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2017年6月28日 (水)

死にたい女。

彼が生きていると、今後私に危害を加えることが分かっている。
そんな時に「彼に死んで欲しい」と思うことがある。
そのような女は「セックスしか頭にない」とされている。
瀬能あづさ I miss you.

もやは彼が社会で戦う力がなくなったとして彼が死ぬのを助けていいのだろうか?
愛し合った途端、彼が力を失っていったの。
私は愛というもので神を見失った。
彼が法を知らなかったからでしょう。
ギリシャやローマの時代には「男の命は守られなければならない」などとは誰も思っていなかった。
20世紀から21世紀にかけて「命の尊さ」が語られるようになったのだ。
16世紀のトマス・モアなどは「生きることの苦しさ」を語っていたほどだ。
1970年代にオランダで「医者が患者の命を意図的に奪うことはやめよう」というムーブメントが起きた。
オーストラリアの北部では医者が患者を簡単に殺していたが、1997年に議会が「そのような話はメルボルンに持ち込まないでくれ」と議決した。
1997年のオレゴン州、2009年のワシントン州、2013年のバーモント、2008年のモンタナ州などでは「命の安さ」が問われたが、ワシントンDCも「そのような話は首都には持ち込めない」としていた。
権力から遠いことが問題となっていたのかもしれない。
「むやみに女を愛する男は権力から遠い」という意味だったのだろうか。
沢田知可子 会いたい。

病気が末期的であること、耐えられない苦痛があること、患者が「殺してくれ」と言っていること、医師が適切な技術を施すこと。
これがアメリカの命の重みだろうか?
アルツハイマーには苦痛はない。
このような死に関する医学の現場や権力者たちの意識は、確実に恋愛の世界に「死」というものの意味を問いかけていた。
恋は苦しいのか?
渡辺満里奈 八月、最初の水曜日。

苦しみを分かち合うという意味では、病気仲間と恋愛サークルの仲間は似ていた。
みんな死を恐れていた。
愛が重荷になることが分かっていたのだ。
医学テクノロジーが進化して、「もはや死んでいる」人も生きることができるようになった。
もはや医学は人の死を助けることはないだろうとされた時に、恋愛の苦しさだけが残された。
男が死にたくない理由は「常に二人の女が周りにいる」からだとされた。
rebecca trouble of love.

病院にはモルヒネも用意してあったし、いつでも助けを求める用意がしてあった。
このような「医学の現場の死生観」が、女たちの「死んだほうがマシ」という言葉の「死」という意味を表現していた。
オレゴンのホスピスで終末期医療の場において簡単に人を殺しているあたりが「権力からの遠さ」を意味しているのだろう。
池田綾子 三日月。

自分が死期が近いことを告知されていない人もいる。
「もう社会で戦う力がない」ことを知らないのだ。
そのような人が「死にたい、死にたい」と言っても、本当に死の意味を理解しているのか、ちょっと苦痛がマシになっただけで気が変わるのではないか?などの注意が必要だ。
【男は二度死ぬ。射精して死ぬ。死ぬとき死ぬ】
Complex majestic baby.

自分の「死」は、あくまでも戦った結果起きたことだとする人もいた。
目的はボールにあったし、仲間の支持もあったし、女たちの直感からも非難されなかった。
聖書にもとづいて「人々のセックスを不快なものにさせなかった」という点が重要だ。
ネイマール ケガ。

延命治療を「もうこの辺でいいだろう」と言って打ち切ることもある。
カトリックが最近、これを認め始めたのだ。
愛が長続きしないことを容認することにつながりかねない。
命と愛の問題は常に隣り合わせだった。
杏里 オリビアを聴きながら。

「ヒトラーは簡単に人を殺す」という話を聞いて神を見失ったのはオランダだった。
売春宿の女たちは権力からも遠く、命も軽かったからだ。
「簡単に人を殺す権力者」に簡単に怯えてしまう女たちがいたのだ。
大塚愛 chulip.


いずれにせよ、病院には本当の「死」があったし、医者たちはそれと向き合っていた。
そこで、世の中の「死にたい」「死んだほうがマシ」「死ぬわけじゃあるまいし」「ぶっ殺すぞ」という用語の意味もすべて病院が定義していたのだ。
身近なところでは「栄養と酸素」が命と関わっている。
しかし「神を信じられなくなる」ことにも命が関わっていることがわかる。
熊木杏里 君の名前。

私(小野光太郎)は、父方の祖父が産婦人科医で、母方の祖父が外科医であり、父は内科医であった。
家の中に「命の軽さ」というものが定義されていたであろうことは想像に難くない。

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