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2012年5月30日 (水)

「地獄」という概念で五寸釘を打て

「天国」という概念は、人に犠牲を強いることができる概念であるというのが発想の出発点だ。
「天国」にせよ「地獄」にせよ、生死に関与する概念であり、「お墓の向うに何かがある」という発想である。
この概念が、現実社会の人々に「いいふるまい」を求める役割を果たすのは事実なのだ。
天国と地獄というのはコントラストとして議論されている。
「罰」と「報酬」、「優美さ」と「報酬」、「慈悲」と「正義」などの発想が関わっているが、通常、天国というのは「褒美」と考えられがちである。
しかし、キリスト教社会においては「慈悲」と「優美さ」が強調されているとされる。
さらに、地獄と「罰」の概念も密接にかかわっているのだ。地獄に行く人はどういう人かという判断には「公正さ」「正確さ」があるといされ、信仰となる。
一度地獄に行ったら二度と出れないという発想には哲学的な問題が生じた。
イエスが死んで、復活を待っているために、地獄の人たちの一部は、イエスの教えを受けて一部は天国に行けるのではないかと議論されたのだ。イエスの死と復活がこのような議論を引き起こした。
「地獄」に関しては、基本的に「正当化されていない罰には誰も納得しない」という認識が基盤にあることを知らなければならない。
概念を作るうえでも必要な理解だ。さらに、その正当化は「神に対する間違った行い」を基盤にする。
「地獄」という概念に関しては、間違った行いがなぜ神を害するのかが議論になる。
ロックフェラー財団の財産を壊せばロックフェラー財団を害するし、ある子供に危害を加えれば親を害する。
しかし、間違った行いがなぜ神を害するのかはまさに説明が必要となる。
悪い行いが神を害するという説明が困難だということから議論が展開された。
神と人との関係を「親と子」の関係と同様に解釈したらどうなるだろうか。親は間違いを犯すものだし、子供も中年になったら完全に独立する。
そのような違いを踏まえると、幼い子と親の関係しか「人と神」と類似の関係は見いだせない。
しかし、神が生み出した人が悪い行いをして神を害するという説明は「幼いこと親」の関係から説明するという発想は当然あるのだ。
いずれにせよ、間違った行いが神を害するという発想が「死」という深刻な問題と結びつき、「罰」とも結びついた。
地獄の上記の説明は、キリスト教社会では新たな説明が求められたのだ。
「罰」という思想を基盤にしながら、どのように魂の不朽と両立させるのか、あるいは、生まれ変わって人生をやり直すという思想と両立させるのか、
あるいは、すべての人が神に平等に愛されているのではないかという思想と両立させるのか、を説明しなければならなくなったのだ。
地獄というものを「終身刑よりも重い罰」と考えることがまずは出発点である。
そのうえで、魂の不朽とこの終身刑を両立するためには「地獄というのは形而上学である」という発想が生まれた。
さらには、終身刑よりも重い罰を受けたのならば二度目の人生はないのではないかという発想には「では三度目はあるのか」という視点が持ち込まれた。
いろんな発想を持ち込んでは、地獄へ行く人には正義と公正さのある判断がなされているとして、現在生きている人に「ふさわしいふるまい」を行わせるのが地獄の研究の全貌だ。
地獄というのは終身刑よりも重い罪ですが、人間というのは、無限大の罰に値する罪を生きているうちには犯さないのが通常なのです。
無限大の罰に値する罪を人間が通常犯さない以上、結局、「死」が人間にとって最も怖い罰なのです。
結局、悪いことをしたら「ろくな死に方はしない」というあたりで地獄の議論は収斂して行っているのがスタンフォードの現状なのです。
一方で、神の判断を受けずに、「自分で地獄を志願している」と説明する立場があるようだ。そうすれば、二度目の新たな人生も説明が可能になる。地獄を終身刑よりもシビアな罰であると考えるのではなく、自分でその方向を選んだと説明する立場であり、このような説明も可能だということは指摘しておきたい。

「天国」というのを考えてみよう。天国に行くというのは罰を加えるのと異なり、判断に正義や公正さは求められていない。しかし、別の探求が必要になる。
天国がもし「幸福と祝福の場所」だと考えてみよう。非常に退屈な場所になってしまうのではないだろうか。
そういうイメージでとらえるのならば、もはや天国という概念は現世の人々に何かの犠牲を強いてまで行きたい場所ではなくなってしまう。
そのために、やはり、地獄の要素がより天国というものをいい場所にすることが分かっている。そうやって、よりよい「天国像」を作っていくには心理学にまで踏み込まなければならないのだ。
結局、幸福と祝福の場所が天国だとすればきわめて退屈な場所になってしまう。
このことから、地獄からの脱出という発想も生み出されたし、逆に、「自由と自治」という発想を持ち込んで、いい場所に住むのも悪い場所に住むのも自由に自分で決められるというのが一番の天国ではないかとされた。
いかに天国という場所をいいものにするかはまさに地獄の研究と共存しているのだ。
ここで考えてみましょう。人間は罪を犯しており、罪人の救済がイエスの仕事であったはずだ。これを踏まえると、これまでの天国と地獄の概念とどう組み合わせればいいのかが問題になる。神の要求を一定程度満たしていればいいとするのが一般的な見解となっている。あるいは、若い頃の過ちに対して贖罪を行えばいいのではないかとする考えもある。
結局、人間は「天国と地獄のどちらに興味がありますか?」と言われれば地獄に興味があるのが通常である。
仏教においても地獄絵図の研究は詳細になされているが、仏教界の中枢は「涅槃」とはどういうものかという問題に対して沈黙している。
人間は、自分に値しない贈り物は望んでいないし、背負う必要のない苦痛も望んでいない。
このことから、天国という概念をよりよく説明する発想は「神に愛されました」という結論にしたほうがいいとされる、そういう発想はまさに人間の神聖な動機であり、それでいいのではないかというあたりでスタンフォードも落ち着いているようだ。

頭のいい「地獄」の説明をすれば、人間は生きているうちに五寸釘を打ち込めるのだ。宗教界のコンセンサスが得られれば、人間は生きているうちに地獄に落ちる。
宗教はまさに学問のスポーツである。

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