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2012年11月28日 (水)

笑いの研究

「笑っている人は他の人より優れているし、それまでの自分よりも優れている」
「笑われていることを憎む人は、主観的にその対象を見下していると考えている。」
(優越理論)

「笑いは動物の魂を通じて臓器や筋肉を通さずに神経の救済圧力に熱い蒸気を引き起こす」「流体や微妙な問題が神経の導管を伝わる」
「アイデアや感情が、肉体の神経エネルギーに変わる」
「怒っている人はそれが限界を超えたら暴力を他人に振るう」
「恐怖が十分に行き届けば、人間は新しい環境に適応する準備が整い、
神経エネルギーを放出できる」
「笑いは神経エネルギーの放出を脳で行うのだ」
「不適切な心理状態を救済する」これが救済理論。
フロイトはこの笑いの発信源をを抑圧されたを性的欲望や憎しみに注目している。
性欲の発信源を狙っている。ピエロの奇妙な動きはこれを実にスムーズに行う。発信源の過剰な抑圧を解放するのだ。イケメンピエロは通常人々が抑圧されている性的欲望を狙う。
通常用いられない発想がピエロなのだ。
(救済理論)

抑圧された女性の性的欲望を狙う天才:志村けん

不調和なものを見て笑っているという理論がある。
我々の心のパターンや期待を侵害するのが笑いだという理論だ。
単語や言葉遊びの期待を裏切ることが教科書の予想を侵害して笑いを引き起こす。
これが人間の感情や感受性をいつも前向きにして、心を興奮させる。
環境の矛盾や不適切、不調和と我々は向き合うことができるから笑う。
これらが心に何かを反射させるのだ。
我々は他人よりも何かを知っているから笑うのではない。
期待が自由気ままから無になっていく瞬間が楽しいのだ。
心を自由にすることは体操ではない。しかし、内臓の押し合いが体を刺激するのだ。
同調と緊張感からリラックスにいき横隔膜を刺激する。
これが健康にいいし心を前向きにするし、無の中から心の満足を得る。
カントは、音楽やゲームと笑いを比較した。いずれも感情の自由な変化を表現する。
ゲームは幸運が体を興奮させる。
音楽は調和が、笑いは考えが体を興奮させる。
ゲームは期待・不安・怒り・あざけりを生じさせる。
音楽や笑いも同様に急激な変化を体に生じさせるのだ。
音楽も笑いも美意識や理解からくるが最終的には何も考えていない状態をもたらす。
動きや密度がきらびやかなパーティーとなり、健康を生み出す。動きが肉体的なものに変わるのだ。
カントはアホな質問をした人の問いを賢い人が台無しにすることに笑いが生じることに注目した。
我々は賢い人を理解したことを喜んだのではない。
動きが無になったことを楽しんだのだ。
アホな質問に対してこれは非常にポジティブな反応だと考えたのだ。
ショーペンハウエルは「期待と我々の経験があわない」ことにも笑いが生じるとした。
あるいは、抽象的な言葉をお互いが違う意味で使っていたことにも笑いが生じる。
また、我々の経験に反する知識にも笑いが生じる。それはその人の努力に笑っているのだ。
美と宗教と倫理への忠実さも、実はキリスト教社会では笑いの対象なのだ。
悲劇も喜劇も矛盾に満ちている。痛みがあるかないかの違いだ。
不安から逃げ出す道があれば喜劇だし、なければ悲劇だともいえる。
人間だけが笑ったり泣いたりするのは、人間が「~すべきである」という発想をシリアスに持つからであり、些細なことに笑えるのもそこに秘密があるのではないだろうかとされた。
不調和が人を笑わせるという理論は、笑っている人は他の人よりも優れているという理論よりも他の人に与える不快感が少ない。
しかし、不調和や非合理性だけが人を笑わせるというのでは知的ではないし、我々にとって意味不明のものに笑うというのは説明として十分でなくなる。
我々は平凡な日常から不条理を見つけて、それに笑うのであり、その不条理は空腹や寒さほどつらくないというのが「不調和」なのだろうか。
その不条理は、我々が身を守る程度のものであり、利益につながるのが笑いなのだ。
我々は人生を怠けて過ごしているわけではない。ただ怠けているだけの人間をアリストテレスは「低俗な道化師」と呼んだ。
笑いで実践される「罪」は多すぎても少なすぎてもよくない。
肉体の疲労は休憩することで癒される。しかし、心の疲れは魂の休憩が必要だ。
それが喜びであり、笑いというのは心の疲れに非常にいい休養になるのだ。
怠惰な人間には笑いは必要ないのだ。
笑いは音楽のように人々を楽にし、ストレスを減らし、社会を連帯させる。
自分を他の人と同じように冗談にできない人は、がさつで洗練されていない。
時と場所を選んでこれをやるのだ。
これは美徳とされる。
幸福な人が他人に明るいターンを与えるのだ。
理性と対立する人間の行動は悪意に満ちているが、他人に重荷を課して無関心な人よりも、それを知恵に満ちた方法で行う方が笑いがとれる。

間違いだと思うことを言うな。
証拠のないことを言うな。
不明瞭な表現を避けろ。
あいまいさを避けろ。
信じろ。

これを心掛けてやるとウケる。

プレイシグナルズ
本能だけで生きている動物と人間が異なるのは、シリアスな物事の後の一言に尽きる。
ここにも笑いがあるようだ。

人間は一人でいるよりも大勢に囲まれていた方が30倍は多く笑うとされる。
理性に反する反対ではない予測に反するリアクションに笑うのだ。
不幸に満ちた社会ではケチャップを服にかけてしまうことすら笑いになる。
恐怖や怒りや悲しみがなければ人間は理性的にはならない。
つまり、物事がどうあるべきかが分からないのだ。
「他人がやっているように自分もやる」ということを理解しないと笑いは狙えない。
そこに「痛みや破壊のない間違い」を引き起こすのだ。
現代社会にはかつてのような恐怖はないが、頭痛や心臓発作の存在があるから笑いがある。
善と悪、失うものと得る物、それも笑いの基盤になる。
悲劇と喜劇は、メンタルパターンと経験を侵害するという意味では同じだ。
人間の人生には影や失敗、愚行、死があるから両者は成立する。
喜劇は悲劇と同じように緊張感に満ちていて、危険があり、闘争があり、成功や失敗がチャンスにさらされる。
違いは、主人公の人生が不適合であったか否かだ。
悲劇は家父長制や軍国主義との戦いと関わっていることが多い。
盲目的服従や殺人の快楽、単一の思考回路、プライドや目的意識の末路。
喜劇は、逆にヒーローを求めない。人生の不適合に対する柔軟性が必要だ。
時には権威への盲目的従属や軍国主義に反旗を翻して成立する。
権謀術数や取引の世界から敵が逃亡するシーンを喜劇とすることが多い。
瞬間的に臆病者になっただけで残りの人生を無駄にすることを喜劇とすることもある。
また、批判的思考、クレバーさ、適応能力を描くこともあるし、食べることや酒を飲むことやセックスを描くこともある。
理想主義とともに悲劇はエリート主義ともかかわる。
悲劇は王や女王、将軍の物語であることが多い。
しかし、喜劇にはもっと多様な人物が登場するし、女性は輝いている。
主人公は下層階級から登場する。
すべての人物が対等である。
悲劇は孤独であるが、喜劇は家族や友人、同僚などが登場する。
もし、哲学者がユーモアへの偏見を取り除きたいのならば、彼らはコメディのジャンルを検討しなければならない。
スタンドアップコメディである。これだけでも7種類あるのだ。
それほど多様な世界がコメディであり、肉体的に健康であり、心を柔軟にし、社会の潤滑剤になる。
アクィナス以外にこれに気がついた人はいなかったようだ。
難しい状況での落ち着きと理性が、瞬間的な心の麻酔となるのだ。
不条理に怯えてはならないという発想が哲学者にもたらされた。

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