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2014年11月 3日 (月)

実存主義とmiwa

俺は、アーティストのmiwa が理解できなくなったときに自分の哲学の危機を感じた。 
原点に戻る必要がある。

実存主義。

miwaの作品は、自分と世界が仲たがいしていて居心地が悪い、という「自己疎外」を基盤にしている。
これは「意味のない」世界で人間が感じるものだ。
人間は「真実の発信源」になろうと望むが、自分が真実を明らかにしようと望むと同時に、代わりにやってくれる人を探している。
「問題」「因果関係」「力」「機能」「発展」「モチベーション」の基盤がここにある。
サルトルは、ハイデガーの「存在と時間」を基盤に実存主義を完成させた。
ハイデガーの議論はキルケゴールとニーチェにひとまず預けられた。
松本人志が哲学を皮肉って「浜ちゃんはなんで浜ちゃんなの?」とか言っていたが、
カントの時代とは隔世の感がある。
カントの時代の「乱打戦」が終わったことを意味したからだ。
キルケゴールは、「個人」と表現したが、個人が世界を覆う普遍性を持つ上ではアブラハム(松田聖子が歌う「男」)とどう向き合うかの研究が必要だった。
倫理というのは「自分にとって健康的なことをする」という意味だが、道徳とは「他者が私に与える負担(山)」だったはずだ。
しかし、キルケゴールは倫理と道徳を一致させようとしたのだ。
自分がやりたいことを誰も邪魔しないためにはどうしたらいいのか?
がテーマになった。
キルケゴールは「大衆は真実ではない」と言ったが、ニーチェは、自分がやりたいことを誰も邪魔しないためには「権力への意思」が必要だと考えた。
この時にニーチェは、ニヒリズムを選択したのだ。
ニヒリズムとは「正解を求めている人を批判するそれ自身が尊厳のある立場」だとされる。
ニーチェは、人々が自分を邪魔する力を「神の力ではない」として「神は死んだ」と言った。
私は何者なのか?と実存主義は問いかける。
マルクスは、人間界の構造との和解を探求したが、サルトルはよりブルジョワ的な発想をしていた。
自らが急進的な自由を求めてプロジェクトを動かすが、目的が達成されなければ「無」だと考えるし、他のことを「馬鹿げている」と考える。
より「本物であること」を志向したのだ。
カント的なミクロレベルの「法の支配」の面影はそこにはない。
ブルジョワ的な「余裕」がカントの時代とは桁外れだったのだ。
第三者を「私の位置」を発信させる存在だとしたが、ニーチェはニヒリズムを「善の向こうの悪」とし、
他者に正確な自分の位置を教えないようにしたのだ。

ヒカリへFULL

実存主義においても「価値」とは自由のことだった。
しかし、仕事にいくために目覚まし時計で目を覚ますというような「緊急性」に価値を見いだしたようだ。
マルクスは、実存主義もまたイデオロギーではないかとしたし、レヴィナスも初期に実存主義と関わっており、同時代の偶然の産物だとし、終末論を否定するのにちょうどいいとした。
また、契約というものの役割を政治コミュニティーにおいて重視した点は、「自由」「社会契約」を探求したカントの業績を基盤にしている。

若さという「緊急性」と、男との「契約」。
miwa ミラクル ISLAND in 日本武道館 2013+ 歌詞
ハイデガーは「私は私のヒーローを選ぶ」と言った。
実存主義を端的に示す言葉だ。
皇太子や雅子さんが考えなければならなかったのは「ヒーローであること」「ヒロインであること」だったのだ。

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