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2012年6月11日 (月)

哲学者としてのブッダ

ゴータマは、仏教の教祖と位置付けられているが、哲学者として見てみると興味深い。
彼は、人間の「苦痛からの開放」を探求した人物であり、その苦痛の原因を探れば苦痛から解放されると考えたのだ。
しかし、その苦痛の原因を探るのはまさに高度な学問であり、仏教への道を高度な学問にした人物だ。
「ブッダ」とは「目覚めた人」という意味であり、苦痛からの開放の方法を知っている人だとされる。
仏教においては、ゴータマ以外にもブッダはいるとされる。
問題は「苦痛からの開放」であり、ゴータマだけがブッダではないとされたのだ。
しかし、高度な学問が要求され、それが仏教であるとしたという意味ではまさに教祖であった。
苦痛のない場所を涅槃と呼ぶが、ブッダというのは涅槃への道を知っている人という意味だ。では、ブッダの生涯から振り返ってみよう。
80歳まで生きた人だが、560BC~480BCまでだとされているものの、最近の研究では、405BCに亡くなっているのではないかとも言われている。
ネパールとインドの国境付近のシャカ族という裕福な家庭で妻子とともに暮らしていたが、苦痛から修行生活に入った。
彼は最初は苦痛から悟りへの道を求めたが、やがて瞑想から苦痛の開放の手法を学習し、45年間の間、弟子を指導した。
ブッダは、自分をあくまでも苦行者と位置付けていた。その方がその地域で人々の理解が得られたからだ。
しかし、ヴェーダやウパニサッドの描くような、「いい行いにはいい果実を、悪い行いには悪い果実を」という発想が人間の輪廻転生を描く世界観では、苦行というものがどのように説明できるのかという不満があったのだ。この不満を「ヘテロドクス」と呼ぶようだ。
ブッダは「私」「私のもの」という発想を捨てなければ、これらの伝統的考えを抜け出すことはできないと考えたのだ。
そういう意味では、現代の哲学から見ればブッダは明らかに哲学者としての合理性は失っていたのだ。
しかし、「最期に人間を救うのはこの境地なのだろう」と位置付けられ、ブッダをスタンフォードは高く評価しているのだ。
あらゆる哲学は実践がなければならないが、ブッダの場合は「私」「私のもの」という発想を捨てるということがどのように苦痛からの開放につながるかの実践がないという批判を受けた。
単なる形而上学であってはならないとされたのだ。
しかし、のちの世代の弟子たちによってその教義は洗練されていったのだ。
ブッダは没後一世紀ほどの間は、彼に関する記述は書かれていない。
しかし、その後、パーリ語やサンスクリット語となって書かれるようになった。
文献がないということも問題であったし、彼の語る言葉が超人のごとき人物像を求めていることも問題であった。さらには、口伝で伝わる間に多くの仏教徒によってセクトが分かれて、いろいろな解釈の対立が生じていたことも問題であった。
しかし、ブッダの影響がそれほどまでに大きかったからこそ、没後も語り継がれたというのが真相なのだ。
のちの仏教の発展は後継者の業績に委ねるとして、スタンフォードはブッダの実際の業績の分析を試みている。

ブッダの教えの核心は以下のものであると言っていい。
苦しみがある。
苦しみには原因がある。
苦しみは止まるではないか。
それならば苦しみを止める道を探求しよう。
これがまさにブッダの探求の核心なのだ。

ブッダの探求は、「私」「私のもの」という発想を捨てることに始まり、さらに「カルマと輪廻転生」にまで発展しているようだ。
しかし、現代の哲学からの評価を与えてこの論文は終える予定だ。

仏教において「苦」とは、痛みだけではない。フラストレーションや孤独、さらには移り変わる世の中で何かを望むことすら苦とされた。
これらを高いレベルでまとめて「苦」という言葉にしたのだ。
人生の状況や出来事の中で満足ができないことがある場合に生じるのだろうとブッダは考えた。
人生において「満足できない」ということはかなり普遍的なことであり、そのために「苦」という概念がかなりオープンな議論を可能としたのだ。

ブッダにとって「カルマ」というものがそれまでの「いい行いにはいい果実を、悪い行いには悪い果実を」
という輪廻転生の教えを脱するカギとなる概念として発展している。
発想としては「我々の一族は伝説からの教えを受けている」として輪廻転生を説明するセクトもあり、また、いろんな概念の再編を行うセクトもあったが、
ブッダの場合は「伝説からの教えを受けた」という発想が主流としてメインストリームになったようだ。
輪廻転生とカルマの研究をスタンフォードはこのようにとらえている。

ブッダは、苦に原因があり、それを止められることを知った。
その仕組みさえ分かれば、将来の「苦」もなくせるだろうと考えたのだ。
その「苦」の仕組みを「十二縁起」として明らかにした。
十二縁起という物事のつながりが苦をもたらしているのであり、それさえ理解すれば将来の苦をなくせるとしたのだ。
最後には「病気と死」があるが、これはもはや「輪廻転生」をうまく説明するしかなかった。

輪廻転生のサイクルから抜け出すためには、ブッダは感覚で分かる三つのもの、「苦」「移り変わり」「非自己」の三つをどう理解するかに求めた。
苦の原因に対する忍耐強ささえあれば「ファイナルリリース」(解脱)が得られるだろうとしたのだ。
瞑想によって行おうという解釈も生じたし、他にも方法があるはずだという探求もなされた。
「苦」「移り変わり」「非自己」という三つの要素が苦の原因であるとすれば、その所有者は「私」であり、そのことから「私」をなくすことを追求したのだ。
また、いかなる場面においても急進的であることは苦をもたらすであろうとしたようだ。

非自己は
①自己が不変のものであるのとしても、
②五感の作用は不変ではない。
したがって、非自己は存在する。
という具合にブッダは悟ったようだ。

「カルマ」を「我々の一族は伝説からの教えを受けた」と説明するのは非常にエキサイティングだね。
この曲は非常にいい。
KOKIA "karma"
http://www.youtube.com/watch?v=bYlhVhdd1CE

苦の原因に関しては、還元主義者は「日常」と「究極」の二つに物事を分けた。
通常我々が感じることができることを「車輪」に例えたのだ。
車輪のことを英語では「シャリオット」と呼ぶそうだ。
人生で通常感じる物事を「車輪」という比喩にしたのだ。
人生の車輪には喜びもあるしそれ以上の苦もある。そのなかに学問があり、「真ん中の道」の探求が行われた。
それが苦から逃れる方法だったのだ。
あくまでも比喩であるが、ブッダはその真ん中の道に「私」「私のもの」という発想が関わっていると考えたようだ。

ブッダは、苦から逃れる探求をするうえで、自分が五感の作用で感じることができないことを基盤にすることには批判的だった。
「ブラフマンに会った」という信仰者をも批判したとされる。
自分で感じることができることを基盤にしたという意味では哲学者だったのだ。

ブッダにとっては「苦」「移りゆく世界」「非自己」の三つが苦と向き合う上でのテーマであったが、非自己に関してはもう一つの方程式を立てている。
もし「自己」があるのなら、自己が変わることを望まないだろう。
しかし、五感の作用は変わることを望むことができる。
したがって、「非自己」は存在する。
ブッダにとっては「私」「私のもの」という発想をなくすことがあらゆる苦を除くための手段であったために、このような探求を行ったようだ。

人間は、ナイフで切られると痛みを感じるだろう。
はたして、「自己」というものが苦を感じる役割を果たすのかもブッダは探求した。
苦痛を与えられれば自己がなくても感じるのならば「私」「私のもの」をなくせばいいという議論は成立しないからだ。
このあたりの「苦」と「自己」の議論は詰めていかなければならないだろう。
それを受けて「カルマと輪廻転生」の議論にブッダは進んだのだ。
重要な点は、スタンフォード大学が、ブッダの「私」「私のもの」をなくせばいいという議論を「哲学者としての合理性を失っているのではないか」としていることだ。
しかし、人間が最期にたどりつく境地としては成立しうると位置づけているのが現状だ。
「カルマ」という概念を輪廻転生との関係で議論すると「わが一族は伝説からの教えを受けた」と説明されるが、ブッダは実際はかなり詳細な議論を展開している。
カルマとはサンスクリット語で「行動」という意味であり、行動は果実を求める。
快楽などの果実を求めて人間は行動するのだ。
行動は「体」「言葉」「心」の三つで行われる。
これらの行動が「カルミックな結末」を迎えれば輪廻転生からの解脱ができると考えたのだ。

ブッダは、結局、行動が求める欲望に対して、「欲望に無頓着であること」を求めたのだ。
ここに「私」「私のもの」という発想も関わってくる。
このような発想がはたして理性的なものであるかは検証が必要になってくる。
そこまでブッダの研究をスタンフォードは進めているのだ。

ブッダは、道徳に無頓着な「道徳的ニヒリズム」をもっともたちの悪いものであるとしていて、そのあたりの戒めを行ったようだ。
こうした彼の教えの合理性の検証資料は手元にあるが、ここでいったん議論はみなさんに委ねようと思います。

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