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2012年6月13日 (水)

「幸福」~スタンフォード哲学

「幸福」とはなんでしょうか。快適な経験と不快な経験の量の違いか、それとも、満足度なのか、それとも、感情の状態なのか。
傍系に生まれても「人生にポジティブなスピン」がかかっていれば幸せなのではないでしょうか。
どんな境遇であれ感情にポジティブなスピンがかかっていれば幸せなのではないかという説があります。
「幸福」とは、まず「繁栄」「いい生活」という立場と「心の状態」という立場があります。そのうえで、「国家との距離」を問題にします。日本国においては国民と国家の距離の遠さが国民を不幸にしているとも言われ、発展途上国では簡単に国を相手にできることからその方が幸せであるとも言われます。国家との距離も幸福にかかわります。
幸福をお金で解決すると「測定可能」であるけど、心の状態であるとすると測定が困難であるとされる。また、心の状態であるとすると他の人から嫉妬をされるのではなく同情されてしまうとも言われる。みなさんはこの動画を見てどう思われるであろうか。
議論はさらに発展し、「他の人に忠実であること」も幸福なのではないのかとされている。生涯夫に尽くすことすら幸せかもしれないのだ。
幸福は「快楽主義」「欲望理論」「客観的リスト理論」の三つの方向からアプローチされるのだ。
「快楽主義」や「欲望理論」は主観的なものであるけど、「客観的リスト理論」は、客観的なものに対して生じる。ソファーでポテトチップとコーラを飲みながら野球を見るという客観的なものに対して幸せを感じるのなら「幸福」は客観的にリストにできるだろう。
あるいは、自分の能力をフルに生かすというものも大ざっぱであるが客観的なリストに入れることが可能だ。
しかし、「客観」も結局は混乱しているのである。対立する陣営は異なる幸せを念頭に戦うし、経済評論家が「銀行」と言った時に、通常は資金の流れを頭に入れていて、それが幸せにつながることを知っている。いろんな意味で「客観的リスト理論」も詰めていかなければならないのだ。
近年のアメリカでの幸福に関する書籍は「心の状態」についてしか語っていないのではないかとも言われる。
幸福を三つに分けると「快楽主義」「人生の満足」「感情の状態」に分けられるとされる。
しかし、快楽主義は、快楽にしか焦点を絞っていないとされるし、人生の満足も、人生の一つの側面しか見ないことになる。感情に関しては「人に認められること」「充実していること」「安定していること」などが挙げられるが、結局は「いい雰囲気」という抽象的なものになる。
そのため、これらの三つの要素を混ぜ合わせて「主観的にいい生活を送っていること」を幸福と呼ぼうという道も模索されたようだ。
結局、快楽主義は我々は直感的に否定することができる。また、人生の満足も様々な出来事に満ちた人生を一言で表現することはできないとして説明としてはふさわしくない。
我々がなぜ「幸福」というものを議論するかというと、その議論が我々の利益になるからである。それならば利益になる明確な言葉として、私は「人生にポジティブなスピンがかかった状態」を持つことが好ましいのではないかということを現時点では指摘しておきたい。

スタンフォードの論文はまだ続きがあるわけだが、まず、「人生の満足」と「感情」のどちらが幸福というものを説明するのにふさわしいのかを対決させてみよう。
実は「人生の満足」という説明にはアドバンテージがあるのだ。
人生の瞬間を切り取っていいこと悪いことをとらえるよりも、人生全体を見たほうがより包括的に国としても国民の幸せを考えることができるということが挙げられる。まさに「ハッピーエンド」という言葉があるように、一生懸命働くだけの人生でも、老後が楽しめれば「いい人生だった」と人間は言えるものなのだ。
さらに、人生全体を考えるのならば「その人の判断」というものを評価し、尊敬を与えることができる。つまり、自由な空間さえ与えれば人生を幸福なものだったと思えるようにもなるのだ。
この二つの点で「人生の満足」を幸福ととらえることにはアドバンテージがある。
これを踏まえて、「感情」の側からは反撃しなければならない。
まず、人間とは人生において必ず「不愉快な思い」をしながら生きるものであり、人生全体を見たのではそれらの問題が解決できないではないかという反論がなされたのだ。
さらに、人間というのは、自分の人生全体を見渡して自分の幸福を考えてはいないという決定的な批判がなされた。その局面での不快感などを見ながら生きているという現実を踏まえなければならないのだ。
また、かなり感覚的な議論になるが、その人が人生において求めるものは各自で異なるために、似たような人生でも満足度が異なるという点も重要だ。さらに、90%の目標達成でも満足しない人もいれば、20%の目標達成で満足してしまう人もいる。
そのような批判が「人生の満足」を幸福であると説明する議論に浴びせられた。

そもそも、国家としては国民に「幸福」を与えようと思った場合に何に注目すべきだろうか。基本は「国家との距離感」「所得」「社会環境」だとされる。どんな異性と付き合うかまでは面倒は見ないのが国というものだろう。

大事な点は「高校を卒業した後に高校生活に悔いを残すことはあるけど、死んだ後に人生に満足できるのか」という視点だろう。

「人生の満足」という観点からアプローチするのなら、国がどのように満足を与えているかも考えなければならない。十分満足を与えている国ならばちょっとした「痛みに耐えられる」国になるし、満足していないのならばハードルを高く設定しすぎていることになる。ハードルの高さによって、より良い暮らしをしている国がそれより劣る国より不満を持つこともあるのだ。別の言い方をすると、ガンにかかった人は、かかる前よりも生きていることに喜びを感じるだろう。なぜなら、彼の美徳はもはや完全に視点が変わっており、貧しさや不完全性といったものよりもはるかに命の価値が高くなってしまうからだ。
生きている人間が過去に最悪の比較対象を持つことは非常にいい効果があるのだ。
自分よりいい暮らしをしている人を見たり、貧しい暮らしをしている人を見たりして、自分より幸福か不幸かを判断することは必ずしも正確な理解ではない。いい暮らしをしている人が実は妻や友人から憎まれていたらどうであろうか、あるいは本人が憎まれていることを知らなければどうであろうか。いろんな複雑な要素が絡み合って幸福や不幸は決まるのであり、必ずしも暮らしぶりだけではわからないものがある。
結局、幸福はもっと壮大なデータから比較するべきであり、世界の幸福や不幸に目を向けるのが自分の幸福の判断には必要になるということは指摘していい。
「JAM」The Yellow Monkey
http://www.youtube.com/watch?v=5YwATGyUwMc
この曲は、狭い日本国内で日本人同士のコミュニティーで幸福か不幸かを比べるのではなく、世界に目を向けて幸福か不幸かを見ているというのが正解のようだ。

では、快楽主義と感情を対決させてみよう。快楽主義の主張は明確である。これは認めなければならない。さらに、快楽主義に身をさらしても人間というものは案外失うものはあまりないのだ。しかし、心の深さに何が起きるかは見ておかなければならない。それだけ見ておけばこの論点は人それぞれが、異なった人生観を持っていたり、異なる感じ方をするため、ここでは指摘にとどめておきたい。

結局、「快楽主義」「人生の満足」「感情」に関しては、人生にポジティブなスピンをかけるということは念頭に置きながらも、この三つが複雑に幸福と関わっていて、人それぞれだということなのだ。
一つだけ言えることは、「国との近さ」を幸福と感じるためには、人間は選挙で最高権力者に涙を流させることで感じることがあるということだ。野田さんの涙で幸福を感じているようではまだまだ人生のポジティブなスピンは甘いだろうということは指摘しておきたい。

「人生にポジティブなスピンがかかってるぜ~笑いながらボートを漕ぐ三笠宮」
http://www.youtube.com/watch?v=7JJWPKcvXro

「幸福のサイエンス」
まず、幸福度を測定してみよう。
快楽度で測定してみたらどうだろうか。しかし、快楽にはいろんな種類があり、単純には測定できないし、快楽のあとに落ち込むことがあることを考えると、どうも快楽度という測定の方法は困難ではないかとされる。
また、人生を通じた快楽度を測定するとなるともはや人生は成立しないのではないだろうか。
そこで「友人の証言」を基準にしようという発想も生まれた。「笑っていた」「精神的に健康だった」「長生きした」などだ。
また、新婚さんは夫を亡くした人よりは幸福である。失業者は働いている人より不幸である。という具合にグループに入れて幸福度を測定しようという発想も生まれた。
しかし、グループ内部でも幸福の感じ方は異なるし、国家統治においてもかなり荒っぽい測定の仕方になる。
そこで、結局は「他人との比較」によって、より幸福であった、という具合に測定するしかないのではないかとも考えられた。
しかし、比較と言っても、他人の自己申告と測定する場合には不正確であるし、グループの分類にもバイアスが伴うのは否定できない。さらには、アメリカ人はフランス人よりもポジティブに物事を回転させているねという具合に大ざっぱにならざるを得ない。

このような議論は、人々がどれほど「幸福度測定」に失敗してきたかを示している。
結局、案外本人が幸せだというのならそれでいいのではないかとも言われた。
しかし、人生を通じての快楽も記憶が消えていくことから、本人の証言が何を根拠にしているのかも明確ではないし、現在の感情だけで幸福か不幸かを測定することも簡単に他人から攻撃されやすい測定方法となってしまう。
たとえば「ちょっとアンケートいいですか。あなたは今幸せですか?」と人に聞くとしよう。聞かれた人は、人生そのものを振り返って幸福だったかどうかまでは考えないだろう。人生に多くの憎むべきものがあったとしても「今、何に興味があるのか」について幸せかどうかを答えるだろう。
また、「幸せです」と答える人によっては「現在快適である」という意味であったり、「人生が全体としていいものであった」という意味であったり、「明確ではない」という意味であったりするだろう。
結局、「幸せ」という言葉自体が不明確なのであるから「あなたは幸せですか」と聞く方が不明確な質問をしているのではないかと指摘されている。
いろんな言語で「幸福」という意味の単語を調べて研究してみた人もいるようだ。

「幸せですか」という問いかけに、文学作品を調べてみると、自分が現在成長していることや、周囲の関係が良好であること、自分の意思が尊重されていること、他者との競争がうまくいっていることなどを見て答えていることが多いとされる。
受験生などで「いったい彼らの何が幸せなのだろう」と思う人もいるだろうが、このあたりに彼らの幸せもあるのかもしれない。
主観的には「価値があって意味に満ちている」ことを幸福と判断しているようだ。

経験的に人間の幸福感を調べてみると、「いいこと」と「悪いこと」の比率が3:1以上の割合でなければ人間は幸福感を感じないというデータもある。経験論から議論することも可能だ。

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