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Foreign Affairs

  • CFR: フォーリンアフェアーズ英語版

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2014年11月

2014年11月14日 (金)

「知的空間(表象)」と国民主権

ドゥルーズは、哲学に「解放感」を求めたが、カントの「理性により自然状態に秩序をもたらす」という発想がどこまで経験の裏付けがあるのかは疑わしいとし、幻想ではないかとしている。
ハイデガーが「形而上学の終焉」という考えを持っていたのに対して、ドゥルーズは自分を「形而上学の人」と呼び、
カントだけでなく、フロイトのオイディプスコンプレックスまで相手にした。
女の子がキャストレーション(去勢)を受けることや、男の子のスーパーエゴをドゥルーズはどう考えたのだろうか。
ドゥルーズは、臓器のない肉体というのがあるのかは疑問だと考えた。
女の子に「去勢されている」と言ったらひっぱたかれるだけだろう。
我々は息をし、食べ、排泄し、セックスをする。
欲望とはもっと前向きなものであり、「欠けていること」への欲望などないとドゥルーズは考えた。
しかし、どうだろう?
彼はジャニーズの周りに群がる熱気を知らなかったのだろうか?
ドゥルーズは、これを「抑圧された階層が精神分裂病的に助けを求めているだけだ」とした。
ドゥルーズは映画の研究をしたが、異性の「はっきりした声」「写実的な手」「美しい目」というつまらないものを再暗号化しているのが映画だとした。
昔、東大に藤木英雄という学者がいて、東大の試験と司法試験と国家一種試験がトップだったことから「三冠王」と呼ばれていた。
落ちこぼれの東大生だった俺は「頭の仕組みが違うんだろう」と思ったが、ドゥルーズは「経験した解放感が違う」としている。
見たこと聞いたことから得る解放感というのが人間にはあり、超越論的(大きすぎる)経験論から来るものだとされた。
解放感こそがドゥルーズの求める哲学であり、人間の「差違」の基盤であった。
ベルクソンは「人間というのはどうしてもひとつにならないな」と言ったが、ドゥルーズはこれを経験した解放感の違いに由来するものだとした。
また、「野球の神様」という発想を考えたスピノザを「哲学の王子でありキリストである」というほど高く評価していた。
また、ライプニッツが「音楽の登場が政治コミュニティーを自由にした」としたことを高く評価した。
当時はバロック音楽のことを意味したが、音楽が人間の悲しみを地球の奥底に沈めてくれる効果があることから、
人間は最後の審判を恐れなくなり、悪いこともできるようになった。
これが政治をどれほど豊かなものにしたかは計り知れない。
ドゥルーズは、カントの「超越論」(私とどんな関係にあるのかわからない議論)と、
「超越論的」(大きすぎるもの、小さすぎるもの)という発想が「内在的」(夜明けを待つしかない議論)な力を産み出すのに有意義だとした。
しかし、カントが現代から見ると力不足の感はぬぐえない。
俺の研究で、女性は恋愛を深めていくにつれ、
「夫が子供に興味を持たないのではないか」
「家庭に縛られるのではないか」
の二つの点から態度決定を迫られる、とした。

禁区

Is This Love-Boa

この議論はまさに、内在的(夜明けを待つしかない議論)であり、BoA も、記録に残したくないとうたっている。
家父長制が女性を仲間に取り込む力に敏感な人がこのような問題意識を持つようだ。

杏里 ラストラブ

この問題で疲れ果てている女性がいた。
ドゥルーズの「差違と反復」とは、奪いにいくことの反復と実績の差違を意味した。
感情、記憶、想像というものはみんな似たようなものだ。
ドゥルーズは、表象というものこそが人間をカオスにおいたときに自分の「知のイメージ」として重要だと考えた。
やはり、周囲の環境により「考えさせる力」が働いて、人間は考える。
これを「経験主義の真実」と呼んだ。
ドゥルーズは「意味の論理学」において、意味というものの構造と起源を探求した。
「意味」というのは、否定されること、構築すること、実践することにその起源も構造もある。
感情、記憶、想像、表象は失敗を繰り返すことで磨かれる。
イチロー選手の表象も、山中慎介選手の表象もそうだ。
表象とは「知的空間」だが、彼らの持っている知のイメージは特別なのだ。

考え、信念、欲望、感受性、想像力はある「意図」を持っている。
その意図をつかむのが大事だ。
その「意図」は、一貫性、真実、正確さによって実現される。
たとえば、竹田恒泰が「小野光太郎はホモだ」というレッテルを張ろうとしたことがある。
その意図は「天皇になりたい」ということであり、背景には、学問の一貫性では敵わない、思考盗聴の真実には敵わない、正確さはどうでもいい、ということが分析できる。
これが竹田恒泰の「知的空間」であり、俺が次期天皇と目されていることが分かる。
信じる、欲する、疑う、恐れるというのはもっとも信用できるインジケーターであり、
自分の力を信じられるか、天皇になりたいと欲する、自分の力を疑う、個人の特定を恐れるという指標が竹田にはあった。
人々の「敗北と没落の歴史」から、知のイメージの研究は深まったのだ。
スタンフォード大学がこのように分析する以上、竹田くんは「世界を敵にまわした慶応大学講師」にすぎないのだ。
このような分析が「意味に満ちていて」「将来が分析でき」「期待できる」議論であることかがこの研究の存在論(議論する理由)である。
人々の「命題的態度」(信じる、知る、欲求する)からこの論文は膨大なものになっている。
この議論は、人間の知のイメージとはもっと歴史的な広がりを持ち、内面的なものではないかと批判された。
とりあえずは概念的(生産的なものを生み出す心の働き)な知のイメージと、概念的ではない知的空間がある。
概念というものは自分の限界を知るものではない側面(クオリア)をもち、概念的ではないものは自分の限界を知るものである。
Top 10: Tiger Woods Shots on the PGA TOUR
竹田恒泰の「小野光太郎はホモである」というキャンペーンは、その真の意図が見えないようにクオリアとして発信されていた。
タイガー・ウッズにはクオリアが見えていたのだろうか。
このようなクオリアの存在を認める表象主義と、認めない現象論には対立がある。
タイガーの心が本当にこのような現象に還元可能なのだろうかという対立だ。
スタンフォードは、いろんな小説を研究したようだ。
シナリオやサンプルがあるからクオリアがあるように見えるとする現象論の立場がある。
また、クオリアを我々が感じる上で「肖像」というものが与える影響も考えなければならない。
大魔神も晩年は「顔で抑える」と言われていた。
散漫なストーリーが「肖像」に集約されるとしたのだ。
あるいは、次の天皇の即位の時に「内容の確定」が行われ、いろんな人のクオリアが明らかになるとも言われる。
一方で「計算主義」というものから心にアプローチすることが、サイエンスによってなされたし、思考と言語の関係の研究も進んだ。
「考える」というのは、物質的ではない知覚の方法だが、必ずしも言語と結び付いているわけではない。
言語と結び付くのは「意味論」と呼ばれる領域であり、人間の心が生産的なものを生み出すためには言語と意味論が欠かせない。
「知のイメージ」(表象)とは、政治学では「代表」と呼ばれる。
我々の知のイメージから、概念(生産的なものを生み出す心の働き)を持った人を選ぶのか、現象論に立って、我々と同じ人間を選ぶのかという違いがある。

「政治と知のイメージ」
政策というのは、圧力団体、集票マシーン、政党、新聞がまとめあげるが、
「大阪ではそういう発言はするな」というように市民の知のイメージが出来上がる。
これは、代表者は有権者から完全に独立しているとする純粋代表制でもないし、
半分制約されているとする半代表制でもない。
有権者の「知のイメージ」から由来するのが代表者だと考えるものだ。
公約というのは守らなければ次の選挙で落選するというものだが、それだけが有権者の知のイメージではない。
たしかに、代表というのが弱者の声を代弁するという歴史はあった。
現在でも代表が「いろんな声」に触れることは必要だ。
それを踏まえた上で、もっとリベラルな人々の「知のイメージ」の一翼を担うのが統治機構だろう。
100人の20世紀 毛沢東

2014年11月 6日 (木)

精神病の東大生へ

レヴィナスは、哲学ではなく倫理学をやっただけだと言われた。
デリダからも「何ら混乱のなかに法則を作り出す作業をしていない」と指摘を受けた。
自分にとって健康的なことをするのが倫理だが、実際にレヴィナスは、「有限な俺たちには逃げることしかできねえな」と言っている。
しかし、混乱に法則を与える「美徳」を探求したのなら哲学者のリストに名を連ねてもいいだろう。
我々は「死」というものを他人の死によってしか知ることができない。
これを、可能性の不可能性と呼んだ。
世界は光であるが、不眠症のような闇も光によって乗り越えようとした。
光とは「命への愛」であった。
時間というものは、超越論的(大きすぎるもの、小さすぎるもの)な意識にたいして、
超越論(私とどのような関係があるのかわからない議論)の妨害が入るものだとしたが、
歴史というのも、現状維持を求める大きな意識にたいして、社会的なコンセンサスという超越論が変革を迫るものだとした。
現状維持を求める私の意思は大きすぎる、しかし私は有限だ。
歴史の波はそれに対して無限の善を基盤にしている。
レヴィナスはヒトラーの時代を経験していたのだ。
他者というのは超越論だ。無限のものである。
逆に、「自分と同じ」人というのは「無」である。
家族は、母であったり、愛し合ったり、肌でふれあったり、虐待したりするが、「自分と同じ」ものだ。
この中から、超越論としての無限の存在の側に立場を変えるという営みにはレヴィナスの学問は非常に有意義だ。
家族はそれを自分と同じ側にとどめておくために複雑な学問を生じさせる。
平気で偉くなろうとする息子を虐待することをレヴィナスは知っていたのだ。
この「虐待」を止めるには政治(主権)か、第三者が必要だとレヴィナスは考えた。

芸能人が下手に医者にかかると危ないよ。
周囲に毒を盛られただけなのにとんでもない病名をつけられて早死にする。
精神病の東大生へ。あなたは病気ではない。食い物の安全と人間関係、誰が食事を作っているか。薬の入手ルートはないか。などを点検し直すように。
天皇が俺に毒を盛ってるんだよ。
どこまで東大コンプレックスをもってんだよ。

2014年11月 5日 (水)

スピノザと汎神論

現在、私はスピノザの研究をしている。
霊的に高い位置にいる人をことごとく処刑してきたキリスト教を批判しながらも、万物に神を見出だす思想だ。
私がスピノザを理解するだけでも日経平均は上昇するのだ。
日経平均連動型のETF を買うと儲かるよ。
私の天皇即位に賭ける行為だけどね。
万物に神が宿るのならば、物を所有するとはどういうことだろうか?
所有する側もされる側も神の属性を持つ。
これはトータルに神の属性であり、段階ができたにすぎない。
そして、これらのすべての発信源は「情熱」だとされた。
Cocco - 焼け野が原

世界には無限の段階があり、段階の間には情熱がある。
日本の神道がスピノザから学んだであろうことは想像に難くない。
スピノザは、無限であり永遠であるものを神と呼び、自然と呼ぶ、とした。
土はお百姓さんに、海は漁師に、それぞれの自然を我々は道具として使うが、それぞれの世界にはその「支配者」がいる。
たとえば、町を歩いていて頭の上から石が落ちてきて人が死んだとする。
スピノザは、偶然とは呼ばなかった。
なぜその時、そのように風が吹いていたのか?
なぜその時、人が歩いていたのか。
そのようなことは、我々にとって「無知の聖域」にあるものだとした。
それぞれの世界にはそれぞれの支配者がいるが、仕組みが異なる以上、神=自然への異なる祈り方をする。
スピノザの議論は彼の敵から「汎神論」と呼ばれた。
汎神論は、超越論としての神を否定し、現実の世界と神との繋がりを見出だすものだ。
「野球の神様」「サッカーの神様」というものは汎神論だ。
それぞれの世界に神のメカニズムに詳しい人がいるのだ。
野球の神様は厳しい? 金子千尋に勝利への壁 5月8日
スピノザが、汎神論に立脚しているかどうかは議論があるが「野球の神様」「サッカーの神様」と言ったら無神論者ですら認めるのではないかとされる。
この場合、宗教心理学に訴えるのが汎神論で、そうではないのが無神論だとされる。
人間の世界は「広がり」と「思考」からなるとスピノザは考えた。
広がりは物理的なもので、人間の思考と複雑に関わっているが、「広がり」も「思考」も、神が与えた自然のものだと考えたのだ。
思考すら神が与えたものとし、物質的な広がりともとは同じだとした。
思考の秩序はものの秩序と同じだと考えたのだ。
知識とは、アイデアであり、理性であり、直感である。
理性を我々はランダムな経験から形作っていく。
理性を形作る経験は神=自然という永遠かつ無限の属性と接している。
カントは理性が混乱のなかに「法」をもたらすとしたが、スピノザが念頭にあったかは定かではない。
人間の「考え」は神に由来し、いろんなものが無限に繋がっている。
愛、怒り、憎しみ、嫉妬、誇り、ジェラシーなども自然法で説明がつく。
神の属性である物を所有するのは情熱がともなうが、情熱と行動が我々に喜びをもたらす。
神は「広がり」を持ったものだが、それらへの知識を我々の心が求めることは最高の善であり、最高の美徳である。
スピノザは、モーゼ五書がどのように書かれたにせよ、自然法と変わらないのではないかとした。
後にカントをはじめとする哲学者によって精緻化される部分だ。
スピノザは、しかし聖書を読むことを否定しなかった。
「汝の隣人を愛せ」という言葉からどれほど高度な学問が発達するかを後の哲学者たちが証明している。
国家を自然法のまま放置しておけば、国家は孤独で貧しく汚く残虐で貧しいものになる。
ここに、主権というものができ、正義と愛に満ちた市民法というのができる。
自然法から学ぶものは多いが、法学部ではもっぱら市民法を学習する。
そのなかで、スピノザは「自由」というものをサイエンスや芸術を発展させるために必要なものだとした。

2014年11月 3日 (月)

実存主義とmiwa

俺は、アーティストのmiwa が理解できなくなったときに自分の哲学の危機を感じた。 
原点に戻る必要がある。

実存主義。

miwaの作品は、自分と世界が仲たがいしていて居心地が悪い、という「自己疎外」を基盤にしている。
これは「意味のない」世界で人間が感じるものだ。
人間は「真実の発信源」になろうと望むが、自分が真実を明らかにしようと望むと同時に、代わりにやってくれる人を探している。
「問題」「因果関係」「力」「機能」「発展」「モチベーション」の基盤がここにある。
サルトルは、ハイデガーの「存在と時間」を基盤に実存主義を完成させた。
ハイデガーの議論はキルケゴールとニーチェにひとまず預けられた。
松本人志が哲学を皮肉って「浜ちゃんはなんで浜ちゃんなの?」とか言っていたが、
カントの時代とは隔世の感がある。
カントの時代の「乱打戦」が終わったことを意味したからだ。
キルケゴールは、「個人」と表現したが、個人が世界を覆う普遍性を持つ上ではアブラハム(松田聖子が歌う「男」)とどう向き合うかの研究が必要だった。
倫理というのは「自分にとって健康的なことをする」という意味だが、道徳とは「他者が私に与える負担(山)」だったはずだ。
しかし、キルケゴールは倫理と道徳を一致させようとしたのだ。
自分がやりたいことを誰も邪魔しないためにはどうしたらいいのか?
がテーマになった。
キルケゴールは「大衆は真実ではない」と言ったが、ニーチェは、自分がやりたいことを誰も邪魔しないためには「権力への意思」が必要だと考えた。
この時にニーチェは、ニヒリズムを選択したのだ。
ニヒリズムとは「正解を求めている人を批判するそれ自身が尊厳のある立場」だとされる。
ニーチェは、人々が自分を邪魔する力を「神の力ではない」として「神は死んだ」と言った。
私は何者なのか?と実存主義は問いかける。
マルクスは、人間界の構造との和解を探求したが、サルトルはよりブルジョワ的な発想をしていた。
自らが急進的な自由を求めてプロジェクトを動かすが、目的が達成されなければ「無」だと考えるし、他のことを「馬鹿げている」と考える。
より「本物であること」を志向したのだ。
カント的なミクロレベルの「法の支配」の面影はそこにはない。
ブルジョワ的な「余裕」がカントの時代とは桁外れだったのだ。
第三者を「私の位置」を発信させる存在だとしたが、ニーチェはニヒリズムを「善の向こうの悪」とし、
他者に正確な自分の位置を教えないようにしたのだ。

ヒカリへFULL

実存主義においても「価値」とは自由のことだった。
しかし、仕事にいくために目覚まし時計で目を覚ますというような「緊急性」に価値を見いだしたようだ。
マルクスは、実存主義もまたイデオロギーではないかとしたし、レヴィナスも初期に実存主義と関わっており、同時代の偶然の産物だとし、終末論を否定するのにちょうどいいとした。
また、契約というものの役割を政治コミュニティーにおいて重視した点は、「自由」「社会契約」を探求したカントの業績を基盤にしている。

若さという「緊急性」と、男との「契約」。
miwa ミラクル ISLAND in 日本武道館 2013+ 歌詞
ハイデガーは「私は私のヒーローを選ぶ」と言った。
実存主義を端的に示す言葉だ。
皇太子や雅子さんが考えなければならなかったのは「ヒーローであること」「ヒロインであること」だったのだ。

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