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Foreign Affairs

  • CFR: フォーリンアフェアーズ英語版

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2012年12月

2012年12月29日 (土)

「禅」の研究

禅の修行僧は、座禅を組み、自分の足を「Here and Now」(ここと今)の上に設定する。ここはどれだけ遠く広いのか、今はどれだけ長いのかを感じる。そして、現実に対する誤解や偏見を視野を広くして感じるのだ。「今」は­記憶や予見という広さを持つし、「ここ」は自分の感覚でわかる。ここと今を肯定できるのならいいが、否定するのはあまりにも人間的すぎる。水やまきを肩で担いで修行する。
「座禅を組んで何を見るのか」
ゼロ時間・ゼロ空間で「底のない地平」に身を置き、何の映像も見ない。そういう境地に自分の鋭敏で、かつ鋭敏でない感覚へ高めていく。そういう状態の瞑想状態になるようだ­。

「禅」とは人間の完全性を目指したものだ。叡智を求めた仏教は、日常生活のストレスや葛藤を経験したのちに、座禅を組む。
目に見えるものではなく目に見えないものの中から何かを見出そうとするものであり、心と体が「二つではない」さらには「ひとつですらない」という境地に至り、「第三の見方­」を探求する修行であると言える。
「Here and Now」(ここと今)をためらいのない叡智とともに瞑想によって感じることを「悟り」と呼んだようだ。
日常生活や自然を経験した週末に「心と体の平穏」によってそれを受け止めてみてはいかがだろうか。不安やストレスを感じた時に禅を組めば人間はまっすぐかつ平穏に物事に取­り組めるようになる。
倫理的受け止め方、差別の無い知恵、仏陀が感じた悟りなどを座って瞑想することで味わう。
これは「自分を豊かにすること」(修業)であるとされる。
呼吸の回数を数える「数息観」。公案を与える方法。あるいは只管打坐(Just sitting)。
公案というのは「知恵だけでは解決できない問題」を与えて文化的歴史的長さを感じ、エゴの自意識を忘れる方法だ。白隠が17種類の公案を考え、副題を含めると3千種類にな­る。
公案は①到達すること(理知)や真実の実体(発心)、②言葉の発音と瞑想、③通るのが難し問い(難答)、④日常生活の経験への洞察。⑤悟りを通じて仏陀の境地にいたる。
「特別な伝達」「言葉に頼らない」「心に直接到達する」「ブッダに到達する」という四つのモットーがある。
曹洞宗の只管打坐は「エゴによる関心」「欲望」「関心」などを忘れて悟りの渦中に入る方法をとる。「次第に悟っていく」あるいは「静かなる幻想」とも言われる。
臨済宗も曹洞宗も目指すところは同じだ。
哲学が「理性の王国」を作る営みだとすれば、禅は間違いなく「反哲学」であるといえる。
哲学がエゴを使って真理を探究するのに対して、禅は超越論的主観と命、己の存在を使う。

「心と体」の「二つではない」ということを知る。
「二つではない」ということをひたすら探求する。
「思考もイメージもない世界」
「何もない世界」
その中で「何かを見る」ということ。
ここと今。
「ゼロの時間とゼロの空間」
「時間と空間の統合」
「その中で何かが現れる」

詳細は「スタンフォード哲学百科事典~日本の禅の哲学」
http://plato.stanford.edu/entries/japanese-zen/

動画

2012年12月28日 (金)

右翼の思想は試験に受かりやすいから作った

右翼の思想
本来、自由民主党がテキストブックにしたのが右翼の思想だ。
高校の「現代社会」に自由民主党が圧力を加えることでこの思想は展開された。
自衛隊は合憲であるとか、労働時間の短縮などを主張した。
また、外国人の指紋押捺拒否を一方的な議論であるとして、外国人の特定のために必要であるとした。
さらに、女性が男性と対等に働きたいのであれば一定のモラルを求めたりした。
1982年に中国から戦時中の侵略性の指摘を受けた時には「頭を欠いた豚」と官僚を位置付けた。
1988年には高校二年生のテキストに日本軍の残虐性を欠いた記述を「マイフェアレディー」に差し替えたのは国家基本問題研究所の亀井静香の圧力だとされる。
税制改革を推進することを教育したり、リクルート事件の記述を省いたり、日の丸君が代を推進したり、北方領土問題を紹介したり、古事記や日本書紀を紹介して日本が「くにつくり」にのっとることを明確にしたのが平成の始まりであった。
自由民主党の文教族がやったことだ。
教科書は自由民主党文教族が主導して書いたものだが、日本の軍国主義の肯定や天皇カルトを基盤にするものであった。
これは自由民主党の思想を表現するものであるとして、中国や韓国が批判を加えたのだ。
海部俊樹はこの教科書検定に関して日本の「真の意図」を中国に告げている。
「その方が試験に受かりやすい仕組みである」としたのだ。
教科書にしたがっていれば試験に受かりやすい仕組みを作り、情報力を身につけるには英語を用意した。

2012年12月27日 (木)

「在日」「部落」「沖縄」~アメリカの研究

「高度統治行為」という天皇の政治的実践は日本の民主主義の問題点の一側面でね。
他にも「部落」「在日」「沖縄」などのマイノリティーについて資料から書いていきたい。
私の資料によると、「部落」の最大の特徴は「下水がないこと」なんですよ。
これで判断できます。
日本政府はこれを基盤にした差別の隠ぺいをしているのですよ。
「在日」というのは日露戦争での韓国併合がきっかけで帝国に朝鮮を加えたことが発端なんですよ。
いちばんのトラウマが「関東大震災での大虐殺」なんです。
これを正確に理解しなければならないんだ。
部落民は170万人。在日は100万人。
これらに「ロータススートラによる仏教連合」という法華経の思想が食い込んだために、創価学会員が多い。
大阪は特に部落民が多いね。今回の選挙でも公明党は強かったしな。
差別だ差別だと言って言論を抹殺するのも「問題の隠ぺい」に加担することなんですよ。
問題は「下水が引けない地域」だということだ。
部落の問題は「いろいろな問題があって下水が引けない」ということだと私は考えている。
「沖縄」というのもエスニックグループなんですよ。
琉球王国としてはじまって、江戸時代に薩摩が搾取をしている。
1879年に日本に編入されて、「在日」「部落」「沖縄」「アイヌ」というのが基本的にエスニックグループなんです。
「下水がない」とか「地震が起きたら殺される」という問題の本質を隠ぺいする言論が「差別だ差別だ」という議論なのだ。
87万人の朝鮮人が戦時中に労働力として日本に連れてこられ、14万人が陸軍に徴兵され、10万人が海軍に徴兵された。20万人が従軍慰安婦となったのだ。

2012年12月25日 (火)

「観音さま」は聖徳太子の化身

浄土真宗セクトは、明治時代に宗教界独占を狙って「神道は宗教ではない」といったんだけど、その思想的基盤は「聖徳太子カルト」なんですよ。
聖徳太子崇拝が親鸞の思想的基盤なんです。
浄土真宗セクトは本地垂迹という立場だ。これは聖徳太子を神と位置付けるために唱えられている。
皇室の流れと仏教の流れから生じたものだ。
聖徳太子の研究を深めたのが親鸞であり、天皇の次男の研究と信仰からカリスマとなったのだ。
専修念仏という思想は阿弥陀仏陀の名前を唱えるものだが、この簡素に集約された思想が末法思想を背景に一気に広まり、比叡山の嫉妬を買った。
比叡山はもともと念仏を唱えるという思想を始めたところだが、この「専修念仏」の弾圧を後鳥羽天皇とともに行ったのだ。
親鸞はこの専修念仏の弾圧を回避するために聖徳太子に注目したとも言われる。
朝廷とのつながりを必要としていたのだ。
親鸞を語るうえで「末法」は欠かせない。
末法とは仏陀の入滅から時間が経ちすぎると人々が悟れなくなるのではないかという思想だ。
この思想が、比叡山の僧が秘技を用いて資金を得ていることなどの現状から広まり、親鸞が阿弥陀仏陀に頭を下げる理由になる。
親鸞は、48回頭を下げるときに18回目だけに集中して深く頭を下げることなどを提唱している。
聖徳太子は「観音」の化身とされた。
法然の念仏カルトも弾圧されたが、親鸞は「天皇家の次男」としての聖徳太子をカルトにすることで念仏カルトの弾圧を防いだのかもしれないね。
浄土真宗は「太子信仰」を基盤にしているのだ。
親鸞の夢
親鸞は個人的に原体験をもっていた。
六角堂に百日間滞在した時に聖徳太子の夢を見たのだ。恵信尼の夢も見たとされる。
そのあとに法然の念仏カルトに帰依している。
六角堂で見た夢がのちに聖徳太子カルトとして浄土真宗の核心を形成していくのだ。
太子信仰の歴史
平安時代は、後期に入って権力構造が変わった。
地方に荘園ができて武士がそこを資金源に台頭してきたのだ。
寺は皇室を資金源にするようになった。
仁和寺などは、皇室を支持し、アンチ藤原を標榜した代表格だ。
藤原道長は、自分を聖徳太子の化身としている。
この頃から太子信仰はあったようだ。
頼朝が鎌倉幕府を作った時には、頼朝も「聖徳太子の生まれ変わり」と言っている。
武士にとって聖徳太子は権力の正統性に関わる存在であり、それは天皇の次男としての立場にとどまらず、彼の作った十七条憲法が権力腐敗を戒める強烈な意味をもったからだ。
鎌倉の大仏は「菩薩観音」「聖徳太子」「聖武天皇」の意思で作られたと位置づけられた。
荘園ができて、武士が出てきて、「聖徳太子」という正統性を必要とした連中がいたんだよ。
聖徳太子がなぜ「仏教の父」と呼ばれるようになったかというと「カルマの法則」と「本正話(ほんじょうわ)」について語ったからだ。本正話とは「ブッダが生まれ変わる前の話」という意味だ。この話を聖徳太子は行っている。
本正話について書いておきたい。
ヒマラヤボーイが悪魔の掌の上に落ちて、マハーサットバ王子が飢えた虎の上に落ちて、両者が似たような姿勢をしていて仏陀として生まれたという話なのだ。
聖徳太子は、うまやどの王子という名前は知られているが、宮殿の南ウィングで推古天皇の職務のすべてを代行したために「上宮太子」とも言われている。
実は「虎」というのは「本能のままに生きた人」を意味するし、
「悪魔」=閻魔大王というのは「権力を利用して部下を顧みずに天上界に戦争を仕掛けては敗北する人」を意味します。
ゴータマはお父さまとお母さまをそのように見ていたのでしょうか。
専修念仏というのは「念仏を唱えるだけで悟りが開ける」という思想だ。
仏陀が入滅してから時間が経ちすぎるともはや悟りが開けないのではないかという末法思想を背景に阿弥陀が愛したピュアランドで念仏を唱えればその土地に生まれ変われるという思想が広まったのだ。
空海は「大日如来の語った言葉を唱えれば悟りを開ける」と言ってお経を唱えさせたが、念仏というのは「自分が今いる土地に生まれ変われる」から唱えるという違いがあるのだ。
五木寛之の「親鸞」も読んだんだけどね。
「浄土」(ピュアランド)の解釈がちょっと違う。
現在生きている土地のことを「浄土」と言って、その土地で念仏を唱えればそこに生まれ変われるという思想が親鸞の思想だ。
そういうあたりから議論しないといけないだろうね。
「浄土往生」とは「今いる場所に生まれ変わる」という意味なのだ。
人が死んだら「南無阿弥陀仏」といって「俺はこの土地にとどまるよ」というのだ。
法然上人の死との向き合い方について書きたい。
我々は死ぬときには悪魔に魂を売り渡してでも生きたいと思うだろう。しかし、そのあとに平穏が訪れ、阿弥陀仏陀が深く頭を下げて、ファーストランクの扱いで船に乗せるだろう。
そうやって浄土に導かれると法然は説明した。
この「浄土」というのが「我々が今まで生きていた土地」と親鸞は言っているのだ。
法然上人は、子供の頃に母に言った。
「私は生まれ変わって栄光に包まれる宿命だ。父の言いつけもあって比叡山にのぼらなければならない。
朝起きて夕方に生活は高揚する。これがすばらしいことだ。
親に感謝することはいいことだけど、自分の名前を永遠にすることはもっといい親孝行だ」
法然の母は、夫の忘れ形見である法然の言葉を「合理性を失っている」として、床のわきで泣いた。
修行のために作られた寝苦しい寝床だった。
母は息子が比叡山に行くことを認めたのだ。
法然は言った。
「あなたは自分の将来すらわからないでしょう? 他の人の将来なんてなおさらわからないよ。
座ってみなさい。そんなことすらわからないのが人間なんだよ」
法然の語る言葉に理があったからこそ、日蓮の立正安国論で旅人は先生に「法然の悪口を言っていると殺されんぞ」と言っているのだ。
法然の言葉を書いていきたい。
法然がなぜ比叡山にのぼれたかというと、僧「寛学」の紹介状があったからだ。
紹介状には、天台宗の元弘あてに「文殊の聡明さと偉大さの肖像をここに送る」と書かれていた。
自力と他力
念仏を一度か二度唱えて念仏だけで救いを得ようとするなら「自力」だ。
何千回も唱えたり、たった一度でも心を込めて唱え、阿弥陀の救済を得るなら「他力」だ。
この区別を法然は行っている。
法然は、魚を食べると浄土に行けないのではないかという議論にも答えを与えている。
彼は「猿は魚を食べない」ということに注目し、猿は猿として生まれ変わるとした。
そこで、やはり念仏という神聖な名前を唱えると浄土に行けると論じたのだ。
念仏を唱えるということは「阿弥陀を信頼する」ということだ。
他の仏陀や菩薩があなたに慈愛に満ちた頭を下げてもそれは一方的だし、あなたが頭を下げるのも一方的だ。
つまり、阿弥陀を信頼してさえいれば他の宗派とは関係をもたないとしたのだ。
法然は、経典のページをめくるたびに「阿弥陀」のことしか頭に入らなくなった。
寝ても覚めても阿弥陀のことが頭にあった。
仏陀が入滅してどんなの時間が経過しようともひたすら阿弥陀にすがろうという発想につながり、他の宗教のあらゆる実践を捨てて念仏を唱えたのだ。
「南無阿弥陀仏」というのは「ああ!阿弥陀仏陀。私を救ってください」という意味だ。
法然は、みんなが唱えている念仏を唱えれば、自分だけが特別だという感情がなくなり、傲慢さが消えて、罪が消えるとしたのだ。
そうすれば、自分が今いる場所に生まれ変われるよと言ったのだ。
我々は他人からの賞賛や名声を望みがちだ。しかし、都会を離れた小さな場所に案外住んでいるものだ。
お寺を見てみよう。
寺のまわりには見栄も何もない惨めな花がたくさん咲いているはずだ。
他者からどのように見られようとも、そのように咲いている花を見ればおのずと往生の秘密が分かると法然は言った。


Nennbutu


2012年12月22日 (土)

ロータススートラ(法華経)と日蓮

ロータススートラ(法華経)の意味
ロータスの花というのは最も美しい花であり、それを語ったスートラが法華経だ。
たとえ世界が汚染されていても白い花を咲かせる。
それは真理ではなくとも不朽のものであり、結局、仏教はそこに収斂して行くものと考えられた。
ブッダが、インド北部の山で8万人に囲まれてロータススートラを唱えた時に、世界で8万人だけが光に包まれた。
これがロータススートラの意味だ。
立正安国論
日蓮が北条時頼に献呈した書物だが、内容は、旅人と先生の対話だ。
旅人が世の中の天変地異への不満を先生に語る。
先生は法然の浄土宗を批判した。
旅人は「法然を批判して殺された人を大勢見た。お前も気を付けろ」と言う。
先生は「間違った法が跋扈した事例は中国で山ほどある」と主張する。
旅人は「仏教は複雑すぎてよく分からない。有名な経典を引用してくれ」と言う。
先生は好きな部分を引用する。
結局、立正安国論のテーマは「天変地異と正しい法」を語った書物だと言っていい。
ロータススートラの記述は興味深い。
ブッダは自分の乗り物を三つに分けたのだ。
「弥勒」「菩薩」「弥勒菩薩」の三つに分けた。
この三名と山で語り合ったのを8万人の人間が聴いて「光に包まれた」と言う記述がある。
結局、ブッダの教えは「インドチベット」「中国・日本」「南伝」の三つに分かれているのだから日蓮がそのように理解していても不思議ではない。
以下にスタンフォード大学の研究を書いておきました。
「インド・チベット仏教の倫理」
http://hougakukyoushitu.cocolog-nifty.com/thirdroundthriller/2011/07/post-4bab.html
竜の口の処刑
1271年9月12日に日蓮は裸馬にまたがり、鎌倉に向かった。
これは軽犯罪であり、自らの退路を断つ行いだった。
八幡神社に至り、日蓮は叫んだ。
「八幡大菩薩!お前は本当に神か?伝教大師がお前にロータススートラを教えた時になぜわからなかった?今、日本では私が最も忠実なロータススートラの実践者だ。私には何の過ちもない。私は、沈みかけたこの国を救うために真実を主張している。モンゴルがこの国を侵略しようとしている。お前は天照大神とだけでやっていけるのか?ロータスの集会を思い出せ。インド・中国・日本から仏陀のもとに聖なる者たちが集まったではないか。今すぐ天照大神に頭を下げるか別の方法を考えろ」

周囲の人間は「あいつは頭がおかしいのか」「正気ではないのではないか」「いや、神聖なものを感じる」と語りあった。その日の夜に、日蓮のもとに衛兵が突入し、日蓮をとらえた。そうやって由比ガ浜に連れて行かれたのだ。
日蓮は「鷹に襲われる人や猫に襲われるネズミ、財産を盗んで処刑される人しかいないこの場所でロータススートラのために死ぬのは私だけだろう。かねてから予感していたことだ」と言った。彼のために周辺の住民は泣いた。彼のために祈ったものは逮捕され投獄された。日蓮のために泣いている子供に日蓮は言った。
「仏陀の法のために死ぬのだから泣くな。笑ってくれ」
そうやって竜の口の刑場に日蓮は連れて行かれたのだ。
竜の口刑場での出来事
日蓮は自分が殺害される茣蓙の上に座った。
その時に唱えたのが「神聖な名前」である「南無妙法蓮華経」である。
これは「神聖な名前」であり、「法華経」ではない。
その時に何が起きたかは周知だろう。
処刑は停止され、混乱の中で、幕府側に議論が投げ返された。
僧を処刑した歴史があるのか?
手続きは適正だったのか?
死刑に値する罪なのだろうか?
そんな中で、北条時宗が権力を奪い、日蓮を救う命令を出した。
幕府も民衆も、頭にあったのは「モンゴル」だけだったのだ。
庶民や幕府は「深刻さ」と「欲望」と「出口がない」という三つに要素があったから日蓮のために泣いた。
頭にあったのは中央アジアやインドを支配したモンゴル帝国であった。
モンゴルの侵略におびえていたから日蓮があった。
日蓮はロータススートラで「仏陀のもとに日本や中国やインドから聖なる者が集まって会議をした」という記述に注目していた。
このロータススートラの記述こそがモンゴルから日本を救うと考えたのだ。
「南無妙法蓮華経」というのは「神聖な名前」であって、処刑されそうになった時に日蓮が唱えたものだ。
このへんを混同してはいけないようだ。
私は、日蓮が法華経に注目したのは、モンゴル帝国に対抗するためにインド・中国・日本の「仏教連合」を構想したのだろうと考えている。
これはあくまでも「史観」であって、不都合な記述に目をつぶってはならないが、研究者の研究に委ねたいと思っている。
文永の役を退けたあとの日蓮の人生は平和に満ちていた。
身延山に上り「まるでここはインド北部で人々を集めた山のようだ」と語った。
「妙法蓮華経」という神聖な名前は「私はロータススートラに避難します」という意味だ。
ロータススートラは中国の南学大師が常に携帯していたもので、「世界に目を向ける」という思想を描いている。
聖徳太子は「南学大師の生まれ変わり」とも言われ、南学大師(Hui-ssu)の研究と切り離せないのだ。

2012年12月12日 (水)

ガンダムの哲学

ナレーションでフィクションにおける人々の共通認識を作る。
ジオン公国独立運動:資金源があるはずだ。石油が出たのか。
兄と妹の愛:アガペーは妹の個性に注目せず、性の営みもないために永続する。
恋人や妻との愛:エロスは個性の注目し、性の営みがともなうために永続しない。
死は欲望が落ち着く場所。
恐怖を克服するためには人と話を続ける以外にない。
このあたりの哲学をとりあえず見てみよう。
若さの永遠を信じているものはリスクを好むという点も見ておけばいい。
年配者と若者の違いがある。
忠誠を尽くすのは人生のためになるから。
友情は「対等」「楽しみの共有」
敵が「晩餐」ができなくなるということは「資金力」に異変が生じたという情報だ。
戦いが有利になったということだ。
映画の基本は「そんな経験はしたくないけどそのような感情を味わいたい」から見るというものだ。
ガンダムの戦いも同じ原理だと言っていい。
子供は「デカい家に親父の書斎」が家にあれば、遺伝子が自動的に15歳ぐらいで動き出すそうだ。
このくらいの年齢で「社会に認められたい」という感情が芽生える。
アムロもそうだったのだろうか。
親父の書斎がポイントだ。
エリートは「民衆に自由を与えて好き勝手に行動させて自分の意思決定の質を高めていく」ものだ。
ブライトもそうなのだろう。
大気圏突入という「問題の所在」を提示。
問題の所在を明らかにすることは司法試験の論文式の基本だ。
クラウンの死:恐怖の前にシャーと話すことしか恐怖の克服法はないことを示した。
恐怖の克服は人と話すこと以外にない。シャーの愛情をここに見ろ。
シャーもアムロも「イケメン」:抑圧された女性の性的欲望を刺激するから作品に魅力がある。
エリートは自分の意思決定の質を高めるために人々に自由を与えているという視点は常に必要だ。
概念が下降線をたどったら人は戦いたくなくなるものだ。
全世界の女性を支配する父親と戦った男児と、その両親の渦中に入っていく女児ではメンタリティーが違う。
ガンダムに乗れるか乗れないか、アムロとフラウボの違いはそこにあるんだろう。
友情は「対等」「楽しみの共有」が基本だが、戦場では「能力の共有」さらには「美徳の共有」が求められる。
「赤い彗星」と戦うものは「伝説」(神学的評価)とも戦わなければならない。ここにも学問がある。
シャーはシャワーを浴びて女性の抑圧された性的欲望を刺激した。まさにイケメンだ。
パーティはジオン公国の資金力を見せつける行為。まだまだ戦えるという意思表示。
勇敢な戦士たちというモデルがあるから平和は訪れない。平和のためには女性を混ぜたほうがいいというメッセージ。
民間人の信頼を失えばコミュニティーは崩壊し戦闘不能になることを指摘。
優生学を標榜するエッセンバッハ家は娘の恋愛にうるさい。
ジェラシーは嫉妬とは違う。
嫉妬は「他の人が持ち合わせているものが自分にも与えられる可能性があった」から生じる感情だが、ジェラシーは「愛する人が他の人に思いを寄せている」から生じる感情だ。
ガルマは戦死した。
生きるか死ぬかの乞食に侮辱的にエサを与えたら、乞食はエサを食うよりも死を選ぶ。
ここに孟子は人間の善を見出している。
ジオン公国最前線はコミュニティーを敵に回して前線基地を設けている。
女性がコミュニティーへの帰属意識を持っていたからまだ団結が維持できた。
ここに「兵士による女性のレイプ」が関わると、女性はコミュニティーへの信頼感を失う。
南京で日本が使った戦術だ。
「寝る」と「空想に浸れて」「喜びが増す」
パイロットの仕事の一つ。
「食べる」と「自信を増し」「前向きになる」
パイロットの仕事の一つ。
脳の疲労は心拍数の高さで測定する。脳波レベルでは今は無理だろう。
オーバートレーニングは心に悪影響を与える。どうしても「回復期」と適正なトレーニング量を維持しなければ
「心」「メンタルな強さ」は維持できない。
回復には「食べる」「飲む」「寝る」「昼寝」などがあるが、
「食べる」と「自信を増し」「前向きになる」
「飲む」と「心が落ち着き」「恐怖や怒りが減る」
「寝る」と「空想に浸れて」「喜びが増す」
「昼寝」をすると「気がまぎれて」「安全感や安心感が増す」

アスリートに求められる「感情」は「柔軟であること」「反応がいいこと」「強いこと」「弾力性があること」の四つだとされる。
「楽しい」「ファイティングスピリット」「ユーモア」などは柔軟性からくるし、反応が悪いと精彩を欠いたり、物事に屈したりする。
強さは物事を乗り越える基本だし、弾力性は多少殴られても平然としている条件だ。こうした「タフネス」は「結局は体のタフネスだ」という議論を
ジム・レーヤーは展開している。心に無理難題を押し付けるものではなく、しっかりと体のコンディションを作れば、「タフな心」は作れるというのだ。

戦いの正当性は、兵士の正当性を維持する。ジオン公国はそれをアピールしている。
喪に服す時期が長ければ長いほど人間は伝説になる。ガルマは伝説になった。
政治判断の基本は情報収集にある。情報収集さえしっかりやれば、あとは政治判断だ。判断ミスは最高レベルの政治家を基準に歴史の審判を受ける。
虐殺への恐怖こそが生き残りのための「文化の支配」を目指し、「ニュータイプ」を生み出す。
ユダヤ虐殺が「殺されてたまるか」ということからどれだけ豊かな学問を生み出したかはスタンフォード大学が
証明している。
まさに「文化の支配」こそがニュータイプの条件だ。
いろんな意味で優れているのがニュータイプだ。
やはり、全世界の女性を支配している父親との戦いを経て自我を確立している男児でないとガンダムの操縦は不可能だ。
兄と妹の愛は「個性に注目しない」「性的関係にない」から愛が永続するのだ。シャーとセイラの関係はこの通りだろう。
アムロがニュータイプだと設定されてイケメンぶりを発揮して、サントラで女性の抑圧された性的欲望を刺激。
「秘密の共有は仲間の証」ということも語っているね。
アムロは「マチルダの死」から「自分が死んだときにどんな害悪を引き起こすか」を学習している。
ジオンの資金源は「鉱物資源」であることも明らかになっている。
ミハル。「深刻さ」「欲望」「出口のない」人を泣かせるキャラクターとして巧妙に使われている。
幼い弟と妹のイデオロギーを支配。最も苦労した人間がムラを支配するのだ。
子供が暴力を目撃すると自信の持てない子になる。
「空を見ると時間を感じる」(カント)
戦場で死ぬ勇敢な兵士というモデルが確立している限り、争いごとに女性を混ぜるのは平和をもたらす可能性が高い。
何度も「ぶっ殺す」と言ってニュータイプを作る手法は、鎌倉幕府が日蓮に対して行ったことと同じだと私は考えている。日蓮も、海岸での処刑をほのめかされたりして高度な学問を身に着け「日蓮が不思議」と呼ばれる現象を引き起こしている。
ことごとく論敵に勝っていったのだ。
ミライの結婚に関しては「親同士の決めた結婚」ほど周囲に与える葛藤は少ないことは案外知られていない。しかし、人を好きになるということは「その人が持ち合わせているものに対して感性が弱い」ということだ。
アムロの父親は酸素欠乏症というよりも「メモリーロス」によって言語を失って、論理構造が損傷を受けたのだろう。いわゆる認知症の本質は「メモリーロス」にある。
「父親の書斎とデカい家」によってはぐくまれたアムロの才能を残して父は認知症になった。
自然を「美しい」と感じるようになったのは18世紀以降のことだ。それまでは人間は当たり前すぎて何も感じなかったことが芸術作品などから明らかになっている。
「男女の友情は成立するのか」という問題に関しては「叡智と対話は疑似セックスである」とされる。
民主主義とは、民衆が好き勝手に自由に行動するからこそエリートの意思決定の質が高まるというものだ。オールトタイプにも自由があるのだ。そうでなければニュータイプは成立しないのだ。
タカ派は好戦的だが、ハト派はカネにうるさい。タカ派もハト派のお世話にならなければ戦争はできないのだ。
ハヤトの手術で一つ問題がある。手術の勉強で最初に問われるのは「トラウマ」の研究だ。外部に「ファントム」を作り出してしまうのが手術であり、その後遺症を残さない努力を医者もやっているのだ。
報復における罰は攻撃と同じぐらいの大きさであることが多い。
戦いと殺害は単純な理由で行われる。アムロが正しい。問題を複雑化させれば人間というのはなかなか殺されないものだ。スマートフォンを大事にしよう。


アウトレイジと国家統治

綺麗な手だけが人生じゃねえ、現実を見ろ
世界から撤退する気か?
俺だって完全な人間じゃない。隣人は愛せるけど、社会を愛するには法律でも作れ
悪との妥協を拒絶してみんなが生きているわけじゃねえ

「社会と人間を変えたいから恐怖で支配するんだ」
「古い体制を変えた新体制を守りたいから恐怖は必要なんだ」
「美徳を失ったやつには他人の処刑がもっとも有効だ。それが死のプロパガンダ」
「無差別殺人はルールではない、例外だ。古い慣習への強烈な罵倒に過ぎない」

「正当化できないケガ」というのは反戦運動の発信源でね、アウトレイジはこれをうまく描いているね。
平和というのは時には「力に屈して」もたらされるものだ。
アウトレイジは力に屈しない人間を描いたともいえる。
恐怖からお互いに手出しができないという局面は人生に必ずあるんだ。
そういう状態がやがてお互いを疲れさせて感覚が鈍って平和に向かうんだ。
しかし、敵対心は残るとされる。
これが課題だな。
混乱した連中に「満足」を与えて平和をもたらす方法もある。
アウトレイジはまさに平和の学問でもあるんだ。
「連帯」「お互いの尊敬」「必要性の満足」がある身内同士では暴力はないだろう。
これらを失った時に暴力が起きていることも指摘していい。
アウトレイジに平和を求めるのにも「絶対か身内内部か」「最大か最低限か」「全体か一部分か」という観点が重要だ。
そうやってみんなを治めていくのに非常にいい学問になる。
「絶対的か身内内部か」という平和の問題も、絶対的な平和のためには強烈なモラルが必要で、みんながしたがうには時には神が必要になる。
ところが人間は「食べる」生き物だ。その「食べる」ことから「やるかやられるか」という基本が存在するのだ。
人間が「食べる」生き物であるから、カネの動かし方やルールを見抜けば平和をもたらすことができるという発想は当然持っていいだろうな。
タカ派は好戦的だけど、ハト派はカネにうるさい。タカ派だってハト派のお世話にならないと戦えない仕組みだ。
「最大か最低限か」という平和の問題も、しっかりと身内内部の教育を徹底させて行うという発想もあるし、
ヨハネパウロ二世は「罪のあるものもないものも一貫した人生を歩んでいる。まるで縫い目のない私の衣服のようだ」と言って善人と悪人の区別をしなかった。
寛大さ次第で平和は大きくも小さくもなるのだ。
指導者が「間違った戦争」を始めると、部下も間違った戦いをしなければならなくなる。
背景には強烈な道徳が求められるのだ。
間違った戦いには裏切り者も生まれるし、戦いへの忍耐力もなくなるのだ。
あるいは、「だいたいの平和でいいんじゃないか?」という発想があり、そこから正当防衛を認める発想につながる。
それは暴力を最後の手段とする考えになり、非常に信頼感の置ける指導者が生まれる。
こういう発想は確かに必要だろう。
戦いをおさめるには感受性だけではなく教育や文化にまで立ち入るべきだというあたりで議論は終わるようだ。また、勇敢な兵士が英雄的な死を遂げるというモデルが確立していることから、戦いをおさめるには女性をもっと混ぜるべきだろうとも言われている。
相手に「追い込みをかけて解放する」「追い込みをかけて解放する」という政治手法がある。
最後に相手の肩を叩いて優しい言葉をかけるのは野田内閣総理大臣の得意技だ。
さらには「日本国の利益のためです」とリビドーを狙う方法もある。
アウトレイジは追い込みの研究だね。解放は各自で考えよう。
ぶっ殺すぐらい追いつめたら最後は「共同体主義教育を受けた仲間じゃないか」というのが有効だが、最後の手段だと言ってもいい。
行動的非暴力」は、カネや技術や人材育成、生産力などに力を注ぐことで平和をもたらそうという発想だ。そのような行動的非暴力は大勢の人間を動員できるし、最後には人権への尊敬や和解をもたらすことができるのだ。ガンディーやキングが得意とした手法だった。
宗教上の理由からの兵役拒否
もともと、日本人だって、暴力に満ちた空間で「悟りたい」と言って反戦運動を提唱するものが多い。
モハメド・アリの反戦運動は、しかし、もっと過酷なものだった。
反戦運動は、政治コミュニティーにおいては全く愚かな行動であったからだ。
彼は、兵役拒否によって自分にふりかかる苦痛への忍耐力を求められた。
しかし、反戦運動によってもたらされる報酬の大きさも知っていたのだ。
キリストのようにふるまいたいというのが反戦運動の基盤であるが、反戦運動には、怒り、憎しみ、プライド、競争心など、いろんな感情を克服する学問に満ちていた。
これは人生を通じたプロジェクトであり、人生を豊かにするものだったのだ。
ギリシャ哲学でも、反戦運動は「美徳と規律」の学習にいいとされていた。
正義・勇気・穏健さ・知恵を学習するのにいい効果があるとされたのだ。
20世紀には勇敢さと規律を学習する旅は、もはや戦争にも等しい厳しさをともなうものとなっていた。
【つづく】

2012年12月10日 (月)

石屋の正体~スタンフォード哲学

人間が中世ヨーロッパで復活を信じなくなった時に、市民であることが強く自覚されるようになった。
それまでは、市民であることとクリスチャンであることは同じ意味であったが、復活という概念がなくなってから、ヒューマニズムと市民であることが共和制を通じて結びついたのだ。
ヒューマニズムは、その人の人生のプロセスを見るのではなく「瞬間のショット」を見ることにした。
今まで生きてきたことと、喜怒哀楽のすべてを瞬間に賭けたのだ。
これがヒューマニズムの基本だと言っていい。
eminem Lose Yourself
http://www.youtube.com/watch?v=Lp99IGfHIkA

「復活」というキリスト教社会の概念が消えてから、個人というものが自覚されて、今までの古典的学問が再編された。
これがルネッサンスの「人文主義」の正体なのだ。
アクティブな市民が生まれ、そこからコミュニティーへの愛が生まれ、この個人主義はプロテスタンティズムにまで向かうことになる。
プロテスタンティズムによって再編された個人主義はやがて産業革命を経て資本主義につながる。
そのように生まれたヒューマニズムはかつての意味とは全く内容が変わっていたのだ。
産業革命前のナポレオンの国民国家から、ヒューマニズムはドイツナショナリズムのヒトラーへと続くことになった。
他者との理解不能が生じ、急速に近代化が進んだために、政治学が生じたのだ。
ワイマール共和国においては、ヒトラーに対する愛国主義レジスタンスがイタリアのミラノの富と結びついた。
命がけの連中こそが、ミラノの富を背景に暴力的推進力で文化を豊かにしたのだ。
これがむしろヒトラーの知的財産となる。
ドイツナショナリズムが確立し、それに抗する愛国心レジスタンスが命がけで「いい生活」を夢見て豊かな文化を作り出すという構図が、のちに世界の発信源となったのだ。
ドイツのヒューマニズムはその後、ドイツ系のユダヤ人がアメリカに持って行った。
彼らは禁欲主義や信仰への忠実さなどをすでに克服しており、彼らの知的財産を「富」に向けたのだ。
これがアメリカのユダヤ人の正体なのだ。
さて、これらの富が大西洋をまたいでヨーロッパの政治コミュニティーにも影響を与えた。
お金には限界があることから、資金力は挑戦者の資格であると言われる政治コミュニティーにおいて、選挙という「瞬間」で勝負を決めるという発想が生まれたのだ。

この空間が思想を発展させた。抗日なんて甘っちょろいのがよく分かる。
http://www.youtube.com/watch?v=HDPLsxvwUxY

欧米で共有されたヒューマニズムは、まず、政治コミュニティーがマキャベリとアリストテレスに注目したのだ。
彼らの古典が、人間の命の有限性を語るうえで実に心に響いたのだ。
誰だって一度きりのいい人生を歩みたい。
そんな中で、ユダヤ人の死は現代人にとってはピューリタン革命の二番煎じにしか見えなかった。
マキャベリは「権力の空白」から何が生じるかを語った人だった。
勝手に自分の兵隊を作った連中をどうにかしなければならないことを感じていたのだ。

"God Save the Queen" Sex Pistols
http://www.youtube.com/watch?v=8z2M_hpoPwk

王室を批判したこの英国の曲は、アーティストが鉄パイプで半殺しにされている。

ユダヤの死から学んだ「一度きりのいい人生を歩みたい」という発想を各家庭はさしたる抵抗もなく受け入れた。
コミュニティーへの愛や、個と公、主観と客観、知識と現実などのいろんな要素が家庭に持ち込まれた。
そうやって「帝国主義段階」は古典を踏まえることで終わりを迎えているのだ。

2012年12月 5日 (水)

プロレスの理論~スタンフォードのリアリズム

プロレス界には「どう見ても八百長じゃないか」という問題が付きまとっている。
これを「サブジェクトマター」という。
これは算数のものの考え方である。
しかし、算数のものの考え方も知識の制約を受けていることを知らないといけない。
あらゆる知識も疑いを持ってみなければならず「どう見ても八百長じゃないか」という算数の考え方も当然、疑いを持たなければ学問は成立しない。
人が信じているものに一定の秩序があれば、信じているものの基盤が存在するのであり、心や言葉が独自に存在するのだ。
人が信じているものが存在し、言語が存在し、スキームが存在する。
算数とは別の次元の信じる基盤が存在する。
独創性に一定の説明が与えられる。
「どう見ても八百長じゃないか」という議論も、算数が批判可能であるのと同じで当然、批判の対象になるのだ。
それこそがプロレスの学問たるゆえんだ。
「どう見ても八百長じゃないか」という議論への批判は「原子から成り立っていればすべてが規範的に同等である」という議論からも可能だ。
客観的であり、規範的であり、分類可能であるという要求さえ満たせば、いろんなものが存在可能なのだ。
我々は何をすべきなのか、その行動に説明が与えられるのか、
それを追求するうえで道徳的な評価が可能であるのか。
このあたりにもプロレスの存在意義が与えられる。
我々の欲望や性向が満たされればいろんなものが存在可能なのだ。
知識が客観的であればいいのだ。
リアリズムは「現実主義」と訳されるが、その語感と実際の意味は実は異なる。
月を見て「球状をしている」と思う人はあまりいないだろう。
知識では球状をしていると思っていても「俺にはそうは見えねえな」と思うのがほとんどの人だ。
これを「リアリズム」と呼ぶのだ。
「この人おっかない人でね」と呼ばれる人でも、話してみて「俺にはそうは見えねえな」と感じるのもリアリズムと言える。
かつてオオケンが「プロレスラーに向かって八百長野郎ということは、ゴジラに向かってぬいぐるみと呼ぶようなものだ」と言っていたが、リアリズムの見地からは、プロレスラーは八百長野郎にしか見えなくても、ゴジラはぬいぐるみだとは思わないだろう。
プロレスは、資金のまわし方などの基本などから興行を行う仕事であり、それも含めて「重いものを持ち上げる」ことの反復がムラを形成する社会であって、専門誌がプロレスラーの発言の著作権を持っている現実なども全体的に理解しながら楽しむものだ。
特にプロレスは人を管理するのも仕事であり、自分の位置も知らないアホに「俺を殴ってはいけない」という基本から教えなければならないのだ。
「俺は始皇帝だ」という奴に自分の位置を正確に教えることも仕事なのだ。
結局、プロレスを八百長と呼ばずに楽しむ連中は「非リアリズム」に立脚し「美しさ」だけを求めた連中だ。
これも一つの立場で、リアリズムの連中を「それでは自由に社会で活動することはできないよ」と批判するしかないのだ。
プロレスラーは、女性の「抑圧された性的欲望」を狙っている。逆に、女性の側が「男性らしさ」を決めていることから、その男性らしさを男が楽しんでいることになるようだ。
限られた空間で「~すべきである」というシリアスな問いかけに抵抗すると客を引き付ける。これもプロレスの奥義だろう。
「プロレスは八百長だ」というのは算数の考え方だが、言葉は抽象的であり算数ではない。見たものを言葉で表現するうえではシビアなスポーツであれプロレスであれ変わらないのではないかともいえる。言葉から分析すると同じことだともいえるのだ。
ボクシングのようにより真実に迫る言葉で語る世界もあれば、言葉の抽象性に頼って物事を語る世界もあるのだ。それはそれで十分に成立する世界だ。どちらが正しいかは一概には言えないのだ。
言葉の抽象性に頼る世界は分析的ではないけれども、「何を信じるか」に大きく依存する世界だ。真実の探求ではなく言葉の抽象性から人々が楽しむ世界があってもいいのだ。

「選民思想と秋篠宮」
秋篠宮は選民思想を基盤にしている。
選民思想とは「完璧な人間」であるという発想をベースに自分がスーパーマンであることを標榜し、そのために「体重ゼロ」の人間を演じなければならない宿命なのだ。
実物はともかく関わりにくい奴だ。
人より優越するからスーパーマンだという発想は何かを獲得しようとするが、比較不能な完璧さを標榜するとその人は人生でもはや何も仕事をしなくなることを意味する。
スーパーマンは、地道で価値のない仕事を嫌うことが多い。
問題は、人との比較を怖れるということであり、競争を好むのか、あるいは、人間というものをどう見るのかという観点から関わっていかなければならないのだ。


深刻な問題において、我々の欲望が行き過ぎる、あるいは阻止するために私たちは泣くのだ。

「深刻さ」と「欲望」を狙えば泣けるのだ。
トイレの神様
http://www.youtube.com/watch?v=Z2VoEN1iooE

「償い」さだまさし。これも「深刻さ」と「欲望」を巧妙に狙っている。
http://www.youtube.com/watch?v=k1ecRxlfkKI

人生の末路「インカルミネーション」
http://www.youtube.com/watch?v=IWTMuY8Ix1w

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