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Foreign Affairs

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2014年12月

2014年12月16日 (火)

自己欺瞞

シティハンターで、黒いチューリップが三代続けて咲けば歴史に名を残すと言われた。
病床のおじいさんに三代目のチューリップを持っていく。
おじいさんはそのチューリップを見て震える。
「お嬢さん。このチューリップは何色かい?わしゃ目が不自由での」

勇敢な形で負けることは非常に美しい。
これが自己欺瞞である。

ヨゼフ・ゲッペルスの最期。大臣が死んだ以上勇敢さはあったのか?のちのドイツ人が健康的な生き方を見失わないためにこの姿勢をとった。

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勇敢であれば負けてもいい。


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今まで信じていた信念などが、それが間違いであるという強烈な証拠を突きつけられたときに、
人間は「自己欺瞞」という高度な学問を表現する。
俺たちのような田舎出の秀才が司法試験など受かるわけない、と思っていて五年後に本当に受かったとすると、
意図的に自己欺瞞を利用したことになる。
また、第二次大戦中に、日本が戦争に勝つと思っていた人も、敗戦の時に自己欺瞞に陥った。
しかし、愛子さまが学習障害を持っているのに「ご優秀」と聞かされてきた人たちと、敗戦を経験した人は「意図的に騙されたかどうか」で、自己欺瞞も全く異なる議論になる。
しかし、祖国が滅亡の危機に瀕するのと、いち皇族子女の障害では、自己欺瞞のダメージが違うとも言われる。
自己欺瞞という議論は大体このようなものだ。
あるいは、妻の浮気という「望まないもの」を疑って調べたら浮気をしていなかった、というようなものも倒錯した自己欺瞞だとされる。
我々には「信じたいもの」があるから自己欺瞞も生じる。
自己欺瞞とは、私とはなにかという心理学の問題である。
また、生きていく上での「致命的な嘘」というのが自分が生きる上での障害物をつくるという道徳の問題とも結び付く。
ワールドカップに出ることはすごいことだ。
しかし、国民を自己欺瞞の状態に陥らせたことが批判された。
敵をつくる自己欺瞞とそうでないものがある。
良心を腐敗させる、美学を侵害する、自制や勇気が欠ける、
これが一番敵をつくる。
それ以外なら「負けてもいい」のだ。
善や良心は人生の道案内だからみんな怒ってしまうのだ。
また、美学はその人の判断の美しさに繋がる。
勝ってはいけない人というのがいる。
場合によっては人々が健康的な生き方を見失うのが自己欺瞞であるが、しっかりと基本を踏まえればそんなに危険なものではない。
日本代表総集編 2014年ブラジルワールドカップの戦い

2014年12月 7日 (日)

垂加神道の経済学

ケインズはいずれやろうと思っていた。
経済学とは主に三つの要素からなる。
合理的選択の研究。
経済的な結果、組織、過程の称賛。
経済現象を議論する理由の探求。
だ。
生産、消費、分配、交換に法則が見られることから経済学が存在する。 
経済学にはいろんな学派があり、主流派も複数に分かれる。
ミクロ経済学は個人レベルでゲーム理論などを用いるが、マクロ経済学はマネーサプライ、金利、成長率などを扱う。
俺は今、精神病院にいるのだが、「楽に働いて暮らせる職場」という意味ではコミューンなんだよ。
経済的組織としては良くできているし、それを称賛するのが経済学だ。
コミューンが無数に存在するのが今の日本だね。
うまく回っているビジネスを称賛するという発想が大事だ。
やはり、いろんなものをポジティブに保つのにはカントが必要だ。
人間は痛みを感じることに関しては天才だとも言われ、それをとことんまで追求したのがカントだ。
俺も閉鎖病棟にはもう戻りたくないが、非常にいい経験だった。
カントは人間に忍耐は求めなかった。
エピクロス的な乱打戦を他者と行い「言葉」を残している。
ポジティブに保つというのは密教だとも言われ、垂加神道も「マントラを聞いただけで霊的に感化された状態になる」という密教だ。
経済政策なのだ。
この経済政策は密教だという立場に対して「規範」という従うべきルールを探求したのがカントだ。
経済学は合理性か因果かという対立もある。
人間は合理的選択のみにはしたがっておらず、株価も「将来の利益」という不確実なものにしたがって決められている。
合理的選択のみではなく「明日はもっと高い値で買ってくれる人がいる」のならばそれはいい投資であると言っていい。
経済学はどの学問よりも自然科学を真似ている。
社会科学は人々に「真の理解」を得てもらう研究であり、人間の内面の予測不能性というものを考えると、やはり経済学は自然科学ではなく社会科学なのだ。
経済学は「抽象性」を扱う学問だ。
需要と価格の関係や、マネーサプライなども現実世界での「生きた実験」を行うことで成立している。
経済学がいろんな学派に分かれたのは「理論の理想主義化・抽象化」が行われるからだ。
俺が垂加神道とカント(道徳・敵)に注目するのも理想主義化と抽象化であるし、日経新聞はもっと複雑な理想主義化・抽象化を行っている。
たとえば「潮の満ち引き」の計算をするためには太陽と月だけを用いるが、ここに「干渉」と「撹乱要素」があることも知らなければならない。
垂加神道が太陽であり、道徳が月である。
これは経済学でも言える。
フリードマンは、経済学に予測能力を求めたが、いろんなものがわからないことを知った。
はたしてこの企業は利益の最大化を目指しているのだろうか?ということすらわからなかったのだ。
現代の経済学は「人々の需要は抑圧されている」ということを認識した。
それとともに、国家に「その理論が間違いであったと証明してくれ」とし、間違いだとわかるまで理論の一貫性を求めているのだ。
いずれにしても「民族の心理学」と経済が密接に関わるという観点は経済学者に共有されているようだ。
経済学も、かつては「原則」「法則」「理論」というものを提示していたが、今は「モデル」と呼んでいる。
個人の合理的選択の研究はモデルで行われている。
合理的選択とは「理性」によって行われる。
カントは理性を「混乱に法則をもたらす力があるもの」としたが、ミクロ経済学とも関係あるかもしれん。
細かいことはわからん。
俺が語ったのは経済学の「密教」的側面であり、大学では規範について学ぶと思う。
日本国経済の潮の満ち引き。
♥♥ Relaxing 3 Hour Video of California Ocean Waves
宗教と政治。
たとえば、現在の日本は男女のカップルの帝国であるが、ホモセクシュアルを処罰しようという法律をつくっていいのだろうか?
男女のカップルというのは自然の秩序であるし、自然法ですらある。
これを宗教の側が基盤にすることも多い。
それが行きすぎるとホモセクシュアルを処罰しようという動きが出る。
これが宗教と政治の議論の出発点だ。
我が国はリベラルデモクラシーを採用しており、たとえ宗教で「男女のカップルの帝国」を標榜していても、マイノリティに社会的烙印を押したり、教育の機会を与えなかったり、昇進で差別することはできない。
ここに、宗教と政治の違いがある。
これを「宗教非抑圧論」と呼ぶ。
男女のカップルの帝国が宗教界を独占してもホモセクシュアルを処罰しないのは、政治の場に「公的理性」があるからだとされる。
宗教非抑圧論とは要するに「政治の場では大人の議論をしよう」ということなのだ。
政治の場で「公的理性」が必要な理由は内戦を防ぐためだ。
17世紀のヨーロッパでは、告白をさせては争うことが後を絶たなかった。
アメリカはそれに学習し、宗教戦争を克服していたのだ。
ネット時代は国民一人一人が「中世の王」であるとも言われ、各人の尊重という観点からも宗教非抑圧論は結論として正しいとされる。
ミクロ経済とは、ゲームの均衡がとれていると誰も逃げ出さないし、大差がついたらチーム全体の利益を考えようというものだ。
週末の釣り、ハンティングは、男の獰猛さという「第二の自然」と、女が語る神・男の完全性という「第二の自然」の交流を引き起こす。
この二つの間に「資本の蓄積」が起きて、正確な時間と抽象的な時間の違いが生まれる。
あっという間に時が過ぎるというところに労働の剰余金の蓄積があったのだ。
この時間の流れの速さに男の労働の「行動の尺度」があり、この労働に産業革命が影響を与え、女が労働に参加するようになり、すべてが変わった。

名目金利とは、女が語る「神・男の完全性」であり、女性が自分が発達する上で必要な男性像や、子供にこういう男になってもらいたいという理想像を基盤にしている。
実質金利とは生身の殺し屋としての男を意味する。
流動性トラップとは、男の理想像>生身の男、を意味し、名目金利>実質金利の状態を意味する。

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