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2015年12月25日 (金)

フルシチョフのシークレットスピーチ

フルシチョフのシークレットスピーチとは「俺は、ソルボンヌでもハーバードでもオックスフォードでもない。お前らが大学生活を謳歌していたときに俺は豚を追っていた」と演説し、ソビエト最高指導部をまとめきった。
なぜこの演説が彼を国家の最高指導者にしたのかの研究がなされた。

今日は、このテーマについて話したい。

1894年生まれの、ニキータは、貧しい農家に生まれ、小屋で育った。
ウクライナの小さな村だ。
クリミア戦争でアレクサンドル二世に破れ、父は部落民となっていた。
土地は狭く、地主の畑を耕した。
父親のセルゲイは、冬は大工の出稼ぎに行っていた。
ニキータ・フルシチョフの夢は「馬をもつこと」だった。
彼のこの気持ちだけが彼の家族をいい方向に持っていった。
フルシチョフは、いずれにせよ、ロシア帝国の五分の四の人口を構成する一億人の農夫を支配したし、彼自身は「歴史のない子供」として、他の一億人と区別がつかなかった。
60年後にしかし、彼はソビエト帝国の独裁者となったのだ。
1917年に彼に転機が訪れた。
すべての才能に権力がオープンになったのだ。
ロシア革命だ。
街の労働者は、非常に好感度が高かった。
しかし、一億人との競争がフルシチョフを待っていた。
1918年まで彼はボルシェビキに加わらなかった。
24歳だった。
2~3年しか村で教育を受けていなかった。
のちのことを考えると彼の才能が普通ではなかったことがわかる。
1954年にソビエトの最高指導者になっている。
彼のリーダーシップや権力が未知数であるわけがなかった。
スターリンとは全く異なる個性を持っていたので「ピグミーが巨人の後継者になった」と人々は語った。
広大なロシアで彼は何をやったのだろうか?
同時代には彼のコミュニティーには「ドクトルジバゴ」という小説があった。
ブルジョワがいろんな農村をまわる物語だ。
コーリャおじさんが、ユーリ・ジバゴのとなりで、ゴロツキの仲介役をやるのだ。
「人々は乱暴ですぜ?」「商人は俺たちから奪い取るだけなんでな」
ジバゴは「彼らに何か言いたいことはあるか?」と言ってまわった。
そのようにして、コーリャおじさんは、ジバゴの助けを得て政治の世界に入っていった。
フルシチョフは、1903年にこれを読んだようだ。

農民は「俺たちが殺しあっていることをまず知ってくれ」と言った。
1917年にロシア革命でジバゴはブルジョアを信じられなくなった。
フルシチョフも、新ボルシェビキや、レッドアーミーに属し、お坊ちゃん、お嬢ちゃんたちに容赦なき戦いを挑んだ。

ドクトルジバゴの作者のパステルナークの愛人が惨殺された。
ジバゴの「こんなことはいつでもどこでも起きるものだ。彼女は適当に死んだんだろうな」という台詞になった。

フルシチョフが6歳の時、知的な人々と学生がムーブメントを起こした。
暴力と恐怖を標榜し、地方を席巻した社会革命党と、マルクス主義にインスパイアされ、都会で暗殺を繰り返した社会民主党が活動を始めたのだ。
しかし、都会ではエネルギーが限られていたため、都市の労働人口が増えるのを待たなければならなかった。
1903年に都市の労働人口はこれに十分なエネルギーを与えたため、レーニン派は、二つに割れたのだ。
ボルシェビキとメンシェビキだ。
メンシェビキは、より神学的であり、マルクス主義的であった。
田舎の村は、鉄道から100マイル離れたところにあったら川を使うしか鉄道に乗る方法がなかったが、冬は川は凍ってしまった。
秋の雨や、春の泥、夏の暑さ、舗装されていない道路が彼らを暴力に駆り立てた。
フルシチョフの父親もこれらのインテリサークルに属していたが、得るものは何もなかった。
暗い世界だったので騙しあいや、たくらみが横行していた。
ロシアの一世紀にわたる悩みだったのだ。
人々の自己保存の欲求と、敵対心は、知的サークルの標的となるため、彼らは目を輝かせた。
飢饉の時はもはや、神の意思としか思えなかった。
太陽が焼き付ける夏の月曜日から、土曜日は最悪の気分だったし、翌年のことを考えると、空腹は彼らの人生のリズムすら狂わせた。
宗教なんてバカげていたし、彼らは家族で団結したし、安いウォトカを飲んで、妻を慰みものにし、お婆さんが家庭を取りまとめバブシュカと呼ばれた。
彼らは社会との接触を拒み、しかし、外では暴力を爆発させた。
彼らは酒を飲みながら、商人ののどを掻き切ったし、地主の家を燃やした。
こんな世界には学校が必要だったし、家には動物がいると癒された。家具なんて木のベンチだけだった。

アレクサンドル三世と、ニコライ二世の統治下の時に、フルシチョフは、都会で活動を始めた。
国王は外国資本の導入と、外国企業の誘致を行ったのだ。
ペテルブルグは、土地に愛着を持ちながらも労働者となるものが多かった。
モスクワや、オデッサもそのような都市となったし、兵役に服す若者がアパート暮らしをするようになった。
フルシチョフは、都会を基盤とした活動家だった。
田舎が動けば都会も動く。敵が田舎に潜伏したから都会も仲間を必要とした。
五ヵ年計画で、このムーブメントは一気に進んだ。
紺の背広を来て、オフィスにいる男も生まれたし、コルホーズという「農村の父」もできた。
フルシチョフの父親は、飢えたことはなかったが、単身各地の炭鉱で働き、春には乱交パーティーをやって季節を感じた。
10万人の人口がある都市は30もなかったが、教会や、チャペル、公民館、ミュージックホールなどを作り、人々の和解に努めたが、なかなか根深い問題が暗かった時代からもたらされた。
第二次世界大戦ののちに女性に対していろんなものがオープンになった。

これが、フルシチョフが活動した時代だった。

15歳の時、フルシチョフは、都会の労働者となった。
貧しく、空腹で、ブーツもなかった。だが、温かい土や芝生の感触だけは素足で楽しめた。
この空気では彼はもはや世界政治家だった。いろんな農民と話をした。
彼は農民とは何かも知っていたし、彼らの忍耐強さも知っていた。
彼らの生活がどうやったら良くなるかを教えてまわった。
ユゾフカの炭鉱でも働いた。ユゾフカは、のちにスターリングラードと名前を変え、1941年にドイツに占領されている。
ユゾフカには、ドイツの工場もあったし、フランスの製造業もあったし、ベルギーの化学工場もあった。
ウクライナは、緊急性を要する近代化が進められ、ソビエト連邦の経済はここに多く依存することになった。
フルシチョフは「ドイツ、フランス、ベルギーの工場で働いたけど、資本主義ってみんな似ているんだよね。最後に欲しいのは給料かと思って共産主義者になったんだ」と語った。
「俺はお前らのような生まれつきの共産党員ではない。しかし、生きてきた世界は誰よりも共産主義的なんだ」

1906年にとうとうレーニンがボルシェビキを作った。
しかし、フルシチョフは、1918年までこれに参加しなかった。
フルシチョフが24歳の時、レーニンはすでに権力の座にいた。

しかし、人間性と破壊を重視したトロツキーが好きだった。

ボルシェビキに参加するまで彼が何をやっていたかは、1953年に彼の口から語られた。
12年間、世界は彼の才能を見続けた。

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