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2016年9月 2日 (金)

前原誠司と保育無償化の研究。

子供は歴史を背負い、神になる可能性がある。それが親にとっての学問ですらある。
親はいろんな物事を解釈する力もあるし、お金も持っている。
子供が何に興味を持ち、どのようにお金を稼ぐようになるのか?
1962年にフィリップ・アリエスが「子供の世紀」という本を明らかにした。
「年齢にしたがった戦術がある」
子供の頃、障害があっても大人になったら治ってしまうことをどう思う?
詩で物事を学習しているということも大事だね。
「面白いことになるぞ?」といって書くのも好きなのだ。
さよなら夏のリセ

【行動だ、ムーブメントだ、ムーブメントへの反応だ、動物であることだ】

男の子で「ブルーだけの風景」を描く子はいるのだろうか?
ロビンというのは子供にとっては鳥にしか見えないんだ。
ロビンを見て人の形を判断していくんだよ。
複雑さやパワフルさ、そして心を大人にしていくんだ。
赤ん坊の脳の方が大人の脳よりも濃密なんだよ。
ワンピース 面白シーン [ロビン編]Part1

国家というのはみんなでフォーチュンプレイをやるものだろ。
北極星をめがけて歩いて、地球の円周を図るんだ。
それが時代の絶対だったのだ。
幼児(0~2)、喜び(3~12)、アイデア(13~思春期)、センチメンタル(思春期~20)、結婚(21~)。
男の子にとって、同じ年齢の女の子の体があるからこのように区別される。
愛の倫理社会/おニャン子クラブ

女の子を奪い合うと喧嘩になることを学ぶ。
女の子とセックスしない方がより良い生き方だと思う。
ナイスガイを演じる。
権威に支えられたモテ方を知る。
金と法律を知る。
己を知る。

中森明菜 - DESIRE 女がほかの男の声を聞きたがってるなんて悟れないよね。

子供が読む漫画は弁護士か医者の物語ばかりなんだよ。
家族の中で「役割」を果たせるのは医者か弁護士だけだからね。
「グレゴリーK」という漫画は、12歳の少年が法律を語る物語だった。
「誘拐」というのは子供にとって非常に重要な意味を持ったのだ。
「家族裁判」というのも子供にとって夢があったね。
ラングナーは、死期が間近に迫った子供を描いた。子供は家庭内で「重要な役割」を演じたかったのだ。
10歳以下の子供にとって「独立」というのは夢でもあった。
情報もなければ経験もない。安定的に物事を処理する力量もない。
「独立」は、すべての衝動のコントロールが求められる。
大人が情報を与えなければ子供は誰かに相談にのってもらわないと生きていけないことを知る。

子供にとって一番いいことは、おちんちんやあそこだけではなく、より成熟することだろうね。
そのために楽器などがあるんだ。

俺が子供の頃はこんなんだったかなあ?と語るだけでも大人は仲間ができるんだ。


【小野光太郎アーカイブより】
子供に関しては科学哲学や、歴史哲学、宗教哲学などの分野でも今まで語られてきたものであるが、たとえば芸術哲学においてとりわけ、関心がもたれてきた。児童文学であったり、絵本であったり、絵画であったりで、子供というものが関心の対象になってきたのだ。この論稿では、子供がどのように認識を発展させていくか、モラルを発展させていくか、子供にとって「良いもの」とはなにか、子供は社会のどこに位置づけられるべきかを研究してみたい。
中世においては、子供というのは「小さな大人」と位置付けられてきた、また、地域によっては呪術信仰の対象になってきたところもあるが、子供の研究においては太平洋の島嶼地域における「子供の呪術信仰」は存在自体タブー視されているようだ。アリストテレスは単純に「人体が未成熟・未発達な存在」と位置付け、現代の我々は常識的にアリストテレスの考えを受け入れているとされている。しかし、教育の現場では、ルソーを出発点とする「段階(ステージ)理論」というものがあり、たちまちこの分野の主流として理論が精緻化されていった。子供は、成長するステージがあり、どんどんそのステージをあがってくるという考えだ。我々は、子供の「能力の欠如」に着目するのではなく、たとえば「外国語を覚えるのが早い」とか「芸術の領域での能力」とかさまざまな点に着目すべきであり、また、大人と子供の「コミュニケーションの可能性」にももっと着目していいのではないかとされる。
子供がどのように認識を発展させるかは古典的な議論としてはデカルトが自己と世界の区別がつくようになるというモデルを作ったが、ジョン・ロックがこれに着想を得て、「白紙」の状態に知識や理性を描いていくのが子供だろうとした。プラトンのような「子供は前世で知っていたことを思い出しているだけだ」などという議論は痛烈な批判の対象となったのだ。
しかし、研究が進むにつれ、子供の認識は「言語」と不可分なものなのではないかとされるようになった。時間・空間・物事の因果関係の認識は言語の発達とは切り離せないものと考えられたのだ。
ステージ理論もたとえばこのような「ステージ」が想定できる。
①生きるということは「活動一般を意味する」
②生きるとは「動くことである」
③生きるとは「自発的に動くことである」
④生きることは「動物と植物にだけ与えられるものである」
幼児教育においてはこのようなモデルの提示が試みられたが、さまざまな論争を引き起こすことになった。ハイハイから始まって、お遊戯から始まって、自分で考えて動くことへ移行し、動植物を育てる、という幼児教育のモデルは、しかし子供の研究においては重要な指摘だった。20世紀に入り、我々はもっと子供を顧みてもいいのではないか、それだけの基盤は整ったのではないかとされたのだ。また、子供は知的な領域では、自分を満足させたり、必要に駆られて学習するのではなく、「型にはめられた」知識を学習することから始めるとされる。高度な知識に対応する能力に関して子供が大人に劣るのは現実であり、複雑さや完全さという意味では大人にはかなわないし、型にはめられたものを学習するという手法をとる以外に「高度な知識」は学習できないのだ。

モラル(道徳心)の涵養に関しては、古典としてはプラトンもカリキュラムを組んでいるし、アリストテレスは、体系的な倫理学の本を残している。また、多くのストア派哲学者たちが、ダイナミックにモラルの涵養に関する分析を行っていた。
ルソーは、モラルの涵養の領域においてもステージ理論の構築を試みている。
基本的に5段階に分けた。
①生後から2歳まで
②3歳から12歳まで
③13歳から思春期(性的成熟)まで
④思春期から20歳まで
⑤21歳から結婚・社会的責任がともなうまで
ルソーはこの研究で興味深い指摘を行っている。幼児にしつけをするのは当然のことであるが、子供が「道徳心」という概念を明確に理解するのは13歳ごろなのではないかとするのだ。それ以前に道徳心を確立することを子どもに要求するのは「無理である」としている。この考えは必ずしも正しいとは言えないが、モラルに関する「ステージ理論」の基盤としてその後の理論が形成されていった。
コールバーグという哲学者が、このステージ理論を6段階に精緻化した、
【レベルA】前段階
ステージ1:しつけや服従に適応する時期
ステージ2:ナイーブに物質的な享楽を望む時期
【レベルB】日常のモラルに従う
ステージ3:良い子として他者といい関係を築き上げ、承認してもらいたい時期
ステージ4:権威をともなう道徳心に目覚める時期
【レベルC】社会で確立したモラルに従う
ステージ5:約束を守る。他者を害しない。みんなの意見を聴くなどの法的概念の理解
ステージ6:個を確立し良心の原則に従った道徳心を抱く
コールバーグは実は「ステージ8」まで作っていたのだが、「大人ですら」ステージ5まで到達していない人がいる現状がある、としているのだ。
このコールバーグの見解には「ルールにとらわれすぎだ」という批判もあるのだ。たとえば、女子などは「あまえたい、かまってもらいたい」という育ち方をすることもあり、そのような女子にこのステージ理論を押し付けると「葛藤」を引き起こすともいわれる。
子供にとっての保護者の必要性は、その国の政治的あるいは社会的な条件にも依存するものだが、純粋な愛情から出た公正な保護を必要とするものと考えられている。子供が他の兄弟よりも冷遇されたとのちに考えるようになることが明らかであるような扱いでない限り、あまり神経質になることはない。保護者の存在が子供の道徳心に影響を及ぼすことになる。家族が子供に及ぼす影響は「家庭の倫理学」として研究されている。しかし、子供の「最善の利益」を常に保護者に要求するわけではないことをアメリカやイギリスは認識したのだ。12歳のグレゴリー・キンズレーという少年が恵まれない境遇の中で育ち、この年齢でありながら家庭裁判所に「養子縁組」の申し立てを立派に行ったことが有名になり、必ずしも、親の育て方は子供にはあまり関係ないのではないかとされた。極端な研究では、難病の子供が「自分の避けられない死」を親と話題にもせずに生活できる事例を研究した人もいる。必ずしも「育て方」「家庭の倫理学」は「最善のもの」でなくてもいいのではないかという研究なのだ。
子供の描く芸術は、どんな大人よりも「子供らしい」というところに価値がある。20世紀の有名な芸術家で、子供の作品のコレクターもいたそうだ。親は、子供が描いたものを無条件に受け入れ、冷蔵庫に自由に落書きをさせるのがアメリカの慣習でもある。子供が物事を「表現する」のは「大人にするのを助ける」という意味があるようだ。しかし、ゲームや楽器などの環境にどんなに恵まれても、さほど意味はないようだ。ある哲学者は、「夢が人生をどの程度実際に反映しているかは割り引いて考えなければならない」とし、子供時代がどのようであれ、成熟した大人にとっては「夢のような」効果を現在に与えるに過ぎないという指摘もある。
子供と親の会話の事例集があるが、あくまでもこのような要領で相手をしてやればいいという意味のようだ。深く考えることはないのである。

子供「お父さん。僕が今見ているのは夢なのかなあ。全部夢なの?」
父「う~ん、まあ、夢を見ながら、これは夢だと言って回る人はいないんじゃないかな」

しかし、子供は時に哲学的な議論をすることが知られている。
先生「宇宙の始まりはありますか?」
子供「それはビッグバンです」
子供2「でも、ビッグバンも宇宙の中にあったんじゃないか。」
子供「ビッグバンの前には何もなかった。地球にも太陽にも星にも始まりがあるよ。宇宙にも始まりがあるよ」
子供2「世界はどこにでもあるし、宇宙もどこにもあるよ。始まる前にも宇宙はあったよ」
先生「では、ビッグバンの前の宇宙はどんなふうなものなのかい?」
子供2「それは僕には分かりません」

このような議論は、大人の議論のような洗練されたものではないが、「子供らしい」という意味で子供のお絵かきと同じように教育的効果があるとされる。あくまでも「子供を成長させる」ためのものであるという認識が必要なのだ。

児童文学に関しては、親にも教師にも、また子供にとっても哲学的な問いかけを子供の知性、社会性、道徳の方面から年齢のレーティングに応じて投げかけるものだ。いろんな技術を作家は持っているだろうが、哲学的な問いかけや風刺というものの価値が問われるという評価は可能だろう。子供が追いかけているのは「ストーリーの一貫性」だけであり、そこにどのように子供の心に働きかける問いかけを含ませるかが作家の力量だと言える。
「子供時代」スタンフォード哲学百科事典

まず、アメリカの研究は、「男児は女児よりも成長するにつれ優位に立つ」という事実を承認している。女性が男性より「背が低い」「心理面で異なる」などの事実を、その国の社会がどう受け止めるかが反映される。家族は、生物学的なつながりと心理学的つながりを持つが、ルールは法律で決められる。しかし、「政治的であるかどうか」は議論されている。女性が男性より「子供を育てるのを好む。家事を好む」というのはそのような性質を本来ともなっているとも言われる。「社会で男性と対等でありたいと願う女性には野心がない」とまで分析されている。法律が、教育の平等や、雇用の平等というシステムを作っても、女性が子供を育て・家事をこなすという構造までは変わらない。これは通常の野心のある女性がそれを望むからだ。家族は「愛情」によって正当化したほうがあらゆる問題を解決できる。「正義」によって正当化すると、家庭内が政治の場となってしまうとされる。家族の役割は「次世代の市民を育てる」という側面があるが、たとえ、法律で決められていても「愛情」で正当化したほうがうまく行く。愛情で正当化された家族には政治が入り込む余地はないのだ。どんな人間も、何らかの家族に属することで人生をスタートさせている。そこで、何が正しくて何が間違っているのかを学び、また、自分がいったいどのような人間になり、またなりうるのかを知る。家族は人生の初期においてはまさに学校であり、不公平や従属と言ったものを正義を度外視して学習させられるのだ。しかし、民主主義国家の一員として、他者をコントロールするすべをやがて覚えていき、他者に優越する力量を身に着けるとはどういうことかも学習する場を提供するのだ。プラトンは、「すべての家族には改革が必要だとみんな思っている」とする。しかし、正義を家庭に持ち込むことは家族を機能させなくすることをプラトンは認識していた。社会に適応する「個」を育てるのは正義の概念であるが、それを家庭に持ち込むのとは意味が異なるのだ。親が子供の道徳心を育てるのに大きな役割を果たすのは事実であるが、国家がこれに様々な役割を果たしている。教育の場を提供したり、感染症から子供を守ったり、最低限の生活を守っている。子供はそのようにして読み書きを覚え、経済に貢献するようになるのだ。国家は、経済においては女性の子育てや家事に依存していることになる。しかし、貧しくとも、女児であろうとも、社会の構成員としての立場を認知されるうえではやはり国家が役割を求められている。
自分のまわりにいる「きれいなお姉さん」を見てみればいい。彼女たちがどのように国家に守られて生きてきたかを考えてみるのは有意義な作業だ。その「きれいなお姉さん」も、社会に出ると「フェミニズム」という思想の存在を知る。自分の生活は家族に縛られているのではないか?男性が一家の主となると子供への関心は薄まる効果があるのではないか?というような問題意識を抱くようになる。ここで、女性たちは自分の考えを確立していく。フェミニズムとどう付き合うのかを明確にするのだ。
あとは「フェミニズムの研究」のようだ。家族の研究はいったん打ち切る。
「フェミニズムの観点からの子育てと家族」スタンフォード哲学百科事典


基本的に、親というのは将来のある子供の利益のためになるからこそ子供を拘束するという構造がある。一方で、社会に対して自分の子育てのありようを説明しなければならないとされる。それは「世の中」からの信託を受けて子供を育てているからだとされるようだ。内向きには子供の利益を、外向きにはしっかりとした説明が求められるとされるようだ。これは基本モデルであり、親子にまつわるいろんな仕組みを作るうえで大事な視点だ。生物学的な理由から親を説明すると、子供を親の所有物であると説明することが容易になってしまうことから、生物学的な理由は「親である」という説明にしかならないと考えるのが主流のようだ。
一方で、「育ての親」という観点を強調すると、より子供の利益のために親が行動する可能性が高い。子供を育てるのは親だけではなく様々な社会とのつながりを通じて行われるものであることから、親による拘束という観点よりも、親への信頼という観点が強くなるのだ。
しかし、「お腹を痛めて産んだ子」という説明はいまだに強力であることから、「育ての親」という説明は、その基盤の説明が求められている。ましてや、代理出産が可能になった現代においてはなおさらそれは必要になっている。また、父親にとっても、子供とのつながりを強めるには、「お腹を痛めた」女性との親密さが要求されるのではないかとされている。「育ての親」という説明もそれだけではなかなか「親」であるという理由としては弱い部分があるのだ。
そこで、「その子供を欲していたから」親であるという説明が有力になされている。この視点は今までの議論に新たな展開をもたらした。この「子供を欲していた親」という観点は、夫が妻に自分の精子を人工授精させて出産させようとしたところ、精子の取り違えがなされて別の男の遺伝子を持った子供が生まれた、という事例を極端事例とみなして研究がすすめられた。親はその子供の遺伝子に関しては意図してはいなかったが、「その子供を欲していたかどうか」は遺伝子のつながりとは別の説明が可能であるとされたのだ。
この事例に対しては、子供が両親の存在を前提にしている以上、ボランティア精神でもなんでもなく、夫は子供の親になる義務があるだろうという割り切りをする見解がまず提示された。
また、最初は「養子に出してしまえ」と思う夫も、子供が生まれて15分しかこの気持ちは続かないとも言われる。生まれたばかりの子供を15分見ているだけで「本当の親」になれるという主張があるのだ。
さらに、「子供が生まれてくる原因となったから」親であるという説明もある。この説明では、性交渉による妊娠も、代理出産も「生まれてくる原因」を与えた親という説明が可能であるという意味で非常に広い概念だ。しかし、ここまで議論を拡散させると「尻尾が犬を振っている」ような議論になってしまうと批判されている。現在においては「親の説明」の到達点はこのあたりで収束しているとされる。
親であることは「出産をどう考えるか」が核心部分にある。「共産主義的保守派」は「優生学重視」で、「リバタリアン・リベラル」は「性の開放」に近い。しかし、リベラルの中にも「ベビーブーム」「ダウン症」などを野放図にはできないだろうという発想があり、性をコントロールしようという「ポリシー・リベラル」という発想がある。リバタリアンは「自己実現」を強く志向するが、ポリシー派は「普通の社会の一員」を志向するという違いがある。家族は大きく分けてこのように分類できる。
どのような家族の形態をとるにしても「女性の立場は悪くなる」とされる。あらゆる説明をしても、女性が出産をする以上、その結論は避けられないのだ。必要な視点は結局、自治と平等・社会の助けだとされているのだ。テレビ局に電凸するおばさんが一番頭がいいのだ。
【書きかけ項目】
参考「親であること」スタンフォード哲学百科事典

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