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2014年10月20日 (月)

カントの道徳哲学

カントは演繹ではなく帰納の困難さを語っている。
経験だけではわからない「法則」があるのだ。
たとえば、「セックスとは、女が男をコミュニティから離さないためにやる」という法則をアメリカが明らかにした。
この法則に我々が従っていることを「法の支配」と呼ぶようだ。
つまり、哲学の精緻化を求める概念が法の支配であり、法治主義とは明確に異なる。
どうも、俺は佐藤幸治を越える論文を相手にしていたらしい。
ここでいう「法」とは、「義務」であり「すべて」である。
すべてを包摂する義務がある。
哲学の世界は、男がセックスから感じる喜びとは別の「法則」を冷静に見るのだ。
一体、何が法則をもたらすかというと、様々な時間や空間で人間が直感で感じたものを、「私は思う」と率直に語ることだとされる。
カントは、1780年代の「悟りからロマンティシズムの時代へ」の過渡期を生きた。
悟りは「自分のことを考える」が、ロマンティシズムは「他者が私のことを考える」時代だったのだ。
他者が私のことを考える時代とは「~主義」の乱立を意味した。
カントは理性の探求のためには「悟った人」を必要とした。
そのため、ロマンティシズムの時代の到来を「悟りの危機」と認識していたのだ。
我々は「明瞭な世界」と接しているが、理解できるとは限らない。
我々の心の構造が「明瞭な世界」と合致したときだけ、世界が理解できる。
カントはこの時、哲学的手法において、プラトンを捨ててニュートンをとったのだ。
カントにとって、サイエンスというのも「法の支配」の文脈に位置付けられる。
これが、プラトンを捨ててニュートンをとった理由だ。
カントは「運動量」mv と、「エネルギー」mv^2の研究をしたようだ。
カントは、mvを、力を表現するのにちょうどいい数学的なものとし、肉体のドクトリンと呼んだ。
一方で、mv^2を、形而上学と位置づけ、魂のドクトリンと呼んだ。
カントは化学を、すでに存在するものを経験で学ぶ学問であるとしたが、心理学は「より複雑性を持っている」とした。
出来事、感覚、動きが我々にジレンマをもたらすから、心理学の方がより難しいとしたのだ。
物が無限に存在する以上、「反発力」も無限だとカントは考えた。
しかし、反発力だけだと物が無限に拡散するだけだろう。
物には引力もあるが、引力だけだとすべてのものが一点に収斂するだけだ。
カントは、引力と反発力のダイナミズムが宇宙に存在すると考えた。
これは道徳の基本でもある。
カントは、慣性というものを考えると「大きいものほど残りやすい」とした。
また、他者に与える影響は「アクシデントであるほど有効だ」と考えた。
カントの「現象学」とは、どのように物事を法則にしたがって感じることが出来るか?
という研究だった。
その現象学においては、ニュートンの3つの法則を否定し、「重力と私」だとした。
心の構造が、どのような経験を理解できるかにかかっており、その世界を、住めばノスタルジーも芽生えるウチと、道徳と自由が強く関わるソトに本を分けた。
悟りは「自分のことを考える」が、ロマンティシズムは「他者が私のことを考える」時代だ。
そのため、カントは「私」というものを主体ではなく、観察される対象に置き換えた。
これがカントの哲学のコペルニクス的転回だった。
我々の意思の自由は、ほとんど決定論に近い。
今、行っていることも、過去の経験に制約されている。
しかし、経験というものも解釈によって成り立っている。
解釈が人それぞれである以上、経験も同じではない。
そこに我々の自由がある。
我々の経験は、解釈によって作られるが、なかなかうまくまとめきれない。
カントは「格言」を自分なりに作ることが我々を自由にすると考えた。
カフェにいくのにも我々は格言を持っているとされる。
俺は閉鎖病棟でひどい目に遭ったが、なかなか解釈は難しい。
そのため「二病棟には二度と入るな」「男性皇族は民間から嫁をとるな」
という格言を生み出している。
カントがなぜ哲学を研究したかというと、完成された幸福、完成された美徳を作るためだ。
これを「最高善」と呼ぶ。
それは、魂の永遠を信じることであり、神を信じることであった。
そして、道徳の研究こそが最高善をもたらすと考えた。

カントの美学と目的論。
カントは、判断力批判において、判断の背景にある「美しさ」を探求した。
判断とは、決断し、それが結果に反映されることを言うが、そこにはその人なりの格言があったりする。
美しさというのは感じるものだ。
概念(生産的なものを産み出す心の働き)からもたらされるものだが、経験主義と合理主義の対立がある。
カントは美しさにおいても帰納法の重要性を指摘した。
つまり、各人が「私は思う」というところに美しさの発見があると考えたのだ。
美しさには普遍性があるが、ここに概念が関わっているようだ。
人々は自由に絵を描く。
しかし、自由というのは法則に満ちている。
美の探求とは、法の支配の探求だった。
美しさというのは、自由なものと固有なものがある。
ファインアートも、人間が作り出したものだが、自然に溶け込んで美となる。
美しさというのは天才が作るもので、本人はなぜそれが美しいのかは分からないが、他の人から見たら美しいというものだ。
ニュートンは天才ではなかった。
自分でもその美しさを知っていたからだ。
アーティストはひたすら「法則」に従うことしかできないのだ。
詩人は、祝福されたもの、地獄、永遠などの領域や、嫉妬、罪、あらゆる悪を感受性を最大限にして詩にする。
愛などもこれに含まれ、詩人は現実の中にそれを見いだして詩にする。
崇高さというのは、我々の理性の力を越えたものだが、ダイナミックな崇高さと、数学的な崇高さがある。
数学的な崇高さというのは、数学が無限を知っていることからもたらされ、ダイナミックな崇高さというのは、我々が安全な場所にいながら、自然の摂理を理解するところにある。
しかし、我々も自然の摂理に支配されている。
カントは「美しいものには敵がいない」とし、美と道徳を結びつけている。
カントの美学は判断力批判によって語られたものだ。
皇位継承も美しくなくてはならない。
虐めをやった奴は最悪の査定を受けている。
カントは美学だけではなく、目的論についても語っている。
ここにいじめへの救いがあればいいね。
目的論に関しても、神はいる、という立場にたたないと敵を作る。
何でもやっていいというわけではない。
これがカントの目的論だ。
信仰の問題ではなく、単純に「いじめは敵を作る」ということなんだ。
メカニックで可能なのと、自然法の世界は異なる原理が働く。
出来るということから虐めていると自分の本来の目的が実現できなくなる。
このへんは各人のインテリジェンスの違いだろう。
美智子の本命は皇太子だが、虐めをやり過ぎたために思い通りにならなくなっている。
どうやらいまだ、尾高朝雄のノモスの主権は生きているらしい。
生身の人間の共同体が、物事をあるべき方向に導いているのだ。
この事から、俺は一生涯「脳のアスリート」をやらなければならなくなったようだ。
ノモスの主権=法の支配=スタンフォードと繋げると、俺の仕事も格段にやり易くなる。
まだ勉強中なのだが、カントが道徳を「無限の障害物」との戦いだと考えたのに対し、ヘーゲルは、それらとの無限のぶつかり合いのなかで歴史は目的論的に発展すると考えたようだ。
アリストテレスは、魂と肉体はくっついていて、しかし、肉体が消滅したあとも「知性」だけは不滅だろうと考えたが、ヘーゲルも、人間の有限性を指摘しており、ものとの無限のぶつかり合いと歴史の発展の行方を知っているのは、
「絶対的魂」である神だとしたようだ。
ヘーゲルは、概念(生産的なものを生み出す心の働き)のない直感は盲目であるとした。
概念というのは「理解するもの」だ。
物が無限にぶつかり合って現在があり、これからがあるだろう。
そういう意味では、すでにある「歴史」というのは「神の見ている風景」であるとした。
カントは教会に通わなかった。
これは、当時の敬虔主義に由来するものであるとされ、静かで個人的な没頭を重視するムーブメントがあったのだ。
しかし、教会を否定したわけではなかった。
いずれはすべての信仰心がすべてを飲み込むだろうと考えたが、まだそのときは来ていないとし、それまでは教会は必要とされるとした。
カントは、悪さをしては自ら敵を作る人への戒めとしても教会は必要であると考えたし、美徳や象徴といった「手段」としても必要であるとした。
しかし、目的は「もっとも高い概念と理性の基盤」であり、人間はこれを神と認識しているのだろうと考えた。
カントは、いろんなものを「批判」したわけだな。
1790年代には、処女懐胎、三位一体、原罪、奇跡、復活などを人々は信じていたわけだな。
それらを批判するというスタンスだ。
俺は個人的にはトマス・アクィナスのように「昨日出来なかったことが今日出来る」ことにも神はあると思っている。
カントが高度な学問を身に付けていくにつれ神を批判できなくなるわけだ。
ありきたりな表現だが、「知識の限界に信心深さがある」とカントは言っている。
これに対して、新カント派が、「知識も神によって与えられるものだ」としている。
カントは超越論的理想主義に宗教の根拠を求めた。
「超越論的」というのは「大きすぎるもの、小さすぎるもの」という意味だが、宇宙論がそれに当たる。
カントは、人間の経験には限界があり、大きすぎるもの、小さすぎるものも分からなければ死後の世界も分からないと考えたが、それらの世界に人間が入っていく現実的な可能性(リアルポシビリティー)があるとした。
純粋理性批判は「ウチ」の法則で、実践理性批判は「ソト」の法則だが、ソトは未知なるものに溢れており、ここでカントの宗教哲学と、彼の批判哲学は結び付く。
人間は、「知識」「意見」「信心深さ」の三つをもってこの未知の世界と向き合う。
信心深さというのはお互いに議論が可能だ。
知識も意見も議論が可能である。
道徳のレポートで書いたように、経験、趣味、宗教が人々に共有可能であり、それが自分を自由にする。
デカルトは「我思う故に我あり」と言ったが、「いろんな人に心をかき乱されながら生きるのが人間だ」と批判された。
まさに道徳の出発点であり、心をかき乱されない状態と完璧な信仰心は区別がつかない。
のちの哲学者にとんでもない宿題を残したのがデカルトだった。
最高善というものは、ストイシズムからももたらされるし、エピクロス主義からももたらされる。
忍耐強くあれば心はかき乱されない。
しかし、ストイシズムはカントの採用するところとはならなかった。
乱打戦ののちにもたらされる心の平穏の研究が人間には必要だった。
人間がバベルの塔を作ろうとしたときに、我々の言語は混乱し、お互いの意思の疎通が困難になった。
ここでお互いの矛盾が生じるようになり、弁証論というものができた。
我々は何を知ることが出来るのか?
限られた経験から物事を知る。
我々は何をしなければならないのか?
この問いにはカントは明確には答えていない。
我々は何を望んでいいのか?
カントは、我々がしなければならないことから自ずと、将来に希望をもっていいとした。
カントが形而上学に自信を深めたのは、経験科学と同じように、経験から「格言」を生み出して実験すればいいという結論に至ったからだ。
格言のことを「マキシム」という。
女の格言に関しては、垂加神道に書いておいた。
カントは、実践理性を「カテゴリカルな」命令だとした。
カテゴリカルというのが、経験から分かるものよりも「次元の高い」命令だとすると分かりやすい。
カントは、「混乱のなかに法則を与える」のが理性だとした。
偶然や受け身のものは理性とは対極にあるとしたのだ。
もしある国の王子が、無実の者の処刑を命じたら、その王子は自分の人生への愛を失うことを意味し、自由を失うとした。
美智子も雅子も、横暴であるという意味では自分の人生への愛を失っている。
ということは、混乱のなかに法則を与える力を失っていることを意味し、皇位継承に対する発言力もない。
自然法の世界ではそうなっている。
さて、我々は何を望んでいいのか?
という問いに戻ろう。
美徳とは「幸福になるに値するもの」だ。
そのため、美徳にしたがった人は、混乱のなかに法則を与える力があるという意味では、そのような力を持つ「神」を信じなければならない。

政治において大事なのは「他者に悟りをもたらす」ことなのだ。
政治においては、自然法だけでなく社会契約も考慮しなければならないことから、
自然法に対応した「美徳のドクトリン」と、社会契約に対応した「権利のドクトリン」を念頭におかなければならない。
美徳は内面的なものであり、権利は外面的なものである。
美徳はより広く、権利はより狭い。
ともに、混乱状態に何らかの法則を与えるために探求が必要なものだ。
その人の「影響力」にも関わる。
固有の「権利」とは一つしかない。
他者の選択に制約を受けながら存在する「自由(フリーダム)」だ。
幸福とは定義が困難だが、自由は定義が可能だ。
人々に自由さえ与えれば、欲望を満たすための行動がとれる。

①すべての人間は国家のメンバーとして自由である。
②各人は主体として平等である。
③各人の財産権は独立している。
これらの権利は、法の支配を有効に機能させるための「基礎法学」であり、法治主義である。

法治主義においては、我々は投票をすることが出来る。
富の分配のためにも投票できるし、戦争をするためには税金を課さなければならないから、そのためにも投票できる。
君主が民意を基盤に統治をするなら、それは共和主義だ。
国は家族単位で国家統治をする。
家族に関しては純粋理性批判に書いてある。
国家の内部で起きた問題を最終的に解決するのは主権であり、それ以上の存在はない。
法治主義の言語と、法の支配の言語は明らかに異なる。
法の支配は、複雑怪奇な人間の共同体の法則を語るものなのだ。
一刀両断に国家統治や外交を語るのが法治主義だ。
法の支配とは、法治主義よりも内面的で、より広い。
こんなところに日本人? という番組があるが、カントは、地球市民というのを貿易においてのみ有意義な発想だとしていた。
しかし、いかなる国も人の往来を拒まないだろう。
カントは、このような国境をまたいだ人の往来を「平和に脅威を与える」と考えていた。
理由は分からないが、なにか深い訳があるんだろう。

エロスとは「個性に注目する」「セックスをする」というもので、その本質は「長続きしない」という法則に我々が支配されていることを法の支配という。

杏里 オリビアを聴きながら

まあ、人間が判断する上で、ボトムアップ式に経験から格言を作る作業と、トップダウン式に格言から判断を下す作業があるが、
「世界ランキング第二位のスタンフォードが言ったから」と考えると、カントの判断理論も議論する必要がない。
しかし、その思考形態は知っておいていいだろう。
たとえば、俺は内野手だったのだが、外野を守らされたときに、大きい打球を完全に見失ったことがある。
これは、打球音がしたと同時にグローブのある方の足を一歩下げて斜めにボールを見て、落下地点を測定しろ、と教わっていたら非常にいい判断ができたのだ。
このような「概念」を人間がどのように生み出すか、という研究だ。
これらは、意味論、論理学、認識心理学、認識論から「認識的判断」が生み出され、
行動理論、道徳心理学、倫理学から「実践的判断」が生み出される。
トップダウン式に格言から判断を下す作業は、混乱のなかに法則を与える力があることから、「理性」であるとも言える。
人間は格言(命題)を信じる生き物だ。
そのため、常に最高の先生を選ぶという姿勢が大事だ。

美しい判断はカントが研究した、しかし判断には「醜い判断」も存在する。
欲望が得られるから人は醜い判断もするのだ。
かなり広がりのある研究だ。
判断の美しさは、快楽がともなう。しかし欲望によって邪魔をされる。
俺は野球のバッティング理論も明らかにしているが、「うまく振り抜けた」というのは快楽によって振り抜いたという意味であり、欲望をうまく制御した状態だ。
この判断の美しさというのは人々のかなりセンチメンタルな反応を引き起こすとされる。
俺がニフティでカリスマと呼ばれたときは「背景には学問がなければならない」と考えていたが、カントもこれを「普遍的妥当性」という言葉で表現している。
垂加神道でもいろんな規範を示したが、カントはなぜこのような規範が人々に快楽をもたらすのかも探求している。
どのように規範を作るのかも掘り下げているが、今の我々の時代には「スタンフォードがあるじゃないか」としか言えない。
我々の「知のイメージ」は、規範によってより真実になるのだ。
男と女の「経験の判断」の基盤になるのが垂加神道だ。
我々は美しい判断もすれば醜い判断もする。
快楽にしたがうこともあれば欲望にしたがうこともある。
主観的反応は複雑だが、そこにも一定の規範がある。
主観的反応としては「彼女(彼)と長続きしないな」というものでも法則があり規範がある。
それは男女の関係にとどまらない。
そのいたるところにある規範の探求が哲学であり、現代の最高水準の答えがスタンフォード哲学百科事典にある。
ここで、共有された知識を命題と呼び、治めるためのルールを規範と呼ぶということは明確にしておきたい。

八百神と孤独。
法則対経験。
敵。ウチとソト。
ソトが学問の基本。
ソトは神の学問。
理解力というもの。経験からわかる。
法則は時に幻や間違いからなる。
美学、分析、議論。

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