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2012年12月 5日 (水)

プロレスの理論~スタンフォードのリアリズム

プロレス界には「どう見ても八百長じゃないか」という問題が付きまとっている。
これを「サブジェクトマター」という。
これは算数のものの考え方である。
しかし、算数のものの考え方も知識の制約を受けていることを知らないといけない。
あらゆる知識も疑いを持ってみなければならず「どう見ても八百長じゃないか」という算数の考え方も当然、疑いを持たなければ学問は成立しない。
人が信じているものに一定の秩序があれば、信じているものの基盤が存在するのであり、心や言葉が独自に存在するのだ。
人が信じているものが存在し、言語が存在し、スキームが存在する。
算数とは別の次元の信じる基盤が存在する。
独創性に一定の説明が与えられる。
「どう見ても八百長じゃないか」という議論も、算数が批判可能であるのと同じで当然、批判の対象になるのだ。
それこそがプロレスの学問たるゆえんだ。
「どう見ても八百長じゃないか」という議論への批判は「原子から成り立っていればすべてが規範的に同等である」という議論からも可能だ。
客観的であり、規範的であり、分類可能であるという要求さえ満たせば、いろんなものが存在可能なのだ。
我々は何をすべきなのか、その行動に説明が与えられるのか、
それを追求するうえで道徳的な評価が可能であるのか。
このあたりにもプロレスの存在意義が与えられる。
我々の欲望や性向が満たされればいろんなものが存在可能なのだ。
知識が客観的であればいいのだ。
リアリズムは「現実主義」と訳されるが、その語感と実際の意味は実は異なる。
月を見て「球状をしている」と思う人はあまりいないだろう。
知識では球状をしていると思っていても「俺にはそうは見えねえな」と思うのがほとんどの人だ。
これを「リアリズム」と呼ぶのだ。
「この人おっかない人でね」と呼ばれる人でも、話してみて「俺にはそうは見えねえな」と感じるのもリアリズムと言える。
かつてオオケンが「プロレスラーに向かって八百長野郎ということは、ゴジラに向かってぬいぐるみと呼ぶようなものだ」と言っていたが、リアリズムの見地からは、プロレスラーは八百長野郎にしか見えなくても、ゴジラはぬいぐるみだとは思わないだろう。
プロレスは、資金のまわし方などの基本などから興行を行う仕事であり、それも含めて「重いものを持ち上げる」ことの反復がムラを形成する社会であって、専門誌がプロレスラーの発言の著作権を持っている現実なども全体的に理解しながら楽しむものだ。
特にプロレスは人を管理するのも仕事であり、自分の位置も知らないアホに「俺を殴ってはいけない」という基本から教えなければならないのだ。
「俺は始皇帝だ」という奴に自分の位置を正確に教えることも仕事なのだ。
結局、プロレスを八百長と呼ばずに楽しむ連中は「非リアリズム」に立脚し「美しさ」だけを求めた連中だ。
これも一つの立場で、リアリズムの連中を「それでは自由に社会で活動することはできないよ」と批判するしかないのだ。
プロレスラーは、女性の「抑圧された性的欲望」を狙っている。逆に、女性の側が「男性らしさ」を決めていることから、その男性らしさを男が楽しんでいることになるようだ。
限られた空間で「~すべきである」というシリアスな問いかけに抵抗すると客を引き付ける。これもプロレスの奥義だろう。
「プロレスは八百長だ」というのは算数の考え方だが、言葉は抽象的であり算数ではない。見たものを言葉で表現するうえではシビアなスポーツであれプロレスであれ変わらないのではないかともいえる。言葉から分析すると同じことだともいえるのだ。
ボクシングのようにより真実に迫る言葉で語る世界もあれば、言葉の抽象性に頼って物事を語る世界もあるのだ。それはそれで十分に成立する世界だ。どちらが正しいかは一概には言えないのだ。
言葉の抽象性に頼る世界は分析的ではないけれども、「何を信じるか」に大きく依存する世界だ。真実の探求ではなく言葉の抽象性から人々が楽しむ世界があってもいいのだ。

「選民思想と秋篠宮」
秋篠宮は選民思想を基盤にしている。
選民思想とは「完璧な人間」であるという発想をベースに自分がスーパーマンであることを標榜し、そのために「体重ゼロ」の人間を演じなければならない宿命なのだ。
実物はともかく関わりにくい奴だ。
人より優越するからスーパーマンだという発想は何かを獲得しようとするが、比較不能な完璧さを標榜するとその人は人生でもはや何も仕事をしなくなることを意味する。
スーパーマンは、地道で価値のない仕事を嫌うことが多い。
問題は、人との比較を怖れるということであり、競争を好むのか、あるいは、人間というものをどう見るのかという観点から関わっていかなければならないのだ。


深刻な問題において、我々の欲望が行き過ぎる、あるいは阻止するために私たちは泣くのだ。

「深刻さ」と「欲望」を狙えば泣けるのだ。
トイレの神様
http://www.youtube.com/watch?v=Z2VoEN1iooE

「償い」さだまさし。これも「深刻さ」と「欲望」を巧妙に狙っている。
http://www.youtube.com/watch?v=k1ecRxlfkKI

人生の末路「インカルミネーション」
http://www.youtube.com/watch?v=IWTMuY8Ix1w

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