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2012年4月 1日 (日)

ポストモダニズム

ポストモダニズムというのは「いろんな仮説を立てて反復を繰り返して正解に近づいていく」という思想だと理解しているが、今度まとめておこうと思っている。
マルクス主義もフロイトもコペルニクス天文学も出そろった時代に「大衆」と「マスメディア」が登場した。この時代に「何が美しいのか」を主に主戦場にポストモダニズムは議論を展開している。
科学や言語は太陽神・アポロであるが、思想の世界はこれに納得しなかった狂信な神デュオニソスであるとして、デュオニソスであることを思想の基盤としたのがポストモダニズムであるとも言われる。
「私」は太陽神アポロにも強烈な影響を受けるが、「私」が経験する「これ」「今」にも影響を受ける。太陽神アポロが確立した近代社会に同意しないデュオニソスは人々の「これ」と「今」であるとしたのだ。主に「何が美しいのか」という芸術論として議論されている。
アポロ神は「山には石炭があり、川には水力エネルギーがあり、人間には力がある」としたが、
デュオニソスは、一人の人間でも「美しいもの」を感じる自分の領域があるとした。
近代科学という太陽神アポロが強ければ強いほど、それぞれの「私」は、自分にとって美しいと思う経験をして死んでいくしかない。
これをニーチェは「永遠の繰り返し」と呼んだのだ。日本では「永劫回帰」と訳されている。
結局、司法だって政治だって「正義の試み」を常にリリースすることを繰り返している。だからこそ評論家という集団がいるのだ。
芸術の分野においても、もちろんそうであるが、「主観的であることと一般的であること」というテーマが芸術においては議論された。
美しいと感じるのは主観的であるが、大ヒットする作品がある。この大ヒットする作品の研究をしてみると、見逃してはならない点がある。それは、「その分野の原点を踏まえている」ということなのだ。歴史や経験をよく知っており、その上に物事を成立させている。新しい知識であったり情報であったりを原点や歴史の上に成立させている。
その世界で「創始者」とされる者だってそうなのだ。
芸術の世界の言語の体系も、社会科学・自然科学の体系も「言語」を使用するという意味では同じである。それならば、太陽神アポロの体系も、デュオニソスの「美」の世界の探求と「言語」というものを通じて相互に豊かなものになるのではないだろうか。そのような発想は当然あっていい。
また、ボクシングとインターネットと英語を駆使して「時代のパンチライン」を生み出した私が、「当時何を考えていたか」は私もいろいろ人に聞かれたが、あの時の発想が「時代の起源」となったのは事実であり、その「原点」を体で覚えることができたのは私にとって貴重な財産だ。
あの時の私は「力と思想」を発動させていた。「トレーニングと実践と意図と残虐さ」を文化の世界に投げ込んでいたとアメリカ人は分析しているようだ。
また、「対話の反復」の中に、その限界を超えた原動力が加わったと説明する人もいるようだ。
また、私の発言の背景に「肉体トレーニングの反復」が隠れていたのではないかという指摘もある。
さらには「統合失調症にこそ発信力があるのではないか」という指摘もあったが、私の経験ではこの議論はもうちょっと厳密な研究が必要だと思う。そういう側面はあった可能性はある。
この議論は、働いて給料をもらうコミュニティーと、家族の関係という社会の在り方を「統合失調症患者がめちゃくちゃに再編した」という議論なのだ。
一方で、文章に他者とは全く異なる「違い」が存在し、それを「彼や彼女が望んでいた」に過ぎないという冷静な分析もある。
また、「我々はもはや生産的ではない」と考えている世代に、新時代の技術が新たな価値をもたらした時に人々が「象徴的存在」を求めただけであるという分析もあるのだ。「時代はまだ終わっていない」ということを人々が確信したという説明だ。
議論としては「時代のパンチラインを生み出すには、芸術もレトリックもアカデミズムとの結びつきがなければ難しいのではないか」ということはアメリカでも認識されているようだ。
いずれにせよ、当時の私をアメリカ人は「意味や意図を自在に連結させ、切り離し、再編成することができる理想的マシーンであった」と総括しているようだ。

古いものと新しいもの、自然のものと人工的なもの、生と死、いろんな物事に人々を言語によって参加させて歴史の一つの局面を作った、ということがポストモダニズムからの説明のようだ。

これに対して「救世主を求めた時代に主観的な実験が成功しただけである」という批判があることは留意しておいてもいいだろう。

【完】

聖なる海とサンシャイン


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