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Foreign Affairs

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2014年9月 3日 (水)

深い「道徳」の話

倫理というのは、自分にとって健康的なことをする、という意味だが、道徳というのは他の人間が私に与える負担(山)のことだ。
山があれば、それを横切らなければならないから道徳の研究をする。
人間は自分に「生きろ」という命令を出している。これが道徳の発信源だ。
『アウトレイジ ビヨンド』5分特別映像 スタンフォードにも「Moral 」という検索キーで引っ掛かる論文は多い。
カントは、人にされて嫌なことをするなと言ったし、ロールズは、自分の力をミニマムにすればわかる、と言った。
でもスタンフォードは、いきなり「山を横切る方法なんてあるんすか?」という懐疑論から入っている。
奥の深い研究なので時間をかけてやってみたい。

倫理と道徳は深いね。
道徳に関しては、「誰も何も知らない世界で」他者は障害物にならざるを得ないのではないか、という問題意識がある。
同意できないことがあるから道徳という議論が生まれる。
他者が同意してくれたときの喜びがあるから、壮大な道徳の研究の地平が開かれた。
我々は常に他者の心や信念、誘惑と向き合っているのだ。
そのなかで、実践したり喧嘩したり、格言を残したりする。
好き嫌いは「山」の発信源だ。
あるいは、ナイスガイであれば道徳など関係ない、という人もいる。
さらには、自分の敵にあえて、他者が障害物にならない方法などない=道徳に正解などない、ことを証明させようとする人もいる。
役割を果たすことも敵をなくす。
しかし、たとえば子供を虐待するとすべての人を敵に回すことから、なんらかの公約数的な格言は得られるだろうという人もいる。
人々は、あることを信じることにより正当化されているものがある。それが妥協できなければ邪魔しあうしかないではないかとも言われる。
これらを逆手にとって、我々を対立させる悪魔がいる、という格言は成立するのではないか、と考えた人もいた。
また、自分が信じていることにより正当化されているものが、他のものからも正当化できる場合は簡単に「宗旨替え」できるのではないかというニヒリストもいる。
あるいは、自分が属する母集団によって邪魔物の数も違うだろうとする人もいる。
また、自分に同意しない人にそれぞれ別の対処法を考えようという発想もある。人類学というのはことなる価値観に魅力を見出だす学問だ。
価値観の違いを熟知しているということが重要だし、忍耐強さも求められる。
価値観の違いは、単に「情報の違い」からもたらされていることもあるし、そもそも「自分にとって健康的なこと(倫理)」が違うことに根差していることもある。
道徳に関しては、相手によって対処法を考えようという相対主義は、道教の荘子も認識していたそうだ。
中国の思想もすごいが、スタンフォードもよく見てるなあ。
これを出発点に「何かを学んでいく」のが道徳の研究だ。
我々は「賢く振る舞いたい」という本能があるからこの学問が成立する。
また、「できれば明確に格言を示してくれ」という欲望も人々にある。
カントは「他人を尊敬していない人は自分を尊敬していない」と言った。
豚に真珠を与えるなかれ。足で踏みにじって歯向かってくるだろう。
というのは、「何も知らない人」に対しては道徳の学問が成立しないことから、何も知らない人に「悪魔」の本質を見いだすものだ。
悪魔がいると学問が困難になる。
それも含めて道徳なんだが。
「知っている人」は大人だなあと思う。
俺はスタンフォード哲学百科事典を読んで、彼らがどれ程厳しいスポーツをやっているかを理解している。
しかし、その「アメリカの正義」を知らない連中がいるのも事実だ。
膨大な研究の蓄積があり、英語ができるやつに協力してもらいたいのだが。
結局、他者が障害物でなくなるためには、
サイエンスからのアプローチ(ナチュラリズム)
感情からのアプローチ(ノンナチュラリズム)
宗教をあわせる(スーパーナチュラリズム)
が考えられる。
経験、趣味、宗教をあわせても、内部で対立が生じるだろ。
これを、モラルリアリズムという。
Moral naturalism
Moral non naturalism
Moral Realism
に関しては、スタンフォードに論文がある。
誰か簡単に要約してくれねえか?
基本的には、経験、趣味、宗教のいずれにおいても、
「痛みを発する人間は誠実だ」
ということだ。
なぜ、趣味の共有により邪魔者をなくすことをノンナチュラリズムと呼ぶかというと、人間が向かう「善」が人工的に作られていることと、サイエンスによる探求が可能なのではないかということから、単なる経験の共有と区別されるらしい。
経験がある人もいると思うが、一流大学に合格したり、特定のポストを手に入れたりすると、一時的に敵がいなくなるだろ。
このことをモラルラックと呼ぶようだ。
スタンフォードの Moral Luck という論文も研究対象に含めたい。
出世は我々の強烈なモチベーションであるが、我々には制御できない要素で判断されることが多い。
しかし、結果だけ見てしまうと背景にある「運のよさ」がわからない。
全人類平等主義からモラルラックは批判されるし、カントも道徳(山)を、幸運とは無縁のものとした。
道徳というのは「罰」を伴うものだ。
安室奈美恵が「ルール」という言葉を多用したのとどう関係あるのかね。
安室奈美恵のBreak the rules を聞く限り、この国で大きな仕事をしようと思うな、と言っているように聞こえる。

モラルナチュラリズムは、経験を共にするという観点から、
我々は、好きか嫌いか、怖いか避けるか、欲望をもって求めるか、ぐらいしか考えていない、とした。
それが趣味や宗教より大事だ、としたのだ。
これに対しては、何ら知識が得られないのではないかという指摘がなされた。
しかし、経験を共にすることに善や幸福があるとした。
この立場への批判に我々は実に一世紀も費やしてしまった。
なにしろ「そのままがいい」という女が本当にいるのだ。
アリストテレスは、日常会話において「良いこと」の役割の重要性を理解していたし、「すべき」が、期待していることやアドバイスを示すことを指摘している。
また、Aという物語を聞きたいのにBという物語を聞かされたときも話が盛り上がる。
子供が猫を虐待した、STAP細胞はなかった、などだ。
お互いが持っている「良いこと」がホメオスタシスの状態を求めているという仮説もある。
また、どうしてもたどり着けないEという結論の周辺で、D1.D2....という話が盛り上がる。
今のとある業界では「雅子さん離婚しないかなあ」よりも、「秋篠宮さま天皇にならないかなあ」が、どうしてもたどり着けないネタとして盛り上がってる。
また、できるだけ多くの人の考えを包摂し、顔をたて、励ますような言葉が必要だとする人もいる。
これらのことから、悪意に満ちた集団よりも、善意のある集団に属した方が「良いもの」にフリーライドできるとも言われる。

しかし、経験の共有だけでつるむと、間違ったことすら良いとしてしまうことがある、と批判したこともある。
だが、女性は「色」「誰々に似ている」だけで話題が持ってしまう。
俺のいる病院でも、出来事を語ることを好む人(ナチュラリズム)と、うんちくを好む人(ノンナチュラリズム)の二つにわかれる。
経験の共有も、趣味の共有も「楽しいから」という点においては大差ない。
抽象的概念を用いて演繹法を使用するのが趣味の共有だとも言われた。
しかし、善は趣味においてのみ存在し、いろんな議論に対してオープンだというのがノンナチュラリズムの立場だ。
この「オープンである」というのがノンナチュラリズムの本質であり、人々の動員力がナチュラリズムとは異なる。
結論の出せない議論(Open Question Argument)に周囲を巻き込むのが大事であり、閉鎖病棟ではトランプなどがどれほど有効かを知らなければならない。
快楽を基盤にするか、善を基盤にするかの違いがある。
経験の共有は快楽に基づき、趣味の共有は善に基づく。
快楽とは、人間が寝ている間に体から心へとボトムアップされる物事であり、趣味の世界の「善」とは異なるものだ。
どちらを狙えば他者が障害物でなくなるかは人それぞれだ。
また、経験も趣味も直感で感じよう、とする人もいる。
趣味のもつ概念が経験の世界でも有意義だとするのだ。
経験を共有する場合は形而上学の世界になるが、
趣味や宗教のように「オープンである」世界では、必ず「痛み」を感じる人が出てくる。
そのために、なかなか他者を障害物にしないというわけにはいかない。
道徳というのは「他者が障害物にならないようにする研究」だが、どうしても敵を作らざるを得ないときがある。
たとえば、裕福な家庭のお年寄りの奥さんから、貧しい家庭(朝鮮人だとしよう)の奥さんがお金を借りるケースがある。
時には「人生相談」と称した。
このときに、「できる」ということと「すべき」ということの違いがあるが、「できる」ということからお金を借りて遊びに使って借金を踏み倒してしまった。
このときに、裕福は家庭の方の奥さんの息子は怒るだろう。
復讐することも「できる」し、「すべき」という問題と直面する。
復讐したら今度は自分が敵を作るかもしれない。
このことがMoral Dilemma という論文に書いてある。
お金の貸し借りというものが道徳の世界を豊かなものにしたのだ。
「殺すな」「盗むな」という問題がまとわりつくのがお金の貸し借りなのだ。
複雑に動く人間の直感と感情はあらゆる学問を凌駕する。
まさに、文学の作り方の基本はこういう事案を知ることにある。

魅力的なキャラとはなんだろうか。ナイスガイであれば敵はいないと言われる。
キャラクターの語源はコインに押された刻印から来ている。
キャラが立たないとアイドルも生き残れないとされるが、「人間がどのように繁栄に繋がるのか」という研究だ。
こういうやつと関わると人間が伸びないな、という奴がいる。
ギリシャ哲学の時代から「人間の繁栄に繋がるキャラ」というのは議論されてきたのだ。
美徳というのは「混乱のなかに秩序をもたらす」力を持つ。
自分のささやかな満足のために他者を攻撃したり、勝つ見込みのない戦いに立ち向かったりするのは美徳ではない。
本当に自分が影響力を持ちたければ美徳の研究は避けては通れないのだ。
「男に二言はない」「言行一致」なども、自分が影響力を増すためにアリストテレスが考えたものだ。
若者は、世界の美しさを知り、宇宙がどのように出来てるかを学ぶ。
それは文系でも理系でも同じだ。
神は自分に似せて人間を作った。だから我々はアドニスのために泣ける。
アリストテレスは美徳を理性との調和に求めたが、ストア派は、「他者も自分と同じであること」に美徳を見いだした。
自分がなにかを成し遂げてもそれは自分の業績のみならず他者のものでもあったのだ。
音楽が発達し、政治コミュニティーが最後の審判を恐れなくなると、政治に革命が起きた。
グロティウスは、美徳に縛られる必要はないと指摘したし、カントは強烈な「自律」に影響力の基盤を見いだした。
自律により影響力を増す基盤には人々の「感謝と同情」があるとしたのだ。
ヒュームは「自分の所有権の安定」を守ってくれる者に影響力があるとした。
マルクスは「自分と世界の仲たがい(疎外)」を解消してくれる者に、ミルは、「より高度な快楽」を与えてくれる人に影響力があるとした。

最終的には、ドゥオーキンも「他者を認める」ということに尊厳を見出だしているが、その辺りは各自が経験で感じてほしい。

ひとつの領域に精通している人(パティキュラリスト)と、満遍なく知っている人(ジェネラリスト)のどっちが敵が少ないだろうかという研究がある。

パティキュラリストの方が混乱のなかに秩序をもたらす方法(理性)や、モチベーションで上回っているのではないかとも言われる。
なかには、チョコレートのトッピングに詳しい人の方がいいという人もいるだろうが、世間の統制はルールによってなされるし、ルールの背景には原理がある。
どちらがいいかは激しい議論がある。
「余人に変えがたい」人というのは道徳の世界では完全勝利だとも言われる。
また、物事の一貫性のない人間は卑怯な手を使うとも言われる。
ジェネラリストは、いろんな世界で「人と同じこと」を共有しているだけだが、パティキュラリストはそのような心配はしていないとも言われた。 
しかし、ジェネラリストからは、「反証例を突破したすべてのテーマを網羅している」と主張された。
ジェネラリストからはさらに、常に最高のものを相手にしている、誰にも迷惑をかけていない、お約束は守っている、などと主張されたが、
反証例(カウンターエグザンプル)を突破したというほどの説得力はなさそうだ。
また、ナチスが拷問しなかったのはジェネラリストではなくパティキュラリストだっただろうとも主張された。
パティキュラリストは、その筋では他者とはまったく異なる絵を描けるのだ。
【研究途中】

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