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Foreign Affairs

  • CFR: フォーリンアフェアーズ英語版

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2012年11月

2012年11月30日 (金)

野田内閣総理大臣対半蔵門

あとで「序章」の動画はアップしたいが、まず、状況説明から入りたい。
深夜に俺は久里浜からタクシーで皇居の半蔵門に向かった。そこで麹町生活安全課の警察官に門前払いを喰らわされている。
この時に、俺は警察官にある「挑発」を行って帰ってきた。
新橋で寝泊まりして、俺はカプセルホテルで風呂を浴び、夜明けを待った。
カプセルの中で、俺は鏡を見ていた。
俺の顔がある皇族の子供にそっくりなことに驚いた人が大勢いた。
そこで、自信を深めた俺は特殊な通信手段で野田内閣総理大臣に「今すぐ来い」と命じ、始発で再び半蔵門に向かった。
野田内閣総理大臣の参戦
野田内閣総理大臣が、半蔵門に登場した。
俺は「俺の妨害はするな。主観はおれに任せろ」と言ったが、野田先生は制止を聞かずに警察官に突撃した。
俺が警察官に「俺の顔を見ろ。見覚えあるか」というと警察官は俺の命がけのアタックにひるんだ。
そこで野田先生にスイッチ。
以下のやり取りが行われた。
野田「中を見せろ。散歩したいだけだ」
警察官A[中は無理です。さっき来た小野君でしょ。帰りなさい」
警察官Aは深夜とは打って変わって長い特殊警棒をもって待っていた。
野田先生は俺の主観にとって代わり、警察官に食ってかかる。
俺の知識をフルに動員して語る野田先生。
「あなたの階級は巡査部長か。逮捕令状は請求できないだろう」
ひたすら退去を命ずる警察官にらちが明かずに、野田首相は首相官邸に電話を入れる。
警察官も青ざめて詰所の電話をとる。
さて、バトルの始まりだ。
野田首相は「トイレを貸してくれ。それぐらいいいだろ」というが、警察官に制止される。
半蔵門の近くの公衆トイレで用を足しているうちに、メッセージが俺に届く。「国家の命運を担うお前が殺されるわけがない」
これに勇気づけられるがごとく、野田首相は再び半蔵門へ。
警察官は応援を頼んでいた。
ここからが哲学だ、野田氏はこの後生死をさまよう修羅場を経験することになるのだが、実はこれは「暴力の哲学」にまで話は波及するのだ。
警察官がいつしか三名に増えていた。
野田先生にはある考えが頭によぎった。
天皇を敵に回したら、法律を侵害しない一般市民すら「政治ファクター」として殺害されるのではないかという不安だ。
俺は野田氏とともにどうしても皇居の中に入りたかったのだ。
やがて、野田氏の声は上ずっていく。
「俺は哲学をやっている。ノーベル文学賞を知っているか」
警察官は野田氏の威嚇にいろんな技術を使った。
「距離をとって取り囲んで公開処刑を予感させる」
「懐に手を入れて銃を取り出すことをほのめかす」
「ポケットから鍵を取り出す」「奥へ行こうと言って人目のつかない所での処刑を予感させる」などだ。
野田氏は次第に冷静さを失って行くのだ。
「笑っていいともの話をしよう」「DeNAは今年何位だった?」「東京ではできない仕事も横浜では可能だ」
など、俺が知っている知識を総動員してまくしたてる。
しかし、俺は皇居の中に入りたいという願いが強く、俺の主張に野田氏も後に引けずにひたすらまくしたてる。
警察官がBに交替。「あなたは心神耗弱なのではないか」
野田氏「心の力が弱いのが精神病だ。俺は心のタフネスをもっている。病気ではない」
「俺も天涯孤独の身ではない両親に電話してくれ」
ひたすら知っていることをまくしたてる。
もはや、殺害をほのめかす警察官3名と、野田氏の間には妥協点はなかった。
のちに俺と野田氏は「天皇の命令のもとにノンキャリ警察官が死体処理を行うことがあるのはよくないよね」と回想した。
野田氏は、ひたすら知識をまくしたてればまくしたてるほど「心神耗弱」と呼ばれて、パニックだ。
話すのをやめれば殺害されるし、話せば話すほどドツボにはまっていく。
これが警察官と心神耗弱者の非常に困難な問題だ。
俺はとうとう半蔵門の撤退を決断し、家路についた。
野田氏と名乗る人格が、深刻に物思いにふけっているのが分かった。
半蔵門の警官に殺害をほのめかされた俺の経験の恐怖を考え続けていたようだ。
ここで考えてみてほしい。野田氏が死の恐怖におびえる必要があったのかは家に帰って哲学をやってみなければ答えは出なかった。
警察官の「威嚇」には目的があり、それはまさに「俺の退去」だけだったのだ。退去さえすれば脅しはなかったのだ。
俺は退去を拒み続けたために、野田氏がまくしたてて死の恐怖と戦う図式が成立していたのだ。
野田氏はひたすら死の恐怖と向き合っていた。
さて、考えてみてほしい。
警察官の威嚇の目的は「俺の退去」であり、そのためにあらゆる技術を使っていたのだ。
殺害すらほのめかした。
結果的には「真面目な人間をみんなで笑う」という笑いの哲学のツボに野田氏は連勝し続けた。
命がけでまくしたてる必死さが野田氏を笑いに導いた。
論点は「笑いの哲学」「暴力には目的がある」という二つだった。
俺さえ退去していれば警察官の威嚇はなかったということにすら気がつかなかった。
家に帰って分析するまで分からなかったのだ。
家に帰って来て、俺はアウトレイジを見た。「盲目とサディスティック」な暴力だけがそこにはあった。
命がけで真面目さを発揮した野田氏の笑いと、暴力には目的があるという二つの分析を終えるのに時間がかかった。
とにかく「天皇を敵に回したら殺される」という空虚な発想と野田氏は戦っていたことに気がついたのだ。
この一連の騒動から、野田氏は笑いをとり、俺は暴力の目的を理解するという学習効果があった。
証拠に「深夜三時の半蔵門の挑発」という動画をあとでアップしたい。
野田佳彦対半蔵門~命をかけた哲学の序章

野田内閣総理大臣と俺のテーマソング

映画の哲学というのがスタンフォードにある。
基本的に「どのようなフィールドで」「どのような理由で」作られた作品なのかを見るが、基本的には人々に支持された作品に哲学者は注目する。
人々に支持された作品を分析したいというのが哲学者の本能なのだ。
映画というのは映像技術ではあるが、舞台を撮影するわけでもなければ日常を撮影するわけでもない。
ナレーションを入れて聴衆の共通認識を作ったり、クローズアップを使って何に注目すべきかを作ったり、編集技術を使って、客観的に明らかにしたいものを表現するのだ。
我々はフィクションから感情を刺激される。
しかし、実際はそのような経験をしたくないけれども、そのようなシチュエーションの感情を味わいたいのだ。
だから映画を見るとされる。
時には我々の行動に勇気を与えて強烈な動機を与えることもある。
映画のキャラクターは美しく、勇敢で、情報に満ちている。
また、女性を美しく描けるのも映画の特徴だ。
映画が終わるとクレジットに大勢の名前が列挙されるだろう。
役者や映像監督、構成作家、いろんな技術者の名前が出てくる。
しかし、どんな表現をするかを全体的に理解しているのは監督だ。
サウンドトラックを作れる映画は強いし、ナレーション、クローズアップ、編集などを駆使して、あとはいい役者をそろえてお金をかけて映画は作られる。
ハンディカムでいろんなものをとっておくといろんな基本の学習が可能だ。

2012年11月28日 (水)

笑いの研究

「笑っている人は他の人より優れているし、それまでの自分よりも優れている」
「笑われていることを憎む人は、主観的にその対象を見下していると考えている。」
(優越理論)

「笑いは動物の魂を通じて臓器や筋肉を通さずに神経の救済圧力に熱い蒸気を引き起こす」「流体や微妙な問題が神経の導管を伝わる」
「アイデアや感情が、肉体の神経エネルギーに変わる」
「怒っている人はそれが限界を超えたら暴力を他人に振るう」
「恐怖が十分に行き届けば、人間は新しい環境に適応する準備が整い、
神経エネルギーを放出できる」
「笑いは神経エネルギーの放出を脳で行うのだ」
「不適切な心理状態を救済する」これが救済理論。
フロイトはこの笑いの発信源をを抑圧されたを性的欲望や憎しみに注目している。
性欲の発信源を狙っている。ピエロの奇妙な動きはこれを実にスムーズに行う。発信源の過剰な抑圧を解放するのだ。イケメンピエロは通常人々が抑圧されている性的欲望を狙う。
通常用いられない発想がピエロなのだ。
(救済理論)

抑圧された女性の性的欲望を狙う天才:志村けん

不調和なものを見て笑っているという理論がある。
我々の心のパターンや期待を侵害するのが笑いだという理論だ。
単語や言葉遊びの期待を裏切ることが教科書の予想を侵害して笑いを引き起こす。
これが人間の感情や感受性をいつも前向きにして、心を興奮させる。
環境の矛盾や不適切、不調和と我々は向き合うことができるから笑う。
これらが心に何かを反射させるのだ。
我々は他人よりも何かを知っているから笑うのではない。
期待が自由気ままから無になっていく瞬間が楽しいのだ。
心を自由にすることは体操ではない。しかし、内臓の押し合いが体を刺激するのだ。
同調と緊張感からリラックスにいき横隔膜を刺激する。
これが健康にいいし心を前向きにするし、無の中から心の満足を得る。
カントは、音楽やゲームと笑いを比較した。いずれも感情の自由な変化を表現する。
ゲームは幸運が体を興奮させる。
音楽は調和が、笑いは考えが体を興奮させる。
ゲームは期待・不安・怒り・あざけりを生じさせる。
音楽や笑いも同様に急激な変化を体に生じさせるのだ。
音楽も笑いも美意識や理解からくるが最終的には何も考えていない状態をもたらす。
動きや密度がきらびやかなパーティーとなり、健康を生み出す。動きが肉体的なものに変わるのだ。
カントはアホな質問をした人の問いを賢い人が台無しにすることに笑いが生じることに注目した。
我々は賢い人を理解したことを喜んだのではない。
動きが無になったことを楽しんだのだ。
アホな質問に対してこれは非常にポジティブな反応だと考えたのだ。
ショーペンハウエルは「期待と我々の経験があわない」ことにも笑いが生じるとした。
あるいは、抽象的な言葉をお互いが違う意味で使っていたことにも笑いが生じる。
また、我々の経験に反する知識にも笑いが生じる。それはその人の努力に笑っているのだ。
美と宗教と倫理への忠実さも、実はキリスト教社会では笑いの対象なのだ。
悲劇も喜劇も矛盾に満ちている。痛みがあるかないかの違いだ。
不安から逃げ出す道があれば喜劇だし、なければ悲劇だともいえる。
人間だけが笑ったり泣いたりするのは、人間が「~すべきである」という発想をシリアスに持つからであり、些細なことに笑えるのもそこに秘密があるのではないだろうかとされた。
不調和が人を笑わせるという理論は、笑っている人は他の人よりも優れているという理論よりも他の人に与える不快感が少ない。
しかし、不調和や非合理性だけが人を笑わせるというのでは知的ではないし、我々にとって意味不明のものに笑うというのは説明として十分でなくなる。
我々は平凡な日常から不条理を見つけて、それに笑うのであり、その不条理は空腹や寒さほどつらくないというのが「不調和」なのだろうか。
その不条理は、我々が身を守る程度のものであり、利益につながるのが笑いなのだ。
我々は人生を怠けて過ごしているわけではない。ただ怠けているだけの人間をアリストテレスは「低俗な道化師」と呼んだ。
笑いで実践される「罪」は多すぎても少なすぎてもよくない。
肉体の疲労は休憩することで癒される。しかし、心の疲れは魂の休憩が必要だ。
それが喜びであり、笑いというのは心の疲れに非常にいい休養になるのだ。
怠惰な人間には笑いは必要ないのだ。
笑いは音楽のように人々を楽にし、ストレスを減らし、社会を連帯させる。
自分を他の人と同じように冗談にできない人は、がさつで洗練されていない。
時と場所を選んでこれをやるのだ。
これは美徳とされる。
幸福な人が他人に明るいターンを与えるのだ。
理性と対立する人間の行動は悪意に満ちているが、他人に重荷を課して無関心な人よりも、それを知恵に満ちた方法で行う方が笑いがとれる。

間違いだと思うことを言うな。
証拠のないことを言うな。
不明瞭な表現を避けろ。
あいまいさを避けろ。
信じろ。

これを心掛けてやるとウケる。

プレイシグナルズ
本能だけで生きている動物と人間が異なるのは、シリアスな物事の後の一言に尽きる。
ここにも笑いがあるようだ。

人間は一人でいるよりも大勢に囲まれていた方が30倍は多く笑うとされる。
理性に反する反対ではない予測に反するリアクションに笑うのだ。
不幸に満ちた社会ではケチャップを服にかけてしまうことすら笑いになる。
恐怖や怒りや悲しみがなければ人間は理性的にはならない。
つまり、物事がどうあるべきかが分からないのだ。
「他人がやっているように自分もやる」ということを理解しないと笑いは狙えない。
そこに「痛みや破壊のない間違い」を引き起こすのだ。
現代社会にはかつてのような恐怖はないが、頭痛や心臓発作の存在があるから笑いがある。
善と悪、失うものと得る物、それも笑いの基盤になる。
悲劇と喜劇は、メンタルパターンと経験を侵害するという意味では同じだ。
人間の人生には影や失敗、愚行、死があるから両者は成立する。
喜劇は悲劇と同じように緊張感に満ちていて、危険があり、闘争があり、成功や失敗がチャンスにさらされる。
違いは、主人公の人生が不適合であったか否かだ。
悲劇は家父長制や軍国主義との戦いと関わっていることが多い。
盲目的服従や殺人の快楽、単一の思考回路、プライドや目的意識の末路。
喜劇は、逆にヒーローを求めない。人生の不適合に対する柔軟性が必要だ。
時には権威への盲目的従属や軍国主義に反旗を翻して成立する。
権謀術数や取引の世界から敵が逃亡するシーンを喜劇とすることが多い。
瞬間的に臆病者になっただけで残りの人生を無駄にすることを喜劇とすることもある。
また、批判的思考、クレバーさ、適応能力を描くこともあるし、食べることや酒を飲むことやセックスを描くこともある。
理想主義とともに悲劇はエリート主義ともかかわる。
悲劇は王や女王、将軍の物語であることが多い。
しかし、喜劇にはもっと多様な人物が登場するし、女性は輝いている。
主人公は下層階級から登場する。
すべての人物が対等である。
悲劇は孤独であるが、喜劇は家族や友人、同僚などが登場する。
もし、哲学者がユーモアへの偏見を取り除きたいのならば、彼らはコメディのジャンルを検討しなければならない。
スタンドアップコメディである。これだけでも7種類あるのだ。
それほど多様な世界がコメディであり、肉体的に健康であり、心を柔軟にし、社会の潤滑剤になる。
アクィナス以外にこれに気がついた人はいなかったようだ。
難しい状況での落ち着きと理性が、瞬間的な心の麻酔となるのだ。
不条理に怯えてはならないという発想が哲学者にもたらされた。

2012年11月23日 (金)

哲学革命~カントの哲学

強い意志を持った人間が「右翼的」にプロジェクトを動かしていき、理想だけをもった連中が「左翼的」に理想を求めていく。
理想をもった人間はゴールの意味は理解しているけど、目的達成の手段はいろんな人から批判を受ける。
左翼的な人はコロコロ立場を変えたり方法を批判されたりしているんだ。
そういう受験の仕組みは大人になって政治で意味が分かるようになる。敵への嫉妬や知識への欲望は家庭内での否定的要素だ。これらを受験生をもった家庭は持つことになる。これが家庭内の誤った判断を引き起こしやすい。知識のフィールドは果てしなく広い。
これを正確に理解して、家庭内の文化やドクトリンができた家庭だけが東大合格者を出すのだ。
ルックスや才能は人それぞれだ。しかし、すべての人間が知識を求めている。だが、いろんなものがそれを妨害する。人間はそれらの妨害だけは簡単に見つけてしまうのだ。それが、浪人生が成績が伸びにくい理由なのだろう。
人間は経験や直観によって、幻や誤解を感じるものだ。人の批判もこれらの空間にある。この空間が人の才能を潰すのだ。
うまくこの幻や誤解の空間をいいものに保って自分の才能を伸ばしていくのだ。
私は哲学をやっていますが、現実社会から概念を引き出して、その概念から直感的に何かを感じる営みです。しかし、数学はあらゆるものを同一の尺度で計算する学問です。数学が「量」に注目するのに対して、哲学は「量」と「質」に注目しているとも言えます。そういう違いがあるようです。しかし、類似性も見られるようです。
経験できるかできないかの違いが数学と哲学の違いだとも言えます。
クリアーで普遍的な回答が得られるのが数学であり、概念の分析手法に非常に有意義な学問だ。しかし、哲学は直感に頼る部分が多い。
数学の三角形は近道を学ぶだけの概念ではないのだ。
受験生を家庭内で抱え込むと、受験生は広大な知識のフィールドと向き合うため家庭内の混乱要素となる。しかし、家庭内の文化とドクトリンが明確であればこれを乗り切れる。カントはこれを「外の偉大な知識人」に求めた。
家に書斎を置こう。偉大な思想家の本だけでも本棚に並べておこう。
そうすれば、家の上に偉大な最高の存在(Supreme Being)ができるだろう。主観的に非常にいいコンディションが作られる。そうカントは考えたのだ。
外の実践理性は主観的には「教育水準」「健康」「市民感覚」「道徳意識」。客観的には「完璧さ」「信心深さ」だ。
実践理性は自由と関わる。これを身につけるだけで外での自由の空間は果てしなく広がるのだ。カントが偉大な哲学者である所以だ。
実践理性批判は奇跡の書物だね。これを読んだだけでひきこもりがクラブやバーに行けるようになるんだよ。大変だ。
自由にいろんなところに行くには「知ること」「理解すること」。これを武器にいろんなところに行くのだ。
俺は実践理性の「教育水準」が高かったから赤門はくぐったよ(笑)
「理解すること」「知ること」とは、過去の時間空間に一貫性を持ち続けることが基盤にある。過去の記憶が理解することや知ることと結びつく以上、人生に一貫性というのが必要なのだ。
家庭内のキャノン~知識と信じること
我々はすべての客観的なものを見ることができる。しかし、家庭内ではいろいろな合意を作っていく。お互いに説得をする。しかし、説得は幻。それを真実だと思い込むのだ。そうやってできた合意はプライベートな妥当性しか持たない。それが家庭内の合意だ。合意は家庭内のメンバー内部での妥当性しか持たないのだ。そうやって家はできている。家に偉大な哲学者の本を置こう。
そうすれば、最高の存在のスピリットが家に出来上がる。意見・信じること・知識は各メンバーによって異なる。
誰の意見が強いか、誰の信念が強いか、誰の知識が深いかの角度は各メンバーによって異なる。そうやってすべてのメンバーに妥当な合意か形成されるのだ。
意見は主観的には満たされている。
信念は主観的には満たされているけど、客観性に欠ける。
知識は主観的にも客観的にも満たされているだ。
それを踏まえて合意というのは作られている。
よく、テレビなどでは、「性欲を理性で抑えられる」とか言うが、この「理性」という言葉を明確にしたのがカントだ。
たとえば、理性というのは固定的なものであるという従来の発想を批判し、
ヒュームの理性に関する議論を「純粋理性批判」により批判し、イギリス経験論から「実践理性批判」を書いている。
理性というのは、美しさや、分析、対話などと言った、解釈を必要とする困難な探求が必要であるとし、さらには道徳や経験などともかかわるし、その純粋理性と実践理性の統合という作業も必要とされる。
我々の知識は感受性と理解から得られるし、また、世界は意味不明な議論から成立していて、目に見えない空間が成立している。カントはその世界の中で理性の役割を否定しなかった。
理性の限界は認識しながらも、知識の限界とは異なると考えたようだ。
理性と経験的真実との関係はどうなのか。
科学的な探求。
理性の限界を知ることにどんなメリットがあるのか。などを探求した。
知識を得る作業は無限に続くが、それが理性の形成と関わっているのだ。
我々は、真実の代わりに理性を用いて判断していると考えていたが、この点に関するカントの記述はあっさりとしている。
むしろ、幻想にもとづく夢によって物事を判断していると考えたのだ。
それは感覚が間違いを起こさないのに判断を間違えることがあることから、判断の基盤になる感覚が夢にもとづいているのだろうと考えたのだ。
まるで、太陽が地球を回っていると人間が考えるのと同じことだ。
我々は感覚では太陽が地球の周りをまわっていると考えるだろう。しかし、惑星と星を見てようやく地球が太陽の周りをまわっていることを悟るんだ。それが「イデア」を知るということだよ。
ニュートンが発見した重力や慣性の法則、さらには、ガリレオが「天国を見てみよう」と思って作った望遠鏡などがあったからこそ、惑星と星を見てわかるんだ。
我々は神を信じることを望んでいるのだ。
なぜならそのような発想が「理性」というものの必要性と利益をもたらすからだ。神は、天国へ通じるバベルの塔を作ろうとした人間を罰したが、カントはこれを批判した。カントは理性のバベルの塔を作ろうとしたのだ。我々は感覚によって知識を得るが、経験と哲学の仮説は対立するものだ。我々は世界の経験すべてを味わうことはできないのだ。
見聞を広げて、それでも限界があるから仮説を立てるのだ。
「ここは自由の国アメリカだ。お前の家で何をやろうが自由だが、タクシーで人を殴るのはよくない」(タクシードライバー)
さて、人間には自由がある。しかし、自由という言葉から現実世界を説明するのは案外難しいのではないだろうか。人間には他者への尊敬と多様性がある。
自分の家では純粋理性があるし、外に出れば実践理性がある。カントの本を読んでこれらを磨いていくのは非常に人間の理性を磨くのに必要な営みだ。
人間には理性がある。しかし、もっともいいもの(最高善)を求めると我を忘れて理性を忘れることがある。これが理性の限界だ。
しかし、人間には「幸福」というものがあるではないか。この幸福が人間の理性を維持するのではないだろうかとカントは考えた。
ところが、カントの考えは疑わしかった。現実世界の行動が幸福とつながっているのだから、幸福が理性を制御できるとは思われなかったからだ。そこで、神聖なるもの、つまり「神」の存在を必要とした。神聖なるものこそが人間の理性を保つのではないかとしたのだ。人間は自由な活動を続けたいから、実践理性(外・公)では神聖なものに従うのだ。これが実践理性の定言命令にしたがっている状態だとされた、
「実践理性の定言命令」とは刑法の構成要件だとも言われる。
外の実践理性は主観的には「教育水準」「健康」「市民感覚」「道徳意識」。客観的には「完璧さ」「信心深さ」だ。
実践理性は自由と関わる。これを身につけるだけで外での自由の空間は果てしなく広がるのだ。カントが偉大な哲学者である所以だ。
実践理性批判は奇跡の書物だね。これを読んだだけでひきこもりがクラブやバーに行けるようになるんだよ。大変だ。
俺は実践理性の「教育水準」が高かったから赤門はくぐったよ(笑)。赤門攻略のキーワードは「知ること」「理解すること」だよ。
「理解すること」「知ること」とは、過去の時間空間に一貫性を持ち続けることが基盤にある。過去の記憶が理解することや知ることと結びつく以上、人生に一貫性というのが必要なのだ。
受験生は誰もが「幻想にもとづく夢」を基盤に判断して試験場に向かう。
その判断を正しいと思って行動するしかない。そういうものだ。
のちに政治で分かるようになる。
世の中にはアホがいっぱいいてね。
「どういう幻想にもとづく夢にもとづいて行動しているか」さえ明らかになればアホの行動が手に取るようにわかるようになる。
大学に入ったらカントの「純粋理性批判」「実践理性批判」を英語で読んでみよう。
空を見上げよう
カントは空を見上げることの意味を語っている。
直感的に時間を感じることができて、見知らぬものへの感受性を磨くのに非常にいい営みだとしたのだ。
勉強の息抜きにやってみよう。
空を見上げることはもはや疑いを超えた世界を見ることであり、幻想にもとづく夢を超えた世界を見ることだ。
すべての条件である時間を感じることができる。時間に包まれた物事が見えなくても、
空を見ると時間を感じることができる。空と時間の関係をカントは指摘したのだ。
空の時間は将来の経験の可能性と結びついていて、現実社会の経験の進歩とも結びついている。
毎日空を見よう。
成績の向上を感じることができる。

「メンデルスゾーンのスピリットを家庭に持ち込め」(カント)。これがカントの空間。
http://www.youtube.com/watch?v=Pmj7nCRYNs4
メンデルスゾーンは「絶滅」あるいは「消えゆくこと」を拒絶した(カント)。
メンデルスゾーンの作品は「広がり」「量」「激しさ」を示している。
無限の時間を用いずにこんな作品を作ったエゴこそがメンデルスゾーンの「時間」だった。
限られた時間空間でエゴを用いて作品を作り上げたメンデルスゾーンには一貫性があり、それが「理解力「知ること」と関わっている。
これが人生の永遠や不朽とつながるのだ。
東大受験生も同じ営みをやっているのだ。

2012年11月21日 (水)

中国共産党の思想は李大が日本から学んだ

アジア初の近代帝国日本で共産主義思想が発達するのは中国よりも早かった。
川上肇や山川均から李大が学んでいる。
日本語に堪能な李大が日本語の文献を川上や山川から学んだのだ。
歴史は、人間がつくるものではなく、継承されたものや環境に人間が直面して動くものだという思想が日本のマルクス主義者に共有されており、
必然的に革命は起きるものだという決定論と、人間の行動から革命は起きるものだというアクティビズムの議論に緊張関係が生じていた。
川上は、経済こそが革命の原動力だとして、マルクスの思想を発展させていた。
自然から革命が起きるのではなく、社会の不正義やプロレタリアートが革命を起こすと考えた。
さらには、経済や決定論だけではなく、ヘーゲルの哲学からも、敵と矛盾に言語を投げ込むという理論を李大に教えた。
この李大の思想はのちに偉大な思想家である毛沢東に引き継がれることになった。
中国共産党も1910年代に李大が学んだことを基盤に思想をまとめて行ったのだ。


2012年11月11日 (日)

天皇家と神道の真実

称徳天皇の信任を得た道鏡というのは頭がよくてね、772年に太陽帝国カルトを作っているんだ。
理論を作ったから権力に近づいているんだ。
871年に「延喜式」というのができて、大嘗祭から僧を排除したのだが、藤原氏の権力独占の後に「院政」というのが行われただろ。
平清盛でも分かるように、院政をやった上皇は「寺」をパワーベースにしている。
仏教と神祇カルトは互いに武士を味方につけて争ったんだ。
神社というのも「神祇神社」「二十二社」「総社と一宮」「八幡ネットワーク」の4つがある。
日本が「ジャパニーズ」という概念を確立したのは宋との貿易や元の襲来があって中国が日本を世界に紹介してからだ。
それを基盤に吉田カネトモが唯一神道を吉田山に作っている。それを採用したのが後土御門天皇なんだ。
神とは仏陀の本質の足跡であるとされている。
豊臣秀吉も阿弥陀が峰山頂の豊国社に豊国大明神として神道形式で埋葬されている。
徳川家康も最初は静岡県に神道形式で埋葬されたが、これに異論を唱えたのが天台宗の天海だ。
東照大権現として日光に埋葬したのが天海だ。
幕府の時代に天皇家が何をやっていたかもアメリカ人は明らかにしている。
徳川綱吉の時代に東山天皇が221年ぶりに大嘗祭をやっている。それまではまったくの空白期間だった。歴代天皇のうち41名しか大嘗祭はやっていないんだ。
しかも、米や太陽信仰とは無関係に田植えの前にやっていた。
徳川吉宗が大嘗祭を義務付けている。
新井白石が「将軍家の統治は神に由来する」としたのだが、
幕末に逢沢正志斎が英国やロシアの軍艦を目の当たりにして、「神とは天皇家だろう」としたのだ。
このあたりが今の天皇家の原点だろう。大嘗祭に関しては、野坂泰司と坂本是丸の対立が知られている。
野坂が「私事」と位置づけているのに対して、坂本は「慣行の実践」としている。
野坂が通説だろうけど、坂本の見解を自由民主党が採用しているのだ。

社会システムを変える方法

「社会システムを変える方法」~スタンフォードの見解。
まず、社会で尊敬されることだ。そのあと、ある制度を批判して牢屋に入れられるのだ。
これが、社会システムを暴力を使わずに変える方程式だとされている。
牢屋というのはそのように戦術的に使うことが可能なのだ。
スタンフォードがこれを指摘している。
社会で尊敬されている人が牢屋に入れられることそのものが「社会の道徳パラメーター」を
変えてしまうのだ。
社会で尊敬されている人が、政治犯などで法律に抵触して、牢屋にぶち込まれることそのものが、
「法律的に容認できる政治空間」を作るそうだ。
まさに、このような手法は牢屋を活用した高度な技術なのだ。
牢屋でミオブロック(筋弛緩剤)を静脈注射されないためには、強烈な国益の志向と
人々の尊敬が必要だ。
それをもっていないと命の担保はない。
革命は簡単でいて難しいのだ。
道徳パラメーターを変えるという方法は、「深刻さ」「誠実さ」「道徳的確信」を背景に、法を破るのだが、
強烈な自尊心と道徳的一貫性だけでなく、社会の利益を志向していなければならない。
政府がシステムを変えることをもはや拒否できないことを認識するためにはこれらを踏まえていなければならない。
制度を変えようとする人は、自分の練られた思想を公にして、自分が投獄されたことをショーとして
大衆に示さなければならない。
自由で平等な人間が、その政治的アクションによってこのような目に遭ったことをオープンに
しなければならないのだ。
結局は、学問の勝利でした。
天皇サイドはこの私のレポートを読んでおらず、世間のリアクションを意味不明として、
「もう一度精神病院にぶち込め」という反応を示しました。
スタンフォードを踏まえていれば当然わかることなのです。
この分析を終えて深夜の攻撃は急激に収まっています。

神道の「岩戸神話」というのは「沈みかけた太陽を元に戻す力のあるものは万物をつかさどる」
という思想で、その根本は、「あな面白や」といってアマテラスが岩陰から出てきたように、
面白いことを演じたことが基本にある。
日本がこのような思想を持っていたことに列強が注目したのだ。
それ以外の古事記の記述は「楽園の王朝を作る物語」であるとされている。
和歌や神楽はその「あな面白や」のディテールを作る営みであり、
今回の私のクーデター事件もそれと同じ思想に基づくものだ。
天皇もこのような理論構成には一定の理解を示しているようだ。

2012年11月 8日 (木)

神武のY遺伝子理論は江戸時代には想定されていなかった

入院中に書いたレポート。
「日枝神社の歴史」
福井記念病院から、国際乗馬クラブの脇の下り坂を降りていくと一般道に出る。そこから木の生い茂ったスロープのような坂道を登っていくと住宅地があって、唐突に日枝神社がある。
かつてはこの病院の散歩コースとして知られた神社である。
この神社は実に興味深い。まず、鳥居を見てみると、クロスバーの部分に三角形の形をしたものがついている。これは他の神社にはないもので、日枝神社の特権的地位を示している。
ぜひ散歩したときに確かめてみてほしい。(もちろん赤坂の日枝神社でもいいです)
なぜ、日枝神社が特権的地位を有するのかは、まず、”ヒエ”という名前に
注目してみよう。これは「比叡山」の古い呼び名から来ている。
比叡山は延暦寺のある天台宗の山であるが、この比叡山は地理的に京都と密接な関係にあり、平安京に都が移されてから明治維新まで朝廷と天台宗の関係は密接なものとなった。
871年の延喜式で朝廷の大嘗祭から僧を排除しても、日枝神社という形で朝廷と天台宗の関係は続いた。 
比叡山は”山王祭”というものを行い、5メートルもあるおみこしを京都の軍事的要衝にもちこみ、放置しては山の男の力を見せ付けていた。京都の側もこれを防ぐために屈強な男たちが神輿にぶちかましを行っていたのだ。まさに相撲の起源が比叡山の男たちと京都の激突にあったのだ。
江戸幕府の末期に、幕府が外交や内政で失敗して国が混乱したときに、これを立て直した”サムライリーダー”が明治天皇であり、このときに、
「アマテラス-神武天皇-天皇家」という明確なラインが引かれた。
このような構図は本居宣長も相沢セイシサイも想定していなかったことだった。
この”明治帝国カルト”を広めるのに動員されたのが日枝神社であり、官幣大社日枝神社と呼ばれた。
クロスバーの三角形もこのときにつけられたのであり、他の神社に優越するものとして他の神社は”摂社”と呼ばれた。
亡くなられた三笠宮寛仁殿下の考えた「神武のY遺伝子理論」も答えは案外本居宣長も相沢セイシサイもそのような構図を想定していなかった、というように、古典をよく勉強することからアプローチすべき問題だったのかもしれない。

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