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2012年11月23日 (金)

哲学革命~カントの哲学

強い意志を持った人間が「右翼的」にプロジェクトを動かしていき、理想だけをもった連中が「左翼的」に理想を求めていく。
理想をもった人間はゴールの意味は理解しているけど、目的達成の手段はいろんな人から批判を受ける。
左翼的な人はコロコロ立場を変えたり方法を批判されたりしているんだ。
そういう受験の仕組みは大人になって政治で意味が分かるようになる。敵への嫉妬や知識への欲望は家庭内での否定的要素だ。これらを受験生をもった家庭は持つことになる。これが家庭内の誤った判断を引き起こしやすい。知識のフィールドは果てしなく広い。
これを正確に理解して、家庭内の文化やドクトリンができた家庭だけが東大合格者を出すのだ。
ルックスや才能は人それぞれだ。しかし、すべての人間が知識を求めている。だが、いろんなものがそれを妨害する。人間はそれらの妨害だけは簡単に見つけてしまうのだ。それが、浪人生が成績が伸びにくい理由なのだろう。
人間は経験や直観によって、幻や誤解を感じるものだ。人の批判もこれらの空間にある。この空間が人の才能を潰すのだ。
うまくこの幻や誤解の空間をいいものに保って自分の才能を伸ばしていくのだ。
私は哲学をやっていますが、現実社会から概念を引き出して、その概念から直感的に何かを感じる営みです。しかし、数学はあらゆるものを同一の尺度で計算する学問です。数学が「量」に注目するのに対して、哲学は「量」と「質」に注目しているとも言えます。そういう違いがあるようです。しかし、類似性も見られるようです。
経験できるかできないかの違いが数学と哲学の違いだとも言えます。
クリアーで普遍的な回答が得られるのが数学であり、概念の分析手法に非常に有意義な学問だ。しかし、哲学は直感に頼る部分が多い。
数学の三角形は近道を学ぶだけの概念ではないのだ。
受験生を家庭内で抱え込むと、受験生は広大な知識のフィールドと向き合うため家庭内の混乱要素となる。しかし、家庭内の文化とドクトリンが明確であればこれを乗り切れる。カントはこれを「外の偉大な知識人」に求めた。
家に書斎を置こう。偉大な思想家の本だけでも本棚に並べておこう。
そうすれば、家の上に偉大な最高の存在(Supreme Being)ができるだろう。主観的に非常にいいコンディションが作られる。そうカントは考えたのだ。
外の実践理性は主観的には「教育水準」「健康」「市民感覚」「道徳意識」。客観的には「完璧さ」「信心深さ」だ。
実践理性は自由と関わる。これを身につけるだけで外での自由の空間は果てしなく広がるのだ。カントが偉大な哲学者である所以だ。
実践理性批判は奇跡の書物だね。これを読んだだけでひきこもりがクラブやバーに行けるようになるんだよ。大変だ。
自由にいろんなところに行くには「知ること」「理解すること」。これを武器にいろんなところに行くのだ。
俺は実践理性の「教育水準」が高かったから赤門はくぐったよ(笑)
「理解すること」「知ること」とは、過去の時間空間に一貫性を持ち続けることが基盤にある。過去の記憶が理解することや知ることと結びつく以上、人生に一貫性というのが必要なのだ。
家庭内のキャノン~知識と信じること
我々はすべての客観的なものを見ることができる。しかし、家庭内ではいろいろな合意を作っていく。お互いに説得をする。しかし、説得は幻。それを真実だと思い込むのだ。そうやってできた合意はプライベートな妥当性しか持たない。それが家庭内の合意だ。合意は家庭内のメンバー内部での妥当性しか持たないのだ。そうやって家はできている。家に偉大な哲学者の本を置こう。
そうすれば、最高の存在のスピリットが家に出来上がる。意見・信じること・知識は各メンバーによって異なる。
誰の意見が強いか、誰の信念が強いか、誰の知識が深いかの角度は各メンバーによって異なる。そうやってすべてのメンバーに妥当な合意か形成されるのだ。
意見は主観的には満たされている。
信念は主観的には満たされているけど、客観性に欠ける。
知識は主観的にも客観的にも満たされているだ。
それを踏まえて合意というのは作られている。
よく、テレビなどでは、「性欲を理性で抑えられる」とか言うが、この「理性」という言葉を明確にしたのがカントだ。
たとえば、理性というのは固定的なものであるという従来の発想を批判し、
ヒュームの理性に関する議論を「純粋理性批判」により批判し、イギリス経験論から「実践理性批判」を書いている。
理性というのは、美しさや、分析、対話などと言った、解釈を必要とする困難な探求が必要であるとし、さらには道徳や経験などともかかわるし、その純粋理性と実践理性の統合という作業も必要とされる。
我々の知識は感受性と理解から得られるし、また、世界は意味不明な議論から成立していて、目に見えない空間が成立している。カントはその世界の中で理性の役割を否定しなかった。
理性の限界は認識しながらも、知識の限界とは異なると考えたようだ。
理性と経験的真実との関係はどうなのか。
科学的な探求。
理性の限界を知ることにどんなメリットがあるのか。などを探求した。
知識を得る作業は無限に続くが、それが理性の形成と関わっているのだ。
我々は、真実の代わりに理性を用いて判断していると考えていたが、この点に関するカントの記述はあっさりとしている。
むしろ、幻想にもとづく夢によって物事を判断していると考えたのだ。
それは感覚が間違いを起こさないのに判断を間違えることがあることから、判断の基盤になる感覚が夢にもとづいているのだろうと考えたのだ。
まるで、太陽が地球を回っていると人間が考えるのと同じことだ。
我々は感覚では太陽が地球の周りをまわっていると考えるだろう。しかし、惑星と星を見てようやく地球が太陽の周りをまわっていることを悟るんだ。それが「イデア」を知るということだよ。
ニュートンが発見した重力や慣性の法則、さらには、ガリレオが「天国を見てみよう」と思って作った望遠鏡などがあったからこそ、惑星と星を見てわかるんだ。
我々は神を信じることを望んでいるのだ。
なぜならそのような発想が「理性」というものの必要性と利益をもたらすからだ。神は、天国へ通じるバベルの塔を作ろうとした人間を罰したが、カントはこれを批判した。カントは理性のバベルの塔を作ろうとしたのだ。我々は感覚によって知識を得るが、経験と哲学の仮説は対立するものだ。我々は世界の経験すべてを味わうことはできないのだ。
見聞を広げて、それでも限界があるから仮説を立てるのだ。
「ここは自由の国アメリカだ。お前の家で何をやろうが自由だが、タクシーで人を殴るのはよくない」(タクシードライバー)
さて、人間には自由がある。しかし、自由という言葉から現実世界を説明するのは案外難しいのではないだろうか。人間には他者への尊敬と多様性がある。
自分の家では純粋理性があるし、外に出れば実践理性がある。カントの本を読んでこれらを磨いていくのは非常に人間の理性を磨くのに必要な営みだ。
人間には理性がある。しかし、もっともいいもの(最高善)を求めると我を忘れて理性を忘れることがある。これが理性の限界だ。
しかし、人間には「幸福」というものがあるではないか。この幸福が人間の理性を維持するのではないだろうかとカントは考えた。
ところが、カントの考えは疑わしかった。現実世界の行動が幸福とつながっているのだから、幸福が理性を制御できるとは思われなかったからだ。そこで、神聖なるもの、つまり「神」の存在を必要とした。神聖なるものこそが人間の理性を保つのではないかとしたのだ。人間は自由な活動を続けたいから、実践理性(外・公)では神聖なものに従うのだ。これが実践理性の定言命令にしたがっている状態だとされた、
「実践理性の定言命令」とは刑法の構成要件だとも言われる。
外の実践理性は主観的には「教育水準」「健康」「市民感覚」「道徳意識」。客観的には「完璧さ」「信心深さ」だ。
実践理性は自由と関わる。これを身につけるだけで外での自由の空間は果てしなく広がるのだ。カントが偉大な哲学者である所以だ。
実践理性批判は奇跡の書物だね。これを読んだだけでひきこもりがクラブやバーに行けるようになるんだよ。大変だ。
俺は実践理性の「教育水準」が高かったから赤門はくぐったよ(笑)。赤門攻略のキーワードは「知ること」「理解すること」だよ。
「理解すること」「知ること」とは、過去の時間空間に一貫性を持ち続けることが基盤にある。過去の記憶が理解することや知ることと結びつく以上、人生に一貫性というのが必要なのだ。
受験生は誰もが「幻想にもとづく夢」を基盤に判断して試験場に向かう。
その判断を正しいと思って行動するしかない。そういうものだ。
のちに政治で分かるようになる。
世の中にはアホがいっぱいいてね。
「どういう幻想にもとづく夢にもとづいて行動しているか」さえ明らかになればアホの行動が手に取るようにわかるようになる。
大学に入ったらカントの「純粋理性批判」「実践理性批判」を英語で読んでみよう。
空を見上げよう
カントは空を見上げることの意味を語っている。
直感的に時間を感じることができて、見知らぬものへの感受性を磨くのに非常にいい営みだとしたのだ。
勉強の息抜きにやってみよう。
空を見上げることはもはや疑いを超えた世界を見ることであり、幻想にもとづく夢を超えた世界を見ることだ。
すべての条件である時間を感じることができる。時間に包まれた物事が見えなくても、
空を見ると時間を感じることができる。空と時間の関係をカントは指摘したのだ。
空の時間は将来の経験の可能性と結びついていて、現実社会の経験の進歩とも結びついている。
毎日空を見よう。
成績の向上を感じることができる。

「メンデルスゾーンのスピリットを家庭に持ち込め」(カント)。これがカントの空間。
http://www.youtube.com/watch?v=Pmj7nCRYNs4
メンデルスゾーンは「絶滅」あるいは「消えゆくこと」を拒絶した(カント)。
メンデルスゾーンの作品は「広がり」「量」「激しさ」を示している。
無限の時間を用いずにこんな作品を作ったエゴこそがメンデルスゾーンの「時間」だった。
限られた時間空間でエゴを用いて作品を作り上げたメンデルスゾーンには一貫性があり、それが「理解力「知ること」と関わっている。
これが人生の永遠や不朽とつながるのだ。
東大受験生も同じ営みをやっているのだ。

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