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2012年4月21日 (土)

実存主義~なぜ俺たちは偉いのか

あとでまとめておくけど「孤独」「真実」「卓越」などの中からいいパフォーマンスを生み出すのが「実存主義」らしい。これはなかなかモテそうな哲学だ。翻訳していろんな人に紹介しようと思う。「死」や「心配事」といった真実の存在が人間を高めるのだ。実存主義は神道に引き込めそうだ。
「わからないことは人に聞けばいい」というのが人間だが、答えが見つかりにくい環境で、その人の目の前には世界が開かれている。そういう構造が人間を高めていく。そこで、たとえば「神が人生を意味に満ちたものにする」という考えがあるが、そうなると、自分の「死」や「心配事」が開かれた世界でどのように発生するかも、神がそれに意味を与えるという形で現れる。
そこで、アスリートの中には「神に祈る」という人が現れる。
「人間の通常の法則」でこれをアプローチしたほうがいいという考えもあるが、「死」や「心配事」には「神が意味を与えている」と考えるとどうしても祈りが生じるのだ。
息子のために身を犠牲にしたアブラハムは「地球よりも重い評価」をキリスト教社会で受けた。人間は「死」や「心配事」の神による説明次第では地球よりも重くなってしまうのだ。ここにも祈りが生じてしまう。
実存主義においては「真実は主観的である」と言われた。客観的なものを基盤にしながらも、アブラハムを「地球よりも重く」したのは、客観の世界にある彼の誠実さであり、結局、飛躍するように何かのいいパフォーマンスを残せるものではないという意味では、物事は客観的であるけど、彼の誠実さが「真実は主観的である」としたのだ。
不確実な客観的世界を「神の声」と呼んで、人間は内向的におのれの価値を高めていくという発想には異論もあった。民衆は「真実ではない」として、人々を納得させるのはサイエンスの世界の客観性以外にないという立場があった。

ニーチェは「主観的評価を求めて地球より重い評価を受けること」を全面否定した。これを「神は死んだ」と言ったのだ。勝負するのならスポーツ医学なりなんなりを徹底的に研究しろという意味だろう。今はそういう時代であるという宣言でもあった。
ニーチェはカラマーゾフの兄弟のイワンの「世の中ではすべてのことが許される」という無神論に注目した。自分の道は自分で決めろと言ったのだ。犯罪を犯した人間がどういう理屈か「神」と呼ばれるようでは、世の中の人間の評価に予測不能性が生まれる。ニーチェは「意志の力」で自分の存在を高めていくべきだと言ってこの予測不能性を認めなかったのだ。これがニヒリズムと呼ばれた。
大衆は真実でない神を生み出すが、しかし、ユニバーサルなレベルでの道徳はあるのであり、その道徳にしたがっていけば人々を一過性に煽ることもなく自分の立場を確立できるのだ。
これがニーチェの立場だった。
だが、ニーチェはさらに続けた。もし、自分が何者かになりたいのならば「神は死んだ」ということを踏まえながらも「将来」を妊娠した人間として己の価値を高めていかなければならないとしたのだ。
ニーチェの「ツァラストラ」はこのことを延々と語っていたとされる。
だが、ニーチェはあくまでも精神論を語っていたのであり、スポーツ医学などの発展は20世紀のアメリカを待つほかはなかったのだ。

何が「パフォーマンスに先行するか」というと「アイデア」であり、それは「何者になりたいのか」というものを決める。それはその人がどういうタイプの人であるかというものから決まるのではない。
「孤独」「真実」「卓越」というものの中にどのように「存在しているか」で決まる。その人が何者になるかは「孤独」「真実」「卓越」という三つのキーワードにどのように存在しているかだ。

人間は「理性的な存在として」「人生に意味を与えながら」「孤独」「真実」「卓越」の三つのエッセンスと向き合っている、という構造がある。この三つのエッセンスと向き合いながら「考える」という精神作用を行っているのだ。

「孤独」「真実」「卓越」も議論すると深いんですよね。
夢と現実の間で「俺は誰なんだ」と問い続けて科学的にアプローチする人もいるし、毎日の義務をひたすらこなすことからアプローチする人もいる。そんな中で大事なのが「第三者の評価」なんですよ。他人から見てかっこいいと思われている人は確実に伸びる。そういう研究が実存主義なんですが、詳しいことはもういいでしょう。興味のある人は英語文献を当たってみてください。

「卓越」というものは、優れるというものだが、「可能」と「偶然」の世界で突出することを「卓越」と呼ぶ。実践の世界で優れることを言うのだ。
「成功の切り口」というのはどのように現状を認識し、科学的にアプローチするかを意味する。己をコントロールし、戦術を構築している。
東大に受かる人間は無意識のうちにこれを完成させているのだ。
人間は決して常に居心地のいい環境にはいないものだ。その中で、自分の利益を追求する動物として、存在する。その居心地の悪さを己に向けるか、他人に向けるかで「卓越」とのアプローチは異なってくるのだ。
我々は、体重も背の高さも、肌の色も、人種も階級も、国籍も異なる世界にいる。さらには心も信念も欲望も、性格も、家族のバックグラウンドも兄弟との関係も異なる。そういうものに案外本人は気がつかないのだ。
他人の目線がそういうものを自分に教えてくれると考えたほうがいい。そういう他人の目線が事実であるにせよそうでないにせよ、そうやって自分の現在地を知る。そのような中で、ある「決断」を生じさせているということが「卓越」をもたらすのだ。
「俺はいったい何者か」と考えるのは他人の目線からもたらされる。
学歴やキャリアというものは抽象的な概念ではない。選択や決断が行われていることを意味する。選択は葛藤の中で行われているし、世界が「私」の前にどのように現れるか、どのような意味を持つかという「プロジェクト」が組まれた結果、キャリアが生まれている。
「私は誰なのか」という問題を不透明な空間で考え抜いているのだ。自分のアイデンティティを求めた結果として世界が自分の前に現れるのだ。
これを「ファンダメンタルプロジェクト」と呼ぶ。

「孤独」について語りたい。
「私は誰なのか」という問題は、他人が決めているということが重要だ。自分の偏差値や世界ランキングは他人が決めている。意味に満ちた世の中で他人が評価していることだ。それは認めなければならない。その環境の中で日常生活を送りながら「ファンダメンタルプロジェクト」は進行していくのだ。集団の中において「私」はこれを行っていく。ここに孤独の空間があるのだろう。

「真実」については、私が「なりたい」というものに対して向かっているファンダメンタルプロジェクトにおいて、「何をやったのか」というものを「真実」と呼ぶのだ。真実がなければ何者にもなれないという発想は理解しなければならない。「やらなければお母さんや上司に怒られるから」という義務としてやったのでもいい。
どのような真実があったのかは義務であっても何でも構わないのだ。義務でやったのならば孤独はあまりないだろうが統制はとれているはずだ。孤独に遂行したのであれば強烈な統制を自分でとっているはずだ。
いずれにせよ、ファンダメンタルプロジェクトには真実がともなわなければ達成はないのだ。どのようなプロジェクトを組むかは「自由と価値」を議論しなければならない。

ファンダメンタルプロジェクトを組む背景には「価値」があり、「道徳心理学」があるとされる。意味に満ちた世界でなければこのようなものは生まれない。
そういうものを「心配」「無」「不条理」の中で推進していくのだ。

「ツァラトゥストラはかく語りき」R・シュトラウス

「実存主義」スタンフォード哲学百科事典。
http://plato.stanford.edu/entries/existentialism/


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