワーバランスを図ろうとしていたのだ。
1938年にチェコとドイツは危機を迎えていたし、ヒトラーとヘンラインの関係は緊張していた。
ランチマン卿は常に「仲介者」だったし、チェンバレンもその役割を果たそうとしたのだ。
それは宗教界に訴えかけるものだったのだろう。
アメリカは「戦え」と言っていたし、アメリカの政治経済にとって、決してチェンバレンの「仲介」は世界の団結にはつながらなかった。
1938年2月にはヒトラーはいまだ敗北を知らなかったが、オーストリア共和国や、ベルチェストガーデンのドイツ人居住区が落とせるとはハリファックス卿は考えていなかった。
チェンバレンは「仲介」と称しながらも「ドイツはパンを食べられないだろう」という読みをしていたのだ。
チェンバレン内閣のイーデンは「イタリアとスペインはすでに戦っている」としてヒトラーの本気度を悟り内閣を去っている。
「今、そして永遠に」続くパワーバランスではなかったからイーデンは閣外に去ったのだ。
イーデンは「国際連盟を守った男として私は歴史に刻まれるだろう」と発言している。
ムッソリーニもイタリアをドイツ、フランス、イギリスとの「四極」と位置付けてもらえればありがたいと考えていたに過ぎない。
しかし、ドイツのセイスインカート国務大臣は全く異なる読みをしていた。
3月11日にはオーストリア共和国は地図から消えた。
イーデンは「俺の読みは正しかっただろう」と言って多額の政治献金を受け取ったようだ。
ヒトラーの頭にはラインラント進駐の成功体験があった。
自分の行動分析で儲ける連中がいる。
「イギリスで万馬券が当たるぞ。ズデーテン地方は簡単に落ちる」
ズデーテンの連中はドイツにしたがったほうがモテると考えている、しかも地政学もそれに味方している。
ボヘミアの伝統へのこだわりは確かに強い、しかし1936年からズデーテン地方との交渉は始まっており、ドイツ全体主義の魅力を高めてきたのだ。
ズデーテンドイツ党はアクティビズムに過ぎなかった。
満州、エチオピア、スペインなどの問題が起きるたびに世界の政治家たちは「賭け」をしていた。
「ファシズムとは何か?」を理解し、リップサービスを送ってきたのはソビエトの一部の政治家だけだ。
ロンドンタイムズもその意味を理解し、色々と書き立てている。
ズデーテン地方のギャンブルにニューヨークタイムズが興味を示したのも確認した。
オーストリア共和国のウィーンサークルが崩壊したことにより、オーストリアに進駐できた。
この時にヘンラインは悲鳴をあげた。
ヘンラインは、イギリスやフランスの政治家に助けを求めたが、いろんなギャンブラーがいて誰と話せばいいのかがもはや掴めなかった。
3月のオーストリアの悪夢によってヒトラーとヘンラインはもはや抜き差しならぬ関係にあった。
「チェコスロバキアとユーゴスラビアがヨーロッパで発言力を高める」などという予測まで飛び出した。
スペインのフランコとチェコがイギリスの女王に跪いたのだ。
ハリファックス卿も、「女王陛下」とさえ言ってもらえればよかった。
国際紛争を解決する能力を英国国教会のものにするだけでイギリスの貴族は儲かったのだ。
イギリスの貴族は「仲介」という悪い癖がある。
ヘンラインは「世界の政治家」に名を連ねたことを喜んでいた。
フランスの「高度な政治意思」も、「ボヘミアの高い山」と呼んでくれた。
ここでヒトラーは「将軍ではなくブラックメールを送る達人」としての本性を現した。
破格の金額を与えるという根も葉もないメールをチェコスロバキアにばら撒き始めたのだ。
リッペントロップは実際にお金を集めたし、ゲーリングは軍事力を強化した。
いずれにせよ、「チェンバレンの余計なお節介」によって世界の政治家はヒトラーの動向をまるで「賭け事」として扱うこととなった。
69歳になって突然、世界の政治家の一人として知られるようになったヘンラインには応援団もいた。
このことは、「ポツダム宣言まで世界の政治家が賭け事のように扱った」という具合にのちの国際政治に大きな影響を与えた。
英国国教会の資金力を高めたかった貴族がいたからこのような現象が見られたのだ。
「ヒトラーとともに有名になった男」
ヘンラインを悪くかきたてるアメリカの新聞もあった。
英国国教会の金に群がる貴族がいる。
チェンバレンはこのことだけを行動原理としていた。
「キリスト教といえば動く連中がいる」「平和といえば同意する連中がいる」
しかし、ドイツは軍事力の計算をし始めた。
ジェノアの「純潔の乙女」も動けばイギリスの「ホワイトペーパー」も動く。
そのようにして事態は膠着した。
ヒトラーは演説も巧みに用いた。
チェコにおいてはマイノリティーであったドイツ人をテーマに「マイノリティーとは何か?」という演説がポーランドでも共感された。
この「ニュルンベルク演説」が世界に配信されたのだ。
これにヨーロッパは称賛を浴びせたが、ムッソリーニとの関係は悪化した。
「戦うしかないのか」
戦時国際法がチェコで敷かれることとなった。
ヒトラーは「ニュルンベルク方程式」によってこの問題を解決することを模索した。
チェンバレンは焦った。
ヒトラーがマイノリティー宗教の寺院の巡礼を始めたからだ。
チェンバレンはこのことから内閣改造を行なっている。
「世界のメディアが政策を作る」
ヒトラーはこれを悟った。
ヘンラインはいろいろな人脈からの返信が遅くなることを感じ始めた。
ランチマン卿は「テロではなく平和的に」と発言を変えていた。
ソビエトはルーマニアやハンガリーに兵を駐屯させたし、ユーゴスラビアも戦争の準備を始めた。
イギリスもフランスも「異常な」圧力をドイツに加えると通告した。
ヒトラーは「勝算は50%のラインを超えた」と判断している。
リッペントロップはイギリスを見て、ゲッペルスはフランスを見て、ヒムラーは軍事力を見るという態勢を取り、「平和的に」としてチェンバレンの顔を立てようとした。
ヒトラーは、リンカーンのゲティスバーグ演説を引用したが、アメリカやフランスで受けたものの、ロンドンタイムズで酷評された。
チェンバレンは、ロカルノ条約やケロッグ・ブリアン協定の破棄という制裁は免れないだろうと警告した。
9月28日に再びミュンヘン会談が開かれた。
もはやチェンバレンは「自分の命の危険」を家族に漏らしていた。
ムッソリーニが仲介したが、ルーズベルトからの手紙も差し入れられた。
この会談でムッソリーニは「ヒトラーはこれほどまでに恐れられていたのか」と痛感した。
また、ヒトラーは「金がモノを言うのか」と言うことを学習している。
「まるでカントを恐れているが如く、ドイツの金を恐れている」
そのようにして、この時期の国際社会の主導権をヒトラーは握ることになった。



1994年7月8日に金日成が死去すると、朝鮮半島は流動化し始めた。
問いかけは「北だけではなく朝鮮半島全体を誰が定義するのか?」と言うことであり、後継者の金正日は「おそらく答えが出せないだろう」と予測された。
金正日は、父が持っていた権力を、たとえ自分の知恵ではなくとも「突破力」として利用できた。
金正日は、北朝鮮の「孤立と貧困」を政治経済改革によって乗り越えることを求められたのだ。
権力基盤は「ナショナリズム」にあったし、それは父から受け継いだものだった。
彼の政権は短命だ、という予測が出た時に「核開発」が脳裏をかすめた。
朝鮮半島実にユニークなものであり、中国と日本の「戦術的関心」のもとにあり、それをロシアが邪魔しながら、アメリカが有事の際の37000名の兵士を駐屯させていた。
このことから、北朝鮮が核を持つというのは、緊張緩和と防衛力強化のために当然、考えなければならないことだった。
「アウトロー路線が見えた」
日米同盟を分裂させることもできるものだったのだ。
金正日の資産は「他に代わりがいなかった」というところにあり、北朝鮮労働者党と人民軍、官僚組織をそれだけの理由で掌握できたことにあった。
1970年代から「党の中枢」「一部の革命グループ」という概念が生まれていたし、1990年代にはそれは軍にも力が及んだ。
金正日は、メディアに姿を現さないことで知られていた。
健康状態も悪いようだった。
糖尿病、高血圧、心臓病などだ。
彼の性格を周囲は分析していたが、1978年に韓国の魅力的な女優を誘拐したことや、1983年に全斗煥が滞在中のラングーンで閣僚を爆殺したこと、1987年に大韓航空機爆破で115名を殺していたことなどから推測するしかない。
このことから1993年3月のNPT脱退や、1994年7月のIAEA離脱を予測できる。
中国の江沢民や、カンボジアのシアヌーク王子ぐらいしか友達はいなかった。
北朝鮮は「沈もうとしている船」だったし、中国やロシアは韓国と国交正常化をしてしまった。
中国の100万トンの石油と50万トンの食料以外に頼れなかった。
共産主義を標榜する友人がいなくなった。
1989年から1993年にかけてGDPは20%も落ち込んでいた。
GDPは205億ドルであり、韓国の3287億ドルの16分の1となってしまった。
貿易は240万ドルしか行っていない。
1日一度の食事を食べて、工場は30%しか稼働していなかった。
1993年の三度目の「7年計画」で初めて「指導の誤り」を認めている。
政治面、経済面の双方で韓国は北朝鮮を上回っていた。
GDPで世界15位、貿易の規模で13位だった。
1993年に32年間で初めて民間から金泳三を大統領に選出している。
アメリカの「7番目の貿易相手国」としての地位を韓国は築いていた。
金正日は「サバイバル」だけが課題だった。
父の主体思想というのは「一つの心に一つの国、二つのシステムに二つの政府」というものだった。
しかし、朝鮮民主主義人民労働者党を守ることだけに追われたのだ。
金正日のプライベートの悪い噂は彼のライバルが流したものだったし、腐敗や残虐性への不満が国内に充満した。
1993年12月に「20年ぶりに」党執行部のミーティングを開いている。
共産主義国家で初めて「世襲」という王朝を作ったことも孤立につながった。
鄧小平が中国で、エリティンがロシアで行なった経済改革が彼にはできなかった。
軍と官僚の意識の高揚を行うか没落するかしか選択肢はなかった。
「核は金ファミリーの問題」
そのように語られた。
「なぜトップダウンができないのか?」とも言われた。
中国やベトナムをもっと見て欲しいと周辺国は思った。
それが「最後のスターリニスト国家」の姿だった。
東アジアは北朝鮮にもっと心を開いてもらいたかったが、そのためには「あまりにも閉鎖的」だったのだ。
世界は北朝鮮の貧困しか報じなくなり、まるで中国の天安門事件のようなものを期待しているようだった。
ルーマニアやアルバニアやブルガリアで起きたことを世界が期待するのも仕方がなかった。
二つの川を難民が大勢渡ってくるのは中国も韓国も日本もアメリカも恐れていた事態だった。
アメリカは「北朝鮮問題で仲間を失いたくないだけだった」とされる。
金ファミリーの問題である核開発に対しては、アメリカは国連の経済制裁を用いたし、カーターの「友人としての」訪問から思いとどまらせた。
「アメリカ首脳と話せないのならばアメリカや日本との国交正常化はない」ということも指摘できる。
8000本の核燃料棒や二つの核施設をIAEAが査察することで、2000メガワットの電力の供給を受けた。
ジェノア合意で「世襲が行われても政策の継続性をもたせる」とアメリカと約束していた。
日本や韓国はこのような「北朝鮮の心の風景」を嫌った。
核兵器の半分は納得できないものだとしたのだ、
「ゲリラ戦か核戦争か」という二つのイメージしかない軍だった。
1995年には200メガワットの原子力発電が行われた。
このことから年に20から30の核兵器が生まれる可能性が生まれた。
これにより20億ドルの資金で40億ドルの軽水炉を儲けたとも言われた。
CIAは「少なくとも二つは核兵器を保有している」としてた。
ソウルは「ワシントンのやり方」に嫌気がさしていた。
1991年に韓国は核燃料の生成過程をアメリカに停止することを通告していた。
1995年にNPTの見直しが行われたが、朝鮮半島が除外されることを恐れていた。
韓国の外相が「米韓はあくまでもタンデムであるべきだ」と語った。
しかし、ワシントンは快い返事をよこさない。
軽水炉の7割も韓国が負担させられた。
北朝鮮は「核の話はソウルとはしない。ワシントンだけを相手にする」という戦略を立てた。
韓国は「南北国交正常化だけがアメリカとの正常化をもたらす」というメッセージを明確にしなければならない。
核兵器の問題がある限り国境線は緊張する。
平壌はソウルとの関係を良くしなければアメリカとは話ができない。
そのためにはソウルはアメリカと「一つの言葉で」話さなければならない。
ソウルが「一つの言葉」をワシントンに対して使えない限り金王朝は続くのだ。
ペリー国防長官が北朝鮮に強硬な姿勢を見せた時に、韓国と日本、そして台湾がそれを望んでいないという本音を見せた。
ここで、この三カ国がアメリカの対北朝鮮政策にフリーライドしていたことがわかってしまった。
アメリカと日本は「それぞれの立場で」中国と話す必要がある。
ロシアは常に国連をコントロールしたし、日本は「国連」とさえ言っていればしたがう国だ。
中国は国連の邪魔をしたし、アメリカは「日本外し」をしようとした。
この地図を理解しながら北朝鮮問題と向き合わなければならないし、「金日成が死んだから南北統一の可能性があるのだ」ということも理解しなければならない。

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