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Foreign Affairs

  • CFR: フォーリンアフェアーズ英語版

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2012年6月

2012年6月21日 (木)

「死」から学ぶこと

若い頃に夭逝した友人の葬式に出てみるといい。
「死」が周辺にどんな害悪をまき散らすかが分かる。
つまり「自分が死んだときに何が起きるか」という情報が全部とれるのだ。
「俺が死んだらあいつが喜ぶ」という情報なども全部とれる。
葬式は出ておくべきだよ。

人間の「死」に関しては、なぜ人々の寿命は異なるのかという「タイミングパズル」という問題がある。
さらには、我々は、永遠の生命を得ても「常に人生に意味を与え続ける能力はない」とされていて、ほどほどの年齢で「死」を迎えるのだ。
まさに、死は年寄りにとって不幸であるとは言い切れない点はここにある。
「死の恐怖」を克服する理論は探求すればするほど強烈な反撃に直面する仕組みだ。
「人生に意味を与え続けるのはそろそろ限界じゃないっすか」あたりがいいのかもしれない。

「死」があるから人間は「我々とは何か」を知ることができる。
①我々は人間である。
②我々には自意識がある。
③我々には心がある。
これは人間が死ぬからわかることなのだ。
単なる動物ではないことを知り、心があることを知る。

タイミングパズル
やや冷酷な分析になるが、人の死がある人の利益になることがあることは事実である。しかし、どの瞬間にどの人の利益になるのかはタイミングによって異なる。この問題を「タイミングパズル」というようだ。
私は、息子が生まれた瞬間、今の天皇にバッチリタイミングパズルがあってしまい、殺されそうになったほど重要な概念だ。イランは、経済制裁においては防戦一方のノーガード状態であるが、世界最高水準の国民監視システムを所有していて、核保有をすることで力の均衡を確保するまではこの技術を使うしかなかった。
サウジアラビアはイランのシステムの前にはまさにノーガードのファイターであり、イランはサウジの「もっとも自国にとってタイミングパズルのあった人間」を瞬時にロックオンして殺害することができる。
それが先日の「サウジ皇太子の死」であった。
私は、天皇に常にタイミングパズルを合わされながら生きてきた奇跡の生還者と言っていい。
一般国民は、国家レベルで働こうと思ったら常にだれかとタイミングパズルを合わせながら生きていくことを覚悟しなければならないのだ。このパズルをはずそうと思ったら国全体の利益を強烈に志向するようになるようだ。
これが私が天皇にロックオンされ続けた結論であった。
私は生き残るために「国益志向マシーン」になってしまうほど重要な概念だった。

【つづく】

2012年6月20日 (水)

「許し」の哲学

許しとは「関係の再構築」をすることで、相互の悪い感情を解消することができる。
一方で、DVのように「構造が残っているうちは許してはならない」という側面がある。
許しの研究はまさに「サルベーション」にもつながる研究だ。
許しの基本は「何も知らない人間たちがやったことを、全知全能の神が許す」ということだ。
「人を許す」のは実は簡単なのだ。しかし、簡単に人を許しまくる人は自尊心に欠けるし、厳しさもない、道徳心も確立していないとされる。
怒りや憎しみの炎は自尊心を基盤にしている。
「許せない。許せるはずがない」というのは強烈な自尊心を基盤にしているのだ。
この研究はスタンフォードのものだが、「絶対に許されないこと」をした人間も「相手の自尊心」さえ狙って行けば許されるということを明らかにしているのだ。
その人が何を嫌っているのかをしっかりと理解しないといけない。

「償い」さだまさし
http://www.youtube.com/watch?v=9KGro0gAZAE

この曲で踏まえなければならないのは、遺族の奥さんが貧乏人への復讐を成功させて、自尊心が満たされたから許されたということを基盤にしているということだ。

重要なのは「間違いをおかすのは人間であるし、許すのも人間だ」ということだ。
全知全能の神は何も知らない人間を許すが、人間は全知全能ではない。
しかし、時には「人間の許し」がキリストの化身となることがある。
許す側と許される側に「配分的正義」が働き、「一生頭が上がらなくなる」ことにもなるのだ。
【つづく】

2012年6月18日 (月)

時間と宗教~天皇がローマ教皇より上位に来る理由

宗教で重要なのは「時間の使い方」なんですよ。
将来の運命を予測するのもまさに宗教の核心を形成するし、過去の我々には経験できない時間を「俺のものだ」と独占しているのが天皇家なんです。
宗教と時間というのは密接にかかわっているんです。
プラトンやニュートンが「時間への尊敬の絶対性」という考えをもっていたようだ。
天皇家のイデオロギーはプラトンやニュートンを基盤にしていて、それに対抗する宗教は「将来」を標的にするしかなかったのです。

「時間を止める」ということを考えてみよう。
「ゾーンA」「ゾーンB」「ゾーンC]というように、時間を止める空間が異なっていなければ「スタープラチナ」は成立しない。
相手が止まっていてこちらだけ動いているというのは「ゾーン」が異なるからだ。これを「ローカルフリーズ」と呼ぼう。
もし、すべてのゾーンが一斉に止まるのならば「空虚な時間のパーティー」に祝福されるだけだとされていて、時間を止めることに意味がなくなるのだ。
これがスタープラチナという技術だ。

時間というものを位相幾何学で考えると「一本のライン」であることは明らかであるが、一本のラインのタイムストリームがあると考えると、出来事との関係が説明できるし、「始まりはいつだったのだろう」という疑問もわいてくる。
さらには、ラインをゆがめてタイムスリップするという発想も生まれる。
すべて、時間を幾何学的に一本のラインであると考えるから生まれる発想だ。
しかし、タイムスリップというのは「自然法則に反するだろう」というのがスタンフォードの見解のようだ。

一方で、「時間というのは一時的な秩序に過ぎないのではないか」という強烈な主張がある。
人間はそれぞれの物語をもっており、「Aシリーズ」」「Bシリーズ」というような物語に時間が関わっている。
そのようなシリーズに、比較可能な共通項として時間が秩序として存在するとしたのだ。
これはかなり有力な主張だった。

「Aシリーズ」には「A神学」が生まれる。これと「Bシリーズ」「B神学」はどう関わるのかが問題だ。
「伊豆の踊子」の学生さんと踊り子は俳優と女優がのちに「シリーズ」「神学」を作ることになるが、それらのシリーズを作った人たちも実はセックスをしているのが現実だ。
異なるシリーズ、異なる神学を持った人間が絶対的な時間の同時性を持つのが「共演」であり「首脳会談」である。神学を持った人間と話すということは絶対的な時間の同時性を持つことなのだ。
また、異なる「シリーズ」では時間の進み方の速さの感覚も異なるとされる。
A神学とB神学とでは「時間を止めるか止めないか」という観点から時間を空間に含めてしまうかどうかという発想の違いも存在する。
我々は「ルター」や「ソクラテス」の名前は知っているけど、今存在する日本人全員の名前を知っているわけではない。
現在あるものと、我々の認識の誤りの中に「永遠」というものがあるのだ。
「ソクラテス」と「紀元3000年」を見れるのは日本では「天皇」だけなのだ。これがローマ教皇よりも天皇を上位にする理由だ。

「タイムトラベル」に関してはスタンフォードは「おじいさん殺し」に注目している。
「おじいさんを殺すためのあらゆる手段を失って過去に戻るのか」
「おじいさんを殺すための拳銃も持って行けるけど何らかの自分の存在を保証する説明が必要なのか」
「そもそもタイムトラベルは不可能なのか」
この三つの観点に答えなければタイムトラベルの議論は成立しないとスタンフォードは見ているようだ。

結局、3次元(3Dビュー)と4次元(4Dビュー)というのは物の見方なんだよね。
空間と時間を感じるのは同じだけど、それを「同じ空間」と考えるのが3Dビューで、「違う空間」と考えるのが4Dビューなんだよ。
ひきこもりでも、ムチャクチャ勉強して学習すれば、3Dビューで同じ空間で見るよりも、4Dビューでその成長ぶりを眺めたほうがいいことがある。
時間と空間という発想から、「時間が違えばその空間も違う」という発想をとるのが4Dビューなんだよ。
その方が物事の見方がうまく行くという概念なんだよ。
「ソクラテス」と「紀元3000年」を見ろ。という言葉がある。
この「現在はない二つの要素」を頭に描くだけで、いろんな世界観が描ける。

【完】

ようやく俺の正体を明かす時が来たようだ

このブログの執筆者である私の名は小野光太郎だ。
天皇家に妻子を残し、一人で「法皇庁三等書記官」として、実質的に日本国法皇庁の見解を一人で仕切った男だ。その権威はもはや天皇をしのぐと言われ、皇室に妻子を残していることから、次期天皇の座を確定させている。天皇は法皇庁三等書記官が巨大な教団と化すのを見て、徹底的に攻撃してきているのだ。
これが俺の正体なのだ。
自分で見解を書けない天皇などあってはならない。
私は天皇家を追われ、ひたすら「法皇庁の見解」を書き続けたのだ。
それが俺を次期天皇としての基盤を固めさせた。
口座は天皇家に封鎖され、資金源を止められている。
しかし、その権威はもはや天皇をもしのぐとされている。
これが俺の正体だ。

実は、このブログの情報源である「スタンフォード哲学百科事典」を初めて見た時、たまたま英字新聞でローマ教皇のことを「過酷な知的労働者」と書いているのを見ていて、ローマ法王なら一人でこのくらいの事典は書けるんだろうなと思っていたのだ。
東大法学部出身の俺は、法律だけではどうしても動かない問題に直面しており、人文系に莫大な資金を投じているアメリカのスタンフォード大学の情報に頼ったのだ。
東京大学法学部は、統治機構の大学としては間違いなく世界ランキング三位には入るだろう。しかし、文学部は百位にも入らない。そのため、人文系は世界ランキング第四位のスタンフォード大学の情報を使った。
何度も言うが、天皇は自分の見解を自分で書けるレベルでなければならないということなのだ。
このことを記して、明日からも「法皇庁の見解」を書き続けたい。
これが俺の正体だ。

「過酷な知的労働者~ヨハネ・パウロ二世」

2012年6月17日 (日)

首脳会談をする理由と「情報」

「本当か嘘か」が「常識」と関わり、「許容限度内」であるか「抽象性」がどのくらいあるか、「真実」とどう関わるかが問われる。
これが簡単な物事すら難しくする。
「許容限度内」で人間というのは「利益になる情報」を「簡略化して」伝える。
同じ物事を観察しても、抽象の空間をうまく利用して情報を伝える。
「真実の情報」には強烈な敵がいる。「嘘の情報」も真実に劣らない強さを持っている。
最後には「規模の大きさ、建物の質、場所、気候、物理学的生物学的環境、労働力、技術、目的、安全、時間の制約」を考えながら話し合うしかない。
情報の構造にどのような制約があり、どのように許容されるか、リアリズムとどう向き合うか間違った情報とどう向き合うかなどを詰めていけば簡単になる。

2012年6月14日 (木)

「年寄りの復讐」

「孫」大泉逸郎
http://www.youtube.com/watch?v=Is5r1DPLX8s

年寄りは危険ゾーンだ。復讐の発信源は「私もそう欲した」「しかし時間はもう戻らない」というものを根拠にする。
もし後の世代が「私もそう欲した」「しかし時間はもう戻らない」と年寄りに感じさせる仕事をしたか、あるいはしようとしたのならば、年寄りは強烈な復讐を始めるのだ。
このメカニズムは理解しておいた方がいいだろう。

年金においては「世代間仕送り式」(賦課方式)という方式をとっていて、若い世代から高齢者世代に資金をぶち込むシステムをとっている。もしこれを積立方式に切り替えたら、「中年世代の反発が大きい」と日本政府は説明している。
しかし、その真実は「中年世代が年寄りの復讐を受けないために資金をぶち込んだほうがいい」という思想に根差している。
実際に中年世代で年金システムへの政治意思を実感している人は少ないだろう。
すべての発信源は「年寄りの復讐」という哲学を基盤にしているのだ。

2012年6月13日 (水)

「幸福」~スタンフォード哲学

「幸福」とはなんでしょうか。快適な経験と不快な経験の量の違いか、それとも、満足度なのか、それとも、感情の状態なのか。
傍系に生まれても「人生にポジティブなスピン」がかかっていれば幸せなのではないでしょうか。
どんな境遇であれ感情にポジティブなスピンがかかっていれば幸せなのではないかという説があります。
「幸福」とは、まず「繁栄」「いい生活」という立場と「心の状態」という立場があります。そのうえで、「国家との距離」を問題にします。日本国においては国民と国家の距離の遠さが国民を不幸にしているとも言われ、発展途上国では簡単に国を相手にできることからその方が幸せであるとも言われます。国家との距離も幸福にかかわります。
幸福をお金で解決すると「測定可能」であるけど、心の状態であるとすると測定が困難であるとされる。また、心の状態であるとすると他の人から嫉妬をされるのではなく同情されてしまうとも言われる。みなさんはこの動画を見てどう思われるであろうか。
議論はさらに発展し、「他の人に忠実であること」も幸福なのではないのかとされている。生涯夫に尽くすことすら幸せかもしれないのだ。
幸福は「快楽主義」「欲望理論」「客観的リスト理論」の三つの方向からアプローチされるのだ。
「快楽主義」や「欲望理論」は主観的なものであるけど、「客観的リスト理論」は、客観的なものに対して生じる。ソファーでポテトチップとコーラを飲みながら野球を見るという客観的なものに対して幸せを感じるのなら「幸福」は客観的にリストにできるだろう。
あるいは、自分の能力をフルに生かすというものも大ざっぱであるが客観的なリストに入れることが可能だ。
しかし、「客観」も結局は混乱しているのである。対立する陣営は異なる幸せを念頭に戦うし、経済評論家が「銀行」と言った時に、通常は資金の流れを頭に入れていて、それが幸せにつながることを知っている。いろんな意味で「客観的リスト理論」も詰めていかなければならないのだ。
近年のアメリカでの幸福に関する書籍は「心の状態」についてしか語っていないのではないかとも言われる。
幸福を三つに分けると「快楽主義」「人生の満足」「感情の状態」に分けられるとされる。
しかし、快楽主義は、快楽にしか焦点を絞っていないとされるし、人生の満足も、人生の一つの側面しか見ないことになる。感情に関しては「人に認められること」「充実していること」「安定していること」などが挙げられるが、結局は「いい雰囲気」という抽象的なものになる。
そのため、これらの三つの要素を混ぜ合わせて「主観的にいい生活を送っていること」を幸福と呼ぼうという道も模索されたようだ。
結局、快楽主義は我々は直感的に否定することができる。また、人生の満足も様々な出来事に満ちた人生を一言で表現することはできないとして説明としてはふさわしくない。
我々がなぜ「幸福」というものを議論するかというと、その議論が我々の利益になるからである。それならば利益になる明確な言葉として、私は「人生にポジティブなスピンがかかった状態」を持つことが好ましいのではないかということを現時点では指摘しておきたい。

スタンフォードの論文はまだ続きがあるわけだが、まず、「人生の満足」と「感情」のどちらが幸福というものを説明するのにふさわしいのかを対決させてみよう。
実は「人生の満足」という説明にはアドバンテージがあるのだ。
人生の瞬間を切り取っていいこと悪いことをとらえるよりも、人生全体を見たほうがより包括的に国としても国民の幸せを考えることができるということが挙げられる。まさに「ハッピーエンド」という言葉があるように、一生懸命働くだけの人生でも、老後が楽しめれば「いい人生だった」と人間は言えるものなのだ。
さらに、人生全体を考えるのならば「その人の判断」というものを評価し、尊敬を与えることができる。つまり、自由な空間さえ与えれば人生を幸福なものだったと思えるようにもなるのだ。
この二つの点で「人生の満足」を幸福ととらえることにはアドバンテージがある。
これを踏まえて、「感情」の側からは反撃しなければならない。
まず、人間とは人生において必ず「不愉快な思い」をしながら生きるものであり、人生全体を見たのではそれらの問題が解決できないではないかという反論がなされたのだ。
さらに、人間というのは、自分の人生全体を見渡して自分の幸福を考えてはいないという決定的な批判がなされた。その局面での不快感などを見ながら生きているという現実を踏まえなければならないのだ。
また、かなり感覚的な議論になるが、その人が人生において求めるものは各自で異なるために、似たような人生でも満足度が異なるという点も重要だ。さらに、90%の目標達成でも満足しない人もいれば、20%の目標達成で満足してしまう人もいる。
そのような批判が「人生の満足」を幸福であると説明する議論に浴びせられた。

そもそも、国家としては国民に「幸福」を与えようと思った場合に何に注目すべきだろうか。基本は「国家との距離感」「所得」「社会環境」だとされる。どんな異性と付き合うかまでは面倒は見ないのが国というものだろう。

大事な点は「高校を卒業した後に高校生活に悔いを残すことはあるけど、死んだ後に人生に満足できるのか」という視点だろう。

「人生の満足」という観点からアプローチするのなら、国がどのように満足を与えているかも考えなければならない。十分満足を与えている国ならばちょっとした「痛みに耐えられる」国になるし、満足していないのならばハードルを高く設定しすぎていることになる。ハードルの高さによって、より良い暮らしをしている国がそれより劣る国より不満を持つこともあるのだ。別の言い方をすると、ガンにかかった人は、かかる前よりも生きていることに喜びを感じるだろう。なぜなら、彼の美徳はもはや完全に視点が変わっており、貧しさや不完全性といったものよりもはるかに命の価値が高くなってしまうからだ。
生きている人間が過去に最悪の比較対象を持つことは非常にいい効果があるのだ。
自分よりいい暮らしをしている人を見たり、貧しい暮らしをしている人を見たりして、自分より幸福か不幸かを判断することは必ずしも正確な理解ではない。いい暮らしをしている人が実は妻や友人から憎まれていたらどうであろうか、あるいは本人が憎まれていることを知らなければどうであろうか。いろんな複雑な要素が絡み合って幸福や不幸は決まるのであり、必ずしも暮らしぶりだけではわからないものがある。
結局、幸福はもっと壮大なデータから比較するべきであり、世界の幸福や不幸に目を向けるのが自分の幸福の判断には必要になるということは指摘していい。
「JAM」The Yellow Monkey
http://www.youtube.com/watch?v=5YwATGyUwMc
この曲は、狭い日本国内で日本人同士のコミュニティーで幸福か不幸かを比べるのではなく、世界に目を向けて幸福か不幸かを見ているというのが正解のようだ。

では、快楽主義と感情を対決させてみよう。快楽主義の主張は明確である。これは認めなければならない。さらに、快楽主義に身をさらしても人間というものは案外失うものはあまりないのだ。しかし、心の深さに何が起きるかは見ておかなければならない。それだけ見ておけばこの論点は人それぞれが、異なった人生観を持っていたり、異なる感じ方をするため、ここでは指摘にとどめておきたい。

結局、「快楽主義」「人生の満足」「感情」に関しては、人生にポジティブなスピンをかけるということは念頭に置きながらも、この三つが複雑に幸福と関わっていて、人それぞれだということなのだ。
一つだけ言えることは、「国との近さ」を幸福と感じるためには、人間は選挙で最高権力者に涙を流させることで感じることがあるということだ。野田さんの涙で幸福を感じているようではまだまだ人生のポジティブなスピンは甘いだろうということは指摘しておきたい。

「人生にポジティブなスピンがかかってるぜ~笑いながらボートを漕ぐ三笠宮」
http://www.youtube.com/watch?v=7JJWPKcvXro

「幸福のサイエンス」
まず、幸福度を測定してみよう。
快楽度で測定してみたらどうだろうか。しかし、快楽にはいろんな種類があり、単純には測定できないし、快楽のあとに落ち込むことがあることを考えると、どうも快楽度という測定の方法は困難ではないかとされる。
また、人生を通じた快楽度を測定するとなるともはや人生は成立しないのではないだろうか。
そこで「友人の証言」を基準にしようという発想も生まれた。「笑っていた」「精神的に健康だった」「長生きした」などだ。
また、新婚さんは夫を亡くした人よりは幸福である。失業者は働いている人より不幸である。という具合にグループに入れて幸福度を測定しようという発想も生まれた。
しかし、グループ内部でも幸福の感じ方は異なるし、国家統治においてもかなり荒っぽい測定の仕方になる。
そこで、結局は「他人との比較」によって、より幸福であった、という具合に測定するしかないのではないかとも考えられた。
しかし、比較と言っても、他人の自己申告と測定する場合には不正確であるし、グループの分類にもバイアスが伴うのは否定できない。さらには、アメリカ人はフランス人よりもポジティブに物事を回転させているねという具合に大ざっぱにならざるを得ない。

このような議論は、人々がどれほど「幸福度測定」に失敗してきたかを示している。
結局、案外本人が幸せだというのならそれでいいのではないかとも言われた。
しかし、人生を通じての快楽も記憶が消えていくことから、本人の証言が何を根拠にしているのかも明確ではないし、現在の感情だけで幸福か不幸かを測定することも簡単に他人から攻撃されやすい測定方法となってしまう。
たとえば「ちょっとアンケートいいですか。あなたは今幸せですか?」と人に聞くとしよう。聞かれた人は、人生そのものを振り返って幸福だったかどうかまでは考えないだろう。人生に多くの憎むべきものがあったとしても「今、何に興味があるのか」について幸せかどうかを答えるだろう。
また、「幸せです」と答える人によっては「現在快適である」という意味であったり、「人生が全体としていいものであった」という意味であったり、「明確ではない」という意味であったりするだろう。
結局、「幸せ」という言葉自体が不明確なのであるから「あなたは幸せですか」と聞く方が不明確な質問をしているのではないかと指摘されている。
いろんな言語で「幸福」という意味の単語を調べて研究してみた人もいるようだ。

「幸せですか」という問いかけに、文学作品を調べてみると、自分が現在成長していることや、周囲の関係が良好であること、自分の意思が尊重されていること、他者との競争がうまくいっていることなどを見て答えていることが多いとされる。
受験生などで「いったい彼らの何が幸せなのだろう」と思う人もいるだろうが、このあたりに彼らの幸せもあるのかもしれない。
主観的には「価値があって意味に満ちている」ことを幸福と判断しているようだ。

経験的に人間の幸福感を調べてみると、「いいこと」と「悪いこと」の比率が3:1以上の割合でなければ人間は幸福感を感じないというデータもある。経験論から議論することも可能だ。

2012年6月11日 (月)

哲学者としてのブッダ

ゴータマは、仏教の教祖と位置付けられているが、哲学者として見てみると興味深い。
彼は、人間の「苦痛からの開放」を探求した人物であり、その苦痛の原因を探れば苦痛から解放されると考えたのだ。
しかし、その苦痛の原因を探るのはまさに高度な学問であり、仏教への道を高度な学問にした人物だ。
「ブッダ」とは「目覚めた人」という意味であり、苦痛からの開放の方法を知っている人だとされる。
仏教においては、ゴータマ以外にもブッダはいるとされる。
問題は「苦痛からの開放」であり、ゴータマだけがブッダではないとされたのだ。
しかし、高度な学問が要求され、それが仏教であるとしたという意味ではまさに教祖であった。
苦痛のない場所を涅槃と呼ぶが、ブッダというのは涅槃への道を知っている人という意味だ。では、ブッダの生涯から振り返ってみよう。
80歳まで生きた人だが、560BC~480BCまでだとされているものの、最近の研究では、405BCに亡くなっているのではないかとも言われている。
ネパールとインドの国境付近のシャカ族という裕福な家庭で妻子とともに暮らしていたが、苦痛から修行生活に入った。
彼は最初は苦痛から悟りへの道を求めたが、やがて瞑想から苦痛の開放の手法を学習し、45年間の間、弟子を指導した。
ブッダは、自分をあくまでも苦行者と位置付けていた。その方がその地域で人々の理解が得られたからだ。
しかし、ヴェーダやウパニサッドの描くような、「いい行いにはいい果実を、悪い行いには悪い果実を」という発想が人間の輪廻転生を描く世界観では、苦行というものがどのように説明できるのかという不満があったのだ。この不満を「ヘテロドクス」と呼ぶようだ。
ブッダは「私」「私のもの」という発想を捨てなければ、これらの伝統的考えを抜け出すことはできないと考えたのだ。
そういう意味では、現代の哲学から見ればブッダは明らかに哲学者としての合理性は失っていたのだ。
しかし、「最期に人間を救うのはこの境地なのだろう」と位置付けられ、ブッダをスタンフォードは高く評価しているのだ。
あらゆる哲学は実践がなければならないが、ブッダの場合は「私」「私のもの」という発想を捨てるということがどのように苦痛からの開放につながるかの実践がないという批判を受けた。
単なる形而上学であってはならないとされたのだ。
しかし、のちの世代の弟子たちによってその教義は洗練されていったのだ。
ブッダは没後一世紀ほどの間は、彼に関する記述は書かれていない。
しかし、その後、パーリ語やサンスクリット語となって書かれるようになった。
文献がないということも問題であったし、彼の語る言葉が超人のごとき人物像を求めていることも問題であった。さらには、口伝で伝わる間に多くの仏教徒によってセクトが分かれて、いろいろな解釈の対立が生じていたことも問題であった。
しかし、ブッダの影響がそれほどまでに大きかったからこそ、没後も語り継がれたというのが真相なのだ。
のちの仏教の発展は後継者の業績に委ねるとして、スタンフォードはブッダの実際の業績の分析を試みている。

ブッダの教えの核心は以下のものであると言っていい。
苦しみがある。
苦しみには原因がある。
苦しみは止まるではないか。
それならば苦しみを止める道を探求しよう。
これがまさにブッダの探求の核心なのだ。

ブッダの探求は、「私」「私のもの」という発想を捨てることに始まり、さらに「カルマと輪廻転生」にまで発展しているようだ。
しかし、現代の哲学からの評価を与えてこの論文は終える予定だ。

仏教において「苦」とは、痛みだけではない。フラストレーションや孤独、さらには移り変わる世の中で何かを望むことすら苦とされた。
これらを高いレベルでまとめて「苦」という言葉にしたのだ。
人生の状況や出来事の中で満足ができないことがある場合に生じるのだろうとブッダは考えた。
人生において「満足できない」ということはかなり普遍的なことであり、そのために「苦」という概念がかなりオープンな議論を可能としたのだ。

ブッダにとって「カルマ」というものがそれまでの「いい行いにはいい果実を、悪い行いには悪い果実を」
という輪廻転生の教えを脱するカギとなる概念として発展している。
発想としては「我々の一族は伝説からの教えを受けている」として輪廻転生を説明するセクトもあり、また、いろんな概念の再編を行うセクトもあったが、
ブッダの場合は「伝説からの教えを受けた」という発想が主流としてメインストリームになったようだ。
輪廻転生とカルマの研究をスタンフォードはこのようにとらえている。

ブッダは、苦に原因があり、それを止められることを知った。
その仕組みさえ分かれば、将来の「苦」もなくせるだろうと考えたのだ。
その「苦」の仕組みを「十二縁起」として明らかにした。
十二縁起という物事のつながりが苦をもたらしているのであり、それさえ理解すれば将来の苦をなくせるとしたのだ。
最後には「病気と死」があるが、これはもはや「輪廻転生」をうまく説明するしかなかった。

輪廻転生のサイクルから抜け出すためには、ブッダは感覚で分かる三つのもの、「苦」「移り変わり」「非自己」の三つをどう理解するかに求めた。
苦の原因に対する忍耐強ささえあれば「ファイナルリリース」(解脱)が得られるだろうとしたのだ。
瞑想によって行おうという解釈も生じたし、他にも方法があるはずだという探求もなされた。
「苦」「移り変わり」「非自己」という三つの要素が苦の原因であるとすれば、その所有者は「私」であり、そのことから「私」をなくすことを追求したのだ。
また、いかなる場面においても急進的であることは苦をもたらすであろうとしたようだ。

非自己は
①自己が不変のものであるのとしても、
②五感の作用は不変ではない。
したがって、非自己は存在する。
という具合にブッダは悟ったようだ。

「カルマ」を「我々の一族は伝説からの教えを受けた」と説明するのは非常にエキサイティングだね。
この曲は非常にいい。
KOKIA "karma"
http://www.youtube.com/watch?v=bYlhVhdd1CE

苦の原因に関しては、還元主義者は「日常」と「究極」の二つに物事を分けた。
通常我々が感じることができることを「車輪」に例えたのだ。
車輪のことを英語では「シャリオット」と呼ぶそうだ。
人生で通常感じる物事を「車輪」という比喩にしたのだ。
人生の車輪には喜びもあるしそれ以上の苦もある。そのなかに学問があり、「真ん中の道」の探求が行われた。
それが苦から逃れる方法だったのだ。
あくまでも比喩であるが、ブッダはその真ん中の道に「私」「私のもの」という発想が関わっていると考えたようだ。

ブッダは、苦から逃れる探求をするうえで、自分が五感の作用で感じることができないことを基盤にすることには批判的だった。
「ブラフマンに会った」という信仰者をも批判したとされる。
自分で感じることができることを基盤にしたという意味では哲学者だったのだ。

ブッダにとっては「苦」「移りゆく世界」「非自己」の三つが苦と向き合う上でのテーマであったが、非自己に関してはもう一つの方程式を立てている。
もし「自己」があるのなら、自己が変わることを望まないだろう。
しかし、五感の作用は変わることを望むことができる。
したがって、「非自己」は存在する。
ブッダにとっては「私」「私のもの」という発想をなくすことがあらゆる苦を除くための手段であったために、このような探求を行ったようだ。

人間は、ナイフで切られると痛みを感じるだろう。
はたして、「自己」というものが苦を感じる役割を果たすのかもブッダは探求した。
苦痛を与えられれば自己がなくても感じるのならば「私」「私のもの」をなくせばいいという議論は成立しないからだ。
このあたりの「苦」と「自己」の議論は詰めていかなければならないだろう。
それを受けて「カルマと輪廻転生」の議論にブッダは進んだのだ。
重要な点は、スタンフォード大学が、ブッダの「私」「私のもの」をなくせばいいという議論を「哲学者としての合理性を失っているのではないか」としていることだ。
しかし、人間が最期にたどりつく境地としては成立しうると位置づけているのが現状だ。
「カルマ」という概念を輪廻転生との関係で議論すると「わが一族は伝説からの教えを受けた」と説明されるが、ブッダは実際はかなり詳細な議論を展開している。
カルマとはサンスクリット語で「行動」という意味であり、行動は果実を求める。
快楽などの果実を求めて人間は行動するのだ。
行動は「体」「言葉」「心」の三つで行われる。
これらの行動が「カルミックな結末」を迎えれば輪廻転生からの解脱ができると考えたのだ。

ブッダは、結局、行動が求める欲望に対して、「欲望に無頓着であること」を求めたのだ。
ここに「私」「私のもの」という発想も関わってくる。
このような発想がはたして理性的なものであるかは検証が必要になってくる。
そこまでブッダの研究をスタンフォードは進めているのだ。

ブッダは、道徳に無頓着な「道徳的ニヒリズム」をもっともたちの悪いものであるとしていて、そのあたりの戒めを行ったようだ。
こうした彼の教えの合理性の検証資料は手元にあるが、ここでいったん議論はみなさんに委ねようと思います。

2012年6月10日 (日)

「プラグマティズム」~民主党凌雲会に見る意思決定

プラグマティズムとは、二つの流れがあるグループでどのように意思決定をするかの研究だ。
基本的に「タフな感情」と「柔らかい感情」がつねにあるとされ、タフな感情は「現実的」「悲観的」「非宗教的」な感情を基盤にしている。
一方、柔らかい感情は「理想主義的」「楽観的」「宗教的」な感情を基盤にしているのだ。
柔らかい感情は意思の自由を認め、教条主義的であり、タフな感情は運命論的であり、懐疑的だとされる。
この視点を基盤に、組織の意思決定の研究を進めていきたい。
プラグマティズムは、たとえば「ほとんど子供は科学的に生まれている」というように、経験主義にとらえることができる側面と、宗教的側面を持つ領域での判断に用いられるのだ。
物事の判断は完全なサイエンスではないことからプラグマティズムが生じるのだ。
真実への忠誠心と、ロマンティックな心の和解の試みであるともいえる。
サイエンスからは完全に答えが出ない議論において、現実的になるかロマンティックになるかという形而上学の議論がなされるが、それをうまくコンセンサスとして出すのがプラグマティズムなのだ。

【つづく】

2012年6月 2日 (土)

スタンフォードからみる「妄想」の哲学

この言葉を正確に理解する人間が政治的強者だ。大きく分けて二つある。
ハイソサエティの人に愛されているのではないかという妄想。
自分はすでに死んでいるのではないかという妄想。
この二つに絞るのが妄想の研究なのだ。
ハイソサエティの人に愛されているのではないかという妄想は、街で見かけた車のナンバープレートや、紫の色からすら人は感じるとされるのだ。
架空請求で「松潤からメールが来た」というのはこのポイントを標的にビジネスをしている。
さらに、自分はすでに死んでいるのではないかという妄想もある。風邪をひいたりしてひどい目に遭った後に、自分はすでに死んでいるという妄想に憑りつかれる人がいて、彼とキスをしても愛されているとは思いながらもリアリティがなく、自分がすでに死んでいるのではないかという妄想から抜け出せないそうだ。
この二つの妄想は「それを否定する証拠を突きつけるのが非常に困難」であるとされ、
この二つの妄想を基盤に研究は進んだのだ。
妄想というのは、非合理的なものであるが、いろんな研究が可能である。
ハイソサエティの人に愛されているために、他の街の住民で自分に敵対する者は街を出ていかなければならなくなるだろうなどという妄想まで生じるそうだ。
いろんな興味深い研究がなされている。
以下で書いていきたい。

妄想の研究は、「心」の哲学と、神経の研究である「精神医学」の哲学の二つの方向からアプローチされた。
どのように妄想は生じるのか。
一風変わった経験から生じているのか。
理性的に何かが欠落しているという苦痛からその妄想を信じているのか。
非病理学的に信じているものからそのディテールの新鮮さが形作られているのか。
妄想はなかなか精神病のような「人間の力の強弱」とどのようにつなげていいのかは明確ではない。
タモリ氏も「趣味は妄想」と冗談めかして言っている。

妄想は「意図的であるか」「理性的であるか」「自分が知っていることとどう関わるか」ということとも関わるし、知覚や認識、自分の意図的なふるまいとどう関わるのかという問題ともかかわってくる。
「経験」と「信じること」のどちらが先なのかという問題なのだ。

妄想はまず、人々と接することによって、「それが現実と両立しないのではないか」ということにさらされる。これは誰もが経験することであり、そうやって自分の境界線を作っていくのだ。
決して人間の力の強弱にかかわる病気ではなく、誰もが学習する作業だという説明がここでなされている。

妄想を精神医学の見地から分析しようとする手法もある。
精神分裂病などで妄想という言葉が使われるが、これらの妄想と健常者の妄想は、価値中立的に考えると、区別は明確ではない。
このことから、病人の妄想というものを病理学的に追及してみる発想がある。
「現在そこにないものを非合理的な発想で信じている」
「彼らの経験や環境を不確かな発想で理解している」
「病理学的には混乱しており落ち着かない物事の解釈をしている」
「発想そのものが社会人としては弱者の発想であり、ネガティブな存在である」
「脳の機能が歪曲されており、何かが欠落している」
このあたりで、妄想というものを病気なのではないかと精神医学の方面からは説明するしかないようだ。

この、妄想とは病気なのではないかという問題には批判がなされている。
たとえば、宇宙人に誘拐されたというような類の話は多くの人に共有されていて、非合理的ではあるものの、「そこにないもの」とは言い切れないという視点がある。
さらには、彼らの経験や環境から理解したことを案外正確に述べることがあり、「不確かな発想」とは言い切れないものがある。「混乱して落ち着かない」という点も同様である。
また、妄想を信じることをやめたら自己評価が一気に低下して自殺してしまう人もいて、必ずしも妄想をネガティブな発想とは言い切れない部分がある。
また、脳の機能の歪曲なども、物事の理解の核心部分に生じているとは必ずしも言い切れず、どのように「病気である」とするかは非常に困難な部分がある。
つまり、精神医学の世界から、妄想を病気であるとは必ずしも位置づけられないのだ。

妄想は「道徳」と関わる。有名人に愛されていると考える人は、自分が社会でそのように扱われないことからモラルに反した行いや犯罪を起こしかねないし、自分は二人いると考える人も「自治」をその人に委ねられるのかという問題が生じる。
そういうあたりは冷静にそのような妄想をする人と道徳の問題として考えていかなければならないだろう。

【つづく】

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