最近のトラックバック

2019年9月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30          
無料ブログはココログ

Foreign Affairs

  • CFR: フォーリンアフェアーズ英語版

« 2012年4月 | トップページ | 2012年6月 »

2012年5月

2012年5月31日 (木)

スタンフォードからみる精神病

精神病というものは「法律によって狂気をどのようにコントロールするか」「罰を加えられるのか」という二つの点からアプローチされる。議論の出発点はこの二つだ。
思考や経験、感情などの混乱によって仕事ができないか、他者とのコミュニケーションができない状態の人を言う。
このラインで精神病を切ることは非常に有意義であり、相手の悪口で「キチガイ」と安易に言うことはできないのではないかということになる。正確な理解が必要だ。
統合失調症や躁うつ病、うつ病などの病気が挙げられるが、時には自傷行為は自殺など、自分に危害を加えることもある。
これらの病気の研究は西洋医学によって研究が洗練されたものであり、それ以外の地域では別の説明がなされていた。
西洋医学でも、超自然的力によって引き起こされると考えられたようであるが、他の地域では何かに憑りつかれてトランス状態になったのではないかと考えられたようだ。
西洋医学が翻訳されてから病名が定着するようになったのが正確な理解だ。
昔は、薬の効果も明確ではなかったために、精神医学なんて錬金術だという指摘もあった。
精神病という外部からは分からないトランス状態の人を「治療する」といったら、医者はまさに錬金術のように金儲けをしているだけだという指摘がなされたのだ。この指摘は極めて重要だ。
治せないのに薬を投与したり高額な施設に閉じ込めたりするのならばまさに精神医療は錬金術と同じだとされたのだ。
心は、肉体とは異なるものであるとして「病気ではない」とする見解はしかし共通認識にはならなかった。
なぜなら、精神病患者は、ホモセクシュアルや幼児愛、反社会的人格障害のように「文化の一員になれずに道徳的判断もできない」という意味では、健常な状態ではないという意味では見解は一致していたからだ。
また、ディスチミアのように「低いレベルでのうつ病」という中間状態が精神病患者と健常者の間に存在することも指摘された。
精神病に関しては多様な理解がなされたが、近代西洋医学においては科学的なアプローチがなされた。何かのトラウマの探求や、遺伝的弱さ、その病気に至る経路の探求などを脳の研究の発達を背景に深めていった。
これらの研究は治療を目的になされたものであるが、生物学的な低いレベルの研究と同時進行で行われた。
近代西洋医学のこれらの試みは、生物学的研究よりも高度なものと位置付けられている。
精神病を研究するうえで、まず一つの方法は「肉体的病気を比べてみる」という方法がある。
統合失調症や躁うつ病、うつ病、反社会性人格障害などを、ガンや骨折、インフルエンザ、ケガなどと比べてみると、「プロフェッショナルの競争力を落とす」という点で共通している。これは極めて重要な指摘だ。
ピアニストが統合失調症になったらもはや天才ではない。「プロフェッショナルとしての競争力を落とす」という現実を知らないといけない。
精神病の患者にプロフェッショナルの天才はいないという事実は理解しないといけないのだ。
肉体と精神の関係を探求することは精神病の研究に非常に有意義だ。
体のダメージは心に影響を与えるし、精神的な過度のストレスは体に影響を与える。
医学上は、肉体的外科的疾患のともなわないうつ病はないとも言われる。
しかし、不眠症や疲労はフィジカルなものかメンタルなものかは実は明らかではない。
痛みどめや風邪薬などの薬物の服用から不眠症になることもあるし、疲労は、インフルエンザのように体の病気につながることもあるし、うつ病のようなメンタルな病気につながることもある。
心臓麻痺や脳の損傷は記憶を飛ばすけれども、メンタルな病気とは言わない。ここで、心と体の関係を「神経」から説明しようという試みがなされた。
目が見えなくなることは視神経が損傷から起きることがあるが、これを誰もメンタルな病気とは呼ばないだろう。
しかし、脳は神経からできており、このことから考えると、メンタルかフィジカルは「脳か脳でないか」で区別するしかないだろうとも言われた。
私の議論は「心はハートにある」という立場ではなく「脳にある」という議論になっているのだ。

精神病のピアニスト。デイヴィット・ヘルフゴット。
http://www.youtube.com/watch?v=iUxzpNaBXAU

精神病を分析・分類するうえでは二つのアプローチが考えられている。
健常者と比べて何が違うのか。
患者が本当にやりたいことがどのようにできなくなるのか。
この二つのアプローチが詳細になされるのが精神病の分析・分類の方法だ。
精神病の分類はいろんな観点からなされている。
原因の探求が薬への依存を少なくするのか。
症状の探求。
神学を排除してトランス状態を説明する。
サイエンスからどこまで探求できるのか。
この四つの観点からいろんな病名が分類されてきた。素人には「トランス状態」としか分からないのだ。
フィジカルな病気だって「健常者と比べてみる」ことから病気であるかそうでないかが明らかになる。
その上で「仕事ができない」「他者とのコミュニケーションができない」というあたりで限界線を切って行ったらいいのではないかと考えている。
また、やりたいことがないのならば健常者も病人も同じではないかという指摘も重要だ。

この研究で明らかになったのは、「プロフェッショナルとしてのパフォーマンスを落としていないのなら精神病でも何でもねえな」ということを正確に理解しない人は言論界の弱者だということだ。
病気に関しては端的に「その人の力」で判断しようという発想もあるし、価値中立的に探求して行こうという発想もあるのだ。
いろんなアプローチが可能なのが精神病なのだ。

このジャブに対応できる奴は精神病院にはいない。精神病院は「男の仕事場さ」(北の漁場)
「スーパーハーンズ~右の世界観」
http://www.youtube.com/watch?v=D6JZZ3UGzmI

病人とは本来「力のない人間」であり、ヘロヘロの状態の人のことなのだ。
それ以外の連中はみんな仮病で病院の嫌われ者です。
次に入院するときはヘロヘロのふりをして俺のジャブの標的になれということです。それ以外は全員仮病です。

三浦市の福井記念病院には俺の「スイートサイエンス」(ボクシング)に立ちはだかってくる仮病がいっぱいいます。そいつらは「もはや俺の玉体を傷つけてはならない」ことを理解しているサンドバッグです。

これ以上俺を通院させることは「病人観察」のデータ収集を俺に続けさせるだけです。

精神病を「力の強弱」で判断するという見解には異論もある。強さという価値とは中立的に病気というものを見て行こうという見解だ。
そこでは「寿命」と「生殖能力」、「人間の本質」などをにらみながら、病名を発見していこうという発想がある。
精神病院をなぜかうろついているチンピラ連中の「寿命」「生殖能力」「人間の本質」などを見ていくといい動物観察にはなるだろう。

病気というものをどのように考えるかはいろいろな価値と関わる。
「寿命」「生殖機能」「人間の本質」をにらみながら病名を分類してみてもいろいろな問題がある。
子供のマスターベーションへの依存は「生殖機能」という意味では極めて健全であるが価値を持ち込むと好ましくないものと考えられるだろう。
逆に、ホモセクシュアルというものは「生殖」にはつながらないけど、「弱者狩り」という発想はハンティングが行われていた時代には「価値」があったのだ。時代の価値に依存してしまうのが病名であることになる。
このことから、やはり、病気は「力の強弱」で判断して行こうという方向性にも向かうわけである。

力を落としてなおこのパフォーマンス
http://www.youtube.com/watch?v=e1K-wUXCH_c

【つづく】

80種類の哲学攻撃~補足の4曲

「かもめはかもめ」は「死」や「敗北」がなければ人間の感情は何もかも乗り越えようとする哲学をうたっています。「死」「敗北」があるから人間の「怒り」は「落胆」に変わる。自分で敗北をしっかりと設定して落胆している情景が鮮やかに描かれています。サッカーでも2点ビハインドで残り1分になったら負けている方は守りにも回らない。そこにタイムが切られた敗北と落胆の哲学の瞬間があります。
http://www.youtube.com/watch?v=tYUCDfCj3c4

「夏をあきらめて」はいいですね。ゾロアスター教では「火と水は人を純粋にする」とされていますが、水によって感情が純粋になった人間の情景をうまく表現しています。ゾロアスター教の普遍的な部分なのでしょうね。
http://www.youtube.com/watch?v=6EW-ULHepuY

「未来の思い出に」人生のピークに舞い上がらずに「魂と肉体の同居」を心掛けてこの曲を聞くと、その人はおそらくモンスターに化けるでしょう。
http://www.youtube.com/watch?v=-R2ZLGv1GEA

「空も飛べるはず」「われ思うゆえにわれあり」(コギトエルゴスム)というのは、自分の心の探求は「誰にも知られない安全な作業である」という意味です。ヨーガはまさにデカルトのコギトエルゴスムの全知全能を感じる世界なのです。人間が全知全能でいられる「内省」という作業は二つの「直接性」があります。
①心に自然にわき出てくる。②価値に頼らない。という作業です。
記憶はいい記憶も悪い記憶もあるので「内省」の作業では用いません。この作業が人間を全知全能にします。ヨガで全知全能になれる
http://www.youtube.com/watch?v=l7RSwnxathQ

「夢だけ見てる」CoCo
本来、病人とは「力のない人間」であり、うつ病の人間には何も実現する力はない。そういう力のない世代に、一定の支持を受けた「むなしさだけがともなう曲」である。人生には積み重ねた真実がなければ目的の達成はなく、自分の位置を正確に他人に発信させるという作業を行いながらプロジェクトは進行していく。
そういう基本を完全に喪失していた時代の若者がこの曲を「CoCoのベストソング」に選出している。ニーチェの「ツァラツストラはこう語った」を完全に忘れた時代に若者はこの曲を聴いてしまった。
http://www.youtube.com/watch?v=uIe5rS7itUk

「リフレイン」中森明菜
人間は「死よりももっとひどいことがある」ということを示す悲劇を見ると死の恐怖が克服できるとされています。この曲は、直接的ではない方法でそれを示しています。死の恐怖と戦っている人は聞いてみてください。いろんな楽曲製作の実験が可能なフィールドです。
生きる死ぬの勝負にはこの曲が効く。
ボーダーラインの勝負にいいと思う。
http://www.youtube.com/watch?v=ymPzUL7H_s0

「今日をこえて」岡林信康
人間は他者に心をかき乱されながら生きていく宿命であるし、他人に自分の位置を教えてもらう生き物であるが、時には周囲からの「戦術的・劇的攻撃」から自分を守らなければならないことがある。
そういう時はもはや「自分だけは特別だ」という意識が必要となる。
http://www.youtube.com/watch?v=6qkMTYO9NS4

2012年5月30日 (水)

「地獄」という概念で五寸釘を打て

「天国」という概念は、人に犠牲を強いることができる概念であるというのが発想の出発点だ。
「天国」にせよ「地獄」にせよ、生死に関与する概念であり、「お墓の向うに何かがある」という発想である。
この概念が、現実社会の人々に「いいふるまい」を求める役割を果たすのは事実なのだ。
天国と地獄というのはコントラストとして議論されている。
「罰」と「報酬」、「優美さ」と「報酬」、「慈悲」と「正義」などの発想が関わっているが、通常、天国というのは「褒美」と考えられがちである。
しかし、キリスト教社会においては「慈悲」と「優美さ」が強調されているとされる。
さらに、地獄と「罰」の概念も密接にかかわっているのだ。地獄に行く人はどういう人かという判断には「公正さ」「正確さ」があるといされ、信仰となる。
一度地獄に行ったら二度と出れないという発想には哲学的な問題が生じた。
イエスが死んで、復活を待っているために、地獄の人たちの一部は、イエスの教えを受けて一部は天国に行けるのではないかと議論されたのだ。イエスの死と復活がこのような議論を引き起こした。
「地獄」に関しては、基本的に「正当化されていない罰には誰も納得しない」という認識が基盤にあることを知らなければならない。
概念を作るうえでも必要な理解だ。さらに、その正当化は「神に対する間違った行い」を基盤にする。
「地獄」という概念に関しては、間違った行いがなぜ神を害するのかが議論になる。
ロックフェラー財団の財産を壊せばロックフェラー財団を害するし、ある子供に危害を加えれば親を害する。
しかし、間違った行いがなぜ神を害するのかはまさに説明が必要となる。
悪い行いが神を害するという説明が困難だということから議論が展開された。
神と人との関係を「親と子」の関係と同様に解釈したらどうなるだろうか。親は間違いを犯すものだし、子供も中年になったら完全に独立する。
そのような違いを踏まえると、幼い子と親の関係しか「人と神」と類似の関係は見いだせない。
しかし、神が生み出した人が悪い行いをして神を害するという説明は「幼いこと親」の関係から説明するという発想は当然あるのだ。
いずれにせよ、間違った行いが神を害するという発想が「死」という深刻な問題と結びつき、「罰」とも結びついた。
地獄の上記の説明は、キリスト教社会では新たな説明が求められたのだ。
「罰」という思想を基盤にしながら、どのように魂の不朽と両立させるのか、あるいは、生まれ変わって人生をやり直すという思想と両立させるのか、
あるいは、すべての人が神に平等に愛されているのではないかという思想と両立させるのか、を説明しなければならなくなったのだ。
地獄というものを「終身刑よりも重い罰」と考えることがまずは出発点である。
そのうえで、魂の不朽とこの終身刑を両立するためには「地獄というのは形而上学である」という発想が生まれた。
さらには、終身刑よりも重い罰を受けたのならば二度目の人生はないのではないかという発想には「では三度目はあるのか」という視点が持ち込まれた。
いろんな発想を持ち込んでは、地獄へ行く人には正義と公正さのある判断がなされているとして、現在生きている人に「ふさわしいふるまい」を行わせるのが地獄の研究の全貌だ。
地獄というのは終身刑よりも重い罪ですが、人間というのは、無限大の罰に値する罪を生きているうちには犯さないのが通常なのです。
無限大の罰に値する罪を人間が通常犯さない以上、結局、「死」が人間にとって最も怖い罰なのです。
結局、悪いことをしたら「ろくな死に方はしない」というあたりで地獄の議論は収斂して行っているのがスタンフォードの現状なのです。
一方で、神の判断を受けずに、「自分で地獄を志願している」と説明する立場があるようだ。そうすれば、二度目の新たな人生も説明が可能になる。地獄を終身刑よりもシビアな罰であると考えるのではなく、自分でその方向を選んだと説明する立場であり、このような説明も可能だということは指摘しておきたい。

「天国」というのを考えてみよう。天国に行くというのは罰を加えるのと異なり、判断に正義や公正さは求められていない。しかし、別の探求が必要になる。
天国がもし「幸福と祝福の場所」だと考えてみよう。非常に退屈な場所になってしまうのではないだろうか。
そういうイメージでとらえるのならば、もはや天国という概念は現世の人々に何かの犠牲を強いてまで行きたい場所ではなくなってしまう。
そのために、やはり、地獄の要素がより天国というものをいい場所にすることが分かっている。そうやって、よりよい「天国像」を作っていくには心理学にまで踏み込まなければならないのだ。
結局、幸福と祝福の場所が天国だとすればきわめて退屈な場所になってしまう。
このことから、地獄からの脱出という発想も生み出されたし、逆に、「自由と自治」という発想を持ち込んで、いい場所に住むのも悪い場所に住むのも自由に自分で決められるというのが一番の天国ではないかとされた。
いかに天国という場所をいいものにするかはまさに地獄の研究と共存しているのだ。
ここで考えてみましょう。人間は罪を犯しており、罪人の救済がイエスの仕事であったはずだ。これを踏まえると、これまでの天国と地獄の概念とどう組み合わせればいいのかが問題になる。神の要求を一定程度満たしていればいいとするのが一般的な見解となっている。あるいは、若い頃の過ちに対して贖罪を行えばいいのではないかとする考えもある。
結局、人間は「天国と地獄のどちらに興味がありますか?」と言われれば地獄に興味があるのが通常である。
仏教においても地獄絵図の研究は詳細になされているが、仏教界の中枢は「涅槃」とはどういうものかという問題に対して沈黙している。
人間は、自分に値しない贈り物は望んでいないし、背負う必要のない苦痛も望んでいない。
このことから、天国という概念をよりよく説明する発想は「神に愛されました」という結論にしたほうがいいとされる、そういう発想はまさに人間の神聖な動機であり、それでいいのではないかというあたりでスタンフォードも落ち着いているようだ。

頭のいい「地獄」の説明をすれば、人間は生きているうちに五寸釘を打ち込めるのだ。宗教界のコンセンサスが得られれば、人間は生きているうちに地獄に落ちる。
宗教はまさに学問のスポーツである。

「くれそうでくれぬものなり」の解決法~スタンフォード哲学

「コミュニティーの力の最大化とフリーライド」~くれそうでくれぬものなりの解決法。
コミュニティーがあるとすれば、特定の人物が優れたパフォーマンスを公的空間で行う。周囲はその力の最大化に協力するのが正解だ。
そのキーパーソンの足を引っ張る奴はコミュニティーにとって有害でしかない。
そのうえで、ベストのパフォーマンスを行う人間を輩出する。
それがうまく行けばコミュニティーは、キーパーソンが行ったパフォーマンスから得たものを自分たちがもっているものとうまく「交換」することでそのコミュニティーは安全が守られる。
その「交換」を行う手段は「民主的であること」に求めるしかないようだ。
民主的であることというのは「エリートの意思決定の質を周囲が高める」という意味であるが、私の経験では、実家に帰った時に母に「風呂にゆっくり浸かってくださ~い」と言われた時などはまさに「民主的」な要素がうまくいったと感じた。
その交換がうまく行くことを保障するのがうまくできたルールであり、それがなければならない。
他のコミュニティーに貢献しないメンバーだって自分の利益を求めて行動するが、うまくそれをルールに織り込んでいかなければ交換はうまく行かない。
反則をやって交換を求めたならば道徳の問題と直面する。
道徳やルールにしたがって一部のメンバーが獲得したものと交換するのがそのコミュニティーの
安定と繁栄をもたらす。
必要なのは道徳とルール、そして民主的であることだ。
それなくして、分け前にあずかろうするのならば、その交換はうまく行かないし、
まさに「くれそうでくれぬものなり」で終わるのがコミュニティーというものだ。
うまく、道徳やルール、民主的であることを理解すれば、コミュニティーは繁栄するが、高度な学問を踏まえなければならないし、いかにコミュニティーの力を最大化するかを考えるリーダーが必要になる。
それがなければ自分の利益しか求めない他のファクターには失敗だけが残る。
道徳とルール、民主的であることを踏まえないと、突出した人間の分け前にはあずかれないのだ。
不満が残れば、いろんな意味でコミュニティーの失敗が待っている。

検証:民主的というと「キーパーソンの質を高めるのに協力する」というのが本質であるが、例えば生活保護の問題を引き起こした河本準一さんの事例を考えよう。彼のお姉さんは、弟さんを「準君」と呼んでテレビで髪をバッサリ切り、「準のためにやっているんです」と本音を漏らしている。
その時のことを「お金がほしかったですからね」と証言しているが、高田みづえに似ているとされてこの曲まで歌わされている。
「そんなヒロシに騙されて」高田みづえ
http://www.youtube.com/watch?v=e_fzhoTve_U

2012年5月28日 (月)

「さだまさし・グレープ ベスト」をスタンフォード哲学で斬る

雪の朝」教会建築のコンセプトに、1月の月と凍った森を要求する考えがある。これは人間がすでに失ったはずの自然が人間社会にいまだに残っているということが人間の心に強烈に働きかけるからだ。この曲の冬の経験にも何らかの「深さ」があり、宗教体験ともかかわる発想だ。もはや宗教の側からは「深い経験」と「宗教体験」の区別は「手順」「苦労」の必要性だけでしかできないとも説明された。

精霊流し」人間は喪に服す時期が長ければ長いほど伝説になる。また、人間は死んだ後も自分のことを覚えておいてもらいたいと願って様々な信仰が生じる。この曲は、1年後にも「あの人」のことを覚えていることで彼の存在を伝説化したいという願いが込められている。また、彼女たちのコミュニティーは「若くして死ぬこと」がどういう害悪を周囲にもたらすかを学習しており、「自分が死んだときにも同じことが起きる」ことを知った。その学習への感謝の気持ちも込められているのだろう。

追伸」情報はコミュニティーの正当化であり、秘密の共有は仲間づくりである。髪を切ったという情報すらコミュニティーづくりには有効なのである。
また、ファッションは自分と社会の関係を決める意味合いを持ち、女性のみならず男性も社会との関係をファッションで決定しているのだ。重大情報だ。

ほおずき」自然の中に住む人は環境に強い影響を受けるが案外に無関心なものだ。しかし、いったん利害関係が生じると強烈なリアクションを見せる。また、自然の中にいない人でも感情から環境の問題に反応する人も大勢いる。知的な側に立っていかにこれらの層に働きかける発信力をもつかがまさに環境の政治学である。

朝刊」人間の心は「イメージ」「言語」「シンボル」の三つが混在しているとされている。朝起きるために彼が実にいいイメージ・言語・シンボルをもっていることを意味する。
これが彼の心を前向きにしているから朝早く起きれるのである。人の心を前向きにさせるのは人気の奥義である。

無縁坂」祭壇にお供え物をするのは「親に食事を与えるのはいいことだ」ということを示す儀式である。まさに孔子が研究したのはこのような儀式であり、孔子の美徳が強調されるようになったのはのちの時代のことである。儀式こそが勝者と敗者の和解に必要なのだとされた。

紫陽花の詩」この曲も自然の美や環境の方面からアプローチできる。

ひとり占い」我々は万物の創造主が作ったとされる宇宙で「その時」に命を授かっている。命を授かった時に万物の創造主がその日にどのような意味を与えていたのかが「占い」の基本思想である。

春への幻想」愛を誓い合った二人も、その誓いは永続しない。そのために二つの解釈が生じている。「その時は本気でそう思っていればいい」という考えと「一定の方向性を示していた」というものだ。これが永続しない「愛の誓い」の解釈として示されている。

あこがれ」善というものが人間に動機を与えている。しかし、結果として善であるか悪であるかはあとになって分かるものだ。この「再編成」のことをニーチェは「ルサンチマン」と呼んだのだ。良かれと思ってやったことでも悪になることがあるのはこのためだ。

交響楽」交響楽というのはパートのミスはあまり聴衆は気にしないものだ。全体のイメージを聞くものだとされる。美しさは「感じるもの」というのが経験論であり、しかし、現在では「何らかの言葉での説明が必要」とされている。

」人間が死の恐怖を克服する方法に「死よりもっとひどいことがある」という悲劇を鑑賞することが有効であるとされる。

19才」高校を卒業しても、人々が歴史を踏まえて理解してきた物事の積み重ねは大学にある。彼女の両親も自分たちのムラ社会から普遍性をもった存在を出したいと願って大学進学を求めるのだ。
教育と権利意識こそがムラ社会をリベラルな政治コミュニティーにしていく。

縁切寺」恋人との愛は永続しないが、妹への愛は永続する。これが「エロス」と「アガペー」の問題であり、皆さんも考えてみたらどうであろうか。愛の議論はこれに始まります。ここから出発しない愛の議論はないのです。

フレディもしくは三教街?ロシア租界にて?」ロシアの人間は酒が好きで快楽に無頓着であるが嘘を嫌うとされる。しかし、支配されることも嫌うそうだ。南の人間はそれに対して、快楽を好み、痛みを嫌うとされている。北と南が接することはいろんな意味で興味深い。フランスのモンテスキューはそう見ていた。

線香花火」この曲は、移りゆく権力、変わりゆく関係を美に昇華した「もののあはれ」を表現したものだ。さらには化野(あだしの)の露や鳥鍋山の霞のように常に変わらないものを星空にたとえている。美しい日本の美だ。

雨やどり」は、人生を環境が決めたという20世紀後半の主流派の人生を表現している。彼女の結婚は周囲との葛藤が非常に少なく、実はお見合い結婚と同様に周囲に葛藤を引き起こさない良いものであることを示している。

吸殻の風景」彼が自分を偽るという行為によって彼女と良好な関係を築き、また、多くのものを学習していく姿をタバコにたとえている。それを彼女の目から見ている情景だ。自分を偽るという行為は物事を学習するのにも有効だし、仲間に参加するのにも有効なのだ。

案山子」この物語のキーワードは「情報」である。便りを都会に出た男が実家に伝えるかどうかで実家と男のどちらに正統性があるのかを争っている。それをのどかな表現で歌っているのだ。男が便りをよこさないと実家はカネを送らないだろう。男には「大学」という普遍性があるが、実家はカネを持っている。そこでコミュニティーの再編が行われるのだ。

桃源郷」農地委員会に守られた農村コミュニティーにおいて、のどかに男を待つ女性の自然の時間の流れを表現している。若干時の流れにカオスを投げながらも待っているようだ。

檸檬」色というのは人々の共通の経験を基盤に分類されている。さだまさしの「レモン色の経験」を描写した作品である。

異邦人」思い出を写真という外部記憶に残そうとして彼との思い出の場を旅する女性を描いている。外部記憶や約束は人がものを覚えるためにある。嘘は人に高度な学習をさせるものである。

童話作家」児童文学というものは、児童がストーリを追いかける能力しかないために、ストーリにいかに哲学的問いかけを混ぜ込むかがポイントであるとされている。幻想的な風景を児童文学だと考えている限り彼女の夢は遠い。

指定券」いき(粋)というのは九鬼周造がまとめた概念である。この二人の別れは、まるで芸者と男の関係を表現した武士道の戦いにおける「美体」「意気地」「諦め」などの「いき」を表現している。このいきも諸行無常に基盤があり、「甘み」「渋み」「派手」「地味」「上品」「下品」などの日本の美に発展していった。

つゆのあとさき」きれという概念は白隠が「その生命から切り落とす」という発想を基盤に考えた。華道などに見られる。竜安寺の石庭のように不動の岩に鳥がとまったり、光や影のコントラストができたりするように、独立した物事が縁起を示すことを「きれ」という。この日本の美を示したものであろう。

飛梅」自分のピークがいつかというのは人を選ぶ基準であるが、それをあとは下るだけであるということを明確にした人は選ばれることはないのだ。「ほのめかし」というのは、自分より格上の人間が入ってきたときに弱者が使う技術であるが、暗黙の裡に強者に「~すべき」ということを要求しているとされる。

晩鐘」さびというのは本来「人がいなくなること」を意味し万葉集などで多用されたが、それが錆びた貫禄を意味するようになったようだ。安定だけでなく老いた者の貫録なども意味する。歳をとるだけでなく知恵や貫禄を身につけることを美しいとしたのだ。

フェリー埠頭」満開の桜、満月などを本来の姿ではないとして、散っていく桜に美を見出すことを「わび」というのだ。限られた空間で不遇をかこっても決して多くを望まないことを茶道などでは美しいとした。狭い空間で自分は何でもできると思いつつも自分には何かが欠けている。それが学習の出発点だ。
なお、「女言葉」の起源は父親を去勢させるために生まれたとされている。人を褒める行為も基本は相手の去勢にあることが多い。感じてみてほしい。

秋桜」父と娘の変わっていく関係にもののあはれを見出したのは小津安二郎であるが、母と娘の関係においてこれを表現したのはさだまさしだった。

主人公」幽玄というのは暗さとミステリアスさを意味し、「想像力をかきたてる」ものであるとされており、東アジア圏では創作の源であるとされている。鴨長明はそれを「秋」に見出している。


2012年5月23日 (水)

泉谷しげる「ベスト盤」をスタンフォード哲学で斬る

春夏秋冬」はいいですね。終末思想とは人間の努力を否定する効果を持ち、権力批判という意味合いを持ちますが、この曲は「今日ですべてが始まる」という非常にいいメッセージを含んでいる。

長い友との始まりに」は、楽しみを共有する、能力を共有する、美徳を共有するという友情においては「対等である」ことが絶対条件となる。長い付き合いをするうえではこれを踏まえなければならないことを表現している。

翼なき野郎ども」は、将来の何かに「価値」を置いて、自由と不安の中に放り込まれた野郎どもが静かに野心を燃やして今後の道を模索していく様子を描写している。人間は「他人が自分の位置を教えてくれる」ということだけは忘れてはならない。正確な位置を周囲に発信させるのが重要だ。

永遠の約束」は、そもそも約束というのは覚えておくために交わされるものであるが、記憶のメカニズムでも忘れられないものだとされる。その「覚えておくこと」を強烈に誓った曲である。

ハレルヤ」は、差別について語っている。差別というのは特定の価値を悪であるとみんなが共有できるというメリットが実はあるのだ。しかし、子供のためにはならないとされる。それ以外の議論は完全に答えのない議論として多くの論陣がはられている。

激しい季節」は、突出しようとする人間には、全人類の平等を志向する人々の嫉妬という名の正義が襲い掛かることを示している。嫉妬にも正義があり、突出する人間には強さや激しさが求められることを歌っている。

流れゆく君へ」は「君」が自分の殻に閉じこもっている限りは全能であるものの、いろんな人たちに心をかく乱されながら生きているその人生を歌っている。それが人のあり方であるとしている。

行きずりのブルース」は、人をどのように選ぶのかを語っている。ルックスがいいのか、能力があるのか、何を語ったのか、何を書いたのか、どんな声をしているのか、あるいはバックに何かがついていたのか。さらには人を選ぶ上では禁止事項もあることを知らなければならない。また、いつピークを迎えるのかを長期的に見るのか短期的に見るのかという視点も重要だ。

黒いカバン」は、権力は基本的に何でもありの世界であるという認識をもとに法律を作っていかなければならないという基本を歌っている。それが権力の歴史であり、それを面白おかしく歌ったのが泉谷の功績だろう。

なぜこんな時代に・・・」は、普遍性・神聖さは歴史的に人々が評価・理解してきた物事の積み重ねを踏まえなければ生まれないことを表現している。その情報の発信源は大学にあるのだが、学歴がなければどれだけイラつくかを示している。

世代」は、一時代を築いた人たちは次の世代に何を残すかを語っている。DNAトランスミッションだけではない。文化も伝えたいのだという上の世代の願いを強烈に示している。

ハードレイ」は、小さな町では全知全能である男が普遍性を強く求めている歌だ。普遍性とは何だろうか。学歴なのか。それともほかに何があるのだろうか。それはやはり「歴史や伝統と何を共有するか」にあると思われる。

眠れない夜」は、人間は通常は、薬の服用かアルコールの服用などの医学的理由がなければ生活のリズムは壊れないとされている中で、自分がなぜ眠れないのかが分からない男を描いている。風邪薬か痛み止めでも飲んでいたのだろう。

白雪姫の毒リンゴ」今日という時間を設定したらあとは物事が自然法則にしたがって流れる。その自然法則に逆らうにはあるカオスを投げ込まなければならない。それが泉谷にとっては「毒リンゴ」だった。
人間を潰すのは簡単だ。戦術的劇的混乱を頭に引き起こす言葉を浴びせるだけでライバルは潰せる。受け止める側もそれを覚悟して割り切っていかなければならない。

春のからっ風」は、どんなに不遇な境遇でも「魂と肉体」が同居していれば、贅沢に身をさらして心を拡散させるよりも人は学ぶことが多いという哲学を示している。

土曜の夜君とかえる」は、狂気を含む言葉である「愛」という言葉を使用せずに、うまく愛を表現している。


2012年5月22日 (火)

加藤登紀子の「GOLDEN BEST」をスタンフォード哲学で斬る

ひとり寝の子守唄」もいいですね。4歳にならない子供は意識があまり明確ではないとされていて、また、乳児は「おしっこ」を通じて外界との関係を学習していきます。これを「エゴを学習する」といい、言葉を覚えると同時におもらしをコントロールできるようになります。

知床旅情」は、実は死生観と関わっていると思います。「霊魂が抜ける」にせよ「復活」にせよ、「俺たちのことを思い出してくれよ」という思想を基盤にしているのです。だからこの曲は死生観と深くかかわっていると思います。

琵琶湖周航の歌」もいいですね。風景や環境をアートとみなすようになったのはヘーゲルあたりで、18世紀ごろです。それ以前はみんな当然のように自然の中にいました。その環境がアメリカに流れ込んで地理や地質学などの学問が発展したのです。非常に興味深い曲です。

愛のくらし」もいいですね。人を好きになるのは「その人が持ち合わせているものに対して自分の感性が弱かった」からだとされるが、兄弟への愛の永続と恋人への愛が永続しないことが愛の重大テーマです。犬を愛するがごとく恋人を愛して永続しない愛を良く表現している。

灰色の瞳」は、同じ時間に空間を異にする「あなた」と、まったく異なる行動をしているという「特殊相対論」「一般相対論」の人間関係のすべてを表現しています。この関係を宇宙にまで広げて光と重力を尺度にしたのがアインシュタインです。

リリー・マルレーン」も哲学ですね。「赤い唇」が彼女と社会の関係を決めて、戦場に出る男たちとの関係も決めた。そのあたりに哲学があると思います。

鳳仙花」もいいですね。重さの反復が最高です。世の中にはいろんな「ムラ」があって、その中に「全知全能の人」がいる仕組みですが、その全能者に与えられる課題が「重さを持ち上げること」「繰り返すこと」です。この曲の重さはいい空間を作っています。ムラの全能者はムラのイデオロギーを決める資格を持つので怒らせるとろくなことになりません。

この空を飛べたら」は祈っただけでは高みに行けない現実がある一方、エブラハムのように神学的評価を得て地球より重い価値を持ってしまう人もいるという世界で、ニーチェが「努力なき重さはない」とした世界観について語っていると思います。

ANAK息子」は、子供は段階(ステージ)を登って成長していくものであるという文部科学省の認識の基本を踏まえた作品です。子供はステージを登っていくのです。ルソーがエミールで明らかにして教育の世界の共有財産になっています。

時代おくれの酒場」は人間の本質を示す最も重要な曲です。あらゆる人生に疲れた人も「人生に卓越を望んでいる」という事実があるのです。これを知るだけでいろいろな人の本音や行動が分析できるのです。素晴らしい曲です。

難破船」も興味深い曲です。嫉妬とジェラシーは意味が違います。ジェラシーというのは「自分が愛する人が別の人に愛情を持ってしまう」構造から生まれるとされ、通常の嫉妬とは異なる説明がなされるのです。ジェラシーを歌った曲として意味があります。

陽ざしの中で」は太陽信仰を本質とする日本人が「永続しない愛」「狂気を含んだ愛」「犬を愛するがごとく人を愛する」情景をうまく表現しています。

百万本のバラ」という曲はもはや「評論は聖域」とされているそうですが、あえていうと「女優」という神学的評価に惚れた貧乏絵描きが「神学的評価」と「現実」の区別がつかずに神学に大金を捧げた曲であると私は解釈しています。皇后美智子にひれ伏す人間は貧乏絵描きだということです。それを見抜く学問の神髄です。

愛さずにはいられない」という曲は面白いです。女性の性欲の発信源は「子供を産みたいという気持ち」だとされていますが、写真や雨などの「外部記憶」に昔の男性を思い出しながら他の男性と触れ合う女性を描いています。

LOVE LOVE LOVE」も興味深い曲です。「愛」という言葉には狂気が含まれるのでなかなか美しい表現は難しいと思いますが、その「狂気」を含む概念を歌にすることの難しさを感じさせます。

Revolution」はいいムーブメントイメージを持っています。今は貧困層も左翼には走らない構造があり、愛という言葉にも狂気が含まれる。そんな中で「何が重要なのか」を情報の洪水の中で見抜いていこうという歌のように聞こえます。

18の頃」は、社会に認められたいという欲求を持つ年ごろを良く表現しています。大人になったら「そういう夢を見た」という記憶しか残らないこともよく表現している。非常にいい曲です。自由は不安があることから証明されます。

雑踏」はいいですね。季節が変わっても「あなた」を思い続ける。記憶は人間の同一性を意味します。どんなに季節が変わっても同じ記憶を持ち続けることが同一性だとすれば、日本人が時代劇という記憶を共有していることにも似た意味を持ちます。

さくらんぼの実る頃」は、哲学です。「大人の男の魅力」とは「美少年が成長していくたびに失うものがある代わりに獲得するもの」にその本質があるとされています。それを巧みに表現しています。

時には昔の話を」は記憶のメカニズムを良く表現しています。物事を覚えた時と条件を同じにすると物事を思い出すとされていて、この曲は昔のエピソードを思い出す空間をゆったりと表現しています。

美しき20歳」はいいですね。ルソーによると「人間は21歳になるまでは教わったことしかできない」とされていて、ようやく自分の意思で世界に働きかけることができるようになる年齢の発想を良く表現しています。

バラ色のハンカチ」は受験勉強の奥義を表現しています。物事を思い出す時はそれを覚えた時と条件が同じになった時だとされています。試験場と同じ「時間空間」を膨大な量確保した者がものを思い出します。外部記憶が「試験問題」=「ハンカチ」となります。

島唄」は沖縄の命を表現しています。戦争中に日本軍は対米戦争遂行のために食料を必要とし、軍にとっても貴重な手りゅう弾を島民に与えて「口減らし」のために自殺を命じています。これが大江健三郎が明らかにした「沖縄の秘密」なのです。この曲は命の重さを歌っています。

川は流れる」もいいですね。特定の時間を設定したらあとは自然法則にしたがって物事は流れるものだというのを決定論というのですが、この曲は決定論の思想を良く表現しています。

花HANA」は「いつの日か花を咲かそう」と言っている以上、決定論の立場ではありません。人生にあるプロジェクトを静かに進行させているという実存主義の情景を示しています。静かに淡々と価値を目指して不安の世界を生きているという情景を示しています。しかし、花を咲かす背景には真実の蓄積がなければならないことも知らないといけない。

まっすぐ見つめたい」は対象に「有効かつ正直なメッセージ」を出すことの重要性をうたっています。対象はそれを受け止める能力が必要です。実はアメリカが11年間かけてアフガニスタンでの戦争で学習したのもこれだけだったのです。

人生不思議」は人生の五類型を表現している「神が決めた」「魂で突破した」「自分で決めた」「環境が決めた」「ニヒリズム」の五つのうち、現代の主流である「環境が決めた」という人生の情景を表現しています。科学が発展した20世紀後半以降の主流派なのです。

愛がとどかない」もいいですね。世の中は美男美女だけの世界ではありません。感性のマッチングが行われてカップルができます。そこはまさにパラメーターの高い世界でいろんな葛藤が起きます。そういう世界を良く表現しています。

ふるさとは忘れない」は人生に「主観的戦術」を持っている人には力があるという情景をうまく表現しています。自分の持っているすべての力を主観的戦術に集中して生きる力に変えていくことを表現しています。

2012年5月21日 (月)

精神病とは何か~スタンフォード大学vs厚生労働省

精神病というのは「思考や経験、感情が混乱して仕事ができない。他者との関係が確立できない」人であると定義されている。
これがスタンフォードの見解であり、知っておく必要があるだろう。
「仕事ができるか」「他者との関係が確立できるか」で病気のラインを切ろうとするスタンフォードの姿勢はいいと思うけどね。

「精神病とは何か~スタンフォード大学vs厚生労働省」
http://www.youtube.com/watch?v=KIAcZjqhhG0

2012年5月20日 (日)

「ほのめかし」は高貴の証か?

「ほのめかし」の哲学~確実さはないけど衝突もない。
http://plato.stanford.edu/entries/implicature/

この論文を翻訳して学習院大学の愚か者を動物観察しよう。

ほのめかしというのは、その言葉に対する相手の返事を求めるものだが、相手に嘘をつかせるか、あるいは自分が嘘をつかなくて済む技術であるとされる。
自分より頭のいい人間に、プラグマティックに「~すべき」ということを伝えるために、非常に有効に「ほのめかし」は使われるとされる。
また、常に自分の発言に退路を確保しているとされる。
スタンフォードの論文は「ほのめかしの技術」まで研究しているが、そこまで立ち入らなくても、
「俺クラスの奴が入ってきたら他の連中はほのめかしを使ってごまかすしかねえな」という世界が作られるということさえ理解していればいいだろう。

学習院大学の女は、不愉快な話し相手に「あ、鳥が横切ったからまた」と言って相手に嫌悪感を伝えるそうだ。
そういうコミュニティでそのような言葉が用いられるのは「仲間としての一体感」を高める。
そのコミュニケーションの条件は、
①話の内容に真実を含むこと。
②情報が含まれていること。
③双方向であること。
④あいまいさがなく、命令を含んでいること。
であるとされているようだ。

重要な点は「自分は嘘をつかずに」「相手が嘘をつくかどうかで」情報を得る技術としてほのめかしが使われていることをギリシャ哲学が認識していたことだ。
そして、これは相手に物事を命令することに活用されるのだ。
この、ほのめかしが「仲間作りのために使われていた」ということだけ理解しておけばいいだろう。

【まだまだつづく】

2012年5月19日 (土)

スタンフォード大学のアルバム

アマゾンで、"Stanford Evening Service"というスタンフォード大学のアルバムを買うと面白い。
歌詞は「聖書英語版」でスタンダードエディションなら700円で買える。
ルカ1:46の「マリアの歌」
詩編119:1
などがそのまま歌になっているのだ。
彼らが詩編23を重視していることなども分かる。
興味のある方、勉強するときは真面目にやろうかという方は買ってみたらいかがだろうか。

スタンフォードが重視しているルカ1:46「The Magnificat」
http://www.youtube.com/watch?v=Z6nAsESYPiY

聖書:新改訳 ルカ1:46

マリヤは言った。
わがたましいは主をあがめ
我が霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。
主はこの卑しいはしために
目を留めてくださったからです。
ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、
私をしあわせ者と思うでしょう。
力ある方が、
私に大きなことをしてくださいました。
その御名は聖く、
そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、
代々にわたって及びます。
主は、御腕をもって力強いわざをなし、
心の思いの高ぶっていj者を追い散らし、
権力あるものを王位から引き降ろされます。
低いものを高く引き上げ、
飢えたものを良いもので満ち足らせ、
富むものを何も持たせないで追い返されました。
主はそのあわれみをいつまでも忘れないで、
そのしもべイスラエルをお助けになりました。
私たちの先祖たち、アブラハムとその子孫に
語られたとおりです。



2012年5月17日 (木)

情報テクノロジーと倫理の問題

ネットビジネスをやりたい奴はこれを読め。好ましいネット空間は「実践を通じて倫理の問題を考えていくしかない」とされ、その倫理の問題をうまく仕組みに組み込んだものが「居心地のいい空間」を作るのに成功し莫大な富を得る。
これを読めば大金持ちになれるのだ。
「倫理と情報テクノロジーへの現象学的アプローチ」
http://plato.stanford.edu/entries/ethics-it-phenomenology/

ツイッターやフェイスブックのようなアメリカスタンダードにのってこれない連中が、
2ちゃんねるで活動している実態がこの論文から明らかになるのだ。
この翻訳を次のテーマに選んだ。

マイクロプロセッサーが社会に利益をもたらしたのは明らかである。車やエレベーター、電子レンジなど多くの製品に用いられている。その技術が、情報空間まで構築したのだ。
この情報空間が、人々の健康に関する情報や、安全、国家統治などに非常に有効に使えるのは疑いの余地はない。情報空間が、社会のカタチや倫理の問題とどう関わるかは、我々は「何が起きたのか」という観点から学習していくほかはない。非常にコストの低い有効な情報空間で、倫理の問題だけが残ったのだ。
これがこの論文の序文であり、ツイッターやフェイスブックはすでにこの論文を踏まえて人々が快適な情報ネットワークを構築していることをこれから述べることになる。
さらには、「2ちゃんねるは倫理の問題にどう向き合っているのか」もおのずと明らかになるであろうし、アンダーグラウンドの空間とされるのか、悪口や不満のはけ口とされるのか、名前を出せない卑怯者だけが集まる空間であるとされるのかも明らかになるであろう。

この論文は非常に重要な意味を持っている。思考盗聴ゲームという「倫理のまったくない空間」で人間がどのような行動をとるのかというデータを俺がすでに持っているからだ。
それを基盤に、いいネット空間の構築の哲学を俺は掘り下げて書いていこうと思っている。

「情報テクノロジーは社会の構造まで変えたアーティファクトなのか、それともただのツールなのか」
ワープロは、一度書いたものを消して書き直すことができる。このことだけでもある問題を解決しているという意味で社会の構造を変えた。これは明らかにアーティファクトだと言っていい。
また、携帯電話も、日常生活において我々のどのような問題を解決したのかはすでに経験済みであろう。そういう意味では携帯電話もアーティファクトである。
それでは、情報テクノロジー(ネット空間)はただのツールなのか、それとも社会の構造まで変えたアーティファクトなのかが問題になる。
ツールに過ぎないとすれば、使う人もいれば必要ないという人もいる。また、そこからメリットを得ようとする人もいれば、何のメリットも見出さない人もいる。
はたして、情報テクノロジーは社会の構造まで変えてしまったアーティファクトなのかが議論されなければならない。

そもそも、情報テクノロジーは、社会的・政治的・経済的メリットを追求して作られた空間である。
まず技術が先行して、そのあとに人々がそれをどのように活用するかを待っているという構造だ。どのような結果や使われ方がするかはだれも予期できないし、社会の実践を通じてそれを見つけていくしかない。
つまり、それを利用する「役者」が何をするかがそのテクノロジーを分析するうえで必要になるのだ。

このようなテクノロジーが、社会に新たな倫理の問題を突きつけるのは当然である。
プライバシーや人権の問題が生じるし、それに対して政府や法律などがどのように対応すべきかも問われなければならなくなる。
テクノロジーが登場したのなら、プライバシーや人権に対してどのような態度を取るかは政府や法律の問題だ。
人間に倫理を働きかけても仕方がない部分がある。

情報テクノロジーの技術の秘密はまさにブラックボックスの中であることが多い。
その仕組みのアルゴリズムまでは通常は人は詳しくは理解していない。
ただ、「価値と利益」だけを追求して使用するのだ。
その「価値と利益」の追求の過程でどのような倫理の問題が生じるのかは実践を通じて理解していくしかないのだ。
アルゴリズムを開発する人も通常は倫理の問題はあまり考えていない。
重要な視点は「拳銃が人を殺すのではなく、人が人を殺すのである」という指摘である。
拳銃が開発されても、倫理の問題を生じさせるのはそれを用いる人なのだ。

人間は、使えるリソースならば何でも使おうとするが、この何でもありの世界では人間の本性と向き合わなければならなくなる。人間の本性と美徳の問題が人々に投げかけられるのだ。
「美徳に満ちた教育」「美徳に満ちた友情」「美徳に満ちた組織」「美徳に満ちた政治」
いろんな美徳を人々に問いかけるのだ。それとどう向き合うかが問題になる。
かつて例のない技術が登場したのならば何でもありの世界が出現するが、それに最初にブレーキをかけるのはその人がもっている「美徳」しかないのである。

【つづく】


2012年5月 8日 (火)

プラトン~レトリックとポエム

詩と言うのは「誰にどういう居場所を与えたか」という観点が重要だ。
基本は「現実を抽象的に表現するリアリズム」が主流とされている.
まず、詩の魅力は「神聖さ」にある。これは、健康で曇りのない目で見て広く共有されてきた物事を、その伝統の共有を踏まえて、絶対的単純さで何をとらえるかを基本とし、それを、魅力的に表現する技術を使うことによって生じるものだ。
この「神聖さ」は、その世界のことをよく知っていて、その表現力の的確さを人々に証明してきた人が、新しい出来事に解釈を加えることによっても生じる。
人々は経験を基盤にしながらも、このような「神聖な」見解と自分の経験を統一させることで高度な学習をする。
魅力的解釈の基本は抽象性と幻想性にあるようだ。それによって普遍性を目指す。
そのうえで「他人が理解できること」という要素が必要だ。
「居場所を他人に与える」「神聖」「抽象」「理解」という要素を表現に与え、
その文字を適正に切り詰めてクリアに仕上げるのが詩だ。
普遍性を指向するのは学問であり、教育である。
「特殊なムラ」の表現者か、「普遍性」の表現者か。
「他人の理解」を目指しているか。
などのアプローチが詩の分析に必要だ。
ウォークマンを聴くときに、歌詞が「どんなキャラクターが」「どんなアクションをとっているか」を
聴いてみるといい。
その「キャラクター」と「アクション」が、生活や心を反映しているのが分かる。
それを踏まえて聴いてみれば上達すると思う。
俺もまだ研究中だけどな。
歌詞が「恋愛ドラマ」なのか「コメディ」なのか「悲劇」なのかを考える。
そのあとに「構成が統一されている」ことを知る。
そういうのを踏まえたうえで、詩のフレーズを出来るだけ「クリーン」にするのだ。
フレーズを選び「すべての情報は乗せない」という技術を使う。
そうやってテキストはまとめられていくのだ。
詩というのは世界のカタチや重要性を変えてしまうものであり、心に浮かんだ美の表現である。
その観点から言えば、自分のメッセージを和歌に託すという天皇への詩の献上は
スタンフォードの見地とは相違するものだ。
詩では「妻や子への愛」のような神聖なものは直接的にはテーマにならない。
レトリックを駆使して悲しみを表現するトラジックポエトなどが知られている。
ホメロスの詩は卓越している。ホメロスは人生の道と意思表示の方法を詩で示した。
知的基盤はプラトンにあったし、知識に求めた。
いかに賢く生きるかをあらゆるテーマで示したのだ。
戦争をする将軍、道案内、魚釣り、動物の育て方、ゲームの方法、その他、いろんなテーマで「主観」をどのように置くべきかを、美しく、説得力があり、頭でイメージが動く方法で詩にしたのだ。
戦争をいつ始めるかの主観も、運転をするときのルートの選び方の発想も、釣りをするときの頭の発想も、ホメロスがすべて詩にしたのだ。
ホメロスより優れた詩はないとされた。

詩においては「愛」という言葉を使うことが「神聖さ」をどれだけ混乱させ、狂気を表現させてしまうかを知らなければならないのだ。
「愛」という言葉を使うことの正確な理解に哲学がある。

この神聖さの説明で分かるように、詩は、知識と神聖なインスピレーションによって生まれ、詩人は神聖さに感謝しているとされる。
クリエイティブな狂気は予言者や神聖な人、ミューズの女神とこれを共有し、これをリリースする。
ホメロスはこの作業をやっていたとされているのだ。
これを受け取った人は次の作品をリリースしていく。
これが詩の世界だ。

人々は人生経験を通じて、詩と出会うことにより、何かを成し遂げた時に神聖さに感謝するのだ。これが詩の役割だと言っていい。

ボクサーの「主観のムーブメントイメージを詩にしました」

ランブリングマン

右と左
横と上と直線
複雑性が加わり 加速を増す
腹と顔 12の複雑性
さらに続ければ144

選択肢を与えられれば 迫られる決断
動くか守るか

複雑性は学習

さらに続ければ 計算不能
3連発で計算不能 俺の頭


天皇

読め 感情を刺激し 覚えろ Learn the lesson.
正義と政策と薬を民衆に投げ
経過を観察する
また来週来てください

これが天皇

人間の心には「イメージ」「言語」「シンボル」が混在している。火のシンボルが煙であるとされ、イメージを良くするために英語を混ぜたりする。「煙」「英語」を混ぜれば俺の作品はもっとよくなるだろう。


「and I Love you」Mr.Children

「Many Classic moments」globe (この曲は理解者が必要)

【つづく】





2012年5月 1日 (火)

プロレスの哲学

プロレスもバカにはできないね。「全能」という概念と深くかかわっている。プロレスが好きな奴は全能を信じているし、そういう奴だという割り切りが哲学的には必要だ。「全能」という概念は道徳的な完璧さと関わっている。墨子の「迷信深い人は悪いことはしない」というような発想みたいな割り切りが必要な世界だよ。プロレスというのは「不可能を可能にする」というパフォーマンスを表現して発信する世界だね。そういう世界を信じるかどうかだ。
「全能」というストーリーをもった奴が「力で相手に勝った」「こういうことができた」という情報を発信し、リリースし続けるのがプロレスなんだよ。
「全能」が無限に反復可能であること。
「全能」は歴史と関わること。
「全能」は道徳的完璧さと関わること。
などをまとめれば論文は完成するようだ。

「全能」という概念に立ち向かったのはまず歴史的には「重さ」だった。「この重さが持ち上がるのか」という問題がその人の「全能」を試したのだ。
それが「全能」を名乗る人間に与えられた課題だったのだ。
「全能」というものにさらに立ち向かったのが、「予測」である。
「雨が降る」というだけでは精度が低い。
「明日雨が降る」といったらこれは全能に近づく。
○○教授が講義をする、といったらあまり精度は高くない。
アマゾン川では過去四回以内の奇数の数で洪水が起きたと思う、と言ったら知識としては正確さはあまりない。
「雪が降る」と言ったら、雨よりは全能に近づく。
ここで問題にしたいのは、占い師が上岡龍太郎に「俺がお前を殴ると思うか?」と聞かれて、「いえ、あなたはそんなことはしない」と答えたら上岡が本当に殴った、という問題だ。
占い師は「訴える」と言ったそうだが、哲学的には「リバタリアニズムは本当だな」と占い師が答えれば哲学的には正解だそうだ。

「全能」というのは反復ともかかわる。
重量挙げでも「二回の成功」が求められているし、連続安打などの連続記録というのも優れたものとされているだろう。つまり、繰り返すことと全能という概念も深くかかわっているのだ。


興味のある奴はこれを訳してくれ。
「全能」スタンフォード哲学百科事典。
http://plato.stanford.edu/entries/omnipotence/

私と長男の共同執筆論文。
「ムラ社会の統治と皇室」
ムラ社会というのはリベラルな社会と対比される。ロールズは人間はみな頭がいいと考えていたようだ。しかし、現実社会の人間の脳には差異があり、自然にムラ社会が生まれることを学習しなければならない。
そういうムラ社会の現実に必要なのは「権利を大事にすること」「教育をすること」「国との関係を明確にすること」「貧乏をなくすこと」の四つだとされる。権利や教育を無視すれば当然貧乏になる。また、この四つを行えば、ムラ社会はいい方向に向かう。ムラ社会は、ムラに属する人間に普遍性の方向に向かわせる。
「権利を大事にする」「教育を大事にする」「普遍性を求める」などだろう。また、この四つを行えば政治が簡単になると思われる。

ムラ社会の全能者にプロレスを持ち込んだらこの国の政治は非常に困難になるな(笑)。


« 2012年4月 | トップページ | 2012年6月 »